続・きみのうたを聞かせてよ2012年09月27日 09時39分10秒

★すべてのことはメッセージ、そしてチャンスのとき。

 このところ気温が低くなったから陽射しが暖かく感じて有り難い。今日もひんやりとした爽やかな風が吹いている。一年でいちばん気持ちの良い季節となった。空気がおいしい。

 今回、無頼庵で催す「フォークソングのワークショップ」をあまり宣伝活動していないのは、一つは今ちょっとその前にやるべき作業を抱えていることと、来る人は来てくれるだろうという「達観」もあるからだ。
 それは言葉が届く人には届くしわかる人にはわかるのと同じく、それを求める人、必要としている人にはそれが届くと信ずるからだ。むろんより広く大々的に宣伝を時間かけて行えば周知が広がり求める人、参加希望者は当然増えよう。しかし今はまだそのときではないと思うし、地道に少人数のところから始めてみたいとも思える。
 これは商売でもないし、別に文化的意義や行う価値があるものでもない。あくまでも自分の中でずっとながい間考え続け、追い求めている「フォークソングとは何か」「人は何をうたにすべきか」「何を人はうたうのか」「うたとは何か」というそもそも答えが簡単に出ないことを俎上に上げて、参加者と共に考えていく試みに過ぎない。いわば人のためにやることではなく、何よりも自分のためのことでもある。

 しかし、もう一つどうしてもこだわりたいことは「ギター教室及び曲作り」ということで、願わくば、それまでギターが弾けず、人前で唄うことなどなかった人、できなかった人が、人前で自らの弾くギターで自作の曲をうたえるようになってほしいと切に望む。それができたら素晴らしいことではないか。違いますか。

 「フォークソング」、という手垢のついた言葉から受けるイメージは決してあまり良いものではないかもしれない。たぶん、貧乏臭いとかダサい、カッコ悪いという印象を持つ方もいるだろう。しかしそこから離れて、自分の手と声で、自分の言葉で自分のことを「うたう」行為だと考えたらどうだろうか。それはさほど難しくない。多少のやる気さえあれば誰だってそれはできる。そのことのお手伝いができたら光栄だと思う。
 自分は名もない素人で、誰からも学んだことはないに等しいが、今はようやく古い歌謡曲を中心に数十曲だが自らのギター伴奏で唄えるようになった。これはすごく楽しい。面白い。アコーステックギターさえあればどこでもいつでもカラオケのマシンがなくても自分の好きなうたが唄えるのである。
 そこに巧拙は関係ない。プロではないのだから金もとれないが誰からも文句も批判も受けない。ただ「うた」はそこにあって、自分のものにすることができ、好きなとき好きなように唄うことができる。いくつかのコードさえ押さえられれば、唄うだけでなく曲を作ることだって簡単だ。自分の「詩」がなくたって、気にいった詩がみつかればメロディーをつけて唄にすれば良い。うたいたいことを気軽に自分のスタイルでうたっていく。
 
 フォークソングとは、そもそもそんな単純なものなのだ。芸術性、音楽性はむろんあったほうが良いだろうが、なくたってちっともかまわない。それよりもっと大切な必要なことは、その人だけのオリジナリティであろう。自分だけのうた、その人だけしかうたえないうたが聞きたいと思う。そう、何のことはない。フォークソングとは、いわば綴り方教室であり、生活語詩運動であり、うたを通しての「自己表現」の手段に過ぎないのである。本当にそれは誰でもできる。ちょっとしたやる気さえあれば。そしてそこに多少のコツと歴史が存在している。拙いが自分が知っているそれを多くの人にお知らせしたい。

 お前にそんなことをやる資格、できる力はないと言うなかれ。フォークソングとは民衆のうた、大衆の中から生まれてきたとするならばこそ、プロのミュージシャン、音楽的素養のある講師でなくても伝えられることがあるはずと信じている。大事なのはそこに思いがあるかどうかであろう。自分にはまだ熱い思いだけは持ち続けていると自負している。