届かないからこそ~前回の続き2022年04月15日 12時17分14秒

★己も含めその「正義」をまず疑うことから
 
 人は誰しも己の正義、善と信ずるところのものに恃み、寄り掛かってそれを規範に生きているわけであるが、実のところ、その「正義」というものは絶対的、不動のものではなく、極めて脆い根拠のないものではないかとこのところよく考える。
 こんな我にもそうした「正義」や信念のような、それが正しく善だと信じるに足る思想、信条はあるわけだが、それはあくまでも自分にとってのものだというだけの話で、過信して他者に強いたりしてはならないと心するようになった。

 例えばのはなし、我は死刑絶対反対論者であり、人が人を殺す、死刑という「殺す」ことで罪を償わせるという制度自体おかしなことで、殺人犯だとしても「報復」として死に処すのは無意味だと確信している。
 むろん多人数を意図的、計画的に殺害した凶悪犯は、二度と社会に放つことはあってはならないから、終身刑として一般社会から隔離すべきだとは考える。
 ただ、現実問題として、その犯罪者に「殺された」側の遺族としては、殺された者たちは二度と戻らないのだから、その殺害した側の者は、生かしてはおけない、厳罰に強く処すべきだとして死刑を望むのはよく理解できる。
 加害者に対する被害者の気持ちを想像すれば、もし、我も大事に思う愛する人が、理由もなく殺されてしまえば、殺した側にどのような理由や状況があろうともやはり絶対に赦すことはできず、おそらく死刑を望むようにも思える。
 我の考える、大事に恃む「正義」とはその程度のものでしかない。

 そしてその程度のものだと自覚したうえで、この今起きている戦争も含めて、社会全体に漂う雰囲気、傲慢と不寛容な悪意に満ちた時代を憂う。
 何より思うのは、その傲慢と不寛容な当事者たちが、自らは正義だ、善を為していると信じて、その行為をしていることで、その「絶対的正義」が根底にあるからこそ、揺るがず動じず続けてしまうわけで、まさにどうしようもない。
 そして、そう自らの正義を信ずる人たちに、誰かが別の視点からの意論や異なる声、こちらの考え、意見を伝えようとしても彼らは絶対に耳を傾けない。
 ましてさらに頑なに攻撃的にさえなって敵対視してくることも多い。※安倍晋三たちがそうであったように。
 彼らをこちら側に寄せること、いや、その前にこちら側の声を届けることすら困難に思えてくる。

 しかし、だからといって、一切が無駄だ、処置なしだと諦め放擲して、彼らが成すままにさせてしまうのは誰にとっても「損失」であり、ある意味責任放棄ではなかろうか。
 どんなことでも、ある悪しきこと、異常なこと、大変な事態が起きてると目にしたとき、それをそのままにして、見なかったこと、見て見ぬふりをしてしまうのは、結果として「共犯」だという意見がある。
 学校や職場、教室でイジメがあり、その被害者が自死を選んだとして、イジメに加わらなくてもそれを知りながら何もせず、見て見ぬふりをしてしまえば、加害者でなくてもやはりそれに手を貸したと批判されても仕方ない。

 ならばこそ、たとえ相手にも誰にも届かぬともまず声に出し、言葉をつむぎ記し、他者に語らう、つまり小さな声でも「うた」をうたうべきではないのか。
 我は自分が愚かで弱く卑小な人間だと強く意識している。常に何度でもあやまちを繰り返す。なかなか本当に改まらない。本当に愚かである。
 しかし、人はたいがいは皆やはり同様なのではないか。
 愚かでないとしても人は弱く、ときに誤るものであろう。絶対に間違いを犯さぬ人間はいないはずだ。神の御子ナザレのイエスはともかくもお釈迦さまをはじめ世の聖人君子とされる人たちでさえ、人は皆迷い過ちを犯して試行錯誤し、真理という気高きところへ行きついた。

 そう、残念だが、人は必ず間違いを犯す。過ちは繰り返される。だからそれを糾弾する以前に、人間とはそうしたものだという意識をもち、まず自らを省みて、傲慢と不寛容な人たちに臨むべきではないか。
 彼らにはこの声は届かない。しかし、いつの日か、いつかきっと、そうした声を放つ者たちがいたことを思い起こすときが来るかもしれないし、歴史とは、そもそも歴史はそうした名もなき人たちの小さな声が積み重なった上に成り立っているのではないか。

 渡良瀬の鉱毒被害訴えに後半生を捧げ窮死した田中正造の闘いは無意味であったか。いや、日本の公害闘争の原点として、彼の声は今もなお我らのうちに響いている。
 そう襤褸の旗を今こそ高く掲げよう。届かなくとも、だからこそ声をあげていこう。人は皆弱く迷い過ちを起こす者だからこそ。