ともかくこの苦難の季節(とき)を乗り越えてから、だ。 ― 2022年08月03日 10時25分45秒
★コロナ不調と異常な猛暑の最中に
ああ、いったい何から書けばよいのだろうか。本当にどうすることもできないまま、冷房を最低温度に設定して家の中でただ汗垂らしながら息をひそめている。
自らの人生も、この時代、現実社会というものも、我はどんどん悪くなりやがては破滅に向かっていくものだと認識しているが、いや、そう覚悟して生きてきたはずなのだが、本当に参った。今が一番苦しい。
まず我がコロナ感染だが、実際のところ大したことはなかった。高熱が出るとか味覚がおかしくなるとか、これまで喧伝されていたような強い症状は何も出なかった。※熱は高くても38度を超すことはなかった。
一昨日、8月1日の時点で、我のコロナ感染での自宅療養の10日間は終了して、対外的には「治った」ことになっている。
が、現実の状況を記せば、熱などは今は出てないものの、咳が未だ残り痰が喉に絡み夜などかなり苦しい。気温が高いせいもあるが、寝汗をかいて、ともかく身体が火照って暑くてたまらない。
少し動くと汗が滴り落ちる。冷房は最強にして家中冷やしているのだが、この異常な猛暑のせいなのか、我の体調がおかしいのか、ちっとも涼しく感じない。ほぼ素っ裸で暮らしてもただただ暑くて日に何度も冷水を浴びてぼうっと痺れるような頭を冷やしている。
薬は、10日間分の喉の痛みと咳止め薬は呑みつくしてしまい、先月末に再度、かかりつけの診療所に出向き追加で出してもらった。
実はそのときも夜中に熱が上がり、微熱だったが、37度台となり、ただ困惑した。もう完治したと思っていたのに何でまた熱が上がるのかと。
今回のコロナは、ほぼただの風邪だと今も想っている、が、風邪と違うのは、キレが悪く、だらだら何ともはっきりしない不調が続くことだ。
風邪は、一時は高熱が出、かなり苦しい時もあるが、数日寝込んで汗かけば、存外スッキリと熱も下がり体調もしだいに回復してくる。
このコロナウィルスは、高熱も出なかったし喉の痛みと咳の症状はあったものの、当初はさほど体調の変化、異常は感じなかった。
しかし、10日間が過ぎて、いちおう療養という名の治療期間は終わったはずなのに、我には今も咳が残り痰が絡み何とも息苦しい。
けっきょく、病気と言うのは、その人の持ってる体質の弱い部分にひどく出るものだが、我のかねてより持病的体質、咳、喉に今も後遺症が続いているということだ。
そしてこの連日の記録的、殺人的猛暑である。体調の不良を抱えて、ともかく家の中でじっとこの悪しき季節が過ぎ去るのを待つしかない。
八月の半ば、我の誕生日を過ぎる頃には、この猛暑も収まり少しでも涼しくなっているだろうか。
父のこともきちんとまた記すが、けっきょく別の療養型施設に転院はできたものの、もう意識はなかなか戻らないようだ。
何とかまた自ら口から食べられるようになれば、家に連れ帰って、我が介護してもう少し人間性を取り戻すかもしれないが、現段階では、かなりそれは難しいかもしれない。
かといって、このままその病院施設にずっと入院させてしまうと、一月の利用料だけで、父に振り込まれる二か月分の年金がそっくりそのまま消えてしまうわけで、父が生きている限りウチの貯蓄は確実に消えていく。
我は先のことはもうあれこれ思い煩いはしないが、ともかく今はまずこの過酷な季節が過ぎ去り、我の体調も含めて少しでも過ごしやすくなる日が来ることを祈り心待ちにするだけだ。
そう、いま、この悪しき過酷な季節さえ過ぎ去れば、きっとまた少しは何か新たな展開も見えてくるだろう。
今は父が元気になったとしてもウチに連れ帰って我が世話することもままならない。
早く涼しく快適な日々が戻ることをただ祈って、今を、一日一日をともかくやり過ごしていく。
どうか皆様もご無事でありますように。もう誰にとってもこれ以上ひどい過酷なこと、苦難のときが続かぬように。
素晴らしい季節がまた来る日を祈り願い待ち続けていきましょう。そう、こんなことはいつまでも続かない、神様はきっと良くしてくれると信じて。
がんばりましょう!!!
ああ、いったい何から書けばよいのだろうか。本当にどうすることもできないまま、冷房を最低温度に設定して家の中でただ汗垂らしながら息をひそめている。
自らの人生も、この時代、現実社会というものも、我はどんどん悪くなりやがては破滅に向かっていくものだと認識しているが、いや、そう覚悟して生きてきたはずなのだが、本当に参った。今が一番苦しい。
まず我がコロナ感染だが、実際のところ大したことはなかった。高熱が出るとか味覚がおかしくなるとか、これまで喧伝されていたような強い症状は何も出なかった。※熱は高くても38度を超すことはなかった。
一昨日、8月1日の時点で、我のコロナ感染での自宅療養の10日間は終了して、対外的には「治った」ことになっている。
が、現実の状況を記せば、熱などは今は出てないものの、咳が未だ残り痰が喉に絡み夜などかなり苦しい。気温が高いせいもあるが、寝汗をかいて、ともかく身体が火照って暑くてたまらない。
少し動くと汗が滴り落ちる。冷房は最強にして家中冷やしているのだが、この異常な猛暑のせいなのか、我の体調がおかしいのか、ちっとも涼しく感じない。ほぼ素っ裸で暮らしてもただただ暑くて日に何度も冷水を浴びてぼうっと痺れるような頭を冷やしている。
薬は、10日間分の喉の痛みと咳止め薬は呑みつくしてしまい、先月末に再度、かかりつけの診療所に出向き追加で出してもらった。
実はそのときも夜中に熱が上がり、微熱だったが、37度台となり、ただ困惑した。もう完治したと思っていたのに何でまた熱が上がるのかと。
今回のコロナは、ほぼただの風邪だと今も想っている、が、風邪と違うのは、キレが悪く、だらだら何ともはっきりしない不調が続くことだ。
風邪は、一時は高熱が出、かなり苦しい時もあるが、数日寝込んで汗かけば、存外スッキリと熱も下がり体調もしだいに回復してくる。
このコロナウィルスは、高熱も出なかったし喉の痛みと咳の症状はあったものの、当初はさほど体調の変化、異常は感じなかった。
しかし、10日間が過ぎて、いちおう療養という名の治療期間は終わったはずなのに、我には今も咳が残り痰が絡み何とも息苦しい。
けっきょく、病気と言うのは、その人の持ってる体質の弱い部分にひどく出るものだが、我のかねてより持病的体質、咳、喉に今も後遺症が続いているということだ。
そしてこの連日の記録的、殺人的猛暑である。体調の不良を抱えて、ともかく家の中でじっとこの悪しき季節が過ぎ去るのを待つしかない。
八月の半ば、我の誕生日を過ぎる頃には、この猛暑も収まり少しでも涼しくなっているだろうか。
父のこともきちんとまた記すが、けっきょく別の療養型施設に転院はできたものの、もう意識はなかなか戻らないようだ。
何とかまた自ら口から食べられるようになれば、家に連れ帰って、我が介護してもう少し人間性を取り戻すかもしれないが、現段階では、かなりそれは難しいかもしれない。
かといって、このままその病院施設にずっと入院させてしまうと、一月の利用料だけで、父に振り込まれる二か月分の年金がそっくりそのまま消えてしまうわけで、父が生きている限りウチの貯蓄は確実に消えていく。
我は先のことはもうあれこれ思い煩いはしないが、ともかく今はまずこの過酷な季節が過ぎ去り、我の体調も含めて少しでも過ごしやすくなる日が来ることを祈り心待ちにするだけだ。
そう、いま、この悪しき過酷な季節さえ過ぎ去れば、きっとまた少しは何か新たな展開も見えてくるだろう。
今は父が元気になったとしてもウチに連れ帰って我が世話することもままならない。
早く涼しく快適な日々が戻ることをただ祈って、今を、一日一日をともかくやり過ごしていく。
どうか皆様もご無事でありますように。もう誰にとってもこれ以上ひどい過酷なこと、苦難のときが続かぬように。
素晴らしい季節がまた来る日を祈り願い待ち続けていきましょう。そう、こんなことはいつまでも続かない、神様はきっと良くしてくれると信じて。
がんばりましょう!!!
涼しさに一息ついて原爆忌 ― 2022年08月06日 07時59分51秒
★ようやく気持ちは立ち直ってきた。
一昨日、久しぶりに本格的な雨が降ってから曇り空が続いている。気温はやっと下がり一月ぶりに昼夜つけっぱなしだった冷房は切った。
まさに一息つけた。このまま猛暑が続いていたら頭も体もおかしくなっていたかもしれない。それぐらい追い詰められていた。
一昨日から涼しくなったこともあり、久しぶりに夢を貪るほどだらだらと昼夜問わず断続的に眠った。この一か月、夏到来してから暑くて夜も深くぐっすりと眠れていなかったとわかった。
コロナ感染後の続いていた喉の痛みと咳もようやく小康状態となってきた。気持ちも戻り、やっと前向きに動いていこうと気力が出てきた。
父がいなくなって、情けない話だが、いったいどう、何をどうすべきか何もわからなくなった。
つまり、父の存在があって、彼のショートステイやデイサービスでのお泊りの日程があってこそ、こちらも毎週の日程、計画がたち、自分の人生も合わせて動いていた。
それが、父不在となると、自分一人で自由に解放されたはずなのに、急に何をどうすべきかわからなくなってしまった。何もやる気が失せたというか、気力がなくなってしまった。
そんなで8月1日に、父を転院させてから、この一週間、暑さと咳に苦しみながら悶々としていた。これからどうなるのか、先も見えないし、いったい何ができるのか、いま何をすべきなのか、人生のコア、核のようなものが見えなくなった。
改めて、我は父に依存していたとは思わないが、その存在を中心に自分の人生を組んでいたのだと気づかされた。
が、この数日、急にやっと涼しくなり、猛暑で草臥れた身体を休息させて頭を冷やしてみると、何をすべきなのかようやく見えてきた。
まずはこのコロナ後の不調に苦しむ身体を早く治し戻して、父不在の間に父を帰宅させること前提に、家の片付けや掃除を進めていくことだ。
父が再び、この家で暮らせるかそれはわからない。ただ、病院で死なせたくはないし、もしそうした場合でもこの家に一度は帰らせてあげたいと切に願う。
コロナ禍が続く今、葬式などはもうしないしできないと思うし、何よりもう親類縁者も父があまりに長生きしたため、もう誰も来ないのだから、葬儀は不要であろう。
ただ、別れの儀式として、我とごく近所の人たちだけでもその場を設けたいと思う。※九州から実の娘、我の妹は来るかどうかはともかく。
そうした準備を粛々と進めていくことだ。やがて八月も終わればまた涼しさも戻るだろう。先のことはわからないし、事態は急展開するかもしれないが、やるべきこと、いまできることをやろうと決めた。
そう、まだできることがある、すべきことがあることは有難い。生きているということだけで有難い。
ノーモア・ヒロシマ、ナガサキ、ウクライナ である。※東京新聞、今日の平和の俳句。
一昨日、久しぶりに本格的な雨が降ってから曇り空が続いている。気温はやっと下がり一月ぶりに昼夜つけっぱなしだった冷房は切った。
まさに一息つけた。このまま猛暑が続いていたら頭も体もおかしくなっていたかもしれない。それぐらい追い詰められていた。
一昨日から涼しくなったこともあり、久しぶりに夢を貪るほどだらだらと昼夜問わず断続的に眠った。この一か月、夏到来してから暑くて夜も深くぐっすりと眠れていなかったとわかった。
コロナ感染後の続いていた喉の痛みと咳もようやく小康状態となってきた。気持ちも戻り、やっと前向きに動いていこうと気力が出てきた。
父がいなくなって、情けない話だが、いったいどう、何をどうすべきか何もわからなくなった。
つまり、父の存在があって、彼のショートステイやデイサービスでのお泊りの日程があってこそ、こちらも毎週の日程、計画がたち、自分の人生も合わせて動いていた。
それが、父不在となると、自分一人で自由に解放されたはずなのに、急に何をどうすべきかわからなくなってしまった。何もやる気が失せたというか、気力がなくなってしまった。
そんなで8月1日に、父を転院させてから、この一週間、暑さと咳に苦しみながら悶々としていた。これからどうなるのか、先も見えないし、いったい何ができるのか、いま何をすべきなのか、人生のコア、核のようなものが見えなくなった。
改めて、我は父に依存していたとは思わないが、その存在を中心に自分の人生を組んでいたのだと気づかされた。
が、この数日、急にやっと涼しくなり、猛暑で草臥れた身体を休息させて頭を冷やしてみると、何をすべきなのかようやく見えてきた。
まずはこのコロナ後の不調に苦しむ身体を早く治し戻して、父不在の間に父を帰宅させること前提に、家の片付けや掃除を進めていくことだ。
父が再び、この家で暮らせるかそれはわからない。ただ、病院で死なせたくはないし、もしそうした場合でもこの家に一度は帰らせてあげたいと切に願う。
コロナ禍が続く今、葬式などはもうしないしできないと思うし、何よりもう親類縁者も父があまりに長生きしたため、もう誰も来ないのだから、葬儀は不要であろう。
ただ、別れの儀式として、我とごく近所の人たちだけでもその場を設けたいと思う。※九州から実の娘、我の妹は来るかどうかはともかく。
そうした準備を粛々と進めていくことだ。やがて八月も終わればまた涼しさも戻るだろう。先のことはわからないし、事態は急展開するかもしれないが、やるべきこと、いまできることをやろうと決めた。
そう、まだできることがある、すべきことがあることは有難い。生きているということだけで有難い。
ノーモア・ヒロシマ、ナガサキ、ウクライナ である。※東京新聞、今日の平和の俳句。
死にゆく人に何ができるか、何をすべきか ― 2022年08月12日 18時40分20秒
★余命二週間と告知されて
我が父のことを書かせてください。
先にも報告しましたが、今月の頭に、我が父は、コロナ病棟から治療を終えて別病院に退院、転院となった。
が、その後もコロナによる10日間の入院生活から元の状態には戻れず、認知症もだが、全身の衰弱が進み、口から食べることができなくなってしまった。
我としては、コロナが癒えればまた再び元の生活へと、つまり家に戻れて介護施設に再び通えるようになると考えていたのだが、現実のはなし、もうそれは難しいと次第にわかってきた。
今は、父はかろうじて点滴で命を繋いでいる状況で、本日12日、病院に出向き担当医との面談で、現状の容態と今後について説明を受けた。
かろうじて意識はまだあるようだが、衰弱は進み、このままだと今月末、30日頃までもつかどうかとのことだった。そう、長くてあと二週間である。
いつかその日は来ると覚悟もしていたし、じっさい超高齢なのだからいつ不意に死が訪れてもちっともおかしくないのだったが、まだ実感はわかないものの、こんな風にして最期のときを迎えるのか!という感慨のようなものがある。
我としては、コロナが癒えて、少しでも口から食べられるようになり回復の兆しが見えれば、家に連れ帰ってとことん面倒を見て、父をまたコロナ前に戻してまた再びこれまでの日常が始まると考えていただけに、何とも無念と言うかやるせない、いや、哀しみしか感情はわかない。
ブログもまた間が空いてしまったのは、どうにも何を書くべきか迷っていたからだ。
タイトルにも書いたが、死にゆく父のために、いったい何ができるのか、我は今何をすべきなのかとずっとひたすら自問していた。
コロナ禍でなければ、毎日でも父の病棟に見舞いに行き、これ以上呆けないよう声かけて、食事も介助して叱咤激励し少しづつでも食べさせて元に戻す自身もあった。
じっさい、今から7年前、父が誤嚥性肺炎から入院中、院内でベッドから落ちて腰の大腿骨を複雑骨折したときも、一か月間も我は毎日父を見舞って、食事を日に昼夕二回介助して、父は奇跡的に呆けずに衰弱は進まず再び元のように歩けるようになって退院できた。
が、今回はコロナ禍で我はまさに成す術がなく、見舞さえも禁じられてただ一切病院任せとなってしまい、病院側は当然のこと、できるだけの介護はしてくれたと思うけれども、結果として父の呆けと衰弱は進みもう戻らないような状況となってしまったのだ。
我にできることは、ただ日々神に祈ることだけで、父が回復して父ともう一度この家で再び暮らせますように、とひたすら祈り続けるしかなかった。
全能の神は、死人さえも生き返らすことができるのだから、父もまた再び元気になって家に帰れると信ずることもできる。
が、またこうも思う。これが50代、60代の人ならば、そうした願いも意味があり、当人もそれを強く願うだろう。しかし、父は百歳近くまで生きてきたのである。
これ以上の長寿は果たしてそこに意味があるのか、また当人もそれを望んでいるのか。我の勝手な思いと願いで父に存命を神に願うのが正しいことなのか。
何よりまず父本人の意思と希望が優先されるべきであろうし、そこに神のご意思が働くのではないか。
我自身の勝手な思いで父を生きながらせることは、たとえ可能だとしてもそれはまた自然の摂理や神の意志にかなうことなのか。
心は今も千々に乱れるが、この一週間、ずっと自問してしだいに見えてきたのは、願うは、ともかく父の生をとことん一日でも長く、できるだけ苦しむことなく全うさせたい、ということだ。
そして会えなくても離れていても父を思い父に語らい、繋がるように祈り願うこと。
そのうえで、神はきちんと愛と慈しみ、哀れみをもって我らを計らってくれるだろう。
今もまだ父が再び回復してこの家に帰って来てくれる望みは絶対に諦めはしない。が、今は、神にすべてを委ね任せていこうと思う。
ともかく父はその生を、願わくば苦しむことなく全うできますように。
ナガサキの原爆忌頃までは数日間今夏久々に涼しい日が続いていたが、また以後猛暑は再燃し、この数日また耐え難い暑さが続いていた。
が、近く台風が来るとのことで、今日は曇りがちの晴れとなり風もあり少しは涼しく感じられた。
そして今は、その台風の影響なのか外は雨が降っている。
主は雨の日も晴れの日もまさに御心のままに我らに示して自然の摂理、不思議さを示してくれている。
人の生死もまた同様に、人知のおよぶ範囲ではないと思い至らねばならないのかと思える。
静かな雨の音を聴きながら、ずっと書けなかったこの「報告」ができてほっとしている。
また状況に動きがあれば拙ブログに告知していきます。皆さまも暑さとコロナにどうかご自愛ください。罹るとやはり後遺症がタイヘンですから。
我が父のことを書かせてください。
先にも報告しましたが、今月の頭に、我が父は、コロナ病棟から治療を終えて別病院に退院、転院となった。
が、その後もコロナによる10日間の入院生活から元の状態には戻れず、認知症もだが、全身の衰弱が進み、口から食べることができなくなってしまった。
我としては、コロナが癒えればまた再び元の生活へと、つまり家に戻れて介護施設に再び通えるようになると考えていたのだが、現実のはなし、もうそれは難しいと次第にわかってきた。
今は、父はかろうじて点滴で命を繋いでいる状況で、本日12日、病院に出向き担当医との面談で、現状の容態と今後について説明を受けた。
かろうじて意識はまだあるようだが、衰弱は進み、このままだと今月末、30日頃までもつかどうかとのことだった。そう、長くてあと二週間である。
いつかその日は来ると覚悟もしていたし、じっさい超高齢なのだからいつ不意に死が訪れてもちっともおかしくないのだったが、まだ実感はわかないものの、こんな風にして最期のときを迎えるのか!という感慨のようなものがある。
我としては、コロナが癒えて、少しでも口から食べられるようになり回復の兆しが見えれば、家に連れ帰ってとことん面倒を見て、父をまたコロナ前に戻してまた再びこれまでの日常が始まると考えていただけに、何とも無念と言うかやるせない、いや、哀しみしか感情はわかない。
ブログもまた間が空いてしまったのは、どうにも何を書くべきか迷っていたからだ。
タイトルにも書いたが、死にゆく父のために、いったい何ができるのか、我は今何をすべきなのかとずっとひたすら自問していた。
コロナ禍でなければ、毎日でも父の病棟に見舞いに行き、これ以上呆けないよう声かけて、食事も介助して叱咤激励し少しづつでも食べさせて元に戻す自身もあった。
じっさい、今から7年前、父が誤嚥性肺炎から入院中、院内でベッドから落ちて腰の大腿骨を複雑骨折したときも、一か月間も我は毎日父を見舞って、食事を日に昼夕二回介助して、父は奇跡的に呆けずに衰弱は進まず再び元のように歩けるようになって退院できた。
が、今回はコロナ禍で我はまさに成す術がなく、見舞さえも禁じられてただ一切病院任せとなってしまい、病院側は当然のこと、できるだけの介護はしてくれたと思うけれども、結果として父の呆けと衰弱は進みもう戻らないような状況となってしまったのだ。
我にできることは、ただ日々神に祈ることだけで、父が回復して父ともう一度この家で再び暮らせますように、とひたすら祈り続けるしかなかった。
全能の神は、死人さえも生き返らすことができるのだから、父もまた再び元気になって家に帰れると信ずることもできる。
が、またこうも思う。これが50代、60代の人ならば、そうした願いも意味があり、当人もそれを強く願うだろう。しかし、父は百歳近くまで生きてきたのである。
これ以上の長寿は果たしてそこに意味があるのか、また当人もそれを望んでいるのか。我の勝手な思いと願いで父に存命を神に願うのが正しいことなのか。
何よりまず父本人の意思と希望が優先されるべきであろうし、そこに神のご意思が働くのではないか。
我自身の勝手な思いで父を生きながらせることは、たとえ可能だとしてもそれはまた自然の摂理や神の意志にかなうことなのか。
心は今も千々に乱れるが、この一週間、ずっと自問してしだいに見えてきたのは、願うは、ともかく父の生をとことん一日でも長く、できるだけ苦しむことなく全うさせたい、ということだ。
そして会えなくても離れていても父を思い父に語らい、繋がるように祈り願うこと。
そのうえで、神はきちんと愛と慈しみ、哀れみをもって我らを計らってくれるだろう。
今もまだ父が再び回復してこの家に帰って来てくれる望みは絶対に諦めはしない。が、今は、神にすべてを委ね任せていこうと思う。
ともかく父はその生を、願わくば苦しむことなく全うできますように。
ナガサキの原爆忌頃までは数日間今夏久々に涼しい日が続いていたが、また以後猛暑は再燃し、この数日また耐え難い暑さが続いていた。
が、近く台風が来るとのことで、今日は曇りがちの晴れとなり風もあり少しは涼しく感じられた。
そして今は、その台風の影響なのか外は雨が降っている。
主は雨の日も晴れの日もまさに御心のままに我らに示して自然の摂理、不思議さを示してくれている。
人の生死もまた同様に、人知のおよぶ範囲ではないと思い至らねばならないのかと思える。
静かな雨の音を聴きながら、ずっと書けなかったこの「報告」ができてほっとしている。
また状況に動きがあれば拙ブログに告知していきます。皆さまも暑さとコロナにどうかご自愛ください。罹るとやはり後遺症がタイヘンですから。
近況報告~父は幸いまだ有難くも生きてますが・・・ ― 2022年08月18日 11時44分36秒
★自らの弱さと愚かさにただ向き合う日々
先だって12日、父が入院している病院の担当医から、余命宣告受けたことは記しましたが、その後のことを・・・
いまの状態では、おそらく今月30日まで持つかどうか、と医師から告知されて一週間。幸い今日、8月18日の時点では、病院からの通報はないので、ともかくまだ我が父は生きながらえてるということだ。
ただただ、有難い、神に感謝!!としか言葉はない。
が、この一週間、ひたすら日々、朝も昼も寝ている間も、携帯を常に傍らに置いて、いつ、その「知らせ」があるかと、高鳴る心で待ち続けるのは、ほんとうに辛いことだと告白する。
信仰を持つ者として、主、つまり神に全てを委ね任せて、ただあとは、祈り続け、善き計らいを心静めて待てばよいと頭ではわかっている。そう、それが神の意思、思し召しなのだから。
しかし、この弱く愚かな我は、父の迫りくる死という、不安と怖れとで、そのときを思うと、本当に夜も眠れなくなってしまう。
自分の信仰の弱さと卑小さに呆れ果て、情けなく恥じ入るばかりだが、これが正直なところ、自分という人間の実際なのだからどうしようもない。
しかし、そうした自らの弱さと愚かさと日々ひたすら向き合うことは、とてつもなく辛いが、おそらくきっとそこにも何か意味があるのであろう。
考えてみれば、人は木の又から生まれてくるのではないのだから、子のない人はいても親のない人はいない。
皆、誰もがいつかどこかで、その親の死と出会い、最愛の親であろうとなかろうと喪うときが来る。
ほぼ全ての人が、ある程度歳をとれば、必ず自らの死の前に親を失う別れの時が来る。
それは、自然災害や交通事故のような、ある日突然のまったく予期せぬ不測のときのこともあるかもしれないし、我のように老いた両親を順に看取り見送ることもまた多いはずだ。
そう考えれば、何も特別なことではないし、そうした「突然の別れ」に比べれば、余命宣告を受けて、死に臨むほうがよほど幸いかもしれないと気づく。
しかし、死刑囚が執行の日がいつ来るか、ただ待つのと同様に、その当人はもう何もわからない状態だとしても、周囲の者、特に家族は、そのときが来るのが怖い。そして恐ろしく不安である。
とうぜんのこと、永遠の別れは哀しく辛い。
だが、それも自然摂理であり、いつかは必ずそのときが自らも含めて誰にでも訪れるのだから、ただ脅え畏怖しても仕方のないことだと気づく。
「そのとき」を前にしてまだ家の片付けも終わっていない。あと、果たして一週間の期間が残されているのかわからないが、まだすべきことがあれば、まずそれこそができることなのだから、それだけに専念していこう。
辛いのは、神以外にこうした怖れと不安を告げ、語り合える「家族」が我にはいないことだ。肉親は、遠く九州に実妹が一人いるけれど、今思うと、我も同性異性を問わず、共に暮らす「家族」を作っておけば良かったと悔やむ。一人はやはり本当に辛い。
我自らを介護や看護してくれとは望みもしないが、そうした不安と怖れに囚われたときに、それを言葉にして語り合える「ニンゲン」が傍らにいるかどうか、それこそ人生のいちばん大事な、生きていく秘訣ではなかろうか。
動物は思いやりもあり、我の哀しみに寄り添ってはくれるけれど、そこに残念ながら「言葉」はない。神もその存在は信じるもののまだ我に、いまはまだ言葉は届かない。
しかしだからこそ、慈しみ深い主に、祈り信じ語らい、心静めて「そのとき」をできるだけ動じずに受け容れられるよう、我らに哀れみを、とただ願うしかない。
我が父は有難くもまだ生きてここに在る。願わくばできるだけ苦しむことなくその最期の日まで、その生を全うできますように。
先だって12日、父が入院している病院の担当医から、余命宣告受けたことは記しましたが、その後のことを・・・
いまの状態では、おそらく今月30日まで持つかどうか、と医師から告知されて一週間。幸い今日、8月18日の時点では、病院からの通報はないので、ともかくまだ我が父は生きながらえてるということだ。
ただただ、有難い、神に感謝!!としか言葉はない。
が、この一週間、ひたすら日々、朝も昼も寝ている間も、携帯を常に傍らに置いて、いつ、その「知らせ」があるかと、高鳴る心で待ち続けるのは、ほんとうに辛いことだと告白する。
信仰を持つ者として、主、つまり神に全てを委ね任せて、ただあとは、祈り続け、善き計らいを心静めて待てばよいと頭ではわかっている。そう、それが神の意思、思し召しなのだから。
しかし、この弱く愚かな我は、父の迫りくる死という、不安と怖れとで、そのときを思うと、本当に夜も眠れなくなってしまう。
自分の信仰の弱さと卑小さに呆れ果て、情けなく恥じ入るばかりだが、これが正直なところ、自分という人間の実際なのだからどうしようもない。
しかし、そうした自らの弱さと愚かさと日々ひたすら向き合うことは、とてつもなく辛いが、おそらくきっとそこにも何か意味があるのであろう。
考えてみれば、人は木の又から生まれてくるのではないのだから、子のない人はいても親のない人はいない。
皆、誰もがいつかどこかで、その親の死と出会い、最愛の親であろうとなかろうと喪うときが来る。
ほぼ全ての人が、ある程度歳をとれば、必ず自らの死の前に親を失う別れの時が来る。
それは、自然災害や交通事故のような、ある日突然のまったく予期せぬ不測のときのこともあるかもしれないし、我のように老いた両親を順に看取り見送ることもまた多いはずだ。
そう考えれば、何も特別なことではないし、そうした「突然の別れ」に比べれば、余命宣告を受けて、死に臨むほうがよほど幸いかもしれないと気づく。
しかし、死刑囚が執行の日がいつ来るか、ただ待つのと同様に、その当人はもう何もわからない状態だとしても、周囲の者、特に家族は、そのときが来るのが怖い。そして恐ろしく不安である。
とうぜんのこと、永遠の別れは哀しく辛い。
だが、それも自然摂理であり、いつかは必ずそのときが自らも含めて誰にでも訪れるのだから、ただ脅え畏怖しても仕方のないことだと気づく。
「そのとき」を前にしてまだ家の片付けも終わっていない。あと、果たして一週間の期間が残されているのかわからないが、まだすべきことがあれば、まずそれこそができることなのだから、それだけに専念していこう。
辛いのは、神以外にこうした怖れと不安を告げ、語り合える「家族」が我にはいないことだ。肉親は、遠く九州に実妹が一人いるけれど、今思うと、我も同性異性を問わず、共に暮らす「家族」を作っておけば良かったと悔やむ。一人はやはり本当に辛い。
我自らを介護や看護してくれとは望みもしないが、そうした不安と怖れに囚われたときに、それを言葉にして語り合える「ニンゲン」が傍らにいるかどうか、それこそ人生のいちばん大事な、生きていく秘訣ではなかろうか。
動物は思いやりもあり、我の哀しみに寄り添ってはくれるけれど、そこに残念ながら「言葉」はない。神もその存在は信じるもののまだ我に、いまはまだ言葉は届かない。
しかしだからこそ、慈しみ深い主に、祈り信じ語らい、心静めて「そのとき」をできるだけ動じずに受け容れられるよう、我らに哀れみを、とただ願うしかない。
我が父は有難くもまだ生きてここに在る。願わくばできるだけ苦しむことなくその最期の日まで、その生を全うできますように。
特別なことだが、誰にでも必ず起こる、ごく当たり前のこと ― 2022年08月25日 17時39分49秒
★母の死から七年目の夏の終わりに
父がコロナ感染・発熱で専門病院に搬送されて以後一か月が過ぎた。それが7月21日のことで、当初我は、気楽に、コロナが治ればまた再び父はこの家に戻れる、そしてまた再びこれまでの日常が続いていくと安易に考えていた。
が、コロナ自体は、幸いにして10日間の入院で癒えたものの、その間の入院生活で父は心身の衰弱が進み、このまま家に帰って来ても元の生活は難しいだろうと、別のリハビリ&療養型専門の系列病院へと転院を勧められた。
口からも食べることがなかなか難しくなっているのと、長引くベッド上の生活で、コロナ禍中のため我も面会が一切できず、刺激がなく認知症も進んでしまい意識もはっきりせず、結局今は点滴だけで命を保っている、という状態になってしまった。
そして先にも記したが、8月12日、担当医から呼び出しがあり、父の余命は、今月30日頃までかも、と宣告されてしまったという次第だ。
この一か月間、常に携帯電話を持ち歩き、昼夜傍らに置き、「もしも」の事態に備え、電話がいつあるかと常に気持ちを傾注していた。
幸い、今日の現時点では、まだ有難くも父はこの世に在る。そして実は、一昨日23日午後のこと、我は東京に住んでいる父の孫、我の甥っ子と共に、父の見舞い、面会に行ってきた。
前日、病院から電話があり、特別に短時間だが、面会は許可する、と伝えられ、即、明日行くことにしたのだった。
そしてその甥っ子に電話かけたら、彼も普段は超多忙なアニメ業界の人なのだが、幸いにして一仕事終わったところで、その日なら時間の都合がつくと良い返事があり、息子と孫の二人して、暑さがまたぶり返した夏日だったが、生きている我が父と面会できたのだった。
まさに神の善きはからい、と思うしかないのだが、要するにそれだけ父の死が迫り来て、病院側として気をきかせて特別に許可してくれたということだろう。
病床の父は、確かにまたさらに痩せて、意識もはっきりしない状態であったが、完全な昏睡状態ではなく、こちらの声かけや手を握り揺すると、目は開けなかったが、口を少し動かして何らかの意思表示を示してくれたようであった。
こちらの贔屓目かもしれないが、行った時よりも別れ際は顔色も良くなり、穏やかな落ち着いた顔つきになった気がした。つまり、彼の意識には我らが来たことも声かけもこちらの思いも伝わったのだと信じたい。
帰路その甥っ子と軽く食事して話したが、ともかくまだ生きてこの世に在る父と、彼にとっては祖父と、もう一度会えたことはまさに僥倖だった、運よく今日行けて良かったと喜びを語り合えた。
そう、コロナ禍で面会さえも禁止されて、もうこのまま父と会えるのは遺体となったときなのかと、暗澹たる気分でこのところずっといた。
今もまだ父が奇跡的に回復して再び短時間でも意識が戻り、我が家に一日でも帰らすことができればと日々神に祈るが、それは神と父自身の意思であり、ならば全ては神の御心に委ねるしかない。
ただ、我は、その死が避けられないとしても、せめて一度は生きている父と会い、我の愚かさをまず詫びて彼の人生を慰労し感謝の気持ちを伝えたいと心から願っていたから、その思いは果たせたわけで、有難いことだと深くただ感謝している。
ようやくこれで気持ちも一段落というか、一区切りついた。タイトルに書いた、特別なことだが、誰にでも必ずいつか起こる、ごく当たり前のこと、つまり「死」に対して、ことさらに脅え悩み畏怖するのではなく、起こるべくして起きることとして気持ちを整理していこう。
母が死んだのは、2016年の9月8日であった。その日、その年から奇しくもちょうど7年目、しかも季節も近しい。
居間の壁には、その年2016年の、12か月が載っている一枚の大判カレンダーが今も貼ってある。当然だが、週の曜日回りもその年と今年は全く同じである。
九州在の我の唯一の妹は、父の容態を伝えたらば、ともかく仲が良かった夫婦だったから、その母の命日頃に母が迎えに来て逝くのではないか、と言ってたが、それもあながち迷信ではなく有り得ることと思えてきた。
呆けて足腰も衰弱した父も母に手を引かれれば無事にあの世に行けると思うと泣けてきた。
父がコロナ感染・発熱で専門病院に搬送されて以後一か月が過ぎた。それが7月21日のことで、当初我は、気楽に、コロナが治ればまた再び父はこの家に戻れる、そしてまた再びこれまでの日常が続いていくと安易に考えていた。
が、コロナ自体は、幸いにして10日間の入院で癒えたものの、その間の入院生活で父は心身の衰弱が進み、このまま家に帰って来ても元の生活は難しいだろうと、別のリハビリ&療養型専門の系列病院へと転院を勧められた。
口からも食べることがなかなか難しくなっているのと、長引くベッド上の生活で、コロナ禍中のため我も面会が一切できず、刺激がなく認知症も進んでしまい意識もはっきりせず、結局今は点滴だけで命を保っている、という状態になってしまった。
そして先にも記したが、8月12日、担当医から呼び出しがあり、父の余命は、今月30日頃までかも、と宣告されてしまったという次第だ。
この一か月間、常に携帯電話を持ち歩き、昼夜傍らに置き、「もしも」の事態に備え、電話がいつあるかと常に気持ちを傾注していた。
幸い、今日の現時点では、まだ有難くも父はこの世に在る。そして実は、一昨日23日午後のこと、我は東京に住んでいる父の孫、我の甥っ子と共に、父の見舞い、面会に行ってきた。
前日、病院から電話があり、特別に短時間だが、面会は許可する、と伝えられ、即、明日行くことにしたのだった。
そしてその甥っ子に電話かけたら、彼も普段は超多忙なアニメ業界の人なのだが、幸いにして一仕事終わったところで、その日なら時間の都合がつくと良い返事があり、息子と孫の二人して、暑さがまたぶり返した夏日だったが、生きている我が父と面会できたのだった。
まさに神の善きはからい、と思うしかないのだが、要するにそれだけ父の死が迫り来て、病院側として気をきかせて特別に許可してくれたということだろう。
病床の父は、確かにまたさらに痩せて、意識もはっきりしない状態であったが、完全な昏睡状態ではなく、こちらの声かけや手を握り揺すると、目は開けなかったが、口を少し動かして何らかの意思表示を示してくれたようであった。
こちらの贔屓目かもしれないが、行った時よりも別れ際は顔色も良くなり、穏やかな落ち着いた顔つきになった気がした。つまり、彼の意識には我らが来たことも声かけもこちらの思いも伝わったのだと信じたい。
帰路その甥っ子と軽く食事して話したが、ともかくまだ生きてこの世に在る父と、彼にとっては祖父と、もう一度会えたことはまさに僥倖だった、運よく今日行けて良かったと喜びを語り合えた。
そう、コロナ禍で面会さえも禁止されて、もうこのまま父と会えるのは遺体となったときなのかと、暗澹たる気分でこのところずっといた。
今もまだ父が奇跡的に回復して再び短時間でも意識が戻り、我が家に一日でも帰らすことができればと日々神に祈るが、それは神と父自身の意思であり、ならば全ては神の御心に委ねるしかない。
ただ、我は、その死が避けられないとしても、せめて一度は生きている父と会い、我の愚かさをまず詫びて彼の人生を慰労し感謝の気持ちを伝えたいと心から願っていたから、その思いは果たせたわけで、有難いことだと深くただ感謝している。
ようやくこれで気持ちも一段落というか、一区切りついた。タイトルに書いた、特別なことだが、誰にでも必ずいつか起こる、ごく当たり前のこと、つまり「死」に対して、ことさらに脅え悩み畏怖するのではなく、起こるべくして起きることとして気持ちを整理していこう。
母が死んだのは、2016年の9月8日であった。その日、その年から奇しくもちょうど7年目、しかも季節も近しい。
居間の壁には、その年2016年の、12か月が載っている一枚の大判カレンダーが今も貼ってある。当然だが、週の曜日回りもその年と今年は全く同じである。
九州在の我の唯一の妹は、父の容態を伝えたらば、ともかく仲が良かった夫婦だったから、その母の命日頃に母が迎えに来て逝くのではないか、と言ってたが、それもあながち迷信ではなく有り得ることと思えてきた。
呆けて足腰も衰弱した父も母に手を引かれれば無事にあの世に行けると思うと泣けてきた。
行く夏に逝く人を思う ― 2022年08月31日 10時20分42秒
★夏8月の終わり末日に
季節の変わり目の前線が停滞しているとかで、このところずっと雨模様、曇りがちの日が続いている。弱いけれど日に何度も雨がぱらつく。
おかげでいくぶん涼しい日もあったが、今日など湿気がすごくてともかく蒸し暑い。メガネかけている我は、買い物に出、冷房の効いた店から出るとメガネが曇ってしばらく何も見えないほどだ。
父のこと他、今月を振り返り、これからについて書いていきたい。
この一か月、正確には、七月の半ば過ぎからだが、父が突然いなくなり、その父不在の生活、新しい日常とどう向き合うか、どう理解し対応していくか、今後のことについてもずっと自問しつつ答えがなかなか見いだせなかった。
正直なところ、施設内でのコロナ感染は仕方ないとしても、運よくこの病床逼迫の中、コロナ専門病棟に入れたわけで、コロナさえ癒えればまた再び元の生活、これまでの日常に父も我も戻れると思っていた。
まさか、そのコロナ感染がきっかけで老衰が進み、死の床に就くとはまさに想定外であった。
むろん百歳近い超高齢であり、この一年ほど急に瘦せ衰えてきて、頭も身体も老衰から死期は迫ってきていることはよく認識しその覚悟もしてはいた。が、このところはやや食事量も増え体重も戻って来ていたので、この夏をまず乗り切れば、98歳の誕生日を迎えられ、来年の正月までまあ何とか過ごせるのではと安易に考えていたから、この突然の新たな事態に正直動揺した。
こうして父の死期は来るのか、それをただ受け容れるしかないのか迷い悩み悶々鬱々とした。
これまでも書いたが、何より辛いのは、今もまだコロナ禍中ということで、一切見舞にも行けず、父に対して我は何もできないことだ。
繰り返しになるが、これまでも父は誤嚥性肺炎と大腿骨の複雑骨折で長く入院し、一時期はかなり痴呆と全身の衰弱も進んだことがあった。それが90歳を過ぎた頃で、医師も看護師も誰もがもう回復して再び自宅に戻ることは難しいと思っていた。
が、そのとき我は日々昼夕時の食事介助に病院に通って、父に食べさせながらその都度声かけて励まし刺激を与え、その甲斐もあってその時は、頭も身体も回復し再び自宅に戻ることができた。そして今までさらに生きてこれた。
今回もそのときよりは歳もとり、かなり父の老衰は心身進んでいたが、息子である我が食事の都度、自宅と同じく声かけ毎食介助していけばまた再び口からの食欲も戻り、痴呆も回復し体力も戻り再び元のように、我家に帰れたはずだっただろうと今も確信している。が、現実は・・・
父はコロナ入院の10日間で、刺激のないベッド生活が続いたため痴呆と全身の衰弱が進み、徐々に自ら食べられなくなって意識もはっきりしなくなってしまった。
コロナは癒えて別の病院に転院したものの、やはり一切外からの刺激はなく、意識も朦朧とする状態が進み、もう口からは何も食べられないからと点滴だけで命を繋ぐような状態に進んでしまい、ついに担当医から余命宣告を受けるような事態になってしまったのだ。
父がそうした事態に陥り我の気持ちは、というと、ただただ、どうすることもできなくて何とも情けない、やるせなく泣きたいような気持ち、としか言いようがないものだった。
今でも願うのは、思い切り大きな声上げて泣けたらどれほど楽だろうか、ということだ。
そして日々、いつ病院から父の異変を知らせる「そのとき」の連絡がくるか、携帯を常時手元に置いて、昼夜問わず耳を澄まし、怖れつつ日々待ち続けた。
そして今日で、その「宣告」のリミットである。医師は、今のままでは、今月末、30日頃までもつかどうか、と8月12日の面談のとき我に伝えてきたのだった。
しかし、今日8月末日夜の時点では病院からは何も連絡はない。父はまだこの世に在る。
大きな犯罪を犯して刑が確定した死刑囚は、その後、その日、そのときをどう待ち、日々生きているのだろうか。執行日までどんな気持ちで過ごしているのか。我は彼らの心情を心より憐れむ。
死刑が悪しき忌むことだと思うのは、刑罰だとしても人が人を殺すという、異常な悪しきことが意義ある正義として行われることもだが、一番残酷なことは、「そのとき」がいつ突然訪れるか、死刑囚当人には伝えられないことだろう。
たとえ全て覚悟して、虚心坦懐の気持ちで心静かに日々動じずそのときを淡々と受け容れる人もいるのかもしれないが、もし我ならば、いつそれが訪れるか、その恐怖で発狂するかノイローゼになってしまうことは間違いない。
自分は当事者ではないし、今、その宣告を受けた当人、我が父も今はもう何も知らずほぼ何もわからずうつらうつら夢うつつの状態にあるのかもしれないが、待ち望みはしなくても、「その日」が近く来ると思い考えて「待つ」のは本当に辛く苦しい。※いや、父の内面内心は誰にもわからない。もう何も心置きなく、全て理解してただ心静かにその時を待ち望んでいるのか、あるいは今も我が家に何としても戻りたいと強く願っているのか、それを思うと我も心苦しい。死にゆく人の傍らにいられないのが辛く悲しい。
母の時も思い返せば、実際のところほぼ同様の状況だったわけだが、その時は常に母は、在宅のベッドに、つまりこの家にいたし、ずっと我らは共に一緒に過ごせていた。
だから我もその日が来るなんて、まったく考えも想定もしなかった。最期の時まで、我はまさか母が死ぬなんて、その時のことなんてあえて想定も考えもしなかった。
ただ今は違う。このコロナ禍、自分は父に対して何一つできないし、できることはただひたすら神に祈ることだけしかない。
それも当初は、無事回復して再び家に戻れることを祈願したが、今は、ともかくできるだけ苦しまずに、その生を一日でも長く保ち、全うできることだけをただ祈っている。
そして今朝方はまた別な気持ちに、我に新たな啓示があった。長くなるので、そのことをもう一回書かせてください。
季節の変わり目の前線が停滞しているとかで、このところずっと雨模様、曇りがちの日が続いている。弱いけれど日に何度も雨がぱらつく。
おかげでいくぶん涼しい日もあったが、今日など湿気がすごくてともかく蒸し暑い。メガネかけている我は、買い物に出、冷房の効いた店から出るとメガネが曇ってしばらく何も見えないほどだ。
父のこと他、今月を振り返り、これからについて書いていきたい。
この一か月、正確には、七月の半ば過ぎからだが、父が突然いなくなり、その父不在の生活、新しい日常とどう向き合うか、どう理解し対応していくか、今後のことについてもずっと自問しつつ答えがなかなか見いだせなかった。
正直なところ、施設内でのコロナ感染は仕方ないとしても、運よくこの病床逼迫の中、コロナ専門病棟に入れたわけで、コロナさえ癒えればまた再び元の生活、これまでの日常に父も我も戻れると思っていた。
まさか、そのコロナ感染がきっかけで老衰が進み、死の床に就くとはまさに想定外であった。
むろん百歳近い超高齢であり、この一年ほど急に瘦せ衰えてきて、頭も身体も老衰から死期は迫ってきていることはよく認識しその覚悟もしてはいた。が、このところはやや食事量も増え体重も戻って来ていたので、この夏をまず乗り切れば、98歳の誕生日を迎えられ、来年の正月までまあ何とか過ごせるのではと安易に考えていたから、この突然の新たな事態に正直動揺した。
こうして父の死期は来るのか、それをただ受け容れるしかないのか迷い悩み悶々鬱々とした。
これまでも書いたが、何より辛いのは、今もまだコロナ禍中ということで、一切見舞にも行けず、父に対して我は何もできないことだ。
繰り返しになるが、これまでも父は誤嚥性肺炎と大腿骨の複雑骨折で長く入院し、一時期はかなり痴呆と全身の衰弱も進んだことがあった。それが90歳を過ぎた頃で、医師も看護師も誰もがもう回復して再び自宅に戻ることは難しいと思っていた。
が、そのとき我は日々昼夕時の食事介助に病院に通って、父に食べさせながらその都度声かけて励まし刺激を与え、その甲斐もあってその時は、頭も身体も回復し再び自宅に戻ることができた。そして今までさらに生きてこれた。
今回もそのときよりは歳もとり、かなり父の老衰は心身進んでいたが、息子である我が食事の都度、自宅と同じく声かけ毎食介助していけばまた再び口からの食欲も戻り、痴呆も回復し体力も戻り再び元のように、我家に帰れたはずだっただろうと今も確信している。が、現実は・・・
父はコロナ入院の10日間で、刺激のないベッド生活が続いたため痴呆と全身の衰弱が進み、徐々に自ら食べられなくなって意識もはっきりしなくなってしまった。
コロナは癒えて別の病院に転院したものの、やはり一切外からの刺激はなく、意識も朦朧とする状態が進み、もう口からは何も食べられないからと点滴だけで命を繋ぐような状態に進んでしまい、ついに担当医から余命宣告を受けるような事態になってしまったのだ。
父がそうした事態に陥り我の気持ちは、というと、ただただ、どうすることもできなくて何とも情けない、やるせなく泣きたいような気持ち、としか言いようがないものだった。
今でも願うのは、思い切り大きな声上げて泣けたらどれほど楽だろうか、ということだ。
そして日々、いつ病院から父の異変を知らせる「そのとき」の連絡がくるか、携帯を常時手元に置いて、昼夜問わず耳を澄まし、怖れつつ日々待ち続けた。
そして今日で、その「宣告」のリミットである。医師は、今のままでは、今月末、30日頃までもつかどうか、と8月12日の面談のとき我に伝えてきたのだった。
しかし、今日8月末日夜の時点では病院からは何も連絡はない。父はまだこの世に在る。
大きな犯罪を犯して刑が確定した死刑囚は、その後、その日、そのときをどう待ち、日々生きているのだろうか。執行日までどんな気持ちで過ごしているのか。我は彼らの心情を心より憐れむ。
死刑が悪しき忌むことだと思うのは、刑罰だとしても人が人を殺すという、異常な悪しきことが意義ある正義として行われることもだが、一番残酷なことは、「そのとき」がいつ突然訪れるか、死刑囚当人には伝えられないことだろう。
たとえ全て覚悟して、虚心坦懐の気持ちで心静かに日々動じずそのときを淡々と受け容れる人もいるのかもしれないが、もし我ならば、いつそれが訪れるか、その恐怖で発狂するかノイローゼになってしまうことは間違いない。
自分は当事者ではないし、今、その宣告を受けた当人、我が父も今はもう何も知らずほぼ何もわからずうつらうつら夢うつつの状態にあるのかもしれないが、待ち望みはしなくても、「その日」が近く来ると思い考えて「待つ」のは本当に辛く苦しい。※いや、父の内面内心は誰にもわからない。もう何も心置きなく、全て理解してただ心静かにその時を待ち望んでいるのか、あるいは今も我が家に何としても戻りたいと強く願っているのか、それを思うと我も心苦しい。死にゆく人の傍らにいられないのが辛く悲しい。
母の時も思い返せば、実際のところほぼ同様の状況だったわけだが、その時は常に母は、在宅のベッドに、つまりこの家にいたし、ずっと我らは共に一緒に過ごせていた。
だから我もその日が来るなんて、まったく考えも想定もしなかった。最期の時まで、我はまさか母が死ぬなんて、その時のことなんてあえて想定も考えもしなかった。
ただ今は違う。このコロナ禍、自分は父に対して何一つできないし、できることはただひたすら神に祈ることだけしかない。
それも当初は、無事回復して再び家に戻れることを祈願したが、今は、ともかくできるだけ苦しまずに、その生を一日でも長く保ち、全うできることだけをただ祈っている。
そして今朝方はまた別な気持ちに、我に新たな啓示があった。長くなるので、そのことをもう一回書かせてください。
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