詩人とミュージシャンとの間に⑤2012年06月09日 23時06分40秒

今回大きく注目を浴びた、詩人とフォークシンガーとの狭間で長年蠢いてきたワンコードの畏人そうだみつのり。
★詩人たちよ、もっと表へ、外へ、歌い手よ、もっと内へと

 詩人とフォークシンガー、それも自作自演の歌い手の間に違いや差異はあるのだろうか。

 自作詩朗読の有馬敲さんと、これまでも何回かあちこちで詩人とフォークシンガーとのジョイントコンサート、カップリングの企画を催していつもいろんなことを考えさせられる。詩の朗読とフォークソング、うたとは似ているもののようでまたかなり違うものであり、果たして一緒に行うコンサート全体として捉えた場合うまく一体化しないところに課題があり、またそこに逆に面白みもある。ゆえに、企画する側からするとそのどちらの側の観客にとっても戸惑いや違和感が生じ、それを体感させることこそが企みの妙であるかと思えてきた。
 有馬さんに言わせると、関西フォークの全盛期に、「ばとこいあコンサート」として京都のお寺で高田渡らと詩とフォークソングのコンサートを催していた頃も双方はしっくりと来なかったのだそうだから。

 芸術とはつまるところ内面の感情の吐露であり、その表現行為であることに異論はないであろう。ならば、詩人もフォークソングも基本は同じところから出発しているはずだ。また、音楽や詩作だけで飯が喰っていける人など東京でもほとんどいないのが現実だから、もとよりプロとかアマチュアとの境界は全く意味をなさない。詩人など大昔から「貧乏詩人」という慣用句で常に語られるぐらい商売とは縁遠い職業であった。※歌謡曲などの作詞家以外は。そしてそうした詩人やシンガーはどの地方にもいて地道に活動を続けているのである。

 それは俳句や短歌が何はともあれ結社や一門を常に作り、そうした集団内で師と弟子筋の関係からいくらかでも金銭が動くのに対し、詩の世界は基本的には個々の活動中心の一匹狼性の高いジャンルであったからかと思える。ゆえにその師に学び倣うというシステムがないことは、フォークソングと近しく、その自立、自由性はまさに兄弟的関係にあるはずだ。

 だが、詩人とフォークシンガー、つまり詩とうたが同じステージに並ぶとなかなかうまく場は流れないし融合することは難しい。それは優劣ではなく、音楽の方には時に盛り上がりがあるのに対して詩朗読は淡々と常に進んでしまうからであろう。思うに、うたとは、作っているときはともかくも常に観客、聴衆を求めそうした人前で演ずることを前提として存在している。が、詩、詩作とは、基本的に常に個人的作業で結実してしまうからではないか。むろん、同人誌に発表したり、作品が溜まれば自費出版的に詩集として世に出すことは多くがしよう。が、おそらくかなりの詩人はあまり人前で自作詩を朗読することも少ないし、中にはそもそも文字として字ずらを目で追うことのみを目的として書かれ発表している詩人も多いのでないか。

 欧米では、ポエトリー・リーディングという文化が古くからあり、自作詩に限らず、学校の授業などでも詩や文学の一節の朗読や暗誦するという行為が伝統的に行われている。日本でもかつては、江戸から明治にかけての教育として寺小屋的環境では、論語をはじめ漢詩を声に出して読み暗誦することが推奨されていた。ところが教育水準が高まるにつれて、そうした声に出して読む文化が廃れ、詩に限らず文学とは目で文字を追うこと、黙読することに代わってしまった。

 しかし、ことばとは、そもそもが文字の前にあるものであり、文字から言葉が生まれたのではないのだから、常に音声を伴うはずのものであった。ゆえに詩も本来は文字にする、文字で書かれる前に、声に出して詠まれるべきものではなかったのか。
 有馬敲が何十年も前から提唱している生活語詩運動、つまり、身近な話し言葉、自分の普段使っている日常の言葉で詩を作り、それを作り手自らが朗読するという行為を伴う運動こそ詩本来の根源に肉薄することであり、詩の復権なのだと思えてきた。

 ならば詩人はもっともっと人前で自作詩を自らの肉声で披露すべきであるし、詩人の側から身体表現としてのフォークソングにもっと近づいても良いような気がしている。詩とフォークソングは別のものではない。もともと同根のところから出発しているはずのものならば、ぜひそうした差異を双方が確かめるためにも共にステージに上がる場を設けねばならないのである。
 極論を言ってしまえば、フォークシンガーは逆にメロディからことばを解き放つ必要があるし、用いることばそのものにもっともっと深く留意すべきかと考える。今思うのは、自分の発したいことばにこのメロディは果たして適しているのかと。