春、四月、まだこちら側にいるうちに2021年04月01日 12時35分15秒

★気がつけば、早や春爛漫、四月に。

 つい先日、年が明けたと思っていたのに、早やくも三か月が過ぎ、今日から4月、新年度である。もう1年の四分の一が終わってしまった。

 このところ日中は、外の陽射し浴びていると汗ばむほどの陽気で、今春は異常に早くも気温が高い日がこのところ続いている。先日、東京では夏日を迎えた。我はこのところ昼間はTシャツ一枚だ。
 ともあれ、コロナ渦中であろうとも季節は冬から春へと、今年も厳冬を乗り越えて新しい春、快適な季節が迎えられたことをまず心から喜びたい。
 春は出会いと別れの季節、と昔から言われる。が、歳とって来ると、出会いなどまずなく、次々と季節を問わず別ればかりが増えていく。そして最後は、自らもこの世界と別れを告げる側となるのであろう。
 
 今日から、4月。先月はずっと体調がすぐれず、微熱程度でも風邪のような症状が続いていて、もしやついに我もコロナに罹ったかもと不安な憂鬱な気分でずっといた。なので時間あらば、大事をとってひたすら寝てばかりいた。
 が、今はやっとその不調も収まり、やはりそれは我の持病、毎年恒例の季節の変わり目に起こる、寒暖差アレルギーだったのだろうと思うことにして気持ち新たに、まさに心機一転がんばろうと今は思っている。

 家のことも、我が実生活ももうスゴイ状況になってしまったままなのだが、幸いにしてこのところは我が父は、体調が安定しているので、介護施設にも滞りなく通ってくれているので、本当に助かる、有難いことである。
 年明け、一時期は、父の呆けが悪化して、歩けないとか食べられないとか体力低下以前に、何故か、真冬でも睡眠中に衣服を全部脱ぎ捨てて素っ裸で寝ていたりで、結果、糞尿をベッドに撒き散らすことになり、その対応に我は大いに苦慮した。毎日毎日洗濯に明け暮れた。
 何より、困るというか、情けないのは、施設から帰宅してもここが自分の家かどうかよくわからなくなって、病院だとか施設だとか言いはったり、ここではなく別のところに家があるとか、記憶が混乱し騒いだことだ。むろん我、息子のことも誰なのか認知できない。

 一時期のように、徘徊朦朧として、深夜に戸を破壊して外に出たりする体力気力はなくなったものの、そもそも基本的なことが何一つわからなくなっているときもあって、起こしてトイレに連れて行っても、そこで何をすべきなのかも、食事のとき、料理をテーブルに出しても、食べる、という意味、行為そのものが「わからない」状態のときもあって、こちらとしては本当に情けなかった。これ、どうするのか?、といった態で、ぼうっとして自らでは何もアクションを起こさない。
 仕方なく介助して口元までスプーンで運んで付きっきりで食べさせないとならないわけだが、食べたくないとべっと吐きだしたり、苦労して食べさせたと思ったとたん、全部吐き戻したりもして、もうこの家で暮らすのは、「限界」だと、覚悟も決意もした。

 まあ、いま、96歳。百歳にもう手が届くほど齢を重ねてきたのだから、生きているだけで奇跡ともいえるわけで、ついに我が1人で世話することは終わりが来たと思えたものの、どうしたことかこのところは持ち直し頭の方もクリアで、受け答えもまっとうのことも多く人間味がまた戻っている。
 実際のところ、息子として老父の汚れたお尻を拭いたりオムツ替えしたりすることは今はちっとも苦痛ではない。逆に、そういうした行為をしてあげられることこそ「有難い」ことだと思っている。
 母のときもだが、こうした下の世話は、我を我がままし放題に育ててくれて、世間的常識からすれば親不孝の極みをしてきた我だからこそ、その恩返しであり、ある意味、すべての帰結なのだとわかった。

 しかし、それもこれもそこに当人間の意識、意思が通い合ってこそであり、実際、介助されている側が、今、自分はどこにいて、誰がそれをしているのかもわからない状態になってしまっているならば、あえて我がそれをやる意味はあまりないと考える。
 つまり特養とか、介護老人施設で、我ではなく専門の職員たちがしたとしても同じことなわけで、家族が介護するとは、当事者とまず意思の疎通があってこその話だと我は思うが・・・。
 ともかく今は、そんなわけで、我が体調悪かったときは、いつもより長めに施設に預けられて、おかげで息子も何とか体調取り戻せたという次第である。
 いまは、体力はともかくも気力は元通りに立ち直ったことを報告したい。

 何もできないまま、相変わらず片付けはちっとも進まないまま、季節は進み、時間だけが過ぎていく。まさに忸怩たる思いにもなる。
 しかし、ともかく父も我もまだここに、こちら側に共にいられるのならば、犬猫たちも含めて今在るものたち、モノゴトも含め全てに感謝して、関わるすべてを慈しみ大事にしてとことん愛していこうと思う。
 ときに倦み疲れて、すべてを投げ出したり全てもうどうでもいい、どうなってもかまわない、という投げやりな気分、ネグレクト衝動に囚われることも多々あるが、終わりは近いし残された日々も僅かなのだから、一日一日丁寧に生きて行こうと思う。

 コロナはいつまで続くかはともかく、こんな大変な時代でもすべては神の計らいだとすれば今はそこに意味を見出したい。そして「その中」で何ができるか、何をすべきか、自問していく。 
 毎度のことながら、いろいろご心配おかけして申し訳なく思う。 
 だからこそ「その中」で、今、自分ができること、まだすべきことがあると信じて頑張っていこう。

PCR検査の結果は・・・陰性とのことでした2021年03月29日 23時10分29秒

★正直、ほっとしている

 自分事ではないわけだが、先に書いたように、先週拙宅に来られて、我と半日共に過ごした人が、その翌日から体調崩し発熱もあり、その後もコロナかと疑われPCR検査を受けたわけだが、本日連絡があり、結果は陰性と出たとのことであった。
 我としては、彼女が陽性だとしてもそのときは、そのときだと覚悟もしていたけれど、やはりほっと安堵し胸を撫で下ろしている。

 というのも、もし陽性であった場合、我も濃厚接触者は間違いなく、となるとPCR検査はもちろんのこと、10日~は自宅待機で様子見となるだけでなく、この我とまた濃厚接触している父も関連してしばらく自宅で様子見、となることもまた予想された。
 さらにそうなると、今父が通っている二か所の介護施設までもが対応を迫られることになるかもしれなかったわけで、一人感染者が身近に出た場合、感染拡大を怖れ濃厚接触の輪はどんどん広がっていく恐ろしさと深刻さをひしひしと実感できた。やれやれだ。

 癌とか進行性の特効薬のない病気も怖いと思うけれど、そうした病気はそもそも他者にはうつらない。だから安心して接触して看病も見舞いにも行ける。母のときのように死に行く人を抱きしめることもできる。
 コロナのような感染症が真に怖いのは、いつどこからうつったかわからないことと、また自らが感染している自覚もないまま、また他者にも新たにうつすかもしれないということだ。
 PCR検査を受けたとしても発症まで時間もかかるし、陽性者と昨日今日会ったとして、すぐさま検査受けて陰性と出ても発症しない保証はないと聞く。そう、この感染症は潜伏期間も勘定にいれて予測しないと真に感染していないか即断できやしないのだ。

 コロナは確かに風邪のようなものだとも思うが、インフルエンザも含めて風邪の方がもっとわかりやすい。
 二、三日様子見ていれば、罹ったかそうでないかはだいたい予測がつく。発症まで時間はそんなに長くかからないし、その症状が出なければ他者にうつすこともまずない。
 そもそも無症状の感染者という定義が風邪の場合あるのであろうか。

 思うに、今さらながらだが、コロナという感染症はとてつもなく面倒だということに尽きる。目に見えないものが人から人へ感染していく。そして無症状的に軽い人もいれば、急激に悪化して死に至る人も多々出て来る。ゆえに甘く見てはならないし、油断してはならないのだと今改めて思い知った。
 ともかく自らも含め、感染者が1人出てしまえば、そこから水面の波のように濃厚接触~陽性?~発症かもというさらなる影響が周囲に恐怖と共に広がっていく。

 今また、緊急事態宣言解除後、またもや第四波が起きていると報じられている。野党からはまたも再度「緊急事態宣言」を、との声も出ている。
 だが、我は思う。いったい誰にとっての「緊急事態」であるのか、だ。医療体制ばかりスポットが当てられるが、その専用入院ベット数だけが問題視されることではないと思う。
 それよりまず、コロナの真の恐ろしさ、感染症の本質として人間関係そのものを壊していくということ、まずそのことをきちんとはっきりと国民に伝えて知らしめ誰もが自覚しない限り、いくら違反者を取り締まろうとも無意味だと感染は抑止できないと断言する。

 コロナは怖い。病気としてよりも感染した場合、人間の心と人々の繋がり、これまでの関係を結果として破壊することこそが怖い。
 コロナが病み壊しているのは人間がこれまで連綿と築き挙げてきた信頼と秩序ある人間社会そのものなのである。

やっと父をまた送り出して「続き」を記す2021年03月27日 10時31分59秒

グリコ、在りし日の姿
★コロナではないと思うがこの一週間ずっと寝込んでいた

 また間が空いてしまい、多々ご心配おかけした。申し訳ありません。

  また週末である。今週は、思うところあって、父をいつもより長めに一泊多く介護施設に預けて、水木金と山梨へ、年明け後に初めて行く予定でいた。さすがに山里でももう雪はないだろうと。※今年はスノータイヤに交換していない。

 が、風邪なのか、コロナではないと思いたいが、我は咳や鼻水、頭痛など風邪の初期症状が出て、大事をとってひたすら安静にして結局山梨行きは中止にした。

 実は、20日の春分の日の土曜、猫関係の件で、長年付き合いある女友達がウチに来て、昼過ぎから夜まで一緒に過ごした。
 ところが、その人が、その後、週明けに、風邪をひいたらしいと連絡があり、38度の発熱があったとのこと。
 と、同時に我も何か寒気がしたり咳が出たり風邪っぽくなってきて、父は介護施設に無事送り出せたものの、我はやや微熱もあるようで、さてどうしたものかと考えた。
 たぶん行っても問題ないと思ったが、やはり不要不急の外出は極力控えたほうが良いと考えなおし、結局、ひたすら家にずっと籠っていた。

 その彼女本人はまだ微熱が続いて体調すぐれないとのことで、やっとかかりつけの医院に行き、発熱外来で受診しPCRと血液検査を受けたと言う。
 その結果が届くのが、来週明けとのことで、我もこの日曜、出かけて人と会う用事もあったのだけれど、もしコロナ陽性だと判明したらば、我も濃厚接触者に違いないから、今は、事情を話してすべてキャンセルにしてもらった。

 というわけで、父は不在だし、我も一人で家にずっといるのだから時間はいくらでもあったのだけれど、夜になると頭痛もしてきて起きていられず、心身共に何か倦み疲れた感じで、朝はいつもどおり起きても午後も断続的に仮眠をとって寝てばかりいた。
 鬱ではないが、いろいろあれこれ思うところあって、気持ちもやや沈んでいた。そう、こんどは長年飼ってきた、我家でいちばん古くからいる猫がもう二週間帰って来ない。あちこち探したり近所の猫過ぎのオバサンたちに尋ねもしたが、情報はない。忽然と姿を消してしまった。歳も歳なので、今は諦めもついた。
 ※猫神社で知られる砂川の阿豆佐味天神に詣でれば、と迷ったが・・・

 灰色だから、グレー、だからグリコと言う名の雌猫は、調べてみたら15歳ほどで、思ったほど高齢ではなかったが、近年は歯も悪いらしく食べるのが大変なようで痩せて来てしまってヨボヨボな感じがしてきていた。
 その猫は、それまでいた猫たちが一度死に絶えて、我家に猫がいなくなったとき、猫好きの父が淋しがっていたので、我が近くの公団住宅の野良猫一家からもらい受けてきた猫だった。
 雑種のはずなのだが、どこかで洋猫ロシアンブルーの血が入っているらしく、一見すると、その青灰色の高い値の付く洋猫に見えて、父はそれもご自慢だった。だから父のお気にいりの猫で、以前はずっと父と一緒に夜はいつも抱かれて寝ていた。
 今は、父自身があまり家に帰らず、代わりに他の猫たちが父の部屋に同居しているので、グリコは、一緒には眠れなくなったけれど、父が施設から戻る日は、必ず庭先で父の乗って帰る車を待っていた。
 そしてコタツで父の膝に乗って甘えるのが好きだった。

 グリコも一度は子を産んだが、その子たちは猫風邪だったがすぐに死んでしまい、その後は避妊手術も終えて、常に猫ドアから出入りは自由にさせていた。
 先年も一度食が細くなって弱って来た感じがしたので、かかりつけの動物病院で、まず点滴と投薬してもらい持ち直したこともあった。
 以後、定期的に点滴に連れて行ってたのだけど、そろそろまた、と考えて先日も他の避妊手術予定の猫と一緒に車に乗せたら、運悪くバッテリーが上がってしまっていて、その日はけっきょく行けず、グリコは自ら車から出て逃げてしまった。
 ただ、このところは、好物のカツオのたたきをたらふく食べていたし、いつも通り雨の日でさえも猫ドアから出たり入ったり自分でしていたから、まあまだ元気だと思っていた。

 最後に姿を見たのは、3月14日、日曜の夜であったと思う。猫ドアから自ら出ていく後ろ姿を覚えている。
 が、翌朝、いつもならいつも朝は寝ているソファーにその姿がなく、その日は、父が施設から戻る日なのに、グリコは迎える姿を見せなかった。その日は終日帰らず、何か胸騒ぎというか、不安な気持ちになった。そして以後今も帰らない。
 というのもその数日前、やはり家と外を出入りしていた、一番若い雌の黒猫ミーが線路で死んでいた件があったから、まさかまたもやという怖れも強く感じた。
 むろん猫のことだからこれまでも何日も帰ってこないこともあった。
 他の、後からウチに来た若いメスが子を産んで、グリコが追い出されてしまい、近所の家でご飯をもらっていて、姿みかけてもなかなか戻らないときもあった。
 しかし近年はそんなことはなく、今いる他の黒系猫たちともお互い我関せずという良好な関係が出来ていた。

 正直なところ、まだ病み衰えて急逝するほど体調が悪いとは思えない。元々人見知りが激しく慎重な性格の猫だったから、線路で事故に遭うとか、誰かに連れ去らわれるということは考えにくい。
 が、我は線路も探してみたし、この近所界隈も日々目で終えるところは探して見廻ってみた。が、やはりいつもよくいるところ、いつも見かけたところにその姿はない。

 よく父に冗談で、グリコと父とどっちが先に逝くか、わからないほどこの猫ももう年寄りなんだぞ、と言ったりもしたが、我としては猫のほうが先に逝くとは予想も予測もしていなかった。
 いや、死んだのかもわからない。まだひょっこりまた帰ってくる気もするし、そうだったらどれほど良いだろうか、もう何度もそうしたグリコが帰って来る夢も見た。

 今まで、この家では何十匹という数の犬猫を送った。事故死することも多いのだが、やはり長年共に暮らして最後は老衰的に家の中で眠るように死ぬ猫や犬も多々いた。むろん失踪してそれきりとなる者も。
 が、今回のグリコのように、老いて姿を忽然と消した例は記憶に思い浮かんでこない。ずいぶんフラフラしていたが呆けていたとは思えない。
 いったい何が起きたのか。いや、何が起ころうとしているのか。
 そして我は、ことに及んでどうすべきなのか。どうすべきだったのか。

 勝手に思うに、グリコは、老いてこの先長くはない父の先達として、私が先に行って待ってますよ、あの世にはもうお母さんもいることだし、待ってますから、パパさん安心して来て下さいと、先に旅立ってしまったのだろうか。

 こうしていなくなってしまうのならば、ケチらずにもっとちゅ~るとか存分にあげれば良かったとか、あれこれ悔いも残る。
 それでもほぼ15年間、我家で我らと共に自由に暮らして来た猫の人生はどうであったか。幸せだったか。満足できただろうか。
 もっと愛せば、もっと優しくしてあげればよかったと失ってから、その姿が消えてからいつも思う。
 そう、いつだって思うのは失ってからだ。ならばこそ、今、在るうちに、今ある全て、いまここに共に在る彼らすべてを愛し慈しもう。
 我もまだ生きているうちに。

 そう、大事なことは、いかに愛したか、どれほど愛せたか、なのだ。

いったい今、何が起きているのか~続き2021年03月20日 12時23分01秒

★ご心配おかけして申し訳ないが

 いま、ウチは、室内飼いの猫、つまり外には出さずに家の中だけにいる猫のグループと、外と出入りしている猫たちがいる。
 いまは、基本、雌猫はこれ以上新たに妊娠しないよう家の中で、それ以外の避妊手術した猫たちは、猫ドアを通して野外との出入り自由として、昔からいる猫たちも老猫グリコを筆頭に「外」のグループである。
 今回、線路で事故死した黒猫は、いちばん最近生まれた三匹のうちの一匹で、当初は雌1、雄2の兄妹だと思っていた。黒2、銀1であった。
 そのうち黒ではない雌は、早めに室内に隔離保護して、残りはオスの兄弟だと思い、外と出入り自由としていたのだが、最近になって、その黒2匹のうち小柄のほうが、メスだと判明して、どうしたものかと考えていた。※猫の雄雌は、ある程度大きくならないとなかなか判明しにくい。
 なかなか慣れっ来い甘えてくる猫で、首輪も付けていなかったが、そろそろ捕獲して他の雌たちと一緒の室内に入れるべきか迷っていた矢先であった。
 このところは、その黒猫兄妹は、八高線の線路を渡って、向かいの畑で遊んだりもしているのを見ていたので、危ないなあとは思っていたが、忙しさにかまけてほったらかしにしていたのである。
 そしてまたしても事故が起きてしまった。

 一昨年のキジ子のときもだが、この単線の八高線の線路では電車に撥ねられこれまで何匹の犬猫が命をおとしたことだろうか。
 キジ子だけは、大怪我はしたものの、幸いにして後ろ脚1本を根元から切断する手術で奇跡的に生還できたものの、またしても犠牲者が出たというわけだ。
 むろん今は、鉄のフェンスで遮断されて人間はカンタンには線路内に立ち入れないようJRの対策はとられている。
 が、猫などは身体が小さく、しかも頭さえ通れば少しの隙間からでも線路内に潜り込んでしまうようで、平気で線路内に降りて渡っている。それでキジ子以来また新たな事故が発生してしまったのである。

 フェイスに脚立を立てかけて線路に降りて、ともかくそのまま遺骸をそこに置いておくわけにもいかないから、我が家の庭に運んで、昨秋の降り積もった落葉の中にとりあえずそっと安置した。まさに泣きたい気分である。何でこんなことが・・・、可哀想だと言うしかない。
 即死は間違いないのだから、早く庭に埋めたかったが、遅くとも昼前には、父の訪問診察で担当医たちが来てしまうので、まずは彼らを迎え入れる準備が先だ。
 その医師と看護婦たちは、午前10時半頃には来て、いつものようにカンタンに診察を済ませ、薬の処方箋を置いてすぐに帰った。

 それからまだ父に朝食も食べさせてなかったので、カンタンにパン類をスープで摂らせてから暖かい昼過ぎ、父を表に連れ出して我はミカンの木の下近くに穴を掘り、可哀想なミーを埋めた。まだ一歳にもなっていなかったかと思う。毛並みも手触りも生前のままだったが、身体はもう固くなっていた。
 2017年の春に、老衰で死んだ愛犬ブラ彦も、柿の木の下に埋めたらその年の秋は、柿の実はたわわに成った。ミーもまたみかんの木を成らせてくれるに違いない。猫の魂よ、安かれ、である。
 それから父にサポートさせて、上がってしまった車のバッテリーを復帰させる作業にとりかかった。しかしこれまた一苦労であった。

 自慢できることではないが、我は、生来の不器用で、工作やメカニックなことにはとことん弱い。何かモノを組み立てるということは、プラモデルどころか、学年誌の紙の付録でさえ完成させることかができないほどだ。
 小学校のときは、図画工作で通信簿が付けられてしまうから、我はずっと評価は1.であった。が、中学になって、美術だけに切り離されたら、評価はとたんに5になった。
 今は絵心とかそうした才能は枯渇してしまった我だが、元々絵画的センスは多少はあって、美大進学を目指したこともある。本来は5.の才能が、1.に下げられるほど木工などモノづくりの才はなく、とことん不器用なのである。
 そこに来て世の男子は、皆たいがい、鉄道や乗り物、車やロボットなどメカニックなものが好きなようだが、我はそうしたものは昔から一切関心がない。メカ類でもオーディオとか楽器は異常に好きだが、それは音が出るからであり、単に固いものや動くものには無関心だと言うしかない。だから車も自転車も単に動けば、実用的であればそれで良し、であり、自らいじることはまさに関心外であった。
 そんな男が、自ら車のバッテリーをいじるハメとなった。とことん不器用な男がボケ老人をアシストにして、どれほど苦労したことか想像できるであろうか。
 ※実は、我が父は、呆ける以前は、こうしたメカにはめっぽう強く、我と違って手先は器用で創意工夫の人として知られていた。腕時計からバイク、自動車まで父が修理できないものはなかった。が、それも今は昔であり、今は手も震え目も見えず頭も回らず頼りには全くならない。

 ボンネットを開けて、ネットの記事にあったようにまず、ウォーシャータンクのポリ容器を持ち上げないと肝心のバッテリーが姿を現さない。が、そのタンクにもとうぜんコードというパイプが付いていてそれを外さないとタンクは動かない。
 全てがキツキツでスペースがなく、手も入らず、ろくな工具も手元になく、その二本のパイプと線を外すのがまず大変であった。※また元に繋ぎ直すのも。
 やっとタンクは宙に浮いて、バッテリーも見えた。そしていよいよ小型モバイルバッテリーからジャンピングである。
 そのAmazonで注文したモバイルチャージャーは、その日の午前中に届き、既に充電しておいた。

 クリップをそれぞれプラスとマイナス、赤と黒それぞれで繋いで、車内に入ってエンジンをかける。が、ウンともスンともエンジンはかからない。
 外にいる父に、タンクと小型チャージャーを支え持ってもらったのだが、父がいて良かったとこの日ほど有難く思ったことはない。
 車内に入らないとエンジンはかけられないのだから、我一人ではそもそもこの作業は出来なかったのである。
 プラスとマイナスを繋ぐのが間違っているのかと、何度も付け替えてみた。説明書ではごく簡単に、エンジンはかかるとのことで、かかったら即バッテリーのクリップは外せとある。
 ほとほと困惑した。近所の懇意にしている家のご主人が、今日は休みなのか庭先にいるのが見えた。もう諦めて、彼にお願いして車を出してそれで繋いでもらおうかと大いに迷い考えもした。
 が、諦めずに10分ほど何回も何回も繋ぎ直してたらやっと反応がわずかにあり、エンジンが鳴りかかりそうな感じがした。何故か突然死んだ猫のことを思った。南無さん!!!
 そしたら突然エンジンがかかった。

 しばらくそのまま吹かしてから、切らないようにして即車を出した。助手席に着の身着のままの父を乗せてしばらく秋川方面まで走り、八王子の滝山街道から回って市内に戻って、行きつけのガソリンスタンドに入って給油した。そこで初めてエンジンを切った。
 スタンドに入ったのは、もしまたバッテリーが上がったとしても、そこなら店員にヘルプもお願いできると考えたからだ。
 給油してからエンジンを何回か掛け直したら問題なくすぐかかった。ほっとした。もう大丈夫だろう。

 並びの街道筋のかつ丼屋で遅い昼飯を父と食べて、家に戻ったらもう夕方、4時であった。実に長い一日であった。ともかくバッテリー問題は何とか解決した。みーは死んでしまったが、父がまだここに居てくれて助かったと心底感謝した。有難いことであった。
 しかしことはこれで終わらなかった。数日後、今度は、我家いちばんの老猫、灰色のグリコが姿を消してしまい、「行方不明」となってしまった。 
 今も帰らない。いったい何が起きてるのか。
 もう一回追記します。

一体何が起きているのか、今、まず何をどうすれば良いのか2021年03月17日 21時51分57秒

★また、申し訳ないが私事を書かせてもらう

 いま、夜も10時近くなのに、我家の頭上をオスプレスイが横田基地に向けて何機も飛び交い騒がしい。
 アメリカからバイデン政権の要人が横田基地から来日中とのことで、この数日米軍機が大小やたら飛び交って騒がしくてたまらない。
 これは書くべきか迷ったが、前回拙ブログを記してから様々なことが起きた。そして今もどうしたらよいのか悩み迷っている。

 父のことではない。幸い有難くも我が老いた父は、今晩も介護施設でお泊りなので、今こうして我は、父のことはさておき、パソコンに向かいこのブログに向き合えるわけだが、前回から毎度のことながら次々難事が起きた。
 トラブルは我が影法師、とはロス・マクドナルドのハードボイルド小説のタイトルだったと記憶する。我の場合、トラブルとは毫も思わないが、我が人生は常に次々多事多難が次々起きる。それは何故か自問すれば、要するにまさに我が身の不徳の致すところ、自業自得なのだと思うしかない。
 そしてまたしてもこのところそれが続いている。世間の人にとっては、一笑、もしくは嗤われるようなつまらない出来事であろうとも思うが。

 ウチには、今、猫がたくさんいて、三本脚猫のキジ子を筆頭に、約10匹~、面倒を見ている。それもこれもこの数年、我の持病、人生ネグレクトにより、何もかも猫たちのことをも放擲して、一切何の処置もしなかったからだが、さすがにこのままだと「多頭飼い飼育崩壊」、となって、ご近所の方々から非難されるだけでく、保健所やら行政が介入して来て警察沙汰やらメディアに報じられることとなってしまう。
 そんなで、いまは順次、雌猫は避妊手術を受けさせ、これ以上の増殖は終わりにすべく何とかこれでも対処している。
 そんなでできるだけ室内飼いとして今は二室、猫ちゃんたちのために専用の部屋を設けている。正直なところ彼らの餌代や、トイレの始末だけでもかなりの負担となっているが、それもこれも全て自分に責があるわけで、今はともかく縁あって関わったモノゴトにはとことん最後まできちんとせねばと、これでも奮励努力中なのである。
 何もせずにこれからもずっと放擲して行けば、その先に在るのは、ただ破滅だけであって、そんな風に自堕落、自暴自棄にして動物も含めて多くの人たちにご迷惑おかけして自滅・自死するのは本意ではない。

 で、先日も、その雌猫一匹を、午前中からウチのかかりつけの拝島の動物病院に避妊手術のために連れて行った。
 が、昼過ぎ、病院から電話がかかってきて、何故か麻酔がうまく合わず、猫の体調がおかしく今回は手術は見合わせたいと連絡があった。
 それで引き取りに行ったのだが、その日はこちらも慌てていたこともあって、つい帰宅して車のキーを停車後に抜き忘れて、そのままにしていたらバッテリーが上がってしまってエンジンがかからない。
 以前も何回か、前の車のときにバッテリー上がりは起こしたこともあったが、近所に懇意にしていた個人営業の修理工場があって、そこの人に都度来てもらい「修復」させてもらっていた。
 その人に頼んで、以前の車がいかれたときに今のこの車、ホンダのバーモスを中古で格安の20万円で手配してもらったのだが、彼はいま、実家のある三重県に帰郷してしまってこちらにはいない。
 さて自分一人でどうしたものか。我はJAFとかに入っていないし、何とか自力で起動させるしかないのである。
 ご存じのように、車とは、いったんバッテリーが上がったとしても、エンジンさえかかれば、走らせているうちまたバッテリーは充電できる。
 ともかくエンジンがかかるようにするには、ライターを点火するごとく、他から、火ではなく、電気をもらってエンジンを動かせばいい。

 一番簡単なのは、他の車を側に招いて、その車のバッテリーと上がってしまった車のバッテリーをジャンピングという手法で接続して、電気を他の車からもらい、それでエンジンをかけて起動させる。※ジャンピングとは、バッテリーが上がってしまった場合に、他の車からジャンピングケーブル(ブースターケーブル)を使って電力を分けてもらい、エンジンを始動することをいう。
 あるいはバッテリ―チャージャーのような充電器から接続させて、それでエンジンをかけて修復させる。

 手順は、かつて何度も見ていたのでわかっているのだけど、自ら一人でやったことはこれまで一度もない。常に誰か他者にお願いしてやってもらっていた。
 ともかく、車自体まったく動かないのだから、誰かに来てもらい、ジャンピングするにせよ、他の車を側に寄せてもらわないとならない。
 ご近所にそれを頼める人もいなくはないが、まずはウチの車のバッテリーがどこにあるか、である。
 恥ずかしい話、自分の車のなのに、バッテリーがどこにあるのか知らないしその場所がそもそもわからない。何するにせよ、まずはバッテリーがどこにあるか、その位置を確認することからだ。※ボンネットの開け方すら実は知らなかった。

 と、同時に、考えたが、誰か他人様にお願いして、車出してウチの前まで来てもらい、ジャンピングさせてもらうのも気が引ける。ならば、小型のバッテリ―チャージャーを購入して、それでエンジンをかけようと考えた。
 早速Amazonで検索して、中国製だったが、高評価の「ポータブル・エマージェンシー・ジャンプ スターター」なる小型蓄電池を注文した。ブースターケーブルも付いている。値段は5千円もしなかったが、今の我にはやや出費であるが仕方ない。
 これがあると山梨の倉庫などへ行ったとき、もしまたバッテリー上がりのときなど、誰にも頼らずとも一人で対応できると考えたから。そう、向うは近くに民家はあってもそもそも車も人もいないのである。
 それを早速ポチってから、車の中をバッテリーがどこにあるのか探した。積んである荷物もどかして隅々まで。しかしどこにもみつからない。
 以前乗ってた車、ほぼ同型のミニバン、スバルのサンバーは、運転席だったか助手席だったか、前の座席の下に格納されていた。座席を上げればすぐにバッテリーは剥き出しになった。
 が、今の車、ホンダのバモスは、その下は空間となっていて、物入れとして使えるのである。となるといったいバッテリーはどこに?後部座席も同様に下は空いている。謎は深まるばかりだ。荷台部のさらに下であろうか。

 まずバッテリーがどこにあるか確認できない限り、人を呼んでジャンピングするにせよ、自力でジャンプスターターでやるにせよ、何も始まらない。いっそメーカーに電話して確認しようかとも考えた。
 が、ネットで、バモス、バッテリー、位置、とか検索入力していたら、とある、メカニックの人がやっているサイトがヒットした。
 見出しはこうである。『どうしてこんな場所にバッテリーが!?バモスHM2 バッテリー交換』という画像付きの記事であった。
 交換するわけではないが、ウチの車と同じ機種のバッテリーの場所がそこには写真付きで示されていた。
 それによると、まさに表題通り、バモスの場合は、どうしてこんな場所に!、と驚くほどのところにバッテリーは収納されていた。

 前のサンバーも同様に、この手の車は、前の部分、鼻っ面がほとんど出ていない。フツーの四輪車に比べて全体はほぼ四角いボックス型である。
 そのごく短い前面部、僅かに出ているボンネット部を開けると、そこにエンジンやら様々な機械がキツキツに収納されていることがわかった。
 まず見えるのは、ウオッシャータンクである。これはフロントガラスをワイパーで拭くときに出る水が入っているようだ。
 で、バッテリーは、信じられないことにそのタンクの真下、タンクを背負うように隠れて入っていたのである。となるとまずタンク自体を外して、いったん浮かせてどかさないことにはバッテリーに手が届かない。
 これはとてつもなく面倒だとまず思った。念のため、この車をウチに手配してくれた三重県の修理工場の人に電話して確認したらば、その通り、ホンダ車はそんな場所にバッテリーが入っているのだと言う。彼も当初、どこにバッテリーがあるか探すのに苦労したとも。
 ともかくこれでまずバッテリーの位置だけは判明した。ともかくタンクを外してやってみるとかない。

 そもそもバッテリーが上がったのが、火曜日9日のことで、やがて週末となり、11日木曜日の夕方には父が介護施設から戻ってきてしまい、翌金曜は、医師による訪問診察の日で、あれこれずっと慌ただしく車の件は、ひとまず後回しにして、来訪に向けて父の部屋の掃除や庭先の片付けに木、金と追われていた。

 そして金曜日12日。訪問診察は午前中、早めとのことなので、朝早くから父を起こして、朝食も摂らさずにまずは自室に閉じ込めて、我は玄関を掃いたり庭先の片付けに追われていた。
 そしたら近所の親しくしているオバサンが突然来て、泣きそうな顔で、また線路で猫ちゃんが死んでいる、と言う。
 示された場所を見たら、我家の前の八高線の線路内で、レールに沿って黒い塊が伸びている。すぐにウチの猫だとわかった。電車にはねられたのだ。
 慌てて線路のフェンスを乗り越えて降りてみたら、首輪していないが、うちで産まれたミーという名の若い雌の黒猫であった。内臓が飛び出していたから即死であっただろう。抱き起したらまだ少し身体は暖かった。
 【続く】

あの日から10年2021年03月11日 13時18分32秒

★我家の「今」だけを記す

 またまた拙ブログ、更新できず間が空いてしまって申し訳ない。
 年明けから父の呆けと衰弱が進み、特に今月に入ってからは、介護施設から帰宅すると、この家では飯もろくに食べられず、無理強いすれば吐き戻すことも続いてしまい介護する側として心身疲弊しどうしたものかと頭痛めていた。

 夜は夜で、寝ぼけて自らオムツを脱ぎ捨てシーツを糞尿まみれにするだけでなく、朝起こすとこの季節なのに、何故か素っ裸ということも何度もあって、肺炎起こす怖れからこちらも夜は数時間おきに様子を伺ったりと、落ち着いて眠る事もできなかった。
 幸いまだ介護施設にお泊りには行けているので、父不在の時の我は、ひたすら睡眠不足を補うことと疲れを癒すために眠ってばかりで、
ブログも含めて書きたいこと、やるべきこと、やらねばならぬ私的なことは多々あるのに、何一つ落ち着いて進められないでいた。

 もうさすがに、この家で我一人でこの齢96歳の超老人を、介護し昼夜問わず面倒見るのは限界かと思い悩み、次の段階へと、つまり最終案として特養など専門介護施設に入れてしまうことも真剣に考えた。
 が、幸いにしてこの数日来、やや呆けと深夜の妄動は収まっていて、食事も多くは摂れないが、吐き戻すことも収まってきているので、もう少しだけ様子をみようと今は考えなおしたところだ。
 ※で、介護施設に送り出せ、父は今日の夕方また帰宅して来る。次に送り出すのは、明後日土曜日の朝だ。

 それにしてもだいぶ暖かくなってきたとはいえ、暖房も入れず毛布は二枚ほどしかかけていないのに、何故、衣服も何もかも脱ぎ捨てて、上も下も素っ裸になるのか、まったく理解できない。※さすがに朝、こちらが起こした時は、寒いよ~と震えているが。
 しかもそれでも風邪もいかず肺炎にもならないでいるのだから、さすがに満州で終戦を迎えた元日本兵は、信じられないほど寒さに強く頑健にできているのだろうと感心するしかない。
 長生きできているのは、元々基礎体力が人並みでなく強靭な人だからここまでどのような状況でも頑張れたのだと今さらながら思い知った。我のような寒さに弱く脆弱で、冷えるとすぐに咳の発作の出るような者はとても父の齢まで生きられるはずもない。

 さて、今日は3.11、あの大震災の日から10年目である。
 フクシマ原発のことや、被災地の人たちのことなど思うことはいくらでもあるけれど、今日はあえて自分のこと、ウチのことを書かせてもらう。

 あの日も今日と同じような明るく晴れた温かい春の日であった。
 その頃は、ちょうど拙宅の増改築の終わり間近で、我は友人を招き、新築部分のキッチンの床に、ワックスをかけていた。
 と、昼食後のちょうど今頃、突然、それまで経験したことのない大きな激しい揺れが起こり、慌てて外へと飛び出した。その後もすぐにまた強い揺れが続いたかと記憶する。
 揺れが収まってから、先に完成していた裏の部屋にいた父の様子を確認した。父はベッドで横になっていたと記憶するが、眠ってはなく、本か何か読んでいて屋内には特に被害などはなく我家は無事であった。
 その頃、母は・・・

 前年の夏頃から体調不良が激しく痩せて何も食べられなくなっていたのだが、その年の年開けにようやく癌罹患だと判明して、原発である卵巣部の癌の部位を取り除く手術を終えたばかりで、立川の病院に入院していた。
 翌日だったか、ともかく出来るだけ早く、その病院に出向き、容体を確認したが、その古い病院自体もかなり揺れたようだが、母曰く、あまりに揺れていたので また高い熱が出て、震えでも起きたのかと思ったと笑っていた。
 そしてそれから一か月もしないぐらいで、母は無事退院出来、ほぼ新築となった我家に、ある意味九死に一生を得たというべきか、奇跡的に生還できたのだった。
 その日、母を乗せて帰って来た車から見た夕焼けの光景とその時の心持ちは今もはっきり覚えている。我にとってあんなに落ち着き満ち足りた幸福な気分になったことは生涯なかった。

 が、一時期はほぼ元通りに、がん発病前までの生活に戻れるまでに回復した母だったが、癌は必ず再発するとの執刀医の予言どおりに、数年もしないうちに再発し、腹部にまず小さな腫瘍が認められた。
 当初はほとんど肥大化することもなく、何カ月も様子見でいられたが、2016年の年明けから一気に大きくなってきてしまい、同時にまた食欲不振、吐き気や腹痛など諸症状も出始め、癌で大腸が癒着していると再手術を勧められ、またさらに腸を摘出、結果、食べたものはそのまま下痢として出てしまうこととなってしまう。 
 当然、栄養失調で痩せ始めて、体力もなくなり寝たきりとなって我家で最後まで看取れたものの、その年の秋、まさに精根尽き果てるように骨と皮となって我の手の内で死んでしまった。

 癌が見つかり手術となったのが、その大震災の年で、母は八十代になったばかりの頃だったから、今生きていれば、90歳過ぎる頃かと思う。
 それまで大きな病気は何一つせず、入院したのは、我らを産んだお産のときだけだったというほど健康な人だったのだから、癌に侵されなかったらば、まだまだ生きていたと信じたい。じっさい、面倒見好きだった母の知り合いの婆さん仲間は、今も皆その年代でよぼつきながらもほぼ皆さん生きている。
 けっきょく、10年どころか、5年何とか生き永らえただけだった。それでも本来、その2011年のときに手術して成功しなければ、そこで死んでいたはずなのだから、その5年は「おまけ」だったとも言えなくはない。
 ただ、今残念に思うのは、その終わりが近づいていたのに、我も母もその猶予期間をしっかり有意義に使えなかったことだ。そう、そのときは、5年で再発して死んでしまうなんて、思いもしなかっだけでなく考えたくもなかったのだから。
 いずれせよ、もう時間は戻せないし、過ぎた日は還らない。あの大震災のとき、被災し辛く哀しい思いをされた人たちは今もおそらく、我などとはケタ違いの悔いや苦しみを今も味わい続けていると想像する。

 この10年、振り返ればあっという間の感があるが、10年という歳月は長いといえば長いわけで、その頃から変わらず今もこの家にいるのは、その父と灰色の老猫一匹だけである。
 今も昔もウチには猫や犬はたくさんいる。が、10年前に生きていた犬たちは全員順次死に行き、猫たちも代替わりして母のことを知っている猫すら2匹しかいない。
 大震災から10年が過ぎ、かろうじて父と灰色の老いた猫だけがまだ生き残っているわけだが、彼らもまた早晩去っていく。

 そして我は一人で、この先もこの場所で、母のことも父のことも知らないであろう新たな猫や犬たちとこれからも生きていくのだろう。
 犬猫は口きかないし、ものも書き記さない。彼らにも記憶はあるが、「思い出」はない。動物にあるのは、過去はなく常に「今」だけだ。

 人間が彼らと違うたった一つのことは、過去という「思い出」と未来へ繋がる「希望」という新しい時を持っていることだ。
 そして、思い出と共に哀しみという感情が語られ、それを共有、共感できるのも人間だけの特権だ。ならば、亡き人たちの思い出をこれからも語り噛みしめ反芻していくしかない。

 年年歳歳、春になればまた今年も同じ花は咲く。が、そこに居た者たちはもういない。皆、次々と去ってゆく。残された者は無常観に苛まれるが仕方ない。それこそが人が生きていく、ということなのだから。
 春はいつだって哀しみを伴う。が、今年は特別に。

先が見えないことへの不安と困惑、そして苦悩と2021年03月03日 22時56分24秒

★なのに、東京五輪だけは開催ありき、という矛盾と詭弁

 東京も含む近郊諸県に出されている「緊急事態宣言」がまたさらに延長されることになったようだ。
先ほど、夜7時のニュースで、菅首相がそう考えていることを表明したことが報じられた。
 その延長幅も含めて、我としてはそのことについて今は意見も異論も差し控えておく。まあ、多少感染者数が減って来たとしても、またぞろ春になれば人々は浮かれて街や旅行に出、寛さんは再拡大することは間違いない。
 ならば、どれほどの効果があるかはさておき、緊張感を高めるためにもこの「宣言」は引き続き出し続けるしか手はない。
 しかし、当初終了予定の3/7日の目前である。飲食店など既に予定通りの解除を想定して開店の準備をしていたはずだ。
 いや、実際のところ、解除か延長かなかなかはっきりしないので、どう対応したらよいか迷い悩み、やきもき頭を痛めていた店も多かっただろう。
 飲食も含めた客商売を始めるには、まず飲み物も含めた食材を調達しならないし、店員も確保しておかねばならない。解除が決定ならばその手配を早くしないとならない。
 3月7日の直前になって、ともかく再度の延長することがやっと菅首相の判断で決められたが、それにしても遅すぎるのではないか。
 この政権、何につけて毎度毎度の後手、対応の遅れが指摘されて支持率を急落させてきたが、今回も医師会や医療担当者、都や近県知事からの延長要請を前に、何とか自らの判断で、首相の責任で延長を決めたわけだが、やはりそれでも後手後手感はぬぐえない。
 ドリフの長さんの言いではないが、ダメだこりゃ、としか言いようがない。
 実際のところ、コロナの新規感染者数は減って来てもまたさらに変異ウィルスも世界各国で感染拡大中で、国内でも次々と感染者が相次いでいる。先のことは誰にも見通せない。
 緊急事態宣言がさらに二週間?延長されたとしても我は、それでこのまま数字が下がっていくか大いに疑問視している。ある意味、このまま永続的、長期に「緊急事態」は続くのではなかろうか。
 それでもオリンピックだけは開催確定なのだから、緊急事態下でのオリンピックとはいかなるものか、その開催となれば見てみたい気がする。
 無観客どころか海外からも今は観光を兼ねてまず誰も来ないだろうし、そもそも「人類がコロナに打ち勝った証」ではなく、打ち負けた証のオリンピックとして歴史に残ろう。
 が、開催だけは可能かもしれない。かのモスクワオリンピックもそうだったが、参加国数がどれほど減ろうと、誰も観客はいなくとも「中止」や延期にしなければ確かに「開催」はしたというアリバイは成り立つのだから。

 何であれ、誰にとっても一番辛いのは、このコロナ禍がもたらした「新しい日常」「新しい生活様式」がいつまで続くかということだ。
 ニューノーマルというのならば、これが今後の社会のスタイル、未来永劫的に感染防止対策を恒常的に行いながら人類は生きていくことになるのであろうか。
 とりあえず、緊急事態宣言は再度また延長された。が、いったいこの先どうなるのか。はっきりしていることは東京オリンピックだけは森前会長が言ったごとく、コロナだろうが何が何でも開催するということだけだ。
※もう一回続きます。

いったい今、何が起きているのか、これから何が起ころうとしているのか2021年02月15日 19時19分11秒

★オリンピックどころではないだろう

 心中穏やかざるものあり、という言葉がある。
 このところ、特に2月に入ってからは漠然とした強い不安に苛まれていた。
 いくつか付随する要因はあるが、最大は父のことで、「死期」がごく近くに迫ってきているのに、我は未だ何もその準備も、その後のことも対策ができていないからだ。
 むろん覚悟はある程度できている。もういつ死んでもまったくおかしくない齢なのだから。じっさい百歳近いのである。

 だが、備えあれば憂いなし、という諺は知りながら、日々の生活だけで手いっぱいで何一つその準備、「備え」に未だ至らず、刻々と残り時間だけは少なくなってきてさすがに「憂い」ばかり、つまり不安や焦りにかられてきた。

 このところ眠るとみる夢は、必ず高い所から何かを落としたり、落ちていく夢ばかりで、幸い結果として落としたモノ、例えばどこかの子供や犬たちは無事だったという結末なのだが、それでも毎回冷や汗ものである。
 たぶん心底に強い不安や恐怖があるのだと自分でも思える。

 そんなところに、一昨日13日の夜遅くのかなり大きい地震である。
 皆さん無事でありましたか。福島や宮城の人たちの心中いかばかりか。幸い今回は死者が1人も出なかったことは幸いであった。
 ウチは、積み上げた本の山が多少崩れて落ちた程度で、近くの倉庫も含めて大きな被害は特になかった。が、いつまたこの程度では収まらない強い大地震が来るかわからない。首都直下型だか、関東大震災級のものかはともかく、日本は地震大国なのである。
 東日本大震災から10年経っても未だこんなに大きい余震が来るのなら「次」も必ずあると心して常に備えなければならない。

 しかしもう毎度のことながら我はどこもいっぱいいっぱいで、汗牛充棟、本や楽器、レコード、機材などでまさに天井高くまで山積みだ。
 本当に大きな地震に襲われたら、他では死者は出なくても本の山に押し潰れて我だけは死んでもちっともおかしくない状態なのである。いや、家が重さで倒壊するのではないか。
 そうしたことも我の不安に拍車をかける。そして焦り苛立ちどんどん追い詰められていく。

 さておき、起こることはすべてが「メッセージ」だとするならば、大震災からちょうど10年目、3月11日を目前にして、再びそのときに匹敵する規模の大きな地震が起きたことは大きな意味があるのではないか。我には天啓のように思える。
 というのは、大震災からの復興五輪を謳った東京オリンピックが今、このコロナ禍中でも未だ開催ありきの方向で、森会長辞任の混乱下でも政府、マスコミ挙げて妄動中の「今」このときだからだ。

 確かに対外的というべきか、表向き、つまり目に見える部分では「復興」もなったかもしれない。震災遺構はほぼ姿を消し、かさ上げした土地には住宅が立ち並ぶ。商店街の賑わいも戻ってきたと聞く。
 しかしじっさいは、何も「復興」していないのではないか。今も避難し元の町に帰れない人たちと被災した全ての人々の心の中と、この地中地下、深い目に見えない部分では。
 大震災10年目の2/13日の大きな地震、オリンピックのお祭り騒ぎに気持ちを向けようとする人々への戒めとは言わないが「警告」ととらえるべきと我は考える。

 これは書くべきか迷ったが、翌日14日の昼過ぎ、ウチの前を救急車がサイレンを鳴らし通り過ぎ近くに停まった。
 不審に思い外に出て見たら、二軒先の家の前である。近所のオバサンたちも集まっている。
 その家は、七十代ぐらいの夫婦と子息二人の四人で暮らしている。我はてっきり、その親のどちらかに異変が起きて救急車を手配したと思った。しばらく庭先で、片付けものしながら様子を伺っていた。
 救急隊は屋内からなかなか出てこない。
 停まってから30分ぐらいたっただろうか、やっとストレッチャーに乗せられ隊員に心臓マッサージを受けながら男性が搬送させられ救急車に運び込まれた。意識はないようだ。
 倒れたのは、その家の親たちではなく、息子だとわかった。
 以下は隣家のオバサンたちの話である。詳しいことは直接その家の人から我は何も聴いていない。

 前日の夜の11時、かなり大きい地震があった。それとどう関係があるのかよくわからないが、その子息はその以後体調を崩し翌日容態は急変し、救急車を手配する事態となった。死因は心臓発作だか、心筋梗塞らしい。
 救急隊が来た時にはもはや心肺停止状況であったと。年齢は四十代とのことである。

 ごく近くの家ではあるが、我は、その家のオバサンとは猫のことなどで話はよくするが家庭内のことは何も知らない。
 ただ、その子息が心臓に疾患を抱えていたとはまったく思えないし、これまでも救急車が来たことも一度もない。知る限り家業を手伝い毎日朝早くから仕事に出ていた孝行息子である。急死する原因は思い当たらない。

 これは我の想像である。もしかしたら前夜の大きな地震が引き金となり、10年前の恐怖がよみがえり心臓に異変が起きたのかもしれない。
 フラッシュバックというのか、我も13日午後11時過ぎの揺れのときは、あのときのことをはっきり思い出した。新築となった家の床に友人と二人でワックスをかけているところであった。あまりの揺れに慌てて外に飛び出した。

 亡くなられた彼が、その10年前のときどんな体験をしたのかわからない。ただ、もしかなり強い恐怖体験、トラウマになるような強いストレスを抱えていたならば、心の揺れもまた大きく戻ってなかなか収まらなかったのではないか。
 普段は忘れて思い出さないようにしている大きなストレス、トラウマは、同様の事態が起きるとまた再び表に出て来る。今回の10年前の地震以来最大規模の「余震」は再びその恐怖を多くの人々に与えてしまった。
 そう、地球規模では、10年なんてごく短いスパンであり、これからもまた同程度もしくはそれ以上の規模の「余震」がいつ起きてもおかしくない。それは心に大きな負荷である。
 いつまた来る大地震に備えることは当然だが、恐怖心は備えることも克服することもできやしない。

 そのうえ、そこ以外の場所でも全国各地でこの国は大地震が多発しているのである。オリンピックを開催して「復興」を謳うのはいい。が、その前にこのコロナ禍の完全終息と、誰もの心の復興、つまりコロナで人間関係が断ち切られ自殺者が増えている今、真の補償と心的ケアをきちんとしないかぎり心からオリンピックは楽しめないはずだ。
 国民の八割が、延期もしくは中止を望んでいる今、東京オリンピックは大きな決断のときである。
 いまはオリンピックどころではないだろう。違いますか。

森喜朗という幸福な人を羨む2021年02月06日 20時28分40秒

★己の愚かさと過ちに気づかぬまま、絶大な権力を手に人生を終えられるならば

 緊急事態宣言再発出から一か月過ぎた。当然、コロナはその一か月内で収まるわけもなくまたさらに一か月延長された。今さら菅首相の定見なき無責任発言をとやかく批判しても意味がない。威勢のいい言葉だけのパフォーマンスは小池都知事に任せとけ、だ。

 そしてようやくこのところやや新規感染者数も減少傾向との報道が続き、おそらく来月頭には、いったんは「とりあえず」収束したと政府や御用学者たちは公言することだろう。
 先のことはわからないが、ワクチンも含めて、あらゆる手を尽くしてともかく一日も早く元通りの自由な生活、かつての当たり前の日常が戻ってほしいと誰もが望んでいる。そう、この我もが、さすがに恒常的マスク生活などには心底うんざりしている。

 ともかく息苦しく不便なのである。元々呼吸器系が弱く咳の発作が続くことが多い我はマスクするのが好き嫌いではなくそもそも苦痛である。新鮮な酸素が入らないと息苦しくてたまらない。
 またどんなマスクでもメガネは曇るし、そうならぬよう「鼻マスク」というのか、これまでは鼻だけ出していたのだが、今ではそれさえもアウトなのだと批判される。常に顔の半分、目の下は全部マスクで覆い隠さないことには、世間様からうるさく叱られる世の中となってしまった。
 今では、父の訪看さんとか訪問診療、あるいは介護施設の職員との応対時にも父も我もマスク着用が義務づけられているので、家の中でもマスクせざる得ない面倒な状況となってしまった。

 そんな誰もが生き苦しい不自由な今の世で、一人、特に自由好き勝手に放言吐きまくる御仁がいる。そう、東京五輪・パラリンピックの大会組織委員会、森会長である。
 これまでも過去に、日本は神の国、から、女性スケーター選手を名指しして、肝心な時に必ず転ぶ、とか、好き勝手に思いつくまま多くの放言を口にしてきた人だが、つい先日また組織の会合で、マスメディアを前にして、女性蔑視、差別と受け取られても仕方のないトンデモ発言をしてしまった。
 失言大王とも揶揄される御仁が何を言ったかは、今さらここで細かく検証して批判する余裕も時間も我にないので、あちこちで多くの人が紹介してるのでそちらをお読み頂きたいが、さらにまた呆れかつ感心したのは、その「謝罪会見」である。
 その「女性がたくさんはいってる会議は時間がかかる」発言その他が、国内のみならず全世界的に大きな批判を浴び、オリンピック精神にも反するとして、会長の責任が問われる事態となっての会見であった  が、けっきょく、神妙に「発言は撤回します」、と謝罪したのは冒頭のみで、後の質疑応答では、報道陣の質問に逆ギレして、謝罪は本心からではないと知らしめる醜態を示しまたさらに顰蹙をかう結果となった。

 この人はほんとうにこれまでも常に自分勝手に自ら都合しか頭にないまま、好き勝手に放言し放題で生きてきた人で、どれほど批判されてもそれを「悪口」だとしか受け取れないほど面の顔が厚い鈍感、無反省な何も考えていない男なのである。よって、「発言」は本心からのものであること、「謝罪」もうわべだけのものであると、さらにこんな愚かな問題人物が、東京オリンピック開催運営の中枢にいるということをさらに世界中に発信してしまった。
 こんなに自分勝手な人はアメリカのトランプ氏以外に日本にもいたことを久しぶりに思い出させてくれた。が、トランプは、ともかく熱烈な人気も一部の人望もあり、多くの支持者が今もいるが、何故にこの愚かな正直者が、これほど厭い嫌われてしまうのか考えてみる必要があろう。

 ネットの世界では、そもそもこんなトンデモ人物がどうしてオリンピック組織委員会の会長なのか、そのこと自体を疑問視し批判する意見で溢れているが、我に言わせれば、それもこれも自民党政権と長く続いた安倍政治の負の遺産そのものであり、東京オリンピック開催が決まった時から彼以外に相応しい成り手はいなかったのである。
 また彼を罷免しろとか、クビにせねばという発言も多いが、独立した組織なのだから、外部がとやかく口出して指示することもできやしない。カメは甲羅に似せて穴を掘るという喩え通りならば、彼はある意味、日本社会の象徴なのである。
 彼の存在こそが、日本という国がオリンピックを開催するということの暗喩なのである。
 だか、当然常識的に様々な批判が噴出していく。
 いちばん気になるのは、老害だとして、政治家も65歳定年制を、とか、挙句に、働かない国会議員もついでに減らせ、という極論である。
 歳とった政治家は、二階幹事長や麻生副総理も含め、身勝手でトンデモ発言ばかりして国民のために全くならないと我も思うが、だからといって老人全部がある一定の年齢になったら公職は退いて隠居しろというのはまた暴論だと考える。

 「老害」の老人は確かにいる。それは会社でも街でも家でもどこにでもいる。しかし、それを老人全般、年寄り全てに当てはめてしまうのは、「女性は話し好きだから会議が長くなる」からという偏った認識による極論的一般論と同じで、○○人は××だから、という偏見と同じレベルに陥ることではないのか。
 歳をとっても若い時と変わらず昨今の若者よりリベラルで柔軟な考え方や行動をとっている人はたくさんいる。また若くても頑迷固陋の人も多々いよう。
 モノゴトは何かコトが起こると一つの事例から極論に考えが及ぶ。政治家の定年制に問題を移すこと以前に、森会長の発言の裏にある思想、つまりある意味日本的男性思考こそが再考すべきことではないのか。
 同時に、その考え方と周りの対処法こそが国際的に今日本は問われているのではないか。

 男性優位社会で、どのような場でも力のある、上位にある男性が何か口にしたり行動したりすると、下位の者は女性でなくとも誰も異論や反論は口に出せないしすべきではないという社会構造。
 その「男」がどれほど誤った問題ある発言をしたとしても周りは、追従の笑いしか出せず、きちんとそのモノゴトの本質を指摘したり面と向かって批判はできないという日本社会の立て構造。

 実はそれこそがスポーツの世界なのである。
 我は、昔から文弱の輩であり、学校でも体育会的クラブ活動は大嫌いでほとんど参加しなかったのだが、今にしてそれは何故かはっきりわかってきた。
 体育会的世界では、上下関係は絶対であり、先輩や指導者が命じたことがどれほど無意味、非道であろうともそれにともかく従うしかない。抗ったり誤りを批判したり諫めたりすることは絶対的に許されない。
 理不尽でも我慢して、自分が上の立場に立ったとき、今度は新たに下に来た者にそれを同じく押し付ければ良いのである。
 つまりこれは軍隊の論理であり、日本の社会は、今も実は多くの会社でも政治の世界でも同様の立て構造が続いている。強い者にはまかれろ、忖度せよである。

 中でもスポーツの組織こそそれが厳然確固たるもので、相撲も同様だし、オリンピックの組織委員会もまた然りなのである。
 そうした中で当然のこととして出た森発言。しかし、何で今さらこのコロナ禍で、オリンピックは開催困難なタイヘンな最中に、女性差別発言をするのかまったく理解できない。
 このところ新規感染者数もようやく減少して来て、もしかしたら東京オリンピックもどのようなカタチならば開催できるかも、と希望が見えてきた矢先なのである。
 森会長の発言とまたその後の「謝罪会見」はさらに火に油を注ぐ結果となった。いや、オリンピックの火に会長自ら水をかけたというべきか。
 
 ともあれ、森喜朗のように状況も一切顧みず、好き勝手に放言を自由に口にして、一切何も反省しないしその批判の裏に潜む真の問題にも頭が回らないし気がつかない。そうして好き勝手に存分に生きて一生を終えられるならば実に幸福な人生ではないだろうか。
 私はこういう人になりたい。

コロナ禍でも、ともかく続けていくこと、だと2021年02月02日 22時14分52秒

★人生を自ら終わりにしない。

 今朝は雨上がりの暖かい朝だった。朝のうちは曇っていたが、しだいに陽射しも出て、暖かい穏やかな早春の一日となった。
 2月となった。このところ雨が多く、まさに一雨ごとに春めいていく感がある。むろんまだまだ冷え込み、時に雪が舞う日もあるかもしれないが、たぶん今年はもう積もるような大雪や水道が凍る程の強い寒気は東日本、太平洋側ではないような気がする。
 こうして一雨ごとに春へと向かっていくと期待したい。もう辛い、最悪のときは終わったと。

 まず我が父のことだが、小康状態というべきか、先日来の急激に悪化した呆けは今は下げ止まり、記憶はともかくも人間性はまだ何とか維持、確保している。そんなで今朝も介護施設に何とか苦労したが送り出せた。
 ただ、今年に入ってから我としては朝、父のオムツ替えや起こすときなど、父は果たして今朝も無事で何も異変はないか、戸を開けて確認するまでドキドキし、常に最悪の覚悟のうえで臨んでいる。

 じっさい、もう寝ている間に、老衰で不意に呼吸が止まっていたり、不慮の事故で死んでいてもちっともおかしくない状態なのである。
 96歳という超高齢の老人を自宅で我一人で介護し共に暮らすということは、同じような経験をしている人はまずいないと思うしその気持ちはどう語るべきか。
 認知症もひどく何をしでかし何が起きてもおかしくないし、常に死はごくごく側にあるとひしひし感じている。俗に薄氷を踏む、という表現があるが、まさに命の薄氷を毎日怖ろ怖ろ父の手を引いて歩いている気がする。

 このところ、父は何故か必ず朝、オムツ替えのとき確認すると、毛布一枚だけしかかけていない。何枚もの他の毛布や布団は、傍らの椅子にきちんと折りたたんで重ねてある。
 そして時に、穿いているオムツ、紙パンツなども全部、一切脱ぎ捨てて、すっぽんぼんで下半身丸裸で眠っている。
 これは、たぶん暖房いれてるので暑いのだろうと考えて、温度を下げるのではなく、布団を厚めにかけて暖房は切って寝かせたら、先日は朝までそのまましっかり布団も毛布も掛けて眠ってくれた。
 やはり一兵卒として先の大戦で、酷寒の満州でも生き抜いた人だから、寒さには格段に強いのだとわかった次第で、ならば暖房は不要かと、オフにしてこの数日寝かせていた。
 が、今朝は、春めいてきてそれでも暑かったらしい。早朝5時のオムツ替えのときには、毛布一枚だけで寝ていたので、風邪ひくと思いしっかり布団かけておいたら、朝8時過ぎ、施設に送るために再度起こしたらば、下半身はなんと丸裸であった。紙パンツすら履いていない。オムツも何もかも全部脱ぎ捨ててあった。

 とうぜん、シーツの上に小便は大量に漏らしていて、まさに大世界地図であった。父はその小便の湖のうえで眠っていたのだ。
 何でそんなことをするのか問い責めても意味はない。要するに無意識のうえでそんな妄動に励むわけで、先日は、この寒中に、深夜に窓をこじ開けて外に出ようとカクサクした形跡があり、キジ子ら猫たちはその開けた窓から外へ逃亡してしまい連れ戻すのにまた苦労した。
 昨年はじっさい、厳冬1月なのに、寝ている部屋の引き戸を外し台所から戸を壊してそこから父自ら外に出、徘徊のあげく、車の中で早朝眠ってるのを発見されたこともある。我が朝起きたら部屋は空っぽで父の姿はなくまさに仰天、卒倒した。
 そのときも真冬なのに裸足でほぼ裸だったのだから、ヘタすれば即肺炎起こしてコロナでなくともとうに死んでいたはずで、スーパー呆け老人は何しでかすかまさに予測不可能なのである。父がいると気が休まらないとはこういうことだ。
 大・小便を垂れ流したり寝小便したりするのは介護苦労の度合いとしてはごく軽いものである。

 当然、そんな父と暮らしていると騒動やトラブルは日々絶え間なく、我は心身疲弊してしまう。気が休まらないから夜もろくに眠れず常にイライラしてときに父にも暴力であたる。そして繰り返し自己嫌悪となる。誰も助けてくれないし、ブログで愚痴すら書くのも憚かられる。どこにも出口は見えやしない。
 今だから記すが、何度も自暴自棄となって、父を殺してこの家に火をつけて自分も自殺しようと考えた。じっさいゴミ箱に火をつけたこともある。
 そうして人生を終わらせようと衝動的に何度も考えもした。もううんざりであった。何もかも。すべて思い通りにならず、誰にも頼れず孤独であった。

 が、今はこのコロナ禍中、全世界的にこれまで誰も経験したことのない状況下、誰もが苦難のときにあって、父とのことも考え方が変わった。老いも若きも多くの人たちがコロナとその関連死で亡くなっていく。その人たち残す思いはいかほどか。

 つまるところ人は誰もが必ず死ぬのである。望むと望まざるとに関わらず誰もが必ずいつかは死ぬ。
 ならば、何も自らその死を願ったり望む必要などどこにもないのではないか。どれほど大変で手がかかろうとも父はもうすぐ、間もなく必ず死ぬ。その父と共に我もまた自ら人生を終わらせる必要はどこにもない。ましてそんなふうに、ははを看取り父を殺し終えて自らも死ぬのならばいったい自分の人生はどこにある? 何のために生きて来たのか?
 我はまだ己の人生を生きていないではないか。

 そう、このコロナ禍で多くの店が廃業に追い込まれている。また失業者や自殺者もものすごい数で増えている。
 そこでのキーワードこそ、「持続化」なのである。つまり、大変な状況だからこそ、そこでついにやめて、終わりにしてしまうか、何とか持続していけるか、なのだ。
 持続化給付金という処方も受け競れる人や事業者は良いことだ。が、とてもそれではやっていけないという人も多々いるだろうし、そもそもそんな援助や「救い」は得られない人もたくさんいるかと思う。
 先日もどこそこの何代も続いた老舗の有名な名店が、ついにこのコロナで客足が減りやむなく閉店したと報じられていた。そんなニュースは後を絶たない。
 じっさいそうするしかないという限界的状況なのであろう。つまりコロナが収まらず先も見えず、これ以上赤字で貯金を取り崩していくなら「閉店」「廃業」やむなしということ。それを他者が咎めることもあれこれ口はさむこともできやしない。

 だが、あえて今思う。他者が無責任な言いで、他人にどうこうは言えやしないし言うべきではない。が、自らにおいては、何はともあれともかく何事も続けていくことが肝要・大事なんだと。特に「人生」こそは。
 終わりはいつか必ず嫌でも誰にでも来る。そのときは今なのか、とまず問うことだ。そう、それは「今」ではない。ここでもない。自ら下すべきことでもない。やっと気がついた。

 今ここに書き記す。我はもう人生を投げ出さない。逃げずにきちんと向き合っていく。最後の最期、その日が来るまで、とことんもがきあがいても生き続けていく。
 まだここでは死ねないし、こんなことでは死ぬに死ねない。その日、そのときが来るまで、生き続けていく。

 善き力にわれ囲まれ という思いでいる。
https://www.youtube.com/watch?v=8CAEZz9OExs

善き力にわれ囲まれ
守り慰められて
世に悩み共にわかち
新しい日を望もう

過ぎた日々の悩み重く
なおのしかかる時も
さわぎ立つ心しずめ
み旨に従いゆく

善き力に守られつつ
来るべき時を待とう
夜も朝もいつも神は
われらと共にいます

たとい主から差し出される
杯は苦くても
恐れず感謝をこめて
愛する手から受けよう

輝かせよ主のともし火
われらの闇の中に
望みを主の手にゆだね
来るべき朝を待とう

善き力に守られつつ
来るべき時を待とう
夜も朝もいつも神は
われらと共にいます

作詞: Dietrich Bonhoeffer 1944
作曲: Siegfried Fietz, 1970