嗚呼、山本コータロー、「インテリ」フォークシンガーを偲ぶ。前2022年07月16日 22時57分18秒

★すべては深夜放送から始まった。

 山本コータローという人は、今思うとフォークソング界の中でかなり異質な人だった気づく。
 フォークシンガーの多くは、失礼だが、低学歴の人たちが多く、また大学に行ったとしてもきちんと卒業した人は昔はごく少なかったはずだ。理由は簡単で、皆うんと早く十代から唄い始め、それを生業として、大学など行く必要はなかったからだ。
 その中で、彼は、日比谷高校から一ツ橋大というかなりのエリートコースを進み、さらにきちんと卒業もしている。
 そして最後の肩書は、大学の名誉教授だったと訃報で知った。環境問題活動家だとも。
 しかし、では、フォークシンガーという肩書きは一過性のものかと言うと、やはり彼は、『岬めぐり』というヒット曲を持つシンガーとして世に広く認知され、訃報でもまず真っ先にそのことが報じられている。
 だが、我にとっては、そのウィークエンドという三人組の人気グループ結成以前の、あまり売れていないが、知名度だけはあったフォークシンガーとしてのほうが今も昔も好きなコータローである。しかも彼はラジオの深夜放送のDJでもあったのだ。

 かつて「深夜放送の時代」というものが若者たちの間に確かにあった。60年代後半から70年代全般の頃だろうか。専門誌も出てたぐらいで一大ブームであった。
 民放ラジオ各局は、若者に向けて、人気パーソナリティ(当時はディスク・ジョッキーと呼ばれていた)、つまりそれぞれ人気DJを擁して、毎晩深夜、若者たちからハガキでリクエストを募り、応える形で曲を流し、投稿ハガキを読み、ティーンエイジゃー向けの放送を深夜に流していた。
 文化放送やニッポン放送のそれを聴いてた人も多いと思うが、我はだんぜん何故かTBSであり、その若者向け深夜放送番組、「パックイン・ミュージック」をほぼ毎晩聴いていた。午前1時から5時である。
 それが中学生の頃だったのだから、いちおう義務教育ゆえ、昼間も起きて学校に行ってたはずだから、どこでいつ寝ていたのかと今自分でも不思議に思う。若さゆえの成せる業か。
 ただ、パックイン・ミュージック、通称「パック」は、午前1時から3時の第一部、3時から5時までの第二部、の二部構成で、それぞれDJは違ってたから、我は前半の第一部だけ何とか眠たい目をこすり頑張って起きて、枕元のラジオに耳を澄ませ、結局、いつしか寝落ちしてしまうという聴き方だったと思いだす。

 我がパックを聴き始めた頃、1970年代のごく前半の頃の第一部の担当者だけ記せば、月曜日の深夜、つまり日付が変わり、火曜日となっての「火曜パック」は、局アナの小島一慶、水曜は、キンキンこと愛川欽也、木曜は、よしだだくろうや南こうせつらフォークシンガーが1年ごとに、金曜は、パック一番人気の野沢那智とチャコこと白石冬美、そして土曜日が山本コータローであった。※それぞれ、日付が変わってから始まるわけだから、火曜パックとは、月曜の深夜1時開始であり、土曜パックは、金曜の深夜1時~ということになる。

 上記のDJは記憶に間違いなければ、1971年から73年頃のもので、むろん担当や登場時間帯の変更も度々あったから、放送を聴き始めた時期により記憶は人それぞれ違っていることだろう。
 ただ、金曜の「那智&チャコ」パックと、土曜の山本コータローのパックはかなり長く変わらずにずっと続いていたから、記憶に残る方も多いと思う。
 我が聴きだした頃の土曜第二部の担当は、映画評論家の吉田真由美で、けっきょくこの放送が縁で、コータローは生涯のパートナーとなった人と出会うのである。
 そして、我は、その土曜のコータローのパック内で、やはり生涯忘れがたきフォークシンガーを知ることとなる。
 若林純夫(わかばやしすみお)氏である。そう、武蔵野タンポポ団のオリジナルメンバーであり、高田渡とシバとを結びつけた人だ。 
★以下続く。

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