こんな我をも信じ求めて・・・2015年04月01日 22時37分56秒

庭先の桃の木と菜花も今が盛りと
★すべては自業自得、因果応報だが              アクセスランキング: 232位

 こうしたブログを始めて、もう10年になろうとしている。
今のアサブロの前には、エキサイトブログをやっていた。その頃からのお付き合いある読み手の方ももしかしたらいるかもしれない。ならばお付き合いは有難いことだ。
 
 我、マス坊は、基本的にいくらでも書くことはできる。むろんきちんとした原稿は別として、身辺雑記的な日々徒然のことならブログとして365日、いっときの中川翔子的に書くだけのことはいくらでも可能だ。
 が、以前もしでかしたが、迂闊に深く考えず思うところを書き記すと、ときに実名からその相手の方、店などに迷惑がかかりトラブルの種となったこともある。そう、こんな無名な素人ブログでも今の時代、検索である語句がひっかかり世界のどこでも誰が目にするかわからないのである。そしてそこからご迷惑が発生してしまう。

 また、実名など出さなくても、あること、出来事について書いた「感想」や個人的考え、思いが、とある読み手にとっては「問題」となることもある。むろんこちらは、そうした意図なしに、気軽に、深く考えずに思ったことをただ書いたに過ぎないのだが、読み手の解釈では、傷ついたり、許しがたいこととして捉えられる場合も多々ある。

 そうしたことについて、きちんと抗議でもご意見でも感想でもこちらに返ればまだ良い方で、読まれた側が誤解されたまま関係がこじれて「問題化」してしまうこともまたあるのだ。
 こちら側の真意を会うなりして説明すれば理解もしてもらえるのだが、我の文意が拙いがゆえか、意図せぬ方向に解釈されて人間関係がこじれることもある。まあ、書き手と読み手の間の齟齬というのは、ブログに限らずどこでも常にあるものだから、読み手がどう読み取るかはそれもまた読み手の自由であり、書き手とはまた別の真実もあろう。
 何であれ、100%こちらの思いは他者に伝わるはずもなく、話すこと、書くこと、成すことでさえ60%でも伝われば良しとすべきかもしれない。

 じっさい、どう読まれるか、どう解釈されるかをあれこれ忖度していたら臆して何一つ書くことができなくなる。言葉を選びあるいは筆舌を尽くしできるだけ詳しく書けば相手に伝わるわけでもちっともない。
 今の人は皆忙しいからくだくだしく書けば「俺は忙しいんだよ!!」と一喝されるのがオチで、長々しく書けば伝わるどころか読んでもらえるなんて思う勿れである。

 そしてこんなことを書くと、書いていると、その真意はどこにあるのかと訝しく思う方もあろう。何か含むところあって誰かに向けて書いているのではないのかと。

 このブログの読み手にご理解頂きたいことは、我マスダの書くことは、特定の誰かを揶揄したり暗に示し向けてのことは基本的にないしするつもりは全くない。ただ折々そのときどき、その時点で個人的に思うこと、感じたことをただ内的衝動に突き動かされ書いているに過ぎない。

 もっと読み手の気持ちにも配慮すべきなのかもしれないが、誰のことだがわかる人には推定できるような書き方もしないし、特定の誰か個人を非難したり攻撃するようなことは政治家など著名人は別として絶対にしてはならないことだ。あくまでもいつだって個人的なことと個人的な思いを書き記しているに過ぎない。誤解なきよう願いたい。

 繰り返すが、やむにやまれぬ書きたい、書かざるえない衝動がある故ブログを書き、続けている。ときに筆が滑ることもあるかもしれない。しかし、誰かを貶めようとか傷つけ暗に批判しようという意図だけは絶対にない。むしろ我、万死に値し、全て自業自得、因果応報ゆえ今の状況になったという思いから自己を見つめ直すためにも書いている。
 韜晦でもないし自己憐憫であってはならない。ただ心の移り変わりをそのときどきあるがままに正直に書き記していく。

 自らの愚かさと迂闊さ、考えの甘さから友人知人を失望させ深く傷つけてしまった。そしてそうしたことを常に繰り返している。が、そんな我をも今も見捨てず信じ求めてくれる人もいる。
 拙ブログを通してそうした出会いがあったことを書き記していきたい。

こんな我をも信じ求めて・・・続き2015年04月02日 21時58分01秒

★自らの固いベッドで眠れ              アクセスランキング: 192位

 前回の続きを書く。
 自業自得とは、仏教用語で、現在は本来の意味とは違い、悪いことをした報いが自らに及ぶという意味で用いられている。いわば因果応報であり、巷間、身から出た錆と同義で使われているようだ。

 いっときのベストセラー本で、『原因と結果の法則』なる翻訳本があったが、それもまた同様のことを説いていたかと覚える。
 自らのしでかした失態、失敗から多くの関係者に不信の念を与えてしまい、深く反省した、もう繰り返さないと宣言しても一度失った信頼は戻らず旧くからの友すらも失ってしまった。

 まさに我が身の不徳の致すところであり、忸怩たる痛恨の思いがあるが、振り返ってみるとわが人生はそうしたことの繰り返しであって、根本がバカだからちっとも改まらないのであろう。
 むろん、そうした愚かなデフォルトが良いはずはないし、肯定どころか開き直りもできない。結果、人様にご迷惑と不快の念、傷つけ不信の念を与えるだけでトラブルを起こすだけなのだから反省どころか深く悔い改めなくてはならない。

 今は失ってしまった信頼が少しでも取り戻せるよう言葉ではなく行動で示すしかない。が、今の状況、自らのまいた種が招いた苦境もまた個人的には全面的に悪いことばかりではないと思えてきた。何より自分という人間を深く知り見つめ直すことに繋がったからだ。全ての根本原因は、我が甘さ、甘え故であった。むろんご迷惑をおかけした関係者にとってはとんでもない、許しがたい話であろうが。

 聖書の中、ヨハネ伝に興味深い記述がある。弟子たちを連れたイエスが生まれつきの盲人と出会う第九章。

 弟子たち曰く「先生、この人が盲人なのは誰が罪を犯したためですか。本人ですか。それともその両親ですか」と問う。
 その問いに対してイエスは「本人でも両親が罪を犯したからではない。ただ、神のみわざが、彼の上に現れるためだ」と言い、地に唾を吐き泥をこねて、その泥を盲人の目に塗り「シロアムの池に行って洗いなさい」と命じた。池で目を洗い見えるようになった彼は大喜びでイエスを讃えた、と記される。この章は繰り返し読んでも様々な解釈が得られる。

 気の毒な盲人を前に、彼の罪について論ずる弟子たちも思えばずいぶん無神経であろう。また、多くの人が指摘するように古代ユダヤ社会でも仏教的因果応報の考えがあったことがわかる。つまり、悪結果は、悪い根本要因がそもそもあるが故もたらされたのだと。
 が、イエスはそれを否定し、神の御子として、神の業で盲人の目を治された。自分にはずっとイエスの言っていることが良く理解できなかった。
 イエスとリアルタイムで出会った者ならばこうした奇跡に与れよう。が、それから二千年後の我々には、「神のみわざ」などどれほど願ってもかなわぬことでナンセンスではないのかと。

 障害を持って生まれた人、健常であっても何かのきっかけで障碍者となった者は、むろんのこと因果応報の結果ではない。が、この国には「親の因果が子に報い」という考えも長くあったし、自業自得どころか先祖の祟りという民間信仰のようなものすらもあった。が、イエスはそれを全面否定した。そのことは素晴らしい。が、神のみわざが現れるためとはどういうことなのか。

 今の自分にはわかる。全てのことは神の計らい、恵みであり、良いことも悪いことも愛と慈しみという神の「光」が当てられるがためにあることが。むろんのこと全ての行いは、原因があるから結果が起こる。ある意味、自業自得なのである。が、その悪い結果すらからも得るものと学ぶところ、つまり良いこともあるわけで、それこそが「神のみわざ」か現れるためなのではないのかと。

 他者を非難することも批判することもたやすい。が、苦難の時こそ、ヨブの元を訪れた友人たちのようになってはならないと信ずる。ヨブに訪れた苦難はヨブ自らが招いたものではない。我がそんなことを言える立場にないのもわかっているが。

亡き人が繋いでくれた縁~ありがとう一潮さん2015年04月03日 06時04分39秒

★こんな我を信じ求めてくれる人がまだいる       アクセスランキング: 222位

 高坂一潮さんが亡くなって今年で4年となる。あの大震災の年、何年もの長い闘病の末、震災の直後に、まるで犠牲者たちを追うように彼もまた旅立ったのであった。不慮に命を絶たれた多くの人たちの魂を癒すために一潮さんもうたを携えあの世に出向いたのかもしれない。津波に襲われ破壊尽くされた青森の灰色の海岸線に彼のうたが流れている心象風景を長い間イメージしていた。
 
 このところ気がつくとずっと彼のことを考えている。むろん先だってかけこみ亭で追悼のイベントが今年もあったからだが、彼に関して拙ブログにも問い合わせなどが続き、希望者にCDを売ったり、縁ある方に近く会うことともなった。

 生前たった一度きり、それも谷保のかけこみ亭でのイベントライブで初めて知った程度の関わりの人とこれほど深いつながりができるとは実に奇縁だと不思議でならない。あの世で彼と会ってもおそらく向こうはこちらのことなど覚えていないはずだ。
 その程度の関係でしかなかったはずなのに、今は気がつくと頭の中は彼のうたが常に流れている。先日も電話でよしだよしこさんと話したが、彼女も語っていたが本当にすごい人だったんだとつくづく思う。今も圧倒されっぱなしだ。   

 そもそもの関わりの発端は、敬愛する中川五郎氏が彼のうた「だびよんの鳥」をうたい継いでくれていたからだが、当ブログに一潮さんのことを書いたことで、彼を知る方々から連絡が届いたことによる。
 先にも記したが、このブログ、時にトラブルの種となることも多々あるが、何の気なしに偶然意図せず書いた記事が波紋を呼び、故林美雄TBSアナウンサー顕彰のファンクラブがこのブログが奇縁で立ち上がったり、良いことも多々起きたかと信じたい。マスダがすることは人様に迷惑かける悪いことばかりでないと。

 一潮さんとの関わりも、自ら望み企ててのことではまったくない。彼のことを知るファンや親交あった方々が、検索などで偶然訪れ連絡を頂き、こちらも応じていつしか深入りし彼のことと音楽を知り、認識を深め彼の死後遅れてのファンになったようなものなのだ。
 正直まったく意図しないままこんな風に今に至っている。これもまた神の計らいであり、神の恵み、御心、みわざなのだとつくづく思う。いや、あの世から故人の計らい、遺された思いが人を動かしているのかとも思える。

 今年はかなわなかったが、来年の今頃には、かけこみ亭で「高坂一潮のうたを縁あるミュージシャンたちがうたう」ライブイベントを決行したいと改めて考えている。うまくすれば象さんクロちゃん夫婦のように「皆で一潮をうたう」CDアルバムも出せるかもしれない。
 夢はあれこれ膨らむ。昨年の秋からずっと凹んでいた気分もこのところの一潮さんとのことで立ち直った。すごい人だとつくづく思う。うたの力と共に亡き人の魅力であろう。

 自らがしでかした結末だが、もう誰からも相手にされないような気分でいた。が、一潮さんを通して、まだこんな我を信じて求めもしてくれる人たちと出会えた。本当に有難い。新たに出会った人たちをも失望させることのないようがんばってやっていこう。
 もう一度チャンスをまた与えられた気がしている。

京都行は断念、願わくば北海道へ2015年04月04日 23時36分02秒

西立川の残堀川河畔の桜並木
★少しだけ先のことが見えてきた。               アクセスランキング: 位

 今日は一日どんよりとした曇り空。このところの汗ばむほどの陽気に慣れた身にはうすら寒い。ザーと一雨降るかと怖れたが幸い雨には降られなかった。
 公園や学校、川端の桜は今日が満開。この土日が見納めであろう。個人的には老親連れて、西立川の残堀川沿いの桜並木に出掛けてきた。来年もまた彼ら連れて再びここに来られることを願って。

 さて、いくつかの懸案のことに少しだけ動きがあった。いや、実際に動き出したのではなく、ようやく我が自ら内側で方向性が定まった。何をどう動かしていくか、我は何をすべきか、どう動くか今後の方向、進むべき道が決まった。
 今までは人間関係からどうしたら良いものか、待つだけで身動きとれず何も決められなかったが、ようやく案もまとまり方向も気持ちも決まった。後はそのシナリオに沿い調整しつつ進んでいけば目的の場所にたどり着く。つまり完成となる。
 列車に喩えれば、今までは行き先はあってもいつ出発するのか、乗務員も乗客も定まらずいつまでもただホームに停車していたわけだ。が、点検を終えてこれからいよいよ出発進行となる。列車は動きだせば後は一路目的地へとひた走る。転覆や急停車など事故さえ起こさなければと祈り願うだけだ。

 今日、4日は、昨年12月に亡くなられた笠木透さん追悼のライブイベントが、岐阜であったはずだ。昔の我ならば、万難を排してもそのライブに出向いたかと思うが、お誘いを受けて迷いもしたが諦めた。
 また、この11、12の土日には、京都拾得で、故藤村直樹さん追悼のやはり大きなフォークコンサートがある。詩の師匠、有馬敲さんも出られるとのことで、彼からも来るよう呼ばれているのだが、たぶん断念することとなりそうだ。
 先にもチラシを拙ブログに載せたが、故人縁あるすごいメンバーが勢ぞろいし記念ライブとしてフォーク史に残るものとなると思いぜひ参加したいと願い行く計画もしていた。が、もう直前である。
 じっさいのところ、有馬さんともまだ相談中で、高速バスとかとれて交通費を安く浮かせられるなら久々の春の京都旅行へとまだ心動かされている。今、京都で遊興中の両国の眺花亭主人とも向こうで会う口約束してしまったほどだ。

 が、金も時間も今はないこともだが、懸案のことの先行きが見えも進みもしていない現状で、また新たなことに関わること、結果として手を広げることはすべきではないと思えてきた。
 行けば何日かは時間がとられる。そしてその行為の責任をとり後片付けも報告もしなくてはならない。またそこで体力と気力、そして時間と金が奪われる。強行軍ともなろうから無事戻っても一週間は寝込むかもしれない。
 楽しみ以前に行けば得るところは大きいと信ずるし、有馬さんとの関わりにおいても役割はあるはずなのだが、今はいろんな意味で余裕がない。今の自分には、新たに何かを広げることよりも、これまでしてきたことを整理し減らすこと、断つことのほうが最優先ではないのかと内面の声は言っている。その声に耳を傾けると春の京都の誘惑も萎える。

 楽しみや喜びは優先すべきではない。まず辛いことや苦しいことでもなすべきことを終え、終わらなくとも軌道に乗せてから褒美としてそれらはあるのではないか。
 つまり刈り入れを終えない限り、次の種は蒔けないということだ。次から次へと種を蒔いても誰も刈り取ってくれないし、自分だって忙しくて収穫できない。ならばこそまずは、狭い自分の田畑をきちんと管理しこれまで蒔いた種を手入れしきちんと収穫して蔵に収めねばならない。
 そのうえで、また新たな種まきをすべきであろう。

 と、書きつつも実は、初夏の北海道浦河というところへ、その地に住むまたもう一人別の「師匠」を訪ねることもモウソウしている。そのモーソーを現実にするためにも懸案のことをともかく終わらせなくてはならないのだ。

亡き人と死にゆく人の思いに2015年04月05日 00時28分59秒

★生者が彼らにすべきこと、できること          ランキング165位

 この3月、4月はあちこちで亡き人を偲ぶ追悼イベントが催されているのでそれもあってか死んでしまった人たちのことをあれこれ思い出し彼らのことや死について考えることが多い。
 死者は生者を煩わすなかれ、という名言もあるが、死んでしまった者はこちら側、現世に対しては全く無力なのだから、生者の側から何かなすべきことがあると信ずる。

 こんな夢を見た、といいたいところだが、先日のこと、白昼夢のような強いイメージが与えられた。黙示録で聖ヨハネが見たそれもこうしたものかと得心した。それを記しておく。

 人の一生は重たい荷を背負って歩むが如しであろう。
 風が吹きすさぶ木も草もろくにない灰色の荒野を様々な人が歩いている。それぞれが荷物を背負い抱えて徒歩で歩いている。その後ろ姿しか見えない。

 若い人は荷物も少なく、走るようにすたすたと軽やかに歩を進めていく。老いた者はそれぞれ荷の量は違えども皆誰もがゆっくりと、ときにふらつきながらよたよたしながらも歩いていく。青息吐息でほとんど進んでいないように見える人もいる。
 荷物の量は人それぞれ違い、中には肩の高さどころか頭の上の高さ以上も積み上げた大荷物をうんうん唸りながらも背負い抱えてどしどし歩いて行く強者もいる。
 また、老いても身軽に小荷物でのんびり軽やかに歩く者もいれば、逆に若そうでも大荷物でうんうん唸って汗だくで歩く者もいるようだ。

 皆それぞれが各自の荷物を背負いどこか同じ方向に向かって歩いていく。一人の人も多いが、中には夫婦か家族なのでろう、並んで相手を気遣って歩く人たちもいる。
 中には子どもも連れて一番幼い者の歩みに合わせて進んでいくグルーブもある。ただ、それぞれが個々の荷物は個別に自ら背負い、誰かの手を引くわけでも他の人の荷物を代わりに持つわけでもなく、ただ並んで共に歩くだけしかできない。

 中にはもう疲れて動けなくなりその場にしゃがみこんでいる人もいる。たぶんそのままもう立ち上がれずその場で死んでしまうのだということがわかる。というのは、そうして途中で死んでしまった人たちの残した荷物があちこちに固まりとして道に残されているからだ。

 墓石ではなく、主のない雑多な荷物が時と共にただ風化してゴミやがらくたのように道のあちこちに点在している。時おり風に吹かれて飛ばされてくる紙屑などはそうした荷物から出たものであろうか。
 肉体はそこにないのは、誰かが処理するのではなくそこはとても乾いた場所らしいので朽ちてしだいに風化して消えてしまうのであろう。

 そうした残された他人の荷物を拾うこともできなくはないはずだ。だが、今抱えている自らの荷持だって相当に重いのでそれをするのはよほどの勇気と余裕、その覚悟がなくてはできやしない。
 自分の荷物だって誰も持ってくれないのである。他人がどんなに苦しんでいたとしても代わってその荷を背負うこともできない。ただ、道端の死んでしまった人が遺した荷からいくつかのものは貰って、自らの荷に積み込むことはできる。

 人が生きて行くこと、人生とはこうしたものなのだとわかった。
 死者と生者という別のものがいるのではない。皆死に行く者なのだ。まだ死んでいないだけの違いでしかない。我もまたどうにも歩けなくなって、その場に立ち崩れて大きな荷物だけをそこに残して消えていくのだろう。

 ならば人は何をどうするか。生者に対してはともに歩む者として励ましあうことをまずすべきであろう。会ったら無視しあうのではなく、挨拶し情報を交わし道を歩む仲間としてがんばれと言いあう。そして荷物は代わって背負うことはてぎないができる限りのことはする。
 やがてその人が遅れたり先へ行ったり途中で死んだりしてもう会えなくなった時のためにもその並んだときには誠実に付き合おう。どんな相手であろうともわざわざ避けたり逃げたりすべきではない。それもまた縁なのだ。きちんと付き合わねばならない。丁寧に愛さなければならない。

  うんと遠くまで、たくさん思い通りに歩けた人は思い残すものなどないはずだ。逆に、本人の意志とは関係なく病や事故、戦争など不慮の事態から短い道のりしか歩めなかった人も多々いる。彼らの残したたくさんの荷物がただ風に吹かれている。
 同じ道を歩く者は、そうして死んでいった者たちの遺した荷物、つまるところそれは「思い」なのだけれど、少しでもそれを我が荷にも背負い込むべきではないか。
 そんな余裕はない。今でさえ我が身の背負う荷だっていっぱいなのである。しかし、生者の荷を代わって背負うことが難しいからこそ死者の残したもの、その思いを生者は受け継ぐべきではないのか。それこそが道を歩く者の使命のようにも思える。
 
 今僕は道を歩いている。行き先はどこなのか、道はどこまで続くのかわからない。見渡しても周りには誰もいない。そして背負っているその荷がどれほどの大きさなのかその後ろ姿は自分では見えない。
 しかし、だからこそ、道の途中で出会った人と道に残された亡き人の荷物は大切に扱っていかねばならないのだとはっきり認識した。

 象の群れのようなものだ。共に道を歩いている。やがて歩けなくなった者はその場に置いていかれる。象は哀しげに鼻を鳴らして仲間に別れを告げ群れは先へ歩いていく。
 人は象と違い、その残した荷を受け継ぐことができる。そうすべきなのである。それが人生なのだ。でないと志半ばで嫌でも死んでいった者たちに申し訳ないではないか。

 誰もが同じ道、死に向かって歩いているのだから。

一潮さんを改めて偲び思うこと2015年04月06日 18時24分47秒

★生者が彼にできること                アクセスランキング: 120位

 昨晩は、亡き高坂一潮さんと生前家族ぐるみで付き合いがあった方と初めてお会いして故人のことをいろいろお聞きする機会を得た。
 この世は不思議な縁で結ばれているとつくづく思う。生前はたった一度しか生でお聞きしろくに話せもしなかった人が今我の中では大きな存在となってしまった。

 まあ、何にでも遅れてしまう自分の場合、たいていが亡くなってからか亡くなる直前に何とか知り合えるかどうかということが常であり、若林純夫さんも笠木透さんも死後、ご遺族や縁ある方と連絡とることができたり、藤村直樹氏も最後の拾得での中休み=お別れライブで握手交わすことだけはできた。
 そして、一潮さんである。
 今頃になって、彼のことが知りたいと願い、少しでも亡き人にとって今更だがなにかできることはないかと考えている。

 いろいろ彼を知る方々からお話をきき、また残されたライブ音源や映像を観ておぼろげだが彼の全体像も見えてきた。今思うところを書く。
 かわいそうだとか、不幸せだったとは思わないが、不運な方であったと思う。遅れて出てきて一早く去ってしまった不世出のフォークシンガーということに尽きようか。
 もっと早く出てきて、例えば、京都や関西にいたならば、中川五郎や高田渡らと伍して、音楽活動を始めてその中心で早くから活躍したことであろう。
 青森という辺境の地で、幸いにして「だびよん劇場」という伝説のライブスペースがあったから、彼はフォークソングと出会い、自らもギターを手にしてオリジナル曲を作り唄うようになっていった。音楽の波がその地に届くまでずいぶん時間がかかったということだろうけど、その地に届けられたフォークの種は芽吹き、高坂一潮という天才シンガーを世に生み出したのである。そのことにまず感慨深く思う。牧良介という傑出した先人の功績でもある。

 そして彼にとって不運だったのは、デビューが遅れたこととと子育てなどの家庭生活の一番大変な時期が日本のフォークシーンにとって大変悪い不況の時期にあたってしまい逆風の中で音楽活動に本腰を入れてしまったことではないか。
 同世代の多くのシンガーはその時期、とりあえずの知名度と実績を既に持ち家庭生活も一段落して仕方ないと息をひそめ隠遁的小休止時期にあった。フォークシングが復権するのは、2000年前後の、米国で興ったアンプラグド、生ギターによる生歌ブームがこの国に届いてからで、いちばん客が入らない最悪の時期には、西岡恭蔵は家庭内の不幸もあって自死してしまった。
 天才は天才を認め知るという言葉通り、一潮さんと恭蔵さんは仲が良く、いや、恭蔵自身が一潮の才を高く評価し、無名の地方シンガーであるにも関わらずかの地に赴いたときには共演したり深い親交を結んでいた。だからあのどんとも、沢田としきもケニー井上もその遅れてきたフォークシンガーを高く買い、暖かく応援したのであろう。
 
 そんな逆風のさなかに彼はフォークシンガーとして積極的に活動を続け、音楽シーンにその名をじょじょに知られていく。同時に彼を支援してきた数々の盟友を失っていきながら。中でも敬愛した高田渡に死なれてから、まるで後を追うように上京の折に倒れて以後数年間意識が戻らぬまま逝ってしまうのである。

 幸せのかたちとは人それぞれだから、遅くデビューしようと早く死のうが一概に不幸だとか可哀想だとは言えまい。が、思うといろんな意味で不運な人であったような気がする。そして深い屈託を抱えていた人だとも。不幸ではないが不運な人だったと。

 今も健在で活動を続けていたならば、大震災後の今の時代だからこそ彼のうたは多くの人たちに聴かれ招かれる場も多かったことは間違いない。明るくちょっと剽軽な語りで、しかしどっしりした骨太の、彼しか唄えない、彼しか作れない繊細な楽曲を日本全国で披露しスポットを浴び大喝采を受けていたことだろう。

 遅れてきて早く去ってしまったフォークシンガーに我々残されたファンは、特に遅れてファンになった自分は何ができるのだろうか。残されたアルバムは全部で4枚。倒れる前の話では新作進行中と語っていたが、けっきょくそれは陽の目を見ることはなかった。
 そしてライブの折ファンが録った何回かの音源と、青森のケーブルテレビの番組内でのレポーター役として登場する映像などだけがいくつか残っている。

 ただ、彼が遺したうたの数々は、今聴いても本当に素晴らしい。彼のようにごく日常の出来事、風景をまさに生活詩人として巧みに切り取り「うた」にして唄った人は他には知らない。
 中川五郎氏他、多くのシンガーに今も歌われている「だびよんの鳥」もだが、そんなよくある歌の現場、その風景をそのまま哀感を込めてうたにした人がいただろうか。まさに天才である。

 つまるところ、できることはまずは五郎氏のように、彼のことをこうして書き記し、フォーク仲間には語り続け、そして機会うたう折あらば、亡き一潮さんの曲です、と彼の「うた」をできるだけ上手にしっかり唄っていくことだけだろう。
 ただ、今も彼の音楽と人柄は多くの音楽仲間、そして新たな遅れてきたファンも含めて愛され支持されている。ならば、何としても来年の命日の頃には、まずそうした仲間たち皆で集まり、一潮をうたうライブを開催したい。そしてその流れができれば、追悼アルバムまで作りたいと願う。様々なアーチストが高坂一潮の残したうたを再録音することで、彼をトリビュートし顕彰する機運も高まるに違いない。

 こうしたことは、生前親しかったミュージシャンたちが率先してやることでもないしライブハウスのマスターがやることでもない。彼らはそれぞれ自らのことで忙しいのだから。ならばやはり残されたファンが中心に彼らに働きかけ、企画立ててもっていくしかない。
 つまるところそれもまたこのオレの役割なのかとも思う。つまり自分がやらないかぎり、はじめない限り実現しないことでもある。我にそんな才も人望もあるのかと自ら訝しく思うところ大だが、今さらだが亡き人のためにできることはそれぐらいではないかと、昨日知り合った、一潮さんが繋いでくれた若き友人と三件ハシゴして語り合った。
 
 何だってできるかできないかではない。やるかやらないかだ。

こんな本が届いた2015年04月07日 23時58分39秒

鈴木翁二装丁 金沢の出版社・亀鳴屋刊「悲しいことなどないけれど さもしいことならどっこいあるさ/安久昭男著
★奇縁ついでにお知らせしておこう。

4月の雪の朝に2015年04月08日 09時24分10秒

★思うところを少し記す                  アクセスランキング: 151位

 あろうことか朝起きたら外は雪で真白である。
 このところ寒気が戻り冬が戻ったような寒い日が続いていたがまさか桜が散る最中に雪が降るとは思ってもいなかった。こんなことは記憶にない。

 明け方一度いつものように起きたが、外はかなり強く雨が降っていて犬たちも散歩に行きたがらないだろうとまた二度寝した。それからつい寝坊して外は静かになったので雨はやんだかと思い階下に下りたら母に、外は雪で前の畑は真っ白だよ、と知らされた。う~むである。これでは作業の予定が立たない。洗濯ものも溜まる一方だ。どうしたものか。

 今は、雪はまた雨に変わり、しとしとぴちょびちょと屋根を打つ音がしている。が、予報ではウチの地方は午後3時まで雪のマークである。怠け者ゆえまだタイヤはスタッドレスのままにしてあったから、幸いである。春が来たから早く交換せねばと気が急いていたが、先のことは全くわからない。今さらまた雪が降るとは誰だって思わない。たぶん山梨に行けば残雪となっているはずだ。

 このところ、このブログに書いたことで問い合わせが相次ぎ、人と会ったりメール返信のやりとりで慌ただしい。それも書いたことでのトラブルではなく良いことで、ある意味求められ役に立つことだから喜んで応じなければならない。※プライベートなことのご相談なので明かすことはできない。実はこのブログ、非公開でのコメントや書き込みが表に出ている分と同じぐらい多い。

 思うに人という動物は、自己承認だけでなく、誰もが他者から認められ評価されたいと望む生き物なのだと改めて気づく。どんな行為、どんな仕事であろうとも否定され無視されるより、何か少しでも肯定され評価されることは嬉しいし励みになる。
 ところが世の中には、自分はそうされたいはずなのに、他者には全否定的態度でのぞむ人や、他者の良い結果に対して嫉妬心からか口を噤んだり無視したりする人も多いと思える。※男性高齢者に多く見られる傾向だが、アイツは、バカだ、ダメだと常に頭から否定して自分だけが賢く正しいと過信盲信して妄言を吐く。元都知事のように。

 確かに誰かが成功するより、他者の不幸は蜜の味と言われるように、ヒトゴトであれば失敗や不幸を喜ぶ無意識の心理が人にはある。
 しかしそれは本当にさもしいというか、愚かな身勝手な心理であって、自分だけが幸せになっても周囲に不幸な人、苦しむ人がいたならその喜びも半減するのが本来の人の在り方であろう。
 つまり人のために役立ってこそ人であり、自分のことだけしか考えないのは動物、畜生なのである。そう、人は人の痛みや哀しみ、苦しみに敏感でなくてはならない。高等な動物、犬や猫、猿やイルカ、象たちも同様の痛みと哀しみを共感する能力がある。人間のように泣いたり騒いだりはしないだけだ。

 ゆえに大変でも他者から求められ少しでも役立つことはとても嬉しい。そしてこんなブログでも書いたことで何らかのお役に立つことがあるのならば本当に書いてきたこと、続けたことが無意味でないわけで良かったなあと思える。
 誉めてもらおうとか認めてもらいたいとは思わない。ただ、書いた記事やここで書いたことが読み手の一人にでも役立ち、何らかの参考になり願わくば知識や力になれば幸甚だ。

 人生は誰にとっても大変だ。しかし助け合い支えあい励ましあえば続けていける。

さこ大介新作ソロアルバム発売!!2015年04月09日 22時56分17秒

★これは歴史的大傑作だっ!!                アクセスランキング: 149位

山梨は今、花盛り2015年04月11日 21時28分35秒

★親たちと一泊してきた報告を               アクセスランキング: 148位

 つくづく有難いことだと思う。実は昨日の昼から出て、一泊でまた山梨へ出かけてきた。
 花冷えという言葉どおり、この数日肌寒い日が続く。東京はももう桜は葉桜の候となってしまったが、向こうは今ちょうど桜も桃も満開の一歩手前、八分咲きといったところで、遅咲きの紅梅も咲き誇り、黄色はレンギョウ、山吹、そして地には水仙や菜の花が咲き誇り、花見を満喫してきた。
 目的は、母を連れてのラジウム泉での癌治療なのだが、今回は認知症の父も連れて行った。父はかなり呆けているので、できればデイサービスに預けた方が息子としては楽なのだが、せっかくのこの季節、たぶん山梨は花盛りだと予想していた通り、花見三昧で大満足していた。まあ親孝行はできたかもしれない。
 もう彼らの世話で疲労困憊、あちこちいろいろ寄ったので一般道で上野原まで走った。長時間の運転で帰りはハンドル握る手も痺れて頭は意識もうろう気味であったが、刺激にはなったかと思う。

 なにはともあれ、老親父母二人を連れて一泊二日、往復で300キロ程度の旅がてきること、しかも温泉にも入ってきたのだから幸福だと思うしかない。
 こんなことを書くと既に親を亡くされた方や、今介護の最中でとても短時間の旅行すら不可能、連れ出すこともできないという方々にとっては自慢話ととられるかもしれない。
 ただここまでだって、並大抵の苦労ではない、まさに山あり谷あり、幾山川越え去りゆかば、という歳月があった。そしてこれからまた最後の艱難辛苦が待ち構えていると覚悟している。

 そして願わくば、向こうにあるウチの古民家や、増冨のそのラジウム泉にも興味や関心ある方はいつでもお連れしたいと考えている。快適さと利便性も含めて、全てのことは、自分だけのもの、自分だけの楽しみとして秘しておくべきものできない。
 ブルジョワジーの密かな楽しみ、という言葉もあったが、ウチはブルジョワどころか低所得層だと自負している。ただ、他の一般人たちがする常識的贅沢を控え、爪に火を灯すようにして、小金を溜めあれこれ工面してあちこち手配し苦労の末、何とか格安の古民家が使えるようになった。
 そしてそんな家で良ければ使ってほしいしいつでも遊びに来てほしい。すべてのことは自分だけのものでも個人的楽しみ、快楽であってはならない。一人は皆のために、皆は一人のために、常に分け合わねばならない。

 山梨県北杜市須玉、江草のその古い家ととりまく環境に身をおくと、いつもリフレッシュして戻ってこれる。今の自分にとってそこ、もう一つの別の場所があって本当に助かっている。
 今のごちゃごちゃした、片付かないモノにあふれた自宅にいると、あれもこれもやることばかりで頭が痛く、息苦しくパニック発作君となる。が、一泊二日程度でも向こうに行くと、気持ちが変わる。救われる。

 どなたでも行きたい方、同行される方は、気軽に連絡頂きたい。

 何はともあれ、人はそれぞれできることをするしかない。無い袖は振れないという言葉通り、それぞれが持っているもので、それを活かしてやていくしかない。金がある人は金を、物がある人は物で、肉体、力ある者は力で、知恵ある者は知恵を出していく。そして愛ある者は愛で示していく。