今のこと、これからのこと、来年のこと~②2020年12月02日 20時19分22秒

チュ~るに夢中のキジ子たち
★父のこと、家のこと、猫たちのこと

 「共謀コンサート」が仮に、公的なことだとすれば、「公私」の、私、つまり我の私生活、実生活についてもふれないとならない。

 我が父は、先日10月21日、96歳の誕生日を迎えられた。干支はネズミで、今年は年男でもあった。
 愛妻を2016年に先に失くして爾来4年、我と父の男同士の二人暮らしながら、よくまあ4年間も生かし続けられたなあ、といま改めて深い感慨が湧く。
 むろん軋轢というか、様々なトラブルが多々あった。彼の徘徊や妄動、我を侮蔑する発言に息子である我がキレて、危うく殺しそうになったこともあった。
 警察や医療沙汰にはならないで済んだが、市の福祉課の奴らがケアマネを巻き込んで勝手に虐待事案として乗り込んできて我が家に介入しようとさんざんな目に遭った。一時は、怒りのあまり、父を殺して家に火をつけ、我も自殺しようと考えたこともあった。
 そうしたことも拙ブログにその折々書いて来たはずだから今さらまた書く気はない。

 幸いにして父はこのコロナの年も風邪もひかず、骨折などで入院もせずに週の内の大半は、二か所の介護施設にお泊りに行ってくれている。彼が我が家で寝るのは、実質週に三日だけなのだが、それでも夜中に徘徊やオムツを勝手に外してベッドを汚すので、父在宅の日は、深夜もおちおち深く眠れない。
 しかしそれもこれもとことん信じられない程に長生きしたからで、母も含めて我は様々な老人を見て来てその死期と死に方を見届けてきたが、こういう父のような死に方、死んで行き方は、まだ経験したことがない。
 実際のところ、今年は何とか乗り切って、来年また新たな年を迎えられたとしても、2021年一年間はまず無理なのではないかと思える。もう百歳まであと少しなのだ。
 しかし、今年もそう不安に思ったものの、こうしてコロナ禍中でも一応元気で、ともかく無事に猛暑の夏も乗り切れたわけだから、存外来年も気づけば今の季節になっているかもしれない。
 その寿命はまさに天のみぞ知る、天命ということなのかもしれない。

 父と介護しつつ暮らしてわかったことは、人は癌などの持病がなく、脳溢血など突発性の病に襲われない限り、どこまでも生き続けられるのである。百歳以上だって可能かもしれない。
 ただ当然身体は全身経年使用からの老化により劣化衰弱していく。今の父は、歩けない、食べられない、排泄も垂れ流し、そして頭も呆けてしまった。
 「衰弱死」という死因があるのかわからないが、このところよく聞く、「老衰のため死亡」という結末となるのである。そう、身体機能も精神も全てが尽きて、まさに出し殻のようになって最後は体力尽き果て眠るように死んで行くのだと思う。
 そう、何も考えずに、何もわからなくなって、ただうつらうつらし続けてやがて息をひきとる。そこに痛みも悩みも苦しみもない。

 それが望ましい幸福な死に方か、今の我には何とも言えないが、我が母のように病に倒れ、多くの思いを残しつつ死期が迫って来る無念の死よりははるかに幸福な死に方ではないか。
 
 いずれにせよ、人の死期は自ら選べない。自殺という「殺人」を除けば。
 我はいま老いのとば口に立って、親たちの死に方、死に行く姿から多くのことを学んでいる。