すべてこれもまた良しとしよう2020年10月13日 23時56分23秒

★もう身体はボロボロだが

 俗に歯、目、マラと言う。男が老いてダメになっていく箇所、部位のことで、その順番なのだそうだ。
 ほんとうに情けない話だが、世の中にいるのは老いてきても元気で健康な人ばかりではない、ということを知ってもらうために、特に若い人たちに知ってほしい。恥ずかしいが包み隠さず書く。

 先に、市の特定健診へ、父連れて行ってきた。今回はコロナもあって予約入れてたのでさほど待たされずにすんだ。まだ、結果はきちんと返ってきてはないのだが、父は腎炎の疑い、我は・・・、かなりあちこちの数値が悪いようだ。
 まあ、父のように百歳近くまで生きていれば、どこも異常がないほうがおかしいわけで、進行性の持病などなくてもまさに全身の機能が衰え、老衰による多機能不全となってもまさに当然なのである。
 が、息子である我は、まだ60代半ばにならんとする齢で、何がいけなかったのか満身創痍、いくつもの病を抱えていよいよ身動き取れくなって来た。今月はいくつも病院通いが始まる。

 先に過活動膀胱による小便垂れ流しのことは書いた。寝て起きたときとか、何かの折、ある程度の量の小水が膀胱に溜まっていると、尿意を感じた途端、トイレに行くまで我慢できず漏らしてしまう。
 以前は、ちょろちょろ下着を濡らす程度だったのが、最近ではどんなに我慢しても我慢がきかず、一度漏れ出すと止めようがない。床にまで垂らすほど出続け、濡れたズボンを押さえて大慌てでトイレに駆け込む。
 では、父のように始終、無意識的に漏らし続けているのかというと、我はそうではなく、起きてるとき、何かに集中しているときは漏らすことはない。
 この病気は、一度でも「尿意」を覚えてしまうと突然したくてたまらなくなってトイレまでの我慢もできず漏らしてしまうものなのである。頻尿というわけでもない。ともかくしたいと意識すると、とたんに我慢ができなくトイレに行くまでも待てずにたらたら漏らし始めてしまうのである。

 介護施設で働いている妹からは、女の人の病気だと言われたが、男だってなる。記憶にあるかぎり、五十代に入った頃から起こりだし、いろいろ漢方薬を試したが効果はなく、このところさらに悪化して今では常に我慢できず、家にいる時は垂れ流しとなることも多々ある状態になってしまった。
 しかし、外に出ていて特に何かに集中、専念しているときは決して起こらない。だからコンサートのときなどは、ご安心ください。緊張していめときこそお漏らしはしませんから。
 でもこれからは父の尿漏れパンツをお借りすることもあるかと思う。今は世間がウルサイから、外でもどこでも立小便も気楽にできないご時世だから。
 我の年代でこんな病気になった人は少ないかと思う。じっさい情けなく恥ずかしいが、やがては隠すこともできないだろうから早めにここに記す。

 しかし尿漏れは下着を濡らす程度の不快感だけで痛みなどの実害はない。じつは今、いちばん困っているのは、歯であり、もはや我の前歯は残ってる歯が少ないだけでなく、その少ない歯さえこのところ欠けてきて神経に障り沁みて痛くて食事も進まない。
 虫歯があってのことではない。自分でも驚いたが、健康だと思っていた歯が、周りのエナメル質から剥落してどんどん削られ小さくなってきているのだ。あたかも岩山が雨風で風化してボロボロに崩れていくように。固いものを食べてたほけでないのに、食事中や歯ブラシで磨いているときに歯の表面から欠け落ちていく。こんなことってあるのか!?だ。
 もう手遅れかとも思うが、まだ根が残っているうちならまだ何か処置は出来るのではないか。

 よくシンナー常習者やドラッグやってるとは歯がボロボロになると言われる。じっさいそういう人は皆さん歯がほとんどない。先に逮捕された某シンガーソングライターも。
 我は若いときはともかく、ドラッグはアルコール類以外一切口にしていない。ただ一つ思い当たるのは、このところ炭酸と酸味料入りの缶チューハイの類を日々吞み続けていたことで、それで酔っぱらって歯も磨かず寝てしまったりしていたから、歯そのもの、特に前歯が劣化してボロボロとなってきたのかもしれない。

 もっと早く歯医者に行こうと常常考えてはいた。が、かかりつけの歯医者は立川にあり、しかもそこは混んでて常に待たされることと、このコロナ禍もあって、ついつい足が重く遠のいていた。
 しかしもう痛くてそろそろ我慢も限界である。このままさらに悪化したら飯もおちおち食えなくなる。

 このところさらに目もかすんで老眼と近眼が相俟って、パソコンに向かう職掌柄そちらもタイヘンだが、それは治しようはないしメガネや目薬で対応するしかないのでもう悩みはしない。
 また、マラに関しては、使い道はないので精力が衰えようとちっともかまわない。ただ、我の失禁頻尿もそれに当てはまるとすれば、この老化の三点は我に一気に今やしかも同時に訪れてきていて、そこに腰痛や足底筋膜炎という持病も加わり、もはや我が身全身、まさに満身創痍という感がある。

 情けない。恥ずかしい。しかもこれもまた我が身の不徳の結果なのだと思い至る。そう、だらしなく野放図に生きてきたツケが出てきたのだ。
 60代でこんなであれば、この先、もし長生きできたとしてもどれほど惨憺たる状況が起こるかさまに先が思いやられる。憂鬱になる。
 しかし、こうも思う。もしほんとうに健康で、ずっと元気のままで長生きできたらそれは素晴らしいが、自分にとってそれは良いことだっただろうか。
 我はとことんバカで何も考えない性分なのだから、結果として過信してまたさらにとてつもない愚かな過ちをしでかすのではないか。事故など取り返しのつかないひどいことが起こりそれで命を落とすかもしれない。
 モノゴトには二つの側面がある。病気がちの人間は嫌でも慎重になるはずだし、結果としてそのことで長生きできることもある。
 昔の人は一病息災と言ったが、元気で長生きしてある日突然ピンピンコロリと死ぬほうが幸福かどうか我はわからない。

 ただ今は、こうなってくると健康ということに何より注意を払うし、食べ物にも気を使うことが多くなった。もう四つ脚の肉類や炭酸飲料は極力口にすることはやめにした。
 無理はしないし無理はできないから、意識して何事も自制せざる得ない。我のような極端から極端へ、無理を無理やり通して来た生き方も再考のときが来たと思える。

 これもまた運命であろうし、自らまいた種だとしてもだからこそ結果責任をしっかり負わねばならないはずだ。痛みも苦労もしてみないとわからないしそこから得るものも何かあるはずだ。
 もっとひどい難病も多々あるしそれでも挫けずに明るく前向いて行きている人たちがたくさんいる。我の病気や体調など病気のうちにも入らないほどの。
 ならば、だからこそすべてこれもまた有難いことだとして、すべてこれも良しとしよう。

 何であれ、すべてをきちんとしてまず自らに向き合っていくことから始めていく。自分をまず愛させない人間は他者誰も愛せないのだから。