追悼 西村賢太2022年02月06日 23時21分47秒

★「ダメ」ということに殉じた作家の末期

 様々な芸術の中で、ほぼ唯一、文学が奥深いと思えるのは、「ダメ」、ということであっても、作家以前に作品に価値と意義を見出しそれなりの評価があることだ。

 我が知る、現今の作家唯一無比のダメ小説家の訃報が届いた。最後の無頼派・西村賢太である。この人のダメぶりこそ、太宰治や石川啄木ら純文学中の破滅型系譜の末期に大きく位置すると我は皮肉ではなく高く評価する。
 そしてだからこそ、破滅的に、ある意味、自堕落の帰結として、早すぎる54歳という死を迎えたのである。本人も本望というか、ある意味満足であろう。
 本当に滅茶苦茶的に才能も人格もダメな人だった我は思う。それはある意味、自分もそうだから、年下でも憧れとして崇敬していた。まだこんなダメな作家が平然といたのか!!
 そもそも出自に訳があり、親が末井さんのようにダイナマイト爆破で死にはしないとしても、性犯罪者の息子として世間から爪はじきにされたため若くして中卒で世間に出、天涯孤独の身となり唯一「文学」だけが彼にとっての意地と救いであったという。
 もう今ではこんな人は出てこないだろう。

 我、マスダは、映画『苦役列車』から原作者である彼を知り、興味を抱いたが、はっきり言えば、映画のほうが原作小説より数段よく出来ていて面白く、フツーは、原作のほうが映画などより深く勝るはずなのに、中身のない原作を書いた当人に興味を抱いた。
 そして彼の書く小説よりも作家本人のほうがはるかに興味深く、今時こんなダメでバカな人がいることにカンドーすら覚え好感抱いた。

 ただ、はっきり書くが、純文学、私小説の作家にありがちな、引き出しの少なさ故、彼の書くものは同工異曲に尽きて、あえて書くが、せめて石原慎太郎や曽野綾子たちの10分の一、いや、百分の一の才があれば、小説家としてやっていけるのに、これでは難しいだろうと好きな作家ゆえ心配していた。
 が、テレビやマスコミの世界は懐が深く、近年は、ちょっとヘンな異端「小説家」として、それなりに面白おかしく扱われ、それなりのニーズはあったようで、小説よりもタレント的にあちこちで見かけることが多くなった。まあ、あんな人でも何とか糧を得る居場所があったのだなあと安心もしていた。※これがヘンの度を過ぎると亡き宅八郎的にメディアから排斥されてしまうのであるが。

 ただ、突然の訃報を知り、今はちょっと複雑な気分でいる。つまるところこれこそが、彼にとって「文学」に殉ずるということなのだと思う。
 彼にとって、慎太郎や曽野綾子的にダラダラとマスメディアを騒がせ無意味に長生きすることは本当に本意ではなかったはずで、世に認められず早逝こそが彼にとっての作家の理想であり、三島由紀夫の死の必然と同じく、ぎりぎりの死に歳、死に際であったのかとも思える。

 文学とはそれほど奥深いということだ。この稿に首を傾げる方がいたら、まず彼の小説を手に取り、ついで、ダメ文学の象徴、近松秋江をお読みいただきたい。
 ストーカーなど言葉もなかった時代に、自分を捨てて逃げた女についてぐずぐず臆面なくも未練がましい顛末をひたすら「小説」にしたダメ文学は今こそその呆れ果てるほどのダメさ故に価値があろう。
 つまるところ、「ダメ」ということをそのまま書き記すこと、それこそが芸術の底と奥行きを広げて同じくダメにいる人々の心に届くのではないか。この人を見よ、である。

 才能の有無は問わない。つまるところ、綺麗でわかりやすく見栄えするものに価値を置くのならば、究極はナチスドイツが推奨したアーリア人種の理想的「芸術・絵画」であり、今でも中国やロシアなどの全体主義的価値観に繋がっていく。
 芸術とは、それ以前に、もっと多様な、例えばムンクやゴッホ、そしてアウトサイダーアートも含めた異端や「ダメ」なものも含め、その存在価値と意義を認めていくものなのだと我は思う。
 残念ながら、芸術もまた「商売」に成り得るか、であるから、音楽も絵画も「ダメ芸」は広く世に知られない。しかし、かつての文学は、そのダメさを特異さ故に認めて、そこに評価を与えてきた。だから西村賢太的な人でも認められ「居場所」はあった。
 しかしもう今では全てが単純でわかりやすく、耳に心に心地よいものばかりとなって、そうでないものは即拒絶されてしまう時代だから、彼のような小説はいろんな意味で難しかっただろうと思う。

 むろん、テレビタレントとして、かつての「本業」を離れ忘れて居場所を得る人たちも多々いる。例として適切かわからないが、過ぎし日の山本晋也やデイブ・スペクター的コメンテーター的な立ち位置の人たち等々。
 西村賢太も芥川賞作家という肩書で、タレントとしてやっていけるかと安心していた最中に突然の訃報である。
 しかし、彼は小説家としてこれで世に名を残すことになるのだからある意味「幸福な死」ではないだろうか。少なくとも、政治家や都知事として知られ、小説家でもあったという肩書の人よりもはるかに。

 我は先日亡くなられた石原慎太郎氏はそもそも小説家として高く評価しキライな作家ではない。少なくとも村上春樹某より才能はある。が、本人の人格も政治活動も含めて、最低最悪だと断ずる。あれほど臆病かつ傲慢な人、つまるところ卑小かつ卑怯者をなんで世間は赦し甘やかし持て囃して来たのか不思議でならない。その人気の理由がわからない。大スター裕次郎の兄だからか!?

 問題は、芸術とは、当人の人格や資質とは離れた関係ないところで出現する、まさに天賦の才能の結果だということだ。人間性とは一切関係なく。だからこそ芸術は奥深い。そして素晴らしい。
 作家は、その芸術の神の前に、どこまで真摯に頭を下げられるか、ではなかろうか。

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