誰よりも愚かで非力な我だからこそ ― 2024年11月02日 23時25分54秒
★残りの人生に何かを残したい。
11月になった。自らの人生の先行きも見通せぬ者が、また何をやっているのか、と自問する自分がいる。
世間的に言えば、悠々自適の自由気ままな年金生活者となる齢の我なのだが、若い頃からの放埓の挙句、ほぼ無年金で、今は、古本稼業も休止しているため、金の入る当てが一切ないニンゲンが、また金の出ることをやっている。
生きてるだけで丸儲け、という言葉がある。確かに死んでしまえば何もかも終わりとなって無意味、無価値に全てがなってしまうのだから、どんなに苦しく大変な状況、状態であろうとも生きていることは素晴らしく価値と意味がある善いことだと同意する。
今がどんなに苦しくても生きていれば、また新たな良い状況も起こるかもしれないし、その可能性はゼロである「死」に比べて確かに常にプラスである。
が、このところの我の経済的状況、次々支払わねばならぬ出費を思うとき、丸儲けどころか、生きているだけで丸損ではないかと、思えてきた。そう、死んでしまえば、もう金はかからないのだから。
当たり前のことだが、生きていくのにはともかく金がかかる。自給自足で何もかも自らやっていけたとしても、住民税、市民税、固定資産税などこの国はやたらと諸々の税金がかかるし、最低限でも電気、水道代、ガス代等は毎月出ていく。
ほんとうにホームレスのような状態にならぬ限り、金は生きている限り必ず出ていく。そしてそのための金を稼ぐかどこからか工面せねばならない。
どこかの無人島のようなとこで、人知れず一人で真に自給自足で電気も使わず生きていければ、金はかからないだろうが、この世界、社会で生きていくのにはともかく金がかかる。その意味で、老後働けなくなったときに、年金が支給される制度は、実に賢い知恵であり、素晴らしい制度だと今になって気がつく。ほぼ無年金者の我としては。
何でまたこんな愚痴話を書いているかというと、また膨大な額の水道代の分割支払いの二回目が近づいて来て、憂鬱だからだ。どこからどうやって工面するか。
バカ猫がしでかしたといいえ、気づかずにうっかり水道を出しっぱなしにしていたことから、夏前に18万円を超す使用料の請求が届いた。水道局と交渉の末、分割で支払うこととなって一回目は何とか振り込んだ。
が、また近く二回目の4万円弱の水道料金をコンビニで払わねばならない。
よく、金を無駄にしたときなど、金をどぶに捨てたようなものだ、とか人は言う。まさに今の我は、どぶではなく、下水に水を流しっぱなしにした結果がこの高額の水道料金なのだから、金を下水に捨てたというのが当てはまる。
世にこんなバカはいないと思うし、自分でも呆れ果てる。
たとえば、夏にエアコンなど使って、電気代が4万円を超したとしても、それは意味ある金の使い途であろう。高いと嘆いても、昨今の地球沸騰化の時代、そこをケチってクーラーを適切に使わねば命にかかわる。ならばそれは意味ある支払い、金の使い道だ。
だが、我のようにただ無意味に、いや気づかずに、いったいどのくらいの期間、水道の蛇口から水が出しっぱなしになっていたかわからないが、そんな失態の結果、水道代が20万円ちかくとなったバカ者は、まさに金をドブならぬ下水に捨てたと言えよう。
ほんとうに情けない。そんな金があったならば、ボブ・ディランの武道館のライブCD、コンプリートボックスセットだって買えたし、ギターもオーディオも欲しいものが何でも買えたはずだ。
我はその金額を下水に流してしまったのだ。
が、これが水だから良かったものの、火ならば、失火となり場合によっては火災が起きてこの家自体何もかも失う可能性があったわけで、その丸損の度合いが違う。
世の誰よりもウカツで考えなしの我としては、この程度の損害で済んだならば、そして我はまだ生きてここに在るとするならば、善いことではなくても良しとするしかない。
金を下水に流したとしても金はまた手に入れることはできる。もっとかけがえのない大切なものや、命や健康などを失ったわけではないのだから、愚かさの教訓、戒めとしてこれはこれで受け容れるしかない。この程度で済んで幸いだったと。
かの良寛和尚も言っている。災難に遭うときは遭うがよろし、と。敬愛した色川武大も、禍福の量は人皆同じ、だと。ならば、災いのぶんだけまた 善いこともまたあると信じて人生を続けていくしかない。
しかし、こんなバカは他にいないと思う。こんな過ちはフツ-の人は絶対に起こさない。他山の石にもならぬが嗤ってもらうためにもこれを書き記す。
オレは本当にどうしようもない。
11月になった。自らの人生の先行きも見通せぬ者が、また何をやっているのか、と自問する自分がいる。
世間的に言えば、悠々自適の自由気ままな年金生活者となる齢の我なのだが、若い頃からの放埓の挙句、ほぼ無年金で、今は、古本稼業も休止しているため、金の入る当てが一切ないニンゲンが、また金の出ることをやっている。
生きてるだけで丸儲け、という言葉がある。確かに死んでしまえば何もかも終わりとなって無意味、無価値に全てがなってしまうのだから、どんなに苦しく大変な状況、状態であろうとも生きていることは素晴らしく価値と意味がある善いことだと同意する。
今がどんなに苦しくても生きていれば、また新たな良い状況も起こるかもしれないし、その可能性はゼロである「死」に比べて確かに常にプラスである。
が、このところの我の経済的状況、次々支払わねばならぬ出費を思うとき、丸儲けどころか、生きているだけで丸損ではないかと、思えてきた。そう、死んでしまえば、もう金はかからないのだから。
当たり前のことだが、生きていくのにはともかく金がかかる。自給自足で何もかも自らやっていけたとしても、住民税、市民税、固定資産税などこの国はやたらと諸々の税金がかかるし、最低限でも電気、水道代、ガス代等は毎月出ていく。
ほんとうにホームレスのような状態にならぬ限り、金は生きている限り必ず出ていく。そしてそのための金を稼ぐかどこからか工面せねばならない。
どこかの無人島のようなとこで、人知れず一人で真に自給自足で電気も使わず生きていければ、金はかからないだろうが、この世界、社会で生きていくのにはともかく金がかかる。その意味で、老後働けなくなったときに、年金が支給される制度は、実に賢い知恵であり、素晴らしい制度だと今になって気がつく。ほぼ無年金者の我としては。
何でまたこんな愚痴話を書いているかというと、また膨大な額の水道代の分割支払いの二回目が近づいて来て、憂鬱だからだ。どこからどうやって工面するか。
バカ猫がしでかしたといいえ、気づかずにうっかり水道を出しっぱなしにしていたことから、夏前に18万円を超す使用料の請求が届いた。水道局と交渉の末、分割で支払うこととなって一回目は何とか振り込んだ。
が、また近く二回目の4万円弱の水道料金をコンビニで払わねばならない。
よく、金を無駄にしたときなど、金をどぶに捨てたようなものだ、とか人は言う。まさに今の我は、どぶではなく、下水に水を流しっぱなしにした結果がこの高額の水道料金なのだから、金を下水に捨てたというのが当てはまる。
世にこんなバカはいないと思うし、自分でも呆れ果てる。
たとえば、夏にエアコンなど使って、電気代が4万円を超したとしても、それは意味ある金の使い途であろう。高いと嘆いても、昨今の地球沸騰化の時代、そこをケチってクーラーを適切に使わねば命にかかわる。ならばそれは意味ある支払い、金の使い道だ。
だが、我のようにただ無意味に、いや気づかずに、いったいどのくらいの期間、水道の蛇口から水が出しっぱなしになっていたかわからないが、そんな失態の結果、水道代が20万円ちかくとなったバカ者は、まさに金をドブならぬ下水に捨てたと言えよう。
ほんとうに情けない。そんな金があったならば、ボブ・ディランの武道館のライブCD、コンプリートボックスセットだって買えたし、ギターもオーディオも欲しいものが何でも買えたはずだ。
我はその金額を下水に流してしまったのだ。
が、これが水だから良かったものの、火ならば、失火となり場合によっては火災が起きてこの家自体何もかも失う可能性があったわけで、その丸損の度合いが違う。
世の誰よりもウカツで考えなしの我としては、この程度の損害で済んだならば、そして我はまだ生きてここに在るとするならば、善いことではなくても良しとするしかない。
金を下水に流したとしても金はまた手に入れることはできる。もっとかけがえのない大切なものや、命や健康などを失ったわけではないのだから、愚かさの教訓、戒めとしてこれはこれで受け容れるしかない。この程度で済んで幸いだったと。
かの良寛和尚も言っている。災難に遭うときは遭うがよろし、と。敬愛した色川武大も、禍福の量は人皆同じ、だと。ならば、災いのぶんだけまた 善いこともまたあると信じて人生を続けていくしかない。
しかし、こんなバカは他にいないと思う。こんな過ちはフツ-の人は絶対に起こさない。他山の石にもならぬが嗤ってもらうためにもこれを書き記す。
オレは本当にどうしようもない。
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