時は過ぎ行く2012年06月01日 07時40分13秒

@Oギャラリー・中央区銀座1-4-9 第一田村ビル3階 03(35677772
★6月に入った。

 またいつもようにやや早めに6時頃には目覚めた。外は曇り空、弱い雨がしとしとと降っていた。薄着だとうすら寒い。昨日も一昨日も曇りがちだった。もう6月なのである。今年もまた梅雨のシーズンに入る。それがあければ夏が来る。1年は足早に過ぎていく。

 昨日は久方ぶりに有楽町から銀座に出て、友人の日本画家のギャラリーでやっている個展に顔出した。その人は年下の友人の奥さんで家族ぐるみのもう20年以上の付き合いがある。その家とは、ウチで生まれた子犬をもらってくれたので犬の親戚でもあった。彼女はその犬をモデルに多くの作品を描いていた。そこの犬はウチに今いるカミナリ怖い黒犬、ブラ君と同時に生まれた一匹であった。母親はこの4月末に死んだロビンである。

 が、あろうことかその日本画家のところの愛犬も今年の1月末、癌であっけなく死んでしまったとのことで、そのことを記した個展のお知らせハガキが届き、ならばこそ会期中にどうしても顔出そうと考えていたのだ。個展は亡き犬への深い愛情が絵から伝わってくる良い絵ばかりであった。ああこの犬ももういないのかと少しホロリとさせられた。

 ロビンは二度目の出産の時、じつに7匹の仔を生んだ。子犬の時、貰い手を捜すために、子犬らを全員連れて行き近くの昭和記念公園で、友人知人たちに声かけて子犬の里親を募るパーティーをやった。そのとき、その日本画家一家へとあと数匹貰われて行った。けっきょく広告なども出して最後は黒いオスだけウチで飼うことにして幸い全員貰い手があった。
 そのとき来てくれて、人集めの手配をしてくれ一度目の出産のときの仔を飼ってもらった女性も数年前、皮膚がんで若くして死んでもうこの世にいない。今回、ギャラリーでロビンも死んだことや皆子犬だった頃の過ぎた日のことなど話しているうちに改めて時の過ぎる早さに心を打たれた。無常感に苛まれはしないが、犬は人よりも早く歳をとり10数年で死んでしまうのだとわかりきったことが深い哀しみとしてひしひしと迫ってきた。

 何だかすべてが夢のような気がした。このところずっと覚めない夢の中にいる気がする。悲しいけれど泣いてばかりでも落ち込んでもいられない。そう、あの世の有無はともかく、全ては共に生きている間だけなのだと心して精一杯愛してしっかり生きていこうと誓って中央線の高架下を神田駅まで歩き続けた。

これから新潟へ2012年06月02日 08時03分53秒

ライブの会場で看板を前にした有馬敲氏。
★よく晴れた朝である。これから新潟へ藤しんいちろう氏と出かける。戻ったら書き足して報告いたします。

有馬敲コンサート大成功! 無事帰京しました。2012年06月03日 22時17分24秒

★もう意識朦朧、足腰立たぬほど疲れてはいるけれど・・・。

 向こう、新潟市巻町を昼12時半に出て、途中一回だけPAで昼食を兼ねて休憩したものの、ちょうど5時間かけてウチへ戻ってこれた。行きより1時間時間がかかった。
 今日は、特にもう予定もなく、有馬敲さんをホテルに迎え行って、昼まで古民家でのんびり雑談を交わして午後の新潟空港から飛行機に間に合うよう、今回このイベントの頭、たっつあんに昼に有馬さんを託してから一路東京にまた関越道で帰路に着いたのだ。

 おかげ様でコンサートはかなり多くの参加者があり、そのことも含めて大成功に終わったと報告できるかと思う。詳細はこれから時間かけてこのブログともう一つの方でおいおいアップしていく予定だが、今はともかく成功裏に終わったことと、無事に帰宅できたことを喜びたい。

 そして自分の「役割」を果たせたことを本当に嬉しく思い深い感動、感慨に心は満たされている。そう、己惚れついで言うと、自分の存在がなければ、有馬敲と新潟フォークの人たちが結びつくことはなく、このコンサートもありえなかったということだ。つまり全ての根幹は増坊が関係し動いた結果にあったのだから喜ばしく思わないはずがない。

 有馬さんも大変満足されたようだし、新潟のシンガーたちも感謝してくれて、おまけにお客も大勢来てくれたのだから、何一つ不満も思い残すこともない。心満ち足りた。たまにはこんな日もある。

詩人とミュージシャンとの間に①2012年06月04日 16時37分05秒

コンサートが終わった翌日、旧庄屋・佐藤家へを訪れた有馬さんと藤しんいちろう氏。
★大まかな報告記を記していく

 新潟から帰ってきて一夜明けた。今、翌月曜の夕方。
 足が笑う、という言葉があるが、ウチから新潟まで行きに332キロ、向こうで向こうでガソリン入れて帰りに329キロ、往復で650数キロ走り続け、その間ずっとアクセルを踏み続けた右足の膝はもうガクガクである。その他、何もしていないのに同じ格好をしていただけで、腰や肩は凝り固まって痛い。体の節々がだるく痛い。でも気分はすっきり爽快である。行って良かった、終わって良かったと今心は満足している。

 昨晩は、枕元のスタンドの明りもつけたままあっと言う間に眠りに落ちた。泥のように深く眠り気がついたら朝だった。今日月曜は、母の血液検査で立川へ連れて行く用事があり、午前はそれで潰れたが、昼食にそうめん茹でて食べさせてから、親たちはデイサービスに行ったので午後少しだけまた昼寝しようとベッドに衣服のまま横になった。そしてまた再び深く眠ってしまい夕方に起きたというわけだ。

 これから何回かに分けて今回の新潟行のことをまずは文章で報告していきたい。お付き合い下さい。

 今回の新潟の旅、旅と言うほどの長さもなく、たった一泊二日間であり、それも土曜日の朝出て、その日に肝要のイベントがあって、一晩泊って翌日はもう昼には帰路についたのだからごく簡単なものであった。それでも大いに気分転換になったし、この程度の長さで助かったと思っている。

 というのは、自分にとってどこへでも行くこと、旅という類のことは癒しでも休養でも全くなく、真逆の苦行のようなものであり、ともかく現地ではのんびりできずあれこれ動き回って忙しく、夜は夜で呑んで騒いで深夜まで起きて、それでいて朝は早朝から起こされたり起きねばならず、期間が長くなるほど疲労は蓄積してくる。まるで疲れ果てに行くようなものなのだ。

 特に前回の新潟公演旅行は思い返しても辛かった。残してきた老犬のことで気が休まらないこともあったが、そもそも行く日の前の晩もほぼ徹夜状態で、向こうでも初日は多くの皆は先に眠ったのにずっと明け方まで話して起きていて、寝たかと思うと朝6時過ぎ起こされ近くの日帰り温泉施設に連れられて行き、二日目は、もう頭痛がひどく起きていられず開場時間までの間、その公演施設の倉庫にもぐりこんで仮眠をとってなんとか体力回復できた。そしてその晩、主催者の家で布団敷いて頂きようやくぐっすり短時間だけれど深く眠れた。

 幸いそのときは行き帰りも車は人様の運転で自分はただ座って道中バカ話をしているだけで良かったのでじっさいのところ体力的なことは何一つしなかったのに、戻ってから一週間は疲労感が残っていた。いや、それはもっと長く続いたのかもしれない。

 今回は、行った当日にすぐイベントがあったことも勢いとして良かったし、睡眠不足は相変わらずとなっても一泊で向こうを発てたのも良かった。これがもう一泊あったらさらに疲労は蓄積して疲れのあまり帰り道の関越道で居眠り運転を起こしていたに違いない。有馬さんの教えであるが、ともかく無理はせずに一つのことに絞ってあれもこれもと詰め込むことはすべきではない。できるだけ要件だけ済ませたらば早く帰るに尽きると今回は痛感した。

 さて、まだそんなどうでもいいことばかり書いて、肝心の有馬敲さんと新潟のシンガーたちとのコンサートについて何もふれていない。そのコンサートもいろんな意味で面白く、刺激を受けて考えさせられること大であったが、今回の収穫としてもう一つあった。

 それは、コンサート会場に近い地元福井地区にある旧庄屋、佐藤家というわらぶき屋根の巨大な古民家に泊まれたことで、憧れだった農家の囲炉裏を囲んで食事もでき、大広間で寝て二日目の午前はそこで有馬さんとのんびり雑談もできたことだ。自分にとって望外というか、予期せぬ歓びであり、まさか本当の古い民家に宿泊できるとは思ってもいなかった。そこのこともきちんと報告しておきたい。また、ぜひ関心有る方は東京からご一緒してその佐藤家にお連れしたいと考えている。文化財級の築250年の農家に気軽に宿泊できる機会などまずこの辺ではありえない。内部の様子などもおいおい別ブログのほうでアップさせたい。

 その他、詩と音楽の違いではなく、詩人とミュージシャンとの違いということについてもいろいろ考えされ気づくところ大きかった。自分にとっては詩も音楽も表現行為において全く差はなく違いも感じないのだが、それぞれの観客、聴き手は大きく異なる。その違いはいったいどこにあるのか答えはまだみつからないが、考えてみたいと思う。

 今はいろいろ刺激を受けて、また今夏に向けて一つ一つきんとさせて頑張りたいと決意を新たにしている。まずは今月10日、ウチで催す手作り味噌作りパーティ、どなたでも気軽にご参加を。遊びに来てください。新潟のお土産も出します。

詩人とミュージシャンとの間に②2012年06月05日 21時08分17秒

旧庄屋を訪れた有馬さん。
★新潟には関西フォークの精神が今も残っている。

 今日、火曜日は雨は降らなかったものの一日曇り空。季節はずれの台風が来ているそうだが、気温は低くうすら寒い。また午後になると起きていられず夕方まで寝込んでしまった。まだ足腰の痛みとだるさは続いている。たった一泊二日の移動でも後遺症が残るのはもう若くないしるしだと痛感する。それにしても体力のなさに呆れ果てる。

 さて、新潟から帰ってきて二晩過ぎた。撮った写真とか録音は一応パソコンに取り込めた。問題はこれからそれを整理して画像は厳選してブログに上げたりCD-Rに焼いたり印刷して関係者に渡せるようにしていく。。音源もそうしてCDに焼かねばならないのだが、家業や家事、雑事など優先事項もあるので、ブログでの報告もなかなか旅の後始末が進まない。それでも前回に比べれば今回は急ピッチである。それは師匠にまた身近にふれたからであろう。そう、有馬敲さんは、自分にとって詩の師であり、生き方の手本でもあるからである。

 今回のイベントの件でもコトにおいて、彼の用意周到さ、万全の準備に舌をまいた。人種が違うと言ってしまえばそれまでだが、長年銀行員という超堅い仕事を勤め上げ、その傍ら多忙な会社勤めと家庭生活の間を縫って立派な芸術活動を続けられた「人生の天才」の生き方処世術は学ぶべき点ばかりだと断言できる。自分も彼から学んだ、実業と芸術の調和、折り合いのつけ方を少しでも実践しモノにしたいと願っているのだ。

 さて、冒頭の「新潟には関西フォークの精神が今も残っている」とは、今回の新潟での詩とフォークソングのコンサートを終えて、有馬敲氏が新潟のフォークシンガーたちを評して述べた発言なのだが、このイベントに関わった者としてはその意味はよくわかるものの、このブログの読者にとっては漠然としすぎておそらく伝わらないかと思う。そもそも「関西フォークの精神」とか真髄、スピリッツというものがあるとしたらそれはどういうものなのか説明がなくてはならない。

 中津川フォークジャンボリーに象徴されるフォークムーブメントというようなフォークソングブームがかつてこの国にはあった。それは今から約40年も前のことで、60年代末から70年代前半にかけてのことだ。学生運動や反米安保闘争などとも深く関連して、当時の若者たち、戦後生まれの団塊の世代と揶揄された学生を中心とした若者は、皆フォークソングの集会へ行き、街にはギターを抱えた長髪の「戦争を知らない子供たち」がいっぱいであった。

 そして今、21世紀も10年以上過ぎた現在、そうしたかつての若者たちは皆還暦を過ぎる年代に至り、退職を迎えヒマと金を持て余したせいか、再び青春時代の趣味、フォークソングに戻ってきている。今、全国各地にフォーク酒場というような店ができて盛況なのだときく。手元にあるそうした店のチラシには「昭和の懐かしいフォーク&ポップスをお客様が弾き語りするお店です」とある。つまり、そこへ行けば、ギターの心得が少しでもあれば、客は誰でもカラオケのように自分の好きなたくろうや陽水のナンバーを思う存分歌えるのである。ギターもそこには置いてあるそうだし、店のマスターが合わせてリードをつけてくれたりもしてくれる。また、そうした中高年中心のフォークサークル、団体も各地にあり、通称おやぢフォークというような中年親父たちの音楽活動も盛んである。これは良いことだろう。趣味として音楽が身近にあり、誰でも自ら好きな音楽ができる時代はとても良い平和な時代であるのだから。

 しかし、私ごとを言えば、自分はそうしたフォーク酒場には行ったことがないし、おそらく生涯そうしたところに行く気もその時間もない。自分もそこで唄う気持ちもないということもあるが、その行為を否定はしないものの、カラオケ的に出来合いの楽曲を自ら弾き語りしようが、素人が歌うのにお付き合いするほど暇ではないという気持ちでいる。いや、言葉が過ぎた。素人とかプロとか、巧いとか下手とかはそもそも関係ないことだ。自分にとってそんなことはどうでも良いことであり、問題は一つだけ、うたの必然性がそこにあるかどうかだけなのだ。それは、人前で唄う必然性と言い直してもかまわない。
 他人の作った、出来合いの曲でもかまわないが、何故にその曲を唄うのかということだ。単に好きな曲だから懐かしいからというだけならば自分が唄いだけであり、それでは人には伝わらない。そこにもっと強い何かがなくては、うたは唄として成り立たないと考えている。極論を言ってしまえば自分のうたいたいことは他人の作った曲の中にはなく、下手くそであろうとも自らが作ることこそがうたの本道だと考えてこんなことを書く。もし関西フォークの精神というようなものがあるとするならば、そうした既製品を排して手作りのところから出発したのがうたの原点だということであろう。
 ※長くなるのでもう少し続きます。

詩人とミュージシャンとの間に③2012年06月06日 16時19分53秒

関西フォークの精神を今に残す唄い手たちを束ねるたっつあん(左)自身も巧みな良いシンガーである。
★関西フォークの精神とは

 《前回の続き》
 1970年を前後して、学生運動、ラジオの深夜放送など当時の世相と相俟って、この国にはフォークムーブメントの嵐が吹き荒れた。そして広島にはよしだたくろうの広島フォーク村(浜田省吾もここから出た)、沖縄には佐渡山豊らの沖縄フォーク村など全国各地あちこちにギターを手にした若者たちによる集団組織、グループが生まれる。そして規模こそ違えどおそらく今も各地方ごとにそうした「フォーク村」は存在し、地元で地道に音楽活動を続けているアマチュアミュージシャンは多くいることは間違いない。

 が、聞くところによるとその中には、彼らの催すコンサートでは、歌い手自らの作ったオリジナル曲は禁止というところもかなりあるのだそうだ。理由は簡単で、知らない曲だと皆で一緒に唄えないし楽しめないからだそうで、おそらくそこでは、フォークのスタンダード曲、誰もが知っている「遠い世界に」とかを参加者全員で合奏合唱したりするのであろう。
 その話を聞いたとき思わず耳を疑ってしまった。むろん音楽の楽しみ方はそれぞれであり、こうせねばならないということはあってはらない。しかし、それでは大昔の「うたごえ」運動と同じだと思うし、古めかしい既製のうただけしか唄ってはならないというのでは、それはかつて関西から興ったフォークソングムーブメントの理念、精神に反している。

 言うまでもなく、フォークソングの原義はともかく、若者たちの間に大ブームを起こしたフォークムーブメント=「運動」は、まずもって若者たち個々の問題意識を題材にした自作自演が原点であった。既製の歌謡曲、プロの作曲家、プロのシンガー、大手レコード会社が商売として生産する「うた」に対してのアンチテーゼとして、素人が拙いギターでも自分の唄いたいことを自らうたにして唄うことから始まったのだ。

 ただそうした運動から岡林や高田渡らスター、人気者が生まれやがては拓郎、陽水という大ヒットメーカーが登場してくる。スターにはファンが付く物だから誰もが彼らの楽曲をコピーして練習し自らもその曲を唄うようになる。それもまた「うた」が伝播し一般大衆に広く浸透していく当然の流れだが、そこに留まってはならないはずであった。フォークソングの原点とは、誰かが作った誰でも知っている出来あいの既製品の楽曲をより巧みにそっくりに唄うことではなく、自らの言葉で、自分の唄いたいことを下手くそでもうたうことにあった。そしてそれを聴衆を前にして伝える行為がフォークソングなのだと自分は考える。

 残念なことだが、アマチュアのコンサートに招かれて行くと、かなりの確率で拓郎、陽水らのヒット曲をかなり聴かされることが多い。それは高田渡であろうと同じことであって、いかにギターがそっくり巧みに、唄が本物より上手かったとしても何の意味もなさない。むろん、自ら作った曲の合間に1~2曲、敬愛するシンガーの好きな曲を入れるのはプロだってよくやっていることで何も問題ない。問題は自分の楽曲がないのに他人の作った既製品しか唄わない人である。換言すればそれは自演のカラオケであり、いくらうまく唄えたとしても人に聴いてもらう価値はない。いや、そうしたサークルの仲間内で披露し合うのはかまわないが、コンサートとして金がとれること、とるべきことではないと自分は考える。無論他人の曲でもそこに何らかの解釈やそれを演る理由がこちらに伝わってくれば良いだけのことなのだが。

 新潟フォーク村、という言葉はないし、そんな団体もないのだそうだが、昨年の初夏、ふとしたきっかけで何の知識もなく、新潟へ行き地元のフォークシンガーたちの出るコンサートを観たのだが、いちばん感心し驚かされたのは、その演奏レベルの高さもであったが、誰もが自らのオリジナル曲と独自の演奏スタイルを持って活動を続けていたことだった。
 自分にとって当たり前のことが、残念なことに今では当たり前でなくなってしまっていることの多い昨今、それは嬉しい驚きであった。そしてその理由はすぐにわかった。新潟フォークサークルのリーダー的人物、たっつあんという人が、そもそも大学時代に京都にいた人で、ちょうど60年代末、関西フォーク華やかりし頃、その渦中に身を置いていた方だったのである。だから関西フォークにおける、ことばの理論的指導者・有馬敲氏のファンでもあって、今回、不肖増坊が仲介しこうして新潟に有馬さんを招いて「自作詩朗読とフォークソングのコンサート」、正しい公演名「詩とうたLIVE 有馬敲と新潟の歌い手たち」が実現したというわけだ。

 そう、ゆえに、たっつぁんを通して新潟には今も関西フォークの精神、スピリッツは脈々と息づいているのは当然至極であったのだ。

第3回隅田川フォークフェスのチラシが出来ました。2012年06月06日 16時51分55秒

★詳細は画面をクリックしてお読み下さい。
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STOP!社会の貧困・教育の貧困フリーコンサートのチラシ裏面2012年06月07日 22時13分04秒

画像をクリックすると拡大されます。

詩人とミュージシャンとの間に④2012年06月07日 22時20分38秒

昨今人気高い藤しんいちろうが会場を沸かせる。
★うたはそもそも「世につれ」なのである。

 と、書いてきて、では関西フォークとは、自作自演のうた、そうした作者自らが作ったうたを自分で唄う行為なのだと思われるかもしれない。
もちろんそれも大きな要素であるが、それなら単に今でも数多いるシンガーソングライターということになってしまう。今のしょうもないJポップだって、その多くが唄っているミュージシャンの歌詞も曲も自作自演ということが多い。まあ、そうした系譜の祖、シンガーソングライターと呼ばれるルーツは拓郎、陽水ら、元々フォーク畑から出たヒットメイカーがヒット曲、売れるアルバムを生み出し、やがて荒井由実、のちの松任谷由実というニューミュージックの祖によりそのシステムが一般化したからであるが。しかし、関西フォークのスピリッツはそれだけではないはずだ。

 本場米国のフォークソングとは、ディランやスプリングスティーンにも多大な影響を与えた二大巨星、ウッディ・ガースリー、ピート・シーガーの楽曲を見ればわかるように、そのほとんどが、トピカルソング、またはマーダーソングであった。トピカルソングとは、時事ネタを唄の題材にしたものであり、マーダーソングは文字どおり殺人事件を唄ったもので、フォークとはそうした事件をバラッド、つまり物語うたとして「うた」にしたものであったのだ。あのボブ・ディランだって、初期のアルバムのほとんどがそうした曲で占められていることに気がつくだろう。※誰がディビー・モアを殺したのか、八ッティ・キャロルの淋しい死他参照。

 それは高石友也や高田渡が評論家三橋一夫の示唆により目を向けた明治大正の日本の演歌師たちのうたと近似であり、そのときどきの世相や憤懣やるせない政治ネタなどを「演歌」にし世相を批判したように、向こうのフォークも本来はそうした事件をうたにして告発することが大きな要素であった。まあ、もちろんそれだけではなく、遠く離れた恋しい故郷や別れて会えない恋人、死んだ人を偲ぶうたもまた多いが。

 つまり関西フォークとは、そうした本来のフォークソングのスピリッツに則って、政治や世相を風刺しうたにして批判したり笑い飛ばすという側面も大きく持っていた。ゆえに、社会派フォークとか、プロテストソングとかマスコミから評されたし、毒にも薬もならない従来の歌謡曲とは明らかに異なる強いメッセージ性とどんなことでもうたにしてしまう自由な柔軟性を当初からはっきり持ちえていた。大手レコード会社の自主規制組織レコ倫では絶対に許可しないような性的、反体制的なことを題材にしたものでも彼らはうたにしたし、関西フォークのアーチストの拠点、URCでは自主制作的に自らシンガーのライブ会場や会員制通信販売で売りさばいていたのである。

 だが、そうした時事性、社会的メッセージ性を強く持っていた関西フォークムーブメントもURCが1970年代半ば過ぎに事実上倒産してからは、完全に立ち消えてしまい今では社会派フォークは一人御大中川五郎のみが今も元気に孤塁を守っているだけとなってしまった。しかし、新潟では、現在は東京に居を移した藤しんいちろうというシンガーがいて、かつての岡林的コミカル風味の風刺ソングや時事ネタを巧みに取り入れた笑わせる自作曲で、ステージをいつもおおいに沸かせている。そうした風刺性のあるシンガーを生み出したということも有馬敲言うところの「関西フォークの精神」が今も息づいているということなのだと推測できる。

 そう、うたとは誰が何をどう唄ったって全くかまわないものなのだ。だのに巷には、あなたに会えなくて淋しいよとか、いつもきみのこと見守っているから元気を出して、大丈夫だよ、とか愚にもつかない失恋歌や下劣な応援ソングばかりはびこってうたは自縄自縛にがんじがらめにされてしまっている。うたとはもっともっと自由なものではなかったのか。誰もがうたいたいことを自分の言葉で自分の方法で自由にうたってかまわないはずだ。実はそれこそが有馬敲が関西フォーク黎明期から今に至るまで全国行脚で実践して示している「生活語詩運動」の思想であり、フォークソングのフォークは、フォークロア、民芸だとするならば生活語とはとりもなおさず「フォークソング」を指している事に思い至る。

 つまり本来のフォークソングの正しい継承者たちが今でも新潟には沢山残っているわけで、今回の有馬敲と彼らの出会いは、喩えれば長崎の隠れキリシタンの村に明治になってカトリックの枢機卿が訪れたほどの運命的な「再会」であったのだなと思える。
 その場に立ち会えたこと、またそうした場を藤しんいちろう氏とお膳立て出来たことの光栄を噛み締めている。