宵闇迫れば悩みは果てなし・続きの②2022年06月15日 14時36分02秒

★死ぬ、そのときまで、どう「生きて」いくか。

 と、人の悩みについて考えていくと、若い時の悩みと老いての悩みの違いはどこにあるかがわかってくる。
 若い頃の悩みは、これから「生きていく」ための悩みであり、老いての悩みは、いよいよ「死んでいく」「死ぬための」悩みなのだと。
 つまり、若き日の悩みは、新たに人生を始めるための時点での、迷い、煩悶であり、我もだが、老人期の悩みとは、これから死に臨むにあたって、この人生を終わらせるため終焉の悩みだと気がつく。
 昨今、巷をにぎわしている、就活ならぬ「終活」という言葉にまつわる相談めいた悩みも、つまるところ、自らの死後についての「悩み」なのだとわかる。
 そう、死なない人はいないのだから、誰もが人生を店じまいするときがくる。できるだけ後腐れなく、親戚縁者、友人たちに死後に迷惑かけることなくキレイに死んでいくのはどうすれば良いのか、だ。
 しかし、母を癌で先年病死させ、今また百歳近くの父を、老衰死させる寸前の我としては、そんな自ら終活とか考えたり、悩める人はずいぶん幸福な人だと思える。
 つまり、その人たちは、もう今の人生自体には、喫緊の切迫した悩みはないようだから。

 推測だが、おそらく「終活」やらに悩む人は、それだけ現実においては、もう今生きていく日々の悩みはなくなったのであろう。つまり、退職して子育ても終わって、今は年金や貯蓄で何不自由なく、大きな悩みなどもなく悠々自適の老後を送っている。
 そして、親だけでなく同世代の友人知人が次々と逝くと、さて、では自らもそろそろ行く末を、とはたと考える。いつまで元気で動けるかわからない。ならば、まだ呆けない今のうちに、人生の後始末は、早く自らきちんと始末つけておこう、さすれば、死後、子供たちにも迷惑はかからない、と。
 立派な心掛けである。真っ当に生きたカタギの人生ならば、そうあるべきだし、極めて理性的かつ計画的な一生だと大いに感心する。
 そうできる人は、自らの死後について、葬儀のあり方も含め相続等もいろいろ手配し指示しておくのだろう。
 で、我は。
 恥ずかしく情けない話をするが、我などほぼ無年金で、今は、父が生きているから父の年金収入で何とか諸処の税金や光熱費など、家の支払いは収まっているが、父が死んでしまえば、現時点ではたちどころに生活は行き詰まってしまう。
 友人にそうした話をしたら、お前の家はデカいのだから、売れば即、金になり、死ぬまで何とかなるだろう、とアドバイス頂いた。ありがたや。
 まあ、確かにそうかもしれないし、それも考慮するとしても、まずは、父の死後は、我も時間ができるのだから本格的に真剣に働いて、この家と人生を維持していく金を拵えていくつもりでいる。
 ※ご存じのように何しろモノがいっぱいあってこの家を売るためにそれらを片付けていくだけで我の残人生はほぼ失われるだろう。思い切って一気に業者に処分依頼するとしてもそれだけで数百万はかかってしまうことは間違いない。で、何もなくなってやっと引越しできたアパートで、我はいったいその余生を何をして生きていくのだろう?ちょっと想像すらできない。
 ならば、この家に今後も住みつつ願わくば働けるだけ必死に働いて、何とか生活費をつくって、長く入院したり、誰かに介護されることなくその時が来たらスッキリ早く死にたいと願う。
 むろん我の抱えているボーダイな本類や音楽CD、レコード類、楽器等は、死後の処理について、手筈も考えていかねばならないわけだが。

 我に妻子や孫がいて、後々を託せるならば、と思わなくもない。しかし、彼らもまた別人格で、我の趣味嗜好、価値観とは異なるだろうし、理解しろとか、それらをぜひとも大事に保管してくれと求めるのは酷なことだろう。
 血縁にあるからといって、我の身勝手を押し付けたり課すことはしたくないしまたさらに後々も面倒なことに繋がる。
 ならば、何としても残りの人生、日々必死に生きながら我もまた我が「死後」のことについて対策を練らねばならぬ。
 あくまでも想定だが、父の死後、我も八十まで生きられるとして、幸いまだ約15年はある。あれこれ今も悩みは尽きないが、ともかく生きていく悩みと死んでいく悩みを同時に抱えつつ人生やっていくしかない。

 先のことはわからない。しかし、汝、明日のことは今日は憂い思い煩うなかれ、とイエスも言っている。明日のことはまた明日悩めばいいのだと。
 ならば、先のことは悩む時間があるならば、そのぶん今できることを少しでもやっていくしかないのだ。
 悩んで答えが出ることならば、悩め。我はバカだからもう先のことはあれこれ悩まない、ぞ。