5月に入りました。これからの予定など2014年05月01日 03時53分46秒

★季節は足早に夏へと進んでいく          アクセスランキング: 167位

 雨の音を聴きながら眠って今起きた。まだ外は真っ暗だ。自由でなく自由がないのが自由業、とは誰がいったか。
 フリーランスとはかっこ良い言い方だが、「商売」を始めて10年。まあ自営業と呼べなくはないが、その以前も含めてどこにも属することなく所謂自由業をもう何十年もやっている。
 やっているというのは正しくない。そういう状態にあるということだ。つまり見方によっては慢性的に失業状態にある失業者だと言えなくもない。今はいちおう行政側に届けを出しているから「古物商」ということになるのだろうが、逮捕されたりすれば報道では「無職」とされてもいたしかたないと思う。
 しかし基本的に家にいて、自由になることがいくつか少しはある。一番は眠る時間と飯の時間が自己裁量でできるということで、好きな時に寝て起きて食いたいときに飯にできるということだ。
 が、食事は一人暮らしはともかくも親たちと暮らしているとある程度世間的時間帯に合わさないとならないしデイサービスなどに彼らが出かけるときはそれに大きく左右される。
 唯一自分勝手にもっとも自由になるのが眠ることで、親たちが家にいてもいなくても巧く日課の合間をぬって30分からときに3時間ほどちまちまと断続的に眠る習慣がついてしまった。
 つまり眠たくなればいつでも短時間でも眠ってしまう、眠れるというわけで、まあ犬猫の仲間だと自分でも思う。だからヘンな時間に寝てヘンな時間に起きてしまう。基本的に朝は早くから起きてはいるが、それでも眠い時は午前中、昼前に一時間ほど眠ったりするし、家にいればたいがい夕方前、午後遅くは昼寝している。

 そんなで、今、起きたのが丑三つ時で外はまだ真っ暗。少し早すぎたが仕方ない。音楽をかけたりがたがた作業したりすると家人が起きてしまうので、できることはブログ更新しかなく、メールチェックのあとこうして書いている。もう少し眠っていたかったが一度起きてしまえば老人力でもう眠れないのである。しかし眠りたいときに欲求のままいつでも眠れるということは良いこと、有難いことだと思うるがどうだろう。

 さて、気がつけばもう今日から5月。このところ3月から消費税増税前の騒ぎもあってともかくあれこれ忙しかった。ようやくいくつかのイベントも終わり、ほんの一瞬一休みである。が、すぐに近く17日の土曜日に、拙宅ではシバを招いてライブがある。それと6月末の「大介・みほこん」を終えてようやく今年前半が終わる。
 先日の「詩朗読ライブ」を終えて、さてまた次回の「詩」の集いの日程を関係者方と決めねばならなかったのだが、あえて即答は避けた。何となく今はまだ目先のライブのことだけに専念したい気持ちが強く、ともかくまずはそのシバを大盛況で終わらせないことには次のこと、先のことは考えられない、考えたくない気持ちが強い。
 シバとのこと、彼のうたについてはまた別の稿で書くつもりだが、あまりいくつも先のことが決まって、予定が詰まっているといつまでたっても気持ちが追われ余裕がなく常に急き立てられている感じがしてツライのである。世の中には逆にそうした予定が入ってないと辛い、不安だという方も多々いるようだが。
 自分の場合は対社会的予定などないほうがよほど有難い。無頼庵をやっていて矛盾しているようだが偽わざる気持ちだ。

 さて、今月はそんなわけで、まず今日は平日だが、山梨へ。今回はウチにずっと放置してあった使っていない自転車を向こうにもっていこうと考えている。やはり現地でも車以外の足がないと不便でしかたない。歩くか車しかないというのはいずれも制約であって、田舎は歩いては行けないところばかりだから常に車を使ってしまうが、いつも車というのもまた面倒で身近で気軽な「足」が必要だと痛感したからだ。
 平日でなければ同行したのに、という声が何人か寄せられた。また近く連休後も今月は土日中心に行こうと考えている。日程調整のうえ予定が出たらまたすぐにお知らせするし、希望者のご都合にこちらも合わせることも可能なので連絡ください。

 そのシバのライブ、このところおかげさまで予約がかなり入ってきた。まさか満席なのでお断りなどという事態は起きないと思うが、今回は予約された方から席に就いてもらおうと思っている。だから良いお席はお早目にということで、ぜひご参加の申し込みはお早目に。まだ十分入れるのでぜひ多くの方のご参加をお待ちしてます。

 きのう書いたことの続きでもあるが、例えばの話、今夏7月末頃? その山梨の古民家で泊まり込みで、詩とフォークソングのイベント合宿、サマーキャンプというのはどうだろうか。7月だと近すぎるならば、8月のお盆休みの頃にでも。一泊二日で皆が集い夜遅くまでがやがやと。ただそれもスタッフを揃えないと、とても自分一人では支度できない。その企画に乗る方いらしたら連絡ください。誰も乗らないのに先に決めることは意味がない。んで、まずここに、夢想したことを載せた。面白いと思う方、ご連絡ください。

愛は必ず終わる2014年05月02日 23時17分29秒

★永遠に続く愛なんてない。 アクセスランキング: 121位

 愛について書こうと思う。
 今日のニュースでもまたどこそかで、ストーカー男が好いた女を挙句の果てに殺した事件が報じられていた。いくらストーカー行為を規制する法律ができようとバカの数は減るわけがないのだからこれからもこうした事件は起きるだろう。
 いつも呆れるのは若いときならまだしも男も女もかなりいい歳しての話が多く今回の事件も男は自分と同世代、どうやら行きつけのスナック?だかでバイトしていた30代の女性に惚れての凶行らしい。※しかも女性には妻子もあったとのことである。
 おまけに正気か本当かどうかわからぬが、男は、女を殺して自分も後から死ねばあの世で二人で暮らせると思ったと話しているとのこと。アホかって! あの世があるとしてもこの世で嫌われていた者が、どうしてあの世で二人で暮らせるのか。あの世でもやはり嫌われると考えないのか。殺すほど愛していると相手に思い知らせばあの世でその思いに応えてくれるのか女は。もう本当に情けない。バカも極まりだと嘆ずる。

 そんなバカに一方的に好かれ惚れられた者こそいい迷惑であろう。それは男女関係なく起きる話だとは思うが、やはり圧倒的に男が女に執拗に言い寄るケースが多く、最後にはたいていこうして女を殺して時に自分も自殺して終わる悲劇的結末となる。たぶんこうしたストーカーは自らの行為を「愛」だと思っているのだろう。が、それこそそれは愛ではなく、単なる妄想的執着にすぎない。バカだからそれがわからない。これはどこまで逃げようと警察が逮捕しようとその愚かな情熱が冷めるまで、自らが自らの愚かさに気づくまで続く。

 この自分に恋愛及び結婚と愛について語る資格なんてそもそもない。結婚の経験も付き合っている相手もなく独身歴、独り身が長いこの俺が人様のことをとやかく言うべきではないのはわかっている。が、ホント、こうしたニュースを見聞きする度、バカだなあと心底呆れるし愛に関する幻想は今もかなりの男女の間で存在していることにも気づく。※むろん被害者には落ち度はなくご同情深くするが。

 男も女も、あるいは同性であろうと付き合ったはじめはかなり熱くなり、愛の存在を信じて本気も本気、永遠の愛を誓う。が、それは最初だけで、互いにそうした関係になってしまえばやがては愛は徐々に冷めていく。互いの欠陥にも気づくし互いに思いがかなってしまえばその先はもうないのである。
 むろん、子はかすがいというように、子供ができたり共通の責任も発生すれば、愛が薄れようとも結婚生活は続いていく。つまりそこに共通の利害は保たれ結婚し続ける、さらに付き合い続ける理由も散在するからだ。が、たいがいは約3年ほどで最初の熱は冷め、後はだらだらとした腐れ縁的関係へとなっていく。子もなく結婚の届けもせず周囲にきちんと報告もしていなければまず3年で愛は消え失せ何かのきっかけで関係はふいに終わる。

 それは自分の経験上のことで、結果として自分の場合いつも女のほうから別れを切り出され、いつも他に好きな人ができたからとの理由で、関係は終了となった。こちらとしては「愛」は残っていたとしても相手にそれがないのだからもはやそれは仕方ない。
 ストーカー的要素や情熱もあれば、もっと執拗に女に付きまとって寄りを戻してくれ、悪かった、帰ってきてくれと懇願しどんなことでもしたかと思うが、もう相手に愛がない、つまりこちらを愛してくれなくなったのだからそれ以上どんなに努力したって無駄なのである。むろんショックだし哀しいし辛かったが、それは相手の気持ちなのだから致し方ない。まして本当に相手のことを思うのならそれに従うしかないではないか。自分が嫌われるのにもワケがあり、一度離れた、冷めた心は戻りはしないのである。

 そうした失敗した恋愛を何回か繰り返してわかったことは、愛なんてそもそも幻想であり、どんなに熱く燃えようともいつか必ず冷めて終わりが来るということだ。むろん若いときなら互いに燃えもしよう。24時間寝ても覚めても相手のことを思うだろう。そうした恋愛をしたこともある。が、相手が応えてくれて成就したとしてもいつか必ず終わってしまうものなのだからまして一方的に、向こうは好いてくれないのに思いを寄せるのは愚の骨頂以外のものでない。ストーカーはウブでバカだからそれがわからない。その思いを寄せる執着を愛だと思い込んでいるのである。

 もし古本屋として何か「対策」はないかと尋ねられたら一つだけ答えられる。近代ストーカー私小説の大家、近松秋江を読めと。彼の一連の私小説、今でいうストーカー文学を読めば、ストーカーが抱えている愛なんて実にバカバカしいことに思い至るであろう。知る限りもっとも情けない私小説を書き続けた秋江は、今ならばストーカーのはしりであった。ただ彼がそうした殺人事件を起こすに至らなかったのは、文学があったからで、彼を捨て逃げた女を思う屈託や焦燥を臆面なくペンに託して世に発表したから彼自身は救われた。そして今その小説を読むとき、いつの時代も愛なんてものに囚われて時間を無駄にしたバカがいたことに気づかされ愛に悩み苦しむ者は必ず救われるであろう。

 と、こう書いてきたが、むろん家庭の愛、家族愛というものは確かに存在する。ただ、それは男女の痴情的恋愛とはまったく異なる。いつも相手のことを思い、常に気になるというような熱き衝動的恋愛はしたほうが良いとは思うが、長続きしない故それは愛でないことがわかるはずだ。
 恋愛とは文字の如く、愛に恋している状態なのである。人は本当の愛を求め知らなくてはならない。

音楽活動健康法のススメ2014年05月03日 23時30分41秒

昨年の5月江草の根古屋神社の例大祭風景・左側に大欅が見えます。
★体力なしの我が身を嘆く。         アクセスランキング: 147位

 連休後半である。今日5月3日は山梨県北杜市江草の、大ケヤキで知られる根古屋神社の祭礼の日で、去年も初めてこの地に来たのがちょうど偶然その日であった。古式ゆかしい祭りにすっかり魅せられて、その地、江草の古民家と関わることを決断したのであった。
 で、今年もまた合わせて家族皆で行こうとかねてより計画していたのだが、このところいろいろあって疲れが溜まっていたことに加え老犬の介護のことと、連休後半の今日は高速道は藤野辺りから30数キロの渋滞予測が出ていたので迷ったが結局断念した。それではいつ着くかわからない。渋滞するために出かけることになってしまう。
 前日から泊りで向こうに行っていれば良いわけなのだが、このところ老犬バドがまたさらに弱ってきて家に残しておくことが心配だということと、連れていっても渋滞の最中の暑さでへたることは確実なので大事をとったこともある。何にしろ今は老犬がいる限り一泊でも家を空けられない。このところはいつも若犬だけ連れて日帰りで行って帰ってきているのだ。

 そんなでこの大型連休後半は、最終日にライブやら出掛ける用事が確定しているもののもう遠出はあきらめ家のことに専念することにした。が、今日はどっと疲れが出て、朝のうちに洗濯だけ終えたら午前に一度、夕方にも一度昼寝というか仮眠してしまった。頭痛と眩暈でもう起きていられなかった。また咳や鼻水の風邪の症状も出てきた。
 考えてみれば29日の詩朗読ライブを終えて翌日は幼馴染みのご母堂の告別式、その午後は出張でギター教室、さらにまた翌日は女友達を連れて日帰りで山梨行でラジウム鉱泉へ。そこに中一日だけ置いてまた山梨へ行くなんて考えてみれば現実的に無理だったかと思える。今の自分にはそんな体力はそもそもないと気づく。己を知るべしであろう。

 このところ敬愛するフォークシンガー方々のライブを観ていて思うのは、皆さん自分より10歳近くも年上のはずで還暦を過ぎたどころか60代も半ばとなろうとしているのに、いや、中には70代の方もいて、なのに実に皆さんお元気であるということだ。
 トータルにすれば二時間近くのステージを一人で立ち尽くしたままギターなど楽器を自ら弾きひたすらずっと唄い続けるのである。すごい体力ではないか。中川五郎氏に至ってはそんなことを三日にあげず一年中全国規模で続けているのだ。

 この自分、マス坊もこのところ恥ずかしながらも同様のこと、つまり門前の小僧よろしく彼らに倣い始め出したところなのだが、今の自分ならば3曲歌うのだって青息吐息でそれも座ってやって疲労困憊というありさまなのだ。しかもマイクなしでは声も出ずまして思い通りに唄えない。自作の歌でも歌詞カードなしでは歌詞も覚えていないし覚えられない。しかも始終とちる。
 まあ、長年続けられているプロの方と自分のようなペーペーと比べるほうが無理があるのもわかっているがそれにしても年上の彼らの体力のあることに感嘆する。先だって来日していたディラン氏もポール・Mさんも70をとうに過ぎているはずなのに何時間もパワフルなステージを繰り広げたと聞く。むろん始終トレーニングなり節制しているのだと想像もするが、いくらプロ中のプロだとしても呆れ果てるほどの喉と体力ではないか。

 いったいその体力の秘訣、健康法は何かと考えてみると、外国の方はともかく、身近な方々を見る限り一つだけ見えてくるものがある。それはまずは人前で唄うことであり、声を出すこと、つまり長年続けている「音楽活動」だと思える。
 じっさいの話、人知れず彼らがジムに通って鍛錬しているとは思えない。それなりに健康管理はされているのかもしれないが、五郎氏に至ってはかなり無頼な訊くだけで無理ある日常をずっと続けている。よくそれで体が持つものだと心配さえしてしまう。
 が、とにもかくにも間断なく日々唄うこととファンという人たちと接すること、あるいは歌詞を頭に入れて反復することなどが呆けず老け込まぬ体が動く「秘訣」なのではないだろうか。

 唄うということは自分もやってみてわかったが、ともかくかなり体力を使う。エネルギーも消耗する。まして歌詞を頭に入れて自然にそれが出てくるようにも自らを仕向けないとならない。それはすごい重労働だと思う。ましてあちこちギター抱えて移動もする。五郎氏の場合は幸い良きスタッフというか、個人ボランティアの方に恵まれているので近場なら楽器の搬入などはそのOさんがやってくれている。彼はステージだけに専念すれば良い。そうした彼を支える暖かいファンがいての音楽活動でもあるが、それでも年間100ステージというのはディラン氏やポールさんの域であろう。じつにすごい、素晴らしいことではないか。その歳でそれだけ唄い動けたら「神様」であろう。

 むろんそんなことを若い時から40年以上も続けたという慣れと蓄積、学んだ人生のコツもあるのであろう。が、やはり唄うことは絶対的に健康に良いのである。そしてそうしたこと、人前での音楽活動が大好き、人間が好きということも肝心だと思える。
 自分の場合は、そもそも人前と人混み、つまり人間が好きではない。が、もうこのままでは体力無しと不健康と全身不具合で早晩死んでしまう。しかし当然ながらまだ死ぬに死ねない。これからは五郎氏やシバ、さこ大介大兄らお元気なシンガーたちを見倣って「音楽活動健康法」で余生を乗り切ろうと考えている。

シバの無頼庵ライブ予約はお早目に2014年05月04日 23時12分42秒

★近づくシバのライブ             アクセスランキング: 140位

 疲れなのか風邪なのか、昨日から体はだるく頭がぼうっとして喉が痛い。すこし咳も出ている。いよいよ風邪が本格的になってきたようだ。どうせ長くは眠れないのだからいったん早めに寝て早朝起きる予定でいる。

 おかげさまで今月17日に予定している。シバの無頼庵初登場のライブは予約者だけで今10名を超えた。これまでウチで企画した音楽企画ではいちばんの反応である。嬉しいだけでなくほっとしている。
 むろん、オープニングライブのときみたいに30名以上も詰めれば入るはずだが、あまり足の踏み場がない混雑事態は避けたいので、多くても20名ほどに留めたいと思っている。
 ファンの方がたくさん集うのはアーチストにもウチにとっても有難いことだが、あまりみっしりぎっしり込み合うのも音楽の鑑賞としては良い環境とは言えないはずだ。ましてシバのライブは、心静かにしんみりのんびりかつじっくり耳を傾けてもらいたい。大勢で楽しみ皆で騒ぐライブもあろうが、彼の音楽は基本がブルーズ、その渋い世界に浸ってもらうにはほどほどの入りが似つかわしい。

 まだ、席はあるものの今回は予約された方から入ってもらう予定なので、良い席、良いイスを求める方はぜひお早目に予約してください。マス坊の携帯に電話頂くのでも、拙ブログのコメント欄に連絡先を書き入れてもらうのでもかまいません。※マス坊だけが読んで非表示にしておくので公開はいたしませんのでご安心ください。

 良いお酒とシバのうたに相応しいツマミも用意しておく。休憩なしでたっぷり唄っていただく。彼の陶芸やマンガ作品の展示即売も予定している。自分が高校生のときに、吉祥寺ぐゎらん堂で知り合い、以後実に40年、ずっとずっと心から尊敬してきた。ブルースという一番好きな音楽を唄い続けてきたいちばん大好きなシンガー。いや、子供だった自分にブルーズという音楽を教えてくれた恩人。そんな大切な方をウチに呼べる幸福。ぜひ皆に分け与えたい。

友人の墓参りと夜はかけこみ亭での館野公一&さこ大介ライブへ2014年05月06日 11時39分54秒

★アクセスランキング: 167位

 外はどんよりとした曇り空。大型連休最終日の今日は曇って薄ら寒い。夜半、3時頃に雨が降った。

 今日はこれから2時に改札で待ち合わせで豪徳寺で、亡くなった滝口氏のお墓前に友たちと連れ立って参りに行く。
 その後、夜7時からは南武線谷保駅前の「かけこみ亭」でのライブがあり、帰るのは遅くなるかと思う。
 書かねばならないこと、書きたいことは溜まっているが、体調悪くてすべてが限界、いっぱいいっぱいであった。昨日は早めに寝たので風邪は治まってきたと思える。明日は出かけないので、落ち着いてこれまでのことをアップさせていくつもりでいる。

 詳しいことは戻ったら書き足す予定。

館野公一の語り歌の継承ライブが昨晩で50回となった。2014年05月07日 21時23分49秒

館野&さこ、渋すぎるご両人の共演をぜひまた再び!
★祝・語り歌の継承・・・50回目          アクセスランキング: 134位

 昨晩のライブ、心温まるとても良い集いであった。毎度ながらも気の合う人たちと愉快に語り合いもし参加した喜びを味わった。
 ただライブ自体としてみた場合、さこ大介と館野公一両氏のカンケイがまださほど深くないだけやや練れていないというか二人とも互いに遠慮があったような気がした。もっとたっぷり絡みあっても良かったかと思うが私感だろうか。二人ともこの世界では珍しくとてもマジメな気遣いの人なのであったからそれも頷けよう。ならばぜひ再度またこの顔合わせでたっぷりじっくりと彼らの「うた」を聴かせてほしいと願う。ジャンルは異なるが似た聴かせる長うた世界の住人の競演、再演大いに楽しみである。

 それにしても館野氏の「語り歌の継承」シリーズが昨晩5月6日のさこ大介氏との回で実に50回を迎えたとのこと。ちょっと驚かされそして大いに感心した。一つの会場、ライブハウスにおいて、不定期開催だとしても1ミュージシャンが自ら企画したライブコンサートがこれほど続いたことは珍しいのではないか。これは一つの偉業、スゴイことなのだとあまり周りは気がついていないようだから記しておく。

 今手元にある資料によると第1回目が、1997年12月21日とのことで、ゲストは三浦久とある。あの三浦久氏から始まったということ自体、この企画の雰囲気をいみじくもあらわしているように思えるが、以下も知念良吉、よしだよしこ、そして中川五郎、みほこんからやなぎ、ぼけまる氏まで重複出演した方も当然いるが実に多種多彩な顔ぶれが並んでいる。※以上は著名な方のほんの一例。

 最初の数年はどういうご事情かわからないが、年に数回しか開催されていない年も多いが、近年なるとほぼ毎月開催という状況でそしてつい昨日で50回目となったのである。
 それだけ近年のシンガー館野公一の充実ぶりを示していると思えるが、有名無名にとらわれることなく、その時どき館野氏自身がまず見聞きし、ぜひ一緒にかけこみ亭で演りたいと選んだ実に良い真に実力あるユニークな顔ぶれだと自分は思う。
 またそうしたことを許すかけこみ亭のオーナーも実に太っ腹というかエライと改めて高く評価したい。ここはPAもとても良いことにもいつも感心する。当たり前のことが当たり前にできないライブハウスが実は多いのだから。

 この世にはいろいろお金やら愛やら正義やらいろいろ大切なことはいっぱいある。どれも大切で優劣や順位などつけられない。が、意外に語られないが実は大切だと思うものに「志」、つまり「こころざし」というものがあると考える。
 うたにしろ商売にしろ、仕事にしろ、政治、家庭生活、そして人生、何であれ実は本当に大切なことはこの「こころざし」なのではないだろうか。それは「思い」と言っても良い。今の時代いちばん見失われてしまい顧みられないのがこころざしだと自分は思う。誰もが目先のこと、刹那的損得や見栄や権益、保身に囚われあくせくして志をなくしてしまった。

 この語り歌の継承・・・というライブシリーズに館野氏が招いた方々のお名前を見てふいに「こころざし」という言葉が浮かんだ。そう、ここに並んだ歌い手たちは皆さん誰もがしっかりとした志をもっている。うれる、売れない、儲かる儲からないなんて次元でなく大地に根ざしたしっかりした確かなうたを変わらずうたい続ける活動をしてきた方々だ。それは館野公一という歌い手自身が同様にきちんとした「志」あるからに違いない。

 こころざしとは、何が大事であるか、どんなときでも絶対見失ってはならないことにこだわり、それを追い求めていく強い「意志」ではないかと自分は考える。残念ながら今の時代は志のない、見えない時代である。一例だけ挙げれば、どうして3.11の原発事故を経験したのに臆面なく原発再稼働ができるのか、またそれを許せるのか。日本人には志がないと言われても反論できまい。天国の清志郎が呆れるぜい!

 そんな時代だからこそ自らも志を持ちたいと願うし館野公一という「志」のある歌い手をこれからも高く評価し追いかけ応援していきたい。「語り歌の継承・・・」ライブがこれからも長く続き回を重ねていくことを祈ってペンをおく。

人は死ねばどこに行くのか2014年05月08日 23時00分10秒

★友人の墓参りに行って考えたこと     アクセスランキング: 114位

 体力無しを自ら標榜しているマス坊だから隠すこともないので書くが、このところ一日都心にでも出掛けると翌日は疲れて一日寝込んでしまう。それも一つの用事での話で、一昨日は、豪徳寺で昼過ぎ親しくしていた友の墓前に彼を知る仲間たちと集い、その後に昼間からやっていた三軒茶屋の居酒屋で軽く呑み、さらに夜は谷保でのライブで遅くなった。
 つまり一日に二つの要件をこなしたわけで、実質二日分の疲れ蓄積となったようで、昨日一日寝込んだだけでは回復できず、今日も疲労感に苛まれて時間あらば昼寝ばかりしていた。
 それでも本の発送やら洗濯やら飯の支度、犬の散歩等やるべきことはやらなくてはならない。その合間合間に少しでも時間つくって仮眠を繰り返して何とか体力を保っている。今もまだ鈍く頭痛がして体はだる重いがブログだけは書いておきたい。
 一昨日のことだ。

 考えてみれば近年一番親しくしていたT氏と連絡不通となって半年、ようやく死が確認されその彼が眠るお墓もわかり、生前の彼とかかわりがあった方々と待ち合わせてそのお寺に行ってきた。
 彼とのことや経緯については先にも書いたので繰り返さない。要するに天涯孤独の方で、ご両親は先に亡くなられていて、しかも当人は病気持ちで以前にも入退院を繰り返されていたので、連絡とれなくなっても周囲は、つまり我々友人知人たちは心配はしたが、また入院中かと勝手に思い込み忙しさにかまけて無事の確認を怠ってきていたのである。まったく薄情だと自分でも今も思う。友に対し卑怯卑劣でさえあった。
 ただ、今もその死因やどのような状況で亡くなられたのか唯一の親族の方とも直に連絡とれないので詳しいことは何もわからない。わかったことは命日と病死とのことだけで、彼が眠る一族の墓がある菩提寺の名と場所だけだった。

 それで、ともかく墓参りだけでもとオフノートの神谷氏の呼びかけでT氏の友人知人たちが墓前に集った。自分もそこに加わってきた。9人の男性陣がそろった。
 先にも拙ブログで書いたことだが、葬式をしたのかはともかく、そうした告別の儀式の席で永遠の眠りについた故人の姿を目にしないことには、彼が死んだこと、もうこの世に生きていないことは実感できない。だから気持ちとしてはもう連絡がないだけで、死んでしまったというよりもただ不在、いなくなったという感覚しかない。だからまたふいに連絡があるような気がするし、彼が死んでもう二度と会えないのだという実感が哀しみも含めてまだはっきりとわかない。
 ただ、今回は墓前に参り、その墓石に刻まれた名前を見ればようやくはっきりとその事実を認識できると思い、覚悟していた。それはある意味辛い現実を受け入れることであった。他の方々はどうか知らないが自分はかなり緊張し気分は重かった。

 しかし、そのお寺、そこは吉良上野介も眠る高名な古刹であったのだが、まずT家の墓がどこかわからない。お寺の人に訊ねて案内してもらいようやくここだと知らされた墓石は、T家の墓とは刻まれてはいるものの、個人の名前も年月日のようなものも一切ない簡素なかなり黒ずみ古びたもので、まず果たして本当にそこに彼の遺骨が入っているのかさえわからず皆で戸惑うばかりであった。
 幸い墓石の後ろに立っていた古びた卒塔婆の1本に、T氏の名前があったので、わりと多い名字であったが、ここで間違いないと皆納得してまず墓石を清め清掃してから花を活け香を炊きそれぞれが順に故人を悼んで祈った。

 それからチンチン電車で三軒茶屋まで出て、皆で安居酒屋で一献傾けながらT氏について関わりと思い出を語り合った。来られた方々はそれこそT氏とは彼が学生時代の頃よりご存知という方もおられて、病気に苛まれる以前の活発で才気あふれていた若き日の姿も初めて聞くことができた。
 考えてみれば墓参りに来られた方々の中では自分がいちばん歳月が短くしかも新しい付き合いであり、快活な時があったかを思い出すことができないほど常に病気を抱えて陰鬱気味で倦怠に囚われていたようでさぞや大変だっただろうと改めて気がついた。そうして薬のために常に抑圧され不全感を訴え続けていたのが自分の知るT氏であった。

 それこそ死ぬほぼ直前にあったのは間違いなく自分であったから、自分が知る彼とのこと、この数年の様子を語り、結局最後は彼は自殺ではなく、たぶん薬を飲み過ぎて体に負担がかかっての心筋梗塞のような突発的なことで亡くなられたのではないかということで皆で納得した。

 ビールを中心に軽く呑んだだけだったが、一通り全員が自己紹介と思い出を話し終えた段階で妙な酔いが回ってもう気分的に限界となってもっと話したり話を聞かねばと思いつつもその場を勝手に先に辞去させてもらった。たぶんそのまま呑み続けていたら感情が制御できず酔い過ぎて前後不覚となってしまい夜のライブには行けなかったことだろう。

 東急で武蔵溝口に出て南武線に乗り換えて谷保に行ったと思うのだが頭がぼうっとしていっぱいで記憶がほとんどない。ただ、ずっと考えていたのは、今彼は、Tさんはどこにいるのだろうかということだけだった。むろん、たぶん肉体は焼かれ骨になってあのお寺でご両親と共に並んで墓石の下に入っているのであろう。ただ、歌の文句ではないが、そこには眠ってなんかいないとはっきり思えた。ならばいったいどこに、まさか千の風になって空を漂っているとも思えない。
 彼の遺骨が眠る墓前に参れば彼の死をようやくはっきりと実感できると思っていたが、やっと墓参りできたこと自体は良かったものの改めて不在感を強くしただけであった。

 自分は魂の存在も信ずるし、人は現世のみこの肉体のみで生きるものではないという確信を持つ。が、かといって天国とか神の国に彼が行ったとも正直なところまだ思えない。彼の魂はまだこの世にとどまっているのではないかという気がする。いや、ずっと今もしている。ならばもう一度声は無理でも向こうから何かのしるしを示してほしいと望む。そしてどうかきちんと別れを告げたいと、彼を助けられなかったことを心から詫びたいと願う。

 それができない限り自分は生涯、彼の死を受け入れられないしただいなくなってしまったと、連絡が取れないでいる長い長い「不在」を抱えていくしかない。いや、いずれ早晩自分も死ぬのだから不在は不在のままでもう良いのかもしれない。
 そしてあの世で再会しあれからのこと、積もるお互いの情けない話をとことん語り合おう。
 そう、それで良いのだ。あるがまますべてを受け入れていこう。無理に納得させる必要もない。彼は死んではいない。ただいなくなっただけだ。そしてやがてまた会える。その日まで不在は不在で連絡取れなくても仕方がない。そう考えていくことにした。

 追記:彼は自分のフォークソング教室の生徒でもあって、彼にギターも教えていて手元にあったモーリスの中古ギターを貸与していた。ただ、彼の体調が悪くなりしばらく休みたいという申し出に、ギターはまだ返してくれなくていいよ、と言ってそれきりとなり、結局彼のアパートも誰かが片づけて生前の私物はすべてどこかへ消えてしまったのである。
 あれこれ彼に貸していた本とかのことも思い出すが、気にかかるのはやはりそのギターのことで、誰かの手元に渡り誰かが使ってくれたら良いのだが、結局ゴミとして処分されたかと、ときたまそのギターのこともよく思い出しては気にかかっていた。大して価値あるギターではないが、本なんかより楽器は個性があるぶん行く末がなぜか気にかかるものなのだ。

 そしたらば、墓参りに行った翌日、つまり昨日の朝のこと、近くのアパートのゴミ捨て場に、自分が彼に渡した時と似たようなソフトケースに入ってフォークギターが捨てられているのを発見した。むろんすぐ拾って持ち帰って中身を確認した。モーリスのではないが、同程度のそれももっと状態の良い新しいギターで、思わず、ああっという声が出た。そしてすぐにわかった、几帳面なT氏のことだから、借りていたギターのこともあの世で気になって、代替のもので誠に申し訳ありませんが・・・、と自分に返してくれたのだと。やはり彼はまだこちら側にいる。ただもうこちらからは連絡がとれないだけなのであった。人は嗤うだろうがそう確信を得た。
 Tさんが返してくれたギター、大切にして大事に弾いていく。Tさんありがとう。知り合えて良かった。そして長く苦しく大変だった闘病生活、本当にお疲れ様、ご苦労様でした。彼の魂の安らかなることを祈ろう。

増税後の好景気?を考える2014年05月09日 22時18分12秒

★意外にも好景気は続いているが・・・        アクセスランキング: 118位

 先にも書いたかと思うが、このところ古本稼業は順調である。
 4月の消費税増税後、あれだけ買い溜め、買い置きに人心が燃えたから、当分の間消費は冷え込むと誰もが予想していた。むろん自分もだ。
 が、意外にもスーパーなどの小売業は堅調で、ほとんど落ち込みはないそうだ。ウチの近くの生鮮食料品を扱っているスーパーは土日など駐車場はいっぱいだし、ホームセンター的ドラッグストアも連日にぎわっている。
 むろん車や不動産などの高額商品は増税前の駆け込み需要で先行して売り上げを伸ばした分、落ち込みが顕著だそうだし、決して増税の影響はないとは言えないと思うが、小売業だけ見れば消費者の購買意欲は未だ落ちてはいないようだ。

 じっさい、古本稼業も3月から続伸していた注文が4月は落ちるかと思っていたらそのまま続いていて、先月末、今月前半と、増税前より注文は増え続けたままで当然収益も増えてきている。※といっても単価が安いので売り上げ増えたといってもたかが知れているので誤解なく。ただ、今までは日々の小遣い程度にしかならなかったアマゾンからの振り込みがこのところ溜まる程度にはなってきたということだ。このままこの好景気が続けば様々な支払いもずいぶん楽になるはず期待している。きっと増税前から欲しかった高額の真空管アンプも贖えるかと思う。

 今日は久々に注文が途絶え、Amazonマーケットプレイスから一件も受注メールがないが、このところ多い日は一日5件もあったりとその発送に追われてうれしい悲鳴を上げている。増税後なのにいったいどうしたことか訝しく思う。
 その理由を考えてみるに、増税前に火が付いた消費意欲というべきか、購買欲、買物熱は、一度燃え盛るとなかなか冷めないという心理もあるのかと思える。また、ウチでは、増税後も価格をまったく変えていないので、割安感のようなものもあるのかもしれない。
 ただ、一言でいえば、消費税増税という転機がある意味人の購買意欲を刺激し、そこに一部の企業でのベースアップなどもあったことで、さほど増税後も人心は冷え込まなかったということが大きいのではないか。
 3%の増税なんて、高額商品でなく日用品、食料品程度の買物ならベアアップの範囲内で収まるのであろう。つまり出るより入る金が多ければ人は相変わらず金を使うのだとわかる。
 ただ、それは、春から収入が増えた人の話であり、支給額が削られた人たち、年金生活者や生活保護世帯なとではこの増税がたかが3%ではなく重く大きく圧し掛かってきている。さらに他の支払い、様々な税金や介護保険料なども軒並み上がっている。ただ、今はまだ好景気に浮かれているので多くの人はその実感がわかないしよく実態が見えていないのではないか。
 また、今回の増税については便乗値上げ的まやかしが多々見られる。消費者はそのことにどれだけ気が付いているのだろうか。

 今体調が悪く長くパソコンに向かえないので続きは明日。

続・増税後の好景気?を考える2014年05月10日 21時58分22秒

★本格的貧困格差社会の到来    アクセスランキング: 128位

 消費税増税が景気刺激策になっとは皮肉なことだが、この税率アップが冷え込んでいた消費マインドに刺激を与えたことは間違いない。問題はこの高税率時代に社会全体が持ちこたえられるかであり、こうして次は10%、さらに日本の将来を考えればさらなる税率アップなどと答申に従えば間違いなく消費は冷え込んでこよう。ただ今はまだ8%、5から8へのアップ程度では多くの給与生活者たちにはあまり痛痒を感じていないのではないか。

 ただ、今回の増税については大いなるまやかしがある。その今も賑わっているウチの近くの野菜や肉、魚を扱う生鮮食料スーパーでもこの四月一日から、それまでの税込表示を改め別途買物総額に消費税8%をかけるという方式に変わった。
 だから、消費者としては商品の値段は前のままだから値上がり感はまったくない。ただレジで支払うとき以前の価格に新たに8%くわえられ支払うことになる。しかし考えてみるとそれはすごくおかしい。以前は5%の税込でその値段だったのである。ならば増税後は新たに3%だけかければよいはずだ。ところが全てに新たに別途8%消費税としてかける。それでは実質値上げではないのか。
 たまに家族で利用していた中華料理店でも店内の貼り紙で、『4月1日より全て「税抜き価格」にて表示させて戴きます』とあった。値段はそのままで、そこに新たに8%かかる。今までは税込み価格、増税後は別途8%、これって詐欺的まやかしではないのか。

 駅前の牛丼チェーン店では、牛丼並250円!と大きく宣伝していたが、そこに別途消費税として20円だかかかるので、以前の税込価格とさほど変わらない。ただ、消費者としてはそうしたことに気がつかず、モノの値段そのものは変わっていないと思い、あるいは逆に安くなったとさえ思っている。またそれに気がついても大して変わりないと思い、お上の決めたことだからと唯々諾々と従っている。しかしこれは本来便乗値上げとして行政が指導すべきではなかったのか。

 中には、ホームセンターの雄カインズホームや良品計画のように、前と変わらず全ての商品の税込み価格表示を貫き、値上げすることなく、実質的に「値下げ」してその分企業努力で補っている良心的会社もなくはない。が、この世は詐欺といかさまでできていて、商売にはつきものと山本夏彦翁がいみじくも書いたように、多くの小売業では増税を機にこうした便乗値上げをしてすました顔をしているのである。

 今はいい。ただ、こうした増税は当然のこと、低所得者層にはじょじょにじわじわとダメージを与えていく。じっさい収入の増える当てのない人にとってはさらなる増税は死ねということであろう。今でもレジに並んでみれば好景気にわく若い人たちはカゴいっぱいに肉や魚が満載だが、老婆のカゴには値下げした魚のアラと野菜とかもやししか入っていない。今もまっさきに棚からなくなるのはもやしなのである。

 かつてこの日本は国民の八割方だかが、自らを中流だと思うという一億総中流幻想があった。それは「幻想」でも自らかそう思い込んでしまう実態と実感がそこには確かにあった。しかし、今の日本で自らを中流だなんて思う人、感じている人がどれだけいるか。
 残念だが、半数近くの人が、いやそれ以上が実感として下流、下層だと感じているのではないかと思える。そして一方ではヒルズ族のようなITや輸出産業中心に大金持ちの層も確実に増えている。都心のマンションも価格が高くても売れ行きは良いのだそうだ。つまり金持ちにはさらに金が流れ、貧乏人、貧困層からはお金がさらに逃げていく。そんな日本に、アメリカ型格差社会へとこの国はさらに進んでいく。

 つけ加えればそうした社会を作ったのが自民党、小泉政権であり、今その男が脱原発を叫びそのための活動を始めたとしてもそれは果たして真に受けるべきであろうか。
 貧困と格差と原発の図式は全く同一だと自分は考える。それは同一線上にある。過去に反省あっての脱原発ならばともに手を携えよう。が、過去に一切の反省なくして原発一点のみで共闘をと求められたとしてオレはそいつと一緒にはやらない。狭量と言われてもかまわない。そんな人間と共に活動する人たちの良識を疑う。オレに言わせればマキャベリストでしかない。

 ちなみにネット辞書からその意味を載せておく。
 Machiavellist

目的達成のためには手段を選ばない人。権謀術数主義者

15世紀末から16世紀初頭に活躍したイタリアの外交官マキャベリが「君主論」の中で述べた政治思想。政治目的のためにはいかなる反道徳的な手段も許されると説いたことから。

シバの無頼庵ライブ、予約間もなく締め切ります2014年05月11日 10時05分15秒

★おかげさまで予約だけでほぼ満席に    アクセスランキング: 174位

 いよいよ来週17日の土曜日に迫ってきた、孤高のブルースシンガー・シバの無頼庵での初ライブであるが、予想以上に人気が高く、すでに参加予約者だけで10名を超えてしまった。これまで拙宅のライブでこれほど反応が高いのは初めてだ。シバ人気というか、彼の渋い音楽に魅せられた方々がこれほど多いのである。実にうれしいではないか。

 むろんまだもう少し入れるし気持ちとしてはもっと多くの方に来て頂きたいのだけれど、今回は彼の作陶「作品」の展示も予定しているのでスペースがいつもより広くとれない。当日ふいに来た方に帰ってもらうことはないはずだが、参加思案中の方はとりあえず「予約」して頂いたほうが確実だ。こちらも懇親会での飲食の支度などもあるので人数が確定したほうが有難い。

 今回のライブ、自分にとっても誰にとっても記憶に残る素晴らしいものとなるだろう。ぜひ一人でも多くの方々にその場を体験していただきたい。
 今からこの自分が興奮している。ついに念願がかなうのだ。