5月に入りました2013年05月01日 21時49分09秒

★前回のブログ、現況報告の続き。

 体調は相変わらずでも、1年の三分の一を過ぎて、全てに多少の動き、リズムはできてきた。
 遅れに遅れて2月から始まった「三留まゆみの無頼庵映画塾」、おかげさまで大盛況となり、これまで様々な映画関係者、映画ファン、マニアの方々が拙宅を訪れてくれている。前回は有名映画雑誌の元編集長まで来られた。皆さんの映画にかけるその熱い思いに、驚きかつ深く感心しているマス坊である。

 けっきょく、音楽は語るものではなく、自ら演るもの、あるいは単に聴くもの、ときに乗って踊るものに過ぎないが、映画こそ自らがなかなか表現できないものだからこそ、語りたい語り合いたいものなんだとようやく気がついた。
 まあ、毎度行き当たりばったりでこの「講座」もどう進んでいくか、そこから何が生まれるかまだ何もわからないが、ともかく一年間全12回続ければきっとここ無頼庵から新しい動きが発生する予感がしている。毎回参加者はかなり入れ替わりだが、回を追うごとに増え続けているのでこの先も楽しみだ。
 何より今まで知り合うことのなかった映画人たちと出会う機会を持てて喜びと新鮮な気持ちになれたことは大きい。願わくば、自分が担当している「フォークソング講座」もせめてあと数人は新たな参加者が増えてほしいのであるが、そのためにも続けていくことからだろう。

 今は、その「映画塾」と「フォーク講座」が月に2回あり、2日間それに時間をとられ、毎月の生活はそれを中心に回っている。あとはこれにライブなども定期的に入れていけば、今の自分のできることとして十分かと考えている。今度は「詩朗読の集い」もやっていきたい。
 ぶっちゃけた話、ちっともお金にはならないが、こうしてこの場所に人が集まり皆さんいくらかでも楽しみ喜んでもらえたらそれだけで満足なのである。そしてその出会いから新たな人脈が生まれて、何かさらにまた新しいこと、閉塞した状況をぶち破るオモシロイことができたらと夢想している。

 さて、その他、拙宅の家族のことも少し。
 おかげさまで母は、ガン再発後、今は丸山ワクチンを週に三回投与しているだけだが、ガンそのものの成長は抑えられているようで、消えて完治したわけではないものの、まあ特に異常なく日常生活を続けている。なので、マス坊の家事負担はずいぶん楽になった。実に有難い。
 父のほうは認知症の度はさらに進んだが、まあ、それは年齢相応と言うべきかであり、トンチンカンな発言や行動は始終でも、まだ徘徊や失禁などこちらを大いに煩わせる段階に至っていない。ただ、夜中に何度も小用に起きるからか、朝からボーとしていてネムイネムイと寝てばかりなのが気がかりだ。それ以外は、昔患った前立腺がんの予後も問題なく、オツム以外は特に今現在問題ない。

 そして犬猫たち、猫は誘拐拉致されたクロスケが連れてきたメスのキャラコさんが過食症で、際限なく食べたがるので食餌の管理が大変で他の猫は毎度ながらさほど手はかからない。
 犬は、去年の暮れにウチに来たベル子も生後8か月となり、ほぼ大人になったのでだいぶ大人しく賢くなった。ブラ彦君は相変わらず。ただ、問題は18歳になる老犬バド叔父さんであり、このところ急に足腰が弱りついに全く歩けなくなった。兄弟犬のロビンが去年の今頃死んだことは以前書いたが、あれから一年。さすがにさらに年老いて人間でいえば100歳の域に入っているのである。もういつ死んでもおかしくない。

 ただ、これまでの老犬とは違い、むろん目は白内障でほとんど見えていないが、内臓も頭も特にどこも悪くなく、よぼよぼにはなっても年齢に比して食欲は変わらずしっかりあった。この一年、足腰はさすがに衰えて、母が連れてゆっくりこの町内をトボトボゆっくり周っていたのだが、ついに数日前から後ろ足がマヒして歩き出してもすぐに座り込んでしまう。
 仕方なく、人間が彼の腰を持ち上げてやると、前足だけで、運動会の二人競争のように、前足だけでスタスタ走っていく。こちらは中腰で後ろ足が地面に着かないよう犬のお腹を抱えて走るのだからものすごく腰に負担がかかる。
 このところそんな風に朝晩散歩して、近所だけでも汗びっしょり疲労困憊となる。で、工夫して、腹帯のようなものを巻いて、それに紐つけて下半身を持ち上げて散歩するようにした。それでも腕の力が相当いるが人間の腰は楽である。

 バドは、胃腸も頑健で、今も食欲が強いし頭もウチの爺さんより呆けていないから、こうしてうまく工夫して散歩させて、床ずれを起こさないよう管理していけばまだまだ生きるかもしれない。先に死んだ妹犬ロビンの分までも最後の最後まであきらめず面倒みて看取ってやりたいと思う。それにしてもラフラドル系の大型犬は、皆通常は12歳ぐらいが寿命で15歳まで生きて長寿と言われているのだから実に長生きだと飼い主さえ感心感嘆してしまう。ギネスブック級の長命ではあるが、昔から病気一つしたことがないので、動物病院にもカルテがなく、その証明が難しい。

 まあ、幸いにして、ウチは皆厳しい冬を乗り越えて今のところ全員無事に生きている。次は、今年の夏をどううまく乗り切るか、なのだ。

バドおじさん犬2013年05月02日 12時25分04秒

これが新案特許未出願中の老犬歩行ベルト
★バドおじさん、驚異の老犬18歳

ふるさとの話をしよう・追記2013年05月02日 21時42分42秒

★誰にもふるさと=心の保養地がきっとある。

 その地に立つと思わず、ああ、また帰ってこれた、とほっとする場所が貴方にありますか。

 先に書いたことの補足をする。
 ふるさととは別に血縁的縁故関係がなくともその人にとって大事かつ懐かしく好ましく、行けば暖かく迎え入れてくれてのんびり寛げるところならば「ふるさと」と呼んでもかまわないのではないかと書いた。

 自分にとってかつては大阪、それもミナミ、さらに下った天王寺周辺の半ば旧ドヤ街であり、それと同時に京都も大切なふるさとであった。が、近年行くことはかなわず、かつての春友たちとも離れてしまい、ふるさとを失くしてしまったという気持ちでいた。

 毎年定期的に訪れて顔馴染みの仲間たちが迎えてくれるという所ならば、三重県津市の夏にフォークイベントを催す「ええかげん」という海辺のライブ小屋も同じはずなのだが、違うのはその「小屋」だけはふるさとでもその周辺、町自体には何の思い入れ、思い出や関わりがなくいことだ。津市には音楽仲間以外にも詩関係の友人もできたのだが、まだ町自体詳しくないのでふるさと感は残念なことに乏しい。津市じたいは趣あるしっとりした良い港街だしもっと親しく通えば、やがてはここもふるさととなるはずだが、まだ時間が足らない。

 そしてこのところ関西にとって替わったのが新潟市巻町なのである。たびたび当ブログでも報告したが、ひょんな縁で近年、関西行きがなくなってから、マス坊はひんぱんに年に数回もその地を訪れている。しだいに顔なじみ、懇意になれた新たな友人もできて、今では街並みも含めて行くのが楽しみな新たな「ふるさと」となってきた。再会が楽しみな気の合う音楽仲間もたくさんいるし、水も空気も食べ物もすべてが美味しい理想の地なのだから憧れるのも当然で、何か用件ができれば周りに同行声かけて片道300キロを自分のオンボロ車とばして向かうのである。

 先にチラシだけアップしたが、近くまた新潟では、たっつあんの企画でかなり大きなフォークライブイベントがあるようだ。自分一人だけでは、予算的に苦しいが、何人か同行者が集えば移動費は格安となる。今回の場所はちょっと巻町から離れているようだが、何にせよ今の季節の新潟は景観はサイコーなので、ぜひどなたでもお気軽にご一緒願いたい。

 人はひと所にずっといるとしだいに気分は倦んでしまい、すべてにトゲトゲ、カリカリしてくる。そうしたとき場所を変えて、それも慌ただしい観光旅行ではなく、一か所に腰をすえてのんびりするのが良い。そこが旧知の人たちが待つ、懐かしくも落ち着ける場所、ふるさとだったらなお良いはずだ。
 人にはふるさとが必要だし、それは故郷をそもそも持たない都会人だからこそふるさとに憧れる。ふるさととは心の保養所なのである。まだそれがお持ちでない方は、ぜひまずは新潟へご一緒しませんか。

憲法記念日に2013年05月03日 20時21分41秒

★改憲論者たちの真意を探れ。

 憲法記念日である。あちこちで護憲、改憲双方の集会が開かれたことかと思う。自分も暇なら護憲派の記念集会とデモに参加する気でいたのだが、あいにく山梨県に出かける用事ができ、渋滞の中央道で北杜市の山間へ行ってきた。そのこについては後日報告できるかと。

 「タメにする」という言い方がある。自らのためになるよううまく話を取り繕い詭弁を弄するというようなことだ。
 安倍首相は海外へ、中近東の訪問国で原発売込みに躍起になっていたが、そもそも未だ放射能をまき散らし続け、汚染水は留まらず「収束」のメドがまったく立たないフクシマ原発を抱えてよくも安全性と高い技術力を口にできるものだとその厚顔さに呆れはてる。
 自分の尻が拭けないやつこそ他人をとやかく言うものであるが、自国のことを棚に上げて原発は「安全」だ、どうです、お一つ、と勧められてもそれを真に受けるものは大馬鹿かまた売国奴であろう。

 まあ、政治家なんて輩はどこの国も、国民や国の安全のことよりも自らとその一族の懐を肥やすことしか頭にないのだから意外に安倍セールスも効をそうし、発展途上国など世界中に原発がさらに増えるかもしれない。
 エネルギーは安定供給されるようになるかもしれないが、この地球は核のゴミで溢れかえることとなろう。増え続ける汚染水のタンクではないが、核廃棄物は世界中に溢れ出し人類は破滅へと突き進む。
 自民党が政権に復帰し、ウルトラ保守政治家たちが国政を担っているのだから驚くにあたらない。まあ、未曽有の大事故を起こしたのに、今も原発は安全だと言い続けるのは究極のタメにする論であろうか。

 そして憲法改正である。現行憲法が誕生して66年、一度も改定されていないのは異常だという理屈もまた、タメにする論であるし、変えたいが故にまず96条という窓口を変えて、簡単に変えやすくするというのもまた同様の発想でしかない。要するに詭弁であり屁理屈でありいったい何故に彼らは変えたいのか、変えてその先に何があるか見極めなくてはならない。

 一度も憲法が変わらないでいたことの利点と損失を考えてみる。平和憲法により武力を行使できなかったが故に、日本人は一人も戦闘で他国の人を殺さなかったし日本の兵士もまた戦闘で一人も死ななかった。憲法九条がなかったら日本人も韓国と同じくベトナム戦争に駆り出され内外多くの死傷者が出ただろう。米国と共に他国を侵略し戦闘行為と殺戮を行うことが国際貢献だとはタカ派であろうも言い難いはずだ。殺しも殺されずもしなかった。それだけでもこの憲法は価値があるのではないか。

夢か現か、2013年05月05日 23時05分49秒

★覚めない夢を見ているような

 落語の噺に、「芝浜」というのがある。たぶんご存知か。呑兵衛の魚屋と良くできたら世話女房との人情話である。
 
 酔っぱらってばかりの魚屋が大金の入った財布を拾い大宴会を繰り広げる。女房はこのままこの金があるともっとダメになると気を利かせて、翌朝、財布の件は夢の中の話だと信じ込ませる。やがて魚屋も酒をやめ真正直に働くようになり、ようやく3年後、女房は泣きながら財布を出して真相を告白、許しを請い大団円となるわけだが、自分もときおり、この噺の魚屋のごとくどこまでが夢だったのか現実のことなのかよくわからなくなることがままある。

 人は誰もが夢を見るわけだが、常にうんとシュールなバカバカしい、夢の中でも夢だとわかるような夢を見ている人もいるかもしれない。だが、自分の場合は、ほぼ日常とほとんど変わらない、登場人物も状況も現実の延長でしかない夢ばかりで、時々、夢と現実がごっちゃになり、その判別も含め現実世界との齟齬というか辻褄を合わすのに苦労することがある。
 誰それに既に話したと記憶していても実はそれは夢の中の出来事だったと、気がつけばよいほうで、もしかしたら自分が考えているこの現実もそうとう夢の中のことが入り交じり混濁してしまっているのかもと不安になる。

 それはアル中の症状の一つだとも言えよう。ただ、このところ基本的には始終日々呑むこともないし、呑んだとしても泥酔状態までなることはまずないから酒のせいだとは言えない。ただ、落語の魚屋のように酔っぱらいは現実のことでも周囲から夢だと否定されれば合点がいかなくともやはり信じてしまう。ある意味、それは夢か現か、というのはすごくあやふやで不安なことなのである。まあ、さすがに 幻までは観ることはまだないけれど。

 実は個人的にとても大きな良いことがあった。大げさに言えば、残りの人生の一つの転機になるようなことだ。ただ、それはまだはっきり「確定」したことではなく、自分でも半信半疑というか手放しで喜ぶべきではないと思うし、まだちっとも喜べない。話が結果として流れてもまた仕方ない、当然だという気持ちもある。
 だからまだここに何も書けないし、話が確実にまとまったらお知らせもできようが、今は残念ながら発表はできない。ただ、とても嬉しいわくわくするようなことであり、だからこそ、「芝浜」ではないが、これは夢なのかもしれないとさえ思うほどだ。

 じっさい、だまされているのかもしれないと考えたり、いや、これは現実のことなんだと思ったり、あれこれ考えている。今はまだ「待ち」の段階であるから、向うから次の連絡があるまでどうすることもできない。
 もしかしたらこれは夢で、やがて起こされて、ああ、やはり夢だったのか、でも素晴らしい楽しい夢だったと思うのかもしれない。そんな気さえしている。

 誤解されるとイヤなので、恋愛とか色恋沙汰の話ではないとだけ書いておく。ただ、それが現実に、つまり実現したら自分だけではなく多くの人たちにとっても良い楽しいこととなるのは間違いない。

 この数日。そうしてずっと覚めない夢を見ているような感じがしている。まあ、夢であっても現実でも今はもうどうでも良いような気持ちにもなっている。すべては神の意志、計らいなのだから。

あれから2年。一つの旅が終わった。2013年05月06日 22時27分06秒

★「追放の歌」はもう歌わない。

 今年の大型連休、ゴールデンウィークも今日で終わる。
 基本的に自営業というより居職、勤め人方とは違い、ほぼ毎日家にいる身としては、連休だろうが、日曜祝日だろうが、全く関係がない。公務員の方々とかは、日数が短い2月が嬉しいとか、祝日が多い月が有難いと思うのだろうが、出かけずに家で引きこもりのような生活をしているとそこに喜びも悲しみも何も感じない。

 それは飽食の金持が空腹を感じない、飢餓感を持たないのと同じく、幸せなのか不幸なのかすら判然しない由々しきことかもしれない。連日すし詰めの通勤電車に揺られて出社しないですむことは有難い特権かもしれないが、反面、仕事と日常生活というオン・オフの切り替えがないだらだらとしたメリハリのないうんざりの日常は永遠に続く。日曜も祝日もないのだから大型連休もないのと同然なのだ。
 
 それでも2年前まで、2011年までは、この季節は必ず関西へ、京都、大阪へ連休期間中、最短でも約一週間は旅行に出かけていた。目的は、大阪郊外、服部緑地で催される「春一番コンサート」観覧のためであった。ついでに京都にも寄り、行きか帰り一泊か二泊する。大阪の春一では春一の友と、京都では京都の友と会い、久闊を叙すのが毎年恒例となっていた。ある意味それが一年の節目、起点であり、メリハリとなっていた。

 が、それも故あって、主催者風太ら運営側から入場禁止を言い渡され、それを機にもう春一のために今の季節、大型連休に関西へ行くことは終わってしまった。春一に行けなくなって残念だとか悔しいという気持ちはないけれど、その続いていた旅行習慣がなくなってしまったことは寂しいというか、過去を思い返すと懐旧の気持ちがわく。
 春一は今年も続いてやっているかと思うが、自分の観覧スタイルが彼らに許されないなら行く気は全くないし、これからも行くことは絶対ない。となると、関西にも行く目的、理由、つまり「用件」がなくなる、そのことが残念というかただ寂しい。

 つくづく自分という人間は行楽、遊興にはまったく関心がない野暮天だと気づく。単なる旅行、バカンスとして男の一人旅だって気分転換にふらっと出かけても良いのだ。でも行く「目的」がそこにない限り、行楽や遊興のためだけなら自分は旅行など絶対に行かない。
 「春一」は自分にとっては単なるライブ観覧の遊興ではなく、取材と報告、記録が目的であった。それがまず根本にあって、次に友人知人との再開、余った時間に関西遊興が加わっていく。でもその関西旅行が毎年この季節に必ずあったから、一年はそこを既定に計画立てられた。5月の関西旅行を起点に気持ちも切り替えられた。それがなくなってリズムが狂った。

 それが失われてからずっと、自分は第二の春一を探し求めたり、代わりに根底に据えるものを無意識のうちに欲していた。でもようやく、今年になって、とにもかくにもその春一呪縛から離れて、自分なりの年間計画、ライフスタイルが動き出したように思える。
 それは拙宅、無頼庵での映画塾などであり、そんな風に今はともかくウチで、自ら何か企画して催しをやり続けていくことだと確信している。ただ、それはそれでまた面倒なこと、ツライこともあることも事実であり、旅行での気分転換のようなものを居ながらにしてどうとりいれていくか思案中だ。

 ただ、あれから2年。屈辱の春一番からようやく立ち直った。今さらだが、心機一転、気持ち新たにここから始めたい、やっていこうと思い直したところだ。

人はもっとうたい、語るべきなんだと2013年05月08日 21時03分59秒

★いろいろ遅れて申し訳ない。

 夜になってまた風が出てきた。うすら寒い。
 今回の風邪は、さほど悪化せず腰痛にも至らずに過ぎ去った感がある。でもまだ鼻の奥というか、喉が痛いし、昨日まで咳も残っていた。こう寒いと自分でなくても体調を崩す人が多いかと思う。季節の変わり目、ご自愛ください。

 ちょっと家庭内、私的なことでごたごたしていて、ゆっくりパソコンにさえ向かえずにいる。この数日を乗り切れば落ち着くはずなのだが、ともかく待つこと、やり過ごすしかない。

 インターネットの時代、人はネット上で、ハンドルネームを使って様々な出会いや情報を発信して人と関わりあっていくのだと思う。じっさい、三留さんのやっているフェイスブックだと、人伝てに、まさに「友達の輪」として次々と人間関係、交友関係が広がっていくのだという。
 そうして会ったことのない人とでも知人、友人、連絡先、となっていくのはすごいことだと思う。自分もそれに参加すればもう少しは、マス坊関連の企画にも人が来てくれるのかもしれない。

 自分もフェイスブックをやるべきか、やったほうが今後役立つのか迷う気持ちも出てきたが、今のところはまだこの読む人の少ないブログだけで書き続けていこうと思っている。まあ、どんなお知らせや告知宣伝をしようとそもそも無名の身ならそれを読む人自体少ないのだから世に広がっていくわけもないのである。
 でもそれはそれとしてその上で、知る人ぞ知る、と開き直って続けていくほうが自分には性にあっている。いまさら有名になりたいとか売れたいとか考えはしないし、それよりも関心はまったく別のところにある。大事なのは自己表現の完成であって、世俗的評価などはその後にくるものでしかない。
 広く浅く、世に知られるよりもごく少人数であろうともわかりあえる、こんな自分を受け入れて理解してくれる人たちと深く付き合いたいと願う。その人のためにお役に立ちたい。

 今は不義理の果てにずいぶん人間関係は小さくなったが、それはそれで淋しくてもずいぶん楽になった。来る者拒まず、去る者追わず、何を言われても構わないしどう思われようとどう扱われようと気にしない。どうせもうすぐ誰もが皆死んでしまうのである。せいぜい数十年の時間の中の話で、半世紀もすれば自分だけでなく、この同時代に生きた人たちすべて死に絶えて、有名無名問わずこんな人たちが生きていたこと、あれこれやっていたことなど誰一人知る者もいない。

 今の関心はただ一つ、自分はもっとうたいたいし、語りたい、書き記したい、そうしたいことが山ほどある。でもそれは、自分だけではなくて、映画塾などでの来客を見てもみな同じなんだと気がつく。
 誰もがそれぞれ自分だけの気持ちを語りたいし、歌いたいし、そうした場を求めている。うたうというのは、メロディをつけての「歌」だけではない。詩だって同じことで、ため息のようなそのときどき、日々の生活の中から口をついて出てくる言葉がある。
 そうした「表現」を大事にしていきたいし、プロとかアマとか関係なく、皆それぞれ自分だけのうた、語りたいことを持っている。それを聞かせてほしいし、その発表の場が求められているはずだ。

 自分ができること、すべきことはそうした「場」を設けて、出会いも含めてお膳立て、もしは裏方、世話役をすることぐらいだ。今度は近く「朗読詩」の催しをやっていく。メロディのない「うた」はもっと誰しも気軽に作れる、外に出せるものだと信ずる。うまい下手はそこにはない。あるのは人の数だけそれぞれのうたがあるだけなのだから。
 非力な自分でもそうしたことに関わっていきたい。他に参加者がなくたってかまわない。少なくとも自分だけはそうした「うた」をうたっていきたい。

街にいでよ、意志を示せ、行動せよ。2013年05月09日 12時30分11秒

★意志を示さないのは現状追認なのだ。
 
 何事も「先送り」にする、というのは日本人の特性、得意技だとよく言われる。その真偽はともかく、「判断保留」というのは誰だってよくやっている。
 また判断保留としなくとも、「そのまま」、つまり現状のまま何もしないでいるということはよくあることだ。気持ちとしては「やる」つもりでいる。が、あれこれ何だかんだ忙しくて結局そのままとなってしまっていることは自分には山積している。人様に連絡や送るものなど、約束もしすべきことはいっぱいあるが、忘れてはいないし気は焦るばかりでもなかなか果たせない。
 自分はやるつもりでいても実際はやっていないのだから、他人から見れば、やる気がない、結果としてする気はない、=それは「やらない」という選択をしたと受け取られても仕方ない。こちらの内心は相手に届かないのだから。
 
 AとBという選択があるとする。Aは、する、Bはしない、だとして、AだろうがBだろうが、そのどちらかの意志はあるのだが、それを行動として示さない限り、結局は今のまま=現状を肯定し、する、でも、しないでも意に反してそれを選択したことになる。

 具体的に書く。例えば原子力発電所がある。その存続と再稼働が政府の既定方針だとする。それに対して、反対だという気持ちは持っている。しかし、それを示さない限り、結局のところ再稼働を容認する「選択」をしたと受け取られ、原発再稼働、存続へと国策は動いていく。
 すべてのことはこれと同じで、何らかの行動、判断に際し意思を示さない限り、それは現状。現実を肯定し支持したこと認めたこととなってしまうのだ。

 人は結果としてそうした本意に反した「選択」をしてきてはいないか。怠け者の自分はそんなことばかりである。せめて残りの人生、故清志郎の遺志に背くことのないよう、しっかり声をあげて行動で示していこう。亡き人の命日に思ったことだ。そう、今もベエベー、愛しあっているかい!?

イラン映画『別離』を観て2013年05月10日 20時59分51秒

★国や宗教、人種に関わらず人間の罪とエゴを見つめた佳作。

 今日、ギンレイホールですごい映画を観た。深く考えさせられた。おそらく今年一番の収穫であろう。いや、生涯のベストテンには必ず入れたい。それほどの衝撃だった。

 面白く愉快な娯楽映画ではまったくない。ある意味辛く拷問のように思えたほど重くるしい苦い後味の映画だ。しかし、すべての本物の芸術がそうであるように、そこに「真実」があり、「本当のこと」が描かれていた。国や体制、人種、宗教を超えて、人とはどういう生き物なのか、深く考えさせられ思い知った。
 
 ギンレイの宣伝文をそのまま載せると、

『別 離』
JODAEIYE NADER AZ SIMIN 2011年 イラン映画 ペルシア語 123分
★第61回ベルリン国際映画祭 金熊賞(作品賞)&銀熊賞(男・女優賞)ほか受賞
★第84回アカデミー賞 外国語映画賞受賞
★第69回ゴールデン・グローブ賞 外国語映画賞受賞

監督: アスガー・ファルハディ
出演: レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ
配給: マジックアワー、ドマ

テヘランで暮らすシミンは娘の将来のため国外移住を考えるが、夫ナデルの父の介護のために計画が狂う。シミンは実家に戻り、ナデルは父親の介護のためにラジエーという女性を雇うが… 複雑に絡みあった真実に翻弄される2組の家族を描いたヒューマンドラマ!

  --とある。

 ストーリーは、妻から離婚を切り出された夫ナデルが、アルツハイマーの父の世話を代わりに頼んだのにしなかったと、ラジエーを激高のあまりアパートのドアから強く追い出したため彼女は階段に落ちて流産してしまう。
 ラジエーが妊娠していることを知っていたのだから「殺人」だと、ナデルは告訴され審問が行われる。ナデルは聞いていないと言い張り、双方の夫たちは激しく憎しみ合い、逆にラジエーを父親虐待で告訴し、泥沼の争いが続く。ラジエーの夫も精神を病み自暴自棄となる。ナデルは妊娠を果たして知っていたのか、真実はどちらにあるのか。双方の子供たちをも巻き込んで二家族はバラバラになり破滅へと突き進む。

 そこに描かれているのは、人間のエゴ、原罪で、衝動的な怒り、一人一人の身勝手さと保身ための嘘、つまらない意地、金がからんだ打算と欲であり、罵り合う大人たちの間で、それぞれの子供たちは振り回され悩み苦しみ涙を流す。
 傍から見ていると、お互いが赦し合い、起きてしまったことは受け入れればこれほど事態は悪化せず苦しむことはないと思える。が、当事者というのは冷静さを欠き頭に血が上り、怒りと憎しみのあまり自ら破滅へと突き進んでしまうものなのだ。

 自分も数年前に近所で交通事故をしでかし、相手側とほとんど同様の事態に陥ったことがある。今も示談に至っていないし向うは口もきかないままだ。幸いそのときは死亡事故に至らずにすんだことと、相手方との交渉は保険会社が担当してくれたからナデルたちのように地獄に落ちなかった。映画はまさに他人事でないと思ったし、国も人種も違えど人間とは全く同じだと深く考えさせられた。

 ただ、映画は事態の解決にはならないけれど終結はする。それは彼らには強い信仰があり、戒律を守ろうとしたからだ。コーランに手を置き誓えるか、と問われれば彼らは「真実」を語るしかない。その点、神を持たない日本人に果たして同様の態度がとれるだろうか。残念だが自分も含めて多くの日本人はその嘘も含めて「罪」を生きていくためには仕方ないのだと自らをも欺いて納得させてしまうのではないか。あるいはその罪自体、罪だと気づかないかもしれない。

 この映画により自分は自らの罪の深さに気づかされた。観れたことは幸い、光栄であった。同時併映は、香港映画『桃さんのしあわせ』で、これも心温まる良作であったが、かすむほど『別離』に圧倒された。

小売りの商売はほんまにもうあきまへん2013年05月11日 23時21分10秒

★アベノミクスで金持はさらに金持に、貧乏人はより貧乏に

 経済の世界では、円安がさらに進み、一ドルが百円を超えたとか、平均株価が一万三千円台を突破したとか景気の良い話題でもちきりである。マスコミは大騒ぎしあたかも大不況を脱して景気回復が成ったかのようだ。
 これは民主党野田政権が昨年、衆院解散を宣言してからの流れだそうで、だとすれば、景気回復の最大の功労者は、野田前首相だということになる。民主党だったから景気が悪かった、自民党が政権に復帰したら好景気になったのなら永遠にまた自民党政権が続けばこの国は安泰であろう。

 しかし、現実のはなし、自分の周りで景気の良い話は全く聞かれない。一部の大企業の社員や銀行、証券、不動産業などに携わる人たちには金が廻っているのかもしれないが、大方の庶民には懐が豊かになったという実感はまだ全然ないのではないか。
 何故なら急激な円安で、物価は上がっているのに肝心の所得は増えていないからだ。つまり様々な増税も含めて支出は増えているのに、給与や年金は減らされる一方でまったく増えていかない。まだ民主党政権のときのほうが、無定見なバラマキと揶揄されようとも富の再分配に関しての見識が少しはあった。

 今の安倍政権のやっていることは、かつての「勝ち組・負け組」路線の復活であり、要するに大企業などの金持はさらに豊かに、低所得者層はますます貧困へと二極化を推し進めているのに過ぎない。政府日銀あげて大量にお金が供給されてもそれは庶民の懐には入らず大企業や富裕層が溜め込んで吐き出さない。これでは景気回復になっていかない。イトーヨーカドーの社長ではないが、まずは社員の給与を上げて国民全体の所得を増やさないことには人は金を使えないし使わない。

 マスコミは、円安になった株価が上がったとそれは良いことだと嬉々として報じている。だが、庶民にはまったく関係のない話だし、煽られてなけなしの貯蓄を投資に運用する愚などおかしてはならない。この景気浮揚感はまさに安倍バブルと呼ばれるようにバブルでしかない。そこに実体はまだない。
 今は世界経済が割と順調で不安材料が見当たらないからそれにつられて日本経済も上向いている。が、ひとたび有事が起きたり大災害に襲われればまたすぐに急転しこのバブルははじけてしまう。
 もしも月給が上がったら~という懐メロもあったが、これで月給や年金が上がっていけばまだ消費は持ち直す。経済も立ち直る。しかし、今のままでは、一部の金持や大企業だけが食い逃げして、農家や中小企業などはTPPと相まって金欠から困窮のあげく滅亡していくだろう。

 私ごとだが、古本商売に関しても景気回復感、好景気感はまったくない。それどころかCDなども含めて小売業はどれも全くダメだ。マスコミが報じている一部の宝飾品など好調というのは眉唾ものだと思う。むろん、勝ち組の人たちは持て余した金でブランド品を買いあさるだろう。しかし庶民は少ない給料の中でやりくりに頭を痛めているのが現実なのだ。
 今景気が良いと思えるのは、ユニクロやしまむら、業務スーパーなど安売りをウリにして店独自のルートで生産から仕入れ、販売ができる力あるチェーン店だけだ。本にしろ何にしろ従来型の出版から販売、流通まで分業で成り立っていた商品はもうコストがかかりすぎてやっていけないのではないか。

 本はなくなりはしないが、本屋、古本屋に未来はない。もう約10年、末端ながらも古本稼業に手をそめてきたが、そろそろ撤退の潮時かと思えてきた。もはや経営努力や工夫では対処できない。いくら株価が上がろうと庶民の所得が増えなければ景気は回復しないし、庶民は本やCDなど文化には金は使わない。まずは食べるもの、そして着るもの、さらに余裕あれば住むところなのだ。
 商売をやめるとしても大量の在庫を抱えたこの身ではすぐに撤収ははかれない。が、本の処分と並行して何か別の商売を見つけなくてはならない。小売り業はもう何であろうとまず難しいご時世なのだ。何の仕事がある、この歳で。

 年金もない身、残りの人生どう生きていけば良いものか。まあ、幸いなのは持ち家があり、妻も子もない独り身だということだけだ。我が身のことだけ考えればすむ。老親たちが生きている間はともかくも、一人なったら自滅するだけかもしれないが。