本日の「共謀コンサート」私的大成功・大満足に2020年08月30日 23時11分59秒

★「月刊共謀コンサート」8月号、本日コロナ禍続く中無事終了す。

 本日の谷保かけこみ亭の「月刊・共謀コンサート」、前回に引き続きほぼ無観客だったものの、企画側としては久々に満足のいく、手応えのある出来に終えれた。いま、心から久々の満足感にひたっている。ただただ有難いという思いだ。

 というのも一名だけだけれど、事前に問い合わせのあった観覧希望者が来られて、出演陣のほうがはるかに人数は大いに関わらず、その方を前にして、「コンサート」がやっと成り立ったからだ。
 彼がかねてよりよく見知った顔なじみの人であろうと、仲間内、身内でない「お客」がそこにいるという有難さを今回はっきりと認識できた。
 コンサートというものは、たった一人でもいい、そこに「お客」、つまり我らこちら側、つまり「主観」ではない、まさに「客観」がいるかどうかが肝要なのだと、今回改めてはっきりとわかった。

 それはこのコロナ禍のライブ配信状況だって同じことであり、どこかで誰かが、顔は見えない誰かが見ている、観てくれている、という意識も意味ある有難いことだとは思うが、有り難きは、まさにその「百人」よりも一人の、そこにいる「生の」客だ、とは言ったもので、今回その「彼」がそこにいてくれて、我はやっと自分を取り戻せたと思う。ようやく気持ちが戻った。

 たぶんそれは出られた方々も同様で、多かれ少なかれその思いを抱いたに違いない。オンラインではなく、そこに間違いなく誰かがいる、という「存在」の重さ、確かさを。
 オンライン配信とかリモート何タラというバーチャルな繋がりもこの時代まさに有難く、極めて便利なことだと思うものの、やる側としてはじっさい観客が眼前にいないと何とも拍子抜けというか、反応が即つかめず「実感」がわかないというのが正直な気持ちだと思う

 我は演者ではないが、企画・進行側として、何よりその場の雰囲気、
反応を常に確かめつつ、場を進めてきた。ステージ上や楽屋からだが、観客はいまどう感じているか、その「顔色」をまさに常に伺ってきたのだ。
 前回もコロナ感染拡大防止中ということもあり、無観客名目で何とか開催は出来たものの、誰ひとり「客」を入れず、いや、来る人もなく、ミュージシャン側と撮影スタッフ側だけでことを成し終えたのだが、何とも終わって筆舌に尽くし難いもやもや感が残った。※そのことも拙ブログで先に書いた。

 このコロナ騒動下、無観客でとなると、そもそも当然ギャランティも発生しようもなく、我が出演お願いに旧知のシンガーに声かけてもなかなか快諾は得られない。結局ごく親しい友人的関係にあるミュージシャンに頼るしかなく、今月も前回とさほど顔ぶれは違わないのだが、それでも今回ははるかに出来も手応えも大きかった。久々に満足感があった。
 何故ならそれもこれもやっとどうにかお客さんが1人でもそこにいてくれて「コンサート」が成り立ったからで、そのことがとてつもなく大きい。今やっと気づいたが、我は常にその観客と演者、そして場とのリアルなキリスト教で言うところの「三位一体」を求めていたのだと。
 オンライン、リアルタイムで、観てくれている人がいたとしても、我々はそれを即その場で実感、体感できないのならば、それはやはり喪失感でしかなく、三位一体は成り立たない。
 いかにそこで素晴らしいライブ演奏、そのステージが行われようと、リアルな場、つまりそこに「観客」そのものが存在しなければ、真にライブとして完成は成り立たない。

 ライブとはまさにその場の「レスポンス」そのものであり、その「返答」、つまり良くも悪くも反応が即返らない限り、それはライブコンサートとして不完全かつ、あるべき正しい姿ではないと断言する。
 どれほどオンラインで、生のライブ配信が成功し観客がいようと、それはそもそもコンサートとは呼べない。場を同時に共有しない限り、ライブでは絶対ない。

 前回も決して悪い出来ではなかったと我は甘くも思うものの、何ともすっきりしないものがいつまでも残った。そしてそれで本当に体調もおかしくなってしまった。
 理由も原因もわからず、もやもや感だけがずっと残った。

 そし今回、ほぼ同様のメンバーでほぼ無観客のコンサートを終えて、心ははるかに前回より燃えている。それはたった一人でもそこに観客がいてくれたからだ。そしてそのことですべてがはっきりした。
 このコロナ禍状況下、「新しい生活様式」というスローガンのまやかし、うさん臭さも含め、リモートとかオンライン、そうした代替の手段では実は何もほんとうに解決していないことも。
 我ら生きている人間が真に求めていることは、生の、ほんとうのそこにある顔、そこに見える、今在る関係なのだと。

 このコロナによる世界的「分断の時代」、だからこそ今一度、真に友愛と連帯を求めて、生の、リアルなアクションをこれから動かしていく。そのしかけをしていく。

 我はバカで真にダメな非力な存在だが、生きているうちに何を成すべきか今ようやくはっきりわかった。そう、そこにいる眼前の相手に、いかに誠実に向き合えるか、だったのだ。その関係こそが全てだったのだ。
 自分には荷が重い、そもそも大それたことだと思う。しかしやっとわかった。ようやく見えてきた。もう目はつぶらない。見て見ぬふりはしない。
 自分の役割を、生きているうちにとことん果たしていく。どうせもうすぐ死ぬ。

 こんなことは有難くもたった一人の観客が、そこにいてくれたからだ。世界はその一人の些細な動きから始まるのだ。
 そう、アメリカの公民権運動が、一人の黒人女性の勇気ある行動から始まったように。
 そして我は日本人・大阪なおみ選手を心から支持したい。

 人の価値は肌の色や国籍ではない。人は、その自分のあるがままの姿に対して、いかにとことん誠実に向き合えるかなのだ、と。当たり前のことが当たり前だと公言でき、認められる、認め合う社会こそが真に誰もが幸せになれる社会なのだ。そうした当たり前のアクションこそが世界を根本から変える動きになっていく。それは誰も批判できない。

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