手術は予定通りに明日2011年03月02日 21時58分20秒

★昨日はブログ休止してすみませんでした。

 ご心配おかけして申し訳ありません。また暖かいお心遣い本当にありがとうございます。

 
 昨日(1日)夕刻、母の容態に異変があり、果たして予定通りに3月3日の手術が行われるかもわからなくなってしまい、どう報告すべきか迷った挙句ブログは書けなかった。
 それは急な発熱で、幸い適切な治療が功を奏し一晩寝たら今日は平熱に下がったのでこれで今晩も何もなければ決行するとのこと。手術することが決まってから10日、何も起こらず平穏無事にその日が来ることを日々祈って過ごしてきたがやはり一波乱あった。

 午後3時過ぎに、執刀医から手術についての細かい話を母の妹、つまり叔母と二人で聞いていたら、母はまた心臓の検査とかやらで地下の検査室に連れて行かれて病室に戻ったらいなかった。
 待つことしばし、なかなか戻らないのでどうしたのか不安になったら、裸にされての検査中に寒気がしてガタガタ震えが出て、急な発熱症状が起きてしまったのだ。病室に戻って医師と看護婦が注射打ったり電気毛布入れ、氷枕して熱を下げる処置を施した。震えはやがて収まったものの熱が下がらないようであれば3日に予定してある腸閉塞のバイパス手術は延期するとのことだった。

 果たしてどうなるか。不安な気持ちでいったん家に戻り、夕方もう一度犬の散歩のついでに立川まで車走らせ病室を覗いた。熱は8度とまだ高かったが、やや下がり意識もしっかりしていたので、やや安堵して帰れたがこのこと、その状態ではブログに書いても読み手も不安になるだけだと考えた。正直にあるがまま書いていくと誓ったが、中途、過渡期的状況では報告も何もできなかった。どうかお赦し願いたい。

 ともかく今夕の段階では予定通り明日午前9時から手術開始は決定であり、それはさほど難しくもないし体に負担かけないよう細心の注意で臨むとのことなのでこちらはそれ自体は何も心配はしていない。問題は術後の経過であり、ともかく腸の詰まったところがなくなり、また口から食物が食べられ尿や便となって自然に外に排出できるかどうかなのだ。ガンの治療とか対策は全てそれ以降のことであり、今はただ鼻からのチューブが抜け、口から少しづつでもまたモノが食べられることを心から望んでいる。

 腸閉塞がなくなれば家にも帰れるはずで、新築となった快適な家でいつどのようなカタチであろうと最後まで看取りたい、まず何よりもこの新しい風呂に母を入れてあげたいと風呂の中で先ほど神に真剣に祈った。

 明日のことはまた明日のうちに必ず報告します。九州からまた妹が来てくれた。家族全員でがんばります。

母の手術は無事終わりました。2011年03月03日 23時26分31秒

★ともかく長い長い一日だった。

 まず、増坊母の本日の腸閉塞バイパス手術は無事終わって、今はICUの中で、経過も良好であることをお知らせしたい。本当にご心配おかけいたしました。正直よくあんなに痩せ体力失せた状態で3時間を越す手術に持ちこたえたものだと感動してしまった。多くの方々の言葉にならない励ましや思いやる心が母を後押ししてくれたのだと信ずる。皆様にも神のご加護を。

 問題はこれからで果たして術後、平穏に回復し、繋いだ腸が動き出し再び口から食べ物が食べられるようになるかで、とにもかくにも鼻からのチューブがとれて一日でも我が家に帰れるかであり、ほぼ末期ガンの治療や対処方はそれからとなる。
 先のことはわからないし、そううまくトントン拍子にモノゴトは進まないだろうとはこれまでの経緯からつい考えてしまうが、今願うのはせっかく完成となった新居に連れて帰ることが成るか、この家で最後を看取れるかだけで、あといったい何日余命があるかとかまったく考えてもいない。

 ともかくまず長い手術が成功し終ったことだけを皆様にお知らせする。今日のことは時間あれば経過を朝から追って記録しておきたい。今はまだあまりに生々しく、ショッキングでもあり、気持ちの整理がうまくできない。

 先のことを考えれば何週間も不眠になるほどの不安材料は山ほどある。思う存分泣こうと思えばいくらでも泣ける。しかし、ともかく今、今晩は母はまだ生きて酸素マスクを当てられながらもやすらかな寝息を立てている。今日も無事一日が終る。それだけでただ有難い。

 病床の母にむかひていふことなし
 母はただただありがたきかな

手術当日のこと2011年03月04日 22時08分47秒

★まず今日の様子から。

 一夜明けて、今日4日昼過ぎ、妹と父も連れて病院に行った。
 集中治療室から降ろされて、母はこれまでいた外科の婦人病棟に戻されていた。
 今日はさすがに疲れが出たと見え、反応も乏しく当人曰く、いくらでも眠れるとのことで、寝てばかりで弱弱しい限りであった。鼻から酸素も入れている。手術箇所も痛むし導尿もされているし、まさに満身創痍でありベッドから出る必要もない。

 しかし、思えば母の歳で、あの体で長時間の開腹手術を行い、腸のかなりの部分を採られたのだから、登山に喩えれば、体力ない老人が単独でろくな装備もないまま高山に登るようなもので、時間をかけたが何とか頂上にたどり着けたようなもので、今はそこで大の字になってほっとして休息をとっている状態と言えようか。
 しばし休んで体力が戻ったら、いよいよこれから山を下っていかねばならない。それが回復していくことであり、果たして術後、繋いだ腸がうまくくっついて、機能していくのかまだ今日の段階では何ともわからない。看護婦は特に問題はないと言っていたが・・・。

 昼過ぎに一度病室を訪れ、そのときは妹が九州に今日帰る前だったので慌しく、母も元気なかったので、家に戻ってからも不安にかられたこともあり、夕刻、犬の散歩を兼ねてまた車で病院に行った。そのときは十分寝たからか意識もしっかりしていて、昨日は集中治療室では明るいし看護婦がうろうろしていて騒がしくてよく眠れなかったことを聞いた。
 傷を癒すという言葉の通り、こうしてたっぷり寝て傷が癒えてくればまた新たな道は開けると信じたい。

 昨日のこと、後ほどきちんと書き記しておきたい。

一日一日を大切に2011年03月06日 23時40分12秒

★日々こともなく過ぎていくことが・・・

 母の体調、具合はおかげさまで良好である。が、まだ術後、切り取られ繋げだ腸はうまく繋がり機能し始めたのか確認できないでいる。
 不安や心配は先のことも含め考えだせばきりがない。ただ、今日も一日母は元気であり、一日が無事に終っていくということだ。こんなふうに、平穏無事に時が過ぎていくことだけで有難い。

 皆疲れが出たせいか、息子の風邪が親父にも伝染り、昨日今日と父も微熱があり、見舞いも控えさせて大人しく寝かせている。今回の風邪は咳と鼻水は出るが、熱は大したことないので、肺炎を起こすことはないと楽観している。が、年寄りなので大事にこしたことがない。

 そういう自分もまだ風邪が癒えず、体調ももう一つなので早く寝ることにする。すべてはまた明日から、また新しい週になってからだと。

 今はこんなふうにしか生きられない。こんな風に生きていくなら。こんなふうに生きていくことが。明日は雨だろう。

どう生きていくかではなく、どう生きているか2011年03月07日 21時53分43秒

★人間とは何なのか

 おかげさまで、母の術後の経過は順調で、今日7日、鼻から入れられ小腸まで延びてたチューブも外された。明日からは、口から流動食を摂れるよう始まるという。本当にほっとしたというか、肩の荷が下りた気がした。何よりも当人が煩わしさから開放されすっきりして、心休まる思いでいると思う。一時の絶望的状況、悲壮感を思い出すと、よくここまで来れたと感動すら覚える。
 今日はこの世の全てに感謝したい。

 母の病苦はまた自らの問題でもあり、おかげで多くのことを学び考えさせられた。それは結果良いことだと今断言できる。つまりこの病気にならなかったら自分は愚かなまま何も考えずに終らない夏休みのまま、今までどおりひたすら遊び呆けていたに違いない。
 それができるうちはそれでも良かった。しかし、モノゴトには必ず終わりが来るし、覚悟の上でならともかく、何も想定すらせず、無責任に青春の夢を見続けていられるはずもない。今ようやく、真になすべきことに気がつき、親たちとの距離と自らの位置も掴むことができたので、それだけでも良かったとつくづく思える。後悔はしたが、幸い母の生きているうちに何とか間に合ったという気もしている。
 目が覚めたのではなく、見えなかったこと、あるいは見ようとせず目を背けていたことがついに見えたのだ。恥ずかしい話ようやく大人になったと思う。

 さて、そして今考えるは、あらためて人間とは何なのかということだ。
 今回の手術で、母の体内の臓器、切り取られた小腸などを医師から見せられ説明を受けた。それは当然覚悟もしていたが、やはりショッキングとしか言えないもので、それはやきとん屋でのホルモン類とまったく変わらないもので、これまで自分が串に刺したものを好んで食べてたものと同じものが母の体内にあったと思い知らされた。
 つまり肉類、特に内臓を食べることはまさに共食いであり、人は骨、臓器、肉、脂肪、それらを皮膚が覆い、人間として生きているが、一皮剥けば中身は豚や牛などと全く何も変わらないのだと気づかされた。母がそうならば自分もまた同じであり、これまではずっと、どう生きていくかということに腐心していた自分だったが、どう生きていくかの問題よりも、どう生きているかが実は肝心なのだと気がついた。

 そう、人はどう生きているのか。当たり前のように息をして、モノを食べ、当たり前のように動き回っているこの人間。しかし、こうして病院通いが続き、病人たちの中に身を置くと、実はそうした当たり前のことすらが実は当たり前でも何でもないことに気がつく。
 病が進めば、動き歩くどころか口から食べられなくなるし、息すらできなくなっていく。そして最後はあらゆる処置が効果なく、死んでいくのだ。

 今まで当たり前のようにしてできたことがやがて出来なくなる。生きているということすら実は当たり前のことではないのかもしれない。考えてみれば、自分がこの世に生を受け、今もこうしてこの歳まで生きていることすら奇跡のような不思議なことのような気がする。大きな病気も事故にも遭わず無事に好き勝手に生きてこれた。社会的には全く勝者ではないが、それだけでも勝ち誇ったような気持ちになる。

 恩寵という言葉があるならば、自分もまた深く感謝して、陳腐な言葉だが、世のため人のために生きていきたい。まだ自分にもできることがある。すべきことがある。人のためにできることがきっとある。残りの人生、生きていく意義が見えてきた。母にもだが、まだ自分はこれまでの恩返しをしていない。

一ヶ月ぶりに口から食べられるように2011年03月08日 21時46分48秒

★これでひとまず安心

 母は今日昼から重湯だが、口から食事を摂ることが許された。デザートには葛湯のような少し甘い飲み物も出たという。
 米粒などほとんど何も入っていない粥以前のものでも口から食べられるようになったのは、実に入院した2月4日の朝食以来であり、一ヶ月以上点滴だけで命をつなぎ水さえも禁止されていたのだから感無量なのは当人だけではない。ついにようやくここまでよくぞ戻ったとその嬉しさは言葉にできないほどだ。

 このブログの読者の方々にも心より感謝したい。ただ、これで完全に治癒したら元通りの生活が送れるということではなく、今後はかなり進行しているガンの治療が本格的に始まる。それは当人も知っているし、覚悟も出来ていると思えるが、今はともかく腸閉塞により食べられなかった状態が改善され再び少しづつでも普通に食事ができ、体重がゆっくりでも戻ればと願うだけだ。先のことはどうなるのか全くわからないし医師からもまだ何も告げられていない。
 しかし今は当人も家族も周りの誰もがが、昨秋から食べられなくなりやせ衰えて入院に至った事態が今回これで改善されたのならそれだけでもう十分満足している。とにもかくにも口から食べられるようになって短期的にでも家にも帰れるようになればその先のことは何も考えていない。

 母の容態に安堵したせいか、疲れがどっと出たのか、じつはこの数日今度は父の方が風邪ひいて寝込んでしまっている。増坊の風邪が伝染ったかと思うが、自分もまた病院の往復と父の面倒で疲れが溜まり、風邪もなかなかすっきりしないでいる。特に咳が残り続いているのが苦しい。
 しかし、季節はもう春だし、昨日のように一時季節はずれの予想外の雪も降るだろうが、そんなことにそのつど動揺も困惑もしない。晴れの日もあれば雨や雪の日も当然ある。全ては良い方向に向かっている。そう信じて今苦境にある人もきっと良くなると信じてがんばってください。誰にでも神のご加護がありますように。悩み病める魂に平穏と安らぎを。

何をどう書くべきか2011年03月10日 23時35分44秒

★良いときもあればまた悪いときも・・・

 手術からちょうど一週間。思っていたより早く口から食事が摂れるようにはなったのだけれど、じっさいのところほとんどまだ食べられていない。昨日からお粥に野菜など柔らかく煮た副菜やデザートも出されるようになった。が・・・
 一進一退というわけでもなく、容態がまた悪化したのでもないのだけれど、昨日から下痢、軟便が続いていて当人も元気がない。昨日も今日もそんな調子で拙ブログでどうお知らせしたものか、書きあぐねていた。

 傍からすれば、手術も成功し、腸がつかえていた傷害も取り除かれたし、鼻からのチューブもとれて久々一ヶ月ぶりの口からの食事なのだからもっと有難くしっかり食べられると思うのに、当人は、何か味がしないとか、変だとか言ってほとんど残している。まだ点滴も太腿の血管から入れているから別に全部食べなくても問題はないはずだし、医師も半分程度でもかまわないと言っているようだが、周囲としては気にかかる。しっかり食べて欲しいと気もはやる。

 まあ、大手術後で体調も戻っていないこともあるし、何しろ一ヶ月以上全く口から食べていなかったのだから味覚も戻るまで時間かかるのかと思えなくもない。何にせよ焦ったり慌てたり急ぐことはないのだと戒めた。下痢だって、溜まっていた一月前の宿便が腸が繋がったから出ているのである。それは良いことだと考えよう。
 こちら側としては早くパクパク食べられるようになって体力戻して一日も早く退院させたいと思いはつのるが、一時の重篤状態を思い返せば、ここまで回復しただけでも御の字であり、無理して食べさせなくてもまだ良いしこれも仕方ないと気持ちを静めた。

 ともかく一日一日、焦ることなくゆっくりとでいい、患者当人だけでなく自らも丁寧にしっかり生きていこうと思いなおした。自分はせっかちなもので、つい何でも先を急ぐ。焦ることなく足元確かにであった。寒い日があっても季節は間違いなく春へ向かっている。

東北・関東大地震2011年03月11日 23時57分56秒

★こちらはほとんど被害はなかったが。

 大変なことが起きた。本日午後、かなり強い揺れがあり、幸い我家は改築したばかりであり、内陸部でもあったので、二階の積み重ねた本の山が崩れた程度で、ほとんど被害というほどの被害は幸い何もなかった。
 東京多摩地区はたぶんそんな具合で、のほほんとこの地震は久々やや大きかったが大したことなかったと気軽に考えていたのだが、どうやら東北、宮城県辺りでは津波も含めて阪神大震災に匹敵する壊滅的被害があったようだ。事態が報道され今暗澹たる気持ちになった。
 卑小にも思うは、電車はずっと今も全く動いていないし、都心部の勤め人は帰宅にさぞ苦労しているかと思うが、自らは家にいて、電気も水道も食事も変わらずただテレビでその災害の度合いを目にして我が身の幸運に安堵するばかりである。ついていたと思うのはバチアタリか。

 実は午前中、庭のイチョウの木の枝下ろしをやっていて、今日はその最終段階で、高所約20m近くの木のてっぺんに登っていた。丈を詰めるため、切れないノコギリで、安全帯もなしにゆらゆらと二階の屋根がはるか真下に見える位置で必死に幹に片手でしがみつき片手で木の幹を切っていた。
 子供の頃から木に登って遊び、木登りで怖いとか思ったことがない自分だったが、今日は何故か下を見たら足が震え、落ちたら間違いなく死ぬと思い震えが止まらなかった。こんな気持ちは初めてだった。
 そしてそれを終えて午後の地震である。断言するが、木のてっぺんにいてあの揺れをくらったら間違いなく落ちていたと思う。まさに危機一髪、午前に終わらせ木から降り室内にいたから助かった。改めて自分の運の良さを噛み締めた。ほんと運が良かったのだ。あの怖さは予知から来たものだったのかもしれない。

 今回の地震、まだ被害も含めて全貌がわからない。運よく何も被害がなかった者がとやかく言えるとは思わないが、ある意味、こんな地震は地震大国日本には想定のうちであったはずであり、これで被害があるのは政治の責任ではないかと思える。
 もちろん自分も含めて来るとは予想も想定もしていない。しかし、このところ世界中の天変地異を思えば来るべきものがついにこちらに来たと長期的には半ば予想内のことではなかったのか。政権死守のため下らない政治抗争に政治家たちがうつつを抜かしているうちに、世界、地球は目まくるしく動き変わっていく。政治が社会や世界の動きについて行っていないと思うのは自分だけか。慎太郎の臆面なく都知事選出馬会見に合わせて地震が起きたのはまさに何かの符丁ではないのか。

 まあ、関西の友人からも早くもメールで地震見舞いのメールが届いている。思いは沢山あるが、こちらは全く無事である。ただ、都内の高層マンションに住む友人、それに千葉の親戚からの連絡ではモノが倒れ落ちたり瓦が落下したりとかなりの被害があったとのこと。

東日本大震災から一夜明けて2011年03月12日 22時04分54秒

★何も変わらないこちらと壊滅的状況の東北太平洋沿岸部

 大地震から一夜明けた。関西や海外に住む友人たちからはこちらの安否を案ずるメールや電話が何件もあった。有難く申し訳ない。

 昨日のブログでも書いたが、昨日の揺れはかなり激しく記憶にない大きさの地震だったと思うが、ウチの被害と呼べるものは、積み上げていた雑誌の山が崩れたことと掛け時計が落ちたぐらいで、電気もガスも水もパソコンも何ら異常なく通じていて、ご心配頂いて申し訳ないぐらい何でもなかった。
 ただ、電車は昨日は全く動いていなかったので、招いて庭のイチョウの枝下ろしや床のニス塗りなど手伝ってもらった世田谷在住の友人は帰宅できずに、夜遅くまでテレビ見ながら酒呑んで一泊して今朝方電車が動き出したのを確認して帰ってもらった。

 昨日からテレビでは主に東北の太平洋沿岸の町々の津波による被害の様相を映し出していてその規模の度合いの激しさに驚かされ暗澹たる気持ちになっている。
 そして今朝方犬と散歩して、今自分の住んでいる町の平穏さ、地震などあったことが全く何も感じられない変わらないいつもの日常に違和感のような不思議さを覚えた。向こうでは人々が逃げまどい助けを求めるあんな惨憺たる状況が今も続いているのにこの穏かさはいったい何なのか訝しくさえ思った。悪夢のようなという言葉があるならこれもまた夢かもしれないと思ってしまった。

 東京でも都心の高層マンションに住む友人は、揺れの激しさに室内のものが落ちたり倒れたり散乱しガラスも食器も割れて元通りに戻すのが大変だと連絡があったし、千葉に住む叔母と電話がようやく繋がったら、瓦が落ちたりの被害があったとのことで、やはり都心部、沿岸部の方が被害甚大だとわかってきた。
 自分は家で仕事しているので考えもしなかったが、昨日は平日金曜日でもあり都心に通う勤め人の多くは交通機関がマヒして昨晩は帰宅難民となってしまい、家には戻れず会社などに泊まった方も多数いたようだ。

 大地震があったことを感じさせるのは、昨日から続いている余震だけであり、寝ていても昨晩からグラグラ、みしみしと何度となく揺れて、こちらももはや慣れて、あれほど強いのはもう来ないと、ああまたかと思う程度となっている。
 ただ、スーパーなどでは北関東方面からの物資が入荷しないのと買い込みする人が多いからか、棚はガラガラのところも多く、本の発送も今日になって溜まっていた注文本を出しにヤマトの営業所と郵便局に行ったらば、北関東から東北、北海道までの便は現在受け付けないと突っ返された本もあった。また、関西方面でもいつ到着するかはまったくわからないと念を押されて、改めて地震の余波がこんなところにまで及んでいるのだと思い知らされた。

 中国の古い諺に、「桑田変じて海となる」という言葉があるのを今回の地震、そして津波が押し寄せた地区の映像を見て思い出した。この諺は世の移り変わりの激しさを喩えたもののはずだが、大地震後わずか30分そこらで、一瞬にして津波が押し寄せ、人々が営み、暮らしていた町は海に飲まれてしまった。予想だにし得ない天変地異とはいえ、これが東京下町のゼロメートル地帯であったら、都心部はほぼ壊滅してしまうに違いない。
 こんな地震列島の海沿いに無謀にも原発をいくつも作るような我々の現代文明自体が今回の大地震で試され、オール電化神話に頼るその常識すら揺さぶられていると思える。

 これで地震は収まるわけではない。明日は我が身、いよいよ東京だと自戒した。

沢山の人々の人生が一瞬にして喪われた。2011年03月13日 21時57分45秒

★ずっと本やマンガで想定されていたことが現実になるとは

 大地震から二日半過ぎたのに、被害は収まり全容がはっきりするどころか、事態の全貌がさらに明らかになりつれさらに拡大していくことは間違いない、大袈裟でなく有史以来のとてつもない大惨事だとわかってきた。原発の事故もどうなるか非常に不安である。

 東北現地の惨状はテレビでさんざん報道されているが、ニュースにならなくても東京都心や千葉など近県でもかなりの被害が出ているようだ。友人の住む都内湾岸部のマンションでは人命に異常なくても室内のモノが倒れ落ちガラスなどが割れ散乱し片づけに追われて未だ生活再開のメドが立っていないとのことである。

 自分の家や近所など多摩地区は幸い大したことなかったので事態がもう一つピンと来なかったのだが、近いうちにまた大きな地震が誘発されて起きる可能性もかなり高いとのことで、不安感は今頃になって高まってきている。こんな現実がじっさいに来るとはSFやマンガでさんざん近未来パニックについては想定され描かれ読んではいたが未だ実感がわいてこない。世界の終わりとか破滅という言葉が現実味を帯びてきている。いつかこんな日がこんなことが来ると誰もが薄々と思っていたことがついにやってきたのである。

 憤りに近いような様々な思いがわいてくるが、今ともかく思うのは、東北地方太平洋沿岸部の町々に住む人々の命と暮らし、つまり彼らの人生が巨大地震とそれによってもたらされた津波のためにあっと言う間に失われてしまったことに対する怒りと哀しみである。
 未だ助けを求めている人々も多数いるだろうし、命は助かったが、家族と離ればなれになり今不安と心配の只中にいる人々の心中はいかほどであるか想像しただけでも胸が塞がれる思いがする。

 今はまだ災害救助ボランティアも現地に入れる状況ではないようだし、自分も家族のこともありとても行けないのはわかっているが、テレビでこの被害を見るたび何かできることはないものかと奮い立つ気持ちがある。これは紛れもない天変地異である。しかしそこに政治の責任も間違いなくあるし、被災を逃れた者がすべきこと、できることは必ず何かあると思える。

 人は皆、ささやかな平穏なありふれた日常を生きている。そしてそれこそが実は幸福なのだと気がつく。大地震は一瞬にしてその幸福を人々から奪いどん底に突き落としてしまった。
 しかしそんなときだからこそ人は助け合い共に何かできることがあるのではないか。この数日ずっとそのことを考えている。パンドラの箱は開いた。ならば絶望の中にこそ希望があるのだ。