近況報告から ― 2024年06月01日 23時12分51秒
★6月に入りました。
前回、当ブログを更新したのが、5月1日であるから、実に一か月ぶりである。拙ブログを始めてから、いや、我がブログという書く行為を世に発し始めてから20年近く経つかと思うが、ひと月も更新怠ったことは一度もなかった。
いったいどうしてしまったのか、何が起きたのか。
誰からも問い合わせなど一切ないが、もしかしたら誰か多少心配された方もいるかもしれない。ならば申し訳思うし、その理由など説明すべき義務もある。
ともかく忙しかった、のである。そして今も目が回るほど、忙しい。落ち着いてゆっくり座って飯を食う時間もないほどだ。
突然いろんなことに注文が入ったり、売れっ子になってそれで忙しくなったわけではない。
相変わらず全く働いてないし、どこからも金は入らない。ただ日々忙しく慌ただしくあっという間に一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一か月が過ぎていく。
ブログもだが、音楽を聴いたりギター弾いたりテレビで映画など観たり、本をじっくり読む時間なんてまったくとれない。
パソコンに向かう時間だって、メールを確認する程度だけしかないから、ブログ書くためにある程度まとまった時間が取れないのである。
こんなブログでも、書くのが早い我でも、一回書くのには1~2時間は時間が必要だ。そもそも落ち着いて座ってパソコンに向き合う時間がとれないのだから、書きたくても書けるわけがない。
体調が悪くて寝込んでいたわけではないし、鬱が高じて書けないとか書きたいことが見つからないわけではない。
身体の調子は万全というわけではないが、右腕の痛みはだいぶ快癒してきたし、キモチもこのところは前向きで書きたいことはいくらでもある。
が、ともかくたた忙しくてそのための時間がとれないのだ。いったいどうしてか、何でだろう、と自問する。そしてまさかこんな時が来るとは、と今更ながら驚く。
これまでも書いてきたが、我は今この歳で人生再建途中で、これまでの人生のリストラ、つまり再構築をせねばならなくなった。
世間に比べて大きな家の中に溜まりたまった親たちの代からのものと自らの本やレコード、CD、楽器、捨てずに溜めてきたチラシや書きしるしたものなどの紙ゴミ類で、まさに家中がいっぱいになってしまい、さらにそこに増えすぎた猫たちがそれらを崩しぶちまけたり混乱・混沌に拍車をかけて、家の内外、庭先までゴミ屋敷となってしまった。
親たちがいなくなったのだから、我一人でこの家を維持していかねばならない。そのための金も自ら稼がないとならない。
繰り返しになるが、若い時分より定職に就かなかった我に貯金などないし、年金もほぼない。細々と小遣い程度は、ネット上の古本稼業で得ていたが、故あって今はそれも昨秋から休止している。
だから、新たな金稼ぎのプランというか、これからの人生を生きて行くのに必要な最低限の金を得る方法を真剣に考えねばならない。
今さらこの歳で肉体労働は正直しんどく、体力なしの我にはとうていできないし、ましてそれは老いて死ぬまで続けられるわけではない。
だから考えたのは、ネット上での商売や、売文など、さらに齢とっても家にいてできることしか思いつかなかった。
アフェリエイト、て言うのか、ブログなどでも、やりようによっては、金を稼ぐ方法はあるらしいので、そうしたことも早くともかくやってみようと考えてはいた。ブログもそうした形態のものに、新たな場で再開しようと目論んでいる。が、忙しくてまだそこにも行きつかない。
何故そんなに忙しいのか。
日々、たくさんの猫たちの世話、餌やりとトイレ掃除、餌の買い物に追われているだけでなく、先に記したように、自らの片づけを進めても積み上げた本の山を猫たちがまた崩して散乱させる、賽の河原の石積み状況も常の事である。
それでも少しづつ片づけは進めている。いま家の中は足の踏み場がない状態なので、作業は日中、分別処分するものをまずは庭先に出してとなる。
が、外に出した未整理の紙ゴミ類等を分別、仕分けしてても雨に祟られては、その都度クルマの中に取り込んだりと、そうした出したり入れたりの繰り返しに、自分でも呆れ果てる。
そう、今年は春からやたら雨が多く、このところは三日に上げずどころか、二日ごと、あるいはほぼ連日、夜になってくると雨が降りだすとの予報で、クルマの中へ紙ものの箱、本や雑誌を出したり入れたり毎日やっている。
そしてその他、毎年のことだが、庭のケヤキなど高木の剪定など庭仕事も多々ある。それは山梨の古民家も同様に。そうした様々な雑事でともかく毎日忙しく、ほんとうにすべきこと、やらねばならぬことに時間がとれないのだ。
加えておまけに家中の家電が、このところ次々壊れだして、それにもまた頭抱えて対応策に時間とられている。
先に、猫たちの部屋のエアコンが壊れて修理頼み交換なったことや二層式洗濯機を新たに買ったことは書いた。
その後も、このパソコンはモニター画面がイカレて交換したし、居間のテレビもやはり同様に今は縦線がひどく入って観るのにかなり困難になってきた。
台所のトースターは、猫たちが転落させて使用不可能となってるし、炊飯器はまだ炊けるものの保温がすぐに切れてしまう。つい先日まで問題なく使えていた電子レンジも一昨日から突然起動しなくなった。
ガスコンロも片側しか点かないし、冷蔵庫は満杯で機能不全。家中いくつもあるトイレも問題なく使えるのは、二階の一つだけとなっている。
さらに長年、本の搬送などで使ってきた、我の愛車ブリジストンの昔ながらのがっしりした躯体のジュピター号もついに経年劣化で、後ろ車輪のスポークが次々折れ始めて、タイヤ自体を交換しないとならない。またまた金がかかる。
なんで次々と不具合が重なるのだろうか?
でも今思うのは、全てそれも起こるべくして起こったことだということだ。すべてのカタチある物は、経年と共に劣化していくわけで、ある程度長い年月を経れば当然オシャカになるし、そうならぬ前にメンテナンスが求められる。それが重なる時がきたのだろう。
この家自体だって、中身の物はともかく、建物自体は、あの大震災の年、2011年に全面的に増改築したものだから、そろそろ10年以上が過ぎて、屋根や外壁などメンテナンスが必要な状態になってきている。
この吾身もまた70歳を前にして、近年あちこちの不調、不具合が目立ち医者にかかるべきだとの声もあるが多忙と困窮で、何とかだましだまし生きている。
そう、まだ生きているし、まだ死ねないし、これからもまだ生き続けるためにもこの行き詰った状況を何とかしないとならない。
それにしても何でいま一気にこんなことが起こるのか、だ。親たちがまだ生きて在るときならばまだしも。我一人になって様々な問題が山積しているところにまたさらに新たな問題が起こる。
しかしそれもまた起こるには理由があるし、悪しきこと、「問題」だと捉えず、艱難辛苦であろうとも受け容れていくしかない。そしてそれを乗り越えていく努力はしていく。
そう少しでも、少しづつでも進めていく。
もし、親たちが今も元気で健在であったら(まあ年齢的にそれはありえない話だが)、我は、愚かなまま今も好き勝手に趣味道楽に耽り、あちこちに出向いて、まず遊ぶことに熱中し肝心なことに気づかなかったに違いない。
誰よりも愚かな我は、ほんとうに何がしたいのか、何ができるのかよくわからないまま、人として本当にすべきことにきちんと向き合ってこなかったのだ。
いつだってその時々の目先の欲望、したいことや欲しいものに囚われていたままだったと思える。
嗤われるだろうが、今は、ようやく生きるとはどういうことなのか、人は何を為すべきなのか、大まかながらもわかってきた。
あの頃は、日々楽しいことや面白いことがいっぱいで、人生に満足していたか、と顧みると、実際はそうではなかった。事において終われば常に悔いて苦い澱のようなものが心にずっと残っていた。
今も思い通りにモノゴトが進まず苛立ち忸怩たるものは多々あるけれど、人生そのもののカタチは見えてきている。
かつての自分は、人生そのものにNO!と叫んでいたが、今は、すべてにイエスと言える。
どうしようもない人生だけど、このままどうしようもないまま終わってしまうのかもしれなくても、生きて行くのはさほど悪くない、人生は我なりに素晴らしいと思う。
昔は、それを「外」に求めていた。どこか、誰かに在るものだと思っていた。だからあちこちに出かけ、多くの人と逢い、何でもあれこれやってきた。が、実は、それは我が裡、ここに在ったのだ。
今はもう、やっとだが、何がしたいのか、何ができるのか、今先ず何をすべきなのか、すべてがわかる。はっきりしてきた。
それは親たちがいなくなり、一人きりになったからだ。自らの声に真摯に耳を傾けて、かすんできた目だが見開き、心が真に求めるものに応えていこう。
まだここでは死ねない。人生はまだまだ続く。続けなくてはならない。
肉体は弱いが心は燃えている。
前回、当ブログを更新したのが、5月1日であるから、実に一か月ぶりである。拙ブログを始めてから、いや、我がブログという書く行為を世に発し始めてから20年近く経つかと思うが、ひと月も更新怠ったことは一度もなかった。
いったいどうしてしまったのか、何が起きたのか。
誰からも問い合わせなど一切ないが、もしかしたら誰か多少心配された方もいるかもしれない。ならば申し訳思うし、その理由など説明すべき義務もある。
ともかく忙しかった、のである。そして今も目が回るほど、忙しい。落ち着いてゆっくり座って飯を食う時間もないほどだ。
突然いろんなことに注文が入ったり、売れっ子になってそれで忙しくなったわけではない。
相変わらず全く働いてないし、どこからも金は入らない。ただ日々忙しく慌ただしくあっという間に一日が過ぎ、一週間が過ぎ、一か月が過ぎていく。
ブログもだが、音楽を聴いたりギター弾いたりテレビで映画など観たり、本をじっくり読む時間なんてまったくとれない。
パソコンに向かう時間だって、メールを確認する程度だけしかないから、ブログ書くためにある程度まとまった時間が取れないのである。
こんなブログでも、書くのが早い我でも、一回書くのには1~2時間は時間が必要だ。そもそも落ち着いて座ってパソコンに向き合う時間がとれないのだから、書きたくても書けるわけがない。
体調が悪くて寝込んでいたわけではないし、鬱が高じて書けないとか書きたいことが見つからないわけではない。
身体の調子は万全というわけではないが、右腕の痛みはだいぶ快癒してきたし、キモチもこのところは前向きで書きたいことはいくらでもある。
が、ともかくたた忙しくてそのための時間がとれないのだ。いったいどうしてか、何でだろう、と自問する。そしてまさかこんな時が来るとは、と今更ながら驚く。
これまでも書いてきたが、我は今この歳で人生再建途中で、これまでの人生のリストラ、つまり再構築をせねばならなくなった。
世間に比べて大きな家の中に溜まりたまった親たちの代からのものと自らの本やレコード、CD、楽器、捨てずに溜めてきたチラシや書きしるしたものなどの紙ゴミ類で、まさに家中がいっぱいになってしまい、さらにそこに増えすぎた猫たちがそれらを崩しぶちまけたり混乱・混沌に拍車をかけて、家の内外、庭先までゴミ屋敷となってしまった。
親たちがいなくなったのだから、我一人でこの家を維持していかねばならない。そのための金も自ら稼がないとならない。
繰り返しになるが、若い時分より定職に就かなかった我に貯金などないし、年金もほぼない。細々と小遣い程度は、ネット上の古本稼業で得ていたが、故あって今はそれも昨秋から休止している。
だから、新たな金稼ぎのプランというか、これからの人生を生きて行くのに必要な最低限の金を得る方法を真剣に考えねばならない。
今さらこの歳で肉体労働は正直しんどく、体力なしの我にはとうていできないし、ましてそれは老いて死ぬまで続けられるわけではない。
だから考えたのは、ネット上での商売や、売文など、さらに齢とっても家にいてできることしか思いつかなかった。
アフェリエイト、て言うのか、ブログなどでも、やりようによっては、金を稼ぐ方法はあるらしいので、そうしたことも早くともかくやってみようと考えてはいた。ブログもそうした形態のものに、新たな場で再開しようと目論んでいる。が、忙しくてまだそこにも行きつかない。
何故そんなに忙しいのか。
日々、たくさんの猫たちの世話、餌やりとトイレ掃除、餌の買い物に追われているだけでなく、先に記したように、自らの片づけを進めても積み上げた本の山を猫たちがまた崩して散乱させる、賽の河原の石積み状況も常の事である。
それでも少しづつ片づけは進めている。いま家の中は足の踏み場がない状態なので、作業は日中、分別処分するものをまずは庭先に出してとなる。
が、外に出した未整理の紙ゴミ類等を分別、仕分けしてても雨に祟られては、その都度クルマの中に取り込んだりと、そうした出したり入れたりの繰り返しに、自分でも呆れ果てる。
そう、今年は春からやたら雨が多く、このところは三日に上げずどころか、二日ごと、あるいはほぼ連日、夜になってくると雨が降りだすとの予報で、クルマの中へ紙ものの箱、本や雑誌を出したり入れたり毎日やっている。
そしてその他、毎年のことだが、庭のケヤキなど高木の剪定など庭仕事も多々ある。それは山梨の古民家も同様に。そうした様々な雑事でともかく毎日忙しく、ほんとうにすべきこと、やらねばならぬことに時間がとれないのだ。
加えておまけに家中の家電が、このところ次々壊れだして、それにもまた頭抱えて対応策に時間とられている。
先に、猫たちの部屋のエアコンが壊れて修理頼み交換なったことや二層式洗濯機を新たに買ったことは書いた。
その後も、このパソコンはモニター画面がイカレて交換したし、居間のテレビもやはり同様に今は縦線がひどく入って観るのにかなり困難になってきた。
台所のトースターは、猫たちが転落させて使用不可能となってるし、炊飯器はまだ炊けるものの保温がすぐに切れてしまう。つい先日まで問題なく使えていた電子レンジも一昨日から突然起動しなくなった。
ガスコンロも片側しか点かないし、冷蔵庫は満杯で機能不全。家中いくつもあるトイレも問題なく使えるのは、二階の一つだけとなっている。
さらに長年、本の搬送などで使ってきた、我の愛車ブリジストンの昔ながらのがっしりした躯体のジュピター号もついに経年劣化で、後ろ車輪のスポークが次々折れ始めて、タイヤ自体を交換しないとならない。またまた金がかかる。
なんで次々と不具合が重なるのだろうか?
でも今思うのは、全てそれも起こるべくして起こったことだということだ。すべてのカタチある物は、経年と共に劣化していくわけで、ある程度長い年月を経れば当然オシャカになるし、そうならぬ前にメンテナンスが求められる。それが重なる時がきたのだろう。
この家自体だって、中身の物はともかく、建物自体は、あの大震災の年、2011年に全面的に増改築したものだから、そろそろ10年以上が過ぎて、屋根や外壁などメンテナンスが必要な状態になってきている。
この吾身もまた70歳を前にして、近年あちこちの不調、不具合が目立ち医者にかかるべきだとの声もあるが多忙と困窮で、何とかだましだまし生きている。
そう、まだ生きているし、まだ死ねないし、これからもまだ生き続けるためにもこの行き詰った状況を何とかしないとならない。
それにしても何でいま一気にこんなことが起こるのか、だ。親たちがまだ生きて在るときならばまだしも。我一人になって様々な問題が山積しているところにまたさらに新たな問題が起こる。
しかしそれもまた起こるには理由があるし、悪しきこと、「問題」だと捉えず、艱難辛苦であろうとも受け容れていくしかない。そしてそれを乗り越えていく努力はしていく。
そう少しでも、少しづつでも進めていく。
もし、親たちが今も元気で健在であったら(まあ年齢的にそれはありえない話だが)、我は、愚かなまま今も好き勝手に趣味道楽に耽り、あちこちに出向いて、まず遊ぶことに熱中し肝心なことに気づかなかったに違いない。
誰よりも愚かな我は、ほんとうに何がしたいのか、何ができるのかよくわからないまま、人として本当にすべきことにきちんと向き合ってこなかったのだ。
いつだってその時々の目先の欲望、したいことや欲しいものに囚われていたままだったと思える。
嗤われるだろうが、今は、ようやく生きるとはどういうことなのか、人は何を為すべきなのか、大まかながらもわかってきた。
あの頃は、日々楽しいことや面白いことがいっぱいで、人生に満足していたか、と顧みると、実際はそうではなかった。事において終われば常に悔いて苦い澱のようなものが心にずっと残っていた。
今も思い通りにモノゴトが進まず苛立ち忸怩たるものは多々あるけれど、人生そのもののカタチは見えてきている。
かつての自分は、人生そのものにNO!と叫んでいたが、今は、すべてにイエスと言える。
どうしようもない人生だけど、このままどうしようもないまま終わってしまうのかもしれなくても、生きて行くのはさほど悪くない、人生は我なりに素晴らしいと思う。
昔は、それを「外」に求めていた。どこか、誰かに在るものだと思っていた。だからあちこちに出かけ、多くの人と逢い、何でもあれこれやってきた。が、実は、それは我が裡、ここに在ったのだ。
今はもう、やっとだが、何がしたいのか、何ができるのか、今先ず何をすべきなのか、すべてがわかる。はっきりしてきた。
それは親たちがいなくなり、一人きりになったからだ。自らの声に真摯に耳を傾けて、かすんできた目だが見開き、心が真に求めるものに応えていこう。
まだここでは死ねない。人生はまだまだ続く。続けなくてはならない。
肉体は弱いが心は燃えている。
風太の死に思う ― 2024年06月12日 21時24分41秒
★何であんなに怒りぽかったのか
福岡風太の訃報をネットで昨夜知った。76歳。70年代、大阪天王寺公園での春一番の頃から彼を知る者として様々な感慨がわく。
そして、向こうは我のことなど覚えてはいないと思うが、彼に殴られた者として、正直その死に対して快哉は叫ばずとも愛憎半ばする気持ちを抱くことを告白する。
反大阪万博という反体制で始めて、反体制を標榜してやってきた当人が、いつしか知名度もあがり、人々から讃えられてゴーマンさを増す。そして盟友・阿部ちゃん亡きあとは、まさに権威そのものとなっていく。
楽屋に連れて行かれ彼に殴られ、これ以上やったら、お前、警察を呼ぶぞ、と怒鳴られたとき、ああ、この人の口から警察に頼る、任せるという言葉が出るのだ、と呆れるよりも哀しくなった。
ネットや関係者たちは、これからも彼を讃え、素晴らしいプロデューサー、企画者だったと偉業を語り継ぐであろう。
だが、そうは思わない、思えない者もいることを知ってほしい。彼はいつしか独裁者になってしまった。
恨みや憎しみなど何も今はない。ただ、どうしてあそこまで偏狭、偏屈だったのか。彼が春一番で守り通したいものは一体何だったのだろう。
押尾コータローの事務所との良好な関係なのか。昔の天王寺野音での、のんびりとした何でもありの自由なコンサートを体験した者として、阿部登氏が健在でその場にいた頃はともかくも、以後の「変質」、といっても我は出禁となったので、詳しくは知らないが、やはりそれはもう、あの恭蔵さんがうたにした、かつての「春一番」から遠く離れたもののように感じる。
それにしてもあの人は、なんですぐにキレるのか。あんなに怒りっぽい人は知る限り会ったことはない。相方阿部ちゃんのとことん緩い寛容さとはまさに真逆だった。
むろん情に厚く、仲間内には優しく真面目な熱い人だとは昔から知ってる。春一番という、大阪でのインディーズなコンサートを企画し長年続けた偉業は我も高く讃えたい。そのコンサートがなかったら、数々の素晴らしい演奏とシンガーは世の人々に広く知られず今も伝わらぬままだっだろう。まさに天才的プロデューサーであった。
ただ、殴った側は忘れても殴られた側は生涯それは忘れないものだ。彼の守り通したかったものは一体何だったのか。亡くなったからといって手放しで褒めたたえられない。
福岡風太の訃報をネットで昨夜知った。76歳。70年代、大阪天王寺公園での春一番の頃から彼を知る者として様々な感慨がわく。
そして、向こうは我のことなど覚えてはいないと思うが、彼に殴られた者として、正直その死に対して快哉は叫ばずとも愛憎半ばする気持ちを抱くことを告白する。
反大阪万博という反体制で始めて、反体制を標榜してやってきた当人が、いつしか知名度もあがり、人々から讃えられてゴーマンさを増す。そして盟友・阿部ちゃん亡きあとは、まさに権威そのものとなっていく。
楽屋に連れて行かれ彼に殴られ、これ以上やったら、お前、警察を呼ぶぞ、と怒鳴られたとき、ああ、この人の口から警察に頼る、任せるという言葉が出るのだ、と呆れるよりも哀しくなった。
ネットや関係者たちは、これからも彼を讃え、素晴らしいプロデューサー、企画者だったと偉業を語り継ぐであろう。
だが、そうは思わない、思えない者もいることを知ってほしい。彼はいつしか独裁者になってしまった。
恨みや憎しみなど何も今はない。ただ、どうしてあそこまで偏狭、偏屈だったのか。彼が春一番で守り通したいものは一体何だったのだろう。
押尾コータローの事務所との良好な関係なのか。昔の天王寺野音での、のんびりとした何でもありの自由なコンサートを体験した者として、阿部登氏が健在でその場にいた頃はともかくも、以後の「変質」、といっても我は出禁となったので、詳しくは知らないが、やはりそれはもう、あの恭蔵さんがうたにした、かつての「春一番」から遠く離れたもののように感じる。
それにしてもあの人は、なんですぐにキレるのか。あんなに怒りっぽい人は知る限り会ったことはない。相方阿部ちゃんのとことん緩い寛容さとはまさに真逆だった。
むろん情に厚く、仲間内には優しく真面目な熱い人だとは昔から知ってる。春一番という、大阪でのインディーズなコンサートを企画し長年続けた偉業は我も高く讃えたい。そのコンサートがなかったら、数々の素晴らしい演奏とシンガーは世の人々に広く知られず今も伝わらぬままだっだろう。まさに天才的プロデューサーであった。
ただ、殴った側は忘れても殴られた側は生涯それは忘れないものだ。彼の守り通したかったものは一体何だったのか。亡くなったからといって手放しで褒めたたえられない。
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