まるでルンペンの如くに2013年02月01日 22時54分55秒

★ルンペンのんきだね~

 病気して何日も風呂に入っていないこともあるが、鏡に映る姿はまるで浮浪者、ルンペンである。いや、今ではどこそこの公園や河川敷などで暮らしている「路上生活者」の方々のほうがもっと小奇麗なさっぱりした格好しているはずだ。
 髪も髭も伸び放題。これが勤め人なら周りからとやかく言われて問題になっただろうが、こちとら自由業、自営でネット古本屋で糊口を偲んでいるに過ぎないのだから誰とも会わないし誰からも文句は言われない。まあ、ご近所の人たちは皆眉をひそめてはいるのであろうが。

 もう腰もだいぶ良くなってきたし風邪も癒えて基本的には普通の日常生活が送れるようになってきた。ただ、咳が薬飲んでもちっとも改善されず深夜までいったん出始めると止まらずなかなか寝つけない。仕方なく飴湯を呑んだり飴やガムを噛んだり喉を鎮めるのに腐心している。

 まっ、それはともかく、書きたいのはそんな体不調の愚痴ではなく、「ルンペン」という言葉についてである。自分と同時代、同世代に生きてきた方なら当然ご存知かと思うが、たぶん今の若者は聞いた事も使ったこともない言葉ではないか。じっさい今時、ルンペンは存在はともかく「死語」となってしまった。これは差別用語なのであらうか。何故使われないのかご存知か。

 このところふとしたときに、何故か口を突いて出るうたがある。それもサビのところだけで、そこのメロディーを口ずさんでいる。
 ♪すっからかんの空財布、でもルンペンのんきだね~ と。

 これはすっごく古いうたで、昭和のはじめの流行歌「ルンペン節」という。唄っているのは確か徳山璉だったか。自分は明治生まれの祖父母に育てられたようなものだったからたぶん母方の彼らの誰かが唄って倣い覚えたのではないか。前半部の歌詞はきちんと記憶にないのに、そのサビ、すっからかんの空財布~というところからだけ昔から知っていて、このところ古い音源を採録したCDを聴きなおしていたらその中に入っていて思い出したら頭にこびりついてしまったのだ。

 じっさいこのところ困窮甚だしく、財布の中身は空ということばかりなので、そのフレーズが切実な実感なのである。で、そんな状況だからつい口を突いてこのうたが出てくる。ルンペンがのんきであるかはともかく、ルンペンとは何かである。
 まあ要するに今の言葉ならば「浮浪者・ホームレス」ということなのだが、イメージとしてはちょっと違う気がしている。確かこれはドイツ語で、あのマルクスだかエンゲレスの著書にあり、彼らが作った言葉「ルンペンプロレタリアート」から来ていたのではなかったか。

 ※咳が止まらないのでこのへんで今晩は寝ることにして続きはまた明日。

まるでルンペンの如くに・続き2013年02月02日 15時37分22秒

★ルンペンも乞食もいない時代に

 光のどけき春の日である。今日は暖かかった。昨日までの冬の格好で外でいると汗ばむほどで、暖かいとそれだけで気分も体調も良い。今日は特別だと思うが、このまま早く暖かくなってほしいと心底思う。

 さて、書き出したことなので続きを。

 ルンペンとはドイツ語で、ボロ布、ボロきれとかの意味だそうで、マルクスの言う「ルンペンプロレタリアート」とは、要するに着のみ着のまま、ボロ服だけの何も財産を持たない無産者を指す。そこから転じて、家のない者=乞食、浮浪者を指したのだと思える。
 戦前の言葉だと思うし、昔はなぜかドイツ語から入ってきたスラングも多かった。古い小説などを読むと、学生言葉で、「俺、今ゲルピンなんだ」とかよく出てくる。
 意味は、ゲルト+ピンチ、あるいは「貧」の略で、要するにすっからかんの文無しだと言っている。ただし自分が学生の頃にそんな言葉は聞いた事もないし先輩でも使っている人などいなかった。戦前の旧制高校などではドイツ語は必修だったからそこから巷にもドイツ語系のカタカナ語が流行ったのであろう。
 それはともかく、乞食にせよ、ルンペンにせよもう街中では見かけなくなってしまった。
 乞食はもともと、「こつじき」、修行僧が家々を回る托鉢のことをさしていたが、同様の行為をする浮浪者を「コジキ」と呼び称したことは言うまでもない。自分が子供の頃にはウチにも玄関にそうした人が来て、母は握り飯をつくって与えたような記憶があるが、果たしてそれは現実か。あまりに本とか読んだので読んだ記憶が現実と混濁もしている。

 ただ、昔はそうして家々を回り、頭を下げて食べ物などを恵んでもらっている人たちは確かにいた。神社の境内で寝ているのを見たこともある。彼らを「おもらいさん」「モノモライ」と呼んで子供たちは蔑んだ気がするし、大人たちは「しっかり勉強しないとあんな風になるぞ」と脅したと記憶する。

 ルンペンにせよ、コジキにせよ、見かけなくなったのは戦後、新憲法によりとりあえず人権が保障され、生活保護などが受けられるようになったこともあろう。ただ、そのためには一定の住まい、住所が無くては受給されない。ゆえに、多摩川の川原では今もかなりの数のテント生活者が暮らしている。彼らは当然のこと生活保護は受けられない。
 ならば本来は昔風に家々を周り衣食を頼るしかないはずだが、今のご時世、世知辛いからそんな人が訪れたら「警察を呼ぶぞ」と怒鳴られるのがオチだから、皆アルミ缶を拾い集めたりして必死で働いている。幸い今は、デフレで食べ物でも何でも安いからそんなでもかろうじて生きていけるのである。

 安倍政権は、さっそく生活保護の支給額も一般給与水準が下がっている現状にあわせ下げると発表した。巷では生活保護者バッシングが盛りだからそれを歓迎する人たちも多いかもしれない。しかし、給与や年金支給額は上げず、この10年来下がり続ける一方なのに、物価上昇率を上げてインフレにしてどうして景気が回復するのであろうか。
 入る金は減り続けるのに物価がどんどん上がれば庶民はますます金を使わなくなる。いや使いたくても手持ちに金がない、ゲルピンなのである。生活保護需給も厳しく制限していけば、やがて街には昔のようにルンペンが溢れる。
 うたの文句では、ルンペンのんきだね~などと陽気だが、とてものんきでいられない。俺も何とかしないとこのままでは見かけも実体も本物のルンペン氏であろう。

円高・デフレからの脱却は景気回復に繋がるのか2013年02月03日 23時52分28秒

★円高って悪いことなのかなあ

 経済のことはよくわからないというのが正直なところだが、自民党の政権奪還、安倍政権誕生のバブルだか何だか知らないが、円安が進み株価もずいぶん上がってきている。マスコミ報道では財界や兜町関係の人たちの満面の笑みをよく目にする。あたかも景気回復なったかのようである。ご祝儀相場かもしれないが、経済好転の兆しと言えなくはない。
 だが、庶民、いや、自分の実感ではこのところ物価が上がって大変懐が苦しいし困った事態だと嘆息している。特にガソリン代など輸入に頼る商品が軒並み上がってきている。
 
 街の小売業、個人商店の閉店を嘆く者として、これは自ら恥ずべきことではないかと思いつつも自分はネット通販、特にアマゾンを広く利用している。むろん、そこのマーケットプレイスの店子をやっているという関係もあるが、本はともかくCD、DVDなどは基本的にアマゾンでほとんど買っている。理由は一つ、安くて早いということに尽きる。
 特に主に聴く洋楽の輸入盤は、HMVなどの繁華街の実店舗で買うより格段に安く、東京の田舎に住む者として、近くに専門店がないこともあり非常に重宝していた。
 と、過去形で書くのは、このところの円安でじょじょに前の価格よりほぼ一律一枚100円ほど上がってきて、最近は以前のように発作的に衝動買いできなくなってきたからだ。それは新品の輸入版に限らず日本盤も何故か同じく値上がりし始めている。

 自分の場合、アマゾンのカタログリストで欲しいアルバムなどがあるとまずはカートに入れて保存しておく。そして懐事情などを鑑み、カード決済の支払日を見据えて厳選して正式に注文確定させる。
 ところが、最近、そのカートを確認する度に、カート内の商品の価格が変更になりました、 と数十円から100円程度たいがいどれも値上がりした「お知らせ」が表示される。人間というものは不思議なもので、安くなったのならすぐ注文確定させてしまうのに、逆だと躊躇ってしまう。そんなで値上がりしたアルバムはずっと保存したままとなる。

 今安倍政権は、国を挙げてデフレからインフレへと物価を上げようとしている。結果としてそのことでお金がうごき景気も良くなるのだという理屈である。景気がよくなれば給料も上がるという理屈。しかもそこに近く消費税の税率も上がっていく。嫌でも物価は上がっていく。
 しかし、手元の金、つまり収入が増えたならともかく、給与も年金も下がり続け今年の春闘がどうなるのか知らないが、入って来る金は全然増えやしない。まして自分の場合、出版及び古本稼業はデフレ地獄の真っ只中だから値上げなどできっこない。いかにして安くして薄利多売で乗り切るしかない。そこにこの「値上げ」である。
 ならばこれまでのささやかなネット上の買い物道楽も手控えていくしかない。むろん、消費税率アップ前夜は誰もが慌ててごく必要な買わざる得ないものだけは駆け込みで買い求めることだろう。しかし、おそらくこの政府の経済政策によりますます消費は冷え込み誰もがさらに金を使わなくなる。

 今までは円高のおかげで、100円ショップや牛丼など格安ファーストフードに見るように庶民は何でも安く買えた。だから乏しい収入でも何とか生きていけた。しかしこれからはそれは難しい。金は入らないのに出るばかりならばともかく節約して使わないことだ。
 むろん、出口のない安売り競争が良いことだとは思わない。モノには正当な価格があって然るべきだと考える。問題は収入が増えるアテもないのに物価だけ上げる目標を立てたことだ。企業は儲かる。だがそれが従業員に給与として反映されるか甚だ疑問である。
 けっきょくのところ、日銀さえも巻き込んで、政財界一体で目論む円安インフレ政策というのはトヨタなどの輸出産業を儲けさすためだけのものではないか。自分はそう睨んでいる。

 ともかくもう金が無い。これからはますます金がない。ネットでの衝動的不要不急の買い物は控えなくてはならない。CDにせよ、何にせよそれがないと死んでしまうほど絶対的必需品ではないのだ。あえて言う、芸術、芸能なんてあってもなくてもかまわないものだ。衣食足りて初めてその先にあるものなのである。まず国民の所得を上げてから「値上げ」せよなのだ。

穏やかな立春に2013年02月04日 23時42分21秒

★死を見据えて一日ごと生きる

 2月に入ってからめっきり暖かくなってきた。このまま春がすぐに来るとは思わないが、2月は短いので厳冬も間もなく終わりを告げよう。おかげ様で体調のほうは、喉に痰はからむもののだいぶ楽になってきた。もう寝込むことはないと思いたい。

 新人犬、ベル子のことはともかくも、ウチで一番の老犬、バドおじさんについてふれておかねばならない。
 今年で18歳、人間で言えば百歳近くまで生きている長寿犬なのだが、昨年の春に兄妹犬のロビンを先に亡くし、新年を迎えたのだがさすがに衰弱がこの数日目立つようになってきた。

 食欲は今もしっかりあるし、呆けもさほどなく頭の方は意思や感情もはっきりしているのだが、今月に入ってからついに歩けなくなり、用便に出ても途中でへたり込でしまうので、抱きかかえて帰る始末である。体重も元気な頃には20キロ近くあった準大型犬なので、腰の悪います坊にはまさに荷が思い。しかし、歩かせないとさらに寝たきりになるので途中まででも朝晩散歩にいかねばならない。人間だけでなく老犬介護も課題となっている。しかし、まだしてやれることがあるのは嬉しいし良いことだ。

 ロビンのときもそうだったが、歩けなくなるとそこから衰弱は早い。医師からは、この歳まで生きたのだから今さら治療として何もできることはないと宣告されている。ならばその死まであと何日、何ヶ月あるかはわからないが、最後までしっかり面倒みたいと願う。
 夏まで生きられるはずもないが、暖かい春が来て一番穏やかな過ごしやすい日までは生かせたい。幸いまだしっかり食欲もあるし眠ってばかりになってはいるが頭もしっかりしているので排便以外に特に手はかからない。。だから大小便だけは抱えても外でさせて清潔にして一日でも長く生きてもらいたい。
 もう十二分に生きたからこれほど老いて死期を前にして哀しいとも何とも思うことはないが、ヨボヨボ、ヨレヨレ、フラフラでもともかくまだ生きていてくれるだけでありがたく嬉しい。老いも死も自らが体験するときは「最後」なのだからその前に周囲から学んでおくべきことだ。

 人もだけれど、人生の真の意味、価値というか意義は晩年にあると思う。某前都知事のように、老いても妄想と妄動、暴走の挙句、晩節を汚し続ける生き方もある。当人はそれで満足だろうが見苦しい限りだ。
 人も犬も全ての生き物は必ず死ぬ。その引き際が肝心なのである。若い死は無念であろう。しかし団十郎にせよ勘三郎にせよもう十分にその役割、仕事は成し終えた。だから天命なのである。誰だって願わくば精一杯命の限り生きて最後は穏やかにのんびり心置きなくと死にたいと願うし、それが理想のはずだ。そうできれば幸福、それができない人は業、不幸なのである。それでは天国の門はくぐれない。

 バドのことはいちいち報告はしないが、ブログで何も触れていない限りまだ生きながらえていると思っていてください。

自らを律していかないと2013年02月05日 22時49分58秒

★夜は必ず早く寝るべし

 「律」という言葉がある。村上律さんや田川律さんの「律=りつ」である。たしか「ただす」と読むのだったかと記憶する。自律神経の律でもある。

 昨晩はついパソコン作業で夜も更けて午前様どころか午前3時頃まで起きてしまった。今、音の波形処理ソフトを学ぶ勉強中で、ついネットであれこれ調べものをして気がつくと深夜も深夜となってしまった。

 それから眠ったのだが、朝は当然寝坊するし、一日ぼーとして親たちがデイサービスで不在ということもあってつい昼寝もして夕方まで眠ったりと一日がメチャクチャとなってしまった。おまけに喉の調子が悪く、痰も絡むし、朝から咳もまた出始めた。
 自分の場合、このところ体調を崩すきっかけが出かけて零時過ぎての帰宅であり、そうした夜更かしや疲労が溜まるとすぐに咳が出てまたもや風邪、ぜんそく症状となってしまうのである。虚弱といわれようがそういう体質であり、老いてもう無理するとすぐそうなってしまうのだから現実問題として仕方ない。ならばどう対応すべきか。

 自らを律していくこと、つまり自分で自己管理を徹底させて、一時の歓楽や快楽に囚われるのではなく、規則正しい生活を送るよう心がけることだ。それにはまず夜更かしは絶対せず、遅くとも日付が変わる頃には布団に入り、朝は早めに同じ刻に起きることだ。そうした習慣で生きていく。それが律するということだ。

 若い頃なら深夜放送を聴いて夜が白み始める頃まで起きていたこともままあった。また、徹夜して仕事したことも数多くあった。だが、もう50歳をすぎてからはそれはできない。眠くなる以前に、それをしてしまうと調子を崩す。一日、深夜3時まで起きてそのことを思い知った。
 赤塚不二夫のキャラカエル?のべしの謂いではないがまさに「夜はねるべし」なのである。

災害からの「教訓」に思う2013年02月06日 21時29分38秒

★二度目の「大雪」は大したことなくすべて融けた。

 人は経験から学ぶわけだが、先だって成人式の日の雪で懲りたからか、今回の大雪の予報には多くの人がかなり備えていた。自分の利用する青梅線に至っては遅れが出るからと朝から予め本数半減iにしてしまった。
 しかし、立春過ぎの雪は残らないと言われるように、途中から雨になったこともあり道にもどこにも雪はまったく残っていない。大騒ぎしたわりには大したことない雪であっけない気もしている。まあ、溶けたのが夜間に凍って歩道に残るのがいちばん面倒かつ後々大変なのだから積る事なくすぐに融けたことは何よりであった。

 教訓ということばがある。経験から学び今後にそれを活かすことだ。大雪にしろ大地震にしろ自然災害が起こると、それが記憶に新しいうち、その災害が発生して間もないうちは人はかなり敏感に「次回」に備えている。防災意識も対策も高く現実的である。
 しかし、それが時間的経過と共に低下していくこともまた当然であって、大地震や津波のように数十年単位から世紀をまたいで起こるような災害だと体験した世代が死ぬと忘れ去られることも多い。そしてまた大震災のような事態が新たに起きて体験して初めて改めて対策を立てることとなる。
 本当はその災害を記録に残して代々語り継いでいけば災害じたいは防げなくても被害は減らすことは可能なのにだ。しかしそれもまた人間であり、都市部などでは人の移動も大きいからそのいつ起きるかわからない「防災対策」にはなかなか予算も人も動かない。じっさい神戸ではもはや阪神淡路大震災を体験していない人のほうが体験者数を上まっているそうだ。ならば「教訓」はどう活かし伝えていけばよいのか。

 自然災害に限らない。戦争という事態であっても同じことで、もう先の大戦、我が家で言うところの「太平洋戦争」を知る世代はもう数少なくなってしまった。戦争に行った世代がごく僅かなのはいたし方ないが、空襲や疎開を体験した世代だってもう皆老人たちだからあと10年そこらで国民全員が「戦争を知らない子供たち」となってしまう。
 思うに、そうした戦争未体験世代が増えるに連れて憲法改定への動きが戦後の長さに比例して大きくなってきたように思える。つまり戦後すぐは平和憲法を変えようなんて策動はまさに「反動」であってよほどの右翼活動家以外にはそんなことは口にも出来ない状況だったのに、今では現国会を見るように改憲論者が堂々と肩で風切る有様なのである。
 しかも問題に思えるのは、それらは慎太郎世代ではなく、もっとその子世代の若者、若手だということだ。つまり自分のように戦争そのものを体験した親たちから戦争というものを聞き知った世代よりももっと若い、本当に全く戦争を知らない世代層が憲法を変えようとしている。
 時間、歳月と共に体験は風化しその教訓すらも伝わることなく忘れ去られるのが人の世の常かもしれないが、それもまた情けないことではないか。
 加川良さんの有名な反戦歌「教訓」はいみじくも何故か「教訓」という題である。昔は何でこの曲が「教訓」なのかピンと来なかったが、今ならよくわかる。あの時代はまだ先の戦争について知る者、記憶にある者たちが沢山いたのである。だから教訓としてあんなうたを作ったのだと。
 そして戦後は終わり、今再び「戦前」となって、その戦争体験の「教訓」をどう戦争未体験世代に伝えていくべきか、大災害の体験記憶と共に後の世代へと伝えることの困難さを思うこの頃だ。

大型テレビを早く手に入れること2013年02月08日 11時19分52秒

★先延ばしにせずに「約束」したことを果たしていく。

 外は晴れては来たが北風が強く吹き荒れともかく寒い。春一番が吹くどころかまさに「春は名のみの風の寒さよ」である。
 ちょつと近況及びこれからの活動予定についてお知らせしたい。

 このところブログも含めてマス坊の活動はすべて滞ってしまっている。自分の調子がもう一つということもあるが、親たちにも風邪が順次伝染って、高熱は出ないものの体調を崩して病院通いが続いたりもしていた。そんなで、家にはいても家事雑事と彼らの世話に追われて、またその合間に自分も疲れて横になったりと何もできなかった。よぼよぼの老犬バドの面倒もそこに加わる。

 やりたいこと、やるべきことは山積みなのに・・・と焦る気持ちや苛立つ思いも無くはないが、まずは親たちのことと御身大事に考えるしかなく、あれこれ約束も果たせず不義理を働くばかりで申し訳ないがいた仕方ないのだと納得させている。ここで無理をすればすぐにまた寝込んでしまう。ともかく今はこの厳寒の季節を乗り切るしかないのだと。

 先に今月24日に「三留まゆみ映画塾開催決定!」とお知らせした。なのに以後何も宣伝告知もお知らせもなくご不審に思われる方もあろう。近く詳細は彼女自身から発表があるはずなのでもう少しだけお待ち頂きたい。ともかく24日の開催は決定なので、2/24日の日曜の午後から夜にかけては空けておいてください。ぜひ大勢の映画ファンのご来場お願いしたい。
 何をどうやるか初めてのことでまだ作品も含めて決定のお知らせはないが、ようするに映画を肴に、彼女のお話と雑談のトークショーだと考えてもらいたい。むろんその映画も流す。

 そのことより今いちばん自分にとっての課題は、実はウチ無頼庵にはそのための大きなテレビ、もしくはプロジェクターシステムがまだないので、それをどう手に入れ設置するかだ。テレビならば60インチの大きさがないと「映画」の上映にはならない。価格もかなりのものになる。
 それがネックでもあり、昨年からこの企画がなかなか進まなかったことを告白する。何しろ金もないのである。しかし、今後のことを考えれば、ライブ演奏だけではなく、ビデオ観覧のために何らかの映像システムも当然必要だからテレビにしろ投影型のものにしろそうした機材をそろえねばならない。
 24日はもう確定している。ならば都心の大型家電販売店に出て、カードで「夏のボーナス一括払い」で、購入するしかないんかなと考えている。むろん自営業マス坊にはそんなボーナスは当然ない。つまり、今夏までに頑張って商売に励むか短期のバイトでもして爪に火を灯すように倹約と貯金でその代金を工面するのである。

 テレビもまだないし、宣伝準備も遅れている。ならば日程をまた先延ばしにすることも考えた。しかし、そんなことを言っていたらいつまでも開始できずに徒に時間と季節だけが過ぎてしまう。とにもかくにも一度拙ブログ上でも公約したことはたとえお客が入らなくても実行させなくてはならない。そうでないと誰も期待もしないし相手にもされなくなる。何はともかく約束は守り企画を続けていくことなのだ。

 というわけで、上映システム機材は来週中には手に入れる。今までは体調悪く外出もままならなかった。が、ようやく癒えてきた。そして、24日はぜひ「新装」となる無頼庵へ、三留まゆみの映画トークを目当てにお越し下さい。予約受付中です!

ようやく今年が本当に動き出した。2013年02月10日 22時51分22秒

★何を今さらではあるけれど。

 昨日は北風強く寒かったが今日は風もなく穏やかなポカポカ陽気であった。まさに三寒四温とはこのことか。庭のイチョウの木に登り、新たな葉が芽吹く前の小枝を1本づつ切り落とす。このところ、一人で木に登っては少しづつ剪定作業を進めている。むろん下で親たちに落ちた枝を広い集めてもらいもしこの身が転落したときのサポートを頼みながら。

 次に「社員」が来るときまでにはイチョウはほぼ終えて、今月中に残るはケヤキなど庭木の剪定、切り詰め、枝下ろしは終わらせる予定でいる。冬の間にそうして枝を切り詰めてもまたすぐに枝葉は伸び、夏にはうっそうとしてくる。昨シーズンは一切その作業をやらなかったので晩秋の落葉掃きがオオゴトであったのだ。今年は丈もつめて落葉騒動は楽したいと願う。

 さて、おかげ様でようやく体調も気分も戻ってきた。もう2013年も2月に入って何を今さらと嗤われるが、ようやく今年も動き出したという気分である。何しろ1月は腰痛も加わりほとんど寝たきり状態だったのだ。暮れからの長引いた風邪は、まだ本調子というわけではないし未だ喉も気管もスッキリしないけれど、今度こそもう大丈夫だと思える。しかしこの我が身こそ頼るに頼れずアテにできないものはないけれども。

 今日は、犬たちの散歩がてら駅の向こうのショッピング街の家電量販店に行って液晶テレビ売り場を見てきた。その話を少し。
 今月24日の無頼庵で、映画(ビデオ)上映をするために早く大型テレビをウチに入れなくてはならない。それでチラシ広告を見たのでじっさいの画面と値段を確認しに売り場に出かけたのだ。
 今想定しているのは、大きさはやはり60インチ、メーカーはシャープかソニーなど国産のとだけ決めているのだが、問題は当然価格と画質である。今はこうした大型テレビも随分値下がりしていて、チラシ広告でもシャープのAQUOSシリーズの60インチでも約19万円弱の値がついていた。店員に訊いたら18万円弱まで値引きできるとのこと。それが高いか安いかと言えば、先年買った現在居間に置いてある、先年買った46インチのが、そのぐらいの値だったことを思うと値下がりしている。しかし、その金を自分の懐から出せるかというと簡単なことではない。ただ、無頼庵に設置するからには55か60の大きさは欲しいということと、値段も10万以上は当然覚悟していたからそこをどう折り合うかなのである。その金の工面については今はふれない。

 売り場をあちこち周って、いろいろ大きさもメーカーも価格も見比べたのだが、シャープの同シリーズ同じ60インチでもワンランク上の機種が格段に美麗だと思えてきた。ただ、その展示価格は20万以上してしまう。けっきょく、決めることも出来ずに価格と機種だけメモって今日のところは犬たちとトボトボ帰ってきた。

 で、先ほどネットでアマゾン価格などをそれぞれ調べてみた。そしてうーむと唸ってしまった。まず最初の機種、店員が18万円を切るところまで安くすると言っていたほうは、ネット上での今の最安値は14万5000円。マス坊が感心したその上の機種、20万円のほうは、16万5000円ほどであった。むろん送料は店で買ってもネットでもつかない。問題はその差=3万円である。これは大きい。

 今日訪れた量販店は、最大手のY電気やKには及ばないがそれなりに安いと知られている。ならばたぶん他の店ででももう少し安いだろうが同程度であろう。しかしネットだとその値段より約3万円も安く買えるのである。金のない身としてはそれは有り難い。実はパソコンにせよカメラにせよ、CDにせよ近年の買い物はほぼ全てインターネットの通販でである。だからたぶん今回もネットから買うことになるかと思う。しかし、何万も安く買えるからといっていちがいに手放しで喜んで良いものだろうか。

 この前、某シンガーソングライター兼音楽評論家でもあるベテランシンガーとお話したときもアマゾンで今CDとかの音楽ソフトがバカ安だという話が出た。いっぽうHMVなどいわゆる街中の量販店はどこも経営不振で大変である。要するにお客が皆ネットで買い求め、ダウンロードしたりもするので店舗で商品が売れないのである。しかし、何故ネットの方が格段に安いのかというかというと。
 要するに、店舗があると、その店の緒経費、店員など人件費がそのまま商品に上乗せされてしまう。だから安さにも限界がある。しかし、アマゾンなどネットショップでは、基本的に人件費はほとんどかからない。せいぜい千葉だかにある巨大倉庫しか維持費はかからないからそうした様々な経費が無い分だけ安くも出来るのだと話は結論づいた。

 だから格段に安くもできるし安いことは良いことだ。しかし、皆がネットで買う。そうなるとやがては街中から商店、小売業は大型量販店さえも含め売れなくて全てつぶれてしまう。むろん、アフターフォローや5年保証とかは現実の店舗から買ったほうが安心である。しかし、1円でも安くを追い求める側とするとやはりネットを利用せざるえない。

 拙ブログのように、街から小売業がなくなることを嘆きつつもネットで購入してしまう自分という人間の矛盾、撞着に悩む。安さだけを追い求めてはならないと常に説いている自分と、どこよりも安く買い求めたい自分がいる。
 むろん、野菜や魚肉など生鮮食料品はネットでは買わないし、飲食などの様々な人的サービスを提供する店はネット全盛時代も生き残るはずだ。コトの問題は、大量生産された全く同じ商品をどこでいかに安く買うか、買えるかということだけなのだ。その基準はやはり安さである。

 ウチの「社員」のように、電気製品はセッティングも使い方も全くわからないが故、パソコンでもテレビでも何から何まで近所の電気屋さんからかなりの値段で買い求めセットしてもらい使い方まで教授お願いしている輩もいる。実店舗が商売で格安ネットショップに勝つにはそうした人的サービスだけが付加価値だけかもしれない。

 大型テレビの件、即決はまだしないが、1、2週のうちには決断しないとならない。近日一度都心に出て、ヨドバシカメラなどAVコーナーが充実している店を周って最終的にどこで何を買うか決めたいと思う。昔ならこうしたとき秋葉原に行けば予算的にも条件的にも大満足できる案件が必ずすぐに手に入ったのだが、今ではそれも「今は昔」である。

日本経済最後のバブル景気2013年02月11日 09時20分52秒

★もう経済成長はありえないはずなのに

 良く晴れて今日も風のない暖かい朝である。
昨夜は寝際に気管支、喉の調子が悪く、また咳が続きそうで警戒したが幸いぜんそく的症状は出ずにまあ深く眠れた。

 体調は万全ではなくとも調子は上向いている。すると気分も変わるしいろいろなやる気、気力も戻ってきた。今までは意識していなかったが、気息奄々やや鬱屈して、万事に「いやいやえん」状態だったのだと気がついた。
 風邪と腰痛でずいぶん時間を無駄にしたという思いもあるが、それもまたそれはそれで仕方ない。まずは自らの体調を伺いながらやるべきことを少しづつでも進めて行くだけだ。人からどう思われようと何を言われようと関係ない。
 この世は人それぞれ各自の都合と予定と損得勘定で動いている。それがうまくマッチすれば何かが起こるしできるけれど合わないときはそれはいたし方ないのだと。

 さて、これからまたイチョウに登り、少しでも枝下ろしに励む。


 自民党が政権を奪還して、安倍内閣が成ってから円安が進み株価も上昇し続けている。内閣支持率も連続して上昇しているとの報である。
 彼らは夏の参院選まではそのファシスト的本質は隠して専ら景気対策に専念し、自民党で景気は回復したとその成果を誇るだろう。
 確かに彼らの金融政策、日本経済へのテコ入れはある程度効果を上げていることは間違いない。しかし実際に国民全体にその好景気が波及するかはまだわからないし自分は甚だ疑問視している。

 公共事業を請け負うゼネコン、輸出に頼る商社、トヨタなどの大企業は間違いなく安倍政権の恩恵を受けるであろう。経済はお金の流れだからやがては回りまわって末端の労働者の懐にその金が入ってくれば言うことはない。自分の商売の注文も増えて売上も良くなっていくはずだ。

 ただ、経済の門外漢が思うに、今安倍政権がやっている経済政策というのは、瀕死の老人に高い金をつぎ込んで無理なカンフル注射を打ち続けるようなことの気がしている。むろんそれで体調が良くなり回復して若いときのようにバリバリ働ければ幸いだ。
 ただ、この国、日本はもはや老人である。今そうして老体にあれこれカンフル注射を打ったって一時は元気になったかのように見えてもその効果がいつまで続くのか。

 これがかつての50年代~60年代のように、国民全体が若く、国自体に活力がみなぎっていた頃ならこうした経済政策で公共投資で景気はぐんぐん上昇した。物価も上がったけれど給料もぐんぐん上がった。それは記憶にある経験である。だが、今のような老人ばかりとなった国、少ない若者こそ失業者や貧乏なフリーターばかりの国である日本がそうしたカンフル政策でどこまで元気になれるのであろうか。逆にそんなにない金をつぎ込んでその後の支払いは大丈夫なのかと案ずる。政治家たちは今でも経済成長を約束するけれどそれは老人が青年に戻るような不可逆的なことではないのか。

 今、都と政府一体になって進めている東京オリンピックもまさに同じ発想で、あの頃を懐かしみ、オリンピック効果で国民を元気づけ国民意識を一体化させようという「夢よ、もう一度」なのである。膨大な金をつぎ込む招聘戦略の宣伝によってすぐ踊らされる日本人は早くも東京オリンピックに対して熱意が一気に高くなってきた。
 私的にはそんな金があり余っているならもっと大震災被災地への復興支援と被災者と被災企業への経済的援助に使ったほうが結果として日本の経済再生へつながると考えるのだが。まあ、そうした国を挙げての「お祭り」のほうが国民が元気になると考える人たちもいるのである。むろんそこで儲かる奴らがいるからだが。

 どこそこ近隣の国では、景気のわりには国民生活はちっとも良くならないと国民の不満は大いに高まっている。今日本は景気回復の途中ではあるが、このバブルで動いた金が本当に庶民にまで周ってくるものか注視したい。いずれにせよ、この「好景気」はバブルであるしこの国にとって最後の賑わいだと断言する。それが破綻した後も想定しておかないとならない。

 夏の参院選、たぶん今のままの株高、好景気が続けば自公はさらに大勝し盤石の保守右翼国家が完成する。そして日本はどこへ向かうのか。

大型テレビ購入件・続き。2013年02月12日 23時20分36秒

★家電量販店を回ってわかったこと。

 安いにはわけがある、ならば高いのにもまたわけがある。

 このところ母がらみの用件で立川の病院やら年金事務所に車で送る用事があり、母の用事が済むまで北口の大手家電販売店へ歩いて行ってテレビ売り場を観てまわった。
 さすがに大型液晶テレビも各メーカー各機種揃っていていろいろ比較することができた。それで、気持ちはほぼ内定はしていたのだが、やはりシャープのAQUOS シリーズの中級機・クアトロンGシリーズの60インチが画像も綺麗で価格的にも何とか手が届きそうだと決めた。で、問題はむろん価格である。

 それは前回記した、ウチの近所の量販店では約20万円という表示価格がついていた機種で、やはり20万円を超す228.000円という値札がついていた。むろんそこからさらに値引きしますと書いてある。
 店員を呼んで、その値引いた売値を訊くとそこから約一万円ほど引くという。それでもようやく21万そこらで、ウチの近くの店よりもちっとも安くない。しかし、ポイントカードで10%パックされるシステムなので、仮に2万2千円値引きされるとして、21万円の買い物ではあるが、19万で買えたような気がするというわけだ。※ポイントカードはむろんその店で他の商品を買うときに使える。そのカードで2万円分DVDディスクなど何でも買えるのである。

 前回書き忘れたが、ウチの近くの量販店ではそもそもそうしたポイントカードはない。だから実質売値はそうした○○カメラ、△△カメラより安いのだと気がついた。つまりポイントカードがある店はそれで一割値引きするから安くはしないということだったのだ。
 
 一方、帰ってから早速ネットでの通販サイトをあちこち見てまわり、価格.com という何でも値段を比較して最安値がわかるサイトから今現在のそのテレビの最も安い値段と扱う店を調べた。それでわかったことは、全国でいちばん安い価格は、151,996円で、要するに約15万2千円で何店かずらっと並んでいる。
 先の某○○カメラで、たとえ10%のポイント還元があったとしても20万円以上出すことを思えば、15万円ちょっとで買えるのは何より有り難いし嬉しい。しかしそこにもまた落とし穴があった。

 注文にあたってそうした通販でのショップのサイトをよく確認すると、売値は仮に15万円だとしてもどうやそれだけで納まらないようなのだ。まず、大手家電量販店では、どこも5年間の保証が付く、とあるのに、通販ショップではそれはオプションで、別途約7500円から9000円かかる。それだけならまだしも、よく理解できないのは、商品の代金以外に決済手数料なる名目で安い店では1250円、高い店では3000円以上も送料無料だとしても加算されてしまう。むろん中にはそれをとらない店もあるが、そうした店は売値自体が高い。つまり予めそれをどこに含めるかであって、決して表示の価格だけでは収まらないようにできている。うまくしたものだ。またカード決済もできない店も多いようで、支払いはなかなか面倒そうでもあった。
 しかしそれでも5年間保証を付けたとしても+1万円強だろうからいちばん安値のネット通販を利用すれば約16万円強で買えるのだと判断している。まだ注文はしていないので本当にそれだけで収まるか不安もあるが。

 前回も書いたが、ポイントカード値引きは論外として、やはり実店舗で買うよりネットでは3万円ほど安いのだと改めて確認できた。ただ、気持ちとしてはいまだ迷うというか、どこでどう買うべきか決めかねている。街の家電量販店で買えばたぶん「夏のボーナス一括払い」として支払いに猶予ができる。自分としてはそのときを見据えて小金を溜めて備えようとも考えていた。しかしネットではカードで払うので、次回の支払い日までに金をかき集めて工面しないとならない。正直、それぐらいの余裕はなくはないが、ほいほい気軽に使って良いものか迷う気持ちもまたありどうしたものかなのだ。相変わらずのキリギリス性分で生きるか。

 しかしもう「三留まゆみ映画塾」の開催日まで日にちがない。上映システムがなければ始まらない。注文しても配達もすぐしてくれるのか定かではないし、今週中には遅くとも決めないと大変とやや焦り気味である。
 確定し届いたらまた報告する予定です。