2021年が始まった。2021年01月01日 18時37分32秒

★2020年、思い出す10の良かったこと

 なにはともあれ年が明け、新年2021年が始まった。
 明けましておめでとうございます。と、書いてもコロナ感染者数が史上最高の状況最中では、ちっともオメデタイとも誰も思えないだろう。
 そう、我は元々何で新年になると、オメデタイのか、ずっと不思議に思っていた。ただ日付が新たになっただけのことでしかないではないか。
 が、今年はそんな災厄に見舞われた年がともかく終わったから、心機一転、気分を変えるためにも、新年が来たことを率直に喜びたい。感染者数はさらに増え続けて死者すらも身近になったとしても。

 それでふと思いついたのは、昨年、我に起きた「良いこと」をともかくランダムに10並べて記しておこうということだ。果たして10も良いことがあったか思い出してみないとわからないが、悪いことのベストテンを挙げるよりも良いことのほうが「建設的」であるのは間違いない。

 順位は付けないが、ともかくまず一番目は、こんなご時世なのに、我の周りでは葬式に出なくてはならぬような死者が出なかったことだ。
 葬儀は、昨年はかけこみ亭のぼけまる氏の生前葬程度で、喪服着るなり参列はゼロですんだ。これはある意味、自分の年齢を考えれば珍しく、それはそれは素晴らしく良いことではないか。
 親しい人が誰も死なず、皆無事であることはそれだけで喜ばしい素晴らしいことだろう。

 その他、思い出してみると次々と良いことが浮かんでくる。
 まずは音楽のことなどから、どんどん書き記していきたいが、今日元旦から三日の朝までは、父が在宅なので、パソコンにゆっくり向き合えない。
 父を昼寝させたり、早く寝かしつけたり、合間合間を見て書いていくつもりでいる。もしお時間ありましたらお付き合い願いたい。

その後・・・の報告など2021年01月03日 23時13分15秒

★正月三が日を終えて

 というわけで、何とか父と二人、無事に新しい年を迎えられた。
 昔ならば、数えで年齢を表したから、新年となったので、父は97歳となったこととなる。そして息子である我も60代半ばとなる。
 老々介護というが、まあ、介護できているうちは良いわけで、老いても大男である我が父を小男である我が抱きかかえたり持ち上げることは間もなく不可能となろう。
 何にせよ、そのときはそのときで、父が百歳過ぎて、息子が70になるまでは生き続けることはないと「予想」して、先のことはあれこれ悩み煩うことなかれ、今日は今日のことだけで足れり、という気持ちで今年もやっていきたいと願う。
 
 さて、モンダイのコロナ罹患であるが、幸いにして我も父もその後、発熱などの症状は現時点では出ていない。
 また、その当日、感染した人の近くに居た人も含めて、我が知る限りその後も新たな新規感染者の報告は届いていない。
 まだ「経過観察中」なので、油断はできないし気も緩めてはならないわけだが、26日のコンサートから感染した人はこのまま出ないことを祈り願うだけだ。
 感染・発症したご夫妻も幸い、経過は軽く良好とのことで、個々に隔離入院されていると思うのだが、それぞれから状況のお知らせが届き、ほっと安堵した。
 が、それとは別ルート?で、陽性と思しき人も出たとの報も届いたので、また我は、新たな対応、連絡に追われることになろう。詳しいことは、はっきりしたら告知いたしたい。

 いずれにせよ、この見えないウイルスという脅威に、まさに年を跨いで翻弄されている年明けである。
 どうか皆さんも改めてご注意、ご自愛ください。自らは感染してなくても、また「濃厚接触」していなくても、身近で一人でも陽性者が出るとタイヘン面倒な事態が起こるのである。
 ただ、感染者を出さない、感染しない!と叫んだとしても、好きで感染する者などいないのだから、常にマスクして手洗い消毒していても運悪く感染された人たちを非難したり謗ることは絶対にしてはならない。
 自分に起きなかっただけのことで、それは自分にも起きて然るべきことなのだ。ならば、まさに「共助」し合って支援、応援していかねばと今回の件で改めて強く思った。

 年が明けて、新たな一年が始まったとしても、コロナは急に収束はしない。年末年始に限らず、これからもまたさらに感染者は増え続けることであろう。
 政府は、またも「緊急事態宣言」を発出せざるえないはずだ。
 先のコトはまさに誰にもわからないが、これからも身近に「感染者」「陽性者」が出る事を覚悟し想定して、慌てず徒に騒がず怖れず対処していこう。
 それこそがまさに「新しい日常」なのである。ワクチンなどに期待はしない。人の世は、常に「明日は我が身」と覚悟していけ。

2020年の良かったこと・その2~32021年01月04日 11時48分59秒

★「音楽」と「うた」に新たな自信と自覚を得たこと

 2020年の個人的「良かったこと」について書いている。
 やはり、まず思うのは、ともかく我が企画し責任を負っている「共謀コンサート」の「月刊」の回が、このコロナ状況下でも一年間ほぼ毎月やり終えられたことだ。
 中止となったのは、一度目の「緊急事態宣言」が出た頃、5月と6月の二回だけで、後の月は、コロナ禍でも少数の観客を前に12月の回まで、全部で10回、ともかく終えられた。
 これは何でも中途半端で最後は尻切れになってしまうことの多い自分としては稀有なことだと今思う。
 むろん、ぼけまる氏や多くのシンガー、ミュージシャン仲間、そして観客の厚い暖かい思いに支えられてのことで、自分一人でそもそもどうにかなることではなかったが。
 しかし振り返って、よく10回、ほぼ毎月続いたなあと感慨でいっぱいだ。我は、もともと自己承認度はともて低い人間だが、珍しく自らを誉めてやりたいと思う。同時に結果として多くのことを学び得た喜びもある。自信もついた。

 ともかくコロナによって、様々な「自粛」要請をうけて制約の中でのことで、無観客のときも一回あったし、かつてのような「盛況」はかなわぬ事態なので、真に満足のいくわけではない。何より観客も出演者もいない、制限しないとならぬ、という状況下の開催なのである。
 が、ともかくこのコロナ禍という難条件の中で、「不要不急」と目されることと向き会うことこそ意味があったと信ずる。そして我らは挫折しないでともかく乗り越えられた。まさにウイ・シャル・オーバーカムという気持ちでいる。

 そもそも「毎月」やろうと思ったのは、音楽のライブだけに囚われず、もっと映像までも含めたパフォーマンス全般を取り入れて、これまでよりさらに緩~く自由に、活性化したものに、というのが発露であった。
 だか、コロナの大流行により結果として何とか音楽コンサートを維持し続けるだけで精いっぱいであった。できなかったことや、かなわぬ思いは多々あるが、それを悔やめばきりがない。
 またそうした「思い」はこれからに繋げていけばいいだけのことだ。

 ついでにこの我も太田さんに手を引かれて、企画・裏方に留まらずに臆面なくも「歌い手」としてもデビューしたことも付記しておかねばならぬ。
 じみへんで太田三造さんの前座としてのことだが、自分としては大失態という苦い結果に終わったものの、この2020年が、いちおう正式デビューの年として記憶しておきたい。
 またそれに関連して、このところ自らの楽曲が創れるようになってきた。つまり詞も曲も自作自演、自給自足できるようになってたのである。
これは個人的には実に大きな出来事である。

 以前から、他人の詩、たとえば有馬敲さんの詩作に、曲をつけて、みほこんさん唄ってもらうことなどのことはできていた。
 それは手慰み的に、さほど苦労せずに自分にはできることであった。じっさい、そうしたことは、高校生の頃からやってたことで、詩に曲をつけることはさほど難しいことではない。
 が、では、自ら詞も書いての、所謂「シンガーソングライター」としては
どうかというと、詩はかけたとしても自分の詞にはメロディがつけられなかった。何故かわからないが、そのことは分離していた。
 しかし、このコロナ禍中、替え歌をつくったりあれこれ歌詞を考えていたからか、歌詞とメロディーがほぼ同時に出て来るようになった。
 一番ができれば後はカンタンで、一番の歌詞の延長すれば二番もさほど苦労せずにできることに気がついた。何だこんなことかという感じでいる。浜口庫之助の手法である。

 そしてそうしてできたうたを盟友太田さんに渡す。すると、彼は彼なりに我の詞にまた新たなメロディーをつけて唄ってくれる。そしてそれもなかなか素晴らしい。
 我は、自分自身では自分のつくった楽曲を思い通りにしっかり唄う子事ができないから、結果として太田さんバージョンが世に広まる。
 そうしてできた2020年の世相をうたにした『二人の恋はアフターコロナ』は名曲だと自分でも思う。もっとこれからも様々な場でうたっていきたい。YouTubeにもアップしたい。
 今年2021年もこうした作詞作曲活動にもっと取り組んで、彼と共に様々な音楽活動をしていきたいと願っている。

 というわけで、順不同ながら『マスダの2020年良かったこと』の2~3は、「月刊・共謀コンサート」が一年間続き無事終了したことと、自らの「音楽活動の新たな発展・展開」であろうか。

皆、元気です。が2021年01月07日 19時49分33秒

★ともかく慌ただしくてブログゆっくり落ち着いて書けない

 なかなか更新できず申し訳ありません。
 私も父もその後も発熱など感染症状は一切なく、また他の26日の「共謀者」たちからも感染・陽性の報告はありません。
 まあ、何とか無事に、様子見の二週間は終わりそうな感じです。

 が、年明け早々、関連していろいろなやりとりや連絡に追われて慌ただしかったりで、ちっとものんびり落ち着いてパソコンに向き合うことができずにおります。届いた年賀状の返事もまだ。

 父もまた今夕帰ってきて、明日は一日在宅で、その父を土曜朝に送り出してやっと一息というところ。
 
 詳しいことはそれからまとめて書き足していきたいと考えております。
 ともかく皆、無事で元気なのが有難く、まずはその報告だけでも。

 また寒さが厳しくなるとのこと、皆様どうかご自愛ください。

役者は舞台の上で、ミュージシャンはステージで2021年01月08日 11時16分19秒

★南正人のある意味、幸福な死

 自分とは接点のなかった方だが、むろん大昔からよく存じている。今も昔も敬愛していた。
 偉大な、唯一無二の存在感のシンガーが、昨日7日、横浜サムズアップのステージで倒れ、そのまま搬送先で死が確認されたと報じられた。
 南正人、ナミさん、と誰もに愛され慕われ尊敬された、フォークソング創成記から活躍してきたシンガーが亡くなられた。

 昔から役者は、舞台の上で死ねたら、本望と言われるが、シンガー、ミュージシャンならステージの上で死ぬるのが本望であろう。ファンの前で、ファンたちに囲まれてあの世へと旅立った。
 知る限り日本人ではこんなシンガーはいなかった。まさに若き日から世界を旅した人らしいある意味、幸福な死ではなかろうか。
 彼らしい最高の死に方だと我は思える。

 76歳。今の時代なら早すぎる死とも言えなくはないが、あれだけ自由勝手に生きてきた人なのだから、それもまた仕方ないかと思える。そう、まさに生涯ヒッピーであった。
 また一人、かけがえのないシンガーが消えていく。淋しいとか、哀しいとか一言で言えない気持ちでいる。
 
 合掌。そして彼に神の恵みを。

「要観察」の二週間が終わった。2021年01月10日 12時55分40秒

★コロナの真の怖さを思い知った。

 昨年12/26日のコンサートを終えた後、数日して当日来られた客からウイルス陽性者が出たことは記した。
 以降、昨日1/9日までの発症の期間とされる二週間、、我を筆頭に、その場にいた者全員が、もしかしたら感染している可能性があるとされ、この年末年始できるだけじっと自宅待機していたのだが、昨日やっとその期間が終わった。
 昨日夜、その26日の参加者全員に、「要観察」期間の二週間が終わった、と報告の同報メールを送った。
 幸いそこにいた誰からも感染した症状や陽性の連絡はなく、皆元気でこの二週間を終えたと思われる。喜ばしいことである。正直、ほっとした。安堵の溜め息が出、やれやれ、と言うしかない。昨晩は久々に枕高くして深く眠れた。
 何も無かったというだけのことだが、まずそのことをお知らせしたい。
 そして今さらだが、コロナウィルスという感染症の恐ろしさをようやく実感できた。

 我自身は、特に大きな基礎疾患などはないし、感染したとしても重症化することはないと信じてコロナ自体を特別に怖れてはいない。まあ、「コロナは風邪」だと断じはしないけれども似たようなものだという認識は変わらない。
 が、身近に感染者が出てしまうと、もしかしたらこの身も感染している可能性が高くなる。
 症状が出てなくても自腹で3万円?ほど出してすぐさまPCR検査を受ければいいとのご意見もあったが、それで陰性とされても発症までの約二週間の期間は、安心はできない。
 その時点では陰性でも翌日陽性に転ずることもあるとは保健所の人の談だ。

 けっきょく、万が一既に感染していた場合、無症状でもウイルスを持っているのだから、迂闊に宴会やパーティなどに出、密な空間で飲食を共にしたりすればその場で新たに他者にうつす可能性も高くなる。
 我は、二階さんに呼ばれて宴会の場に王選手やみのもんた、杉良太郎がいたとしてもそんなところには絶対に行かないし宴会などにはそもそも縁がないが、それでも老父とは常に濃厚接触している。
 父在宅のときは、抱きかかえたり飲食を介助したり下の世話まで日に何回もやっている。
 この年末年始は父も在宅の時間も長く、ときに父の体調がすぐれないときや体温がややいつもより高い時などはやはり、もしかしたら、うつしたかと不安に駆られ怯えた。
 また自分でも何か寒気がしたり風邪っぽい気がすると、コロナが出たかもと臆したときもあったことを正直告白する。
 コロナなど怖くないと言いつつも、超高齢の父に感染させてしまった場合、覚悟はしていても面倒な事態が多々起きるわけで、我はかなり神経質となり怯えてしまった。

 何しろ父に感染させたら、父からまた新たに通っている介護施設の他の老人たちにも感染させてしまうことだろう。クラスターが起きるかもしれない。
 仮に父は大したことがなかったとしてもその施設の他の利用者が亡くなったりすればやはりそもそもの責任は我にあることになるだろう。
 誰だって感染したくて感染する者などはいないが、無症状の陽性者として、気がつかないうちにまた他者に感染させてしまうことこそいちばん怖ろしいことではないか。

 父の死は覚悟できていたとしても、ことは父だけで終わらないわけで、見えない感染症、しかも発熱などが出ない、無症状の感染者というものに誰もが成り得ることこそ本当に怖いと今回思い知った。
 けっきょくこの年末年始の二週間、我はできるだけ誰とも会わずに、発熱などの体調に常に気を使いつつ、じっと息を潜めて暮らしていた。
 まあ、コロナは収束したわけではなく、ますますごく身近にウイルスは蔓延しているはずなのだから、今だって油断大敵、何も安心ではやしないのだが、「無罪放免」ではなくやっと気持ちだけは解放された気がしている。
 けっきょくそんなこんなでコロナに振り回されこの二週間は何一つ落ち着いてできないままであった。今年は届いた年賀状の返事もまだ出していない。
 ブログも腰据えて書けないまま時間が過ぎてしまったが、これでようやく新年、今年も始まったとして新たな気持ちで今できる、成すべきことを少しでも進めて行きたい。

 「緊急事態宣言」もまた再度出、コロナはこれからも当分の間続くことだろう。菅総理の言うように一か月程度で収束傾向していくかあまりにも甘い楽観的見通しにおもえる。
 しかし、コロナを特別に怖れることなく、自分も含めてコロナに誰もが感染することもある、「明日は我が身」だと備えて、冷静な対応をとっていくことだ。そしてともかく情報を共有し、感染したかもしれないときは、さらにまた他者にうつすことのないようまさに今回のように発症までの期間は「自粛」していくことだ。PCR検査ももちろん重要だが、ワクチンのような感染抑止の効果はない。
 政治家たちは懲りずに宴会や政治資金集めのパーティをこれからも繰り広げるだろう。我々市民ができることはこれまでの感染防止対策を徹底し、情報を広く共有し、身近に感染者が出た場合、その人を責めるのではなくまたそこから次の新たな感染者を出さないようやっていくしかない。
 今朝はすごく冷え込んだ。今年一番の寒さで今も台所の水道は凍ったままだ。
 しかし、風邪は冷たくても陽射しは暖かく春がもうすぐそこまで来ていることを教えてくれる。
 全てのことには終わりがある。元に戻らないとしても苦難のときは必ず過ぎ去る。そのときに対して備えて今できることをやっていく。

2020年の良かったこと・その4.キジ子のこと2021年01月13日 11時12分16秒

★50万円もの猫の借金を完済できたこと

 これまでも折々お知らせしてきたが、一昨年の秋、原因は不明だが大怪我をし大手術をして三本脚となっても九死に一生を得たキジ猫「キジ子」の治療費、未払い分総額約50万を昨年一年間かけて何とか完済できた。
 ある意味、昨年いちばん良かったことかもしれない。
 詳しいことは、2019年11月あたまの当ブログで詳しく書いたが、改めてカンタンに経緯をふれておく。

 我が家で一昨年の秋口に生まれた子猫のうち、雌のキジ猫が、どこで何が起きたか不明ながら、左足を太ももから失うという大怪我をして帰って来た。
 隣家の人が、その家の庭先、車の下で騒いでいるのを発見して知らせてくれたのだ。
 泣き叫ぶのを捕まえて見たらば、血だらけで脚が1本ない。太ももから折れて残った骨が見えていた。
 どうやら車に轢かれたか、線路で通過する電車に巻き込まれたらしい。痛がってギャーギャーすごい声で鳴いていた。
 仰天して、ともかく動物病院へ連れて行こうとしたが、かかりつけの近所の病院はあいにく休診日で、少し離れた立川寄りの大きな動物病院に駆け込んだ。
 そこは何人も医師がいて設備も整っている。すぐに診てもらえて検査したりして言われたのは、「かなりの大ケガで、失血しているだけでなく事故に遭ってから時間がたっている。手術しても感染症とかで助かるかどうか保証できない。どうしますか?」と。
 一瞬、このまま安楽死すべきか迷ったが、すぐさま我は、ともかくできるだけのことは してやってください、と頼んだ。そして入院し、あの大きな台風19号が襲来の日だったと思うが、何時間もかかる手術を終えた。猫でも輸血もして、けっきょくキジ子の脚は、残っていた部分も根元から全部除去されて、下半身は包帯で覆われた。
 当初の二週間、血液検査の数値も悪く、いろいろな薬も用いたが、生死の境目にいた。
 が、若かったこととその病院の高度な治療が効を奏して、じょじょに回復、自らも口から食事をとれるようになり、一月程度で何とか退院もできた。
 しかし問題は、支払いであった。

 動物だから人間のような保険はそもそも入っていない。手術代だけで最初に20万円~と聞いていたが、検査も一回ごと1万近くもかかっただけでなく、薬代も高く入院宿泊費だけで一日六千円はかかってしまう。
 けっきょく、既に支払った分を差し引いても退院した時に、未払いの治療費が総額50万円も残っていた。
 幸いその病院では、いくらかづつでも毎月支払ってくれればいい、と言ってくれ、我はともかく来年一年間、つまり2020年中に完済しようと心に誓った。

 そうして毎月ごと、3万から4万円づつ月末に何とか工面しては支払いに行った。当初は貧乏な我に、そんな額の余裕はなく、とても一年では不可能に思えた。なかなか残額が減らず金を用意するのに頭痛め憂鬱にもなった。
 が、まさに有難いことに、この件を知って大学の後輩をはじめ多くの友人知人からかなり多額の支援のカンパが届き、さらにコロナ「特定給付金」もあったので、総額の半分程度はまかなうことができた。
 今さらだが、この場でお名前は挙げないが、皆さんの厚いお志に心から感謝したい。遅ればせながら「完済」終えた報告をいたす。
 そもそもろくに仕事もしていない我と年金生活の父の収入だけではそんな余裕はどこにもなく無理な借金だった。
 多くの仲間たちに支えられてキジ子は今も元気で生きているというわけだ。

 ときに思うのは、雑種の猫に、50万円もお金をかけるのならば、その50万円があれば、新しい快適な車も買えただろうし、もっと有効な使い道はあったのではないか、ということだ。
 しかしこう、すぐに思い返す。もし、あのとき、そんなにお金がかかるのならばこの子は「安楽死」させてください、と頼んだら我はどんな思いで今在るだろうか、と。たぶんその「罪」の重さでノイローゼになっていたかもしれない。あるいは、もっとひどい何か悪いことが起きたり引き寄せていたかもしれない。
 たかが猫である。どこでもいる猫なのだ。告白するとその後もキジ子と同時に生まれた姉妹は、あろうことかウチの前の道で大型トラックに轢かれたのか事故死してしまった。
 勝手に生まれて、そんな風に勝手に死んでしまうのが、外にも自由に出入りしている猫の宿命なのである。
 しかし、それもまた縁あって我と関わり、助けをもとめて来たのならば、我はその助けを無視することはできやしない。お金のことはさておき、ともかく出来るだけのことはすべきだと考えるし、我の今回の判断に一切迷いはない。
 よく、そんな「障害者」になって可哀想、三本脚で苦労するのでは、ならば死なせたほうが・・・というような声もどこかでしてくる。
 でも、動物は実に逞しく立派で、キジ子は三本でもほとんど不自由することなく、どこにでも駆けあがって自由に走り回っている。
 普段閉じ込めている部屋から何度も脱走して外へ逃げ出てしまい、我は心配で何度真夜中探し回ったかわからない。まあ、利口な子だから遊び疲れると自分でちゃんと戻ってくるのだが・・・

 動物は人間のように同情もしないかわりに差別も偏見もなにも持たない。他の猫たちと一緒にキジ子は堂々と何一つ臆することなくしっかり元気に生きている。
 その猫の姿から我は多くを学んでいる。もし、我の判断で、キジ子を安楽死させてしまっていたら、この「喜び」は得られなかった。いつまでも悔やみ自ら非常を苛んだろことだろう。
 我は、けっきょく50万円で、この「生きている喜び」と「有難さ」を手に入れたのだと気づく。
 ならば安いものだ。そう、命はお金では買えないのだから。

 キジ子の唯一不便なことは、左脚が完全にないため、左側の耳の後ろとかは痒くても自分ではかけないことだ。だから飼い主は、キジ子を抱きかかえては、代わりにそこを掻いてあげてやる。キジ子もうっとりして身を任せてくる。
 障害は不便だが不幸ではない、とは乙武洋匡氏の言葉だが、まさにそう思う。ともかく生きている。まだ生きてそこにいる。それだけで良いのである。有難いことだ。

暗い世相に暗い顔の菅首相を憐れむ2021年01月18日 11時40分52秒

★暗黒の屈託首相・ガース・ベイダー

 新しい年2021年の1月も早や半分が過ぎた。二度目の「緊急事態宣言」が出されてもコロナ禍は相変わらず収束の兆しもない。見る限り街には、そんな宣言どこ吹く風で、人出が溢れスーパーなどはかなりの混み合いだから、おそらく一か月程度で、感染者数を一気に減らすことは難しいだろう。

 ともあれ、新年を無事に迎えられた喜びや感慨を味わう余裕もなく、何も変わらず日々慌ただしく過ぎて、気がつけば今月も半ば過ぎてしまった。
 相変わらずまだまだ寒さは続くが、陽射しはずいぶん伸びて、晴れた日は、野外に出ればポカポカ陽気の早春の感がある。
 年明けから一時の強い寒波で、外の水道管が凍りつき日中も溶けずにウチの台所の水道は何日も水が出ず往生していたのだが、この数日は朝から問題なく水は出て、不自由することはなくなった。
 ※幸いトイレや室内の洗面所の水道だけは、常に出ていたのでそこからヤカンに汲んで料理とかはできたけれど、流しが使えないから食器が溜まっても存分に洗えないのでやや苦労させられた。

 このまま暖かくなってくれればと願うが、この先2月はまたさらに冷え込む日もあろう。三寒四温というにはほど遠いことは覚悟している。
 しかし、春はもうすぐそこまで来ているし、あれこれ逸る気持ちはあれどともかく日々すべきことを少しでも少しづつでもやっていくだけだ。
 そんなこんなで、冷え込む夜は、暖房もろくにないので起きていられず、早めに布団に入るしかなく落ち着いてブログも書けなかった。申し訳ない。

 さて、菅首相である。このところコロナ対策での失政で、各社世論調査で軒並み支持率を落としているが、今日はついに自民党の御用新聞「読売」の調査でも支持・不支持が逆転し不支持が49%、支持するが39%だと報じられた。
 朝日とかなら当然でも、読売が「支持率続落」としてこの結果を出したのは実に意義深い。まあ、当然と言えば当然だが、それだけ国民の間には広く彼の政権運営、政治手腕に不満が高まっているのである。

 政策は常に朝礼暮改、後手後手の対応だし、ろくに会見にも出ず、出ても自らの言葉で語らず下を向いて原稿を読むだけでは、誰もが、ダメだこりゃ、と彼に愛想をつかす。
 そんな男がいくら強く国民に向けてコロナ感染対策を呼びかけても誰も聞く耳を持たない。「1カ月で感染拡大を絶対阻止する」と言い切っても虚しく響くだけだ。
 これではこの政権も長くはないとおそらく自公支持者でさえも考えているかと思う。そもそも彼は首相の器だったのか、だ。

 思うに、何が一番いけないかといえば、ともかく彼は暗いのである。明るさのかけらもない。常に半白の目で、うつむき加減で表情が暗い。そして文切り口調で、「お答えはひかえさせていただく」とか「それは当たらない」と何一つ質問にまともに返答しない。
 この国民誰しもが苦難困難のコロナ世相に、彼の暗い屈託抱えた顔を見るだけでさらに憂鬱に、うんざりしてしまう。まさに不景気顔である。

 元々、そんな明るい顔の人ではなかった。それでも安倍政権の番頭としては卒なく実直に淡々とこなしていた。そこに面白みはなくとも今ほど暗い悪相ではなかった。いったい何が起きたのか。
 彼は、よく語られるように、昨今ではごく珍しい一から一代での叩き上げの政治家である。今では大政党の政治家ほとんどが親どころか祖父の、ときにまたそのさらに上の代からの世襲政治家一族の出で、安倍前首相にしろ麻生にしろ河野にしろ、民主党の鳩山にしろ、皆高名な政治家一族の末裔なのである。
 近年の総理大臣で、代々の政治家でなかったのは奇しくも同名異音の菅直人ぐらいではないか。

 菅首相は、元々、高卒後、東北秋田から集団就職で上京して、段ボール工場で働きながら夜学で法政大学を出、政治家の秘書を経て議員となったという刻苦勉励な苦労人として知られる。ある意味、田中角栄に並ぶ、今太閤なのである。
 安倍晋三たちが生まれつき銀のスプーンを咥えて政治家、そして首相になるべくしてなったのとは違い、まさに本人奮励努力、自助によってついに総理の座まで上り詰めた人だ。
 本当はそれだけで国民から高い支持を得て「偉人」として評価されても当然かと思える。それがこの体たらくである。読売新聞にまで見放されてしまった。何がいけないのか。

 思うに、菅義偉という男は、ここまで政治家として登りつめるまでにあまりに苦労し過ぎたのではないか。汚い政治の水を飲み過ぎたと言っても良い。
 それが顔に出て、あんなに暗く、屈託を抱えた顔、鬱屈した表情となってしまったと我は想像する。
 その反対側、対照的なのは、安倍晋三で、彼こそまさに「屈託がない」男であった。首相の席から野党議員の質問に野次を飛ばすなど、言語道断、まさに「屈託ない」が故にできることで、とうぜん彼は誰よりも明るかった。
 その明るさとは、苦労知らずのボンボン故のことで、ある意味何も考えていない、思考力のかけらもない証でもある。それは彼の盟友・麻生太郎も同様で、二人とも何一つ苦労せずに生きてきたからこそ、あんな「明るい」能天気でいられたのである。
 ※日本で最強の「屈託のない」夫婦は、安倍夫妻だということはさておき。

 晋三は、何も自ら考えられないから、ともかく早口で無意味なことを繰り返しまくしたて、その場を煙に巻き、誰もが信じがたい「嘘」まで臆面なくさんざんつき続けて、結果、「体調不良」で政権の後始末を菅官房長官に託して「逃亡」してしまった。
 菅氏も晋三同様に、明るく堂々と嘘であろうと臆面なくあれこれ国民に積極的に語りかければまだトランプ氏的人気も得られたかもしれない。
 ただ根が暗く、内にこもる鬱屈した性格ゆえ、それも苦手らしく何一つ自らは表舞台に立たない。それでは誰一人彼についてこない。国民の信頼も得られない。

 個人的には、我自身も彼のように暗く不器用だからこういう人は嫌いではない。苦労して自らの手腕で政治家のトップにまでのし上がったのだから実にエライと感心する。
 ただそこに至るまでにあまりにも汚い水を飲み、手を汚し過ぎた。それが顔に出てしまっている。あの暗さでは首相として国民を率いることは難しい。
 強いリーダーシップとは、明るさに裏打ちされた「信頼度」を伴う。かつて田中角栄が広く大衆的人気を得たのは、彼には無類の明るさと強い発信力があったからだ。嘘くさい無理難題でも角栄が口にすれば何か現実的に思えた。いや、思えさせた。それが政治家なのである。

 菅義偉、東北から出てきた集団就職の1少年が、ついに政治家の頂点に立った。本来ならば彼が味わってきたこれまでの辛酸、つまり「苦労」や「痛み」を政治に生かせば、真に偉大な後世に名を残す偉人となれただろう。
 が、彼は、権力と地位、巨額の金を手にし始めてから、かつての自分である弱く貧しい者の痛みを思うことなく、逆にそれを手段、「強権」として振りかざすことでまたさらに上へと昇りつめて行った。それが彼の顔に出、今の暗い悪相となった。
 そして今、まさにメッキが剥げて「そもそも首相の器ではない」と断罪されるような四面楚歌となってしまったのだ。
 人とは無理して巨大な権力を手にすると、こうなるという戒めであろうか。それとも銀のスプーンを咥えて来なかった者の僻みであろうか。

 追記。暗い顔の人はその周りにもう2人いる。二階幹事長と小池百合子だ。特に二階さんは、彼の笑顔は誰も想像できないかと思う。常にぶっちょう面だし、小池百合子に至っては、まるで中学校の教師のように常に取り澄まして隙を見せないよう必死である。この二人の「屈託」はどこから来るのか。この暗さは何ゆえか。
 屈託のない人、もう一人は、オリンピックの会長・森元首相なのは誰もが認めるはずだ。東京五輪を今でもやると言い張ることに、多くの批判を浴びると「ネットでは皆、私の悪口ばかりだ」と言い切れる神経こそ真に屈託のないおバカなのである。

フィル・スペクターを悼む2021年01月20日 22時12分22秒

★まさに天才!! 刑務所の中でのコロナ死とは

 また偉大な音楽関係者の訃報が海外から届いた。今日は一日頭の中で、ロネッツが唄う「ビー・マイ・ベイビー」が鳴り響いている。ときに、弘田三枝子バージョンも交えながら。

 フィル・スペクターである。書くべきか迷ったが、あまり誰も「追悼」していないようなので、たぶん「知る人ぞ知る」人だということなんだろう。だが、彼の創ったサウンドは、まさに唯一無比の画期的なものだと認める故、ここに書き記しておく。

 我は、基本、今では洋楽は元より、日本の流行りのポップスもまったく聴かないしほとんど関心はないが、かつて子供の頃は、欧米のポップスのカヴァーソングで産湯を使ったほど浸りきっていた。
 我が父が、進駐軍務めをしていたこともあり、始めて手にしたシングル盤は、マーベレッツの『プリーズ・ミスター・ポストマン』の赤盤だったほど、向うの洋楽、そしてそれを日本語にしたものに夢中だった。
 日本テレビの『ザ・ヒットパレード』などで覚えた漣健児氏の「超訳」の日本語詞のから始まって、やがては原曲まで手を出して、今でも60年代から70年代にかけてのレコードは我の宝物である。
 まあ、山下達郎氏や亡き大瀧詠一氏と世代は少し後になるが、我も同様にそうした音楽に多大な影響を受けた。

 フィル・スペクターという人は、そうしたヒットソングのプロデューサーのはしりの人で、スペクターサウンドとも呼ばれた独特の、彼特有のサウンドで、まさに一世を風靡した人だ。
 プロデューサーという仕事が、音楽の場合、どういう役割をするのか定かではないが、彼自身は裏方としてエンジニア的に関わり、ミュージシャンたちが楽曲を録音するときに、何とも不可思議なサウンドを創り上げたのである。
 それは、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれ、要するに多重録音を駆使したまさに「音の壁」であった。それは実に画期的で、平板な録音技術しかなかった当時、一聴すればすぐさま彼の仕事だとわかる深みのある大仰なサウンドであった。

 音楽についてあれこれ文字を連ねてもどうやったって伝わることはない。ともかく彼の仕事。その音を聴いてもらうしかないわけだが、我が国でも大きな影響を受けたミュージシャンはたくさんいて、特に後年の大瀧詠一は、まさに彼のサウンドの「継承者」として彼の手がけた多くの楽曲にその影響がはっきり聞き取れる。

 例えば、小林旭のヒット曲『熱き心に』など聴けば一目瞭然ならぬ、一聴了解で、あの大仰かつ重厚なサウンドこそ、スベクターサウンドの日本版なのである。真に名曲と呼ぶしかない。
 彼によって、音楽プロデューサーという仕事を意識し覚えて我は、後にトニー・ヴィスコンティとクリス・トーマスというやはり天才的音楽裏方人を知ることになるが、それは今回カンケイない。

 ただ、天才は奇行の人とも知られて、彼はドラッグに溺れ、2003年、自宅で友人を射殺して今も服役中であった。
 我は、彼が事件を起こした頃までは覚えていたが、今回ネットで訃報を知り、正直、まだ生きていたのかと驚かされた。まったく情報もなく残念ながらもはや過去の人でしかなかった。
 しかもどうやらコロナ感染、合併症での死らしい。まあ、81歳だとか年齢も年齢だから、刑期を終えて出て来ることは難しかったかもと思えるが、よりによってこんな死に方とは何とも哀切、言葉もない。
 いろんな死に方はあろうが、獄中でのコロナ死はただただ哀れである。何とも胸が痛む。あれだけの仕事をされた人の死がこんな形とは・・・

 フィル・スベクター、その名前を口にするとき、多くのガールズ・グループの楽曲と共に懐かしい甘酸っぱい思いが湧いて来る。我にとって音楽の神様の一人であった。誰よりも誰よりも。
 昔からほんとうに大好きなサウンドだった。数々の素晴らしい音楽を有難う。
 
 迷える彼の魂に安らぎを。どうか神のご加護を!!

ずいぶん遠くまで2021年01月27日 22時21分06秒

★我が父、新たな段階へ

 これは書くべきかずっと迷っていた。このところ心中穏やかざる状況が続いていた。それに囚われブログ更新できなかった。
 父のことである。また愚痴めいたことだと揶揄されたり批判されるだろうが、書かないとこの先、もうブログは続けられない。

 人生はよく旅に喩えれる。生まれてから死ぬまでの間、どこへ行くのか、どこまで行けるのか、時に様々な人と出会いふれあい、様々な出来事があり喜怒哀楽を積み重ね旅を続けていく。そして最後はその旅も「死」で終わりとなる。
 我は、母の死後、この5年、老いた父とずっと共に旅を続けてきた。父はいま、96歳。今年の秋まで生き永らえれば97歳となる。
 冗談ではなく、百歳も指呼の間に見えてきた。

 だが、今年に入ってからこのところ急激に衰弱というべきか、認知症が進み、共に暮らす者として介助も限界かと思えてきた。
 端的にいえば、もう何も一切わからなくなってしまったのである。
 これまでは、ろくに歩けなくなったり、下のほうは紙パンツの中に常時垂れ流しとなっても、まだ「人格」が残っていた。
 どれほどトンチンカンナ妄動、失態を繰り広げようとも、自我というべき「自覚」はまだ残っていて、こちらの問いかけに対してともかく何らかの「反応」は帰って来ていた。
 つまり犬猫とは違い、人間同士のコミュニケーションは成り立っていた。だから、自らは自覚ないまま寝ながらオムツ外してシーツを大量の小便で汚したり、紙パンツの中で溢れるほど軟便を漏らしていても、その世話にウンザリ呆れ、かなり面倒であっても精神的苦痛ではなかった。
 それもこれも信じられない程長生きしたから故のことと諦め的了解もできていた。

 が、このところ、朝起こしても、ぼうとっしたままで機嫌も悪く、洗面所に抱きかかえて連れて行っても、以前なら自ら、入れ歯を入れたり顔洗えたりしていたのが、何一つ「わからない」のである。何もしない。
 ケースから出した入れ歯を示しても、これどうするんだ、という反応だし、何より困ったのは、朝飯を出しても自らは食べる行動を示さないのである。早く食べてくれと促しても、これは何だ、どうするんだ、という反応しか返ってこない。
 これまでは、朝食の品、たとえばお粥などを出せば、自分でゆっくりだが、ともかく一人で食べてくれていた。むろんエプロンにぼたぼた落としたりかなりゆっくりで時間もかかったが、それでもその間、我は施設に持っていく着替えをまとめたりその準備はできた。

 が、一昨日は朝食を出しても、ただぼーとして、自分ではちっとも食べてくれない。急かしてもダメだから仕方なく傍らに付いて介護して口元にスプーンで持っていく。それでも食べる意思がそもそもなく、口に入れても吐き戻したりやたら咽こんだりとほとんど食べず、少しでも食べさせるのに大いに苦労するようになった。
 まだ言葉は出て来るが、万事がそんな調子で、これまではわかっていたこと、そのほとんどがとうとう「わからなくなった」のである。
 朝起こされて、コタツに座られさて、飲み物と朝食が出されても、それが何なのか、どうすべきなのかが「わからない」。
 トイレに座らさせても着替えを与えても、何が何だか、そもそもそれをどうするのか「わからない」。
 かつての大男を苦労して上から下まで着替えさせて、抱きかかえて立ち上がらせて、ともかく老人介護施設に送り出したが、向うでもそんな調子ならば、食事も摂れないだろうしもう利用も難しくなる。
 まさに暗澹、憂鬱かつ不安な気持ちで、施設から連絡があるかもと一日スマホ片手に落ち着かない気分で過ごした。

 このまま、この状態が恒常的だとしたら、もう自宅での介護は数日、短時間であったとしても無理である。我の肉体的疲労心労よりも人間としての「心」をなくしてしまった父と暮らす意味が見いだせない。

 我が父は、息子よりも元々とても几帳面な性格で、日々、手帳に日記なのか家計簿なのか細かい字でびっしりメモするのが習慣であった。
 それが老いて認知症が進み目も悪くなってからは、さすがに自ら書き記す行為はなくなったが、その「手帳」に対するコダワリは強く、施設に行くときも常に、ワシの手帳、手帳、とカバンに入ってるか、心配で騒いでいた。
 それがこのところは、その「手帳」すら存在を忘れてしまったようで、手に取り手繰ること以前に、「存在」にも頓着しなくなってきていた。
 さらに、彼は腕時計にも強い執着があり、我が買い与えたデジタルとアナログの時計をそれぞれ両腕に嵌めて、それがないときは常に騒ぎ立てていたはずなのだが、先日施設から戻ってきたら何故か二つとも嵌めていない。

 入浴のときに外されたのか、それともどこかで落として来たのか、高いものではないが、愛用の腕時計を二個ともしていない。驚いた。そもそも以前なら、「ない」と気づけば、夜中でも大騒ぎしていたのに、いまは我が指摘してもろくに「反応がない」。つまり腕時計にも関心をなくしてして、なくてもどうでもよくなってしまったのだ。
 けっきょく、真に死んで行くときは、こんな風に全てに関心を失くして何もかもわからなくなって、すべてどうでもよく、限りなくゼロになっていくのだとわかってきた。それが死に臨むということなんだと。

 考えてみれば、赤ん坊としてこの世に産まれ出るときもまさに何も持たず、何も拘らず、何もわからないままゼロから始まるのである。
 我が父もついにその地点に再び戻って来たのかと得心せざるえない。

 ともあれ、父はずいぶん遠くまで来てしまったのである。我はその父と共にここまで来て、今深い感慨に浸っている。
 思えば、かつては周りにも多くの仲間たちがいた。我が母もかつては傍らにあり同行していた。
 今、周りを見回せば、もう誰もいないのである。この新年を迎えて父の兄弟、親戚からの年賀状は一枚もなく、かろうじて母方のほう、母の弟たちから儀礼のものが二枚届いただけで、まだ存命の弟妹がいたとしても向うも高齢ゆえ音信不通となってしまった。
 前人未踏という言葉があるが、まさに我は、この父と共に、今年はその地に立ったという思いでいる。
 が、この旅も間もなく終わる。父と共に見た光景は我にとって生涯の宝物、金にならぬ遺産と言えよう。

 ともかくずいぶん遠くまで来てしまった。遠くまできすぎたのか。父に連れられ父と共に。