ニューノーマルという「分断」の時代をどう生きていくか・後2020年07月23日 23時23分24秒

★コロナファシズムによるヒトとヒトとの分断と断絶を乗り越えて
 
 アフターコロナだかウイズコロナだか知らないが、東京だけでなく大阪も愛知も全国的に感染拡大が止まらない。今日ついに東京では新たな感染者数が一日で300人を超えてしまった。大丈夫なのか、この状況で旅行を促進させる「Go To トラベル」は。
 
 このコロナ感染拡大中の状況下、誰もが様々な不自由と不便を強いられて我もだが、多くの人がストレスを抱えて鬱的状態になっているかと案じている。
 何しろ身内が入院していてもお見舞いにも行けないし、コロナ感染者でなくても亡くなった場合、多くの参列者を招いてきちんと葬儀や法事すら催すことは「三密」を避けるためにも今は難しいのである。
 これは明らかに異常かつ許しがたい悪しき事態である。

 ところが、この感染状況下ではそれは「今は仕方ない」と肯定され、誰も抗えない。異論を唱えたり無理して強行すれば、国家や警察からではなく、周囲の多くの人から批判され糾弾されてしまう。
 何しろこのコロナウィルスは目に見えないし、感染したとしても症状がはっきり出ない人や発祥したとしても確認されるまで二週間?時間がかかる。ということは、そのときは良くても、自分だけは大丈夫だと思っても、果たして本当に安全かの保障がないのである。
 だから都知事も大臣も何度となく繰り返して一人一人自らの感染予防にさらなる注意を呼び掛けている。じっさい人ができることはそれしかない。
 マスク着用と「三密」状況は避ける。人と人との距離は手を伸ばしても届かない程度に空ける。学校でも「君が代」斉唱時は例外!?として音楽教育の場でも大きな声を出してはならないとされている。

 しかし、それを厳守したとしてもおそらくこの感染拡大状況はまだまだ続くと我は見ている。はっきり言えば、かかる人は全員かかって、国民のほとんど全員、多くの人が抗体を持つまで感染者数は増減を繰り返しじわじわとこの先も数年間はコロナ新時代は続くのではないか。とても一年後、来年の今ごろ、人類がコロナに打ち克った証として「完全な形で」東京五輪ができるなんて誰一人実のところ思っていないのではないか。

 さておき、今のコロナ感染状況下の市井の様子は、先の大戦での「戦時下」との共通点が指摘されている。
 コロナウイルスという、とてつもない「絶対悪」を前にすると、人は、それまでの思想や心情とは関係なく、あらゆるコロナ感染防止対策は全て「善」「良いこと」として「正義」であり、罪も理由もなく感染してしまった人たちは、患者さえも「悪」だと判定してしまった。
 よって、かかってしまった人たちは、芸能人ならずともお詫びや「謝罪」会見はするし、どこそこで感染者が出たと噂されると、真偽不明でもその店や家、地区は排斥し村八分にしてしまう。
 さらに、都や政府の「自粛」要請に従わずに営業を続けていたり、感染防止対策をとっていないとか、不備がある店舗には、自粛警察やコロナ自警団なる正義の志士たちによる「嫌がらせ」が相継ぐ。
 また、地方では、他県ナンバー、特に都市部のナンバーを付けた車が来ていると発見次第通報したり、露骨な嫌がらせに出るケースも報告されている。

 これらは全て、コロナ禍中における「正義VS悪」の闘いという図式の証であって、こうした暴挙を行う人たちは元より悪意や悪気などはなく全てはコロナに対する恐怖心から起きた「正義感」によってなのである。
 つまりコロナ感染をこれ以上拡大させてはならない、ともかく早くコロナを収束させたいという強い思いから、それに反する行為は全て悪だと目されて当然だと考えるわけだ。自分たちは正義を行使していると。
 しかし、それは明らかに間違っている。善悪というのはそんなカンタンに二分化や大別できやしない。だが、コロナ状況下、ニューノーマルの世界では、マスク着用が社会生活の通行券であるが如く、違反者は店にも入ることを拒絶されても仕方ないのである。何故ならマスクしていない者は、コロナ下では、絶対悪、感染を広げる悪いことだから。

 かつての日本、あの大戦下、つまり「戦時下」では、やはり善悪はきわめて簡単、単純に二分化され国民はそれに唯唯諾諾従っていた。
 それは戦争遂行と勝利こそが全ててあり、つまるところ「国体の護持」こそが全てにおいて最優先とされた。
 戦時下では、そもそも戦争に反対した者は、非国民、もしくはスパイとして逮捕・拘禁されたし、戦争に協力しない者、防火訓練にも理由なく参加しないだけで、ときの権力の機関、憲兵や特高に取り調べを受け町内会からも村八分的扱いを受けた。
 反体制的活動をしていた共産党やそのシンパたちはことごとく捕らえられ獄中にいたし、戦争に懐疑的・批判的な発言をうっかりしただけで聞きつけた隣人に通報されることもあったときく。
 戦時下は、戦争遂行という大きな「正義」、いや国家の「大義」のために生活も仕事もあらゆる何もかも全ての社会生活が犠牲にされ、それに反すること、抗うことは言論さえも自由はなく「悪」として絶対に許されなかったのである。
 今のコロナ「戦時下」はどうであろうか。どう違うか。

 我は今まだ言論化の自由があると信じて声高に叫ぶが、「ニューノーマル」にしろ「新しい日常」にしろ、これは絶対的に間違っているしちっとも良いことではない。人々に不自由と不便を強いるだけのことで、あくまでも感染予防のための便宜的なことだ。リモートやテレワーク、時差出勤なども同様に。
 だから、それは正義でもないしそこに大義もない。感染症予防対策として、かつては風邪やインフルエンザに対して外から帰ったら手洗いとうがいを推奨したように、それは個人各自の自由、人権と尊厳の問題でもあるはずだ。
 ところが今は、リベラルな思想の持ち主たと思っていた文化人たちさえも、このコロナファシズム、全体主義を是として肯定してさらなる上からの拡大防止策の徹底を要望している。
 先に菅長官が口にしたように、夜の街での予防対策が徹底されていない(と目される)店舗への警察の立ち入りなんて言語道断だと我は思うのにその発言はあまり問題視されない。
 かつての戦時下と今のコロナ戦時下はきわめて近しい。そこに胸を痛める。まさに歴史は繰り返すし、関東大震災時のデマや流言飛語からの朝鮮人など在日外国人虐殺事件もまったく当然至極起きたことだったと今にして腑に落ちる。日本人は歴史から何も学ばない。

 長くなったが、それと もう一つさらに気になることがある。
 このままこのコロナ禍の日常が当たり前になってしまうと、これからこの新しい日常で育っていく子供たちは果たして人間関係が正しく築けるのであろうか。
 人は人と密に、密節に親しく付き合ってこそ真に心を開く関係が結ばれる。それがオンラインやリモート中心の付き合いしかなく、時には取っ組み合いのケンカしさえして仲直りするような経験のない子、人たちは一人で生きていけるのであろうか。
 大人だって同様で、会社員でもときに同僚と集い飲み屋で仕事や上司の愚痴をこぼすことでどれほど気分が晴れ救われたかわからないはずだ。

 そうした気晴らし、気分転換はリモートやネットでの飲み会で代用できるか、だ。おそらくそこではとことん腹を割った話などはできないだろうしベロベロに酔っぱらって仲間に抱きかかえられ帰ることもない。
 モニターを通して会うことで多少のストレスは晴れるだろうが、逆に物足りなさでさらにストレスが溜まる人も多いのではないか。
 真に言いたいことや大事な話は、人は直に会って、その人に打明け聴いてもらいたいのである。そうした近しい場でないとと人は本音はなかなか話せない。開襟は開けない。
 実際の出会いや密になる関係が禁じられてしまった社会で育った人たちは、いったん心の危機を迎えたとき、その対処法がなく存外すごく脆いのではないか。
 この「ニューノーマル」という嫌な言葉が当たり前になった時代、人々の孤独感は深まりさらに自殺者は増えると我は予測している。

 人は一人では生きられない。やはり仲間や様々な友人、親友がいて気軽に会え、膝を交えて語らい愚痴をこぼし悩みや苦しみを包み隠さずうちあけられて何とか生きていける。
 残念ながらリモート環境下やオンラインの集まりではそれは代行代用できやしない。

 この我も、かつて不登校児として学校はほとんど行かなかったけれど、若い頃は日本のあちこちをぶらぶらして、いろんな場所に出入りして多くの人たちと出会い親しくなった。
 今も人間関係は不器用で多々問題あるとは思うが、そうした密な関係、知らない場所での様々な偶然の出会いがあったからこそ多くの知己を得、今も経験としてそれが力となり生きていける。
 もし今のコロナ禍の新しい日常下のごとく、いろいんなことが「三密」だとして禁じられ忌避されていたら我は孤独のあまりきっと今頃は生きていない。とっくに自殺していたと思う。

 人は直に、実際に会うことでしか真の関係は結べない。我は非力ながらもそうした関係の場をこれからもてきるだけ作っていく。
 このコロナ戦時下だからこそ、人が人であるためのこと、当たり前のことをしていこう。
 コロナは怖れるに値しない。真に怖いのは人と分断され世界から断絶したときの孤独である。人と人とが直に結びつく人間らしい社会を取り戻していきたい。