やっと体調戻りました2021年12月02日 11時22分17秒

★まずは、最後の「共謀コンサート」のお知らせ

 雲一つない青く晴れ渡った冬の空、今日は快晴である。寒いが気持ちのいい朝だ。
 我は、この夏からともかく忙しく慌ただしくなって、それは今も来年も続くのだが、特に先週は、人と会う用事も重なり、まさに目が回るような、いや、じっさい眩暈がしてふらついて何度も転倒したりもう朝は起き上がれないほど疲労困憊していた。咳も続き苦しく睡眠不足のせいか朝起きた時から頭を締め付けるような頭痛が続いていた。
 昨日は、父を介護施設に預けて昼過ぎから断続的に眠ったのだが、昨夜はやっと心安らかに朝の9時までたっぷりと久々に寝坊した。トイレには一回起きたが。
 いつもは日課の、5時起き早朝の父のおむつ交換も家の周りの道路、隣近所へ飛び散った落ち葉掃きも今朝はしないでひたすら眠った。
 ようやく頭痛は収まり今は身体も気持ちもすっきりしている。悲しいほどのお天気、というフレーズがあるが、今は悲しむほど余裕もなく、ともかく今日一日頑張らねば、今日こそ成果をあげねばという昂る気持ちでいる。
 父は明日の夕方帰ってくる。

 なんでこんなことになってしまったんだろう、と時おり自問するが、つまるところ全て自業自得であり、母が生きて父もしっかりしていた頃は、彼らに全面的に生活のことすべて委ね頼って生きてきたツケがとうとうここにきて表面化して自らの無能さと相俟ってこんな悲惨な最低最悪のゴミ屋敷に至ったのである。
 寓話『アリとキリギリス』の喩え話は、真面目な堅気の市民と我のようなアウトサイダー的怠け者、落ちこぼれ者との対比として多く学ぶべき考えさせられるものが多々ある。
 何度もその話をここで書いたと記憶するが、童話では、キリギリスは冬が来た時に蟻に助けを乞うが、怠けていた罰だとして蟻はそれを拒む。それはまた当然であり、我もキリギリス側としては、まあ、それでも夏の間の楽しい思い出があるならば、キリギリスも野垂れ死にしても満足だろうと考えていた。
 が、じっさいの話、そうできるはずもなく、今冬を前にして、さあどうしたものか、どうやってこれから来る「冬」を一人で乗り切っていくかという喫緊の課題に頭痛めている。そう、童話のようにそこで話は終わらないのである。人生はともかく続くし続けなくてはならないのだから。

 ただ、こうも思う。カタギの人たちは、若い時から何十年も毎日、背広を着て定時に起きては満員電車に揺られて通勤して、会社内でいろいろ嫌なことや苦労もして、その結果「定年」を迎えて、今の悠々自適の年金生活があるとしたらば、我は、それを若いときに前倒しでしてしまったのだから、結局は同じことなのである。
 我は、若い時にしっかり真面目に働かなかったから、今こうして60過ぎて生活全般、金のことで頭悩まし先行きの不安の恐れ慄いている。
 色川武大氏もよく書いていたことだが、幸不幸も含めて幸せの量はほぼ人皆同じであり、苦労も含めて、それがいつ来るか、ということだけのような気もしている。
 それは結婚も同じことで、子育てや結婚は苦労もするだろうが、結果として後々の安定と安心をもたらす。独り者は気苦労なく好き勝手なことはできるが、最後の最後に来た時に、待っているのはとことんの孤独だけだ。
 その覚悟があるか、と今自問もしてみると、けっきょくいつだって我はバカだから何も考えず、楽なほうへ、目先の快楽だけで動いていたと気づく。
 今だって、車を駐車場に入れるときも、他の車はみなほぼ必ずバックから入れてる。が、我は常に、頭から入れて、今度は出すときにいつも苦労している。
 他の人は、けっきょく入れるときちょっと大変でも、出すときすぐ出せるからという知恵というか運転常識であり、誰もがそう考えているからだが、我は性格なのだと思うが、それはしないし、バックで入れるのは今もとことん苦手だ。
 そうして常に、先のことは考えず、目先のことだけで動いて生きてきた人生はこうなるのだ今顧みて得心する。

 そう、アリとキリギリスのキリギリスのように、冬が来てすぐに死ぬことができないならば、そのキリギリスでも冬が越せるよう、何らかの術を考えねばならない。
 ろくに定収もない老いた独り者がどうやって「老後」を生き抜いて行くか。それこそが我の課題である。
 まあ、幸いなのは、その先がうんと長いわけでもないのだから、あれこれもがき悩み喘いでいるうちに死は訪れて我も救われるとは思うが。
 ただ、父のようにとことん長生きしてしまうと、無年金者としては本当に困る。父の年まで我も生きるとしたら、まだなんと30年もある。むろんその頃は、まったく動けず準寝たきりとなっているとは思うが。
 ただ、もう今はあれこれ先のことは何も考えない。ともかく日々何とか無事に乗り切っていけるか、だけだ。
 ともかくトラブルなく一日が無事終わって、また明日を迎えられたら、それだけで幸福とせねばならない。
 旧約の中で、コへレト(伝道の書)もそう言ってるし、イエスも明日のことは明日思い悩めと説いている。そう、今日は今日で足れり、なのである。