子猫は二匹貰われましたが2022年09月27日 22時22分23秒

★まだまだ子猫います。これからどうしたらいいのか。

 父の死後の一連の作業や連絡などに追われて、そこに予定していた「猫の集い」もあって、いや、その前々日に国立の国葬反対のデモに出たこともあって、何とかそうした対外的なことをほぼ終えつつある状況だが、ともかく疲れがどっと出た。
 おかげさまで、子猫の貰い手の件、25日、何とか二匹だけ貰われていきましたが、まだ総数は桁違いに残ってて、いろいろまだ安心安堵とはほど遠い状況が続いている。
 自らの愚かさ、ダメさと病的性格から、何につけトラブルを自ら招き多事多難は生涯ついてまわると覚悟しているが、父の死後も状況は何も変わらない。

 ともかく我たった一人で、これから社会的、対外的に、我は全ての責任と向かい風を受けなくてはならない。
 が、正直早くも疲れが出た。気が緩んだのか。が、まずは父のお骨を母も待つウチの菩提寺に収めなくてはならない。
 その日程は決まった。来月の30日、日曜だ。
 そこまで何とか自らを叱咤しがんばらねばと。

 思うが、もう父はこの世にいないのだから、長く続いてきた習慣、明け方に、父のおむつ交換に起きなくてもいいのだ。が、我は今も必ず明け方、5時か6時前に一度必ず目覚めてしまう。
 それどころか、このところ早い時は午前3時とかにも尿意で起きてしまい、それから夜が白むまで、すぐに寝なおす、眠り直すこともできず、ベッドであれこれ悶々と思い考え苦しい時間を過ごす。
 何年も前に死んだ、精神を病んでいた亡き友人の口癖、「暗澹たる気持ち」に囚われる、ということがこのところよくわかる気がしている。
 父がいなくなって、哀しみよりも今感じているのは、芥川的な漠然とした不安だ。
 いったいこれから、どう生きて行けばいいのだろう。いや、正しくは、どう死んでいけばいいのだろう、ということだ。
 我はモノはなんでも有り余るほど持っている。が、本当に肝心なもの、世の人なら誰もが当たり前にもっているモノは何一つない。

 つまるところ人は何故生きていくかと言えば、愛する対象、身を捨てても守るべき、核となる人や大切なモノがあるかどうか、だろう。
 父がいなくなってしまえば、もう我にはそうしたものは何一つないことを明け方の深閑とした闇の中で、噛みしめている。

 ならば、こんな我も愛されたいと願うけれど、その資格もないこともいつも常に深く感じてわかっている。何しろ、我の心のその泉、愛の源泉はそもそもほとんど枯れているのだから。我は本当に非情な人間なのだ。
 愛される資格もない人間に求められるのは、いや、唯一頼れるものは、音楽や文学、つまり芸術ということなのだが、このところ我は、それすらも自信がなくなってきている。
 虚子の句だったと思うが、「去年今年、貫ぬく棒のようなもの」、という俳句があったと記憶するが、我の人生にはもうそうした「棒のようなもの」が見当たらない。
 やるべき 喫緊のことは山ほどある。が、人生そのもの、もう今はほんとうにどうでもいい。疲れているとそんな気分になっている。