大変な時代に生きている私たちができること、すべきこと2015年07月17日 08時53分23秒

★国会の「外」の声をさらに拡大拡散させていこう!

 このところ体調が悪いときやあれこれ気が昂ぶり寝つけない夜に、ベッドの中でよく考えることがある。
 何故、自分は今、この時代に生きてここにいるのだろうかと。

 そんなことは全くの偶然だと嗤うかもしれない。しかし、戦後史が変わる時代の転換点というべき今のこの日本、地球規模で眺めても環境破壊と異常気象多発、人口爆発という危機の時代に何故自分は遭遇しているのか。そこに何の意味もないのか。
 人は偶然その時代にたた生まれてくるとしたらまた別な時代であった可能性もあろうが。なぜ今、2015年、戦後70年目の夏に我々は生きているのであろうか。

 では、もし神様が、お前はどんな時代に生きたいのか、かなえてやろうと問われたらいつにするか。
 古代ギリシャは憧れだが、支配層でなく奴隷に生まれたら人権など全くないわけだし、江戸の頃でさえ身分格差ははっきりあった。
 大正のデモクラシーの頃もいいように思うが、その後に来る灰色の時代を思えばまっぴら御免だし、生きていくのに良い、気楽な時代などいつだってないことに気がつく。まだ知らない「未来」など50年先ですら恐ろしくて絶対に嫌だ。その頃は人類は死に絶えているかもしれないではないか。
 
 結局、神様に、戦前や戦中は嫌だから、貧しくても戦後復興の頃に、そして戦争を絶対しないと誓った戦後の、やはり今の時代に生まれさせてくださいと願うだろう。

 そして今、その平和が続いた戦後が終わろうとしている。不戦を誓った憲法はぼろぼろにされ安倍晋三に踏みにじられている。
 大変な時代に我々は生きているとつくづく思う。国家の未来のあり方が、国民にはかられることなく、「景気回復」で信任を与えた自公政権により数の多数で、まさにクーデターとして大きく変えられようとしている。

 そしてその事態を大新聞はともかくもNHKも各種週刊誌もほとんど取り上げない。かろうじて心ある女性誌が数誌記事として扱ったが、あの週刊文春も新潮、週刊現代、ポストら普通なら世相をにぎわした話題に目ざとい、電車内中吊りで知られる有名週刊誌こそ戦争法案とその国会審議を全く扱わない。政府から各マスコミに対してお達しが来ているのであろう。政権に批判的記事を書くメディアは「つぶさなあかん」ぞと。

 明らかに憲法違反の「戦争法案」を大多数の国民の声を無視して何が何でも成立に突き進むのは、先だって訪米の折アメリカ側に約束してきたからで、いったいこの国の首相は誰の手先のなのであろうか。

 こんな男と自公政権に大きすぎる力を与えてしまったことのツケを国民は自らの血で支払うしかないのか。愚かな国民の自業自得だという声も聞かれる。
 しかし、だからこそ、今生きている私たちは、この暴挙を許し受け入れてはならないのだ。ならば、諦めも失望もする必要はない。絶対に従わない、認めないと誓って。

 いつの時代だって楽な時代なんてない。人類の歴史とは、常にそのときどき、民衆が支配者層・官憲の支配や横暴に抗い、自由と平和を求めて闘ってきたことではなかったか。そして様々な闘いのうえに勝ち得た権利がある。
 我々が今生きて、この局面に対峙させられているのは、人としてなすべきことをしろと、その機会を与えられているのである。いわば危機を前にしてどう行動をとるかが問われている。
 黙り込むこと、見て見ぬふり、知らぬ存ぜぬは許されない。まして時節に乗じて波に身を任せては絶対にならない。

 我々は今このとき、この時代に生まれて良かったと思う。まだまだできることはいくらでもあるし、こうして声上げて呼びかけることだって可能だ。
 安倍晋三は臆面なく、この法律で戦争を未然に防げるようになる、と胸張っていたが、火事場に水ならぬ油持ってかけつければどのような事態が起きるか、このバカは思い至らぬらしい。戦争で死ぬのは政治家ではない。自衛隊員のなり手はさらに減れば徴兵制復活となっていく。
 
 戦争という人類最大の犯罪、狂気の時代に再び戻らぬよう、今生きている私たちは堂々とNO!を叫ぶ義務がある。
 まだ事態をよく認識していない人たちに、わかりやすく丁寧に、この法案の危険性を説いていこう。ひとたび戦争が始まれば後戻りできないのだから。