これまでのこと、これからへの思い⑤2024年01月31日 13時24分38秒

★何があろうと起ころうと、ともかく生き続けていく

 この大変な世相、状況の最中に自分のことばかり書いていて申し訳なく思う。が、このビョーキの性質上、一つ一つきちんと書き終えていかないことには次に進めないのでご理解頂きたい。
《前回の続き》
 自分でも不思議に思うのだが、超だらしない人間のくせに我は様々な事に奇妙なこだわりがあって、それも大いに関係して片づけ、掃除が進まないのだと気がついた。

 ゴミなどもウチの市では、再生する紙類、可燃物、新聞類、プラ類、缶リサイクル類などとやたらこまかく分別が求められ、それぞれ専用の回収袋に入れて、それぞれ別の回収日に出さねばならないのだが、我はそれに非常に細かくこだわってしまう。
 プラスチックなど小さいものは、可燃ごみ袋に入れて出しても実のところ問題はないのだが、それができない。我はいちいちごく小さいカケラでも細かく分別してそれぞれの袋に仕分けしてゴミ出ししている。当然ものすごく時間がかかる。

 また、靴下なとでも、洗濯した後、干して取り込むと片方づつになってしまうことは誰もがよくあると思うが、我は、そうなると全く同じ相方同志の靴下に合わないと履くことができない。
 だらしないから洗濯しても靴下は、すぐに同じ柄が合わない、みつからない。友人の女史に聞いたら、家の中で履くのだから、色が違ってたってかまわないし、外に履いて出たとしても誰も気にしないし、気がつかない、と豪語していたが、我には絶対できない。
 靴下の柄など、色は同じでも丈も含めて微妙に違っているものだから、我は、全く同じものだと確認、確信できないと履けないのである。
 そんなだから、基本的には、履ける靴下がなかなかみつからず、夏場は履かないし、冬になっても同じ柄のがみつからないと、さすがに寒さに耐えかねてまた新たに買い足していく。
 これでは、万事モノは片づかないどころか常に増えていくのも当然のことだった。

 自分ではそれが当たり前だと思い、これまでずっと生きてきたが、先にあげたNewton別冊の発達障害の本を読んで、それもまたこのビョーキというか、障害の特性だと載ってあって、はたと気がついた。
 溜まった古新聞もだが、どうせ古紙回収に出すのだから、右から左に袋に詰めていけば時間かからないのである。
 ところが、我は、溜まってしまった古新聞はそれぞれ月ごとにまず全てきちんと分別し終えないことにはゴミに出せない。
 考えてみれば、何であれ、ゴミとして処分するのだから、そんな細かいこだわりは不要無用のはずなのにだ。
 このこだわりは、今気づくと全くおかしい。柄が合わないからといって、寒い中、裸足でいる方があきらかにおかしい。
 けっきょく、何につけ我は、自らのつくった勝手なおかしなこだわり、ルールによって、自縄自縛となり、何か作業や企画を行うにしろ、まず一つ一つ、手順を踏んで、まずそれを終わらせないと次のことに移れないのである。

 と、同時に、また逆に、一つ気になることや、とある思い付きに囚われると、もう我慢できず待つことが出来ず、イベントなど何も深く考えずにすぐにそれに突っ走ってしまう。そして当然、まず必ず失敗し後悔することになる。
 家の作業などでは、そうして次々とあれこれ移り気となるから腰据えて落ち着いてやるべきことが進まない。気がつくと次々から次へ、我はうろちょろして席が温まる暇がない。何事も長続きすることがない。
 アタマがおかしいのである。しかし、それが脳の不具合からくる性格であり、自分なのだから仕方がない。これは直らないし治せない。
 苦労はしたが、それでもともかくこの歳まで生きてきたし、生きてこれた。そしてこれからも生き続けないとならないのである。