追伸2021年09月14日 00時11分24秒

★これが自分そのものなのだ、と。

 このところあれこれ多々頭悩まし心痛めることが続いている。神はその人に背負えぬ荷、つまり分相応以上の労苦は与えないとされるが、そろそろ限界というか、もう一人では背負えない気がしてきている。
 ケガして入院していた猫が退院できたのは良いことだが、一か月間の入院治療費と手術代など、ずいぶん割り引いてくれても総額30万円を超してしまい、とりあえずカード決済はできたが、さてどこからその金を引き落とし日の来月頭までにどう工面するかまず頭悩ましている。
 その他、次々また新たな事態が突発して我一人で汗みずくであれもこれもと必死に動き回り目が回るような日が続いている。
 そして結果、今更ながら思うのは、自らの愚かさと無力さ、つまり「無価値」さである。何につけても自分は何一つきちんとできない、対人、対社会においてまったく無価値な人間だという自覚だ。

 昔、うんと若い頃なら、そうした「現実」に真剣に思い悩み、悲嘆と絶望のあまり自死すら考えただろうが、この年までともかく生きてくると、もうそんな甘いことは考えない。いったん逃げたとしてもあの世でまたさらにひどい目にあうだけのことだ。あの世でもまた償いはしたくない。借金に追われるのはこの世だけにしたい。
 結局、これが自分なのだ。自分という人間そのものなのだから、どんなに人に呆れられ蔑まされようともそれはそれで仕方ない。ともかく生きていくしかない。
 もとより無価値な人間として、誰からも相手にされなくてもまだ我が神だけは見捨てずにいてくれている。それは自らの愚かさ故に何度も死んでもおかしくない目に遭ったが、この歳まで生きながらえたことで示されている。その都度何度も何度も僥倖という思いを得てきた。
 ならば、この危機もきっとまた何とかなるに違いない。老父の体調もだが、まさに毎日綱渡り、薄氷を踏み進むような日が当分続くのだろうが、ともかく一日一日うまくやり過ごす、何とか乗り切っていくしかない。

 同世代の友人知人のフェイスブックなど見ると、皆それぞれまさに悠々自適の、仕事や子育ても終わった後の第二の青春を謳歌している様子が窺い知れる。
 趣味や旅行など好きなことに自由に時間と金が使えている彼らと、日々生活に追われ死ぬまで金の工面に頭痛めて次々多事多難なことが尽きない我とどちらが幸せか、考えても意味がない。
 世間的な成功や幸福はむろん彼らにあろう。だが、この人生は自業自得とはいえ、自らが選び、生きてきたその結果なのだから、比べても意味ないし良くも悪くも仕方がない。

 どれほど無価値で、誰からも相手にされなくても、ある意味、だからこそ生きていかなくてはならない。自分だけの人生なのだから、外からの非難や侮蔑を背にともかくあと少し、死ぬまでは生きていく。
 どうしようもない人生でも、どうしようもない人生だからこそ、必死に生き終えたとき、そこに何かしらの「価値」が見いだせると信じてともかくやっていこう。神だが仏だか、見えないその方と同行二人で。