その声が、言葉が、「うた」が届かない2022年04月14日 09時25分20秒

★戦う勇気と戦わぬ勇気と

 この一週間ほど、季節外れの陽気というか、連日、晴れて夏のような暑さが続き、我も老父もその対応に苦慮していた。
 幸い熱中症などで体調を崩すことはなかったものの、まだ体が暑さになれず、暑さの苦手な我は、Tシャツ一枚でいても何とも不快な、のぼせたような気分で困惑、苦慮していた。
 が、今朝からは、小雨がぱらつく曇り空ということもあり、ややうすら寒いほどに気温も下がってきて、ようやくほっとしている。これが平年の気温なのだと思える。暑いよりも寒いほうが気も身も引き締まる。

 慌ただしいのは相変わらずなのだが、それに加えてまたずっと考えていることもあって、答えが見えずブログは空いてしまった。
 ロシアのウクライナ侵攻とそれに関連して、国を、国民を守る「安全保障」についての「問題」である。
 世界は、いま、戦争という最大の「暴力」に揺れ動いている。ロシアのプーチン政権は、国際社会の法秩序を無視して、戦争によりウクライナを、世界そのものを武力で変えようとしている。
 そのことは、まず言語道断であり、どのような理由や理屈を並べても許されるものではない。とにもかくにもこれ以上の死者、犠牲者、難民が出ないよう、一日一刻も早い停戦を望む。
そのうえで・・・

 我は、そして我の周りにいる仲間たちはたぶん誰でも日本国憲法に記されている不戦、非戦ということを思想信条として誓い、考えの根底においていると信ずる。
 が、世の中の多くの人は、そうではなく、逆に、武力には武力で対抗を。核兵器使用の威嚇には、こちらも核兵器を保持して、と考える人も間違いなく多数いる。
 どちらが正しいか、義があるか、我は、自らの思い、考えに毫も疑いはないが、では、それで、この無法な「現実」、戦争という強大な悪意、つまり傲慢と不寛容の嵐を前にして、その言葉はどれだけ力を持つか、そして我らと異なる考えや立場の人たちに届くか、正直なところ自信がない。
 憲法九条があるから、この国は大丈夫だと、無法な超大国中国やロシア、そして暴走国家北朝鮮に囲まれている日本で、このウクライナ危機のさなかに、その言葉はどれだけ力を持つだろうか。
 戦う勇気よりも戦わぬ勇気を、と。
 残念ながらその言葉は、その声は、そしてその「うた」はなかなか届かない。このウクライナ侵攻という戦争の「現実」を前にしてそのことを痛感することが多い。

 このところ、そうした世の趨勢を受けて、日本共産党までが、侵略時の自衛隊の活用などと言い出して、本当に情けなく悲しく思う。参院選を前にしていたしかたないとしても、どうしてあくまでも持論を通さず、世の流れに乗ろうとしてしまうのか。
 そうしてなし崩し的に、党の独自性、真理に対する優位性を失っていけば、単なる日和見野党の一つとして早晩消滅していく。

 剣、武器、武力、つまり力による威嚇のみならずじっさいの使用に際して、言葉や思想、理念はどれほどの「力」を持つのか。
 「現実を見ろ」とよく言われる。その非道かつ無法な「現実」だからこそ、夢や希望に繋がる「理想」が尊び、求められるべきものであるはずなのに、暴力に対しては、それを抑止するのは、文字や言葉ではなく何よりも対抗するための「力」なのだから、それを増強するしかないという論理が残念ながら力を持ち勝る。
 誰だって、侵略者を前に日本国憲法を手にして、座して死を待つことはしたくない。「徹底抗戦」を謳う指導者たちの声に多くの国民は従うだろう。
 ただ、その先にあるのは、いったんは戦闘は終わったとしても、際限ない暴力の連鎖と、また新たな紛争、戦争の「はじまり」、結果としてさらにまた多くの人々が死傷していくこと、そして本当に「世界の終わり」が来ることだ。

 人間というのは、そうしたもの、こうしたものなのであろうか。それは愚かなのか、それとも生きていくために仕方ない正しい在り方なのか。
 不寛容に対して、寛容はどこまで不寛容にならずにその「主体」を維持できるか、ずっと考えている。答えはでない。
 ただ、失望はしても絶望はしない。きっとどこかに答えはみつかると信じたい。
 まだできること、すべきことがきっとあると。