なすべことをひとつひとつ2014年01月20日 13時29分58秒

手だけしか写ってない方ごめんなさい!
★いくつかの自らの役目も終わりに近づいた。      アクセスランキング: 193位

 昨日の映画塾、毎度のことながら大した呼びかけも宣伝もしなかったが、15名の参加者があり盛況のうちに無事終わった。
 実はまた風邪気味で、前日から悪化させないよう葛根湯を飲んだり早く寝たりと案じていたが、幸い高熱がでるようなことはなく、今も節々は怠いものの本格化せずに済みそうだ。
 今日は大寒だそうで、昨夜はかなり冷え込んだが、今、外は穏やかな春の陽射しでいっぱいの午後である。
 映画塾も残すは来月のあと一回。一年間なんてあっという間だったとつくづく思う。今終わりを前に思うことを少し記す。

 三留まゆみが喰えなくなってきて、彼女を何とか再び元気に、活気づけて「復活」させるべく、大型テレビも無理して購入してともかく手探り状態ながら彼女の名前を冠した「映画塾」をはじめた。参加費が千円だとしても貧乏な彼女にはある程度人が集まればお小遣いにはなろう。今だから明かすがそうした思惑もあった。言わば私的「三留エイド」として始めた。

 当初、どれほどの参加者がいるのかまったく予想もたたなかったが、彼女が始めたフェイスブックを通してしだいにその存在が知られて参加者は回を重ねるごとに増えて常時15名かそれ以上となった。まあ、すべての「運動」が同じかと思うが、続けているうちに中心メンバーはよりコア化し、特殊化、先鋭化していく。企画側としてはもっと映画初心者の人たちの参加を望み想定していたのだが、来るのはオタクオタク超映画オタク、それもホラー映画、カルト好きのオタクばかりと、実に濃いほぼ映画業界関係者ばかりとなってしまった。

 そのほとんどが業界のライターや何らかの映画関連の仕事に関わっていた人、および役者さんたちであった。これでは、ウブな、単なるミーハーな映画好きはその場に入れないと思っていたら、案の定、当初の一般参加者はすぐに恐れをなしたのか来なくなり、映画塾は毎回、超濃いカルト映画オタクたちの巣窟と化してしまった。
 それが悪いわけではない。まあ、塾長である三留まゆみという人自体がそうしたカルト映画の名だたるオタクであり、そうした彼女の仕事に薫陶を受けた人たちや昔からのファンがこうした場があることを嗅ぎつけ集ってきたという次第であった。だからこうなることもまた必然であった。
 この企画の「成功」には、映画ファンにはそれまでそうした同好の士が気軽に集い、映像を流しつつそれをサカナに共に語り合う場がなかったことと彼女自身の魅力、吸引力によるところが大きい。そうした皆で集える場を提供でき、定期的にしかも盛況裏に続けられたことは自分にとっても得るところ学ぶところ大であった。改めてこの場でも参加者と三留さんに感謝しておく。

 そして今、1年近くが経過し、その場に集い知り合いとなったレギュラー参加者の間たちから親交が生まれたことでまた新たに別の場所での「映画塾」が始まろうとしている。詳しいことは彼女のフェイスブックなどで参照してもらうこととして、近くどこそかのカフェで、それもどうやらあの「怪物ランド」の赤星昇一郎氏のお店なのだそうだが――映画塾参加者が企画した映画を語るイベントがある。むろん彼女も応援的に参加するとのことだそうだが、おそらく今後もこうした「スピンオフ的映画塾」があちこちで開催されることだろう。じっさい、彼女自身にも全国からこの無頼庵映画塾をきっかけに、「ウチの地方でも映画塾をやりに来てください」とオーファーが相次いできている。先日も米子だか松江だかに映画イベントに請われて彼女は行ってきたところだ。
 それがどれほどのギャラが出るかは知らないが、とにもかくにもまた再びこうして彼女にスポットが当たり、売れていくことは良いこと、歓迎すべきことであろう。自分としてもそうしたきっかけが作れたことがとても誇らしく嬉しい。

 正直な気持ちを言えば、そうして自らが立てた企画が成功しこの手から離れていくことに少しだけ寂しさも覚える。しかし、それこそが自分の役割であり、そうした「出会いの場」をつくることを目的に始めたわけだからウチ無頼庵での映画塾は終わってもここに来られた仲間たちで自主的に「映画塾」が続いてくことは本当に喜ばしい。三留も売れ、新たな映画塾もあちこちで開催されるならば、目的は果たしたと言えよう。もう自分の役割は終えたという気持ちには一抹の寂しさはあったとしても自らしたことは無駄ではなかったのだからこれで良いのである。

 そうした気持ちはもう一つ「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」でも強く感じている。残念なことにこちらは「映画塾」ほどその後の発展的盛況には至らなかったが、まあ、自分がやはり企画しそれなりに反響もあり活動も続けたのだからもう発展的解消時期を迎えたとしてもそれはそれで良かったのだ。それもまた自分の果たすべき役割であり、それができたこと、やり終えたという満足感もある。

 こうして一つ一つ、自分のできる自分の役割を果たしていく。またこれからもそうした「使命」「役割」が与えられれば全力でやっていく。しかし次に今望むことは、そろそろようやくだが「自分のこと」なのである。ささやかな、無価値なものであるかもしれないが、自分の芸術、もしくはそれに似たようなものを自分なりに究めたいと願う。
 残りの人生も見え始めてきている。ならばこそ、そろそろ自分のしてきたことに何らかのケジメとまとまりを作りカタチとして現したい。

 童話「アリとキリギリス」のキリギリス的人生を選んだ者として、夏の間中、働かず歌い続けたキリギリスならば冬が来て死ぬ前に、そのうたの「成果」をアリたちに示したいではないか。アリが聞く耳を持とうがなかろうがそんなことは関係ない。キリギリスにはキリギリスの、キリギリスしか歌えないうたがあると信ずる。それを残したいと願う。

 残りの人生、じぶんのできる、やるべきことを一つ一つ終わらせていく。