現代商売考・22014年01月17日 09時35分32秒

★古本を扱う個人商店の行く末         アクセスランキング: 147位

 前回書いたことの補足として、つまるところ町の変化、衰退も隆盛も含めその地域が変わっていくことは人の変化、世代の変化でしかない。
 多摩ニュータウンのような戦後開発され、一時期はニューファミリーの子育て世代で溢れた活気ある若い町も、住民が歳をとるに連れて老人の町、町自体も老いた町となっていく。計画的につくられた町こそその動態は顕著だろう。

 マス坊の住む町も今も新たに農地が開発され宅地に分譲され駅前には大型マンションが立ち並び若い世代が次々移っては来るが、町自体は昔から住む住民の高齢化に伴いかなり「老人化」している。
 日中、車を走らせているのと気がつくのは、町を出歩いているのは杖をついた、手押しカートを押した老人しかいない。むろん子供は学校、大人は仕事に出ているのだから当然ではあるが、それにしても総体として老人世代が圧倒的に多い。だから店が潰れると後に入るのはデイケアサービスセンターとか、治療院、介護施設ばかりとなる。それにいくつも葬儀場が新しくできた。今儲かるのはこうしたシルバー産業だけである。
 昔なら子供相手の商売も大いに成り立っただが、今一番儲かるのは老人向けのサービス産業だろう。翻って古本稼業はどうかと言えば、年寄りは活字世代ではあるが、目も衰えているからもう本や新聞雑誌など小さい文字のものは読まない。若者は本などそもそも読まないし買わないからよってこの商売には未来がないことは前にも書いた。そして「商売撤退」宣言もした。

 しかし、このところ、古本稼業に限らず個人でやる小売り商売でもやりようによっては活路もあるのではないかと思えてきた。「町」中で、そこを通る人たち、「住人」相手に商売しても吉祥寺や下北沢のように裏通りまで常に人通りがある繁華な町でない限り個人商店は成り立たない。ならば手間はかかるが、やはりネットなど「通販」の手段で、広く日本全国、ひいては世界に向け商売をやっていくしかない。

 では何を売っていくか。問題は「商品」のアイテムである。※長くなるのでもう一回書く。

新しい年が始動して2014年01月07日 21時21分51秒

★さて景気は回復したのか        アクセスランキング: 136位 

 新年も7日、七草粥の日である。今朝はこの冬一番の冷え込みであった。外の犬たちの水も凍りが厚く張り、陽が上ってもなかなか溶けなかった。
 早くも何故かどっと疲れが出ている。暮れから正月にかけて出かける用事も多かったことと、もとより「正月休み」などないこの身では、世の中が動き出すとまたさらに忙しく感ずる。何だかんだ慌ただしい年末年始であった。仕事始めといっても会社勤めでも社員のいる自営でもないので、何一ついつもと変わらぬ日常なのだけれど、気持ちの上では多忙なのである。じっさい、本の注文は増えてきた。一昨日は2冊、昨日も2冊、そして今日は3冊発送した。果たしてアベノミクス効果で景気は回復してきたのだろうか。
 
 これは個人的感想だが、一時より好況感は確かに感じる。じっさいに数字の上で、「儲け」として金が目に見えて動き出しているわけではないが、この年末年始の本の注文数だけ見れば、去年までよりはいくぶん良い。まあ持ち直してきたという感じがしている。
 しかし、それで数字として儲けも増えているかと言うとそうではない。先にも書いたが、もう古本稼業撤退に向けて、在庫整理中の今、出している本はもう格安で放出したものばかりだから、売れたとしても実収入、手取りの金額は2~300円ぐらいのもので、手間賃にもならないぐらいなのである。ただ、以前はそんな安くしても本は全く動かなかった。今は安い本を中心にまた少しは売れだし始めた気がしている。

 その理由は景気が回復して買い手の懐が豊かになってきたからとはまだ思えない。多少はそうしたユトリ派もいるのかもしれないが、4月の消費税導入を前に、買おうと思っていたものはその前に買っておこうという心理が働いているのではないか。じっさいこの自分もまたそうして生活必需品など買いだめできるものは今のうちにせっせっと買っている。
 またオーディオ機材やソフト、メディアなども今のうちに買い込んでいる。どうせこれからまた買わねばならないものは、4月前に買っておくのが生活防衛であろう。本やCDなどは買っておいても腐るものではない。ティッシュやトイレットペーパーと同じくこの1~3月はある程度「買い置き」としての需要は高まると見越している。

 また、人の心理とは面白いもので、株が上がっているのを見聞きすると、自分の懐と関係がなくても何か嬉しく、好況感がわいてきてつい財布の紐も緩めてしまうものである。景気が悪い悪いと誰もが呟いていると当然消費は自粛気味となろうし、先行きの不安もあれば人は金はあったとしても使わない。景気が良くなる、良くなると政治家や学者センセイ、お偉いさんが口を揃えて連呼すれば、ならば大丈夫と人は迂闊にも散財してしまうものである。売っといて言うのも何であるが、正月に注文のあった本はネット株取引指南本とか、その手の投資ガイダンス本であった。どうやら今の好景気感で新たにそうした株取引を始めようと考え始めた素人さんが増えてきているようだ。果たして大丈夫かしらん。

 今の景気回復気分の裏にはそうした二つの心理が大きく存在していると思える。問題はその4月の消費税率アップ以降である。消費はガクンと間違いなく落ち込む。政府、政権は、貧乏人にはいくらかの特別手当のようなものを支給して歓心をかうことを目論むかもしれないが、そんなのは一時の焼け石に水だから全く効果はない。
 そこから再び、今のような景気高揚感が湧き出でてくれば本当にこの国もデフレ脱却、景気回復したと言えるだろうが、果たしてそのように安倍首相が目論むようにうまく運んでいくか。

 要するに、この4月から給料が上がれば良いのである。首相はそのことを今日も財界に強く呼びかけていた。しかし、会社というものは儲かったとしても大企業ほどケチで、そう簡単に社員に支払う給与を上げる気は毛頭ない。まずは株主へ還元、そして将来に備えての内部留保、といちばん最後によほど余裕がない限りこれからも賃金は抑えていく。何故ならそれが資本主義というもので、会社とはいかに労賃をピンハネして儲けを出すかが手腕なのだから。よって4月の消費税率が上がってから冷え込む景気がどう回復するか、まさに政府の経済政策お手並み拝見である。
 憲法改定に本腰入れるとか集団的自衛権の解釈見直し以前に、ともかくまず安倍政権は真に景気回復をまず果たせと今ここで書いておく。

続・「商売」と「商売でないもの」との間に2013年10月09日 23時26分53秒

★人には誰にも役割としての「仕事」がある。 アクセスランキング: 197位

 台風のせいなのか、日中はやたら強い南風が吹き荒れていた。爽やかな秋風というものではない。曇りがちでも雨は降らなかったが何だか蒸し暑い。

 さて、この前、古本稼業撤退に向かってその作業を進めていると書いた。その報告から。
 まずはまさに山を成していた、長く出品中のままいつまでも売れないでいた「不良在庫」を再度Amazonマーケットプレイスでの市場価格を確認し、1円本化して絶対に売れない、売れたとしても儲けのでない本は即処分し、売れれば少しでも利益が出る本は値段を下げて再出品した。そうした分別・再出品作業に時間をみつけてはこのところ専念していた。当然のことだいぶ本の数は減ってきた。

 そうした地道な作業で、不良在庫に手を入れていったらようやくこのところまた注文は回復し、前回の支払いでは久々に売り上げはプラスに転じてきた。しかし、それは出品の値をどこよりも安く下げたから注文が再び届くようになっだけのことで、まさに薄利多売、一冊売れても儲けなどは雀の涙なのである。ただ忙しくなっただけのことだ。このところほぼ連日注文は入る。

 例えば、昨日、Amazonから二冊、ウチに注文が来た。
 その一冊、仮にその本を「CD付 宅建主任者に面白いほど合格する本」としておく。 打ち明けを公開すると・・・・
 状態は
コンディション: 中古商品 - 可
コンディション説明: 2001年第3刷・CD未開封附属。お断りしておきますが、水濡れ感があり、カバーに薄シミ、本文にもシワ、たわみ感があります。使用には問題ないと思いますがご理解の上で。お安く致しました。
価格: ¥ 363
Amazon手数料: (¥ 214)
配送料: ¥ 250
振込金額合計: ¥ 399

 この振込金額からヤマトのメール便で発送するとして、配送代が¥160 つまり、純粋な儲け、ウチの手取りの利潤はわずか233円ということとなる。そこに封筒やガムテープなどの経費もこちらの手間賃も含まれている。わずか230円そこらのために発送に行くまでの時間もいれると一時間近くかかる。時給ではいったいいくらになるのであろうか。

 まったくバカバカしいとも思う。これで送った本に不備などがあれば相手方はまたこちらに文句言ってくるし、その対応処理にも追われる。売れてもこれぐらいしか儲けが出ないなら人は商売などしないだろう。手間と気苦労だけの、まさにくたびれ損の骨折り儲けの感がある。

 もうこのぐらいしか儲けが出ないならこんな本は出品せずにゴミとして処分すれば良いとも思わなくはない。しかし、単なる儲け追及の商売、ビジネスとしてだけ考えずに、古本稼業としてみれば、とにもかくにも古本が売れること、その本を求めているお客に本が行き渡ることは喜ばしい。つまり本の再流通が古本屋の役割だとするならば儲けは二の次だという考え方も成り立つ。それに、たとえ微々たる儲けであろうとゴミとして処分するのではなく売れて本が減っていくのは良いことではないか。

 自分は若いときから働くのが嫌いできちんと就職もしなかったし、今だって不動産や田畑あるような不労所得で願わくば働かずに遊んで暮らしたいと切に願う者であるが、近年ようやくこの歳になって「仕事」とは何なのか、人はなぜ働かなくてはならないのかようやく少しだけわかってきた。
 手短かに書けば、要するにこの社会に生きる者全てには役割があり、各々の「仕事」もまたその役割の一つなのである。それは草木鳥、全ての動物だってその役割を担っている。極論言えば、そこに生態系のようなものが成り立っている。

 世の中には、かなり辛い、汚かったり面倒かつ大変な仕事がある。例えば、今もまだ地方には存在する、汲み取り屋さんなどもそうだし、道路工事での車輛誘導の仕事などもかなりしんどい。しかしそうした仕事は好きとか嫌いとか以前に誰かが担当しないことには社会は動いていかない。今ならばフクシマでの原発作業員もそうだろう。他に仕事がなく仕方なく金のためにそれをやっている人がほとんどだとしてもともかく誰かがそれをやらない限りこの社会は日本は、そして地球は動いていかない。

 仕事と言うのは個人の儲けるため、生活のため金を得る手段に過ぎないが、実は同時にどんな仕事でも他者ため、社会のためになっている。公務員などはその関係が見えやすいが、バスなどの運転手、オペレーター、ウエイトレス、新聞配達、建設作業員などだってすべて同じで、そうした役割を担っている人たちがいるからこの世はうまく動いている。マンガだって小説だって、結果としてそれを書く人がいて読み手は楽しむことができるのである。

 ならばある仕事が儲かる、儲からないという個人の基準だけで安易に仕事や商売をやめてはならないのではないかと気づいた。むろん、ほとんど誰も来ない金物屋で、近くに巨大ホームセンターができて、客の多くはそちらを利用するようになってしまい、店舗の家賃すら払えないような状況では店を閉めざる得ないだろう。しかしそこに役割があり、求められる限りは人はその応分の仕事、役割をできる限り続けていくべきではないのか。

 実業だけではない。音楽家には音楽家の役割、仕事があるし、詩人には詩人の、画家には画家の役割、仕事が確かに存在する。そしてそれは様々な形で社会のため、他者=皆のため、地球全体のために役立っている。いや、仕事とは本来そうあるべきだし、詐欺師や資本家のように人を騙しピンハネして金を得るような仕事は本来あるべき仕事ではない。

 仕事とはどんな仕事であろうとも結果として世のため人のためになっている。古本稼業だってそう。「商売」として成り立つかは当然問われるし続けていくためにも問題にしないとならないいちばん大事なことだが、「商売」こそ、商売でないもの、商売としない大事なことが何であるのか問い続けなくてはならない。でないと、金になる、金のためならば人は自らの肉体も売るしやがては金になるのなら人殺しでさえするようになる。

古本商売撤収と再スタートに向けて2013年09月13日 19時15分40秒

★戦略的撤退に邁進中なのだ。 アクセスランキング: 217位

 今日は蒸し暑かった。所要で都心に出たが、短パンにTシャツ、サンダルで街を歩いているのは自分だけで、何だか妙に恥ずかしさを覚えた。暑いといってももはや9月半ば、世の皆さんちゃんと上着羽織った秋のスタイルなのである。短パン姿では冷房の効いているところでは寒さを覚えた。相変わらず状況が読めない自分である。

 さて、久々にマイ「商売」、古本稼業について書く。
 注文が減った、販売している本の値段が下がり続け儲けが出ない、出品もままならないことは前にも何度も書いてきた。が、2013年秋の段階で、もうネット古本屋という商売は撤退するしかないと決意した。そのことについて書いていく。

 ネットで古本屋を始めて約10年が経つと思う。きっかけは北尾トロ氏のハウツー本を読んで、これなら自分でも家で簡単に始められると思い、友人から貰った本も沢山あったからまずは自店舗を立ち上げて古本商売を始めてみた。

 しかし、無名の個人の「店」では集客力はなく、なかなか注文は来ない。で、Amazonのマーケットプレイスに参入して、そこで出品して手数料はとられるものの主力はほぼそちらに移行した。
 そこでの当初は、正直、面白いように、右から左へと本は売れた。つまりAmazonで検索して、新刊と並んで中古本が出て入ればそちらが安ければ人はそっちで買う。出品すればするだけ売れていく。かなり儲かったかと記憶する。

 だが、ご存知のように、しだいしだいにそこでもデフレ化が進行し、出品者が多い本は、それぞれが値下げ競争に腐心したあげくついには「1円」という値をつけて出品する店も出てきた。そんな値段で儲けが出るのかと訝しむだろうが、かつては送料は一律340円もとっていたし、多数出して多数売れるメドのある大口出品者には特枠もあって、その送料などから僅かでも儲けが出る仕組みとなっている。けっきょく、気がつけばいつしかベストセラーなど話題となった本は、ほぼすべて「1円本」となってしまった。

 ウチはそんな大きくやっていないから、出品価格=売値が200円以下となってしまえば実質的利益は100円以下そこらとなってしまう。それでは梱包、出荷など手間ばかりかかってバカらしい。出すからには手取りで千円以上の儲けがほしい。しかしそんな本はなかなか手に入らない。せいぜい売値が300円ぐらいまでが下限である。それでもマージンが惹かれるから実質の儲けは微々たるものでしかない。

 そんなこんなでもうやっていけない、と一時そのときも撤収を考えた。しかし、Amazon側も考えて、古本のリストをISBN=本の個別識別番号のついていない古い本、つまりかなり発行からかなりの歳月を経た「古書」の枠も拡げて、出品できる範囲を大きく拡大した。
 おかげで、それまでAmazonのリストにはなくて売れなかった旧い学術書、専門書なども出品できるようになり、そうした本は高値がつくからまた持ち直すことができた。
 そんなこんなで、点数は多くなくても売れれば儲けが大きいからウチではそうした古い物理や数学、工学などの専門書中心に出品することにしてまあ小遣い稼ぎにはなっていた。

 しかし・・・このところ注文が時とともに減り続け、昔は日割りすれば少なくとも日に一冊の割合で届いていた注文も何日も一冊も売れない日が続くようになる。今も常時2000冊近く出品中なのだが、売れるのは新たに投入した本だけで、全く売れないままの不良在庫が溜まる一方となった。
 それでこのところ暑さも和らぎ涼しくなったこともありそうした「在庫」を再検索して同じ本が他店ではいくらで出しているか一冊づつ確認作業を続けている。本当はそうした作業は日々地道に確認して「相場」を意識しないと時間とともに値は下がっていくものなのだからいつまでも当初の値段では売れるはずがない。順次他店の最低値を確認してウチの本も下げなくてはならなかった。しかし忙しさにかまけてほったらかしにし続けていたのだ。

 わかったことは・・・ ウチが千円近くの値で出している本はそのほとんどが今は1円本、もしくは100円以下となっていて、確認後、すぐに出品取り消しするばかり。再検察して他店との相場を確認してみると、「1円本」と化していたのでマーケットプレイスから引き揚げた本が割合で言えば10冊のうち半分以上である。他では1円で出しているのにウチでは千円近いのでは売れるはずがない。

 また、以前は高値がついて、出品していた「専門書」「稀覯本」も軒並み値崩れを起こしている。さすがに1円ということはないが、自分が4千円で出している本の最低値は今400円からだったりと、確認して愕然としてしまった。ウチが付けた値は、出した当時他店と比べて一番安くつけていたはずだ。それが今では一番高いランクとなってしまっている。ざっと見積もるとその値崩れ率は10分の1といった感じである。つまり一万円だった本が今では千円で出品されているということだ。
 むろん今だって相変わらず何万もする高値で出されている本もあることはある。しかしそれは他店にその本の出品がない一冊、もしくはごく数冊の場合であって、けっきょくそうした本は需要もなく当然売れない。自分も仕方なく他店と競合していなくても売れないので値を下げた。

 現行本、ちょっと前に話題になったりよく売れた本が1円本と化するのはわかる。それは出品者も点数も多いから。しかし、以前は高価で取引されていた古書の域の本までが今では値崩れを起こしている。これでは出品できたとしても儲けはたかが知れている。何故なのか、どうしたものか。

 マーケットプレイスには出品中だが何年も全く売れないままだった不良在庫を再検索して、今でも出品するに値する価格が付く本はごく僅かだとわかってきた。稀覯本でも専門書でもともかく値段を下げて再出品しなおしている。しかし、それでも反応は芳しくない。もう何日も一冊も注文が届かない。

 kindleなどの電子書籍がじょじょに普及しているからと考える向きもあろう。しかし、思うに、そんなこととはまったく関係なく、本という媒体自体もはや価値を失っているのではないか。一言でいえば、「本」というものを愛する読書好き、読書人、古書マニアのような人たちが激減しているような気がしている。
 確認したわけではないが、本当の古本屋さんたち、つまりAmazonマーケットプレイスなどで扱う類の古本ではなく、本物の「古書」、=稀覯本、専門書籍を扱う古書店もそうしたものを熱心に求める顧客自体が減っているのではないかと想像している。かつては大学の先生、巷の研究者、郷土史家、古書マニアのような「古書をこよなく愛好する人々」がこの国にもたくさんいた。しかし、近年、特に21世紀になってからはそうした人たち、つまりある程度高年齢の世代が死滅していき、さらに活字離れもあってそこに新たな参入者、後進の育成もなく、そうした市場が成り立たなくなってきたのではないか。

 つまり単なる「情報」ならばインターネットでほぼ何でも間に合ってしまう。検索すればどんなことでもたちどころにヒットして誰かが教示してくれる。何も絶対「本」でなくてはならないということは少ない。つまりアーガイブスとしての本はもう役割を終えたのではないか。
 だとすれば、そうした本を売って、しかもそれが新刊の出版ならばまだしも、従来の「古本」ならばそこに需要などはほとんどないのではないか。つまり情報としての「実用書」としての本は21世紀前半の今役割を終えた。また「小説」「物語」としての本もインターネットで配信すれば事足りるのだから、本の意味はない。ましてそちらは電子書籍で十分だ。

 となると古本を商う古本屋はいったい何を売れば良いのか。
 今、自分はまずたくさん抱えている不良在庫を全部検索した上、値がつかない本はすべて処分して、残った少数の本たちと共にAmazonでではなく、自店舗で再出発しようと考えている。
 「店」はともかく開けて、何かを、売れるモノはともかく何であろうとも売らなくてはならない。売って金を稼ぎたい。でないと住む家はあっても収入のアテが自分にはないのだ。年金は一円も入ってこない。今さらコンビニや工場、清掃員のバイトも口がない。

 だからこそ本当に真剣に「商売」をやっていく。それが「古本屋」と呼べるかはわからないが、旧いものが大好きな自分としては「古物商」として再スタートを切りたい。年内にがんばって撤収作業を終わらせて、来年早々には「新装開店」をと夢想している。むろんそこに需要があるならば本は売っていく。なぜなら減ったかもしれないが本好きはまだ自分も含めてかろうじて生息していると信じるからだ。

 誰が本を殺したのか。ようやくわかった。インターネットが普及したこの「時代」そのものなのであった。

現代商売考・1の続き2013年05月19日 04時34分13秒

★「限定・希少」という誘惑に人は弱い。

 当然のこと、かつて一度は世に出たものの絶版、廃盤となった本やレコード(CD)などが山ほどある。版元、出版社、本なら本で作者の手元にもない本もある。

 アマゾンの膨大なリストには、私家版などを除いた世界中で販売された「商品」が何万点と載っているわけだが、むろん本でもCDでもハードもソフトも抜け落ちているものが多々ある。
 疎にして漏らさず、という言葉があるが、密にして漏らしている。どれほどコンピュータが発達しようと過去のものも含めたら神ならぬ人間のこと全てを網羅することは絶対にできない。必ずミスや漏れが出る。

 古本稼業を始めて、アマゾンのマーケットプレイスで売るには、まずはISBN(本の個々識別番号)で検索する。たちどころに現在の最低値と出品点数が出てくる。ISBNのない古い本や雑誌類でもタイトルと著者名、出版社名など入力すればたいがいはヒットする。

 しかしごくたまにISBNは付いていてもアマゾンのリストに載っていない本が出てくる。仕方なく、自店舗のほうで適当に値段付けてそっちの陳列棚に載せておいた。そしたらすぐに売れて、売れたあとも今も問い合わせがある本が何点かある。曰く、その本をずっと探している、もうないのか、あれば高くても買いたい、入ったら連絡してくれと。

 それは古書マニアにとってのコレクターズアイテムとかではない。例えばあるムックは、少女向けに出されたお菓子作りの本だったりで、今成人した彼女たちが懐かしく、あるいは自分の娘に与えようとして探し求めている本だったりする。
 また、アマゾンのリストやサイト「日本の古本屋」のリストにも載っている本でも、万単位でのかなりの高値がついている本やCDがある。ウチにもあるがなかなか売れないし、もし売れれば儲けは大きい本だ。そして自分も読み手、本好きの立場からすると、長年欲しくてもそのように高値ではなかなか買えない本やCDがかなりある。値崩れを待っても希少本だからまず安くは出てこない。
 
 本なら本で版元にはその本の権利があれば、ある程度のニーズが見込まれるのなら復刊、再発すれば良いはずである。じっさい、ある出版社はアンケートで復刊、再版してほしい本の希望を募った。が、そうした企画はすぐに頓挫してしまう。何故かというと、復刊して出しても意外にも期待通りに売れないからだ。

 そうしたことを前述の古本屋氏はこう表現した。「いつでも買えるは、いつでも買わない」と。名言だと思う。確かに人は、それがなかなか買えない、希少かつ限定のものだと思うと探し求め欲しくてたまらなくなる。が、本なら本で復刊され安くまた世に出たのに、出たことを知ると、まあ後でもいいか、となる。むろんずっと探し求めていた人はすぐ飛びつくだろうが、そこまでの思いがなければ、慌ててすぐ買うことはない。

 それが人間の心理であって、食料品でも何でも、もう間もなく売れ切れ、残るは三点だけ!と煽られると大して欲しくはなくても焦って買ってしまう。もうそれで最後、限定品だと言われると買っておかないと、買わないと損するような気分になる。

 逆にそれが安くてもたくさん並んでいると欲しい気持ちはあったのに、まあ、でも慌てて今すぐ買うことはない、後でまた買えばいいやという気分になる。
 だから今出ている商品でもAKBなどのグッズは、初回限定版、と銘打って、点数をまず少ないことをウリにして希少価値を付けて売り出す。あるいは予約特典とか、同じCDでもジャケットが異なったり多種類のアイテムを出していく。そうでもしないと売れない。希少価値こそ売れるヒケツだと気がつく。人の購買欲はそこにある。そこを刺激した商品こそ売れていく。秋元康氏などはそこを常にうまく突いている。

 まあ、米やパンなど食料や衣類は生きていくのに必須のアイテムだが、本やCD、DVDなどは本来不要不急のものなのである。いつでも買えるものは人はいつでも買わない=いつでも売れないとするならば、それをあえて売る、つまり買い手が欲しくなるには、今すぐ買わないとならない、なかなか手に入らないから、という買わねばならない理由、動機づけがなくてはならない。

 ならば、いつの時代でもモノを売るにはそれなりの手なり工夫がまだあるように思えてきた。古本屋氏は、今の時代は本が売れない、本を読む人が減ってしまったと嘆きつつも決して商売は諦めていなかった。それは彼が口にしたように「古本屋というこの仕事が好きだから」であり、自分もまたもう少しこの世界であがいてみてもいいかと彼と話した帰り道あれこれ考えた。
 何しろ、古本商いこそ、それぞれほぼ一点ものの希少なものを扱っているのである。それらを丁寧に売っていけば活路は開かれるのではないか。

 ところで、自分はその日、その店で何を買ったかというと、店頭に出されケースのまま売られていた岡晴夫などのもあるSP盤が入ったボックス2箱×300円と、ほるぷが出した名著復刻本(破れあり)一冊100円のを4冊、合計千円であった。そう、SP盤こそ今は貴重なので出会ったとき今すぐ買わないともう手に入らない。これが京都北野天神の骨董市だったら何万円の値がつくかわからない。
 そう、「限定・希少」という誘惑に人は弱いのである。

現代商売考・12013年05月18日 06時05分14秒

★いつでも買えるはいつでも買わない。

 先日のこと、昔なじみの古本屋のオヤジさんと雑談をして「商売」について今さらながら耳目を開かされた。その話。

 駅前に昔ながらの古本屋さんが今もある。と、書くと今は驚かれる時代になってしまった。実はマス坊の利用している青梅線には現在組合に入っている実店舗の古書店はもはやその店一軒しかない。中央線の賑わいを思うと情けないが現実の話仕方ないのである。

 むろんブックオフのような昔はなかった形式の郊外型大型古物商は町ごとにいくらでも今はある。が、あれは古本屋とは呼べない。単に古本も扱っているスーパーマーケットのようなもので、従業員の一人として古本に対する愛も関心も知識もない。それは自分の中のイメージする町の古本屋さんではない。ご理解頂けるかと思う。

 古書店という堅苦しい言い方でなく、そもそも町の「古本屋さん」とは、ある程度歳のいったオヤジ、もしくは老夫婦が店番をしていて、間口はさほど広くはないが床から天井までびっしりと本棚に囲まれた空間であり、店頭には処分品の平台か棚が置かれている。神田のそれのような高額の稀覯書類はないが、漫画から実用書まで幅広く低価格で扱い、ある意味新刊書店と図書館の間をつなぐような品揃えを保っている。

 そうした店の主人は総じてヘンクツであり一見無愛想で子供にはおっかないが、顔なじみになると本のことから世間話まで存外話好きで話し込むようになっていく。古本屋とは本好きの人の手頃な娯楽の場であり、駅の帰りにたまに覗いては、掘り出し物を探したり何もなくても三冊200円均一の棚から面白そうな本を選び店主とあれこれ世間話をする。
 古書マニアは古本屋地図を片手に路線ごとそうした古本屋を回るのも休日の楽しみであった。

 皆さんの町、駅前にはそうした古本屋さんが今もありますか。

 昔はそうした古本屋が各沿線ごと駅前には必ず一軒はあった。が、文化の果つる地とも揶揄される西多摩地区、青梅線沿線には今は昔ながらの新刊書店でさえ消えていく一方で、もはや古本屋はその店一軒なのだ。※実店舗を持たないネットやカタログ販売の古書店主は何人かいる。これは組合に加入している「本職」の人のことで自分のような古物商の鑑札はあっても組合に入っていない者のことは加えていない。

 その駅前の古本屋とはもう学生の頃からの馴染みだから40年ぐらいの付き合いか。いつしか顔なじみになり行けばついあれこれ話し込む仲だ。彼も自分もだいぶ相応に歳とった。ただ、彼は八王子にももう一軒別店舗があるので、その店に行き、こっちの店はバイトに任せ近年ずっと不在であった。が、このところは週に何日か戻ってまた店番をしている。
 だがこちらも居職で通勤はせず駅までも行くことは稀なので、なかなか顔を合わし話す機会もなかった。ただ、思うと自分にとっての古本屋の師はじっさいのところ彼であり、勝手に私淑し倣い彼の店のような古本屋に憧れていた。※ネット古書店のほうの「師匠」は今や売れっ子・北尾トロ氏であるが。

 と、前置きが例によって長くなった。
 その店主と昨今の古本商売についてあれこれ話した。中でも気づかされ興味深く思ったのは、復刻、復刊本についての話である。絶版だった書籍がたまに再版復刊されて再び世に出るけれどそれは意外にも売れやしない。何故ならば人は、いつでも買えるとなると逆に買わなくなるからなのだ。【この話長くなったのでもう一回】

夢か現か、2013年05月05日 23時05分49秒

★覚めない夢を見ているような

 落語の噺に、「芝浜」というのがある。たぶんご存知か。呑兵衛の魚屋と良くできたら世話女房との人情話である。
 
 酔っぱらってばかりの魚屋が大金の入った財布を拾い大宴会を繰り広げる。女房はこのままこの金があるともっとダメになると気を利かせて、翌朝、財布の件は夢の中の話だと信じ込ませる。やがて魚屋も酒をやめ真正直に働くようになり、ようやく3年後、女房は泣きながら財布を出して真相を告白、許しを請い大団円となるわけだが、自分もときおり、この噺の魚屋のごとくどこまでが夢だったのか現実のことなのかよくわからなくなることがままある。

 人は誰もが夢を見るわけだが、常にうんとシュールなバカバカしい、夢の中でも夢だとわかるような夢を見ている人もいるかもしれない。だが、自分の場合は、ほぼ日常とほとんど変わらない、登場人物も状況も現実の延長でしかない夢ばかりで、時々、夢と現実がごっちゃになり、その判別も含め現実世界との齟齬というか辻褄を合わすのに苦労することがある。
 誰それに既に話したと記憶していても実はそれは夢の中の出来事だったと、気がつけばよいほうで、もしかしたら自分が考えているこの現実もそうとう夢の中のことが入り交じり混濁してしまっているのかもと不安になる。

 それはアル中の症状の一つだとも言えよう。ただ、このところ基本的には始終日々呑むこともないし、呑んだとしても泥酔状態までなることはまずないから酒のせいだとは言えない。ただ、落語の魚屋のように酔っぱらいは現実のことでも周囲から夢だと否定されれば合点がいかなくともやはり信じてしまう。ある意味、それは夢か現か、というのはすごくあやふやで不安なことなのである。まあ、さすがに 幻までは観ることはまだないけれど。

 実は個人的にとても大きな良いことがあった。大げさに言えば、残りの人生の一つの転機になるようなことだ。ただ、それはまだはっきり「確定」したことではなく、自分でも半信半疑というか手放しで喜ぶべきではないと思うし、まだちっとも喜べない。話が結果として流れてもまた仕方ない、当然だという気持ちもある。
 だからまだここに何も書けないし、話が確実にまとまったらお知らせもできようが、今は残念ながら発表はできない。ただ、とても嬉しいわくわくするようなことであり、だからこそ、「芝浜」ではないが、これは夢なのかもしれないとさえ思うほどだ。

 じっさい、だまされているのかもしれないと考えたり、いや、これは現実のことなんだと思ったり、あれこれ考えている。今はまだ「待ち」の段階であるから、向うから次の連絡があるまでどうすることもできない。
 もしかしたらこれは夢で、やがて起こされて、ああ、やはり夢だったのか、でも素晴らしい楽しい夢だったと思うのかもしれない。そんな気さえしている。

 誤解されるとイヤなので、恋愛とか色恋沙汰の話ではないとだけ書いておく。ただ、それが現実に、つまり実現したら自分だけではなく多くの人たちにとっても良い楽しいこととなるのは間違いない。

 この数日。そうしてずっと覚めない夢を見ているような感じがしている。まあ、夢であっても現実でも今はもうどうでも良いような気持ちにもなっている。すべては神の意志、計らいなのだから。

インターネットはこの「文明」そのものを変えていく④2013年03月27日 21時52分41秒

★本好きと読書好きは違うし、読書世代は消えていく。
 
 もう何十年も前から言われていた出版不況であるが、今の状況はそんな生やさしいものではないそうだ。雑誌の休刊が相次ぐだけでなく、大手の出版どころも倒産の噂が声高に囁かれているし、何よりも町にある純粋な本屋さんが次々と廃業に追い込まれている。出版社、取次、書店も三位一体青息吐息なのだそうだ。そしてその流れにある古本屋も。
 
 自分が思うに、インターネットの普及以前に、そもそも読書人口は減り続け、今では若者だけでなく、学業や仕事以外で本を楽しみとして読む人たちが激減していることも大きいのではないか。
 マス坊たち、今の50代、そのちょっと前の世代である全共闘世代も漫画ばかり読んで本を読まないと若い頃は当時の年長者たちにさんざん批判された。
 それでも今思うに、当時の余暇の楽しみは体育会系を除けば漫画も含めた読書かジャンルを問わない音楽鑑賞、映画鑑賞程度しかなかったわけで、70年代の角川書店が仕掛けた横溝正史の大ブームのように、内容や程度はともかく皆かなり本を読んだと今にして気づく。
 それがいつしかファミコンなどからのゲームブームが起きて、それがRPGや、モンハンのようなアクションゲームまで登場して若者たちはゲームに多大な時間を割くようになっていく。

 自分も学生の頃はともかく、社会人や30代の頃は本を読まなくなっていたが、今の30代の人たちと話していると本当に学生の時でさえも本をほとんど読んできていないことに驚かされる。当然語彙も言い回しも全く知らない。つまりそういう世代が多数を占めている時代なのだから本が読まれる=売れるわけがない。
 
 ただ、いつの時代も「趣味は読書」という読書好き、活字好きは当然ある一定数は存在している。また、仕事などでどうしてもビジネス書を読まなくてはならない層も多くいる。だが、彼らは「本好き」かというとまた微妙に違う。ビジネス書を読む層は、通勤時にもより簡便な電子書籍を選ぶだろうし、読書好きが=「本好き」とは限らない。

 本が好きというメンタリティーを持つ人は、書店や古本屋に足繁く通い、本を手に取ってはつい買ってしまい読まずとも積んでおく。そういう世代は高齢者ほど多いのは言うまでもない。そして今その世代が老いてきて目もかすみ本から離れてしまい間もなくその絶対数さえも減っていこうとしている。
 よって本は売れないし売れなくなるのも当然の帰結だとわかる。若い人たちは本を読む習慣も本自体を所持する、愛する気持ちがないのだから。

 さて、では自分はどうしたらよいものか。

本の価値と人の価値・32012年11月09日 21時58分49秒

★本の価値をあらためて問う

 嘘か誠か、その存在も含めて世には霊というものがあり、霊感が強く霊を引き寄せる体質、霊が集まってくる人もいるのだという。その例に倣って言えば、自分は本に好かれる、本がいやでも集まってくる「古本体質」らしく生来本とは縁が切れないし本集めに窮したことはない。パリに行ったときでさえ、通りがかった引越し現場のゴミ箱から20世紀初頭のグラフ誌など拾わざるえなかった。それは本が拾ってくれ、まだ捨てられたくない、人に読まれたいと望んでいるからであろう。

 だが、そのことと「売れる本」が集まることはまったく別の話である。自ら苦労しなくとも自然に、意図する意図せざるに関わらず本はウチに集まってくる。意識して集めることもなくはないが、大概は人伝に引取りを依頼されることも多い。しかし、引き取ってもその九割方はネットでは値のつかない、「クズ本」なのである。それは古く汚れているからではなく、これまで説明したように限りなく「1円本」に近いゆえ儲けが出ないからである。

 手元に来た本の束をほどいて一冊づつISBN番号が付いている本は、その数字をアマゾンの本のページ検索欄に打ち込んでいく。するとマーケットプレイスのリストにあるその本のページが表示される。その本の情報が値段と共に出、ついでに同じ本の中古品も価格の低い順に見ることができる。以前はそれほどでもなかったが最近ではほぼ最低値が「1円」からで、それに+送料250円と出てくる。1円でないとしても大抵の本が100円以下である。それはコミックスでも変わらない。

 自分は溜息をつき、そうした本は値のつく本と別に分けて一箇所に平積みにしていく。その売れない本の山はどんどん高くなって溜まっていく。その本たちは基本的に「処分」するしかない。でないとすぐに部屋が本に埋まってしまう。
 本好きを自認してまあこんな商売を始めたわけであるが、最近では本当の本好き、愛書家、読書家は古本稼業など向いていないしすべきではないとつくづく思う。古本屋とは古本を扱う「商売」が好きに他ならない。

 自分の場合、ウチにそうしてきた本は、自分用に、自ら関心のある本、求めていた本、読んでみたい本などはまず別に取り分けておく。それは音楽や詩、生活、思想などの本であり手元にいつまで置いておきたいかは別としてともかく読んでみないことには始まらないし判断できない。そんな“大事な”本でも「商品」として来たときに直ちに右から左へ動かしていけるのが本当のプロの古本屋なのである。

 そして残った本を検索して市場価格を調べていく。アマゾン側のリストに載っていない本もなくはないが、ISBNも付いていない本当の「古書」や一部の数学、物理などのごく専門書を除けば実感では今では九割方の本が1円本でありそれに順ずる値段に落ちてしまっている。つまり文芸書だろうが実用書であろうが、発行から時間とある程度版を重ねて冊数が世に出た本はほぼすべて1円の値でしかネットでは流通していないということなのだ。そのことはアマゾンマーケットプレイスに見る限り、今や本はほとんどが市場価値はないということだと言っても良いかと思う。

 誰が本を殺したか。本は自滅したという見方もある。しかし、経済の仕組みと時代の流れで今はそういう時代なのだとしか自分には言えない。本格的な「電子書籍時代」を前にして紙の「本」はいよいよ滅亡前夜、その流れがこんな結果だという診断もできよう。
 ただ、一つだけハッキリしていることはそうした時代だとしても「本の価値」自体はほんとうは下がりも変わりもしていないのである。下がったのは市場での価値=価格だけなのだ。【もう一回書いて終わりしたい】

本の価値と人の価値・22012年11月07日 13時29分19秒

★「せどり」で売れる本など今はまず手に入らない。

 一頃、いやたぶん今でも新聞の下段の本の広告欄には、「アマゾンマーケットプレイスでお小遣いを稼ごう」とか「ヤフオクでお小遣い云々」なる、素人でもそうしたネットマーケットで本などを売って副業として金を稼ごうというハウツー本が喧伝されていた。

 じっさいにそれを実行している当人として言わせてもらえれば、もう今の時代、そんなことはまず不可能であり、労多くして儲からないからやめろ、と進言する。まあ、よほどヒマで、時間が有り余っていてそうした小商いに倦むことない性格ならば止めはしないが。その本の説く通りにやったとしてもまず儲からないと断言する。かつては真剣に取り組めば何とか儲かったが今はもはやダメなのである。

 断っておくが、そこに本に対する知識が必要だとか、本が好きだとかは一切関係ない。逆に金儲けに対する飽くなき熱意、それに整理整頓できる豆さ、管理能力などは必須であろう。要するに全てビジネス感覚でコツコツやれるかどうかだ。

 何故それは儲からないか。要するに出品した本が高値で売れれば良いのである。だがならばどうやってそんな本を手に入れるのか。自らむかし買った本を出品したところで、どんなに状態が良くても購入した値段より高く売れる本なんてまずあり得ない。それどころかほぼほとんど全ての本が「1円本」だと気づき愕然とすることかと思う。
 よほどの稀覯本(きこうぼん)ならば一冊で何万もの値で売れるだろうが、そんな本を素人がおいそれと手に入れられるわけがない。要するに一冊純利で千円ぐらいの利が出る本を常時出品していけばそれで小遣い稼ぎには成り得よう。ではどこからそうした本を「仕入れる」かだ?
 前述の本では、主にブックオフなどの新大型古書店チェーンの100円均一コーナーを足繁く回って、そこから一冊105円を支払って高い値で売れる本を仕入れることを説いているかと思う。まあ、業界用語でこれを「せどり」と呼ぶ。これはそんな大型古書店ができる大昔からあった。それで全国を周って生活している人もかつてはいたと聞いた。

 古本屋というのは、そもそも店ごと、店主ごとに扱う専門があるから、自らの専門外の本は価値もよくわからず邪魔な不要本として、店頭の均一棚、処分品の棚に入れてしまう。また、在庫が過剰な本も同様に安く放出せざるえない。昔のセドリ人、今で言えば、「セドラー」はものすごい本の知識を持った目利きであったから、そうした店頭の棚からこの本は、貴重な珍本だとか、高値で取引されているとピンと来て購うのである。つまり商品知識なくしてセドリなどはできなかった。そもそも昔は古本の値段そのものも高く売買されていた。

 しかし、今では大概の本には、バーコードやISBNの数字が付いているからその数字で検索すればすぐに現在の「市場価格」が判明する。なので、ブックオフなどに行くと、携帯を片手に次々と一冊ごとに検索かけているバカと以前はよく出くわした。うろうろされて邪魔以外のなにものでもないが、本人は必死なのである。まあ、他人のことは笑えない。自分も昔はそうしてもしかしたら高く売れるかもしれない本は、その場で買わずともタイトルと著者を記憶して、店を出たらメモして後で家に戻って検索し確認したこともよくあったのだから。

 だが、100円均一の棚に並ぶ本の中から何百円、千円以上の値で売れる本など今はまずみつからない。それは大型古書店側だって同様に検索をかけた上で選別しているし、自らのサイトでそうした高値つく本は出品、販売もしているのである。かつては店自体も知識がなく迂闊だった頃もあった。が今ではそうした棚から高値の付く本をせどるなんて砂金採りのような労苦であろう。そこに付け加えれば、ブックオフなどではそもそもISBNの付いていない昔の古い本は買い取らないし並ばないのである。実はそうした「古書」のほうがマーケットプレイスでは高値で取引されるのである。
 それは町の古本屋さんだって同じことで、全て検索をかけた上で、アマゾンのマーケットプレイスでは1円で売られている本のみを店頭の格安処分棚に並べている。それでも三冊200円で売れたなら、アマゾンなどより純利はあるのである。どうせゴミとして処分するしかない本なのだから。

 ゆえに、Amazonマーケットプレイスに限らず、同様のネット上のマーケットでの古本の販売はオススメできない。いや、そうした高値で売れる本をうまく手に入れる手立てがある方はやればよろしい。しかし今は本が本当に売れない、売れても安くしか売れない時代なのだからこの業界に未来があるのか自分には何とも言えない。書店や古本屋だけでなく全ての小売業は同様にモノが売れずに、売れたとしても安くせざるえなく危機に瀕し喘いでいるのが今の時代なのである。そんな時代に誰がしたのかはまた別項に書くとする。【続く】