神は、未だ我を見捨てじ、と思いたいが・・・2022年11月11日 09時39分54秒

★人生はいよいよ行き詰ってきて

 父の死後、ようやくだが、我の人生の再構築に迫られている。
 情けない話、父の年金収入は断たれたので、今後は、我一人で稼いで、生活のみならず何とかこの家を維持していかねばならない。
 そのときに、いちばんの足枷というか、問題は増えすぎた猫問題である。
 友人たちの協力もあって、地道に貰い手探す活動を続けて、先日は子猫二匹は減ったのだが、まだまだ数は多く、しかもその子猫たちも日増しに成長して、今や子猫と呼べる大きさではなくなってきている。
 ヒトの集まるイベントなどで、貰い手を呼びかけようと考えていたのだが、どうやら昨今、そうした行為自体が、問題視されてきているようで、今再考を迫られている。

 さて、どうしたものか。外は今日も晴れて爽やかな晩秋の朝であるが、気分は憂鬱気味である。
 今は、ともかくさらにこれから増えぬよう、順次去勢と避妊手術を近隣の動物病院で進めているのだが、増えなくなったとしても問題は頭数である。
 餌代や猫砂代など、このところの物価高で、一気に値上がりもしたし、それ以前に、彼らの世話にかかる時間である。
 いま、屋内数か所の部屋に別けて、猫たちは生活しているのだが、それぞれ日に最低でも二回は、餌を拵えて与えねばならない。もちろんトイレの掃除や交換も。
 それだけで毎日数時間は総計取られている気がする。
 つまり我は一人で、動物園の飼育員をやっているようなもので、そうしたお仕事の方は、それで収入が入るから、仕事として成り立つわけだが、我は金は減るばかりで、稼ぐ時間も奪われて本当に困るしかない。
 動物愛護団体との方とも関わったのだが、貰い手探す以前に、相手方がこちらに求める諸条件が厳しく、対応困難に思えてそちらも今距離置いて思案中である。

 すべては、我の愚かさと迂闊さ、つまるところ人間的欠陥、だらしなさが起こしたわけであり、その責を負わねばならぬことは強く認識している。
 無責任であったから、こうした事態を生じさせたわけであり、これからもこのまま無責任であっては絶対にならないのである。
 結果として貰い手がなく成人化した猫たちもこの家で、我が責任もって飼育していかねばならないのである。それも許容しよう。どんな生き物の命もとてつもなく大切なのだから。

 ただ、いちばんの問題は、そうした猫沢山の様々な制約がある、この状況下で、何とか自らもどうやって金を稼いでいくか、ということだ。
 外に出て、パートやアルバイト的にも仕事することは動物の世話を思うとき、難しい。結果として、自営業、つまり我の家業である稼業、ネット古本屋に精出すしかない。
 あるいは猫カフェ経営か。猫と古本のカフェ「無頼庵」として再出発することも考えているけど、問題は猫たちにとって、本は、かっこうの爪とぎなのである。
 猫たちの生活部屋で、そこに積み上げていた本がどれだけ倒され崩され、最終的には爪研ぎにされて、いったいどれだけの数の、金になる本が失われたことだろうか。まあ、それが 猫という動物の習性なのだから仕方ない。

 まあ、先のことはともかく、我にできることは、もう人間には誰も何も頼れないとしたら、ただひたすら神に祈り神と語らい、心静めて目を開き耳を澄ませて、姿はともかく、その呼びかけと我に示されたものを待ち望み、従うだけだ。
 いま一番の苦難のときかもしれないが、神はどんなときでも我を見捨てじ、と思い信じたい。
 神よ、我らに哀れみを!!

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