11月の予定です。2010年11月01日 22時22分12秒

★今月から月頭に、その月の「無頼庵」の月間予定をお知らせします。

 今日から11月に入りました。気持ちを切り替えて精力的に人生に立ち向かっていきます。
 さて、ブックカフェとしてまだ開店もしていませんが、私=店主の無頼庵での月間予定、確定していることだけ今ここでお知らせしておきます。

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 黒丸のついていてる日は、既に予定があり、出かけるので不在となります。またおって、新たに予定が入り確定したら追加してお知らせします。
 それと、先にお知らせした、現在建築途中での「内覧会」ですが、一応、21日の日曜か、23日の祝日を予定しております。私としてはどちらも空けておきますが、来られる方はお早めにお知らせ願います。どちらか一日だけにしますので、決定したらまた再度告知いたします。

 なお、黒丸の日の予定ですが、11日(木)は最近大変お世話になっている芸人さん、寒空はだかさんの吉祥寺スターパインカフェでのライブに行きます。また印はついてませんが、14日の日曜夜は、西荻のみ亭で、岡大介、村上律のジョイントライブ。そして今月最大のイベント28日の日曜日の午後は、京都よりお招きした詩人有馬敲先生を囲んで、詩の朗読会とフォークコンサートがありますので、ぜひ多くの参加者を募っています。

 その他、顔出すライブもあるかと思うのですが、家族に病人がいるのであまり気軽に出られないかと思ってます。本当は、年内に一度関西に行けたらと考えていたのですが・・・。

 というわけで、基本的には無頼庵に常駐して本の整理などしています。内覧会ご参加の方は、21日、もしくは23日にご連絡のうえお越し下さい。歓待いたします。※平日は土曜日まで大工が来て作業中ですので、日曜日しか見学はできません。

Amazonを通して「商売」すること2010年11月02日 11時07分46秒

★Amazonマーケットプレイス近況報告・前

 ご存知の方もおられるかと思うが、Amazonでは、11月1日より、扱う全商品の配送料を無料にした。これまでも、1500円以上のものは無料となっていたのを拡大したということだが、他のところは知らないが思いきった手段だと思える。これでますますネット通販の需要に拍車が掛かることは間違いない。

 ただしこれは新品のみに適用され、自分も古本などを出品しているAmazonマーケットプレイスという中古市場は変わらず一注文ごとに送料がかかる。だが、そこもいつの間にか、Amazon側から支払われる送料は値下げされ、本の場合、前は大小厚さにかかわらずどれでも一冊340円であったのが、250円にされてしまった。まあ、それを支払うのは実際は購入者であるのだから、以前の340円というのは高すぎると思っていたし、分厚い大型本も文庫本も同じということに販売する側としても大いに不満があった。

 しかし、250円は微妙なところで、ヤマト運輸のメール便なら送料で自腹を切ることは少ないが、郵便局を使うと持ち出しとなってしまうことが多い。薄い本ならともかく、メール便上限2センチ以上の厚い本は郵便で送るしかない。となるとたいがい340円以上かかってしまう。まあ、それを想定して元の販売価格に上乗せするしかないわけであるが。

 また、これからそこで古本を売るとして、中古では常に送料をかけてまで買う価値があるかが問われてしまうだろう。これまでは、1500円以下の本は送料がかかるから逆に中古でも売れる余地があった。今後は文庫など価格の安い古本はまず売れないと覚悟するしかない。いずれにせよ、新品と同じ土俵ではもはや古本は勝負できないのである。となるとあくまでも新品では手に入らない「古書」に特化せざるえない。

 それと利点もなくはない。これまで送料が一律340円の頃は、マーケットプレイスにはやたら「1円本」なる中古本が多く出品されていた。つまり販売価格が一冊1円なのである。ありえないとお考えでも事実であり、それを可能としたのが送料340円であった。つまり沢山出品し沢山販売する業者は様々な利便もあり、たとえ1円でも本が売れれば、メール便を利用し浮いた送料代から儲けを捻出することが可能であったからだ。しかし、250円ではそれは難しい。ということは1円本は消えていくことになる。それは買い手はともかく売り手としては歓迎したい。

 ※続きは明日書きます。

Amazonでの「商売」続き2010年11月03日 21時38分06秒

★Amazonマーケットプレイス近況報告・後

 1円本とは、ブックオフなど新大型古書店で、一冊100円均一で売っている類のちょっと前にベストセラーになったような本だが、何にせよ本を売って儲けるのではなく、配送料から利潤を生み出すようなことはおかしな話であり、システムとして可能でもすべきでないと考える。

 このところ新たに出品して気がついたのは一時期よりその1円出品の本は減りつつあるようで、ある意味異常な低価格競争もこれで終止符を打つのではないか。でないと、本自体の価値さえ貶められるばかりであろう。そんなこんなで個人的にも注文も回復してきて、まだ安い本ばかり出しているので売り上げは決して高くはないが、古本自体の需要は十分あると確信している。

 今日、電子本だか何だか携帯型の媒体で書籍を読むという新たなスタイルが話題となり、出版界を大きく揺るがしている。しかし、現行本、これから出される本はともかくも、過去に出版された本が全てそうした電子本として再び出されることは絶対にないし、あくまでも古本は本として今後も生き残って存在し続けることは間違いない。

 古本屋の世界から言えば、これが時代の流れであるならば逆に古本、古雑誌類の価値と需要は高まると期待している。おそらくこれから、紙モノとしての本は出なくなり絶対数が減っていくであろう。人は携帯的端末で小説をはじめ読みたい情報の配信を受けるようになっていく。それはCDが売れず、音楽はダウンロードして取り込むのと同じことだ。やがて長期的には古本屋という商売は成り立たなくなるときも来るかもしれないが、過去の遺産としての「本」は決してなくなりはしないと信ずる。

 自分は常に失望の繰り返しだが、決して絶望はしていない。音楽も本をとりまく状況も楽ではないし、悪化の一途を辿っているようにも思えるが、本や音楽を心より愛する良識ある支持者がいるかぎり、それは世からなくなりはしない。問題はそうした人たちをいかに取り込み、繋いでいけるかだとこのところずっと考えている。

 そのためにも情報を発信し続けないとならない。本と音楽のことを書き記していこう。

今月28日の詩の朗読会に向けて2010年11月06日 09時15分39秒

★体調は戻りつつありますが・・・

 11,28の両国フォークロアセンターでの詩の朗読会とフォークコンサートの準備にまた追われている。このところ四連敗中の自分としては、最後の降板の気持ちで取り組んでいる。どうか多くの方々に来てもらい記念すべき場に立ち会ってもらえたら幸甚である。

 今日は日中出かける用事があるので、詳しいことは戻ったら書き足します。

 と、中央線高架工事、立川国分寺間で最後の架線だかの架け換え工事があって、その期間が運休するとかで慌てて家に帰ってきたが、また出かけている間に老母の調子が悪く寝込んでしまっていたので、親父に晩飯食べさせ家事の後片付けしたら自分も疲れて倒れこむように寝てしまった。

老いと死をみつめて・前2010年11月07日 18時11分09秒

★人はこんなふうに死んでいくのか

 若いときには縁遠かった「死」も歳とともに身近な関係深いものとなっていく。もちろん、若くして事故や自死で死ぬ者もなかったわけではないが、それは突発的な想定外出来事であって、決して一般的なことではなかった。それが自らも齢50を過ぎると、極めて近しい日常的なことにさえなっている。
 天気に喩えれば、若い頃は一転の雲のない快晴だった人生が、今ではどんよりとした死の雲の影に覆われている。もちろん晴れ間もまだときたま覘くときがあるが、暗雲というほどではないにしてもすっきりしない曇りがちの憂鬱な日が続いている。今秋は心なしかじっさいの天気さえもいつもの年より天高くの秋晴れとならないような気がする。しかしそれもまた人の生きていく道に他ならない。

 これは書くべきかどう書くか迷っていたのだが、ここのところ我が母の調子が悪い。この夏、先に高熱で入院した話は前のブログでちょこっと書いたが、それ以来すっかり体が弱くなってしまい、今秋になってから、胃痛が治まらず、良いときは問題なく食べられ普通に過ごせるのだが、何日かおきに昼夜を問わず激しい胃痛に襲われ、薬でも収まらず挙句に吐いたり下したりして病院通いが続いている。

 立川の病院で既に何回もバリウム入れてCTやら何やら胃から肛門からできる検査はしたのだが、未だ原因がはっきりわからず、何も問題ないと帰された日にまた胃痛が起こって慌てて近くの緊急病院に担ぎ込まれたこともあった。そんなこんなで食べるものも気を使うし、少しでも無理して食べることのないよう慎重に食事を摂っている。食べられない日が続くと体重も落ちてきて、今や骨皮筋子という有様でもある。
 特に急を要するとか、生死に関わるというところまで至っていないものの、治ったと思うとぶり返すのがもう二ヶ月ぐらい続いているのだから、どこかに癌だかなにかの原因があるのではないかと疑っている。胃カメラでは何もなかったのだから腸の方に何かが起きているのかもしれない。

 結局、立川の病院ではよく原因もわからず治りもしないので、その近くの救急病院の方に掛かることにして先日カルテとか引き渡す手続きをした。まずは来週半ば胃腸の専門医がいる日に、診て貰いそれから詳しい方針が決まる。今はともかく、食事にひたすら気をつけて、消化の良い、胃にもたれないが栄養のあるものを恐る恐る食べさせている。今できることはそれぐらいしかない。疲れさせないよう無理させられないし、もちろん家事など体力を使うことは全部増坊がやっている。

 もうこの冬で80歳を越すのだから相応の老人度だと思えるし、これまでが入院したのはお産のときだけというぐらい元気な人だったのだから、これが70代と80代の違いなのだとも思える。この「病気」が大したことなく自然に治れば幸いだが、母の知り合いの、世代が近い人たちも近年大方死んでしまったし、もはやいつ死んでもおかしくない年齢なのだと今回ようやく思い至った。胃痛が起き、吐いた挙句ようやく楽になったのか眉間に皺寄せながらも眠りに入った母を確かめてから、自分も自室のベッドで、これからどうなるのかと不安な気持ちで神に祈ることしかできなかった。じっさい、周りを見ても老いても両親二人とも未だ健在の人のほうが少なくなっているのだからこれまでが十分幸福であったのだと気がついた。

 当人もしきりにすっかり弱くなった、情けないと嘆いているが、これがまた老いの道、死に至る道筋、過程なのであろう。これが治ったとしても体力は衰え体調はすぐれず、しだいに弱っていくのだと思える。何にせよ、今はもうあとどのくらい残っているのかわからないが、家族、つまり親子皆で過ごせる日々を大切にじっくり味わいたいと切望している。

 浮かれて出かけることが多く、すっかりこのところ迷惑をかけたし今さらだがつくづく親不孝な息子であったと反省の日々である。

老いと死をみつめて・中2010年11月08日 10時09分18秒

★老いの実感味わいつつも

 死というものは常に他人事であり、自らが体感するときは、あの世に行ったときだから、その実感は得られない。しかし、老いだけはこのところひしひしと深く味わいじっくり噛み締めている。若いときには知らなかった世界に今どんどん入っていくところである。

 同世代で、今も精力的に日々活動し、いくつものワークとタスクを同時に抱え、まさに八面ロッピで動き回っている畏友が何人かいるが、自らを振り返るとこのところ体力気力共にがくんと落ちてきて、男の更年期というものがあるなしか知らないが、体調不良と体力低下が甚だしい。まさに青息吐息で、とりあえず一つづつモノゴトを片づけている。一日に一つでも何か終えられれば良いほうで、夜になるともう起きていられず、明日朝早く起きてやろう、と先送りして倒れこむように寝てしまう。いったいどうしたことか、と自分でもあきれ返るしかない。
 慢性的な疲労感は相変わらずだし、朝は早く起きないとならないので6時頃から起きていると、一日だるく眠いし、結局午後になると耐えかねて午睡をとってしまう。一時間かそこらで起きるつもりでも用事がなければ、結局夕方まで眠ってしまい起きると外は真っ暗である。これでは溜まった用事はほとんど片付かず、まるでロシアのうた「一週間」のように、一日に一つないし、その準備ぐらいのことしかできやしない。だから山積みの用事はちっとも減っていかないどころか溜まる一方だ。実に情けない。それで夜は夜で零時頃にはまたきちんと眠くなるのだから本当に老人のようである。

 と、書いてみてこれが老化なのか、老いていくということの実感なのかよくわからない。が、若いとき頭の中で考えていた以上にリアルな老化現象はいくつもある。
 若いとき、家の年寄りたちを見、思ったことは、白髪や禿、シワなどの皮膚のたるみが老人だと安直に考えていた。しかし、自らが歳をとってみてわかってきたことはそんなことは実は当人にとってはどうでも良いことの問題であり、もっと困ることは他にいくらでもある。
 老化とはそうした外から見える外見以前に当人が苦しむ機能障害が多発することでもある。
 まず目は老眼でメガネをかけても見えなくなるし、耳も遠く携帯がどこで鳴っているかわからない。それに歯もボロボロ、ぐらぐらで、入れ歯の世話にもなるし、下のほうも頻尿や締りがなくなってくる。結局、若いときには完全であった肉体がガタが来て、どうにも使えなくなってきているのだとわかる。車などの機会ならば、メンテナンスして、そのいかれたパーツを交換するなどの対応もとれるが、肉体はそうもいかず、せいぜい薬飲んで進行を遅らせるとか、無理させずに使っていくなどしか気休みの処置しかとれない。

 まあ、それは自分だけでなく、おそらく50前後の人ならばたぶん誰もが多かれ少なかれ感じている現実であろう。どんなものでも長く使えば消耗して使用限界がやってくる。消費期限は人の場合ないけれど、ある意味で死とは人の使用限界、耐久限度だと思えてきた。
 しかし不思議なのは、体はそうなっているのに意識の方、記憶など脳自体の機能は衰えてきても、気持ち、考え方、感覚などはちっとも若いときと変わっていないことだ。つまり十代の意識のまま、浦島太郎のように老人になってしまった気がしている。
 このところ若者たちと付き合う機会が多いと、つい自分も彼らの仲間のような気がして一緒になってはしゃいでしまうが、何のことはない、彼らにしてみればわけのわからない割り込んできたヘンな老人であり、まるで媒図かずおの昔のマンガ「アゲイン」であろう。自らの実年齢と、老人としての相応の自覚をもって分別で対応しなければならなかったのである。今頃気がついて恥じている。

 まあ、誰が言ったか、人は年を得ても賢くも偉くもなるわけではない。愚か者は愚かなままただ、年老いていくだけだ、という至言の通りかもしれない。

今月の無頼庵公開日は21日に決定しました。2010年11月08日 22時35分25秒

★どなたさまでもご興味ある方は御連絡のうえお越し下さい。

 建築途中のブックカフェ、フォーク喫茶『無頼庵』ですが、年内完成を目指してしこしこ大工が連日作業しております。だいぶ内部の造作も進み、一部ですが完成となった部屋も出来てきました。

 ただ、今の段階では、床も天井もおおかた未完成であり、果たして21日までにどの程度進んでいるかまだメドは立ちません。しかし、途中でもほぼ家の全容は見えてはいるので、家作りと当店にご関心とご興味お持ちの方々に向け、中途ながらも公開日を設けました。
 ぜひどなたでも拙ブログの読者であるならば21日の日曜日、秋晴れの下一日待機しておりますので遊びがてらお越し下さい。やがてはここでライブをやる予定ですが、果たしてそれが可能であるか御眼でご確認下さい。ご意見もお聞かせ下さい。

 お申し込みは前のブログでもこちらでも非表示で、連絡先をお知らせ下さい。こちらから行き方、場所などメール及びお電話いたします。一応当方の携帯090-8175-8479

老いと死をみつめて・後2010年11月09日 22時21分16秒

★老いるとは死の前段階である・

 死はどんなものか、あの世なり来世があるのかわからないが、老いとは何かははっきりとわかってきた。
 一言でいえば、人が当たり前に出来ていたことができなくなることであり、死とはそれが極まっての結果に過ぎない。プロレスを例えに出すと、カウントをとられる決め技はある。しかし、それで跳ね返せないのにはそれまで受けたダメージが蓄積されているからで、一つの技だけで死と言うカウントがとられるわけではない。いろんなところが悪くなり弱っているから肺炎などの小技でも死んでしまうのである。体力気力共に低下し、多機能不全的に人は死んでいくのだとわかってきた。

 母はともかく、今自分の親父を見ていて思うのは、生きていくための基本的なことがもうかなり出来なくなっている。まずそれは食べることであり、食べたものを排泄すること、そして眠ることだって何故かままならない。誰もが当たり前に出来ることすら、80代半ばとなると苦労せざるをえない。それは、パーキンソンという病気からの嚥下障害でもあるし、認知症もある。様々な薬を飲んでいるせいか便秘にもなろう。前立腺肥大の後遺症なのか眠りも浅く夜中に何度でも小便に起きる。出歩くのだってフラフラするので危なっかしい。間もなく車椅子が必要になる。

 と考えるとこれは病気なのか老化なのかその線引きすらできやしない。はっきりわかることは食べたり出したり眠ったりという基本的なことすらもはや難しいということである。しかし、それでも何とか生きている。まだ寝たきりではないのが救いであり、介護する側はなだめすかし、ときに怒鳴りつけながらも世話をしている。ほっておけば呆けはさらに進み早晩寝たきりになり完全に動けなくなる。
 これこそが老いであり、人の生きていく道筋なのだとわかってきた。

 今悔やむのは、そんな手の掛かる男、しかも昔で言う六尺男を元気だったとはいえ、80歳になろうとする小柄な母にこのところずっと任せていたということだ。愚かな自分は浮かれて、春からずっと趣味道楽にうつつを抜かして家を毎晩のように空けていた。そして今年の猛暑。クーラーをようやく取り付けたとはいえ、母の負担は相当のものだったのだと思い当たる。
 その疲れが溜まり元気だけがとりえだった母は調子を崩し入院もし、以降今も体調は戻らない。胃痛が続き食べられないからすっかり痩せてしまいそのこけた頬を見るたびに胸がつまる。

 しかし、「死」まではまだ若干の余裕があろう。そう信じたい。何にせよ、人は常に愚かだから、こうした事態に至って始めて本当に大切なこと、大事にしなければならないこと、生きていくために必要なもの、その価値がわかる。若いときや元気なときには気がつかないどころか思いもよらないことだ。また、本や人からの忠告では知らされたとしてもピンと来ないことであり、あくまでも他人事でしかない。

 そう、情けないことだが、人はその当事者となってようやくその事態の深刻さ大変さに気がつく。だとしたらそれは悪いことではないし、そこには救いがあろう。今はそう考えて今できることまずやるべきことをやっていくだけだ。失望や後悔は常にある。しかしどんなとき、どんなことでも諦めも絶望もしない。ここには勝ち負けはないのだから。あくまでも自分だけだ。他人は関係ない。人生は続けていくことにまず価値がある。

より安く、の先にあるもの2010年11月10日 09時48分51秒

★日本の農業を壊滅させるTPP交渉に断固反対する

 世の中には商人とそこから購う者がいて、単純に言ってその両者で成り立っている。売り手と買い手、生産者と消費者といってもかまわない。複雑に見れば、そこに仲介業者や流通業も絡んでくるし、金貸しや銀行などまた別な金の流れもある。しかし、基本は売る側と買う側である。しかし、ときにモノによっては買い手が売る側にもなることも多々ある。

 自分もまた商売人の端くれとして、古本などを売っていて思うことは、売り手としての立場だとより高く売って儲けたいと考えるのは常であり、また買い手の側に立つと、1円でも安く買いたいと願うのは当然のことだろう。ものの値段とは、経済学を学ばなくともそのせめぎ合いの中で決まっていくことは誰だってわかる。
 そして、商人としての自分の中にも消費する側も存在しているわけで、本でも何でもモノを売るときは、買い手の気持ちに多少の忖度はしてしまう。高く売りたいけれど、これでは高すぎる、売れないだろうとよく思うし、もし高値をつけた本が売れると嬉しい気もする反面後ろめたい気持ちになるときもよくある。商売とは自分の儲けだけを考えてはならないという格言もある。

 それはともかく、デフレ時代、モノの値段はどんどん下がって、売る側は売るためにはより安くせざるをえなく、買い手としてはそれでもまた更に1円でも安く買いたいと考えて、またさらに値が下がる。
 先にちょっと書いたアマゾンマーケットプレイスでの商売も、結局古本の価格は日ごと下がり続け、他より安くする競争に明け暮れ、限りなく1冊1円に近づいて、ついには1円本ばかりになってしまっていた。それでも配送代から僅かな儲けが出るとしてもそのことで、良いことはほとんどない。本それ自体の価値も下がるし、儲けは出ず手間ばかりかかって結局商売自体が成り立たなくなる。それは送料別として1円で本が買えたと喜ぶ購入者にとっても実は長い目でみれば決して良いことではない。
 自分も以前ならば1円でも安いことは良いことだと考えていたが、商売を始めてみると、安さばかり追っていくと、結局誰にとっても金が回らず、挙句は経済自体立ち行かなくなってしまうことに気がついたのだ。

 安いことは良いことだという「安さ神話」ばかり信奉していると、やがては品質の低下以前に、結果売れなくなってその産業自体が成り立たなくなって物自体がなくなってしまうことにもつながっていく。産業が衰退するばかりでなく、消費は伸びず給料も上がらないし、国力自体が失われていく。

 今極悪亡国菅内閣は、突然TPPなるものへの協議を開始すると表明した。もし日本がこれに参加したらこの国の農業などは壊滅し先進国最低水準の食料自給率は更に下がることは確実である。より安く、米や野菜が買えると喜ぶ愚かな消費者はいるかもしれないが、外国にこれ以上頼るとレアアースではないが、もし供給が止められたとき餓死してしまうことに即繋がる。輸出産業界は手放しで喜ぶだろうが、人はまず食わねばならないのだから、国家は国民の食を常に保証する義務がある。
 このことはもう一回だけ書きたい。

スターパインズカフェでの寒空はだか2010年11月12日 01時15分40秒

★寒空はだかさんをたっぷり聴いて

 日付は変わってしまったが、このところ大変お世話になっている大好きな芸人さん、寒空はだかさんのソロライブへ行ってきた。
 終演後彼を交えてお仲間たちとの打ち上げにご一緒させて頂いて、あらためて人生とは出会いであると思ったし、出会いは偶然のように見えても必然であり、みんなどこかで繋がっている。そのことに改めて気づかされた。世界は狭いといってしまうのは簡単だが、気のあった素晴らしい人たちと楽しいときが過ごせて、萎えかけたまま、なかなか元に戻らなかった気持ちがようやく今日で回復した。

 今まではそうしたウツ気味の時は、いつも音楽が自分を救ってくれたが、「笑い」もまた大きな力を持つことに今回気がついた。そう、音楽に関わることで疲れてしまった気持ちは音楽ではすぐに直らないのも道理で、そうした人たちと会ったり連絡したりすることすらしんどい気持ちが続いていたことを今告白する。
 人間関係に食傷するというべきか、人とはできるだけ関わらないようにしようと、このところ念仏のように唱えていたし、何をするにせよモノゴトにはどんな良い素晴らしいことでも終われば常に逆の反動や感情が同じぐらい生まれるものだと思い知った。本当に手放しで満足できるということは、他者のしたことでは、つまり受け手としてはあり得ても、自分が主体になったことでは絶対にあり得ないし、あってはならないと思う。

 そう、自分が企画したコンサートに観客として来て頂いた、はだかさんのステージ、初めてではないが、今度はお礼として足を運び観客として観させて貰い大いに満足し涙がでるほど笑った。
 はだかさんの良いところは、笑わせつつも常にクールであり、甘さや甘えがないことだ。それこそが凡百のミュージシャンとプロの芸人さんとの違いであり、今の自分にはそのあっさりした質感こそが好ましい。そして時事ネタを交えた漫談芸も含めて、やはり彼の本質は楽器を持たないけれどリアルな生のミュージシャンだと今回もまた深く確認できた。

 どんな芸人さんか説明は出来ない。ともかく彼は天才である。まさに唯一無二、誰でも出来そうだが、こんな芸を持ち、それを至芸にまで高めた人は知る限り寒空はだかさんだけだ。
 矛盾するようだが、彼は間違いなく音楽家である。芸人さんを馬鹿にする気は全くないが、芸人の枠内だけで語られるべき人ではない。まだ観たことない方は、ライブでたっぷり生のはだかを観て欲しい。うたあり語りありの寒空はだかのユニークな世界は、テレビでは観られても伝わらない。ともかく生でたっぷり堪能して欲しい。ミュージシャンの端くれでもある自分はここまで自由闊達に一切の楽器なしに楽器に囚われることなく音楽がやれる音楽家を心底羨ましいと思ってしまったことも付け加えておく。
 いいなあ、11月の寒空の下、たっぷり味わう寒空はだか。