子猫の譲渡会開催!! 明日25日、谷保かけこみ亭で2022年09月24日 12時18分22秒

大慌てで作ったら、担当者名「マスダ」が抜けてた。
★一匹でも、貰い手さんの元へと願って

 我の父の一大事のことがあったにせよ、マスダの迂闊さと怠惰、怠慢によって、うっかり増えてしまった子猫たちを、新たな飼い主を見つけてウチから送り出すために、またまた、かけこみ亭をお借りして「譲渡会」を開催します。

・日時/2022年9月25日午後1時頃から3時ぐらい迄。
・場所/ 国立市谷保かけこみ亭 南武線谷保駅下車歩3分ほど。
・電話・住所/〒186-0003 東京都国立市富士見台4-39-5-422
 042-575-2208


 当日は、店内は携帯が繋がりにくいので、店の電話におかけください。昼過ぎまではマスダの携帯 090-8175-8479 迄

 ともかく一匹でも貰い手が現れますように。子猫たちも期待に身体を大きくしてお待ちしております。※チラシの猫はほんの一部で、他にもっとたくさんいろいろな柄の子猫がでおります。
 同かよろしく、子猫一同心よりお待ちしております。
 
 この情報、ネコ好きの方などへカクサン、お知らせ願います。後日の問い合わせにも対応し、どこへでも連れて行きますので。 

 我が父の件は、とにもかくにも「片付いた」。次は、猫たち、だ。  マスダ 拝

父の死の前後のことなど・続き2022年09月22日 10時38分40秒

★火葬を終えて今振り返る。

 9月14日の夕刻、市内の病院にいる、重篤の父が容態悪化との連絡受けて、我は急いで自転車で走り、彼の個室にかけこんだ。
 ベッドに横たわっている父以外は誰もいない。前日に、九州から来た妹と見舞いに来た時と様子は変わらない。
 父は、透明な酸素マスクを鼻と口にあてられて眠っているようであった。ただ、息をしているかはわからない。
 すぐに看護婦が入って来て、お父様はたった今、亡くなられましたと告げる。が、触ってみるとまだ身体は暖かく、固くもなっていない。
 次いで入ってきた担当医は、その看護師の言葉を否定し、まだ確定ではないと言い、別室でモニターで見ているから、また来ます、最期のお別れを、と促された。

 じっさい、父に声をかけて、手を擦ったりしていたらば、目は閉じたままだったが父は少しだけ動いて、口も開けて何か言いたそうでもあった。
 しかし、しだいに反応はなくなり、我は、ただ労いと感謝の言葉をかけながら、握っていた父の手を彼の胸に組んであげた。
 閉じた父の目には、うっすら涙がにじんでいるように見えた。

 少しして医師と看護師が入って来て、医師は聴診器を胸に当てて心音を確かめ、ペンライトを閉じた目に照らして確認を終えて、「ただ今、亡くなられました」と告げた。
 時刻は、午後5時54分であったと思う。

 それからご遺体の処置があるけれど、これから夕食の時間帯で、人手も足りないので、ご遺体の搬送できるのは8時過ぎ頃になると言う。
 ならば、我も一度家に戻ることにして、病室を後にした。看護師はてきぱきとさっそく父に着けられていた酸素マスクや心電図のセンサーなどを外し始めていた。

 一階の受付ロビーで、事前に一報入れておいた、まず葬儀会社に父の死を知らせて、遺体の搬送をお願いした。すぐに担当者が向かうと言うが、8時過ぎでと伝えた。
 それから、妹や甥っ子や親しい人たちに携帯で訃報を伝えて、我は暗くなった道をまた30分近くかけて家に自転車で戻った。
 喉が渇きを覚え、途中で缶ビールの500ml缶を買った。

 家に戻ったのは、ちょうど午後7時ぐらいだったか。庭先で母方の親戚に父の死を電話連絡し、葬儀などは考えていないことなども告げ、他の兄弟姉妹にも伝えてもらえるよう頼んた。
 家の猫たちに晩御飯を与える前に、まず缶ビール片手に犬の散歩も済ませて、自室で父を知る我が親友にも電話かけたりしていたら、8時近くになってしまった。
 慌ててまた自転車で町はずれの病院までひた走る。着いたのは8時15分頃だったか。

 葬儀社の人はもう既に来られて待機していた。
 受付で、まず我だけ病室に行くよう促され、死んでしまった父と改めて対面した。父は病院のパジャマ姿ではなく、昨日、我が持って行った父が家でいつも着ていた普段着に着替えさせられていた。胸には先ほどまでは外されていた十字架がかけられている。
 口が開いたままなので、どうにかならないかと看護師に言ったら、もう死後硬直していて難しい、後は葬儀社の人にお任せしたほうが・・・と。

 すぐに下からその葬儀社の担当の人と、もう一方がストレッチャーを引いて上がって来て、父はあっという間にそれにベッドから移し替えられてエレベータに載せられて一階へ。
 そのまま自宅には帰さずに、国立市のその葬儀社の冷蔵保管室へとバンに載せられて走り去って行った。
 担当医と看護師たちはその車が走り去るまで丁重に頭を下げて見送ってくれた。

 それから我は、葬儀社のNさんと、病院のロビーで火葬のことなど、金額なども含めて今後の流れを詳しく相談した。
 その人は、母の葬儀の時も担当してくれた人だそうで、いろいろ無料サービスはしてくれたものの、「火葬儀」ということでも、見積もりは33万~ということになった。
 その火葬儀は、9月18日、日曜の午前11時に立川聖苑に集合し、11時半より火葬ということに決まった。遺影の写真などはこちらで用意することに。

 打ち合わせが全て終わって、自宅に帰ってきたのは、9時半を過ぎていたのではないか。もっと遅かったのかも。
 その晩は、すぐに寝ようと思って早めに床に就いたが、なかなかやはり眠れなかったかと記憶する。

 翌日から、火葬の当日までに、親戚縁者などに連絡をしないとならないのでその作業、手配などで突然慌ただしくなった。母方はともかく父方は、もう実の妹弟で健在の人はもう一人しかいない。故に連絡とろうにも皆、その子息、娘たちなので名字もかわっていたりして誰が誰でどういう関係なのか我はよくわからない。
 お骨を拾うの人が我と甥っ子ぐらいではあまりに少なく父も寂しいだろうと、妹も心配して、また飛行機でそのためだけに上京も、と考えたようだが、その前々日来たばかりだし、ちょうど大型の台風が九州を直撃してくるという状況もあって断念してもらった。

 代わりに我の古くからの女友達で、我の母も父のこともよく知っている人たちが来てくれて、我入れて4人で無事にお骨を拾うことが出来た。
 他にも顔も覚えていない従姉や、我の親友も人が少ないなら行こうか、と申し出てくれたが、台風も来ていたことだし、丁重にお断りした。
 そして父の骨壺を抱えて、立川市内の中華飯店で、4人で食事して散会し、我が父の「火葬儀」は終わり、お骨は今、ウチに帰り畳の上に鎮座している。
 諸事情でウチは今家中、とっちらかって足の踏み場もないような状態なので、父が生前食事したりテレビを見ていた居間だけでも片づけて、骨壺の置き場所をきちんと作らねばと思っている。
 
 今後のことだが、昨日やっとウチのお寺さんに電話して、納骨までの流れ、予定も見えてきた。
 町田に在る、我の祖父母や母も収められているウチの墓所には、10月の終わりの土日のいずれかに寺で法要が行われて、父の遺骨もその墓に収められることと決まった。

 いろいろまだまだ今回のひと騒動に関しては書き記しておきたいことなど多々あるけれど、まずは、ひとまず「報告」は終わりにしておきたい。
 我に対しては、このブログなどで父の死を知った友人知人方々から、お見舞いとお悔やみのメールを多々頂いた。
 後ほどきちんと個々に御礼申し上げたいと思っているが、改めてその愛とお志にこの場でまず深く厚く感謝いたしたい。
 ほんとうに有難うございました。皆さまにも神のご加護を!!

 我は、この亡き父と母から、都内で産まれて幼い頃に今住むこの地に移ったのだが、そのときは、祖父母も健在だったし、父の妹弟たちも同居していたのでともかく大家族であった。そう、昔のテレビのホームドラマのように。
 が、その父の妹、弟たちは結婚して家を離れていき、祖父母は順次亡くなり、我が家は、父母と我と妹だけの四人家族となった。
 その妹は学生時代に早くから家を出て、やがて職場で九州の大分出身の人と出会い、その地に一家を構えたが、我は、若い頃はこの家から独立したこともあったが、もう何十年も老いていく父母と三人暮らしが続いていた。
 そしてまず2016年9月に母が先に逝き、そし7年後、の同じ9月に、ついに父が死んでしまった。
 我はとうとうこの広い大きな家にたった一人となった。
 かつての大家族であった頃を思うと、祭りが終わった後のような寂しさを覚える。みんなどこへ行ってしまったのだろう。

 しかし幸い?いまは、動物たちがものすごくたくさんの数ウチにはいる。まずはその子猫たちの貰い手を探して一匹でも新たな飼い主の元で幸せになってもらうことだ。
 動物も一匹もいないでこの家で自らとただ向き合う孤独に直面したらば、我も江藤淳のように自裁したに違いない。
 有難いことに、我には、その動物たちと多くの暖かい、我を哀れみ手を差し伸べてくれる友人たちがいる。そして神の存在もまた。
 孤独をしみじみ味わう暇もない。生きていくということはなんとやること、やるべきことがいっぱいあることか!!
 今日はやっと修理に出していた愛車が直って帰ってくる。

 ただただ全て感謝。
 もう今はこの世に亡き人たちの魂に平穏とやすらぎを。

父の死の前後のことなど記す2022年09月20日 08時33分37秒

★そしてこれからについても

 台風は、今どこにいるのかわからないが、こちら側、関東の多摩地域では、昨日は風は強かったものの雨は大したことなく、被害呼べるほどのことは何もなかった。
 朝方は曇っていたが、今、8時半頃、外は晴れてきて明るくなってきた。

 父の死について報告がてら思ったことなどを記している。
 一昨日の日曜、18日に、火葬を終えて遺骨は今ウチに帰ってきたことは書いた。
 そして昨日も祝日だったので、諸届けなどの連絡作業などもできず、我は午後はひたすら昼寝したりのんびりでき、この数日の疲れも癒すことができた。
 これから我の、父の死後、の人生が始まるわけで、その準備、新たな人生の計画や支度にとりかからなければならない。
 その前に、自らの備忘録のためにも、父の死の前後数日のこと、火葬した当日のことについても書き記しておく。

 我が父は、14日、水曜の夕方に逝ったのだが、実はその前日に、我が実妹、父の唯一の娘が、遠く九州の大分の山奥から見舞いに来た。
 父は娘に会えたので、やっと何も心置きなく安心して旅立てたのだと今思える。

 以下、経緯を記す。
 先にも書いたが、父の妻、我の母が逝ったのは、2016年の9月8日のことで、父の余命宣告が8月末頃、と告げられてから、たぶんその母の命日の頃、8日前後に父も母に導かれて旅立つだろう、と、妹も我も漠然と予想していた。
 が、その予定推定日を過ぎても父はまだ存命で、我としては先のことが見えなくなってやや戸惑いながら、その週を終えた。

 そして翌週、12日の月曜日夕方になったら、父のいる病院の看護師から、いよいよ死期は迫り間もない状態になってきた、と電話連絡があった。生前の面会希望するなら明日にも来てくれ、また、いつ、その連絡がいくかわからないので携帯離さず待機するように、とも。
 そのことをすぐさま妹に電話したら、その晩、彼女からまた連絡があり、いろいろ考えたが、明日、新幹線で上京し見舞いに行く、と言ってきた。そして日帰りで帰る、と。

 我としては、妹が住むところは、大分の山奥、景勝地の耶馬渓なので、新幹線に乗るまでも2時間はかかるらしいと知ってたから、タイヘンだから無理せずともと諫めたが、結局妹は、翌日13日、上京してきた。
 午後3時半頃、妹は立川からのタクシーで慌ただしく駆けつけて来て、我ら兄妹は、父と対面できた。母亡き後、親子三人での最期の対面である。
 先月の末に、父の孫である、妹の息子、我にとって甥っ子と見舞いに行けたのだが、そのときは目も開けず反応はあまりなかったのに、今回は視点は定まらぬものの、目覚めた状態であった。ちょっと驚いた。
 ただ声かけや手を握ってもはっきりした意思表示は返ってこなかったが、短時間でも娘と再会できたこと、見舞に来たことは間違いなく彼の意識下に伝わったと信じたい。

 妹はまたすぐさまタクシーで立川に戻り、夕方6時過ぎの新幹線に何とか間に合い、深夜遅くに帰宅できたとのことであった。
 彼女のところも高齢の義母を抱えていて、今、通っている介護施設がコロナで利用できないとのことで、義母を家に残してのまさにとんぼ返りであった。
 翌日、妹から昼間届いたメールには、父は、これで孫にも娘にも会えたわけで、もう何一つ思い残すことはないだろうと書いてあったが、まさにその通りに、その日の夕方、父は古い肉体から解放されて母の待つ世界へ旅立ったのだった。

 その14日は、午後から習慣の昼寝を昼食後少しして、3時頃起きて、さてどうしようかと考えた。というのは、父のコロナ入院のときの保健所に提出しないとならない書類には、住民票と課税証明書が必要とのことで、市役所に取りに出向かないとならない。※それを保健所に提出しないと公費負担にならず、入院費用は実費で請求されてしまう。
 明日でもいいか、と迷いもしたが、午前中は市役所は込み合うので、行くなら夕方のほうが待たされずに済むと考えなおして、自転車で閉庁時間の5時近くに行った。
 書類申請にやや手間取ったものの、5時過ぎには書類を手にでき、自転車に乗って帰宅しようと走り出したとき、携帯が鳴った。
 予想したようにそれは病院からで、父は、心拍数も下がり苦しがっているからすぐ来られるか、とのことだった。

 いったん書類とか置きに家に戻ることも考えたが、やはり急いで駆けつけたほうがいいだろうと、ともかく必死にペダルを漕いで、市役所からだと30分近くかかるはずの市内のはずれにある病院に駆けつけた。
 5時半過ぎに病院に着いた。窓口に駆け込み事務員に話したら、すぐ三階の病室へ、と指し示されて父のところに足早に駆けつけた。

 ※続きは後ほど書きます。

父の火葬儀を終えて思うこと、2022年09月19日 09時06分20秒

★父の旧い朽ちた身体は、骨だけとなって帰宅した。

 今日は19日、敬老の日である。外は大型の台風襲来を前に時おり滝のように強い雨が降ったりやんだりしている。
 我が父は、7月半ばに、コロナに感染、入院し、けっきょくそれが引き金となって心身の衰弱が進み、去る9月14日に市内の療養型病院で死去した。97歳と11か月、この10月の誕生日が来れば、98歳にならんとする大往生であった。

 そして昨日、強い雨が断続的に降り続く中、立川の葬祭場で、火葬儀が粛々と行われ、今、父は、骨壺に入って我が家に二か月ぶりの帰宅となった。
 遺体となってもその肉体がまだこの世に在るうちは、存在を実感できたのだが、その老いて朽ち果てた肉体が焼かれて砕けた骨だけの姿になると、ようやく今になって我が父は、この世から消えてしまった、ほんとうに死んでしまったのだと、実感のような気持がわいてきている。
 といっても、正直なところ未だ覚めない夢を見ている、これが現実なのか、と夢の中の出来事のような気もしているのだが。

 父は、近年、二つの介護施設に、それぞれ二泊三日で泊まっていたので、実際のところウチにはあまりいなかったのだが、それでも必ず月曜と木曜の夕刻には帰って来ていた。そして金曜は終日我が家で過ごしていた。
 だから不在がちでもまた必ず帰って来ていたわけなのだが、もうその肉体は帰っては来ない。七月半ばの入院を境に、その日常は永遠に失われてしまったのだ。
 もう何年もずっと続いてきたその定期的な日常、習慣がとつぜん終わってしまい、体の一部は骨となって家には今在るのだけど、じっさいのはなし、父はもうこの世のどこにもいないし、もう二度とウチには帰ってこない、のだ。

 今更ながら、そのことを思うと、外の滝のように断続的に降る強い雨を窓から見ながら、この「現実」にどう向き合うか、どう、これからその不在の日常を受け容れていくか、涙垂れ流しながらこれを書き記している。
 そう、我が父は本当に死んでしまったのだ!! 骨になって体の一部は帰ってきたけれど、あの大きかった男はもうこの世のどこにもいないのだ。

 いっぽう、これでやっと不自由な肉体から解放されて、最愛の妻の待つところに行けたのだから、それはとてもつなく良いことだとも思える。
 我の哀しみは哀しみとして、これからも続くだろうが、父にとってはこれは善いこと、正しい、あるべきことだったと思わねばならない。

 癌で先に逝った母とは7年も離れてしまっていたが、ようやく再びあの世で今頃は手を取り合い再会を喜んでいることだろう。
 そして旅行好きの夫婦だったから、今頃は二人でまた新たな旅の計画を立てたり、いや、まずはこの7年間の間の出来事を二人して語り合っていることであろう。

 我は来世や前世はともかく、あの世、天国のようなところや、魂の存在は確実に在ると信じている。
 ただ残念なことは、今我らがいるここ、肉体の世界の現実とは、また別の世界のはなしであり、彼らは自由にこちらに来たり、こちらの様子を窺い知ることはできるのかもしれないが、我らに姿は見えない、声も聞こえない。残念ながら完全な没交渉でしかなく、いかんせん相互に関わり合うことはできやしない。
 届くのはこちらの思いだけであり、彼らの思いや気持ちも時に夢を通したり、神の手を借りて顕れ守り慈しみ憐れんでくれたりはしてくれるが、はっきりと現実世界には現れてはこない。
 どんな宗教であれ、だからこそ彼ら亡き人たちを思い偲び、その人がいたからこそ、と忘れないよう常に語りかけ感謝を忘れてはならない。   

 某怪しき邪教では、先祖や亡き人が祟っていると称して供養のためにと、高額な商品を買わせたりして残された家族を経済的にも破滅破綻させたりもするが、それは宗教以前のはなしであり、亡き人たちがどうして子々孫々に恨みを抱いたり不幸を願うであろうか。
 彼らは別の世界からではあるが、常に我らの安寧と幸福を願い、神と共に我らを見守ってくれている。
 ならばこそ我らも彼らに感謝して、その亡き人の思いを応えるようしっかりと正しく生きていかねばならぬと気づく。

 いつかもう一度、必ず我らは先に逝ってしまった人たちと再会できる。母も父も、そして多くの先に逝った友人、仲間たちの顔が思い浮かぶ。
 この世はまさにひとときの仮の世界であり、肉体は単なる魂の入れ物にしかすぎない。
 全ての物が朽ちて終わりの日が来るように、この現実世界では永遠のものなど何一つない。
 ただ、肉体に入っていた魂だけは不滅であり、死に臨んではこの不自由な肉体から解き放たれて自由に、全てのものを作り与えてくれた御方の元へと旅立つ。
 その世界の姿は、我らは決して窺いできない。が、魂だけの姿となってまた再び皆と会え、喜び語り合える時が来るのなら「死」もまた怖くなどない。

 亡き人のことを思い、今世の別れの悲しみは哀しみとしてただただ深く哀しみながら、この現実世界を、父がいなくなった日常をこれからもしっかり生きていかねばならないと誓う。
 我のどうしようもない人生だが、投げ出さずしっかり丁寧にこれからも維持していこう。父や母の愛と恩に報いるためにも。再開したとき、胸張って会えるために。
 そしてこんな弱く愚かな我を哀れみ支え、常に助けてくれた有難き友たち、愛する人たちのためにも。

告!! 本日夕、私の父は死去しました。2022年09月14日 23時48分48秒

★いろいろ多々ご心配おかけしましたが・・・

 当ブログの読者というか、不定期的にでもここを訪れてお読み頂いている方がどれだけいるのか定かではないが、このところずっと書き続けてきた我が父のこと、お知らせいたしたい。
 父は、本日9月14日の夕刻7時前、天寿を全うし、あの世へと旅立った。この秋、10月の誕生日が来れば、満98歳となるはずの大往生でした。

 詳しいことは、明日また書き足すつもりでいるが、我が父の最期を病室で看取り、そのときはかなり泣いたものの、今は哀しみや喜びとは違う、うまく表現できぬ高揚感の中にいる。
 もう少し、せめて年内~来年の正月ぐらいまでは生きてほしい、いや、大丈夫だろうと漠然と想定していた者として、予想外かつ無念という気もなくはないが、医師から余命宣告されてからこの一か月、いつその知らせ、その時が来るかと日々スマホを常に傍らに置いて、日夜脅えつつ不安抱えて待機してきた者としては、やっとその囚われのときが終わったと解放感のような気分すらしている。

 母の時のような突然の死の訪れ、あえて考えないようにしてきた死とは違い、今回の父の場合は、父がコロナ感染で入院した時から死に至るまでのゆっくりとした流れがあった。
 じょじょに容態が悪化し心身の衰弱が進み、死に至る道筋が見えていただけに、コロナ禍ということもあって、こちらは成す術もないことが辛く苦しくもあったが、時間と共にそのときの覚悟も築くことができた。

 むろん、悔いは多々残る。父がコロナに感染しなければ、間違いなくこの秋の誕生日は無事迎えられ、介護施設で盛大なバースデーパーティも受けたはずだし、来年のことはともかく、2023年の正月は、コロナも収まり都内に住む彼の孫を二年ぶりにウチに迎えて皆で新年を祝おうと計画も立てていた。
 百歳近くまで十分すぎるほど生きたのだから、もう当人は悔いはないはずだし、我も母の死からちょうどこの9月で早や7年、女手なしに我一人で父を介護してここまで生き永らえさせられたわけだから、まあ善戦したと自ら思えなくもない。
 やっとこれで親たちから解放されて、自分一人の、自分だけの人生が始まることへの不安も多々あるが、喜びではないとしても期待と希望もある。それはとりもなおさず生活苦を漠然と覚悟のうえでのことだが。

 父は、結局この家には戻らせず、申し訳ないが、今は葬儀会社の手配でそこの冷えた霊安室に安置されている。
 そしてこの日曜午前に立川の火葬場で骨となって我が家に帰宅する。そのときまで有難いことに少しだけ日にちがある。
 これから親戚や関係者も含めてあちこちに連絡したり諸処の手続きに追われる。
 母の時は、九州から我の妹が上京してくれたので兄妹で、それらに対応したが、今回は全て我一人でやらねばならない。大変だが、父にしてあげられることがまだあるのが有難い。
 拙ブログもそうした作業の合間みて書き足していくつもりでいる。

 ともあれ、長くご心配おかけしましたが、ついにそのときが来たわけで、やっとこれで我の人生も、残りの三分の一に移っていくことになる。※我も父の歳まで無事に生きられたとしての話。
 ニンゲンの家族がもはや一人もいない、たった一人での人生が始まっていく。
 悲しみや後悔、悔やむのはほどほどにして、ともかく必死に生きていかねばならない。もはや父の年金を頼りにすることできないのだ。

 皆様、諸々ご心配おかけしました。多々ご支援ご声援有難うございました。神よ、我ら親子に哀れみと慈しみを!!

七年目の母の命日に2022年09月08日 19時28分12秒

★そして父はまだ生きている

 拙ブログ、私事ばかり記して申し訳ない。が、父のこの世での去就が定まらぬうちは、他のことについて落ち着いて書くほど我は余裕もなく気が回らない。どうかご容赦願いたい。

 今日、9月8日は、我が母が逝った日、命日である。
 2016年の今日未明、明け方というよりまだ外は暗い頃、母は我が家で全身衰弱し精魂尽き果ててその生を終えた。それからちょうど7年が過ぎたことになる。
 今思うと、八十代半ばまで生きたわけだし、一度は、癌を克服してほぼ元通りの生活も送れていたのだから、それは早死にとかは言えないし、十分にその人生を生き尽くしたと思えなくもない。
 が、我としては、ご近所、隣界隈の母の友人知人であった婆さんたち、つまりほぼ同世代の老婦人たちが、今もまだ90歳前後でも皆さん元気で健在であることを思うとき、やはり母は癌にさえならなければ、今もまだこの世にいてくれたはずだと残念に思えなくもない。
 生きていれば、母は今92歳かそこらの歳で、母の母、我の祖母は、98歳まで生きたことを思うと、決して不可能な歳ではないと思える。
 しかし、それは今さらもう考えても仕方ないことであり、全ては神の計らいなのだとして、母が癌に罹ったこともその死のありかたも、意味のある、我にとって大きなメッセージだったと今は受け容れている。
 そして、母の死後、残された我と父である。

 ウチの大黒柱的存在というより、司令塔であった母が先に逝き、家事家計全てを父と我の二人、男世帯でやっていかなくなってしまった。
 父は、その時点でもう90歳を過ぎて、かなり認知症も進んでいたし、言われれば動けたとしても自らの判断で、何かきちんと維持管理などはもうできない状態だったから、我がけっきょく一人で全部何もかも家のことと父の世話までやらなくてはならなくなった。
 その後のことは、拙ブログで折々愚痴をこぼすように書いてきたから今さら繰り返さないが、今思うと、まだ母の死後当初は、父もずいぶん元気だったと気がつく。
 母の葬儀、関連行事では、自ら歩いてその場所に行けたと記憶するし、人前でもきちんと応対も話もできていたのだから、頭もかなりクリアであった。
 そして身体もまだかなり動けたから、その後も時に深夜寝ぼけて自室の戸を壊して抜け出し庭先に出て徘徊したことすらあった。
 今思うとその頃は、我もおちおち眠ってもいられずタイヘンだったが、父もまだそれだけ妄動もできる体力があったのだと気づく。
 近年はもうすっかり動けず、自ら一人で歩くこともままならぬようになって、一度寝かせれば朝まで大人しくそのままベッドでひたすら眠っていたのだから、それだけ確実に全身の衰弱は進んだのだった。

 じっさい、去年2021年一年間だけで、父は年明けには60キロ台あった体重が一年で、12月には50キロまで落ちてしまった。母の最期のときも同様だが、裸にしてみるとまさに骨と皮となってしまった。
 それでもこの春以降は、経口栄養缶飲料を食事があまり進まないときなど施設でも出してもらったりして、体重はやや戻って来ていたし、ウチではまあまあ食欲もあったので、介助してきた我としては今年一年、まずはこの秋、父の誕生日である10月21日を無事過ぎたら、来年の正月もきっと迎えられるだろうと漠然と「予測」していた。
 確かに頭も身体も全身の衰弱は進んでしまったが、元から頑健な大男の偉丈夫だから、百歳は無理だとしてもそこに限りなく近くまで生きるだろう、まだまだ大丈夫だと思い込んでいた。

 そこに通っていた介護施設内でのコロナ感染である。コロナ蔓延・感染拡大中の医療崩壊の最中であったが、幸いにして奇跡的に空きベッドがあり、父は7月の半ばに入院できた。
 しかし、コロナ自体は癒えたものの、長引く入院生活で心身が衰弱してしまい、8月1日に、別の病院に転院、以後、今日9月過ぎても退院できる兆しがないどころか、口から食事も摂れなくなり先だっては、担当医から呼び出され、死期の宣告も告げられてしまったのだ。
 余命は先月末、8月30日頃までかも、とのことで、我は以降、日々いつその知らせが病院から届くか、待ち望むとは違う意味で怖れつつ毎日何度も携帯電話を確認し常に傍らに置いて毎日ただ過ごしてきた。

 九州在の我の妹は、仲の良い夫婦だったから父は母の命日頃に、母が迎えに来て逝くのではないかと言っていた。
 そして先月が終わり、9月に入って、その母の命日が近づくにつれて、我自身も一日づつ命が削られるような思いでその日を迎えた。
 しかし、今日、8日の夜の段階ではまだ病院からは何も連絡はない。
父は有難くもまだこの世に在る。迎えに来た母と、はぐれてしまったのか、それともまだその時ではないと、母はいったん父を置いてあの世へ戻ったのか。
 それとも父は無意識下でも我の行く末も含めて思うところがあり、死ぬに死ねないのか。

 ともあれ人の生き死には、人知では測り知れない。ただ我は父がまだこの世に在ることに感謝して、その日その時に備えて全てを整えていこう。
 まだまだやること、やるべきことはいっぱいなのだから。まず生きている者こそがきちんと生を律していかねばならない。
 我としては、今日の8日が一つの目安にしていた。それが過ぎた先どう何を見据えていけばいいのだろうか。

新しい月、新しい季節に・続き2022年09月02日 11時23分30秒

★夢の啓示を、真摯に受け容れていく

 不思議な夢を昨日の朝方見た。月も季節も変わった9月1日の早朝のことだ。その有難き啓示について書く。

 古代より夢とは、異世界もしくは神のような人智を超えた何かがもたらすメッセージ、啓示だと人々は重く大切に受け止めてきた。
 近代の精神分析家たちは、夢とは、人のたんなる心中の悩みや願望など、つまり脳内に考えたり気になっていることが、睡眠中も頭の中にあって、そうした意識の反映に過ぎないと考えたが、我はそうは思わない。
 聖書にも多く記されているが、主は、幻や預言者の言葉、そしてまず夢を通して、自らはその姿は現さなくとも、多くのメッセージを聖人たちに与えてくれている。

 むろん、日ごろ気にかかっていることや、悩み心配事がそのまま夢に出てきて、ほぼ現実の反映という夢も確かにある。
 我も学生時代とそれ以後も、学校に関係する夢をかなり度々見た。
 たいていは、不登校で落ちこぼれだった自分が久々に学校に行っても自分の教室がみつからなくて焦る夢とか、つまるところ居場所のない不安からの悪夢のようなものばかりだったが、さすがに歳とってからはもう見なくなった。
 代わりに、ライブの企画をやったりしてた頃は、開演時間が近いのに、まだ何の準備もできていないとか、出演者が来ないなどのトラブルが次々起き、さあ、どうしたものかと慌て焦る夢は何度となく見た。

 確かに、その時々の心中、つまり脳内にある不安や悩み、心配事がそっくりそのまま現実の続きとして夢になることは確かにある。
 我も亡き母が出てくる夢や、母との暮らし、生前の頃のことは何度も見た。幸いなのは、夢に出てくる母は、死の間際の弱り痩せ衰えた姿ではなく、いつも元気な姿でいちばんよい状態のときだから、我は母は天国?、あの世では今も変わらず無事に幸せでいると思い、そう確信できその夢で安心できた。
 そうした善きメッセージもある反面、当然ながらまさに「悪夢」や哀しい夢もまた多々ある。

 ただ夢は、まさに夢の中の出来事だから、現実に目覚めると同時にそれまで見ていたこと、つまり夢の中の前のこと、最初のほうのことから忘れていく。
 夢を見たことは確かでも、起きたらよく思い出せず、ごく最後の部分だけだったり、夢の名残の気分だけ残っていることも多いだろう。つまり何か楽しい夢の心持ちだったり、哀しみの気分だったり、思い出せないが確かに見た夢が残した感情、感想だけが目覚めてもずっと残っていたりもする。
 しかし人は起きて目覚めるとそうした夢の中のことは、すぐに忘れて日々の現実に向き合わざるえない。そしてそうして人生は進んでいく。

 が、我が先日見た夢とその後にもたらされたメッセージは、不可思議かつ大きな転機になるものだった。

行く夏に逝く人を思う2022年08月31日 10時20分42秒

★夏8月の終わり末日に

 季節の変わり目の前線が停滞しているとかで、このところずっと雨模様、曇りがちの日が続いている。弱いけれど日に何度も雨がぱらつく。
 おかげでいくぶん涼しい日もあったが、今日など湿気がすごくてともかく蒸し暑い。メガネかけている我は、買い物に出、冷房の効いた店から出るとメガネが曇ってしばらく何も見えないほどだ。

 父のこと他、今月を振り返り、これからについて書いていきたい。

 この一か月、正確には、七月の半ば過ぎからだが、父が突然いなくなり、その父不在の生活、新しい日常とどう向き合うか、どう理解し対応していくか、今後のことについてもずっと自問しつつ答えがなかなか見いだせなかった。
 正直なところ、施設内でのコロナ感染は仕方ないとしても、運よくこの病床逼迫の中、コロナ専門病棟に入れたわけで、コロナさえ癒えればまた再び元の生活、これまでの日常に父も我も戻れると思っていた。
 まさか、そのコロナ感染がきっかけで老衰が進み、死の床に就くとはまさに想定外であった。
 むろん百歳近い超高齢であり、この一年ほど急に瘦せ衰えてきて、頭も身体も老衰から死期は迫ってきていることはよく認識しその覚悟もしてはいた。が、このところはやや食事量も増え体重も戻って来ていたので、この夏をまず乗り切れば、98歳の誕生日を迎えられ、来年の正月までまあ何とか過ごせるのではと安易に考えていたから、この突然の新たな事態に正直動揺した。
 こうして父の死期は来るのか、それをただ受け容れるしかないのか迷い悩み悶々鬱々とした。

 これまでも書いたが、何より辛いのは、今もまだコロナ禍中ということで、一切見舞にも行けず、父に対して我は何もできないことだ。
 繰り返しになるが、これまでも父は誤嚥性肺炎と大腿骨の複雑骨折で長く入院し、一時期はかなり痴呆と全身の衰弱も進んだことがあった。それが90歳を過ぎた頃で、医師も看護師も誰もがもう回復して再び自宅に戻ることは難しいと思っていた。
 が、そのとき我は日々昼夕時の食事介助に病院に通って、父に食べさせながらその都度声かけて励まし刺激を与え、その甲斐もあってその時は、頭も身体も回復し再び自宅に戻ることができた。そして今までさらに生きてこれた。

 今回もそのときよりは歳もとり、かなり父の老衰は心身進んでいたが、息子である我が食事の都度、自宅と同じく声かけ毎食介助していけばまた再び口からの食欲も戻り、痴呆も回復し体力も戻り再び元のように、我家に帰れたはずだっただろうと今も確信している。が、現実は・・・
 父はコロナ入院の10日間で、刺激のないベッド生活が続いたため痴呆と全身の衰弱が進み、徐々に自ら食べられなくなって意識もはっきりしなくなってしまった。
 コロナは癒えて別の病院に転院したものの、やはり一切外からの刺激はなく、意識も朦朧とする状態が進み、もう口からは何も食べられないからと点滴だけで命を繋ぐような状態に進んでしまい、ついに担当医から余命宣告を受けるような事態になってしまったのだ。

 父がそうした事態に陥り我の気持ちは、というと、ただただ、どうすることもできなくて何とも情けない、やるせなく泣きたいような気持ち、としか言いようがないものだった。
 今でも願うのは、思い切り大きな声上げて泣けたらどれほど楽だろうか、ということだ。
 そして日々、いつ病院から父の異変を知らせる「そのとき」の連絡がくるか、携帯を常時手元に置いて、昼夜問わず耳を澄まし、怖れつつ日々待ち続けた。
 そして今日で、その「宣告」のリミットである。医師は、今のままでは、今月末、30日頃までもつかどうか、と8月12日の面談のとき我に伝えてきたのだった。
 しかし、今日8月末日夜の時点では病院からは何も連絡はない。父はまだこの世に在る。

 大きな犯罪を犯して刑が確定した死刑囚は、その後、その日、そのときをどう待ち、日々生きているのだろうか。執行日までどんな気持ちで過ごしているのか。我は彼らの心情を心より憐れむ。
 死刑が悪しき忌むことだと思うのは、刑罰だとしても人が人を殺すという、異常な悪しきことが意義ある正義として行われることもだが、一番残酷なことは、「そのとき」がいつ突然訪れるか、死刑囚当人には伝えられないことだろう。
 たとえ全て覚悟して、虚心坦懐の気持ちで心静かに日々動じずそのときを淡々と受け容れる人もいるのかもしれないが、もし我ならば、いつそれが訪れるか、その恐怖で発狂するかノイローゼになってしまうことは間違いない。

 自分は当事者ではないし、今、その宣告を受けた当人、我が父も今はもう何も知らずほぼ何もわからずうつらうつら夢うつつの状態にあるのかもしれないが、待ち望みはしなくても、「その日」が近く来ると思い考えて「待つ」のは本当に辛く苦しい。※いや、父の内面内心は誰にもわからない。もう何も心置きなく、全て理解してただ心静かにその時を待ち望んでいるのか、あるいは今も我が家に何としても戻りたいと強く願っているのか、それを思うと我も心苦しい。死にゆく人の傍らにいられないのが辛く悲しい。

 母の時も思い返せば、実際のところほぼ同様の状況だったわけだが、その時は常に母は、在宅のベッドに、つまりこの家にいたし、ずっと我らは共に一緒に過ごせていた。
 だから我もその日が来るなんて、まったく考えも想定もしなかった。最期の時まで、我はまさか母が死ぬなんて、その時のことなんてあえて想定も考えもしなかった。

 ただ今は違う。このコロナ禍、自分は父に対して何一つできないし、できることはただひたすら神に祈ることだけしかない。
 それも当初は、無事回復して再び家に戻れることを祈願したが、今は、ともかくできるだけ苦しまずに、その生を一日でも長く保ち、全うできることだけをただ祈っている。
 そして今朝方はまた別な気持ちに、我に新たな啓示があった。長くなるので、そのことをもう一回書かせてください。

特別なことだが、誰にでも必ず起こる、ごく当たり前のこと2022年08月25日 17時39分49秒

★母の死から七年目の夏の終わりに

 父がコロナ感染・発熱で専門病院に搬送されて以後一か月が過ぎた。それが7月21日のことで、当初我は、気楽に、コロナが治ればまた再び父はこの家に戻れる、そしてまた再びこれまでの日常が続いていくと安易に考えていた。
 が、コロナ自体は、幸いにして10日間の入院で癒えたものの、その間の入院生活で父は心身の衰弱が進み、このまま家に帰って来ても元の生活は難しいだろうと、別のリハビリ&療養型専門の系列病院へと転院を勧められた。
 口からも食べることがなかなか難しくなっているのと、長引くベッド上の生活で、コロナ禍中のため我も面会が一切できず、刺激がなく認知症も進んでしまい意識もはっきりせず、結局今は点滴だけで命を保っている、という状態になってしまった。
 そして先にも記したが、8月12日、担当医から呼び出しがあり、父の余命は、今月30日頃までかも、と宣告されてしまったという次第だ。

 この一か月間、常に携帯電話を持ち歩き、昼夜傍らに置き、「もしも」の事態に備え、電話がいつあるかと常に気持ちを傾注していた。
 幸い、今日の現時点では、まだ有難くも父はこの世に在る。そして実は、一昨日23日午後のこと、我は東京に住んでいる父の孫、我の甥っ子と共に、父の見舞い、面会に行ってきた。
 前日、病院から電話があり、特別に短時間だが、面会は許可する、と伝えられ、即、明日行くことにしたのだった。
 そしてその甥っ子に電話かけたら、彼も普段は超多忙なアニメ業界の人なのだが、幸いにして一仕事終わったところで、その日なら時間の都合がつくと良い返事があり、息子と孫の二人して、暑さがまたぶり返した夏日だったが、生きている我が父と面会できたのだった。
 まさに神の善きはからい、と思うしかないのだが、要するにそれだけ父の死が迫り来て、病院側として気をきかせて特別に許可してくれたということだろう。
 
 病床の父は、確かにまたさらに痩せて、意識もはっきりしない状態であったが、完全な昏睡状態ではなく、こちらの声かけや手を握り揺すると、目は開けなかったが、口を少し動かして何らかの意思表示を示してくれたようであった。
 こちらの贔屓目かもしれないが、行った時よりも別れ際は顔色も良くなり、穏やかな落ち着いた顔つきになった気がした。つまり、彼の意識には我らが来たことも声かけもこちらの思いも伝わったのだと信じたい。
 帰路その甥っ子と軽く食事して話したが、ともかくまだ生きてこの世に在る父と、彼にとっては祖父と、もう一度会えたことはまさに僥倖だった、運よく今日行けて良かったと喜びを語り合えた。

 そう、コロナ禍で面会さえも禁止されて、もうこのまま父と会えるのは遺体となったときなのかと、暗澹たる気分でこのところずっといた。
 今もまだ父が奇跡的に回復して再び短時間でも意識が戻り、我が家に一日でも帰らすことができればと日々神に祈るが、それは神と父自身の意思であり、ならば全ては神の御心に委ねるしかない。
 ただ、我は、その死が避けられないとしても、せめて一度は生きている父と会い、我の愚かさをまず詫びて彼の人生を慰労し感謝の気持ちを伝えたいと心から願っていたから、その思いは果たせたわけで、有難いことだと深くただ感謝している。

 ようやくこれで気持ちも一段落というか、一区切りついた。タイトルに書いた、特別なことだが、誰にでも必ずいつか起こる、ごく当たり前のこと、つまり「死」に対して、ことさらに脅え悩み畏怖するのではなく、起こるべくして起きることとして気持ちを整理していこう。

 母が死んだのは、2016年の9月8日であった。その日、その年から奇しくもちょうど7年目、しかも季節も近しい。
 居間の壁には、その年2016年の、12か月が載っている一枚の大判カレンダーが今も貼ってある。当然だが、週の曜日回りもその年と今年は全く同じである。
 九州在の我の唯一の妹は、父の容態を伝えたらば、ともかく仲が良かった夫婦だったから、その母の命日頃に母が迎えに来て逝くのではないか、と言ってたが、それもあながち迷信ではなく有り得ることと思えてきた。
 呆けて足腰も衰弱した父も母に手を引かれれば無事にあの世に行けると思うと泣けてきた。

近況報告~父は幸いまだ有難くも生きてますが・・・2022年08月18日 11時44分36秒

★自らの弱さと愚かさにただ向き合う日々

 先だって12日、父が入院している病院の担当医から、余命宣告受けたことは記しましたが、その後のことを・・・

 いまの状態では、おそらく今月30日まで持つかどうか、と医師から告知されて一週間。幸い今日、8月18日の時点では、病院からの通報はないので、ともかくまだ我が父は生きながらえてるということだ。
 ただただ、有難い、神に感謝!!としか言葉はない。

 が、この一週間、ひたすら日々、朝も昼も寝ている間も、携帯を常に傍らに置いて、いつ、その「知らせ」があるかと、高鳴る心で待ち続けるのは、ほんとうに辛いことだと告白する。
 信仰を持つ者として、主、つまり神に全てを委ね任せて、ただあとは、祈り続け、善き計らいを心静めて待てばよいと頭ではわかっている。そう、それが神の意思、思し召しなのだから。
 しかし、この弱く愚かな我は、父の迫りくる死という、不安と怖れとで、そのときを思うと、本当に夜も眠れなくなってしまう。
 自分の信仰の弱さと卑小さに呆れ果て、情けなく恥じ入るばかりだが、これが正直なところ、自分という人間の実際なのだからどうしようもない。
 しかし、そうした自らの弱さと愚かさと日々ひたすら向き合うことは、とてつもなく辛いが、おそらくきっとそこにも何か意味があるのであろう。

 考えてみれば、人は木の又から生まれてくるのではないのだから、子のない人はいても親のない人はいない。
 皆、誰もがいつかどこかで、その親の死と出会い、最愛の親であろうとなかろうと喪うときが来る。
 ほぼ全ての人が、ある程度歳をとれば、必ず自らの死の前に親を失う別れの時が来る。
 それは、自然災害や交通事故のような、ある日突然のまったく予期せぬ不測のときのこともあるかもしれないし、我のように老いた両親を順に看取り見送ることもまた多いはずだ。
 そう考えれば、何も特別なことではないし、そうした「突然の別れ」に比べれば、余命宣告を受けて、死に臨むほうがよほど幸いかもしれないと気づく。
 しかし、死刑囚が執行の日がいつ来るか、ただ待つのと同様に、その当人はもう何もわからない状態だとしても、周囲の者、特に家族は、そのときが来るのが怖い。そして恐ろしく不安である。
 とうぜんのこと、永遠の別れは哀しく辛い。

 だが、それも自然摂理であり、いつかは必ずそのときが自らも含めて誰にでも訪れるのだから、ただ脅え畏怖しても仕方のないことだと気づく。
 「そのとき」を前にしてまだ家の片付けも終わっていない。あと、果たして一週間の期間が残されているのかわからないが、まだすべきことがあれば、まずそれこそができることなのだから、それだけに専念していこう。

 辛いのは、神以外にこうした怖れと不安を告げ、語り合える「家族」が我にはいないことだ。肉親は、遠く九州に実妹が一人いるけれど、今思うと、我も同性異性を問わず、共に暮らす「家族」を作っておけば良かったと悔やむ。一人はやはり本当に辛い。
 我自らを介護や看護してくれとは望みもしないが、そうした不安と怖れに囚われたときに、それを言葉にして語り合える「ニンゲン」が傍らにいるかどうか、それこそ人生のいちばん大事な、生きていく秘訣ではなかろうか。
 動物は思いやりもあり、我の哀しみに寄り添ってはくれるけれど、そこに残念ながら「言葉」はない。神もその存在は信じるもののまだ我に、いまはまだ言葉は届かない。
 しかしだからこそ、慈しみ深い主に、祈り信じ語らい、心静めて「そのとき」をできるだけ動じずに受け容れられるよう、我らに哀れみを、とただ願うしかない。

 我が父は有難くもまだ生きてここに在る。願わくばできるだけ苦しむことなくその最期の日まで、その生を全うできますように。