今日は我が父95歳の誕生日2019年10月21日 23時11分54秒

★私ごとを書かせてください

 今日10.21は、昔で言えば、国際反戦ディ、もっと古くは、神宮外苑競技場での雨の中、学徒出陣壮行会の日であった。76年前のことだと先ほどNHKのニュースで報じていた。※もう今の人たちには戦時中の学徒動員、学徒出陣とかいったい何のことかもわからないかと思う。が、あえて説明はしない。問われれば答えるけれど。

 そして追悼の行事がそれに合わせて今日あったわけだが、当時の学生で今も生きて参加された方はわずか二人だとのことで、お二人とも96、97歳と、父と同世代であり、感慨深く思った。
 そう、この世代で今もまだ生きているのは、もはやほとんどいないのである。我が父は、今日が誕生日で、大正13年の生まれだから95歳となる。良くも悪くも溜息のような感慨しか出ない。※父は家が貧しかったから大学などへは行きたくても行けず給仕の仕事していたと聞く。が、やはり学徒動員の頃、徴兵され一兵卒として大陸に連れていかれ九死に一生を得た。

 それにしても・・・まさかここまで長生きしてくれるとは、である。嬉しくないわけはないが、連れ合いである我が母は三年前に先に逝き、息子である、妻も子もない我が、唯一の家族としてすべての面倒見ているわけだから、その苦労、大変さは言うまでもない。
 いや、言わなくても拙ブログでは繰り返し愚痴めいたことを書き連ねてきた。それに対してそんなつまらないこと、どこにでもあるようなことは書くな、つまらないと言うご意見も受けた。
 が、そうした「息抜き」、愚痴こぼしの発散の場がなければ、たぶん我はストレスで父を殺して家に火をつけ自殺していたかもしれない。そうした老老介護の末の破綻、行き詰まりの悲惨な事件は今は珍しくない。
 そうならずにここままで父を生かし、父と共に無事生きてこれたのは、我に表現する場、外に向けた場があったからで、どうかご理解願いたい。
 これがプロの、金が入る仕事なら、我もプロに徹して家庭内の個人的事情は、おくびにも出さず、読み手の興味ある事を面白おかしく書いていたかと思う。それもできなくはない。
 が、これは、タダなのである。いくら真剣に時間かけて書いたとして1円にもならない。ならば、読み手に忖度せずとも好き勝手に自分のコトを書いたって良いのではないか。むろんそれで読みたくない方は読まないで、またコイツは親父とのこと、愚痴めいたことを書いてやがる、つまらない、とタイトルだけでスルーすれば良いではないか。

 ただ、あえて言わせてもらえば、これはヒトゴトではないのである。老いも介護も自分とはカンケイないと思っている方は、いつかやがてその過ちにきづくはずだ。
 また、もう親たちはいないから、関係ないとお考えの方も自らの老後、そのとき誰に介護されるか、それはどういうことか考えないのであろうか。
 安倍内閣のキャッチフレーズ、人生百年時代とは、元気で働きながら百歳を迎えられるということではない。おそらくこれから医学の進歩で、誰もがじっさい百歳近くまで生きられるだろう。
 じっさい身体は癌などにやられず健康ならば百歳近くまで長寿はできる。しかし、頭のほうは、果たして呆けずに百までいられるか。
 父を見ていると、やはり頭の方が身体より先にダメになった。今は幸いにして身体も相応に衰弱して動けなくなってきたから勝手に徘徊もできなくなって介護する側は楽になったが。

 百歳近くまで生きるということ、その歳まで生かすということは、本人よりも家族の問題としてものすごく大変なのだ。
 周りを見回しても我が知人友人には、父と同世代の人でまだ生きている人はもう誰もいない。本人は何も感慨ないようだが、息子である我はよくまあ、ここまで生きた、生かせたという驚きに近い感心する気持ちがわく。むろん喜びの気持ちもなくはない。が、これまでもだが、この先はいったいどんな事態が待っているのか、まさに未知のゾーンに入っていくわけで、その「地獄」はどんなものか、怖れつつも楽しみでもある。

 介護側も含めて、老いの苦労や呆けの実相については古今東西いろんな本や話を聴いて漠然と理解はしていた。しかし、じっさいに超老人と暮らしてみて、こういうものか!と日々新たに知り得ることばかりだ。
 何であれ、見ると聞くとは大違いというが如く、頭で知識としてわかっているつもりでも:現実問題として実際に体験してみないと真にわかりはしない。そのことを日々痛感している。

 父は要介護4となり、もう在宅では生活介護の限界となって来たけれど、まあ今は、ともかくまだ当人が意識と感情があり、意思意向が示されるうちはショートステイなど利用しつつこの家で共に暮らしていこうと思っている。
 もうどうせそれほど先は長くはないのだから。が、そう思っているうちにここまで来たわけだから、ヘタ打てば、我のほうが先に逝くかもと還暦過ぎてこのところ不安にもなって来た。まあ、あと5年、百歳までは生きることは絶対ないと思うが、戦禍をくぐり抜けてきた「最後の日本兵」は、信じられないほど頑健で、痩せ衰え今にも死にそうに見えてもなかなか死なないのである。
 そんな父を我は誇りに思えてきた。人はここまで自分勝手に生きて良いのだと。

2019.10.19.中川五郎さんと「共謀」コンサート、無事大盛況で終了す2019年10月20日 09時21分42秒

★さあ、ここからこれから解き放たれる

 昨日19日、谷保かけこみ亭で開催された、中川五郎古希・音楽活動50年過ぎ記念「五郎と共謀コンサート」は、多くの観客、多彩なゲスト、彼を慕い敬愛するたくさんのミュージシャンが集い無事大盛況のうちに終わった。
 参加された多くの皆さん、それに御大中川五郎さん長い時間お疲れさまでした。素晴らしい時間を共に過ごされた皆さんにただ感謝いたします。参加ご協力ありがとうございました。
 歴史と記憶に残る一夜になったと思うし、自分の中でも一つの大きな節目、厳しい峠をやっと乗り越えた気がしている。
 
 このところ自ら企画したコンサートを終えると、いつも翌朝起きたとき感じる気分は、長い旅から帰って来た時のような疲労感と安堵の気持ちであるが、今朝は特にそれが強い。登山を行った日の翌朝の気分にも近い。足腰がだるく痛く、身体の節々も痛くて鈍い頭痛もしている。自分では何も「演奏」はしなかったのに。でも気分は爽快だ。何より解き放たれた気分でいる。

 これから今回の「五郎と共謀」コンサート、当日の模様を時間を追ってこの場で公開していこうと思う。
 が、その前に、こうした音楽企画をいったん終えることにしたことについて、今の気持ちを自らのためにも記しておこう。

 まあ、ともかく大きなイベントを無事に終えて、この先の予定もなく、やっと背負ってきた荷物を降ろすことができる。のんびりは出来ないが、これまでの「旅」を振り返ろうと思う。
 登山家が、山から下りたら、リュックを開けてまず持ち運んだ装備品を点検し、汚れた靴を洗い濡れたシュラフなどを干すだろう。そして登山記録を記す。そうしたことをやろうと思う。
 そしてまた次の新たな登攀する山を定めて、計画を立てて準備を進めていく。我はまだ今はそんな予定は考えないが、まずは荷を降ろして、「点検」と「記録」をきちんとしていきたい。

 自分はミュージシャンやシンガーではなく、そもそも観客の延長から「企画」側に立った者だから、コンサートに対する感覚は、彼らとはまったく違う。
 演者というか、ステージに立つ側は、その日そのときが全てであり、基本終えたライブのことはあれこれ振り返らない。失敗も成功も含めて過ぎたことであり、また次の新たなるステージと観客のことしか考えない。
 それは、高坂一潮のうた『だびよんの鳥』が描いているように、「長い旅」の続きであり、日々次の演奏時にベストを尽くすだけなのだ。彼らはいつまでもそこに留まっていない。ある意味、ミュージシャンは旅芸人なのである。
 だが、観客側は、つねにここにいて、優れた映画を観たら何度も思い出して反芻し、ときに感想記をつけるようにその過ぎたときを記憶に留めるものだ。

 まして企画側は、その日そのときそこであった事を責任もって記録しないとならない。どんなミュージシャン、シンガーが登場し何が唄われたのか、観客の入りや反応はどうであったかも含めて。
 演者側は、歌い演奏することしかできないからこそ、観る側、特に企画する側はレスポンスとして終演後それをしないとならないのではないか。
 いや、観客としてただ純粋に音楽や演劇、映画を楽しむ側は、次々また新たなそれを楽しみに観に行けばよい。日々新たな旅芸人は、そこにやってくるのだから。
 そう、企画した側の責任だけが問われているのであった。それと我が関わり観たコンサートも同様に。

 思えば、1970年代半ば、大阪天王寺野音での春一番コンサートに出向いた時から、我はずっとそこでの音を録り写真も撮ってきた。それはそこであったことを記録しておかねばと考えたからだ。何でか?それは感心感嘆するほど素晴らしいものであったからだ。
 建物や風景は、モノだから基本そこに存在している。むろん日々少しづつ移り変わり消えたり新しいものになったり変貌していくものだが、いつでもこちらの都合で記録できる。
 しかし、パフォーマンス行為、中でもライブ音楽は、映画演劇などよりも可変的要素、即興性が高く、同じうた、演奏でもその日そのとき、場と参加メンバー、観客も異なれば出来はまったく違う。

 芸能音楽は形がない。絵画などの芸術は、作品として残るからどれほど時間が経とうとも条件があろうが鑑賞可能だ。が、目に見えない音楽、演者はそこにいても音と演奏は、あたかも風のように、その場を通り過ぎていく。そこにいた人の耳と心に深い余韻を残しながら。
 風の歌をきけ、という小説があったが、まさに歌、音楽とは風のようなもので、本来はその場にいてそれを聞いた人だけのものだった。
 今は科学の発達で、映像も含めて誰もがそれを記録保存、さらに公開、拡販することも可能になった。誰でも、その場にいなくても後でいつでも観ることができるようにしたのは、YouTubeの偉業であろう。
 しかし、それはいつの時代も変わらず、それを記録していた人がいてのはなしだ。どんなに素晴らしい歴史的価値がある出来事、イベント、記録的事件であろうと、文字も含めてそれを記録した人がいてのことだ。

 歴史とは何か、と問われて、文字に書かれたことこそが歴史だと言う至言が中島敦の小説にあったが、まさにあったこと、起こったことは、それをその場で観た人が、何であれ「記録」に残さないと、そしてそれを世に「公開」しないと「あったこと」にはならない。
 我はそう意識してずっと近年、高田渡の死の年、2005年から可能な限り、条件が許されるならば、行ったイベント、コンサートは音と写真などで記録するようにしてきた。それは膨大な量に上るはずだ。
 が、記録はしても「公開」しない限り、いや、公開しなくともそれが残ってることを告知・周知させない限り、それがあったことは世に残らない。なかったことになってしまう。
 特にこの我が死んでしまえば、すべては雲散霧消して「なかった」ことになる。老いてこのところその恐怖、不安を強く感じる。

 願わくば、そうして録りためた音源、画像をすべて時間と場所、個人こどに分別整理しデジタル化して、私的アーカイブスをつくりたいと思う。
アメリカには公文書館があり、かのローマックス親子がいたことで、レッドベリーをはじめとして貴重なシンガーのうたが彼らの尽力で残され今日も「生きて」歌われいる。
 日本では、伝統芸能、歌舞伎や能、狂言、落語などの一部の演芸は、公的機関の庇護の元にあるが、音楽、中でもポピュラーソング、ロックやフォークソングなどの大衆芸能、民衆音楽は国家は取り締まりはしたとしてもまったく価値を認めていない。まさに風のようにその日そのとき、どこかで吹いてはたちまち消えていく。その場にいた人たちだけが記憶に留めるが、彼らが死ねばそこに何も残らない。

 そうならぬためにも自分はこれまで録り溜めたライブ音源・映像などをきちんと整理してデジタル化してCD、DVD、あるいは、YouTubeなどに演者の了解・承諾が得られたらアップしていきたいと考えている。
 むろんこれからも時間とお金があれば、お誘い受けたライブ、イベントにはできるかぎり顔出してまた記録は続けるつもりでいる。また、音楽イベントもまた新たに企画出来たらという腹案もなくはない。
 が、いまは、まずは父の介護の傍ら、ひたすら家に籠って猫たちに餌やりつつ、パソコンに向かい音源と映像整理に取り組んでいくつもりでいる。
 その日そのとき、そこで何があったか。拙宅無頼庵は、それを鑑賞・公開できる場、アーカイブとして再開させたい。むろんいっぺんにはできない。少しづつ少しでも進めていく。

颱風19号、「まずまずの被害」では全然なかった。2019年10月15日 23時15分42秒

★二階氏の発言に思う

 寒くなった。体感ではもう季節は冬である。この寒さの中、被災し今も体育館などの仮設避難所にいる人たち、家はあってもライフラインなど整わないで苦労されている方々はどれほど大変かと思う。屋根が飛ばされ、今もビニールシートで覆って隙間風に震えている人も多々おられるに違いない。

 自民党二階幹事長の先の発言が大きく取り上げられ批判されている。
 彼は13日、台風19号の被害を受けて開いた党の緊急役員会のあいさつで、「予測されて色々言われていたことから比べると、まずまずで収まったという感じだ」と語った。その時点で、死者が20人を超え、行方不明者の捜索も続く中での発言である。
 いや、じっさいこの我も颱風が通り過ぎた直後は、まずまずで被害は収まった、どころか、大騒ぎしたわりには大したことなかった、と拍子抜けした気分でいた。
 むろん雨は、前日から強く降り続き、これは河川の氾濫自体も起こるかもという「予感」はしていた。
 が、我ももその時点で問われれば、二階氏と同様の「発言」をしていたかと思う。それは個人の「実感」なのだから仕方ない。

 そう、人それぞれ何をどう感じとらえるかは全く違っている。昨日あたりから急に寒くなって、コタツやストーブが恋しいと思う人もいれば、先ほど街に出たら、公園では半ズボンのままサンダル履きでスマホに夢中になっている若い男がいてびっくりした。彼はたぶん寒いと感じていないのであろう。
 だから人それぞれの感覚、「私感」は大切に尊重されなくてはならないし、全員が同様の「感覚」を持つ必要はまったくない。
 しかし、今回の台風の被害は日を追うごとに明らかになってきて、現時点で、堤防決壊百ヶ所以上、住宅浸水四万棟、70名を越す死亡者、さらに行方不明の人も加えれば、おそらく百人前後の死者が出る、広範囲に大きな被害が出た激甚災害だとわかってきた。
 ならば、我も、今回は大したことなかったと、自分の地域だけ見た「実感」で全容を語ってはならないし、今さらながらその被害の大きさに心痛めている。3.11には及ばずともそれに準ずる巨大災害である。消費税増税後の日本経済にまたさらに大きなダメージを与えることは間違いない。

 二階幹事長は、迂闊につい口を滑らせたのだろう。しかし、台風通過後直後の、まだ情報がよく入ってきていない時点で、「まずまずで収まった感じ」という「私感」を、政治家、それも政権担当する党の重鎮が口にすべきではあってはならないことで、まさに颱風被害者を傷つけ愚弄する発言だと断じる。一市民が個人的に「私感」を述べるのならともかくも、だ。
 政治家は、一市民である前にまず「公人」なのだから、たとえ身内の会合のオフレコばなしであろうと、常に報じられて広く世間に流れ出る。まして政権与党の要職にある人が、被害全貌が判明する前に、20人を超える被害者が出ている最中に、「まずまずで収まった」とは、そう思ったとしても絶対に口に出してはいけないことであった。

 しかも二階氏は、その発言撤回も謝罪もすぐにはしないで、あくまでも傲岸不遜、人を人と思わぬ態度で、批判されても時間をおき「撤回」はずいぶん後になってからのことであった。それもしぶしぶに、という感じの仏頂面を貫いたままであった。きちんと心から謝罪したのか。いったい何様のつもりであろうか。
 人を人と思わぬ、傲岸不遜、弱者を傷つけ愚弄さえするのは、歴代最凶最悪の安倍政権の特質、本質であるが、安倍首相に並んで二階幹事長、この男の存在が大きいことを今回の「まずまず」発言は象徴している。

 地震や火山噴火と違い、台風ははっきり襲来の方向と時期もわかっている災害である。しかも今回の台風は、巨大で勢力もものすごいことは当初から予測されていた。
 現在百人規模の死亡者と数万人にも及ぶ被害を受けた人々に対して、これは自然災害だと言えるのだろうか。これは「人災」ではないのか。もっと事前に避難誘導できたのではないか。人災だとするならば、政府政権与党と、各地の行政、報道機関の責任もまた問われねばならないのでないか。
 これは繰り返す。毎年、この規模の台風、自然災害が日本を、地球規模で襲ってくる。人類にはそれを防ぐ手立てはあるか。まずはどう備えるか。

命を守るのも「自己責任」で、か。2019年10月13日 21時11分35秒

★哀しいほどのお天気の「台風一過」。

 今日は、朝からカラッと晴れて今年最高の好天気、気持ちの良い久々の秋日和となった。吹く風も爽やかなまさに台風一過の青空であった。

 が、台風通過後一夜明けて、東日本各地でその被害の全貌が明らかになってきた。記録的な豪雨をもたらした今回の颱風19号。関東や東北の多くの河川が決壊、氾濫して濁流が市街地に流れ込み多くの家屋。建物が水没している様相が明らかになって来た。
 先の15号は、強風、突風の風颱風だったわけだが、今回は巨大かつ勢力の大きかったため、長時間広範囲に雨が観測史上ないほど降り続き関東、東北の各地で「水没」地域が多発した。
 我が地域は大した被害はなかったから、良かったと安堵したとしても、現実のはなし、こうして水没した自宅の二階の屋根に上がってヘリコプターに向かって救助を求める人たちの映像には胸を締めつけられるものがある。
 命は助かったとしても、住まいは二階までも水浸しとなってしまえば、衣食から家財一式何もかも使い物にならないわけで、家自体は無事だったとしても生活再建はいったいどうなってしまうのか。ましてこれから寒い冬がやってくるのである。
 15号での、屋根が吹き飛ばされたままの千葉県の人たちも、さらなる被害の程度はわからないが、この冬を無事に自宅で乗り切ることができるのか。
 様々な不安と生活困難がいっぱいの被災者たちに、何かできることはないものか。哀しいほどのお天気となった今日、まさに、テレビを前にしていろんなことを考えさせられた。自分のところが無事だったから良かった、幸いだったとすましてヒトゴトとしてはならないと強く思う。

 連続多発する激甚災害の時代に我々はどう生きていけば良いのか。何をすべきなのか。

 それにしても昨日からテレビの報道を見ていてちょっと気になる「発言」がある。それは、ニュースの中で、アナウンサーが何度も「皆さん、ご自分で命を守る行動をとってください」と繰り返していたことだ。
 それだけ危険が迫っている事態だから、自分自身で身を守れという意味なのだと思う。それ自体は当然のことだ。のんびりかまえて、行政が助けに来てくれると思ってはならない、ということなのだろう。

 が、何か我は気になる。どこか気になる。自分で自分の身を護るのはごく当然のことだ。誰だって死にたくないし何とかしなくちゃと思うはずだ。それをことさらに、自分で命を守る行動をとれ、と言われると何かカチンと来てしまうのは、我だけか。
 まあ、何もかもが「自己責任」を求められる時代ではあるが。そこに行政や県・国の責任は問われないのだろうか。

 我の嫌いな言葉、昨今よく目に耳にする言葉に、「あくまでも自己責任でお願いします」というのがある。
 これは、何かを向うが教示してくれたとき等に、それを貴方がやった場合、結果として、もし何かトラブルなど起きたとしても(こちらは)責任はとりませんから、という「言い訳」である。
 たとえば、パソコンなどカスタマイズするとき、これこれこうすればメモリが増設できるという教示する記事があるとする。それを書いた人は、そうすればメモリ容量を増やせるという有益な情報を提供したわけだが、もしそれを読んでやってみた人が、その通りにうまくできなかったり、そのパソコンに不具合が生じたりした場合、抗議されたり責任を問われないようにとの予め「保身」のための言葉だ。その気持ちはわからなくもない。
 特に企業などの場合、結果として不具合やトラブルを生じさせた場合、社会的責任を取らねばならないから、何につけてもお客様がなさる場合は、どうかあくまでも「自己責任」でお願いしますと付け加えるのは必須のようだ。

 まあ仕方ないかもしれない。しかしこれを友人間で平気で用いる人もいる。とある知人が我の関心ありそうなサイト、そのURLをメール等で教示してくれたのは良いが、そこに「あくまでも自己責任で」観てと、付け加えてあってカチンと来た。そんなことを言うのは友人ではないと思うし、友人ならば万福の信頼もってそれを知らせるべきであり結果トラブルが起きたとしてもその「責任」を負うべき関係ではないのか。

 さておき、自然災害というのは、人的災害ではないから、あくまでも自己責任で自らの命は守らなくてはならないとお考えの人も多々いる。
 しかし本当の自然災害というのは、火山の噴火や地震のようなものだけで、河川の氾濫による水害とか大津波による原発事故もたぶんに人災の要素が大きいと我は考える。
 緊急災害時に、命を守る行動を自らとるのは当たり前であり、それをことさら何度も呼びかけねばならないほどの異常な、何十年に一度という大災害が年に何度も起こる社会は、まずそもそもそこにそれを招いた人的要素があると考えるべきだと思う。

 今さらながら、この世界的異常気象をもたらしたのは誰なのか、世界の政治家たち、とくに温暖化対策を何もしない日米の首脳たちこそ北欧の少女の訴えに改めて真摯に耳を傾けるべきではないか。
 このままでは、人類は核戦争などが起きなくても異常気象、海洋汚染、自然災害で、今世紀中に自滅してしまうだろう。
 我らの世代はもうあと数十年のうち死んでしまうからかまわないが、大人たちではなく、これからもさらに過酷な環境を生きていかねばならない若者、子供たちと野生動物たちが可哀想でならない。

 我々大人は彼らのために責任ある未来を残さねばならないのではないのか。それこそが、我々の「責任」だと思う。

こちらは台風は通り過ぎた。2019年10月12日 22時27分40秒

★皆さんのところはご無事でしたか

 大型の非常に強い颱風19号は、先ほど東京多摩地方を通り過ぎて現在は北関東方面に進んでいるかと思う。
 もう今は、雨はやんで風がまだ吹き荒れてはいるが、外は静かになった。表に出て雨が降っていないことを確認し、朝から終日室内に閉じ込めていた犬と表通りまでカンタンな散歩をして来た。
 庭先の被害も見たが、前回のときより落葉や木々の枝の散乱は少なくウチに限っては被害は幸いのことほとんどなかったと思える。ただ、雨がともかくものすごかった。

 今日は朝一でブログは一回アップしたけれど、朝からずっとテレビはつけっ放しで、動物病院からかかってくるはずの電話を待っていた。
 実は、ウチの子猫、今春生まれた一匹が、電車にはねられたか、足を1本失う大ケガをしてしまい、昨日それがわかって大慌てで動物病院に連れて行って今日の午前中その手術があった。
 生死にかかわる大手術で、手術中にショック死する可能性もあると告げられていたから、その覚悟もしつつ、ともかく無事に手術が終わること、その知らせをひたすら待っていた。

 かなり時間はかかってヤキモキしたけれど、幸いにして何とか予定していた分の手術は終わったと連絡があったのが午後1時半。
 まだ予断はゆるさない状態でまた敗血症とか起こして死に至る可能性も高いとのことだが、ともかくまずは残った部分を切除して縫合するという大手術は終わったのでやっと少しは気が楽になった。

 それから外は雨風が強くなってきて、少し昼寝しようかとも横になったものの雨風が気になりほとんど眠れない。また、台風の緊急速報が次々とスマホに入って来る。
 確かに数十年に一度の大変危険な事態で、風よりも雨の勢いと量が半端じゃなかった。
 ウチは多摩川からはやや離れている高台だから浸水の心配はないが、父を預けた施設はウチよりも低く多摩川に近いので気になって仕方ない。※その施設からは、市内に避難勧告が出たので、事後連絡だったが、本日の利用者は全員、系列の別施設に移動したと夜になって連絡が入っていた。

 夜になってからは風も強くなってきて6時頃からは、台所の窓ガラスが風でガタガタ揺れて隙間から室内にも雨水が吹きこんできた。西に面している少し開け放してある戸の隙間に拵えた猫ドアからも容赦なく雨が吹きこんで台所の床は水浸しである。
 ウチは、他の窓はアルミサッシだが、台所の流しのところの窓だけは旧い木枠のガラス戸一枚で、何かが飛んで来ればカンタンに割れてしまう。いや、それよりもガラス戸じたいが強風で押し倒されて外れるかもしれない。
 不安で、ともかくガラスが飛散しないように、父の介護用オムツなどが入って届けられる大きな段ボール箱を潰して、内側から窓にあててガムテープで固定した。それでも隙間から吹き込む雨水は父の尿漏れパッドを敷いて対応した。

 それが功を奏したか、台所の窓は8時過ぎまで音立ててガタガタ今にも外れそうだったが、何とか無事だった。テレビで刻一刻、NHKの台風情報を見ながら、まさに生きた心地しないというか、ただ早く折り過ぎるのを息をひそめて待っていた。
 幸いにして予報官がちょうど今多摩地方と予測した時間、9時前頃からはしだいに雨風は静かになって来て、雨も小降りになりやがてはやんだという次第。
 10時前に外に出、犬と散歩して、今回も大きな被害がなかったこと、長く大変な一日だったが、子猫の手術も終わったことに天を仰いで感謝した。
 各地で浸水や強風・竜巻の被害に遭われた方々、避難され苦労されている方々には申し訳ないが、明日は我が身だと思いつつも今はただ通り過ぎた台風に安堵している。

 19日のコンサートまで一週間と迫って来た。今日中に関係者たちに最終連絡を入れようと予定していたが、外の雨風の音が気になり停電が怖くてパソコンに落ち着いて向かえなかった。
 夜も更けてきて、睡眠不足で頭も鈍く痛いが、何としても今日中にまずは出演者たちにメールだけでも送ろうと思う。
 つい先ほどまでの激しい雨風の音が嘘のような静かな夜になった。

大型で非常に強い颱風襲来中2019年10月12日 09時57分22秒

★おまけに寒い

 一か月前の15号に続いて、今、関東に向かって非常に大きくて勢力の強い颱風19号が近づいている。昨夕から降り出した雨は、次第に激しさを増して風も出て来た。
 まだ暴風雨というほどではないが、犬連れてごく短い散歩しただけでも雨風に吹かれて体はびっしょりとなってともかく寒い。気温も低く北西からの強風は冷たい。颱風というのは通常は蒸し暑さを伴うはずなのに、10月も半ばとなるとこんなのであろうか。
 今また鼻水垂らしてこれを記している。

 そんな雨の中だが、父は先ほどショートステイにお泊りに行ってもらった。こんな颱風の最中、果たして施設側の職員に不足などないか気がかりだったが、朝方こちらから電話して確認したら問題なく迎えに行くとのことで、安堵した。
 こんな颱風だから家に一緒にいてくれるほうが、安心といえば安心なのだが、居ればいたで、彼の介護でまた時間は奪われ目は離せず自分のことは何一つできなくなってしまう。
 19日の五郎氏メインのコンサートまであと一週間。まだその準備も何もできていないし、今は他にも気がかりなことがいっぱいある。大きな台風が来ていようが、人もいる施設に預けたほうが安心で気が楽だしやはり行ってくれて良かったと今思う。

 外は台風が近づき、しだいに雨風の音が強くなって何か心騒がせるものがある。が、実はそれに加えて今心奪われていること、心配事がある。一段落して少しでも落ち着いたら正直に書き記していきたい。
 好事魔多しというか、多事多難というか、禍福はあらなえる縄のごとしというべきか・・・
 ただ祈り、神の御手に委ねるしかない。すべてを受け容れていく。

年内の予定・追記2019年10月10日 11時33分03秒

★10/19日の「中川五郎と共謀」コンサートを終わらせたら

 今日も晴れた。秋なのにまだ強い陽射しが照りつけるが、吹く風は冷たく、寒くてもうTシャツ一枚や半袖ではいられない。もう10月半ばなのである。このところ朝晩はめっきり涼しくなった。窓開けては眠れない。

 が、今週末にはまた大型台風がやってきて関東地方にも影響が出るとメディアはしきりに騒いでいる。もし先の15号のような台風がこちらを直撃したらば、ウチの家屋はともかく庭の樹々が倒されてご近所に多大な被害が起こるだろう。あれこれ考えても仕方ないことだが、千葉県の方々同様、今回は被害が最小限に収まることを祈るしかない。

 さて、5日土曜の、かけこみ亭での館野公一企画『語り歌の継承』、ゲストに西島寛二氏を迎えての回に無事参加出来たのだけれど、その晩からまた寒暖差アレルギーというか、風邪の初期症状なのかくしゃみと鼻水、頭痛が続いて大事をとって安静にしていた。
 むろん最低限の家事や自分の仕事、つまり注文本の発送などはやっていたけれど、後はできるだけ無理せずブログも後回しにして時間あらば横になっていた。申し訳ない。
 熱などはないし、毎度のアレルギーか風邪かもはっきりしないが、今ここで悪化させて寝込む羽目となると、来週土曜日、19日のコンサートに支障が出る。特に「咳」が続くとまた大変なことになる。

 季節の変わり目、朝晩の寒暖の差を、着るものなどでいかにうまく調節して体調を崩さず維持していけるかが我の老年期の課題であろう。
 何であれ、生活も含めて誰も我の身体を管理してくれる人はいないし世話も面倒も見てくれる人は皆無なのだから独身人生、最後の最後のときまで自力自助でやっていくしかない。

 さて、19日の、五郎氏と旧知の仲間たちの大きなコンサートを無事終えたら今年残りの予定である。
 この数年続いて来た『共謀コンサート』は、この後も続けていく予定でいるが、まずは、ここでいったん小休止、中休みとさせてもらって、来年また再開するとしてしばらく間をおきたい。この連続コンサートについても、我の企画する他のイベントについても再考のときが来たようだ。なので、この『五郎と共謀』コンサート、現時点での最高のもの、集大成としたいと願う。どうか一人でも多くの観客、参加者があるようにと祈るだけだ。

 そして、次に自分が関わるのは、11月20日に、東中野「じみへん」で太田三造さんのライブがあり、我はそこで前座というか進行役と彼の露払いを務める。
 現時点ではギターもうたもまったく何ヵ月も練習していないから、果たして何をどれほどできるか不安でならないが、今はどんなことでも受け容れるつもりなので、与えられたこの機会、精いっぱいやるつもりだ。

 そして今年もまた年末には、拙宅で、クリスマス謝恩ライブパーティを開催する。どなたでもお気軽にご参加ください。
 例年は、12月23日の「昭和天皇誕生日」にやっていたが、今年はどうやら23日は休日とはならないようなので、その前の日曜、22日に開催としたい。そのためにまた場所づくりに頑張らねばならないが、今はまだ先のこととして、喫緊のコンサートに取り組んでいく。

 私事だが、家庭内でまたちょっと面倒なことが起きた。人間ではなく、「動物」の一匹が事故に遭い大けがして入院してしまった。しかし何であれ、起こることは全て意味があるのだから、そのときどき、出来ること、=すべきことを精いっぱいやっていくしかない。
 そこに愛はあるか。我はまた試されている。

続・もう何にも囚われない。怖れない。振り回されない。2019年10月03日 07時58分57秒

★本当によいものを求め関わっていく

 今日も朝から晴れて、外にいると強い陽射しに汗ばむほどだが、吹く風はカラッと爽やかで、どこからか斉藤哲夫のうたう「野沢君」が聞こえてくる気がする。

 母が先に逝き、残された父と男二人で暮らし始めて3年。ようやくであるが、暮らし方のコツというか、道筋が見えて来た。
 父がまるまる終日家に居る日は基本、週に一日程度だし、我家で過ごす週に三日の晩だけ何とかうまく乗り切れば、後は介護施設に任せて我は自分のことに専念できる。
 今までは精神的なこともあってあちこち体調も悪く父のことや今後についてどうしたことかと思い悩みあれこれ囚われることも多く結果一人のときは疲れがどっと出てしまい寝てばかりで無為に時間を費やすことも多かった。

 が、ようやく今はこれから先の進むべき方向、「海図」も手に入れたしもう大丈夫だと思う。
 もう何にも囚われないし怖れない、振り回されない、と書いた。しかし小心な我のこと、おそらくまたちょっとしたトラブルでも悩み動揺しそれが気になって囚われると思う。しかし、そうなろうと、たとえどんなことが起きようと、すべて起こることは天の計らい、神の御心だと信じて「有難く」受け容れて行こうと決意した。
 そう、良いことも悪いことも含めて、どんなことが起きようが人は必ず死ぬのである。終わりの日が必ず来る。
 すべてのことは生きている間だけのことだし、死んでしまえば(この世のことは)すべてオシマイなのだから、その限りある中で精いっぱいやっていくしかない。

 人生は何とかなるし(何とかならなくても)何とかしていくものだ。今も間違いなくそう思うしじっさいそうして今まで生きて来た。それが人生であろう。
 しかし、それは我が母が生きていて、母の庇護の元とは言わないが、その「存在」があってこそのことだった。

 共に暮らし日々の生活の雑事、買物、炊事洗濯などの家事はほぼ全部我が担当していたが、本当に面倒なこと、つまり家計の管理や様々な支払いなど対外的手続きは母に任せきりにしていた。
 その母がいなくなり、そうしたこの家に関する一切の実務的ことを全部我一人で処理しなければならなくなった。
 残された我の唯一の家族、父が今ほど呆けていなければ、父に相談するなり手伝いも頼めただろうが、もう今は記憶が続かず数分前のことが思い出せなかったり、我=実の息子を弟だと思い、その名で呼んだりするほどのバカになってしまったから何一つ頼りにならない。何をするにせよ常に足手まといになるだけだ。

 そうした父を抱えて何とかこの3年生きて来たわけだが、自分の無力無能をただ噛みしめている。今も何一つ片付いていないし、状況はほとんど改善していない。
 何かの用で他人様が来るときだけそこにあるものを移動させて場所をつくる。片付いたように見えてもただモノは箱詰めにして家の中を移動しているだけだ。
 時間がないわけではないが、この秋95歳の超高齢となる父が家に居ると、常に目が離せないし寝てても熟睡は出来ず気疲れする。
 父を施設に送り出してからだ、と常に思い、その後はほっとするが、体調不良の疲れがどっと出て寝込むことも多かった。

 そう、自分一人では何一つきちんと生活と人生を管理できなかったのだ。
 しかし、「できない」からといって、もう、やーめた!とはできない。無能な自分に絶望してネグレクトしてしまうのは緩慢な自殺行為であろうし、そうして自堕落にゴミ屋敷の中でアルコールに溺れて死んでいくのは死んだ母にも申し訳ない。
 ともかくできなくても人生は続けなくてはならないし、何であれ「その中」でやっていかねばならないはずだ。絶望したり諦めることはたやすいが、たとえなかなかできなくてもやり続けるしかない。

 考えれば、ギターだって、最初は誰もがまったく弾けない。指は痛くなるしチューニングだって一苦労だ。こんなことはとてもできやしないと思う。
 しかし日々少しづつでも我慢して練習を続けていけば、コードも次々覚え押さえられるようになるし、好きな曲を拙くとも弾けたりコピーすることもできるようになる。自分でも曲をつくったり歌えるようにもなっていく。

 人生もそれと同じで、たとえ誰も頼りできず助けてもらえなくても、たとえけんあんのことがなかなかできなくても続けていけばいつかはきっとできるようになるかもしれない。そう信じて諦めずにやっていく。
 ずっと負け続けて来た。しかしまだ負けは確定していない。生きている限りいつかは勝つ日もあるかもしれない。

 そのためには・・・
 ともかくもうこれ以上モノは増やさないことだ。そして何事も逃げずに後回しにせずに、その場その時、すぐに「処理」していくこと。
 断捨離などできないしそんなことに取り組む気も時間もないからこそ、本当に良いもの、良いことだけに関わっていく。食べることもすることもモノも人もすべて。
 まだまだできる。きっとできる。そして俺は変わる。

 大昔、天王寺の春一番で一回だけ観た、砂川正和のステージが今でもはっきり彼の唄声と共に一挙一動目に浮かぶ。
 1978年だったと思う。あの日彼は、ナスティーチェインというバンドを従え3曲歌った。
 最後に、この曲は、ずっと歌いたかったけどやっと歌えるようになった、と断って、サム・クックの名曲『ア・チェンジ・イズ。ゴナ・カム』を日本語詞で歌った。

 ♪川のそばテントで俺は生まれ~で始まるこの名訳の二番と三番の歌詞を載せておく。

 とてもつらかった でも死ぬのはこわい
 だって天国なんかわからない
 とても遠い道のりだった
 でも変わるときがくるんだ
 きっと変わる

 転がるたびにダメだとおもったけれど
 もうだいじょうぶさ やっていける
 とても遠い道のりだった
 でも変わるときがくるんだ
 きっと変わる

 砂川正和を初めて観て、日本にもこんな本格的ソウルシンガーがいるんだと驚かされた。上田正樹なんて彼に比べればまがい物におもえた。
 しかし大阪の友人から知らされたが、彼はずいぶん前に自死してもう今はいないという。だが我の手元にはこのときの音源がしっかり残って、苦しいとき何度も繰り返し聞いた。
 砂川正和とこのうたは生きて常に我を励ましてくれる。本当に良い音楽とはそういうものだ。そしていつかはこのうたを自分も歌ってみたい。

 ならば、きっと変わる。ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム だ。

続・死に行く人をどう死なすか。2019年09月17日 23時42分26秒

★もう布団と寝る場所がない~尾籠な話の続き。

 父が就寝中、自ら自分の紙パンツを外して何も穿かないで眠り続けて小便を布団の上に撒き散らすのはこれまでもたまにあった。
 昔はその都度「反省文」を書かせて、それを失念しないよう部屋のあちこち目に入るところに今も貼ってある。しかし何枚書いたことか。

 当人は起きているときは、それはやってはイケナイことだとわかっているし、その都度洗濯や布団干しに追われる息子の苦労も理解示している。
 が、眠ってしまうとまったくそんなことは忘れてしまい、いや、正しくは無意識のうちに、溜まって来た尿の不快感から?朝方になるとともかく外してしまうと思われる。
 じっさい短時間の昼寝ではこれまで一度もそんなことは起こしていない。話が正しくでき意識がきちんとあるときは、本人も深く反省して、もう絶対しない、息子に起こされるまではベッドの中でオムツは外さず待っている、と確約してくれる。
 しかし翌朝、定時に起こして様子を見るとオムツの中から濡れたパッドだけ出してベッドサイドに畳んであったり、ひどいときは濡れた面を下にして枕元、敷布団のうえに投げ出してあったりもする。当然辺り一面、逆流した父の小便で水浸しである。

 しかし、これまでは数回に一回のことだった。それが二回に一回になってきたかと思ったら、このところはほぼ毎朝毎回となってしまった。最初はかなり父を責め怒りをぶつけたりもしたが、そもそも起床時はボーとしていて当人は何が起きたのか、自分は何をして息子は怒り心頭なのかもまったく理解できていない。
 眠る前、前夜は、絶対外さないように、と何度もこのままだと洗濯が間に合わないぞと、口酸っぱく諭して、当人もわかった、絶対勝手に外さないと確約する。しかし、朝になると必ず布団は小便で水浸しとなっている。※絶対外さないよう、このところは紙パンツを穿かす前に、オムツが外されないようさらにガムテープでぐるぐる巻きにして対策を練った。が、剥がすのもかなり面倒なはずなのに、朝になるとしっかりそれも剥がして濡れたパッドは投げ出され敷布はぐっしょりなのである。
 むろん、敷布の下に防水シートからペット用吸水シートまで幾重にも敷いてある。が、それ以外のところを濡れたパッドで汚したり、毛布や掛布団までも濡らしてしまうことも毎度のことだ。

 特に、前々回はひどかった。かなり早くオムツから紙パンツ、中のパットまで出して全部脱ぎ捨てたらしく、朝確認したらほとんど何も穿かずに
小便の海の中で眠っていた。背中までぐっしょりである。
 そのときは、敷布団マットのみならず、簡易ベッドの土台に付いている敷物までも濡らす「大失禁」で、身体はシャワーで洗ったもののぐっしょり汚れた敷いてたマットは洗うわけにもいかず、どうするか処分に困っている。

 それが金曜の朝のことで、担当医による訪問診療が来る日でもあった。いつもならその晩も在宅で寝て、翌土曜朝にまた施設にお泊りに送り出す週に一日の終日自宅滞在の日だった。
 が、布団が何もかも一切合切小便で濡れてしまい、洗濯してもすぐには乾かないし代わりの布団も出てこないと即判断して、朝から翌日利用する予定のデイサービスに電話した。今晩からお泊りできますか、と。
 そしたら幸いその晩は空きがあって、夕方早めに食事済ませてから父をその施設まで送って事なきを得た。一泊分余分の利用となってお金がまたかかるわけだが、送り出してから正直ほっとした。
 もしその晩布団が何とかなったとしてもまた明日の朝は同じことを繰り返すだろう。もう気持ちも体力も限界に来ていた。

 そして16日月曜日の夕刻、父は施設から戻って来た。幸い不在の間に雨も降ったが、何とかギリギリシーツ類は乾かすことができた。
 しかし、翌火曜日の朝、またしても自らオムツから何まで就寝中に外してしまっていて、紙パンツ一枚で寝ていた。むろんそれだけで吸収が収まるはずもなく、また敷布には世界地図である。幸い今回は、防水シーツの上だけで収拾ついたけれども。

 けっきょく、いくら叱りつけても怒っても無駄なのである。認知症もかなり進んでいるから、事後はたとえ少しは反省し自らも注意しようと思ったとしても寝てしまえばすぐさま忘れてしまう。
 またこのところさらに歩けなくなり、施設から戻って来た時など家の中に入るのすら手すりに掴まってやっとのことだ。
 それだけまたこの秋が来て確実に老化と衰弱が進んでいると実感せざるえない。何とか今年いっぱいはもつとは思うけれど、ここまで頭も何もかも心身衰弱が進むとこの家で我一人で介護していくのはたとえ数日でも難しい。
 ともあれ、一番頭痛いのは、毎朝のベッド上での寝小便である。もう洗濯にも倦み疲れた。
 死に行く人、死期が間近に迫って来た人を、どうやってできるだけ長くこの家で暮らさせるか。何か妙案はないものか。

死に行く人をどう死なすか。2019年09月16日 08時11分32秒

★いよいよそのときが近づいてきた

 夜半からまた雨である。先の台風で被災した伊豆諸島や千葉の人たちのことを憂い思う。人的被害は少なくともこれは、農業、漁業、酪農、養豚なども含めた国家的規模の大災害ではないのか。

 このところ朝晩は涼しくなって、もう夏の格好ではいられない。が、晴れれると日中はかなり蒸し暑く、汗ばむ陽気に冷房なしではいられない。
 暑いんだか寒いんだか何とも安定しない季節の変わり目だ。「寒暖差アレルギー」という持病の者にはいちばん苦しい季節である。
 例によってくしゃみ、咳と鼻水が止まらず、風邪の症状に苦しんでいる。熱は出てないからこれは風邪ではない。ただ、メマイとふらつき、それに涙目もあるからどうにも身体はしんどくて起きていられず、寝れる時は早めに床に入ってしまう。無理はできない。お誘い受けてもいろいろ不義理してしまう。無理して出かけると後が怖い。

 怠け病と言われようが、己を知り、自愛するしか生きていく術は我にない。何しろ子もなく世話してくれる身寄りはいなく年金もなく一人で生きて一人で死なねばならないのだ。身の程を知らねばならない。
 そんな我に未だ有るのは、老いた父という唯一の家族と、この家などモノとガラクタだけだ。
 その父が、この秋めっきり衰弱と呆けが進んできた。そろそろ特養へ入所の時期かと思うが、手続きは進めているもののまだアテはみつからない。二か所のショートステイとデイサービスを利用して何とか凌いでいる。在宅で我一人ではとても介護できやしない。
 このところ週末はいつも土曜から月曜まで二泊三日でお泊りに行ってくれているから我は、ライブなどにも行けてずいぶん楽になった。今日は月曜、夕方には帰宅して来る。

 が、今困っているのは、今晩父を寝かす布団類が何もないということだ。先週の金曜日の朝、父は大失禁してしまい毛布、シーツ、掛布団から敷布団まですべて大量の小便で濡らしてしまったのだ。小便の海の中で眠っていた。
 パジャマをはじめ洗えるものは全部洗濯機に放り込んだが、あろうことか昨日も曇り、今日は雨で干すことはできず未だ乾いていない。
 だいいち掛布団と敷布団は洗濯機では洗えなかったので、外にずっと出していたが、乾いても臭くてとても使えないとわかった。うんと天気の良い日にバスタブに入れて踏み洗いでもしてよく絞って干すか、それともこのまま捨てるか迷うところだ。
 パジャマとかシーツは替えがあるが、そんなで父が戻って来ても今晩寝る寝具がないのである。さて、どうしたものか。どこでどうやって今晩寝かせるか。

 尾籠な話で不快に思われる人もいるかと思うが、これは事実でやがては誰にでも起こり得ることだからあえて記す。※読みたくない方、ご自分とはカンケイないとお考えの方は読まないでください。

 父は、八十代半ば頃から小便がちびり気味、つまり尿漏れが始まり、履いていた下着を汚すようになっていた。それでも自分でトイレに行けていたし、一時期は、薬局されていた古川豪さんのおススメで漢方薬「八味地黄丸」が効いてだいぶ改善されてもきた。
 しかし、2016年の春、誤嚥性肺炎で入院し、院内でベッドから転落して大腿骨粉砕骨折を起こしてから、動けぬゆえ常時紙パンツ着用となってしまった。
 90代に入った老人としては、そのまま寝たきりとなるかと思われたが、幸いにして奇跡的に回復、一時期は杖をついて自力歩行も戻った。
 しかし、高齢でもあり当人は尿意もよく感じないようで、以後も紙パンツは外せず、父は紙パンツ内に小便は「ただ漏れ」するようになった。 
 紙パンツも吸収には限界があるし、いちいちズボンを全部脱がして紙パンツじたい交換するのも面倒だから、中にパッドを入れて、それだけを交換するようにしていた。それなら紙パンツは汚さないで済む。頭が今ほど呆ける前は、彼自らも意識してパッドの交換をしてくれていた。

 が、加齢とともにさらに呆けも衰弱も日毎に進む。汚い話だが、このころは大便すら自分では出たことも、紙パンツ内に溜まっていることに気づかないようになって、パッド交換時、紙パンツ内を確認してみるとかなりの頻度で、軟便がべっとり出ていることも多くなった。
 赤ん坊だって、ウンチが出れば、気持ち悪がって泣いて知らすと聞く。ボケ老人はその不快感も感じなくなって、交換時に見せると、自分でも「こんなに出たのか・・・」とびっくりしている。
 だからこちらが異臭に気づき、早く適切に処理しないと軟便はパッドから紙パンツへ、さらにはズボンなど外にも染み出てきて父の座っていた辺りは大変な事態となる。当人だけはすました顔で意に介さないが・・・

 それでいちばんの問題は、夜間である。父が施設から帰宅してきた日は、夕食までいったん仮眠させて、起こして飯を食べさせてそれからしばらく録画していた父の好きな音楽番組などビデオを見せる。
 それから夜10時頃寝かしつけるわけだが、悩んだのは就寝中のオムツ交換である。施設では、夜間も職員が3~4時間ごとにオムツを換えてくれるらしいが、そんなことしていたら我は睡眠不足で倒れてしまう。何しろ、ウチは、職員は我一人なのである。朝も夜も終日我一人で父の介護をしないとならないのだ。
 しかし交換しないことには、吸収できずあふれ出た小便がシーツを濡らして毎朝洗濯する羽目となる。
 考えたのは、夜間は紙パンツなどは幾重にも厳重にセットしてどれほど小便が出たとしてもそれを吸収できるよう何回も失敗した挙句夜間の対策が何とかできた。同様にお悩みの方お試しください。

 まず、紙パンツではなく、大人用紙おむつをベッドに敷く。下半身を素っ裸にした父をその上に乗せて、紙オムツのセットする「あたり」をつけて、まず一番大きいパッドを父の陰部に合わせて紙オムツの上に敷く。
 次いで、小さいパッドで、父のちんちん、つまり陰茎の先を巻く。ちんちんを包み込むように。その上に、下に敷いた大きいパッドを被せて、紙オムツをセットする。この時点で三重に吸収体はセットされたことになる。
 ただ、それだけだとマジックテープの紙オムツはすぐ外れてしまうから、その上にさらに紙パンツを履かせる。
 これだけ幾重にも履かせれば、どれほど大量に小便漏らしてもまず外には漏れないし、じっさいこれで朝まで小便は紙パンツ内で吸収できていた。

 しかし・・・あろうことか一番の問題は、当事者である父が、息子が苦労して編み出した夜間尿漏れ対策セットを、寝ぼけて?自ら就寝中に外してしまうことだった。たいてい朝方、目覚める頃に。
 今回の「惨劇」もそうして父が自分でベッドの上で勝手に「オムツ交換」してしまい、小便吸収するものを何も履かずに寝ていて大世界地図を描いたものだ。村上春樹的に書けば、やれやれ、まったく、である。

 ※長くなったのでもう一回続く。