うたがあってよかった2023年12月03日 23時15分40秒

★どん底の人生だが、うたに思いを託して生きていく

 うんと昔、音楽雑誌で、確か上田正樹だったと思うが、どんな辛い時も自分にはうたがあって良かった、救われた、と語っていたのを読んで、そのときは、ふーん、そうしたものなのかと、正直ピンとこなかった。
 が、今は、まさにその気持ちがよくわかる。

 12月の、拙企画のコンサートに向けて、自らも数曲だけ今いちばん唄いたいうたをセレクトして練習し始めているのだが、巧拙とか以前に、唄いながら泣いてしまい困っている。
 この歳になると泣くことなど、泣きたくてもなかなかできないし、思う存分泣けたら、どんなに楽かと思うほど、心は乾いてしまったのに、何故かギターを弾きながら練習していると、思い極まり泣いてしまい歌は詰まってしまう。
 こんなこと、こんな時が来るとは思わなかった。
 そしてようやくかつて雑誌で読んだシンガーの語っていたことが実感として思い出された。そう、音楽、うたがあって良かった、と。

 正直、もうどん底もどん底、家の内外ゴミ屋敷と化して、体調、心身共すぐれず全てが行き詰ってしまったこの人生だけど、自らの音楽が、それも聞くだけでなく、表現する側としての音楽、つまり弾き語りの「うた」が我にあって本当に良かった。
 才能も人からの評価も何もないけれど、今唄いたいうたがあり、それを自ら唄えるということはとてつもなく有難く素晴らしい事だとようやく思い至った。
 感極まる、という言葉の通り、今、下手くそながらも唄いながら感極まっている。むろんそれが聴き手に伝わるかはまた別次元の話であるけれども。
 ともかくいま、こんな我にも音楽があって良かった、と本当に心から思えている。

 肝心なことは、来週の土曜、12月9日に、その思いがどれだけ外へ、聴き手に示せれるかだろう。
 が、そんな評価や結果以前に、ほんとうに音楽、うたがこんな我にもあって良かった、救われた。せめてその思いだけは伝えたいしここにまずそのことを書き記しておく。
 歌に限らず、芸術とはそのためにあったのだ、と。全てがようやくわかった。誰のためでもなく。