2月の予定など2011年02月01日 23時29分18秒

★ともかくできることを一つ一つ

 2月になった。
 寒さは相変わらず厳しいが、今日など日中は陽射しも伸び、日向にいるとポカポカ陽気で体を動かすと汗ばむほどである。
 家庭の事情は相変わらずでも、ニュースで見る九州の噴火による降灰騒ぎや北陸などの大雪災害のことを思うと、東京は雨が降らないだけが問題で天気は穏やかで恵まれているとつくづく思う。

 もし自分が今家を空けられる状況なら、過疎地で大雪に苦しむ老人世帯のところに行き雪下ろしの手伝いしたいと考えるが、ともかく今はこの家のことが手一杯で、人のために何かしたくても何もできやしない。いろんな意味で情けなく思うがともかく今は母のことと家の工事である。

 家のほうはラストスパートで風呂やトイレに器具も付いたが、まだ使用できるところに至っていない。何にせよまだキッチンが完成に至らず、そこに薪ストーブを設置して火入れができるようになれば一応の完成と言えるかと思う。たぶん2月中には。

とりあえず近況だけ2011年02月04日 23時48分54秒

★母は今日入院しました。

 状況が慌しくて正直ゆっくりブログ書くこともできなかった。

 先週末に栄養不良と衰弱のため入院加療の予定だった母はなかなかベッドに空きがないと後回しにされていたのだが、ようやく今日4日、急患扱いで連れて行きとりあえず立川の病院に入院できた。
 腹に水も溜まりむくみも進んできてたのでともかく家族としてはほっととしている。

 一方、私ごとだが、今朝方、犬の散歩に行こうとして、屈んで、というか中腰になって首輪から鎖を外そうとしたとたん、右腰に激痛が走り、ギックリ腰になってしまった。
 このところ工事関係でやや腰も痛かったのだが、こんなに激しい本格的なギックリ腰は生まれて初めてであり、これまで度々あった腰痛とは程度が違う。

 午前中はひたすらベッドで仰向けになって大人しくしていたのだが、母を病院に連れて行くべく、無理して体動かして午後一日車の運転し出歩いていたら、もう帰りは激痛で家に着いたら立って歩くこともできず、這って自室までたどり着きベッドに転がり込んだ。ベッドでも痛くない位置を見つけるまで激痛に喘ぎながら一苦労した。

 母の容態も気に掛かるが、自分もまた当分これでは寝たきりとなって身動きとれない。犬たちの散歩もあるし、認知症の親父のことも気にかかるがじっとして大人しくしているより治療方はないかと思う。

 今は少し寝て、少しだけ動けるようになったのでイスに座りこれを記しているがこれが限界。座っていても腰に負担がかかり痛くてたまらない。そんなこんなでできるだけ状況お知らせするつもりだが、間が空いてもご心配なさらずに。がんばります。

真夜中に起きて思うこと2011年02月06日 01時48分49秒

★当たり前のことをまず当たり前に

 この世の全ては因果応報だし、無意味なことは何一つないのだから災難に遭う時は災難に遭うべしと心得て受け入れていくしかない。全ては神の手の内にある。

 そう考えても、相変わらずの腰の痛みにはまいったと書かざるえない。腰は肉体のカナメと書き文字通りからだの中心だから、そこを痛めると歩くことも座ることすらできなくなる。
 専らもっとも痛くない体勢で湿布してベッドで寝ているしかないのだが、寝返りの度に痛みで目が覚めてしまう。意識していなかったが人は一晩でこんなに何回も寝返りを打つのだと知った。だから夜が長い。

 晩飯食って起きて何かできるわけではないので、ともかくベッドに入り体位を模索して痛くない位置をみつけてから手元の本など繰って眠る。昨晩もだが、時間が過ぎず目覚めてはうんうん唸りつつトイレに起きてまたうんうん言ってベッドにもぐりしばらく本でもめくりまた眠る。
 幸い週末ということもあり、大工は昨日土曜日も来なかった。工事もほぼ最終段階で、あとは一階のトイレを設置したりキッチンの換気扇をとりつけたり細かい作業だけとなった。それと薪ストーブの煙突。今日6日は日曜日、誰も来ない。のんびりできる。

 昨日は痛む腰ながら母の入院している立川の病院まで父と犬たちも乗せて車出した。犬の散歩がてらである。犬は川原で放した。
 歩くのは痛くてできなくても運転はオートマなので何とかできる。薬局の駐車場に車停めて、道端のものにつかまりながらゆっくり歩き病院内は車椅子で移動することにして父に押してもらった。一番元気なはずの自分が動けなくなってパーキンソンかつ認知症の父に車椅子を押してもらい入院中の母を見舞うとはまさにコントである。

 母はまだ治療に至らず、ようやく各種検査は終わった段階で、ひたすら点滴を続けていた。意識もあるし何も食べていないわりには元気であった。親とは有難いもので、ギックリ腰の息子の容態を気遣ってくれた。まあ、家にいるより病院の方がはるかに安全安心だし、ちょうど軌を一にして介護していた側が倒れたので本当に入院させられて良かった。認知症の親父に妻と息子の世話はできない。神はうまくはからってくれる。

 寝ながら思い出したことだが、昔自分がもう少し若かった頃、それでも40ぐらいになっていたかとも思うのだが、女友達の紹介で彼女が勤めていた西荻のソーセージ屋で働いていたことがある。今から10年以上も前になるかと思う。

 当時職がなく、古本屋もまだ始めていなかった増坊の困窮状態を心配して彼女が口聞いてソーセージ職人の仕事を世話してくれたのだ。ドイツで修行し賞もとったというマスターの元で、大きな肉包丁で肉の塊から細かい骨を取り除くことから腸詰まで一から教わった。
 季節がちょうど秋から冬に向かう頃で、自分はお歳暮シーズンで忙しくなる作業場の臨時職工としてバイトに入ったわけだが、その年の大晦日に突然首になった。何月から始めたのかもはや記憶が定かでない。もしかしたら夏前からかもしれない。

 理由は簡単で、最も注文が増える歳末を終えれば作業はヒマになるからだと言われたが、そこの気難しいマスターと二人だけの作業にお互いにうんざりもしてこちらも嫌気が差していたから渡りに船でもあった。こちらもヘンクツ剣呑であり、人に慣れ親しまないし彼もまたかなり変わり者であったからだと思う。※本当はバイトでも突然の解雇は法律違反なのであるが。

 肉など生ものを扱う作業場は冬でも暖房などはなくすこぶる冷え切って長時間の立ち仕事はかなりの肉体的負担であったし、12月は超多忙でまさに精神的肉体的にも限界でクビは頃合でもあったと今にして思う。
 ただ、問題は辞めさせられてから激しい腰痛が出て、ほぼ1月の間ぐらいまさに寝たきりとなってしまい、正月も含めてその新年はひたすら療養に努めたことを思い出した。入院するほどではなかったが、やはり腰が痛くてもう歩くことすらできなかったのだ。
 そのとき日がなコタツに入って横になりながら窓から見えた景色、庭木の冬枯れた細い枝を思い出す。切り取られたガラス窓から見える世界だけがそのときの自分には外との繋がりの全てであった。今の痛みからそのときのことを思い出した。

 そのバイトを紹介してくれこんな自分の将来をも案じてくれた女の子は数年前に若くして病死してしまった。彼女もそのソーセージ屋での無理が祟ったのだと思える。今でも彼女のやさしい心遣いとその期待に応えられなかったことが悔やまれるが、過ぎたことは戻せないし、もはやすべて仕方なかったのだと思うしかない。

 長い夜にそうしたことを思い出す。誰にでもやさしくて皆から愛され密かに大好きだった、もはや死んでしまった女の子のことや、昔自分のしたことなどを。

 今はともかく早くこの身動きとれない状況を脱してひとつひとつきちんとさせていくことだ。当たり前のことを当たり前にやっていきたい。そうできるようになりたい。死んでいった人たちのためにもしっかり生きていかねばならないと寝ながらも心した。こんな自分にもまだできることが何かきっとあるはずだ。
 先のことはどうなるか見えないしどうしたものかと不安に思うが、ともかく一日一日を乗り切ってからだ。

昨年からのことを振り返って2011年02月07日 04時19分09秒

★あれこれ抱えてずっと無理してきた

 また夜が明けないうちに起きてしまった。外はまだ真っ暗だ。

 本格的ぎっくり腰は、ようやく三日目にして家の中なら庇いつつおそるおそる歩けるようになってきた。激痛の間一時途絶えていた本の注文も昨日6日また始まったし、いつまでも寝てばかりはいられない。このままだと全身が衰え本当に寝たきりになってしまうような気もしてきた。寝すぎて腰以外のところ背中とか節々まで痛くなってきた。

 調べる用があって、昨日は昼食後、昨年1月から12月までのメールを1年間見出し用件を追ってざっと確認した。そして改めて思った。実にあれこれこんなにいくつも抱えてよく病気もせずに何とか無事に年越せたなあと感心した。特に春5月の大阪行きから加速度的に忙しくなりそれが12月頭まで続いていた。

 自分を誉めたいとかエライなんて露ほども思わないが、非力な自分が無理に無理を重ねて無理を通して音楽企画活動のほか、家の事も抱えて、工事、音楽、そして商売とまさに八面六臂、超人的に動いていた。音楽のほうもコンサート企画だけではなく、初めてCD製作・販売にも手を染めた。その活動は届いたメールだけで振り返っても自分でも驚き呆れ感心するほどの作業量であった。

 昨日、昔起きた腰痛のことを思い出し書いたが、どうやら今回のギックリ腰も起こるには訳があり、何ヶ月も続いた積りに積った疲労、心労が終わるか終わりに近づいて雪崩のように一気に表に、つまり体に現れたのだと気がついた。何事も起こるのに理由がある。無理しすぎたツケ、因果応報ということでこれが終わらないことには昨年のことは本当に終えたことにはならないということだと気がつく。

 10.11木馬亭での大きなコンサートが終わって事後処理に追われているうちに母の容態も悪化してきて今度は家の事、看病と家事に時間とられるようになった。そして今母を入院させて家もほぼ完成してきてギックリ腰で寝込んだ自分である。流れを追えば実にわかりやすい。それだけ気も緩んだというべきか今までよく持ちこたえたと考えるべきか。

 いつまでも昨年のことに関わり囚われていても仕方ないが、真に大事なことは事においてそのときもだが、事後であり、多事多忙を言い訳にして自分は不誠実であったと今も思う。それは今も続いていて、親の介護、看病を勝手な言い訳にして届いたメールに返信していない人も沢山いるし、連絡もずっと後れがちである。
 そうした昨年来の不義理に始末をつけ、きちんと応対できるようになってようやく今年が本当に始まる。まずは体を治し回復したら遅くとも今月中に不義理してきた方々に連絡済ませてそこからがスタートだと。

 去年のことを引きずってきた。母親の容態もまだ先が見えないが、何かを始めるに遅すぎることはない。焦る気持ちはあるが絶望も失望もしていない。見えない者に手を引かれて今できること、すべきことを少しづつでもやっていこうと誓っている。人生はまだ続く。

家ほぼ完成・ついに大工は今日で撤収。2011年02月08日 21時54分31秒

★今日2/8日で大工仕事は終わりとなった。

 腰のこと、母のこと、そして家の工事のこと、いろいろ報告したいことが多々あるが、とりあえずまず家の事をお知らせしたい。

 今日、最後まで一人来ていた大工が一階のトイレのドアをとりつけ、カギもつけてくれ、電気屋も来て風呂場の照明を入れたので、もうこれで大工職人の作業はなくなった。
 夕方、親方のカワムラさんが来て、残った材とか釘類、ゴミをまとめて車に積み込み、ホウキで床掃いて掃除機もかけていった。細かい手直しとか見直しはまだあるだろうが、これで一応大工仕事は今日で終わったことになる。
 もちろんでは明日からここですぐ暮らせるかというと、ガスはまだ繋がっていないのとキッチンには換気扇もついていないし、薪ストーブの煙突もまだとりつけていないので生活は当分これまで通り裏の方でやる。下駄箱のドアとかは建具職人が来て作ることになる。
 
 要するにただ大工がもう来なくなるということだけなのだが、それでも工具や材料の板が散乱していた「現場」が片付いて何もなくなるとようやく家も完成したのだと思えてきた。じわじわ深い喜びが沸いてきたことをまず報告したい。ありきたりな表現だがまさに感慨深い。

 このブログの前のブログから、いやまたそれ以前にメルマガをやっていた頃から増坊と付き合いのあった方ならご存知かと思うが、この家作りの計画はもう何年来かの懸案であった。計画からだと10年以上である。自ら壊し始めてからでも5年は経つ。
 いったいいつになったら家はできるのかと、京都や大阪に行くたび向こうの友人知人、フォークシンガーからも半ば呆れ気味に問われて、自分でも先が見えず返事に窮するばかりであった。

 それがようやく昨年の春頃から大工らにより本格的に工事開始となって、ついに今日2月8日、トンカンやる作業は終わりを告げたというわけだ。
 いつから工事が始まったのか、増改築という部分もあるので何日が建前とか開始の日は決められないが、ちなみに前のブログで確認してみたら、自分が去年の春一番で大阪に行っている間、5月1日にコンクリで基礎を打ったと記している。もしそこをスタートとしても半年どころか9ヶ月以上かかっている。今時の家では異常に長く時間かけた。常識的にはありえない。今なら早ければ3ヶ月ぐらいで更地から建てて住めるようになるのだから。

 ウチの場合、遅れた理由とは、棟梁カワムラさんは他の真っ当な現場も抱えていたので、そちらを優先させて、ウチには手の空いているとき、手の空いた職人を入れるという方針で、ちまちま様子見ながら進めたのでこんなに時間がかかった。普通の現場のように一気に何人もの職人を投入して全力投球した日もあったが、大方大工が来ても1~2人という日も多く、梅雨時などは、柱建てただけで屋根もないのに何週間も大工が来ないこともあり雨空見上げて大いに思案した。
 まあ、こちらも職人の都合に合わせる代わりにずいぶん我儘言ったり、無理な無体な注文つけたりもした。そんなこんなで施主と大工の共同作業的にほとんど図面なしに、現場優先でその時々アイディア出し合って手探りで建てた。だからすごく時間がかかったとも言えよう。

 そうして、ともかく今日で大工仕事は終わったのだ。
 しかしこれですぐ完成ではない。実は施主の作業が山ほど残っている。今回無垢の安い杉板を大量に壁などに使ったので、そうした部分や建具に全部塗料を塗らなくてはならない。それは職人仕事ではなく、施主自らの仕事であり、前に、裏側を建てたときも内装外装の壁は自らコテで、外は外壁材、中は壁も天井も珪藻土をせっせっと塗った。今回はあまり珪藻土は使わないが、白木が多いのでペンキ塗る部分が沢山ある。
 正直な気持ち、今は体調も悪いのでそのことを思うと大変だと憂鬱な気持ちにもなるが、それは納期などないし、自分のペースで急がずやれば良い。このブログの読者で暇な人も来て手伝ってくれるかもしれない。

 孫文は死の枕元で、遺言として「革命未だ終わらず」と呟いたときく。家作りの師匠、村瀬春樹氏も家作りに終わりなどないとおっしゃった。それは家もまた生き物であり人もまた変わるからだ。しかし、だからといって永久革命論ならぬ永久に完成しないというのでは聖サクラダ教会じゃあるまいし皆困ってしまうわけで、ともかく完成させて宣言したい。

 これは己惚れかもしれないが、まさに手前味噌として言わせてもらうとすごく不思議な面白いステキな家ができた。100%満足いくわけではないが、まあ80点のコダワリは通した。自分が知る限り最近こんな家はどこにもない。渡辺篤にも来てもらい感心させたいと切に思う。それほどヘンで不思議な家である。どうか誰でも遊びに来てください。

“魔女の一撃”ギックリ腰2011年02月09日 23時53分26秒

★その後の経過報告を

 西欧の諺では、ギックリ腰のことを「魔女の一撃」と呼ぶそうだが、これは実にうまい喩えだと思う。あれから5日過ぎて、ようやく恐る恐る歩けるようにはなってきたが。しかし完治にはほど遠く、日に何度もギャッという悲鳴を上げている。元々は一瞬の強烈攻撃であったが、未だその余波というか、弱まりつつも魔女は攻撃の手を緩めていないのである。今はまだ咳をするのにも覚悟が要る。

 ギックリ腰とは突発性の急性腰痛症というのが正式病名なのだろうが、魔女に襲われたことのない人はいったいどういう状態なのか検討もつかないだろう。
 自分の場合、この痛みには経験なくはなかったが、今回のようにまったく突然に、一瞬にして、つまり一撃を受けて激痛に声上げて苦しむことは初めてであった。かつて友人がやはりこれで寝たきりになり唸りつつ整体だか骨接ぎに通った話は聞いていたが、そのときは大袈裟にと嗤ってしまったが、当事者としては筆舌に尽くしがたいほどの激痛なのである。

 今は時間が経ったのでだいぶ楽にはなってきて、動かないでじっとしていれば怪我した傷口のようにズキズキ痛むことは全くない。それでもへんな向きに腰を捻ったりするとそのとたん、ウッと声上げるほどの痛みが襲う。
 歩くのもようやくできるようになってきたが、それは腰を庇いつつ恐る恐るすり足で何とかだし、下手に前屈みになると、またギャー、段差があるとギャー、つまづいたりするとまたギャーと心臓悪い人なら命がちぢむ。
 しゃがむこともできなくはないが、それは体を真っ直ぐ静かにそっと垂直に降ろすのことは可能でも、下手に前屈姿勢をとるとまた激痛で、自らは何かにつかまらずに立ち上がることすらできやしない。これが起きた当日は、無理して母を病院に連れて行くため歩いたが、痛みのあまり歩きながらしなしなとその場に崩れ落ち動けなくなる、つまりまさに「腰砕け」に何度となくなってしまった。

 ものの本によると、せいぜいコルセットして、安静にしじっと時間の経つのを待つしかないらしい。2~3週間はかかるようだ。ともかく腰に負担をかけないよう、寝てても同じ姿勢ではやはり痛くなってくるし、実はこうしてブログ書くためパソコンに向かうのもイスにずっと座ることになるので少しすると痛くなって立ち上がれなくなってしまう。無理すると慢性化するとも聞く。

 どうしてこんなことになってしまったかと嘆く気持ちもあるが、幸い今は母も入院して不在だし、工事の大工も来なくなったので、痛む体を押して無理しないですむのでだいぶ精神的には楽だ。

 それでも月日は過ぎていくばかりで、何もできずに焦る気持ちもなくはないが、そんなときは良寛和尚の名言を思い出し気持ちを諌め静めている。
 『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬるがよく候。是はこれ、災難をのがるる妙法にて候』

 そう全てをただ受け入れて、これはこれも仕方ないと抗わずに生きていくしか今できることはない。皆さんも魔女に襲われないようどうかご注意を。中腰になって無理な前屈姿勢はとらないことです。

小さなことに囚われ縛られずにもっと大きく2011年02月11日 23時02分23秒

★まず入院中の母のことから

 腰はおかげさまでだいぶ楽になってきたが長めに車の運転したせいか背中が痛い。

 昨晩11日は友人たちが我が家に来、近所の居酒屋で久々に酒をかなり呑んだ。近く海外に旅立つ若き友人を囲んでの送別会でもあった。楽しい愉快な酒となった。
 母が入院し自分も腰を痛めてからずっと一切アルコールを断っていたのだが、友人とならば仕方あるまい。いささか呑み過ぎ反省気分でもあるが。

 で、母の容態。どうお知らせしたものかと書きあぐねていた。
 入院して一週間が過ぎても、未だずっと点滴が続いていて、口からは一切摂ることはできない。それは医者の判断で、ともかくまずは入院したからにはじっくり検査して、状態を確認してからと、また胃カメラと大腸から内視鏡入れて検査が続いていた。
 その間、腕からの点滴だけでは栄養が摂れないと、喉から静脈にカテーデル入れられる処置がとられ、結局そこから24時間常に点滴によって栄養補給とられている。

 いいかげん、口からまずは重湯でも食べさせてもらえたらと思うのだが、ともかくまた腹を下したり痛くなったりしたら困るからと、検査の結果が出るまではとひたすら点滴である。

 その点滴効果なのか、ひどかった足のむくみはほぼ消えてなくなり原に溜まっていた腹水もなくなってきた。しかし、それらの水分が出たから体重はさらに減ってもはや32キロである。意識もしっかりしているし、自ら動けなくもないのだが、果たしてこんな状態になって回復できるのか正直なところ不安でならない。

 まだ、まったく先のことは見えないし、退院どころか今後どうなるのかそのやせ細ったからだを見ると胸が塞がれる思いがする。もっと早く入院させればよかったと悔やむ気もあるが、ともかく今は医者や看護婦さんたちを信じて入院させておくしかない。

 こんなことを書くと他者にまでご心配おかけしてしまう。どう書くか躊躇っていた。しかし、これまでも書いてきたのだから、やはり書かざるえない。書くことの責任は最後まで書かないと果たせない。

健康について考えた。2011年02月13日 19時00分10秒

★腰は何とかまた動けるようにはなったが。

 おかげさまでギックリ腰の方は、だいぶ楽になりかろうじて自由に動けるようになった。が、まだ鈍い痛みは残っているし、階段などでは一歩づつ恐る恐る腰をかばいつつ歩くしかない。
 もちろん急には屈めないし、重たい物を持つのも中腰などは厳禁であり、完全に元に戻るまでは当分かかるように思える。映画やライブのように長い時間座って同じ姿勢でいることも腰に負担がかかるのでできやしない。それでも自由に動けるのは本当に有難い。もう咳をするのにも臆することはなくなった。

 今回の「病気」で気がつき考えたことだが、健康というのは、人生の目的ではないが、前提条件というか、まず必要最低条件であり、何をするにもまずは基本として健康でなければ何かを成すこと、始めることすら難しい。
 数日腰の激痛で全く動けなくなり、苦悶してようやくそのことに思い至った。人はまず健康であればどこへでも行けるし、やりたいことは何でもできる。これが入院でもしてしまえば、完全介護され楽であったとしても病室の中に閉じ込められた篭の鳥であり、ベッドの上でできることはかなり限定されてしまう。

 まあ、母を見ているとそれも仕方ないことであるが、退屈以前に一ヶ所に囚われた者としてさぞや辛かろうと思う。2、3日の入院ならのんびり療養気分でいられても長引くと精神的に参ってくるだろう。人はそれぞれ様々な自由の中で生きている。病気というものはまず肉体の自由を奪い次いで精神の自由さえも奪っていく。

 そしてこのところの経緯を振り返って思うのは、家族に病人がいるとその家自体も病気状態、つまり自由に何かをすることはできなくなってしまう。病人当人でなくても家族も看病のために昼夜時間をとられるし、容態が良いときでも常にその体調は気にかかり、胸に重石が残っている。憂鬱であり不安であり時に苛立ちや嘆息も多々ある。

 モノゴトがうまくいかなくても、例え失敗したとしても健康であればまたやり直せるし、旅行や買い物など気分転換の仕方もいくらでもある。病気になり病人として囚われてしまうと、そこに楽しみというのは皆無に近いし何かしたくても健康時に比べるとほんの僅かなことしかできやしない。
 病気の時の目的とは治ること、入院なら治して退院することであるが、果たしてそれが可能なのか病人当人も医者さえも定かではない。

 今自分が思うのは、こうして健康の有難さに感謝し大切にし無為に過ごすことのないよう自戒もだが、病人とその家族のために健康な者は何かすべきことはないかという問いである。それは別の国の別の人の話ではない。つい川向こうの目と鼻の先の話である。

 人は誰でもその川を渡る。こちら側に戻れれば幸いである。戻れない人も沢山いる。ならば橋を渡して彼らと彼らの家族のために何かできることをすべきではないのか。

良くなる、きっと良くなると信じて2011年02月14日 23時00分38秒

★雪よ鬱々とした気分を覆い隠せ

 ♪石炭ストーヴない夜は ラジヲで大雪注意報
   君と僕とで静かに聴けば
   まるで大英帝国の

   僕は勲功し王子様
    君は麗し王女様


          ―――あがた森魚「きみはハートのクイーンだよ」

 外の雪はせっせっと降り続いている。このぶんだと明日の朝は近年にない大雪となるだろう。

 どうにも気力がわかずどうしたものかと困惑している。書くことだけが自分にとって救いであり出来ることのはずなのに、それさえも書けなくなってしまった。
 焦る気持ちはもはやないが、時間が止まってしまった気がしている。それは今年明けてからで、やるべきことは沢山あるのに時間もないわけでないのに何故かほとんど出来なくなって夜になるとすぐ寝てしまい、また明日こそと思うが何もできないままに一日が終わる。連絡とらなければならない人と用件も多々あるのに、他者と関わることが何故か億劫というか辛くてできないままである。自己嫌悪感が続いている。

 寝てもよく眠れないし、暗い中、何度も時計を確かめる。経験としてこれは鬱病の初期であり、薬でも気分は改善されるので病院行くべきかと迷うところだ。
 しかしその原因はわかっている。気持ちを萎えさせている最大の理由は母の病気であり、入院しても先がまだまったく見えず、退院のメドどころか治療方法も立っていないからだ。点滴状態が続いている。もしかしたらこのままとなるかもしれない。

 覚悟は決めたはずなのに、悪いほうに考えてはならないとわかってはいてもやはり憂鬱になってしまう。その気分に囚われてなかなか気持ちが切り替えられない。
 これではならぬ、頑張らねばと思うほど辛くなる。こういうときのコツは焦らず慌てず無理して頑張らないことだとわかってはいるがそう肯定させるにも話相手もいない。

 このところはひたすら家に溜まった本の処分に専念している。一冊ごと検索かけて、値がつき売れる本はアマゾンに出し、そうでない本は関心と価値ある本以外は箱に積め溜まれば見舞いのついでに立川のブックオフに持っていく。何箱か持ち込めば多少の小遣い程度にはなる。しかしそれもさすがに倦んできた。

 家はほぼ完成した。ともかくモノを、本を減らさないことには人を招くこともブックカフェなど夢のまた夢だ。それが自分の夢なのか、このところ揺らいで来てしまったが、できることはまずそこから。

 せっかくの家ができても母がそこにいないのは喪失感が強いが、自分の人生も含めこれから良くなる、きっと良くなる、もっと良くなると信ずるしかない。
 気持ちが萎えると腰もまた逆戻りしてしまう。今はただ前向きになれるよう希望の光がほしい。

♪ほんの少しだけれど陽が射し始めた。
 雪明り 誘蛾灯 誰が来るもんか 独人。 
                   ―――冬のサナトリウム

拾ったギターに弦を張ることから2011年02月15日 23時20分53秒

★鬱々としてなんかいられない。

 前回はあんなことを書いたが、状況がちょっと変わった。先のことはわからないし、悪い方向に考えても仕方ない。神のみぞ知ることであり、どのような結果であろうとそれもまた神の意思、計らいなのだと受け入れていく。

 このところずっと一切音楽も聴いていなかった。特に自分が関わったこと、友人たちの音楽は気持ちが騒ぐので苦しくて聴けなかった。
 自らもギターを手にすることもなく、ただひたすら家にこもり、病院通いの他は、パソコンに向かって本を検索にかけて処分することに専念していた。

 今日15日、旧い女友達から電話があり、いろいろ近況を語り合っただけなのだが、それでも気分が癒され気持ちも戻ってきた。実は告白すると、このところ人と関わることは結果、常に苦い後味をもたらし、特に自分には荷の重すぎた大きなイベントが終わった以降、ずっと自らを責め続けてきていた。過ぎたこと、どうしようもないことなのに答えの出ない問いを自らに問いかけ続けてきていた。

 そこに母の病気や家のことも追い討ちをかけ、もう他者と何かをやっていくことは金輪際すまいとさえ決意していた。まずは家のこと、家族のこと、自分のことなのだと誓った。

 しかし、今またこうした想定していなかった不慮のときを迎えて、おかしな話だが、人と関わりたい、人のために何かしたいという気がまた起こってきた。今はとてもそんな時間も余裕もない。だけれどもだからこそ他者のために少しでも何かしたいと心から思う。

 苦しいとき、大変なときにこそ、同じく大変な人のために何かしたい。せめて語らいあって一時でもその荷の重さを忘れさせられたら。人は人のために生きてこそ人なのだと信ずる自分がまだいる。

 気持ちを切り替え、正月に拾って弦を抜いたままほったらかしにしていたギターに弦を張ろうと思う。