新しい年 誓い新たに2024年01月01日 11時34分08秒

★2024年は、人生の棚卸し、仕切り直しの年に

 新しい年を迎えた。外は陽射しもあり明るいが、北風が強く吹き荒れて、肌寒い。空は雲一つない青空だ。
 改めて破綻寸前の人生だが、何とかハメツせず死なずにまた今年も新たな年を迎えられた。神に感謝 である。
 そして今誓うのは、完全に行き詰ってしまった我が人生を、何とかまた自らのものに取り戻していく、ということだ。
 断捨離とかそういう大層なこと以前に、溜まりに溜まってしまった親たちが生きていた頃からのモノの「負債」を、今年は少しづつでも片づけ無くしていこうと決意した。

 去年は増えすぎた猫の世話と、父亡きあとの諸々の支払いなど手続き更新、我への変更に追われて、ともかく慌ただしく時間がなかった。
 日々疲れ果てて酔っぱらって倒れ込むように寝てしまう日が続いた。何一つ片付けなどできないまま、家のゴミ屋敷状態は悪化するばかりだった。
 いま、新たな年を迎えて、昨日でそうしたやらねばならない面倒な対外的「ケンアンのこと」は、もうほぼ成し終えた。
 恥ずかしく情けない話だが、ようやくこれで今年から本当に自分の人生、一人だけで生きていく人生が始まる気がしている。

 商売、特に物販などしている方はご存じだろうが、販売業では、ある一定の時期ごとに、抱えている「在庫」をすべて点検し、売れずに倉庫などで場所とってしまったモノなど不良在庫は、処分していく「棚下ろし」の時が必要だ。
 生活もまた同じで、我が家は、そうした適宜日常的、定期的にそうした棚下ろし的片づけ作業をまったくしてこなかった。
 何でもかんでも溜まると、捨てるのはモッタイナイとどこかにしまい込み、ただひたすら物は増え続けていくばかりであった。
 我もそうした血筋の子であったから、基本的にモノは捨てられぬ性分で、若い時からのモノがどこかに溜まりに溜まったままだ。自らは捨ててないのだから、どこかに仕舞ったまま必ずあるはずなのだが、いったい何がどこにあるのか自分でも全くわからない。
 そうしたことが可能だったのは、この大きな家があったからで、部屋数は多くても今やほとんどの部屋が物で詰め込まれ物置と化してしまい、実際は狭い部屋の中でモノに囲まれ不便不自由な生活を強いられているのが現状だ。

 まさに本末転倒というべきか、今考えると頭がオカシイとしか思えない。
 我はけっしてモノに溢れいっぱいの汚部屋やゴミ屋敷を望み、モノを溜め込むのが好きなわけではない。何もない広い部屋こそが理想であり、この家を、2011年に改築したときは、部屋はすべて何もなかったのだ。広い空間ができて本当に気持ちが良かった。
 それが10数年過ぎて、その間に母が、そして父が死に、忙しさにかまけて根本的な「棚下ろし」を一度もしないまま、今のこの壊滅的状態に自ら陥ったのだ。
 そうした歳月かけて溜まってしまったものはとても一年そこらで点検・処分などできるはずもないが、ともかく少しでも少しづつでもそうした作業をやっていくしかない。
 今は幸い体の不調不具合は一段落して、腕も足も動けるのだから、今やるしかない。そう、今年こそ。
 ここで仕切り直さないと、このままにしていたらやがて起こるのは失火による火災や事故、そして不測の死である。
 こんなことをここに記すと、それを読んでまた我を忌避しせせら嗤う、隣近所の奴ら他の顔が思い浮かぶが、どんな嫌がらせや批判、弾劾を受けようと、屈せずに自分の人生を少しづつでも取り戻していく。これは俺の人生なのだ。

 思い返せば、以前、数年前までは、モノは増えてはいたが、何とか場所をつくって大広間で毎年末恒例の、拙宅でのクリスマス謝恩ライブパーティーを開催できていたのだ。
 何とか今年、2024年は、それに向けて、拙宅でささやかでもまたホームパーティーが開けるよう、再び友人たちを招くことができるように片づけ頑張るしかない。
 やるべきことは山積みの前途多難の年だが、高い峰を仰いでその苦難を思い溜息ついてても仕方ない。ともかくその峰に向かって一歩一歩進んでいくことだ。
 愚かで不器用な我の人生のコツは、それしかない。がんばるぞ。

いったい何が起きてるのか、これから何が起こるのか2024年01月02日 21時17分14秒

★パソコン不調なので、しばらくお休みします。

 今年は、元旦から北陸で大きな地震が起きて、不安な新年、年明けとなった。
 個人的にも、今年は、自然災害など多発する、不穏な年になる予感がしていたのだが、今日2日の夕刻、日本航空機と海保庁の飛行機が衝突する事故が起き、激しく延焼している事故の様子を見せられた。
 自然災害だけではなく、こうした人的事故もまた起こるのかと心騒ぐ。
 そして今年は、拙ブログ、できるだけ日々書けるときは書き継いでいこうと決意したのだが、またパソコンの調子が悪くなって、もはや修理に出さなくてはならなくなった。

 実は、先のコンサートの直前に、突然パソコンのモニター画面が真っ白に、霧がかかったようになり、ただ困惑した。
 幸いそのときは、メーカーである富士通のサポートと連絡がつき、オペレーターの女性の指示であれこれキーボードをいじってたら、幸いにして白い画面は解消し、使えるようになった。
 ただ、モニター画面の真ん中に盾に線が入るようになってしまい、モニターの異常、不具合が起きてるとして、いちどメーカーに戻して修理点検しろと言われた。
 しかし、コンサートの直前であり、歌集などつくらねばならず、そのときは、機能的には何も問題なかったので、モニター画面に縦線は残りつつも今日まで使用続けてきた。
 が、いま、ブログ書こうと、起動させたらまた画面が白くなったり、激しくチカチカ点滅したりと、異常な事態がまた起きた。
 縦線もかなり太く何本も見える。このまま、使用することはもう限界だと思うので、正月休みがあけたらば、メーカーに電話してともかく修理にだすしかないと決意した。
 今もやたら揺れ動く、不安定な画面の中でこれを記している。

 今年はいったいどうなってしまうのか。皆さまご自愛ください。
 そして大変な時こそ、落ち着いて、譲り合い、助け合い、すべてを分かち合って生きて行きましょう。

 私への連絡は、ケイタイのほうに、ショートメールでお願いします。090-8175-8479

パソコン、修理から戻りました。2024年01月21日 11時44分32秒

★ブログ再開します。

 詳しい経緯は、後ほどまた記しますが、正月あけからメーカーに修理に出していた、このデスクトップ型パソコンは、昨日夕刻に戻って、いま、起動させて状態は問題ないことを確認いたしました。
 ご心配おかけしました。

これまでのこと、これからへの思い①2024年01月23日 10時54分57秒

★ようやく元の「どん底」に戻った。

 机上のモニター画面部(ハードディスクなどの本体一体型)とキーボードが分離している我の富士通のパソコンは修理終えて一昨日戻ってきた。今、それでこのブログを書いている。

 前回の東芝のパソコンのように、ハードディスクも何もかもがクラッシュしてしまい、メーカー工場に持ち込んだものの修理のしようがなく、ただそのまま返されたのとは違い、今回は、本体内部は無事で、モニター画面部だけを交換した。元通り使えるようになって本当に良かった。助かった。やれやれである。
 が、予想より法外と思える代金が発生して、迷い泣いた。

 その額や内訳については後ほど記すが、まずは、去年2023年について書き残しておきたい。
 ごくごく私的なことなので、我に関心ない方は、読む必要がないし、よけいなご意見や気遣い、あるいは嫌がらせはしないでもらいたいと願う。

 誰にでも人生には苦難の年はあるとは思うが、我にとって、昨年こそがこれまで生きてきて生涯最大の苦難・困難の年であった。
 何度も今が最低最悪、ここがどん底だと思うとまたさらにそこに新たなトラブルや問題ごとが発生し、全てに行き詰り何一つできなかった。ただただ状況は悪化するのみだった。
 それでも何とか年が明けて、新たな年2024年となって、元旦のブログにも書いたが、本当に今年こそは、と期するところもあった。
 が、元旦の夜からまたパソコンの画面が白くなったり昔のテレビが壊れたときみたいにチカチカ点滅を繰り返しはじめ、とても使用は不可能でもはやこれは修理に出すしかないと決意した。
 2日付けのブログは、そのよく見えない画面に顔を近づけてかなり苦労して読み手の方への連絡だけは何とか書き上げることが出来た次第。

 で、正月休み明けにメーカーの修理担当部に電話して、日曜に日通の集荷が来て福島だかどこかの整備工場に運び込まれた。
 当初のはなしでは、まだメーカーの保証期間内だから、特にこちらが何か不具合を起こすようなことなどしないで起きた自然故障ならば無償で修理できるとのことだった。
 もちろん、ぶつけたり倒したり、水が被ったりなど人為的な故障原因となることはこちらには心当たりはなかったから、運搬費も含めてタダで直るだろうと思ってたしそう期待してた。

 ただ一つ心配だったのは、モニター画面の不具合だけでなくハードディスクなどからの異常・故障が原因で、それの修理交換だと、今そのパソコンに入ってるデータやアプリなどはたいてい全てリカバリ、つまり消去されてしまうだろうから、何よりもそれを危惧した。
 もちろん録り溜めた画像や映像などは、外付けのハードディスクにほぼ移してはあったが、コンサートのフライヤーなど我が書いたり作成したものなどは全部ではないし、何よりまた設定から一切全部を新たにやり直すのは途方もない大変かつ面倒な事だと思えた。

 で、二週間近くたち、このまま問題なくそのパソコンは無償で修理終えて戻ってくるかと期待してたら、先週あけに修理部署から電話があり、モニター内部に水濡れが確認されたのでその画面パネルなどを交換、修理するのに経費は9万7196円だと告げられた。
 絶句して返答に迷い悩んだ。その金額ならば、安いノートパソコンなら2台買えるのではないか。
 しかし、確認したらパソコンの本体内部は異常はなく、モニター部だけ交換すれば問題なくこれまで通り使えるはずと確約されたので、修理交換を依頼した。
 思わぬ出来事が起きたときなど、~で泣いた‼!とか、人はよくそう口にしたり書いたりもするが、その電話を切った後、ほんとうに涙が出てきた。
 告白すれば、実はこのところ唯一の生業である、Amazonマーケットプレイスでの古本販売のほうも故あって昨年11月から休止していて、我はいま全くの無収入なのである。
 それでも日々食費も含めて、金はイヤでも出ていくのだから、ひたすら残り少ない貯金を取り崩して何とかしのいでいた。
 そこにまた新たに10万近くのパソコン修理代が発生したのだ。

 しかし、それもこれもまだ生きて行くため、我が生き続けるための「保険」というか、必要経費だと考えなおして、気持ちを切り替えた。泣いても悩んでも仕方ない。

 今、そのパソコンでブログを再開して、ようやくまた元の「どん底」状態に戻った気がしている。そう、状況は何一つ改善も進展もしていないが、やっとパソコンだけはまた元通り使えるようになったのだ。

これまでのこと、これからへの思い②2024年01月25日 09時08分24秒

★まだここで、このまま死ぬに死ねないからには

 《前回の続き》 母の癌が再発し、手術、入退院を繰り返したあげく、余命宣告を受けて、まさに為すすべなく痩せ衰え衰弱して我が家で看取った年も人生最大の試練、苦難の年だと思ったし、一昨年の父をコロナ関連死で喪った年も見舞いもかなわずにかなり辛かったが、それ以上に昨年こそ苦難・苦境の年であった。
 しかし、この元旦の能登半島地震で、家屋だけでなく家族も全財産を失い、今も住む家も仕事もないまま避難先で暮らす人のことを思えば、我の苦しみなどまさにとるに足らない、笑い話のようなものであろう。
 命だけは助かったものの、これまでの人生全てを失い、これから先の希望も何も見えないのである。しかもこの寒さと雪の中、それでも日々生きて行く人の数はいったいどれほどにのぼるのか。
 彼らの為に何ができるか、何をすべきか我も考えねばならない。

 我には住む家もあり、電気や水道も止められそうになってるが、親たちの遺したいくらかの貯金もまだいくらかあり、当面、まだ少しは何とかなろう。
 が、去年がそうだったように、このまままたさらに何もできないまま、ゴミ屋敷化状態と、生活の放擲が進めば、病に倒れずとも人生はさらに破滅して、間違いなく緩慢に死を迎える。そう、今でも生活は限界なのである。
 全てがとっちらかったゴミ屋敷から失火したり、隣近所との諍いなどで、キレて刃傷沙汰を起こしたり、最後はゴミの中で、野垂れ死にしてしまうだろう。
 自分でもいったいどうしてしまったのか、どうしてこんな事態になったのか、不思議に思う。頭がオカシイのは自分でも認識していたが、それにしても・・・である。

 元より我は対人障害というか、人格的に多々問題があり、それは所謂、脳の発達障害によるものだとやっと近年判明したが、挨拶や他者の気持ちの忖度、連絡対応など社会的に当たり前のことがフツーにできないだけでなく、まず自らのこと、モノの片づけなど、整理整頓的なことが何もできないのである。
 それでも生きてこれたのは、親たちの庇護の元、特に母が様々な社会的手続きや掃除など生活全般をやってくれていたからで、本来、人は成人したら一人で仕事だけでなく生活も何もかもやっていかねばならなかったのだ。我は対社会的な事は何一つ自分ではきちんとできない無能者であった。
 それでも母を亡くした後も、父がまだ生きていたから、訪問看護の意思や看護師、それに介護施設の人たちが常時来ていたので、まだ社会との繋がりがあった。
 定期的に人が来るので嫌でも父のベッドのある部屋や玄関、庭先だけは掃除しないとならなかった。そこにリズムや習慣があった。毎月・毎週のスケジュールが決まっていた。
 それが父がいなくなってしまうと突然すべては消えてしまい、我はまったくの一人になった。もう父関連の人は誰も来ないし、会いに来る友もいない。
 そしたら全てが崩れた。生活を放擲、ネグレクトしようとか、そうした意志以前に、我は自己愛の非常に低い人間なので、自分の為に何かしようという気がまったくないが故、食事も作らないし、掃除もしなくなった。
 一人になって鬱になったのかとも思うが、一人身になって何も外からの要件がなくなると、我は自ら為には何一つしない人間だと気がついた。料理をつくるのが苦手とか嫌いなのではない。人が来たり、人に食べて貰うためなら、いくらでも腕はふるうし、作れる自信もある。
 が、それを食べるのが自分だけならば、何一つ作る気がわかないのだ。
 我は、趣味のことはともかくも、生活全般全てにおいて、自ら為には何一つやらない、したくない人間だったのだ。つまり炊事や掃除、洗濯など、まずどうしてもやらなくてはならなくなるまでは溜めてそのままにしてしまうのだ。
 特に食事に関しては、ご飯さえまず炊かないから、スーパーなどで閉店近くの半額になった弁当やパックの総菜を買って、それをつまんでアルコール呑んで酔っ払って寝てしまう。
 朝は食べないし、昼間は、スナック菓子や菓子パンなど齧る程度で、気がつけば夜まで何も食べていないこともままある。
 では、一人身になって家にいるのなら時間が自由にいっぱいあると思われるだろうが、実のところともかく毎日慌ただしく忙しい。
 それは増えすぎた猫たちの世話に追われて朝晩彼らのために何時間も奪われてしまうからだ。
 毎朝、近くのスーパーにマグロのアラとか猫たちの餌を買いに出て、猫部屋ごとにトイレを掃除したり、ご飯つくって与えて、ホームセンターに重たい猫砂を何袋も買いに行ったりもする。この物価高で、そのための金も倍増した。
 自分のこと、家の掃除や片づけは後回しにしてもともかくまず猫の世話をしないとならない。でないと彼らは、家の中で暴れて、トイレ以外の場所で用を足したり、腹空かせてパンの袋など食べ物を求めて齧ったり悪さを繰り返す。
 ともかく生き物だから、自分のこと以前に、ほったらかしや後回しにできない。けっきょく、自らの失態により増えすぎた猫たちに、我は人生の大部分を奪われてしまったのだ。
 が、ともかく猫たちの世話は、何があろうと最優先でやらねばならない。
 我が父が通所介護施設でのコロナ禍で入院、その後、衰弱が進んで老衰死するまでの間、そちらに気をとられていたことと、死後の様々な継承手続きに追われて、猫たちのことはつい失念し放擲してしまっていた。
 その間に猫たちは、まだ去勢や避妊しなかった子猫が成長し、かかって増えてしまったのだ。まさに我のウカツさによる失態であり、責任もって彼らの面倒をみないとならない。
 そしてまたうっかり当ブログ等でその猫たちのことをあれこれ報告したりすると、それを読んで我を常に監視している動物愛護の方々から、動物虐待、多頭飼い飼育崩壊だと、またまた糾弾され、彼らの介入で我の人生はそれこそ崩壊してしまうだろう。

 そう、どんなに大変でも金も時間もかかろうと猫たちのことは我が身を削っても最優先でしっかり面倒見ている。どうかほっといてもらいたい。
 しかし、我は猫たちを飼育する為にこの世に生を受けたわけではない。本当にもっとやるべきことが必ずあるはずだ。
 このまま、こんな何もできない地獄のような状況下で死ぬわけにはいかない。

これまでのこと、これからへの思い③2024年01月26日 12時11分10秒

★ほんとうのバカになってしまったが

 《前回の続き》しかし、いくら猫の世話に時間とられ忙しいとしたとしても、我は今は、常時家にずっといるのだ。
 仕事に通うわけでもないし、昔のようにライブ鑑賞であちこち出向くことももう今はしない。家で、古本稼業にたまの注文が入れば、梱包・発送作業がある程度で、基本時間はいくらでもあるし、すべて自分の自由に使える。
 だが、片づけは遅々として進まない。むろん片づけは少しづつでも進めている。本を読んだり音楽を聴いたり、ギター弾いたり、自分の趣味の時間などまったくなくして、ともかく家の内外の掃除、片づけをコマ鼠のようにうろちょろやっている。
 が、かたづけは進まないどころか、ゴミ屋敷化は日々増していくように思える。
 ウチに来られた方はご存じだろうが、我家はともかくモノがたくさん元々あって、父母健在の頃から、何でもモッタイナイと捨てない性分の家系だったから、広い家があってもモノでスペースは埋め尽くされていた。
 またそこに我は、古本稼業ゆえに、常時多量の本や雑誌が入ってくる。それをきちんと分別して、右から左に捌いて、売れ残りの本は棚下ろしし、処分していけば増えてもたまることはないはずだが、そのための時間がない。
 たまった本は場所もないので、ともかくあちこち平積みにして積み上げてあるのだが、それを猫たちが崩し、雪崩のように二階から階下へ階段から落ちてきたりもする。むろん階段すら本が積み上げてある。
 昔の四文字熟語に『汗牛充棟』という言葉がある。語源は、いまちょっと思い出せないが、書物がものすごくいっぱいあるときの喩えの表現で、その本の束を荷車で運ぶのに、引く牛が汗をかくほどの多さで、積み上げると棟木、つまり天井まで届くほどいっぱいの量の書物の山なのである。いま、まさにウチはそうなってしまった。牛はいないけど。

 我は、ネットで古本を売る稼業を始めて、気がつけば早や20年は経ったかと思う。
 その間、数千冊の本を売ったとは思うが、もちろん売れ残りの在庫や未だ出品できない本もその何倍もある。
 先にも書いたが、どこかできちんと今在る本の全てを棚卸して、一冊づつ値を検索して、まず間違いなく売れない本、売れるとしても値がつかない本は即処分するしかなかった。
 が、母の病や父の介護などもあって、ともかく慌ただしいまま時が過ぎて、まさに本は溜まるに溜まって、汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)状態となってしまったのである。
 いや、それよりもギリシャ神話の中の、ヘラクレスの牛小屋の掃除のほうが的確かもしれない。いくら掃除したとしてもキリがないのだ。
 そうして積み上げた本の山を何度でも猫たちが乗っては崩すのである。高く売れそうな価値ある大正期の本などもそうして崩され落ちてバラバラになったことか。
 また我自身も崩れた本の上を仕方なく踏みながら歩くしかないこともままあるのだ。古本屋としてあるまじきだが、まさに足の踏み場がない。
 ともかく歩く場所からつくらないと、と、一冊づつ検索する前にともかく積み上げる。すると少しすると猫が崩して、本は落ちて散乱し、また我は積み上げる。また猫がそれを崩して落とす。
 賽の河原の石積みは、苦労して積み上げた石を鬼が崩すのだが、ウチは小鬼のようなバカ猫たちが積み上げては来て崩すのである。
 
 しかし、それは現実の現象に過ぎない。問題はもっと深刻で、我自身の体調も去年はおかしくなってしまった。
 何よりも問題は、頭がバカになってしまい記憶が続かず、何もかもわからなく出来なくなってしまったのだ。

これまでのこと、これからへの思い④2024年01月30日 11時31分15秒

★自分はいったい、どこまでバカなのか!!!

 《前回の続き》我は、子供の頃からともかく何でもすぐに忘れ物や失くしものが多く、落とした(と思われる)物を探しに、何度警察署や鉄道の遺失物係に出向いたり電話したかわからない。
 最近は、極力、持ち歩く荷物類は一つのバックの中に必ず全部収めて常にその数を確認するようにしているから、昔のような大騒動は起こさなくなってきたが、それでも財布が、ケイタイが見つからないことなど日常茶飯事である。
 ただ、今でもモノがすぐになくなるのは変わりなく、外に持ち歩かないとしても、今、そこで使ってたものが、目を離すとすぐになくなり見つからなくなるのだ。

 かつてのこと、ウチに来て、掃除を手伝ってくれた友人が、ペンでもハサミでもこの家に膨大にある!!とその数の多さに呆れつつ驚いていたが、それは使おうとするとみつからないが故、常にまた買い足しているからで、それでも今もすぐに出てこないことがままある。けっきょくまた買いに行く。あるいはAmazonでポチる。本当に消滅してしまうわけではないからモノはさらにまた増え続ける。
 ともかく今そこに在ったものが、使おうとするとなくなってしまい探しても見つからないのである。
※信じられないだろうが、ガソリンスタンドで、自ら給油したあと、クルマの給油口の蓋がみつからなくなったことすらある。
 今もまだ、大事な手帳とか通帳とか、家の中で紛失して見つからないものが多々ある。

 むろんバカ猫がいじって落としたりしてどこかに失くすことも多々ある。が、それ以上に、モノを失くす、みつからなくなるのは昔からなのである。ただ、以前は同居する親たちがいたから、探し物は、じぶんの私物だけに限られていた。
 今では、我は一人身になっため、そうした状態がこの家全体、家計にまで及んでいる。掃除が進まない、片づかないのもそこに大いに関係もしている。

 アタマがおかしいのかと自分でも思う。発狂したかとも考えた。人間だからずいぶん悩みもした。が、今では、ようやくわかってきた。
 これは、もって生まれた「発達障害」特有の症状、いや、性格というか気質であり、近年のメディアでの報道などで知られるようになり大人になってようやく判明したのだ。これは治りはしないビョーキなのだ。
 しかし、原因、いや、その要因、理由がわかれば、多少の対応策も立てられる。
 探し物、失くしもの人生だとしてもともかくまだ生きて行かねばならぬ。もうこれ以上、何も失いたくはないが・・・

これまでのこと、これからへの思い⑤2024年01月31日 13時24分38秒

★何があろうと起ころうと、ともかく生き続けていく

 この大変な世相、状況の最中に自分のことばかり書いていて申し訳なく思う。が、このビョーキの性質上、一つ一つきちんと書き終えていかないことには次に進めないのでご理解頂きたい。
《前回の続き》
 自分でも不思議に思うのだが、超だらしない人間のくせに我は様々な事に奇妙なこだわりがあって、それも大いに関係して片づけ、掃除が進まないのだと気がついた。

 ゴミなどもウチの市では、再生する紙類、可燃物、新聞類、プラ類、缶リサイクル類などとやたらこまかく分別が求められ、それぞれ専用の回収袋に入れて、それぞれ別の回収日に出さねばならないのだが、我はそれに非常に細かくこだわってしまう。
 プラスチックなど小さいものは、可燃ごみ袋に入れて出しても実のところ問題はないのだが、それができない。我はいちいちごく小さいカケラでも細かく分別してそれぞれの袋に仕分けしてゴミ出ししている。当然ものすごく時間がかかる。

 また、靴下なとでも、洗濯した後、干して取り込むと片方づつになってしまうことは誰もがよくあると思うが、我は、そうなると全く同じ相方同志の靴下に合わないと履くことができない。
 だらしないから洗濯しても靴下は、すぐに同じ柄が合わない、みつからない。友人の女史に聞いたら、家の中で履くのだから、色が違ってたってかまわないし、外に履いて出たとしても誰も気にしないし、気がつかない、と豪語していたが、我には絶対できない。
 靴下の柄など、色は同じでも丈も含めて微妙に違っているものだから、我は、全く同じものだと確認、確信できないと履けないのである。
 そんなだから、基本的には、履ける靴下がなかなかみつからず、夏場は履かないし、冬になっても同じ柄のがみつからないと、さすがに寒さに耐えかねてまた新たに買い足していく。
 これでは、万事モノは片づかないどころか常に増えていくのも当然のことだった。

 自分ではそれが当たり前だと思い、これまでずっと生きてきたが、先にあげたNewton別冊の発達障害の本を読んで、それもまたこのビョーキというか、障害の特性だと載ってあって、はたと気がついた。
 溜まった古新聞もだが、どうせ古紙回収に出すのだから、右から左に袋に詰めていけば時間かからないのである。
 ところが、我は、溜まってしまった古新聞はそれぞれ月ごとにまず全てきちんと分別し終えないことにはゴミに出せない。
 考えてみれば、何であれ、ゴミとして処分するのだから、そんな細かいこだわりは不要無用のはずなのにだ。
 このこだわりは、今気づくと全くおかしい。柄が合わないからといって、寒い中、裸足でいる方があきらかにおかしい。
 けっきょく、何につけ我は、自らのつくった勝手なおかしなこだわり、ルールによって、自縄自縛となり、何か作業や企画を行うにしろ、まず一つ一つ、手順を踏んで、まずそれを終わらせないと次のことに移れないのである。

 と、同時に、また逆に、一つ気になることや、とある思い付きに囚われると、もう我慢できず待つことが出来ず、イベントなど何も深く考えずにすぐにそれに突っ走ってしまう。そして当然、まず必ず失敗し後悔することになる。
 家の作業などでは、そうして次々とあれこれ移り気となるから腰据えて落ち着いてやるべきことが進まない。気がつくと次々から次へ、我はうろちょろして席が温まる暇がない。何事も長続きすることがない。
 アタマがおかしいのである。しかし、それが脳の不具合からくる性格であり、自分なのだから仕方がない。これは直らないし治せない。
 苦労はしたが、それでもともかくこの歳まで生きてきたし、生きてこれた。そしてこれからも生き続けないとならないのである。