追悼 有馬敲さん ― 2022年10月04日 07時49分20秒
★京都より、詩人・有馬敲(ありまたかし)さんの訃報が届いた。
哀しみの月が過ぎたと思い、父の納骨の儀に向けて慌ただしく過ごしていたら、今朝方、敬愛し親しくお付き合いさせて頂いた、詩人・有馬敲さん死去の報が届いた。
我が父ほどではないが高齢で、先年も脳梗塞で倒れて復帰果たしたこともあり、ずっとどうされているか気にかかり、我が父のこともお知らせせねばと思っていた矢先であった。
せめて電話一本かけて話せたらば良かったと今ただ悔やまれる。
彼と十数年前に、新宿のイベントで出合い、以後ずっと私淑しまさに薫陶を受けてきた。新潟や東京にお招きして、詩朗読とフォークソングのコンサートも企画できた。
我にとって唯一の誇りと思えるのは、高田渡に倣い、彼の詩に曲を付けた楽曲が残せて、みほこんのアルバムにも収録されていることだ。
我が父も亡くなったし、コロナも終焉の兆しが見えてきたので、また自由に京都に出向き、師である彼と再会できるかもと夢想していた。
あの、独特のイントネーションで我に語りかける「まぁすうださん」というお声がもう聴けないことが哀しい。
彼の魂よ、安かれ、とただ祈っている。
哀しみの月が過ぎたと思い、父の納骨の儀に向けて慌ただしく過ごしていたら、今朝方、敬愛し親しくお付き合いさせて頂いた、詩人・有馬敲さん死去の報が届いた。
我が父ほどではないが高齢で、先年も脳梗塞で倒れて復帰果たしたこともあり、ずっとどうされているか気にかかり、我が父のこともお知らせせねばと思っていた矢先であった。
せめて電話一本かけて話せたらば良かったと今ただ悔やまれる。
彼と十数年前に、新宿のイベントで出合い、以後ずっと私淑しまさに薫陶を受けてきた。新潟や東京にお招きして、詩朗読とフォークソングのコンサートも企画できた。
我にとって唯一の誇りと思えるのは、高田渡に倣い、彼の詩に曲を付けた楽曲が残せて、みほこんのアルバムにも収録されていることだ。
我が父も亡くなったし、コロナも終焉の兆しが見えてきたので、また自由に京都に出向き、師である彼と再会できるかもと夢想していた。
あの、独特のイントネーションで我に語りかける「まぁすうださん」というお声がもう聴けないことが哀しい。
彼の魂よ、安かれ、とただ祈っている。
二人の「父」を相継いで喪って ― 2022年10月05日 03時38分43秒
★もうこれ以上、大きな死や哀しい別れが起きないよう祈る
京都の孤高の詩人、有馬敲氏の訃報が届いたことは記したが、実際の死亡日は、先月の25日であったとのことだ。
我が父が死んだ直後に、彼もまた逝っていたのである。あろうことか、個人的なことだが奇しき偶然である。
我は、二人の父、つまり生み育ての親である実父と、我が私淑し師と仰いだ、フォークソングの父を相次いで喪ってしまったのである。
お二人とも高齢であったのだから、それはいつ来てもちっともおかしくないわけで、常に覚悟してその時に備え、悔いのないようできる限りのことはしておけば良かったのだが、けっきょく何一つ我はその恩に報いることはできなかった。
自分は、本当に無能で、何一つきちんとしたこと、当たり前のことはできやしないのだと、このところ今更ながら痛感しその認識を新たにしているのだが、有馬さんの死はそれにまた追い打ちをかけて自責している。
が、悔やみはしても悩んだって、我の愚かさは変わらないし、もう一度時間が戻せても、いや、死も何もかもが先延ばしにできたとしても、我のことだから結果として何も変わらないだろう。
それほど根源的に我は万事ダメで、愚図なのである。それが自分という人間なのだ。ならば仕方ないではないか。
頭が悪く性格がおかしいということが、元々の身体的なものなのば、背の高さとか足の大きさと同様に今さら変えることは不可能なのである。だから何度でもバカなこと、失態失敗を繰り返す。
しかし、我の二人の父は、そんな「息子」を呆れ果てたとしても見捨てず、辛抱強く見守り哀れみと共に常に慈しんでくれたのである。
その恩ある偉大な父たちがいなくなり、我はどうやっていきてけば良いのだろうか。今、その不在の大きさに気づき、愕然としている。
ウチには、我が父がいて、京都には有馬さんがいる、それが我を常に支えていたのだと、いまやっと気がついた。
これからいったい一人になってどうしたら良いのだろうと大きな不安を思うが、まだ我に人生が残っているとしたら、こう考える。
薫陶を受ける、という言葉がある。我は彼らから多くの「薫陶」を授かった。知識も生き方も、経験、才能才覚的なものさえも。
ならば、我のウチにある、彼らから頂いた「善きもの」を、つまりその薫陶や知識を、拙くとも後の者たちに伝え残していくべきではないか、と。
けっきょく、いつの時代でも人が死者たちに真にできることは、彼らの真の遺産、つまり彼らが生きた証、知識や経験、そして思いを継ぐこと、であり、死者の思いも含め遺したモノを後世に伝えていくことだけではなかろうか。
それが亡き人たちの恩に報いる唯一のことだと思える。
それは大変な作業のように思えるが、まずは我も彼らのように、倣ってしっかり生きていけばよいだけのことだ。二人の父は、死んでしまい、この世にはもういない。が、彼らの思いと記憶は我のウチに生きて、褪せることは決してない。それを書き語り伝えていく。
さらにこうも気づく。我にはもう一方、父は今も在る。その天の父は、これからも我を決して見捨てず、どんな時でも、我の死のときも常に傍らにいてくれ哀れみと救いを与えてくれることだろう。
さあ、涙を拭いて、新しい朝を迎えよう。願わくば今年はもうこれ以上、新たな死や哀しい別れが続きませんように、と。
京都の孤高の詩人、有馬敲氏の訃報が届いたことは記したが、実際の死亡日は、先月の25日であったとのことだ。
我が父が死んだ直後に、彼もまた逝っていたのである。あろうことか、個人的なことだが奇しき偶然である。
我は、二人の父、つまり生み育ての親である実父と、我が私淑し師と仰いだ、フォークソングの父を相次いで喪ってしまったのである。
お二人とも高齢であったのだから、それはいつ来てもちっともおかしくないわけで、常に覚悟してその時に備え、悔いのないようできる限りのことはしておけば良かったのだが、けっきょく何一つ我はその恩に報いることはできなかった。
自分は、本当に無能で、何一つきちんとしたこと、当たり前のことはできやしないのだと、このところ今更ながら痛感しその認識を新たにしているのだが、有馬さんの死はそれにまた追い打ちをかけて自責している。
が、悔やみはしても悩んだって、我の愚かさは変わらないし、もう一度時間が戻せても、いや、死も何もかもが先延ばしにできたとしても、我のことだから結果として何も変わらないだろう。
それほど根源的に我は万事ダメで、愚図なのである。それが自分という人間なのだ。ならば仕方ないではないか。
頭が悪く性格がおかしいということが、元々の身体的なものなのば、背の高さとか足の大きさと同様に今さら変えることは不可能なのである。だから何度でもバカなこと、失態失敗を繰り返す。
しかし、我の二人の父は、そんな「息子」を呆れ果てたとしても見捨てず、辛抱強く見守り哀れみと共に常に慈しんでくれたのである。
その恩ある偉大な父たちがいなくなり、我はどうやっていきてけば良いのだろうか。今、その不在の大きさに気づき、愕然としている。
ウチには、我が父がいて、京都には有馬さんがいる、それが我を常に支えていたのだと、いまやっと気がついた。
これからいったい一人になってどうしたら良いのだろうと大きな不安を思うが、まだ我に人生が残っているとしたら、こう考える。
薫陶を受ける、という言葉がある。我は彼らから多くの「薫陶」を授かった。知識も生き方も、経験、才能才覚的なものさえも。
ならば、我のウチにある、彼らから頂いた「善きもの」を、つまりその薫陶や知識を、拙くとも後の者たちに伝え残していくべきではないか、と。
けっきょく、いつの時代でも人が死者たちに真にできることは、彼らの真の遺産、つまり彼らが生きた証、知識や経験、そして思いを継ぐこと、であり、死者の思いも含め遺したモノを後世に伝えていくことだけではなかろうか。
それが亡き人たちの恩に報いる唯一のことだと思える。
それは大変な作業のように思えるが、まずは我も彼らのように、倣ってしっかり生きていけばよいだけのことだ。二人の父は、死んでしまい、この世にはもういない。が、彼らの思いと記憶は我のウチに生きて、褪せることは決してない。それを書き語り伝えていく。
さらにこうも気づく。我にはもう一方、父は今も在る。その天の父は、これからも我を決して見捨てず、どんな時でも、我の死のときも常に傍らにいてくれ哀れみと救いを与えてくれることだろう。
さあ、涙を拭いて、新しい朝を迎えよう。願わくば今年はもうこれ以上、新たな死や哀しい別れが続きませんように、と。
冷たい雨が降り続く神無月に ― 2022年10月07日 11時40分27秒
★ずっと憂鬱気分に囚われていたが
冷たい雨が断続的に降り続いている。どうしたことかおまけに寒い。
このところしばらく雨が降らず、だいぶ野外の草木は乾いて水を求めていたから、久しぶりの本降りの雨は良いことなのだが、どうしたことか気温は低く、12月の陽気だとのこと。
父の死に追い打ちをかけるかのように、お世話になった師、有馬さんの訃報が届き、この数日本当に苦しかった。特に明け方、まだ暗いうちの午前4時頃に起きてしまうと、まさに暗澹たる気分に囚われた。
亡き人たちに対する哀しみや何ひとつ彼らにできなかったことへの悔いもあるけれど、それ以上にこれから先行きのこと、こんな自分が一人で生きていかねねばならぬこと、その不安と怖れでパニック障害気味となっていた。
そう、何が辛いかというと、この明け方、窓の外はまだ暗い時間帯に目覚めるのが本当に辛く苦しい。それからなかなかすぐに寝なおせないのだ。
父が生きていた頃からの習慣で、彼のオムツ交換のために必ず朝方一度起きていたのだが、それが今も習い性となって続いていて、何時に床に就いたとしても必ず4時過ぎか5時頃にはトイレ起床もあって一度は目が覚めてしまう。
そしてそれからが眠れないのが辛く苦しい。以前、夏場は夜が明けるのも早いから、それで起床し散歩したり一仕事できたが、今はまだ外は真っ暗闇で、世界の底でたった一人で取り残された気分になる。
そしてあれこれつい先のこと、まだまだやらねばならぬことを考えてしまい大きな不安と怖れに囚われ悶々となる。
それは、山を歩く人が疲れ果てて来たのに、これからまだ登らねばならぬ山塊を仰ぎ見たときに感ずる怖れや不安、絶望感に近い。
しかし、近くに泊まれる小屋もなく、キャンプ装備もろくに持たないならば、もう引き返すことができないのならば、ともかくその山に向かって歩を進めねばならない。
困難に思える山でも、麓から見た山と登ってから見える景色は違うはずだ。きっとその先に新たな光景、出会う人もいるかもしれない。
立ち止まっていても日が暮れていくだけならば、ともかくその山に向かって歩き続け越えていくしかない。
そう、父には申し訳ないが、父という荷物は我の肩から下りて我はその分身軽になったはずだ。
母と父のことは、思い出の中に留めて、高く聳え立つ大きな山であろうと足取り軽く一歩一歩ともかく進んでいこう。その先にまたさらに山並みが連なっていようとも。先のことはもう考えない。今はそれしかできることはないではないか。
まだここで我もうっかり死んではならない。そう、全てここから始まる、始めなくてはならないのだ。
冷たい雨が断続的に降り続いている。どうしたことかおまけに寒い。
このところしばらく雨が降らず、だいぶ野外の草木は乾いて水を求めていたから、久しぶりの本降りの雨は良いことなのだが、どうしたことか気温は低く、12月の陽気だとのこと。
父の死に追い打ちをかけるかのように、お世話になった師、有馬さんの訃報が届き、この数日本当に苦しかった。特に明け方、まだ暗いうちの午前4時頃に起きてしまうと、まさに暗澹たる気分に囚われた。
亡き人たちに対する哀しみや何ひとつ彼らにできなかったことへの悔いもあるけれど、それ以上にこれから先行きのこと、こんな自分が一人で生きていかねねばならぬこと、その不安と怖れでパニック障害気味となっていた。
そう、何が辛いかというと、この明け方、窓の外はまだ暗い時間帯に目覚めるのが本当に辛く苦しい。それからなかなかすぐに寝なおせないのだ。
父が生きていた頃からの習慣で、彼のオムツ交換のために必ず朝方一度起きていたのだが、それが今も習い性となって続いていて、何時に床に就いたとしても必ず4時過ぎか5時頃にはトイレ起床もあって一度は目が覚めてしまう。
そしてそれからが眠れないのが辛く苦しい。以前、夏場は夜が明けるのも早いから、それで起床し散歩したり一仕事できたが、今はまだ外は真っ暗闇で、世界の底でたった一人で取り残された気分になる。
そしてあれこれつい先のこと、まだまだやらねばならぬことを考えてしまい大きな不安と怖れに囚われ悶々となる。
それは、山を歩く人が疲れ果てて来たのに、これからまだ登らねばならぬ山塊を仰ぎ見たときに感ずる怖れや不安、絶望感に近い。
しかし、近くに泊まれる小屋もなく、キャンプ装備もろくに持たないならば、もう引き返すことができないのならば、ともかくその山に向かって歩を進めねばならない。
困難に思える山でも、麓から見た山と登ってから見える景色は違うはずだ。きっとその先に新たな光景、出会う人もいるかもしれない。
立ち止まっていても日が暮れていくだけならば、ともかくその山に向かって歩き続け越えていくしかない。
そう、父には申し訳ないが、父という荷物は我の肩から下りて我はその分身軽になったはずだ。
母と父のことは、思い出の中に留めて、高く聳え立つ大きな山であろうと足取り軽く一歩一歩ともかく進んでいこう。その先にまたさらに山並みが連なっていようとも。先のことはもう考えない。今はそれしかできることはないではないか。
まだここで我もうっかり死んではならない。そう、全てここから始まる、始めなくてはならないのだ。
次はともかく猫のこと、貰い手探しと、これ以上増えないために ― 2022年10月09日 19時36分57秒
★国立の二カ所のイベントで、子猫つれて宣伝しました、が・・・
先にも書いたが、父のことなどがあって、猫たちのことまで気が回らず、ついほったらかしにしていたら、増殖してしまった。
これまでも生れてはいたのだが、友人知人のツテを頼って、有難いことに貰い手はあって、何とか収まっていたのだが、さすがにもうどこも飽和状態で、何回も子猫の譲渡会をかけこみ亭で繰り返しても参加者はなく、子猫はどんどん大きくなり、我はついに多頭飼育崩壊寸前となってしまっている。
猫の餌代とか経済的なことも大きな負担となってきているが、それ以前に、日々何度もの餌やりとトイレ掃除に時間と労苦をとられて、自分でもいったい何をやっているのだろう、これが自分の人生の目的、存在理由なのか自問するばかりだった。
むろん全ては自らの性格的だらしなさ、何につけても無責任にほったらかしにしてきたことのツケ、結果が招いたこの事態であり、猫たちにはなにも責任はない。
何であれ、その都度きちんと対応し、適切に手を打っていればこんなことにはならなかったわけで、ずっと自らの人生全てを放擲してきた結果がこの惨憺たる状況なのである。
もう限界だとしても、猫たちを捨てに行ったり、外に締め出して野良ネコ化してはならないわけで、命あるものとして我は彼らの猫人生を最後まできちんと負わねばならない。
今いる大人猫たちがこれ以上絶対増えないよう、去勢、避妊手術していくことはもちろんだが、まずはまだ貰い手の可能性がある、子猫たちを新たな飼い主の元へ旅立たせることも優先なので、今日、彼らの中からセレクトした子をケージに入れて、国立での人の集まる場へ行ってきた。
結果は、すぐその場で貰われることはなかったが、やはり人が多く通り集まる場では、子猫たちは目を引き、かなりの反響はあった。
チラシも作り、ウチの電話番号は伝えてあるので、もしかしたら後日、連絡があり貰い手も見つかるかもしれない。
今日はまだ何一つ解決も結果も出なかったが、少なくても種は蒔けたと思う。やがて、その蒔いた種から反応が返って来て、一匹でも貰われていくかもしれない。そう期待している。
何であれ、家にじっと籠っていても何一つ新たな展開はないのである。
ならば、ともかく動いてみる、そこからまた新たな動きもあるに違いない。そう信じてがんばるしかない。
先にも書いたが、父のことなどがあって、猫たちのことまで気が回らず、ついほったらかしにしていたら、増殖してしまった。
これまでも生れてはいたのだが、友人知人のツテを頼って、有難いことに貰い手はあって、何とか収まっていたのだが、さすがにもうどこも飽和状態で、何回も子猫の譲渡会をかけこみ亭で繰り返しても参加者はなく、子猫はどんどん大きくなり、我はついに多頭飼育崩壊寸前となってしまっている。
猫の餌代とか経済的なことも大きな負担となってきているが、それ以前に、日々何度もの餌やりとトイレ掃除に時間と労苦をとられて、自分でもいったい何をやっているのだろう、これが自分の人生の目的、存在理由なのか自問するばかりだった。
むろん全ては自らの性格的だらしなさ、何につけても無責任にほったらかしにしてきたことのツケ、結果が招いたこの事態であり、猫たちにはなにも責任はない。
何であれ、その都度きちんと対応し、適切に手を打っていればこんなことにはならなかったわけで、ずっと自らの人生全てを放擲してきた結果がこの惨憺たる状況なのである。
もう限界だとしても、猫たちを捨てに行ったり、外に締め出して野良ネコ化してはならないわけで、命あるものとして我は彼らの猫人生を最後まできちんと負わねばならない。
今いる大人猫たちがこれ以上絶対増えないよう、去勢、避妊手術していくことはもちろんだが、まずはまだ貰い手の可能性がある、子猫たちを新たな飼い主の元へ旅立たせることも優先なので、今日、彼らの中からセレクトした子をケージに入れて、国立での人の集まる場へ行ってきた。
結果は、すぐその場で貰われることはなかったが、やはり人が多く通り集まる場では、子猫たちは目を引き、かなりの反響はあった。
チラシも作り、ウチの電話番号は伝えてあるので、もしかしたら後日、連絡があり貰い手も見つかるかもしれない。
今日はまだ何一つ解決も結果も出なかったが、少なくても種は蒔けたと思う。やがて、その蒔いた種から反応が返って来て、一匹でも貰われていくかもしれない。そう期待している。
何であれ、家にじっと籠っていても何一つ新たな展開はないのである。
ならば、ともかく動いてみる、そこからまた新たな動きもあるに違いない。そう信じてがんばるしかない。
すみません体調悪く ― 2022年10月13日 21時51分55秒
★子猫のこともあって、もう限界に
増えすぎてしまった猫のことで、いろいろ人様の手を煩わせ、その人たちとの様々な応対と調整に、正直疲れ果てている。
すべてはこの己が蒔いた種であり、自らの迂闊さと愚かさ、だらしなさの結果がこの状態なのだが、そこに他人様が関係してくると本当に疲れるしいろいろ苦しい。
今思うのは、何一つきちんとまっとうにできない人間がしでかしてしまったこと、世間のまっとうな人たちならば絶対にやらない、バカなことや悲惨な事態を招いてしまったこの現実に対し、自分でも頭がおかしい、どうかしていると思い、呆れ果てもするが、それでも何とかこの状態を収めて、いや、それができるかはともかく、まだこれからも生きていくこと、生きていかねばならないとしたら、そこに、どういう意味と意義があるのだろうか。
自分は他人様や関わるモノ全てをただ単に苦しめ迷惑をかけ不幸にしているだけではないかと深く自問している。
そんなときに頭の中に流れるうたは、亡き砂川正和さんのうた「最後の本音」のサビの部分。
♪俺は決して悪い人間じゃない、ただ考えが甘いだけ~、 だ。
いや、そもそも実は悪い人間なのではないか、だからこんなことをしでかし皆を苦しめ困らせる、とこの頃はよく思う。そしてそれが自分の与えられた役割だとしたら、もうこの辺でいいや、って気になってきている。
人は我を好き勝手に生きていると思われるだろうが、これはこれでけっこうしんどくツライ。どうして自ら拵えた地獄に陥るのだろうか。
バカにはバカの生き方がある、といううたを先年自ら作った。が、その生き方の先が今はまだ見えないし、それを肯定するだけの能天気さ、安逸は今は懐を確かめても出てこない。
ただ天を仰ぎ願うは、神よ、こんな我を哀れみたまえ、救いたまえ、だ。
この先に一瞬でも我に安らぎのときがあるのだろうか。
増えすぎてしまった猫のことで、いろいろ人様の手を煩わせ、その人たちとの様々な応対と調整に、正直疲れ果てている。
すべてはこの己が蒔いた種であり、自らの迂闊さと愚かさ、だらしなさの結果がこの状態なのだが、そこに他人様が関係してくると本当に疲れるしいろいろ苦しい。
今思うのは、何一つきちんとまっとうにできない人間がしでかしてしまったこと、世間のまっとうな人たちならば絶対にやらない、バカなことや悲惨な事態を招いてしまったこの現実に対し、自分でも頭がおかしい、どうかしていると思い、呆れ果てもするが、それでも何とかこの状態を収めて、いや、それができるかはともかく、まだこれからも生きていくこと、生きていかねばならないとしたら、そこに、どういう意味と意義があるのだろうか。
自分は他人様や関わるモノ全てをただ単に苦しめ迷惑をかけ不幸にしているだけではないかと深く自問している。
そんなときに頭の中に流れるうたは、亡き砂川正和さんのうた「最後の本音」のサビの部分。
♪俺は決して悪い人間じゃない、ただ考えが甘いだけ~、 だ。
いや、そもそも実は悪い人間なのではないか、だからこんなことをしでかし皆を苦しめ困らせる、とこの頃はよく思う。そしてそれが自分の与えられた役割だとしたら、もうこの辺でいいや、って気になってきている。
人は我を好き勝手に生きていると思われるだろうが、これはこれでけっこうしんどくツライ。どうして自ら拵えた地獄に陥るのだろうか。
バカにはバカの生き方がある、といううたを先年自ら作った。が、その生き方の先が今はまだ見えないし、それを肯定するだけの能天気さ、安逸は今は懐を確かめても出てこない。
ただ天を仰ぎ願うは、神よ、こんな我を哀れみたまえ、救いたまえ、だ。
この先に一瞬でも我に安らぎのときがあるのだろうか。
父の死から一か月 ― 2022年10月16日 07時26分50秒
★そう、父はもうどこにもいないのだ。
先月の14日に父が逝ってからちょうど一月が過ぎたことになる。
昨日、ようやく我の人生が再び少しだが動き出したという感じがしてきた。むろん、まだ父の遺したものは、着てた衣類をはじめ何もかも何一つかたづいていないが。
この一か月、ともかく慌ただしかった。あたふたしているうちに一月があっという間に過ぎた。
まだ今月末の納骨の法要までやるべきこと、その準備や手配はあれこれあるのだが、ともかくやっと次の段階に進みだしたという気持ちがしてきた。
先のブログ、つい悲嘆的なことを書いてしまい、読まれた方に多々ご心配おかけして申し訳ありません。
消そうかとも思ったが、それもまた心の一面、事実であり、それはそれで留めることにした。
あれから、また新たな啓示というべきか、これからどう生きていくか、心構えというか指針が我に下ってきて、勝手な言い分だが、今はもう何とか大丈夫だということをまずカンタンに記しておきたい。
その啓示についてはまたきちんと書きたいと考えているが、一言で言えば、もう覚悟を決めて、我の残りの人生は、亡き人たちへの鎮魂とまだ生きている人たちへの償いに生きていくということだ。終身刑を受けた受刑者か修道僧のように。
今朝もまた6時前に目覚めてしまい、もう少し寝なおそうかと思ったが、あれこれ考えてもう眠れなかった。
ふと父のことに思いが行き、父の死から一か月が過ぎた・・・そうか、もう父はどこにもいないのだ、もう二度と戻らないのだと思いがいったとたん、どっと涙が出てきた。
父を病院で看取り送った時以来、初めて声だして泣いた。やっと「死」を実感した。
そう、もう父はどこにもいないのだ。もう帰ってこない。これから一人で新たな人生を生きていかねばならないのだ。
先月の14日に父が逝ってからちょうど一月が過ぎたことになる。
昨日、ようやく我の人生が再び少しだが動き出したという感じがしてきた。むろん、まだ父の遺したものは、着てた衣類をはじめ何もかも何一つかたづいていないが。
この一か月、ともかく慌ただしかった。あたふたしているうちに一月があっという間に過ぎた。
まだ今月末の納骨の法要までやるべきこと、その準備や手配はあれこれあるのだが、ともかくやっと次の段階に進みだしたという気持ちがしてきた。
先のブログ、つい悲嘆的なことを書いてしまい、読まれた方に多々ご心配おかけして申し訳ありません。
消そうかとも思ったが、それもまた心の一面、事実であり、それはそれで留めることにした。
あれから、また新たな啓示というべきか、これからどう生きていくか、心構えというか指針が我に下ってきて、勝手な言い分だが、今はもう何とか大丈夫だということをまずカンタンに記しておきたい。
その啓示についてはまたきちんと書きたいと考えているが、一言で言えば、もう覚悟を決めて、我の残りの人生は、亡き人たちへの鎮魂とまだ生きている人たちへの償いに生きていくということだ。終身刑を受けた受刑者か修道僧のように。
今朝もまた6時前に目覚めてしまい、もう少し寝なおそうかと思ったが、あれこれ考えてもう眠れなかった。
ふと父のことに思いが行き、父の死から一か月が過ぎた・・・そうか、もう父はどこにもいないのだ、もう二度と戻らないのだと思いがいったとたん、どっと涙が出てきた。
父を病院で看取り送った時以来、初めて声だして泣いた。やっと「死」を実感した。
そう、もう父はどこにもいないのだ。もう帰ってこない。これから一人で新たな人生を生きていかねばならないのだ。
溜まりに溜まったものを少しでも片づけ、なくしていこう ― 2022年10月20日 21時40分21秒
★少しでも今できることを進めていく、が・・・
またまた更新の間が空いてしまった。申し訳ありません。ともかくあれこれ多々雑事に追われてしまって・・・
秋はたいてい、雲一つない爽やかな秋晴れが今頃は続くはずなのだが、今年はどうしたことか、雨や曇りの日がやたら多く、午前中は晴れても午後からはどんより曇ったり、夜中に雨が降ることが多い。
昨日も、朝から晴れてたが、午後はどんより曇ってしまった。幸い雨は降らなかったが。
しかし、今朝は、朝から晴れて久々の終日長く秋晴れとなり、この快晴は明日も明後日も続くとの予報である。東京の久々の晴れは、9日ぶりとのこと。やれやれ、という気分である。
が、気温がこのところやたら低く、暑がりの我としては寒いほうが動くのは楽なのだけど、今朝方は、明け方いつも通りに起きたが、それは寒くて深く眠れずのことで、トイレに行ってから掛布団を出して、温かくしたらようやくぐっすり眠れた。
ただ、そんなで風邪の引きはじめなのか、コロナでないとしたら今日は一日朝から喉もだが頭や腰が鈍く痛く、何か身体は怠くしんどかった。
月末の父の納骨法要が迫って来て、やることは山積しているのに困った事態である。
父の納骨の儀が、この30日と迫って来て、いま、それに向けていろいろ手配や準備に追われている。
九州から妹も来て、二晩は泊まるので、寝るスペースも作らねばならないだけでなく、主に我の従弟・従姉たちだが、父方の親戚一同がほぼ勢ぞろいするので、応対に不備のないよう、喪主としては万全を尽くさねばならない。
何しろ、父の葬儀自体は、火葬に付しただけで、それに来たのは、母方の甥っ子と我の女友達だけ、我を入れて四人だけであった。父方の親類縁者は一人も来なかった。
今回は、四十九日前に納骨の法要ということであり、菩提寺であるウチのお寺に、従弟・従妹たちが各地から集まる。それでも我の妹も入れて10人程度であろうか。
父の兄弟姉妹で今も生存している人は、もう妹が一人しかいなく、しかも施設に入っているそうで、今回、訃報の連絡ができたのも皆、父方は皆、もうその子たちの世代、つまり我にとって従弟たちであり、たぶん皆で会うのはこれが最後となると思える。
というのも、我らもまたもう六十代、七十代であり、亡き父も含めて親世代が九十代ならば、とうぜんその子供ももう中年どころか初老の世代なのである。この先、葬儀の報が届いても行けるかどうか明日のことは誰もわからないではないか。
残念だが、父方は、何故かその兄弟姉妹たちの関係は浅く、いとこ同士もさほど親しい付き合いはなかったから、この機会がなければ、たぶんこのまま縁も切れて縁戚関係は雲散霧消となっていたと思える。
兄弟一族の長兄である我が父の死が、結果としてずっと疎遠であった我ら従弟たちを再び繋ぐこととなったのは、奇しき計らいというか、有難く善いことだといま思える。山口瞳の小説みたいだ。
父には一人姉がいて、その方はもう何十年も前に早く亡くなっているのだが、そこの長男である方と、今回久しぶりに連絡がついて、もはや70代半ば過ぎだと思うが、法要に来てくれることとなった。
我より10歳以上の歳上だと思うから、うんと幼少時、その家によく遊びに行ってた頃に会った記憶はあるけれど、今回会えれば、実に半世紀以上、の再会である。
ウチにはその頃の古い紙焼き写真が多々まだ残っていて、できれば当日、それをスキャンしたものを皆で観れたらと夢想している。たぶん一族の昔の写真は他の家にはもう残っていないのではないか。
そうした作業もあるし、当日に向けて多々支度や手配もあるのだが、それに加えて今頭痛めてるのは「猫」のことである。
動物愛護団体に関係している方が、ウチの窮状を哀れみ問題視して今早急に子猫たちの貰い手と新たな出産を抑えるべく対策をとるべきだと精力的に働きかけて来ていて、そちらも同時進行的に対応せねばならず、身体は一つのうえ、愚図な我はいま心身追い詰められた気分である。
しかしそれもこれも我のだらしなさと考えのなさ、つまり迂闊さと愚かさが招いたことであり、まさに自業自得なのだから、そうして関わって来てくれただけでも有難いと思わねば罰があたろう。
自分でもこのままで良いとは思っていないが、もう子猫の貰い手は既に出尽くして、子猫は日々どんどん大きくなっていくのだから、一日も早く避妊や去勢の手を打たないと、最終的にウチは、つまり我は多頭飼育崩壊で破綻、破滅していく。経済的にも体力的時間的にも。
何でこんなことになってしまったか、と自問するが、父の介護のこともあり、今春から慌ただしくて、ついつい何もかも放擲してきたことが原因であった。
しかしそれは言い訳にはできない。ともかくこの問題を早く解決して、猫たちは貰い手がないとしてももうこれ以上絶対に増えないようにして、ともかく最後まできちんと世話し面倒見ていくだけのことだ。
そのうえで、父たちのものも含めて、溜まりに溜まってしまったものを、これから少しでも片づけて無くしていくことだ。
これからは我一人だけの人生なのだ。もう父や母はいないのだから、彼らの遺した物は、実際のところ思い出はあっても不要なのである。
金になるものや再利用できるものは何とか有効活用するとして、それ以外のものは、場所も取り我の残りの人生のまさに足枷でしかないのだから、やはり捨てていくしかない。
我が六十代のうちに、そうしたモノに関してはすっきり片づけが終わればと願うが、今のペースでやっていたら前途遼遠に思え溜息が出てくる。
しかし、それは誰にも頼れないし、業者に金出して任せ片づけてもらったとしても、とうぜん何百万もかかるだろう。何も亡くなった部屋ですっきりしたとしても金もすっきり無くなっているわけで、無年金の我はどう生きて行ったらいい?
先のことを考えるとまたウツウツして不安なってしまうから今は考えず、ともかく今月30日の納骨の儀と猫たちのことだけに専念していこう。
今更だが、このブログをお読み頂けている方で、猫の飼い主、里親になってもらえる方はいらっしゃいませんか。
本人でなくても誰かお知り合いに、子猫が欲しいとか飼ってみたいという方がいらしたらお知らせ頂ければ有難い。
子猫も含めて10数匹の猫たちを避妊・去勢するだけでもかなりの出費であるのは仕方ないが、その後も食餌やトイレの掃除だけでものすごく時間がとられてタイヘンなのだから。
一匹でも貰われて減るのならば本当に助かる。また、その方が猫にとって幸福であることは間違いない。
貰い手誰かいませんか?
老いてきて今思うのは、重い荷を背負い日暮れて道遠し、ということだ。しかし、ともかく歩を止めず歩き続けるしかない。
そう、そしてだからこそ、そこに、そこからうたが生まれるのだと。
体調悪くて午後に少しだけ横になって仮眠とった。そしたら夢の中で有馬敲さんが出てきた。彼は詩の集いか何かのシンポジウムなのか、長テーブルに向かい、両隣にも男性いてその真ん中でマイクに向かっていた。
何かの発言の最中なのかわからないが、こちらは見ているだけで声はかけられなかった。声は聞けなかった。
ただ、あの世でも元気に発言し活動しているのだなあとわかって(夢の中でも)安心した。でも目覚めて少しだけ泣いた。そう彼ももうこの世にはいないのだ。
みんないったいどこに行ってしまうのだろう。今どこにいるのだろう。
またまた更新の間が空いてしまった。申し訳ありません。ともかくあれこれ多々雑事に追われてしまって・・・
秋はたいてい、雲一つない爽やかな秋晴れが今頃は続くはずなのだが、今年はどうしたことか、雨や曇りの日がやたら多く、午前中は晴れても午後からはどんより曇ったり、夜中に雨が降ることが多い。
昨日も、朝から晴れてたが、午後はどんより曇ってしまった。幸い雨は降らなかったが。
しかし、今朝は、朝から晴れて久々の終日長く秋晴れとなり、この快晴は明日も明後日も続くとの予報である。東京の久々の晴れは、9日ぶりとのこと。やれやれ、という気分である。
が、気温がこのところやたら低く、暑がりの我としては寒いほうが動くのは楽なのだけど、今朝方は、明け方いつも通りに起きたが、それは寒くて深く眠れずのことで、トイレに行ってから掛布団を出して、温かくしたらようやくぐっすり眠れた。
ただ、そんなで風邪の引きはじめなのか、コロナでないとしたら今日は一日朝から喉もだが頭や腰が鈍く痛く、何か身体は怠くしんどかった。
月末の父の納骨法要が迫って来て、やることは山積しているのに困った事態である。
父の納骨の儀が、この30日と迫って来て、いま、それに向けていろいろ手配や準備に追われている。
九州から妹も来て、二晩は泊まるので、寝るスペースも作らねばならないだけでなく、主に我の従弟・従姉たちだが、父方の親戚一同がほぼ勢ぞろいするので、応対に不備のないよう、喪主としては万全を尽くさねばならない。
何しろ、父の葬儀自体は、火葬に付しただけで、それに来たのは、母方の甥っ子と我の女友達だけ、我を入れて四人だけであった。父方の親類縁者は一人も来なかった。
今回は、四十九日前に納骨の法要ということであり、菩提寺であるウチのお寺に、従弟・従妹たちが各地から集まる。それでも我の妹も入れて10人程度であろうか。
父の兄弟姉妹で今も生存している人は、もう妹が一人しかいなく、しかも施設に入っているそうで、今回、訃報の連絡ができたのも皆、父方は皆、もうその子たちの世代、つまり我にとって従弟たちであり、たぶん皆で会うのはこれが最後となると思える。
というのも、我らもまたもう六十代、七十代であり、亡き父も含めて親世代が九十代ならば、とうぜんその子供ももう中年どころか初老の世代なのである。この先、葬儀の報が届いても行けるかどうか明日のことは誰もわからないではないか。
残念だが、父方は、何故かその兄弟姉妹たちの関係は浅く、いとこ同士もさほど親しい付き合いはなかったから、この機会がなければ、たぶんこのまま縁も切れて縁戚関係は雲散霧消となっていたと思える。
兄弟一族の長兄である我が父の死が、結果としてずっと疎遠であった我ら従弟たちを再び繋ぐこととなったのは、奇しき計らいというか、有難く善いことだといま思える。山口瞳の小説みたいだ。
父には一人姉がいて、その方はもう何十年も前に早く亡くなっているのだが、そこの長男である方と、今回久しぶりに連絡がついて、もはや70代半ば過ぎだと思うが、法要に来てくれることとなった。
我より10歳以上の歳上だと思うから、うんと幼少時、その家によく遊びに行ってた頃に会った記憶はあるけれど、今回会えれば、実に半世紀以上、の再会である。
ウチにはその頃の古い紙焼き写真が多々まだ残っていて、できれば当日、それをスキャンしたものを皆で観れたらと夢想している。たぶん一族の昔の写真は他の家にはもう残っていないのではないか。
そうした作業もあるし、当日に向けて多々支度や手配もあるのだが、それに加えて今頭痛めてるのは「猫」のことである。
動物愛護団体に関係している方が、ウチの窮状を哀れみ問題視して今早急に子猫たちの貰い手と新たな出産を抑えるべく対策をとるべきだと精力的に働きかけて来ていて、そちらも同時進行的に対応せねばならず、身体は一つのうえ、愚図な我はいま心身追い詰められた気分である。
しかしそれもこれも我のだらしなさと考えのなさ、つまり迂闊さと愚かさが招いたことであり、まさに自業自得なのだから、そうして関わって来てくれただけでも有難いと思わねば罰があたろう。
自分でもこのままで良いとは思っていないが、もう子猫の貰い手は既に出尽くして、子猫は日々どんどん大きくなっていくのだから、一日も早く避妊や去勢の手を打たないと、最終的にウチは、つまり我は多頭飼育崩壊で破綻、破滅していく。経済的にも体力的時間的にも。
何でこんなことになってしまったか、と自問するが、父の介護のこともあり、今春から慌ただしくて、ついつい何もかも放擲してきたことが原因であった。
しかしそれは言い訳にはできない。ともかくこの問題を早く解決して、猫たちは貰い手がないとしてももうこれ以上絶対に増えないようにして、ともかく最後まできちんと世話し面倒見ていくだけのことだ。
そのうえで、父たちのものも含めて、溜まりに溜まってしまったものを、これから少しでも片づけて無くしていくことだ。
これからは我一人だけの人生なのだ。もう父や母はいないのだから、彼らの遺した物は、実際のところ思い出はあっても不要なのである。
金になるものや再利用できるものは何とか有効活用するとして、それ以外のものは、場所も取り我の残りの人生のまさに足枷でしかないのだから、やはり捨てていくしかない。
我が六十代のうちに、そうしたモノに関してはすっきり片づけが終わればと願うが、今のペースでやっていたら前途遼遠に思え溜息が出てくる。
しかし、それは誰にも頼れないし、業者に金出して任せ片づけてもらったとしても、とうぜん何百万もかかるだろう。何も亡くなった部屋ですっきりしたとしても金もすっきり無くなっているわけで、無年金の我はどう生きて行ったらいい?
先のことを考えるとまたウツウツして不安なってしまうから今は考えず、ともかく今月30日の納骨の儀と猫たちのことだけに専念していこう。
今更だが、このブログをお読み頂けている方で、猫の飼い主、里親になってもらえる方はいらっしゃいませんか。
本人でなくても誰かお知り合いに、子猫が欲しいとか飼ってみたいという方がいらしたらお知らせ頂ければ有難い。
子猫も含めて10数匹の猫たちを避妊・去勢するだけでもかなりの出費であるのは仕方ないが、その後も食餌やトイレの掃除だけでものすごく時間がとられてタイヘンなのだから。
一匹でも貰われて減るのならば本当に助かる。また、その方が猫にとって幸福であることは間違いない。
貰い手誰かいませんか?
老いてきて今思うのは、重い荷を背負い日暮れて道遠し、ということだ。しかし、ともかく歩を止めず歩き続けるしかない。
そう、そしてだからこそ、そこに、そこからうたが生まれるのだと。
体調悪くて午後に少しだけ横になって仮眠とった。そしたら夢の中で有馬敲さんが出てきた。彼は詩の集いか何かのシンポジウムなのか、長テーブルに向かい、両隣にも男性いてその真ん中でマイクに向かっていた。
何かの発言の最中なのかわからないが、こちらは見ているだけで声はかけられなかった。声は聞けなかった。
ただ、あの世でも元気に発言し活動しているのだなあとわかって(夢の中でも)安心した。でも目覚めて少しだけ泣いた。そう彼ももうこの世にはいないのだ。
みんないったいどこに行ってしまうのだろう。今どこにいるのだろう。
今日は父の誕生日、生きていたら満98歳に。 ― 2022年10月21日 12時23分44秒
★雲一つない秋晴れの朝に
朝、またいつものように5時台に起きてしまい、それからしばらく寝付けず、外は明るくなってきたし起きて散歩でもしようかとも考えたが、風邪気味ということもあって、がんばって布団の中でじっと寝なおしてたら再び眠りにつけた。
8時過ぎまでたっぷり眠れたので、おかげで体調は戻り、風邪は大過なくとりあえず収まった気がする。
今朝は、冷え込んだものの朝から雲一つない快晴となった。犬と散歩して空見上げたら、今朝は雲一つない。まだ空の色は、哀しいほど濃い、深い青ではないが、久しぶりの秋晴れの好日が続くかと期待している。
今日は、10.21。昔なら国際反戦デー、だと記憶するが、我が父の誕生日である。
生きていれば、今日で満98歳になるはずであった。
今も、コロナにさえかからなければ、心身の衰弱は進まず今日を迎えられて、通ってる介護施設で職員たちに寄せ書きの色紙を貰い、盛大に?バースデーを祝ってもらえたはずだ。
毎年その施設から頂く、父の顔写真を貼った色紙に、職員たちが寄せ書きしたものが父の部屋に何枚も飾ってあるのだが、今年のぶんはついに届かなかった。戸棚に並んだそうした毎年の色紙を眺めやるせない哀しみを覚える。
この 1~2年、確かに全身衰弱は進み、体重も落ちて死期は間近に迫ってきた感はあったが、我としては、まず施設も何とか通い続け今年の誕生日も無事に迎えられて、来年の正月こそ、コロナ禍でずっと来れなかった都内に住む彼の孫、我の甥っ子も3年ぶりに招いて新年を祝えると思っていた。いや、想定していたのだ。
正直、その先については何も考えてはなかったが、まずは98歳の誕生日は、今年も迎えられると確信していたし、年内もやり過ごせたら新年、正月、という、我は、父をそこらまで生かせられる「自信」もあった。
しかし、それは、今思えばゴーマンかつ驕りというもので、人の生き死は、人知を超えた先、まさに神の計らいでしかないのだから、生かすも殺すも全ては神の御手に委ねられていたのだ。
そうして、我が父は、98年に約一月足らずまで生きて、満97歳で死んだ。そう、エリザベス女王も、安倍晋三も、アントニオ猪木も、仲本工事も我が師匠・有馬敲も亡くなった年に。
我は、2022年という年は死ぬまで忘れないだろう。そしてここから、この年から我の最期の旅が、新たな道、新たな人生が始まったということも。
余談だが、納骨法要に向けて、我は、Amazonを通して位牌も発注した。仏具専門店などを通して購入すると、安くても3万円ぐらいからが相場らしいが、母の時もだが、我にとっては、いや、我が家にとっては便宜上必要なものでしかないので、戒名もだが、「高価」なものにしないとならない必要、必然性は何もない。
ただ、それでも戒名には、没年月日というのか、亡くなった年と日付けと、享年、あるいは行年という、年齢が、お寺様から頂く戒名と俗名、つまり本名と共に表・裏に記されている。
それは何歳とすべきなのか。我としては、父は98歳目前まで生きたこともあり、満年齢の97歳と記すのは、やや抵抗があった。細かなどうでもいいことでもあるのだけれど、長生きしたということを記しておきたかった。
お寺さんと戒名頂く相談をしたときに、そのこと、「享年」は何歳とすべきか聞いたら、仏教では、享年は、お母様のお腹にいた期間、10か月も加算して考えると教えられ、ならば98歳で良いのだと得心した。
確かに、人は、その誕生日に、母の胎内からこの世に出てくるわけだが、実際は、母のお腹の中で十二分に生きている。※だから胎教などということが大事だともされる。
まさに時満ちてからこの世に生まれてくるのだから、実際の満年齢よりも確かに長く生きているのである。胎児もまた既に人なのである。
我はキリスト教原理主義者ではないが、堕胎の権利を!!と声高に叫ぶキャンペーンや広告や物言いを目にすると、正直なところ「いや~な」気分を感じる。
むろんそこには様々な事情や理由、堕胎せねばならぬ必然性があるのだろうと、理解も推察も想像もできる。
しかし、我はキリスト者でないとしてもやはり中絶には基本的には反対だという立場は崩せないし撤回もしない。
人の命は、人がどのような理由があろうとも奪ってはならない。いや、人だけではない。全ての生き物は、生きているから「生き物」なのだから、殺してはならないのだ。
それでも我は殺された家畜の肉を食べたりしている。だからその「罪深さ」を、申し訳なさ、有難さを忘れてはならないのだと気づく。
しかし、それこそが人のみならず、我々生きている者たちが、生き続けていくための業なのである。そう、他者の犠牲の上に命を繋いでいかねばならぬという。
ならばこそ、せめて不必要な殺生は為してはならぬというテーゼのうえで。そう、動物たちはきちんとそれを守っている。守らないのは人間だけだ。そこに罪がある。我ももちろんのこと。だから罪深い。
※ちょっとまた慌ただしくて、10,21日には途中までで書けなかったので、後から書き足した。お読み頂けたら幸甚です。
朝、またいつものように5時台に起きてしまい、それからしばらく寝付けず、外は明るくなってきたし起きて散歩でもしようかとも考えたが、風邪気味ということもあって、がんばって布団の中でじっと寝なおしてたら再び眠りにつけた。
8時過ぎまでたっぷり眠れたので、おかげで体調は戻り、風邪は大過なくとりあえず収まった気がする。
今朝は、冷え込んだものの朝から雲一つない快晴となった。犬と散歩して空見上げたら、今朝は雲一つない。まだ空の色は、哀しいほど濃い、深い青ではないが、久しぶりの秋晴れの好日が続くかと期待している。
今日は、10.21。昔なら国際反戦デー、だと記憶するが、我が父の誕生日である。
生きていれば、今日で満98歳になるはずであった。
今も、コロナにさえかからなければ、心身の衰弱は進まず今日を迎えられて、通ってる介護施設で職員たちに寄せ書きの色紙を貰い、盛大に?バースデーを祝ってもらえたはずだ。
毎年その施設から頂く、父の顔写真を貼った色紙に、職員たちが寄せ書きしたものが父の部屋に何枚も飾ってあるのだが、今年のぶんはついに届かなかった。戸棚に並んだそうした毎年の色紙を眺めやるせない哀しみを覚える。
この 1~2年、確かに全身衰弱は進み、体重も落ちて死期は間近に迫ってきた感はあったが、我としては、まず施設も何とか通い続け今年の誕生日も無事に迎えられて、来年の正月こそ、コロナ禍でずっと来れなかった都内に住む彼の孫、我の甥っ子も3年ぶりに招いて新年を祝えると思っていた。いや、想定していたのだ。
正直、その先については何も考えてはなかったが、まずは98歳の誕生日は、今年も迎えられると確信していたし、年内もやり過ごせたら新年、正月、という、我は、父をそこらまで生かせられる「自信」もあった。
しかし、それは、今思えばゴーマンかつ驕りというもので、人の生き死は、人知を超えた先、まさに神の計らいでしかないのだから、生かすも殺すも全ては神の御手に委ねられていたのだ。
そうして、我が父は、98年に約一月足らずまで生きて、満97歳で死んだ。そう、エリザベス女王も、安倍晋三も、アントニオ猪木も、仲本工事も我が師匠・有馬敲も亡くなった年に。
我は、2022年という年は死ぬまで忘れないだろう。そしてここから、この年から我の最期の旅が、新たな道、新たな人生が始まったということも。
余談だが、納骨法要に向けて、我は、Amazonを通して位牌も発注した。仏具専門店などを通して購入すると、安くても3万円ぐらいからが相場らしいが、母の時もだが、我にとっては、いや、我が家にとっては便宜上必要なものでしかないので、戒名もだが、「高価」なものにしないとならない必要、必然性は何もない。
ただ、それでも戒名には、没年月日というのか、亡くなった年と日付けと、享年、あるいは行年という、年齢が、お寺様から頂く戒名と俗名、つまり本名と共に表・裏に記されている。
それは何歳とすべきなのか。我としては、父は98歳目前まで生きたこともあり、満年齢の97歳と記すのは、やや抵抗があった。細かなどうでもいいことでもあるのだけれど、長生きしたということを記しておきたかった。
お寺さんと戒名頂く相談をしたときに、そのこと、「享年」は何歳とすべきか聞いたら、仏教では、享年は、お母様のお腹にいた期間、10か月も加算して考えると教えられ、ならば98歳で良いのだと得心した。
確かに、人は、その誕生日に、母の胎内からこの世に出てくるわけだが、実際は、母のお腹の中で十二分に生きている。※だから胎教などということが大事だともされる。
まさに時満ちてからこの世に生まれてくるのだから、実際の満年齢よりも確かに長く生きているのである。胎児もまた既に人なのである。
我はキリスト教原理主義者ではないが、堕胎の権利を!!と声高に叫ぶキャンペーンや広告や物言いを目にすると、正直なところ「いや~な」気分を感じる。
むろんそこには様々な事情や理由、堕胎せねばならぬ必然性があるのだろうと、理解も推察も想像もできる。
しかし、我はキリスト者でないとしてもやはり中絶には基本的には反対だという立場は崩せないし撤回もしない。
人の命は、人がどのような理由があろうとも奪ってはならない。いや、人だけではない。全ての生き物は、生きているから「生き物」なのだから、殺してはならないのだ。
それでも我は殺された家畜の肉を食べたりしている。だからその「罪深さ」を、申し訳なさ、有難さを忘れてはならないのだと気づく。
しかし、それこそが人のみならず、我々生きている者たちが、生き続けていくための業なのである。そう、他者の犠牲の上に命を繋いでいかねばならぬという。
ならばこそ、せめて不必要な殺生は為してはならぬというテーゼのうえで。そう、動物たちはきちんとそれを守っている。守らないのは人間だけだ。そこに罪がある。我ももちろんのこと。だから罪深い。
※ちょっとまた慌ただしくて、10,21日には途中までで書けなかったので、後から書き足した。お読み頂けたら幸甚です。
猫の捕獲に追われてました ― 2022年10月25日 20時27分47秒
人生を崩壊、破滅させないためにも ― 2022年10月27日 20時07分29秒
★猫問題、何とか解決せねば
本当に頭痛めている。多事多難の我が人生だが、ようやく父も亡くなり、今月30日、町田の菩提寺での納骨法要を終えれば、我の抱えているものはなくなり自分の人生だけに向き合えると思えるはずであった、が、もう一つ喫緊の難問、難題がある。
それは増えすぎてしまったウチの猫たちの問題で、いま、大人猫も子猫も含めて20匹~という信じがたい状況になってしまい、ともかく貰い手を探す以前に、もうこれ以上増えないように手を打つことに追われている。
本当にこんなこと記すも恥ずかしいが、事実、現実なので仕方ない。何でこんな事態に陥ったかも含めて我が悩み、心配事をきいてほしい。
近年マスメディアでよく耳目する言葉に「多頭飼育崩壊」というのがある。文字通り、犬にせよ猫にせよ、多頭、つまりたくさん飼いすぎて、飼育するのが崩壊、つまり難しくなってしまったことを指す。
たくさん飼う、と言っても、次々とペットショップで買い求めるのではまずない。そこで飼っていた犬猫が、避妊なり去勢なりの手術を飼い主が怠れば、ごく自然に彼らは交配して、次々と子供が生まれてしまう。
そして増えすぎた結果、経済的にも環境的にも飼育が困難な状況となってしまうのが、多頭飼育崩壊なのである。
ウチも今はまだ世話や管理は何とか我一人でやれてはいるが、子猫の貰い手もないままどんどん日ごとに大きくなってきて、このままだとまたさらに仲間内で交配して新たな子猫が生まれる可能性も高く今本当に心配して焦り慌てている。このままだと本当に「崩壊」してしまう。そう、我が人生が、猫たちによって。
では何でこんな悲惨な状況に陥ったか、だ。
※と、続きは後ほど。
本当に頭痛めている。多事多難の我が人生だが、ようやく父も亡くなり、今月30日、町田の菩提寺での納骨法要を終えれば、我の抱えているものはなくなり自分の人生だけに向き合えると思えるはずであった、が、もう一つ喫緊の難問、難題がある。
それは増えすぎてしまったウチの猫たちの問題で、いま、大人猫も子猫も含めて20匹~という信じがたい状況になってしまい、ともかく貰い手を探す以前に、もうこれ以上増えないように手を打つことに追われている。
本当にこんなこと記すも恥ずかしいが、事実、現実なので仕方ない。何でこんな事態に陥ったかも含めて我が悩み、心配事をきいてほしい。
近年マスメディアでよく耳目する言葉に「多頭飼育崩壊」というのがある。文字通り、犬にせよ猫にせよ、多頭、つまりたくさん飼いすぎて、飼育するのが崩壊、つまり難しくなってしまったことを指す。
たくさん飼う、と言っても、次々とペットショップで買い求めるのではまずない。そこで飼っていた犬猫が、避妊なり去勢なりの手術を飼い主が怠れば、ごく自然に彼らは交配して、次々と子供が生まれてしまう。
そして増えすぎた結果、経済的にも環境的にも飼育が困難な状況となってしまうのが、多頭飼育崩壊なのである。
ウチも今はまだ世話や管理は何とか我一人でやれてはいるが、子猫の貰い手もないままどんどん日ごとに大きくなってきて、このままだとまたさらに仲間内で交配して新たな子猫が生まれる可能性も高く今本当に心配して焦り慌てている。このままだと本当に「崩壊」してしまう。そう、我が人生が、猫たちによって。
では何でこんな悲惨な状況に陥ったか、だ。
※と、続きは後ほど。
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