今ではもう誰も知らない、唄われないうた・前説2014年01月14日 08時00分38秒

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 さても寒い季節である。はんぱでない冷え込みだ。ここは東京でも多摩の田舎なので、手はあかぎれ、耳や手足の指先はしもやけ気味である。こんなに寒い時は「寒空はだか」さんに仕事が来るのだろうか。「~ホットブラザーズ」なら呼びたくても、その芸名だけでも夏はともかく冬は損しているような気がするが、それは余計な心配であろう。人はまず己の身を案ずるべきか。

 うたの話を書こう。うたとはその作者が不明でもその存在だけで世に残りまさに人口に膾炙して、歌い継がれていくものである。日々世界中で新たな楽曲が生まれ、そのいくつかはヒットもする。この場合のヒットとは、レコード的、つまり商業的に売れることだけでなく、つまるところ世に知れ、人々に歌われるうたのことだ。
 むろんのこと、世にはその「歌い手」のみしか歌えないうたも多々ある。クラシックのオペラなども大方そうであるし、流行りのラップミュージックなど、あれも「うた」だとすればまさに当人だけの「うた」だ。聴き手は共に唄えないし後世に歌い継がれることはない。

 つまるところ、好き嫌いは別として、うたとはカラオケでそのリストに載っているものだと極論しても良いかもしれない。つまり難しい歌であろうとも皆が歌いたいと望みじっさいに歌われるうたが「うた」なのである。ホントか嘘か知らないが中川五郎氏の「腰まで泥まみれ」さえカラオケに入っているのだそうだ。※むろんカラオケにない良いうたもいくらでも存在していることは言うまでもない。
 そしてそうしてある程度世に「認知」されたうたは人々の耳や記憶に残っていく。そして後の世でも「名曲」として歌い継がれていく。それ以外のヒットしなかったうたはすぐに、もしくはやがて忘れ去られ歴史から消えていく。この世にはそうした林美雄的「ユア、ヒットしないパレード」の歌うたに溢れている。 

 しかし、だからと言ってすべてそうした消えた曲、忘れ去られたうたが意味も価値もないものだとは限らない。うたの場合、歌謡曲によくあることだが、その歌を唄っていたオリジナル歌手が死んでしまうとよほどその知られた人気曲以外はもう歌われる機会がなくやがては忘れられ消えていくものだ。例えば、岡晴夫や水原弘など、割と早く死んだために良い持ち歌はたくさんあるのに、今ではそうした彼らのうたは代表曲以外まず歌われることがない。それはとても残念だと思う。

 またこの世には、唱歌、同様の類でもあるいは民謡、日本のフォークソングの世界でも誕生し一時は唄われ、世に知られたが時代と共に忘れ去られて消えていこうとしている歌がたくさんある。そうした収集と保存、歌い継ぎは、民謡の世界は遠峯あこ嬢、民権演歌のほうは岡大介さんにお任せするとして、不肖私マス坊はそれ以外のジャンルを取り上げていこうと考えた。私的にはそうした忘れ去られた古いうたを「古本音楽」と名付けている。

 というわけで自称「古本音楽家」としては、そうした埋もれた、たぶん知る人の少ないほぼ今日では忘れ去られた素晴らしい「うた」どもを機会あれば紹介していきたいと考えた。本に古本があり、それもまた流通させるその仕事が古本屋、古書店という稼業だとするならば、音楽もまたそうして再び世に流通させたいと願うがどうだろう。
 歌う人は今はもうなく、たぶんそれを知る今生きている我々が死んだらほんとうに消えてしまう可能性の高いうたを取り上げ、願わくば自分でも拙いながらもうたっていきたい。こんな素晴らしいうたがあることを世に知らしめ残したい。

 第1回目としてとりあげるのは、
 ◆満州唱歌 こな雪 である。
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/t_sinsaku/m3_kona_yuki.htm