2014年、あけましておめでとうございます。2014年01月01日 16時22分34秒

★本年もよろしくおつき合い願います。    現在のアクセスランキング: 133位
 
 皆さん明けましておめでとうございます。無頼庵・マス坊です。まずは本年もよろしくお願いします。
 届いた年賀状の分の方はおいおいこちらから返事を出しますが、ネット上での関係の方にはこの場をもって新春のご挨拶とさせていただきます。
 平和憲法の危機が叫ばれる大変な時代状況ですが、諦観や臆することなく常にこれからも声をあげ今できることを全力でやっていこうと誓い新たに2013年元旦のブログに記します。

 体力的に無理はできない年代となってしまいましたが、がんばらなくてもあきらめずに精一杯人生をしっかり生き抜いていこうと思います。皆様もご自愛のうえ、できる範囲でご協力ください。思いを同じく者みんなで情報を共有し、支援と連帯の輪を広げていきましょう。「無頼庵」はその集いと発表の場として今年も開放していきます。
 
 貧しい者も障碍のある者も弱者もマイノリティも外国人も心と体を病む者も、老いた者も被災した者もそしてこの地球上の生き物すべてが差別や抑圧、弾圧、疎外されることなく、共に等しく生きていく権利が保障される真に豊かな世界を目指して一人一人が、まずこの自分が変わらねばと強く思います。

 世界を変えたいと望み求めるならば、まずここから自分からだと。小さな一人一人、個人の思いが日本を、世界を、そして地球全体を変えていく。そう信じて今年こそ成果ある年にしたいと願います。この国を、この社会を何とかしたい、何とかしないと大変だと少しでも思い、心痛めている方はどうか共に声を上げて行動していきましょう。

 遅すぎることはない、死に急ぐことはないと今も誰かがうたっている。

無頼庵2014年のイベント日程2014年01月02日 16時04分54秒

イラスト*鈴木翁二
★ぜひどなたでもお気軽に!       アクセスランキング: 85位

 新しい年が始まった。今年こそ体調を整えて滞っていた人生を巻き返したいと望む。今年前半の予定がだいたい出そろったのでまずお知らせしたい。時間や参加費など詳細はまた別途に記す。

 1月19日(日) 三留まゆみの映画塾
 2月9日(日)  春の詩朗読ライブ
 2月23日(日) 三留まゆみの映画塾第一期最終回
 3月23日(日) 館野公一 うた世界第2章 ゲスト・みほこん+
 4月27日頃   特定秘密(シークレット)ライブ企画
 5月17日(土)  シバ 無頼庵初ソロライブ ※オープニングアクト有

大瀧詠一を悼む2014年01月03日 11時24分43秒

★音作りの「職人」の早すぎる死に。       アクセスランキング: 108位

 正月三が日も今日で終わる。まあ、東京は雨も雪も降らず穏やかな正月、2014年の幕開けであった。

 ご存知のように昨年暮れ、大晦日の慌しい最中に大瀧詠一氏急逝との報がマスコミに流れた。地元近在の有名人である以前に、アメリカンポップスの求道者、そしてサウンドクリエーターの嚆矢として自分も若いところから多大な影響を受けた。実に惜しい方を失ったと思う。まだ60代半ば、あまりにも早すぎる死ではないか。正月だがあえてそのことを書く。

 伝説のロックバンド「はっぴいえんど」のボーカル&ギターとしてよりもいったい彼は、何で有名な人なのであろうか。やはり、歌手として、あるいは小林旭らにヒット曲を提供したクリエーターとしてたぶん巷では知られていると思えるが、自分たちの世代ではズバリ「ナイアガラレーベル」のドンとしてポップスの仕掛け人、あるいはDJとしてラジオから耳で親しんだ兄貴ではなかったか。

 このところ先の山口富士夫、かしぶち哲郎氏も同じ年代だと思うが、還暦を過ぎた団塊の世代のミュージシャンの死が相次いでいる。もう櫛の歯が抜けるかのようで、フォーク仲間はともかくもロック、GS関係では世に名前が知れている方々では生きている方のほうが少ないのではないか。

 自分が十代の頃、聴きこんだ、GSから日本のロックバンド、フォークミュージシャンたちは今皆還暦を過ぎ、ほぼ全員60代半ば頃であろうか。子供のときはずいぶん大人だと思って見ていたが、考えてみれば10歳ぐらい上でしかない。つまり皆「兄貴」世代であったのだと大人になって気がついた。そして今そうした世代の人たちが次々死んでいっている。

 フォーク関係では、高田渡がまず先陣を切って50代半ばで鬼籍に入ってしまったが、意外と他はしぶとく、倒れた方もなくはないがまだ生存かつ現役率がすごく高い。しかし、何故かロック関係はほぼ総崩れと言ってよいほどで、GSの頃からまだ元気でいるのはもはや裕也さんぐらいではないのか。その理由はおそらくロック的破滅的性向が関係してかと想像する。よってジャズの世界はもっと早死にである。

 しかしそうした世界から遠いはずの大瀧氏がその年で急逝してしまったことは大いに驚かされその死因もまたいろいろ考えさせられる。
 彼の業績というか、いちばん評価したいことは、アメリカンポップスのコレクター、マニアックな研究者として、名プロデューサー・フィル・スペクターらに早くから注目し、自らのラジオ番組の中でそうしたレアな業界裏方たちを取り上げ知らしめたことだろう。かくいうこの自分も彼からずいぶん裏方的プロデューサー、コアなミュージャン、沢山のソングライターを教えてもらった。そのDJスタイルはあの糸井五郎氏の流れにあるもので、彼のうたとは違い歯切れ良く実に耳に気持ち良かった。そう、そもそも「はっぴいえんど」時代、その直後の彼は他の強烈メンバーに比べていちばん地味であったかと記憶する。人気実力の細野氏、作詩家として超売れっ子となっていく松本隆氏らの間で埋没していた気がする。

 しかし、福生に自らのスタジオを構えて、彼が深く愛し耽溺していたアメリカンポップスの世界にどっぷり浸かって、その方法論で次々とヒットチューンをCMソングからナイアガラ、そして歌謡曲まで生み出していく。そのサウンドはまさにF・スペクター的で、聴けばたちどころに大瀧氏のワークスだとわかる「サウンド・オブ・ウォール」であって、そんな音作りをミュージャン自ら手掛けたのも彼が嚆矢であった。まさに和製フィル・スペクターとして、これからもポップスの仕掛け人として、さらなる佳曲、名曲を生み出していけたはずでまずそれが残念でならない。
 また、彼の膨大なレコードコレクションの行く末もとても気になる。中村とうよう氏のようにどこかの大学が引き受けてくれない限り散逸してしまうのではないか。こうしたアマチュア研究者、コレクターの私「仕事」こそ、没後公的機関が一括して面倒をみてくれないと本当にもったいないことに、死後全てが消えて水の泡となってしまう。

 当初、自宅でりんごを喉に詰まらせたなどと報じられた後で彼の死因と発表された「解離性動脈瘤」は、先年、自分もごく親しくしていた高校のときから付き合いのあった後輩をこれで失くしている。これは、太い動脈の血管が剥がれ落ちて心臓が止まるというもので起きたら100%死ぬという怖い病気で、まったく前兆も何もない。そしてものすごく痛く烈しく苦しむと家族から聞いた。友人の死に顔は苦悶のあまり形相すら変わっていた。大瀧氏もそんな風に死んだことを思うと何ともやるせない辛い気持ちでいる。

 癌などで長患いで時間かけて死ぬのも当人も家族も辛いと思えるが、こうして発症からほぼ一瞬で即死してしまう病気もまさに怖い。まさに突発的急死となる。しかもこれは気のせい、偶然かもしれないが、その友人も大瀧氏も米軍基地の近くに長年住んでいたのだ。そこに何か因果関係はないのか。自分もまたこれで死んだらぜひ誰か調べてもらいたい。そのことも記しておく。

 ミュージャンは皆、作詞作曲楽曲は作るし作れるが、サウンドまで作れる者はそれまで誰もいなかった。サウンドとはアレンジのことではない。つまりミキシングまで含めて自在にサウンドをいじって独自のオリジナリティあふれる「音場」まで構築していく。今ではそうしたことは機材の進歩発展もあって素人でもできなくない時代であるが、この国でミュージシャン自らが最初にそうしたことを手掛けたのは大瀧氏からではなかったか。
 何のことかわからない方は、彼のシングルヒットした曲でもいいし小林旭の「熱き心に」でもいい、思い浮かべてもらいたい。あんなサウンドの歌謡曲がそれまであったか、ということだ。
 世間ではこうした仕事にあまり注目しないが、天才サウンドクリエーター、音の魔術師、日本のフィル・スペクター大瀧詠一のあまりにも早すぎる死はもっともっと嘆き哀しむ人がいてもいいはずだ。

 神様は何でこんな不平等なことをするのか。何で彼のような善人にもっとも苦しむ死に方を与えたのか。彼の魂のやすらかであることを祈るだけだ。

長生きこそが芸人なのである。2014年01月04日 09時52分06秒

こまどり姉妹のデビューLP。可愛いではないですか!
★こまどり姉妹、浜村美智子・・・・そして菅原都々子
アクセスランキング: 115位

 生まれてきた者はやがて必ず死ぬ、のは世の定理である。そこにあるのは、早いか遅いかだけの違いであり、生後すぐ物心つかぬうちに生を終えるものも、百歳を越えても元気で活躍する者と違いは何もない。
 そもそも人の死とはごくごく個人的なものであって、他者には全く関係のない、関われないことなのである。「生」には関われても「死」には関われないのが不思議な気もするが、生まれて以降の「生」はあくまでも個々のものでその延長先に死が待っているからに過ぎない。

 しかし、社会的存在である我々ニンゲンは、他者の死に対しても悲しみや哀苦の痛みを強く感じる。死んだ当事者はもう何も思わず感じもしないはずなのに、まだ生きている者こそが苦しくつらい。それはもうこの世では再会かなわぬ別離の悲しみであり、大事な人たちを失うことの喪失感、虚脱感、無常感など様々な負の感情である。
 そう、ならばこそ人は簡単に死んではならないのではないか。生まれてきた者はできるだけ長生きする責務があるのではないのか。

 毎年、大晦日には、ウチでは夕方からテレビ東京が放送する大みそか恒例特番・昨年は「第46回年忘れ!にっぼんの歌」を欠かさず観ている。ほぼ同時刻帯に放送される紅白はもうずっと観ていない。以前は録画していたが、もう録画しても観ないので逆にこちらを録画するようになった。ようするに過去の人気歌手たちが大挙して登場する懐メロ歌謡番組である。実は子供のころからずっとこれを観ていた。年末恒例の紅白の裏長寿番組だ。東海林太郎とか藤山一郎、ディック・ミネ、淡谷のり子、灰田勝彦ら大御所もこうした番組で知り子供なのに親しんだ。やがて魅了され幼いながらもファンとなった。自分の歌謡曲の知識と思い入れはこうした懐メロ番組によるところが大である。

 「うた」は今のもので、時代の今を映す鏡だとすれば、本来は紅白のほうを、今年活躍した話題のシンガーたちを観ないとならないはずだが、エクザイルにしろ、AKBにしろもう自分は音楽として全く関心がないので、そこに出てくる人たちは見る、知る理由が特にない。誰がセンターだろうが本当にどうでも良い。一部を除いて彼らの「音楽」は後世にたぶん残らない。
 それよりも自分が昔から聴いていた、子供のころから知っている大好きな懐かしい歌手たちが今も元気でいるかということのほうが重要なことであって、まさに懐メロ趣味、回顧的だとは思うけれど商売柄古いものを扱うこの身としてそれも当然ではないかと思える。まあ、それだけこの身も老いて今の時代について行けなくなっただけなのだが。

 それでも今回もその番組では毎度懐かしい顔ぶれが見れ安心した。まだ元気でやっていたのかとわかってほっとした方々が大勢いた。正直な気持ち、大晦日にこまどり姉妹を観ないことには年を越した気がしない。それほど彼らが好きになった。もう白塗りの老婆も老婆、かろうじて動いているように見えるがどうしてどうしてかくしゃくとしたお二方だ。

 何が嬉しいかといって、この初老となった自分が子供の頃から見てきた、昔から知っている人たちが今もまだ元気で活躍していることは大いに励みとなるし有難い嬉しいことではないか。芸歴60年を越す方も何人もいるのである。自分が生まれる前から既に芸能の世界で活躍していてそして今もまだ唄っている。その事実は信じられないほど素晴らしいことではないか。

 去年大晦日の生放送特番では、ランダムに記憶をたどり上げると、そのこまどり姉妹の他、ペギー葉山、ジェリー藤尾、青木光一、大津美子、山田太郎、美樹克彦、それに珍しく梶光夫までも。もちろんその他多くのベテラン歌手が登場した。だが圧巻は、カリプソの女王浜村美智子で、「バナナボート」を衰えぬ声量でしっかりラテントリオを従えて「ディーオ、イデデエ-オ・・・」と堂々と謳い上げた。彼女が見れただけで至福の感があった。何しろこの曲のヒットは昭和32年、自分が生まれた頃なのである。その時から今も現役で唄い続けている。奇蹟というかまさに「神」だと思えた。考えてみてほしい、いったい何歳なのか。

 そしてさらに驚かされたのは、引退していた菅原都々子も特別に来て「月がとっても青いから」をあの唯一無比のビブラート唱法で披露してくれたことだ。死んだという記憶はなかったからまだご健在だとは思っていたがまさか一日だけ復活されるとは夢のようであった。さすがに声量は衰えていたが、この日出られた方々は米寿を迎えてもそれぞれ一人で直立しマイクをしっかり握り自らのうたを堂々と唄い終えられた。見終えて感無量、穏やかな幸福な気持ちになれた。

 「長生きも芸のうち」とは、百歳まで生きた岡本文弥師匠の残した言葉だったかと記憶するが、最近そのことをよく考える。そもそも芸人なんて、見られてナンボの世界なのである。その覚悟の上でこの世界に飛び込み、板の上で芸を磨いてきた。ならば一度覚悟を決めてその世界に入った者は、死ぬまで人前に出続けるべきではないのか。たとえヨボヨボになろうとも人前で唄えたり芸ができるうちは死ぬその日までこうして舞台に出続ける義務があると自分は考える。それこそが「芸人」であろう。
 こちらは彼らを 昔から長い間ずっと観てきた。そしてもし彼らが年上であればこそ、老いても元気な姿が見られればこちらこそ頑張らねばと奮起もするし何より互いにそんな年月を重ねられたとすれば有難く嬉しいことではないか。元気な老人の姿こそが他者を元気づける。この国を元気にさせる。そしてその老人がスターであればなおさらだ。

 自らの不始末などで早死にする芸人もいなくはない。しかし、真の芸人は、こまどり姉妹や浜村美智子のように七十をとうに過ぎても人前に出てその姿をさらし自らのうたを堂々と唄うべきである。そう、それこそが芸人、とことん長生きしてこそ本物の芸人なのである。いつまでも死なずに芸人を続けていくこと、長生きこそが「芸」なのである。
 お千代さんこと島倉千代子も昨年残念ながら意外に若くして死んでしまったが、死の三日前までレコーディングをし新曲を残していた。その話を知りまさに頭を垂れるしかなかった。壮絶の一言であろう。彼女もまた真の芸人であった。

 AKBでも誰でも良い、プロならば真の芸人を目指せ、そしてこまどり姉妹の歳までも皆でテレビに出続けよ。老いても元気な姿を人前で晒せ。それこそが芸人の役割と価値なのだ。新年はそんなこと、死と生についてあれこれ考えていた。

新年早々山梨へ2014年01月05日 10時10分38秒

★戻ったらまた書き込みます。        ランキング: 129位

 新年も5日となった。母を連れて湯治目的で山梨へ行ってくる。明日早々には戻る予定。本格的新年の始動は明日月曜日から。


  新年初めての山梨県北杜市須玉の山奥、増富の湯での湯治行である。その報告と向こうで考えたことなどを少し。

 東京も昨日から冷え込んだらしいが向こうはさらにさすがに寒かった。標高千メートルの山中は暮れに降った雪が凍ったままかなり残っていた。まあ、今回はチェーンなしでも無事に行って帰ってこれたが、たぶん一度こちらでも本格的積雪でもあれば、山中は除雪も遅れるしチェーンなしでは走れなくなるから春が来るまで行けなくなる。そう考えて正月早々に親たちと行ってきたのだ。むろん寒い、問題多発の古民家に泊まってきた。

 山梨へは暮れの25日も親たちと行ってきたばかりであるが、そのときは増富までは時間的制約もあって行けなかった。もっと手前の明野のという韮崎に近い山村の公営温泉には入ってきた。別荘住人扱いで割安で入れたものの、そこは泉質はもう一つでやはり癌の治療には増富の湯に限ると、果たしてこの季節は道が通れるのか不安であったがその目的だけに出向いたのだ。むろん、車の荷台には向こうに移動させる雑誌類など満載してである。

 昨年ひょんなことから縁ができ、今自由に使えるようになった「古民家」は山梨県でも最北の北杜市須玉町にある。北杜市は清里とか小淵沢まで含むもう長野県に隣接した八ヶ岳山麓の町村がいくつも合併してできた平成の新しい市である。だから甲府や演算、勝沼よりもっと遠いし寒い。しかもその須玉でも古民家はインターのある平地からさらに山を登って行く山間の集落にある。

 その増富温泉峡は、また古民家からさらにまた山奥の、瑞牆湖という、東京でいえば奥多摩湖のような秋は紅葉の名所、観光地のまたさらに奥にある武田信玄の隠し秘湯とのことで、約20分、山道をさらに長野寄りに登って行かねばならない。そこの標高は千メートル、瑞牆山の山腹にある。だから冬は道も凍結しているし、雪は降ったらとけない。韮崎から定期バスも走ってはいるがかなりの覚悟で行かねばならない。

 しかしそこの湯は、前にも書いたが、かなりの効能がある。手元にある温泉の本では、昔、昭和28年の調査ではラドン含有量は世界一とのことで、温泉そのものの泉質としてはあの有名な東北の名湯玉川温泉より上ではないかと自分は考えている。まあ、果たして癌を含む末期的難病に本当にどれほど効果があるのか保証あるわけではないが、湯だけでも知る限りあれほど効きそうな湯は見たことも入ったこともないのものだから、せっかく近くにタダで泊まれる古民家を手に入れたの訳だし行かないと損なのである。元々「鉱泉」だから基本ぬるいけれどそれもまたいたしかたない。

 毎度のことながらウチを出るのにもたもたして、結局、韮崎のインターを出たの午後2時であった。それから弁当など買い物を慌ててして、古民家には寄らずに、重たい雑誌の山を積み込んだまま山道を車走らせその増富の湯についたのは3時過ぎであった。そして何とか3時半には湯に入れた。今の季節、営業は6時までとのことで、苦労して行ったのだからせめて2時間はゆっくり入っていたいではないか。

雪の温泉に浸かって考えたこと2014年01月06日 16時25分07秒

わーい、雪だ、雪だと喜ぶブラ彦&ベル子夫婦
★ここまで生きてこれただけで良かったと思った。     アクセスランキング: 112位

 【前回の続き】
 先にも書いたが、ここの湯は温泉ではなく鉱泉だから、もともとはとてもぬるく、かけ流しの源泉は20度ほどしかない。それを沸かし直して、最高温度が37度からじょじょに温度の低い湯が湯船ごとに分かれていくつもある。湯治客はいくつもの湯でのぼせたら低い湯へ、寒くなれば熱い湯へと調節して何時間も入っている。

 今回は外は雪が残っていたこともあり、さすがに半露天の源泉にはろくに入れなかった。入っている人は一人もいなかった。自分はバカだから、サウナにかなり無理して入ってとことん汗かいてからそこに浸かったが、少しすると寒くて心臓麻痺起こしそうであった。でもまたその冷たさが気持ちよく半ば意識モウロウとしつつそこに浸かりながらあれこれ考えた。いや、考える以前に「天啓」のように頭にもたらされたこと。

 自分も含めて人はどんな時代であろうとも今まで、つまりそこまで生きてこれたのならばそれは良いこと、良かったのでないか。自分のように、問題ばかりしでかし何一つものにならなかった、仕事も結婚もできなかったとことんダメな、中途半端な人間でもともかくこれまで、この歳まで生きられた。また、金はなくても大した苦労もせずに好き勝手なことを自由気ままにあれこれやってこれた。じゅうぶん自分勝手に生きられた。
 ならばどんな時代がこようと、どんな嫌なことや辛いことがあろうと、恥ばかりかこうと、皆にバカにされようともうここまで生き、生きてこれたのだから良いではないか。良いこと、良い人生ではなかったか。いや、自分に限らず誰であろうと、どんなに大変でもともかく死なずに生きてこれたのならそれは良いこと、良い人生なのではないのか。
 存分、幸せな、人並みの、いや人並み以上の人生だったのかもしれないと気がついた。こんな温泉にこれて、近くに古民家も手に入れて、老親と秘湯につかれる幸福・・・。

 むろんこれからのこと、様々な金の支払いのことやあれこれやるべき面倒な作業は山積みである。考えると憂鬱である。一人でどう生きていけるか不安も多々わいてくる。果たしてそれができるものか、と登山のとき、これから登る峰を見上げて、まだ、あんな高いところまで、あんな遠くまであるのか、と思わず息を呑むような気持ちに近い。だが、大変だと考えれば何事も大変だし、振り返ればもっと大変な絶望的な事態でも何とかヘラヘラと乗り切ってきている。ならば先のことはあれこれ考えない。だいいちオレはそんな計画的人生の人間ではないではないか。※世の中には学校から就職、結婚、子供まで将来を見据えて計画立てられる人間がいる。しかし自分はまったくそうではなかったのだから。常に無計画、目先のことだけ人間だったのだ。

 そんなダメの人間でもこれまでも何とかなったのだ。何とか無事に生きてこれた。本当はもっととっくに死んでいてもおかしくなかった。罰が当たって当然なこともしてきた。それぐらい無茶なことばかりやってきた。しかし幸いにしてもたぶん神のご加護があったからだろう、この歳まで生きられた。神様は見捨てなかった。そしてもう折り返し点はとうに過ぎ、終着点も間近に見えてきた。ならば良かったのではないか。もうここまで来たのだから。

 近年、多くの大切な人を喪うことが多くなってから、ともかく生きているだけで良しとしようという気持ちが強くなってきたが、今年は正月明けそうそうに温泉の中でそんなことを考えた。

 ただ、ではこれで、後の人生は「おまけ」だとして、この人生を肯定し過ぎて弛緩してはならないという「声」もしている。もしこれが幸せだとして、満足しその「幸福」に溺れて、ただこうして温泉に浸かり、後は何もしない人生で良いわけもない。何もしないこと、不作為のツケは必ず己に返ってくる、と昼に入った食堂に置いてあった山梨日日新聞の一面の対談記事の見出しに書いてあった。語っていたのは色川大吉と上野千鶴子であったかと記憶する。

 これまでのこと、全てに感謝しつつ気を緩めることなく残りの人生、ラストスパートをかけていく。バカにはバカの、ダメにはダメの矜持がある。

新しい年が始動して2014年01月07日 21時21分51秒

★さて景気は回復したのか        アクセスランキング: 136位 

 新年も7日、七草粥の日である。今朝はこの冬一番の冷え込みであった。外の犬たちの水も凍りが厚く張り、陽が上ってもなかなか溶けなかった。
 早くも何故かどっと疲れが出ている。暮れから正月にかけて出かける用事も多かったことと、もとより「正月休み」などないこの身では、世の中が動き出すとまたさらに忙しく感ずる。何だかんだ慌ただしい年末年始であった。仕事始めといっても会社勤めでも社員のいる自営でもないので、何一ついつもと変わらぬ日常なのだけれど、気持ちの上では多忙なのである。じっさい、本の注文は増えてきた。一昨日は2冊、昨日も2冊、そして今日は3冊発送した。果たしてアベノミクス効果で景気は回復してきたのだろうか。
 
 これは個人的感想だが、一時より好況感は確かに感じる。じっさいに数字の上で、「儲け」として金が目に見えて動き出しているわけではないが、この年末年始の本の注文数だけ見れば、去年までよりはいくぶん良い。まあ持ち直してきたという感じがしている。
 しかし、それで数字として儲けも増えているかと言うとそうではない。先にも書いたが、もう古本稼業撤退に向けて、在庫整理中の今、出している本はもう格安で放出したものばかりだから、売れたとしても実収入、手取りの金額は2~300円ぐらいのもので、手間賃にもならないぐらいなのである。ただ、以前はそんな安くしても本は全く動かなかった。今は安い本を中心にまた少しは売れだし始めた気がしている。

 その理由は景気が回復して買い手の懐が豊かになってきたからとはまだ思えない。多少はそうしたユトリ派もいるのかもしれないが、4月の消費税導入を前に、買おうと思っていたものはその前に買っておこうという心理が働いているのではないか。じっさいこの自分もまたそうして生活必需品など買いだめできるものは今のうちにせっせっと買っている。
 またオーディオ機材やソフト、メディアなども今のうちに買い込んでいる。どうせこれからまた買わねばならないものは、4月前に買っておくのが生活防衛であろう。本やCDなどは買っておいても腐るものではない。ティッシュやトイレットペーパーと同じくこの1~3月はある程度「買い置き」としての需要は高まると見越している。

 また、人の心理とは面白いもので、株が上がっているのを見聞きすると、自分の懐と関係がなくても何か嬉しく、好況感がわいてきてつい財布の紐も緩めてしまうものである。景気が悪い悪いと誰もが呟いていると当然消費は自粛気味となろうし、先行きの不安もあれば人は金はあったとしても使わない。景気が良くなる、良くなると政治家や学者センセイ、お偉いさんが口を揃えて連呼すれば、ならば大丈夫と人は迂闊にも散財してしまうものである。売っといて言うのも何であるが、正月に注文のあった本はネット株取引指南本とか、その手の投資ガイダンス本であった。どうやら今の好景気感で新たにそうした株取引を始めようと考え始めた素人さんが増えてきているようだ。果たして大丈夫かしらん。

 今の景気回復気分の裏にはそうした二つの心理が大きく存在していると思える。問題はその4月の消費税率アップ以降である。消費はガクンと間違いなく落ち込む。政府、政権は、貧乏人にはいくらかの特別手当のようなものを支給して歓心をかうことを目論むかもしれないが、そんなのは一時の焼け石に水だから全く効果はない。
 そこから再び、今のような景気高揚感が湧き出でてくれば本当にこの国もデフレ脱却、景気回復したと言えるだろうが、果たしてそのように安倍首相が目論むようにうまく運んでいくか。

 要するに、この4月から給料が上がれば良いのである。首相はそのことを今日も財界に強く呼びかけていた。しかし、会社というものは儲かったとしても大企業ほどケチで、そう簡単に社員に支払う給与を上げる気は毛頭ない。まずは株主へ還元、そして将来に備えての内部留保、といちばん最後によほど余裕がない限りこれからも賃金は抑えていく。何故ならそれが資本主義というもので、会社とはいかに労賃をピンハネして儲けを出すかが手腕なのだから。よって4月の消費税率が上がってから冷え込む景気がどう回復するか、まさに政府の経済政策お手並み拝見である。
 憲法改定に本腰入れるとか集団的自衛権の解釈見直し以前に、ともかくまず安倍政権は真に景気回復をまず果たせと今ここで書いておく。

残りの人生の「残量」を考える2014年01月08日 20時54分19秒

★早春の雨の降る晩に          アクセスランキング: 134位

 東京は久しぶりの雨がしとしとと降っている。今日は先日までと違いぽかぽか陽気で暖かく、春先を思わす暖かい雨となった。このまま春がくればと願うが、寒さはこれからが本番で、2月、3月は雨も雪となって降るだろう。

 さて、またまた死の話。
 昨日だかのニュースで大阪のやしきたかじんの訃報が流れた。昔からシンガーとしてよく知ってはいたが、まあ、大阪ローカルの人気者で、昔、向こうにいったとき、東京ではもうほとんど見ることもない人なのに地元での絶大な人気に驚いたことがある。おそらく全国各地、その地元に密着してその地の放送では誰もが知っている超有名人がいるのであろう。何も東京に出て全国的メジャーになることだけが芸能人ではないのだから。すべて地産地消こそが正しい流れなのである。それで巧く回って皆が食えていけるなら実に良いことではないか。

 さておき、彼もまた64歳。やはりこのところこの世代の訃報が相次いでいる。ロックにしろ、フォークにしろある程度名の売れた人たちの死が続く。
 どこかのCMではないが、東洋医学では男は8の倍数の歳、女は7の倍数の歳に病気になりやすいと言われていたかと記憶する。それ以前に、昔から男女ともに厄年というものがあり、それはつまり年齢と共に、体調も変わりガタがくる危険な年代のことを指している。その歳は要注意とされている。
 8の倍数で考えれば男の場合、若いときはともかく中高年となると、56歳頃と64歳頃となり、高田渡や大瀧詠一氏らの死の歳にまさに適合する。確かに人の死にはやたら多く死にやすい年齢が確かにあり、そこをうまく乗り切れればまた次のそうした山、峠まで生きられるような気がするがどうだろうか。
 ウチの親父を見ても、正確な年は思い出せないが、70代の頭と八十歳の頃にそれぞれ前立腺ガンやら何やら入院する大病をやっている。幸いにしてそうした危機を何とかうまく乗り切って相変わらず米寿を過ぎて今もヘラヘラ生きているという次第だ。

 親たちのことはどうでもいい。では自分はどうなのか。何歳まで生きられるのか考えた。

 パソコンのプリンタでこの年末年始、年賀状を何種類か印刷していた。いろいろあって使いたくはないのだけれどインクの消費量が異常に早いキャノンのをまた使っての印刷だ。それはバカ高い純正インクしか出回っていないタイプのやつなので、大容量タイプのインクをセットしても百枚ほど印刷するとすぐに、「警告」としてインクの残量が表示され、各色ごとどのくらい残り少なくなっていることか棒グラフのレベルとして目で確認できる。
 人生もそんな風に「残量」が表示されたらどうであろうか。
 
 今自分は、老いたとはいえ両親が二人ともまだ健在なので、彼らの歳を判断にして、この身も彼らの年代までは生きるだろうと考えて生きている。つまりオツムのほうはともかく、八十代半ばまでは生きられる、ならばまだ残りの人生は30年ほどあると安易に考えている。
 むろん、親たちを見るまでもなくその30年は今と同じく健康で今のままということは絶対ありえないのはわかっている。たぶん動けなくもなっているだろうし頭も相当ボケてきているだろう。しかし、命だけはたぶんまだあるに違いないとそう30年の「残量」の人生を見据えている。

 しかし、昨今の報道される著名人たちの死の年齢を見る限り、自分もまたそうした年齢、つまり高田渡の死んだ歳や、大瀧詠一の歳で死なない理由が見当たらない。考えてみれば、ウチの父などは大正の人で、戦争にも行き、無事帰還したほどの元々頑健な人なのである。戦後の公害と化学物質にまみれた我々チクロ世代ではない。子供のころから自然食品だけで育ってきたようなものだ。だから今まで無事に生きてこれた。

 今この自分が、親たちが生きているからまた己も彼らと同じ歳まで生きられると考えるのは大いなるカンチガイ、甘い見通しではないのか。じっさい我ら昭和30年代前半世代が果たして何歳まで生きられるのか、その平均寿命、余命はまったく予想がたたない。だいたい「平均寿命」とは、そのある時点での全世代の平均割合であって、大震災の年などはすぐ下がってしまうのである。まったく意味がない。
 それよりも、プリンタのインクの残量表示のように、お前はあとどのくらい生きられるのかきちんと表示されないものか。

 漠然と今までこの身はたぶんまだあと何十年も生きられると考えて毎日のほほんと高括って生きてきたわけだが、もしかしたら60代半ばで団塊の世代に倣って我々もぽっくり皆死んでしまうのかもしれない。
 まあ、高くても買い足しできるパソコンインクならともかく、もしそんなふうに「あんたの余命はあと10年」とか「もう残量ありません」と「表示=告知」されてしまったらそれはそれで本当に怖いし困る。しかし、暢気にまだまだ人生の残量はたっぷりある等と考えるのは愚の骨頂であるのは間違いないはずだ。
 まさに、「明日ありと思う心の仇桜」であろう。いつ夜中に嵐が吹くか誰もわからないし保証もないのである。

 まあ、愚かで全てに無計画のこの自分も願わくば50代のうちに、本格的に老人になる前に、もう少し人生をきちんとさせ確立させたいと切望している。還暦前50代のうちに、何でも自ら作り出せる「スタジオ」を完成させたい。どうかそれまでは無事に生き続けたい。情けない話、ようやくそのためスタートし始めたところなのだ。
 回り道と道草ばかりでずいぶん人生を無駄にしてきた。ようやくではあるが、もう何が大事か何をすべきか、何ができるかわかってきた。あとはそれを一つ一つ具現化していくだけなのだ。

ネット世界は「人間」に繋がるまでが一苦労2014年01月09日 16時32分57秒

★パソコン再設定までの苦労を記す        アクセスランキング: 125位

 先に、昨年買い換えたばかりの、ウインドウズ8の入ってるデスクトップ型パソコンが不調となり修理に出しリカバリされたという話を記した。
 それは一応一週間もしないで戻ってきて、中身は空に、つまりまた初期化されて購入時の状態となってしまった。まあ、まだ使い始めたばかりで大して重要な「マイドキュメント」も入ってなかったので損失というか、精神的打撃は大きなものではなかった。それはいい。

 しかし、また1からすべて設定をやり直さないとならないのがかなり面倒で、他にもパソコンは何台かXPの入ったのの他に使い慣れた旧いのが何台かあるので、元通りに立ち上げるのを後回しにしていた。それはネットにはすぐに繋がって支障はなかったのだが、問題はメールソフト起動までの再設定で、とても自分一人ではそれができない。いつも電話かけてパソコンメーカのサポート係りかプロバイダの担当に指示を仰いで何とか設定をお願いしてきた。むろん、その窓口に電話が繋がるまでかなり待たされるのは誰にでも経験があることだと思う。

 さらにそこに問題は、実はこのブログで、数年前に買った東芝のウインドウズ7の入ったノートパソコンでならばすぐにアクセスでき書き込めるのだが、他のパソコンではできない。管理画面にログインするまでに、当人=自分のパスワードを入力しないとならないわけだが、それが不明なのでアクセスできないのである。
 ノートパソコンには、すでにそれが自動的に記憶されていてすぐに繋がるが、●●●●という風に、読めないように表示されているので「本人」もわからない。どんな言葉、数字をパスとして設定したのかがわからない。以前、このブログを始めた時に設定したわけだが、その頃の手帳か何かにはメモしていたのかもしれないが、もう記憶にないのである。あれこれ言葉を入れて試したが繋がらず、仕方なくこれまでずっと拙ブログを書くときはそのノートパソコンを使ってそこから発信していたのだった。※壊れる前はその新しいパソコンからでもアクセスできていたのが今考えると不思議だ。

 ブログ書くため毎に、場所を移動し、そのノートを立ち上げ背中丸めてノートの小さい画面に向かうのはまた面倒だ。作業が長くなるとすぐに腰が痛くなる。しかし、直ったパソコンで「再設定」仕直すのもまた面倒というか、なかなか時間がとれなくて年明けて今日の今日まで後回しにしてきたのであった。それがようやく設定し終えた。
 まずプロバイダに電話かけてメールソフト・アウトルックの設定の仕方を乞うた。ウチは,ずっとアサヒネットなので、少し待たされたものの電話は繋がり男性担当者が懇切丁寧におしえてくれた。これで新パソコンでもまたメールの送受信ができるようになった。次いでブログである。

 このブログは、そのアサヒネットが無料で提供しているサービスなので、パスワードの変更もお願いしたのだ。新しいパスワードが向うから送られてくるまでやや時間がかかり待たされたが、その再設定も完了した。これでウチのどのパソコンからでも、新しいパスワードも記憶したので旅先からでもネット環境にあればブログは更新できるようになった。
 ここまでは大した問題ではなかった。なぜなら窓口の相手が日本人であったから。苦労したのはセキュリティソフトの再設定、入っていたノートンのソフトをアクティブ化するまであった。電話の相手は中国人の、片言の日本語を話すおねえちゃんであった。

  ここまで書いて自分でもうんざりしてきたので続きは次回に。

ネット世界は「人間」に繋がるまでが一苦労・続き2014年01月10日 06時47分43秒

★どうしてすぐに「人間」と繋がらないのか         アクセスランキング: 130 位

 思うに、ネットの時代、人は「世界」とは繋がりやすくなったが、逆に、「人間」とは繋がりにくくなったのではないか。

 自らがネットで古本を扱うような「仕事」をしつつこんなことを書くのは憚れるというかセンエツかもしれないが、インターネット社会とはつくづく不便かつ人間味のない奇妙な世界だと思える。
 例えば、ネット上の「店」のサイトで何かを購入しようかと思い、まず相手方と連絡をとろうとする。いろいろ確認したいこと、訊きたいことも当然ある。しかし、そのサイトを隅々まで見てもその連絡先がなかなかみつからない。カート、つまり購入にあたり「籠に入れる」というボタンはある。そこに商品を入れれば自動的に購入まで進める。しかしその以前に、相手方と連絡をとろうにもその仕方がわからず苦労してしまう。お問い合わせフォームとか、メールアドレスとかは載っていても、そもそも電話番号がそこには載っていない。けっきょく、苦労して会社概要のページに記してある電話番号をみつけてかけたりもした。中にはそもそも電話での窓口対応はしていないと断ってある会社もままある。

 これはいったいどういうことなのか。もはやネットの世界では、いっさいの個人的接触、つまり直に電話で話したりすることは不要なのであろうか。電話はすべきではなく、問い合わせもふくめ交渉事はすべてメールでのやりとりが当然なのか。しかし、それでは全然即時性はないのではないか。大急ぎで確認及び注文しなければならないとき、相手が常にパソコンの前にいるか定かではないメールのシステムは信頼性と信用に欠けるのではないか。

 と書く自分は旧い世代で、電話は苦手でもやはり電話で相手方と直接話してモノゴトを進めていくことを好む。いや、好き嫌いではなく、それが当然だと考えていた。しかしネット世界ではそれが極めて難しいのである。
 言うまでもなくパソコンやネットのシステムは複雑で難解である。素人や初心者、高齢者が誰でもすいすいとすぐに使いこなせるわけがない。当然メーカーやプロバイダなど相手方のサポート担当と連絡をとり質問や相談し指示を仰がない限りなかなか使いこなすことはできやしない。自分もパソコン歴は10年を超すが、未だにパソコン買い替えの度に設定などはメーカーサポートに電話してやり方を教えてもらっている。トラブルの都度、慌てて電話かけてしまう。人によってはじっさいに技術者を呼んで代行してセッティングしてもらう方もいるかもしれない。ユーザー個人で全て誰にも頼らず使いこなせる方がとれぐらいいるのだろうか。

 しかし、その電話がまたなかなか繋がないのである。ウチが長年使い続けているパソコンメーカー富士通の場合、担当の人間が出るまでたいてい数十分常に待たされる。そもそもすぐに人間が出てこない。電話かけてもまずは音声ガイドのコンピュータの声で、お問い合わせの種類ごとの番号が知らされ、トーンでそれを指定し次へと進んでいく。そうしたいくつかのやりとりの後またかなり待たされていいかげん保留の音楽にうんざりした頃、「お待たせしました」とやっと人間が出てくる。

 パソコンの世界はそうしたものだと今では諦観的理解しているからもはや怒りも驚きもないが、連絡をとろうとするときはかなり時間がかかると覚悟しないととりかかれない。忙しい時、出かける用事があるときなどはとても気軽に電話できやしない。今回もそうして何箇所か電話してまたこの面倒さを痛感した。
 待たされるのはともかくもまず「人間」にすぐに繋がらないことがイライラする。音声ガイドに従って手順をふんでいかないと人間まで繋がらないのは何とかならないのか。会社ならば玄関窓口には受付嬢がいるように、電話でもまず案内役の人をおくべきであろう。それが大変だから、人員削減と今では全て機械に代行させて客をコンピュータの音声に従わさせるのである。

 今回、これまで書いた各設定で、アサヒネットは繋がるまで少し待たされても機械音声でのガイドはなく、すぐにサポート窓口の人間に繋がった。そしてメールソフト設定もブログのパスワード再設定にも懇切丁寧で好感をもてた。しかし、今回はノートンのセキュリティソフトも「アクティブ化」の必要があると画面に表示されてしまい、そのやり方がわからずかなり難儀した。

 そもそも「アクティブ化」とはいったい何のことなのだろうか。つまり、きちんと設定しないとセキュリティ機能が「有効」にならないということらしい。しかしそのためには、パスワードをまた入れないとならないのだが、それがまた例によってこちらではわからない、記憶にない。
 で、仕方なくパスワードの「再設定」のためメールアドレスを知らせて向うからその設定のページを送ってもらった。しかし、そこの手続きでまた躓き、クリックしても先へと進めなくなった。そのままほったらかしにしておくとセキュリティソフトを入れてても保護されなくなる。仕方なく電話で相談しようとした。
 が、例によってその電話窓口すらすぐには番号がわからないのである。サイトをさんざん調べようやくシマンテック日本支社の番号をみつけてかける。するとコンピュータ音声で様々な窓口の番号が知らされる。それをトーン入力で指定すると録音された音声でかなり早口で、各対応先の電話番号が語られる。それを慌ててメモしてかけるとまた新たに細かい先の部署の番号が話される。それをメモしてかける。こうしたことを繰り返しほんとイライラしてきた。そしてついに「人間」に繋がった。
 それは日本語で話していたが、どう考えても中国人の女性でかなり早口で「ハイ、アリガトーゴザイマス、ドーシマシタカ?」と出て来て面食らった。思わずあ~とため息が出てしまった。

 友人の話だと、欧米圏では英語でのやり取りの場合、マイクロソフトでもどこでもサポートに電話するとインドのムンバイに繋がってそこの巨大サポートセンターのインド人が対応してくれるのだそうだが、ここもきっと上海かどこかに繋がったのではないかとその話が頭をよぎった。
 日本語でお互い話しているのだが、やはりイントネーションが違うので聞き返したり苦労する。こちらもあまり難しい言い回しは控えざる得ない。彼女の指示する通りにあれこれやってみたがやはりちっとも先へと進めない。しかたなく、彼女は「ダイジョブデス、デハ、コチラデ、エンカクソーサでヤリマスカラ」と画面を向う側が動かせるようにして彼女に全部設定を任せてしまった。なかなかてきぱきとして有能である。

 そんな風にしてかなり時間はかかったが、ようやくノートンのセキュリティソフト、アクティブ化が完了できた。終わった頃には彼女との関係も慣れて来て、気心も知れて何でも話せるようになった。お互いに別れ難くなってきたようでもあった。フィリピンパブとかチャイニーズパブは行ったことはないが、こうしたものなのかもしれない。互いに苦労すると人間は親しみを覚えるものである。このままもっと話したくなった。

 苦労はしたが無機的な音声ガイドと違い、生身の人間は良いものである。どうか「サポート」とは、メール対応だけでなくどの会社もニンゲンの電話対応を残して今後も続けてもらいたい。自分としてはそうした会社を今後も利用するし応援もしたい。そう、外国人でも良いのである。日本語が話せる方ならば。人は人と繋がりたいと望むものなのだから。