共時性と共感性について考える2016年01月22日 20時54分12秒

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 今週は、母の抗癌剤での入院、それに合わせて九州から我の妹も上京してきて、妹は昨日午後帰ったがそんなこんなで家中が慌ただしくあたふたしていた。退院後のほうが母も我さえも体調がすぐれずしんどかった。
 ようやく今日、金曜になって母の容体も落ち着いてきて、我も合わせてほっと一息ついているという状況だ。
 まあ、天気だけ言えば、かなりの積雪の後だったが、晴れて穏やかな日が続き助かった。また明日からは雪で大荒れとのことだから幸いであった。

 共時性という言葉がある。英語では、シンクロニシティと言い、詳しい説明は省くが、要するにモノゴトは起こるときには偶然その出来事は重なったり多発したりすることが多々あるという時など使う。「類は友を呼ぶ」という諺の如くモノゴトは引き寄せ合うのである。
 例えば、最近では、大型バスの事故などもそうで、一度そうした事故などが起きると誘発されたように同種の、似たような事件が続いて起きたりする。その理由はわからない。
 「自殺」のようなことならば、先人のそれを受けて、知った人が真似たり影響受けて後に続くことがある。それは理解できる。が、事故などはあえてそうならぬよう注意しているはずなのに不思議とまた続いて起こる。
 ひところは航空機の墜落事故もよく続いて起きたし、そうした事故の類は不思議に一度起きると二度三度と続いて間空けずに起きる。その理由については科学では解明されていない。
 共感性という言葉もある。世間では、いわゆる「共感力」を共感性だと捉えていることが多いが、我の考えはそれとは違う。他者に同情したり、相手の気持ちがよくわかる、汲み取れるというのは、共感する能力の問題であろう。それが欠けていれば鈍感な人ということとなる。
 我の言う共感性とは、他者の肉体的な痛みなどをご当人同様?のように感じる件を指す。

 我、マス坊の個人的なことを記せば、世間の人よりもたぶんそのこの二つのことがやたら高いと言うべきか何故か多くて、いつも説明がつかない分だけ不思議でならない。
 先に、我の身辺に同性のほぼ同世代の友人たちの間で、酒に関係して転んだりしての骨折や入院事件がやたら相次いでいることを記した。ヘンなことが続いている、オイラも気をつけなきゃナーと思っていたら、自分もまた7月のはじめに、両国のイベントで酒も入っていて転落事故を起こして以後数か月後遺症に苦しんだ。
 それもシンクロと言えばシンクロであろうし、何より一番のことは、我が事故の数日後に、我が父もまた脳内に血が溜まって異常を来たしすぐさま入院して頭蓋骨に穴を開け溜まった血を抜くという手術をしたことこそ不思議な「一致」であった。
 結果としてわかったことは、父のほうが我よりもっと先に、どこかで転んで頭を打っていて以後じわりじわりと内出血的に脳内に血が溜まっていたわけだが、それがほぼ同時期に頭や脳のことで通院騒動となるとは通常ではありえない。ある意味父が我の身代わりとなって難手術を受けた気さえした。
 また、母が抗癌剤を終えて退院して戻ったら、その当人より先に、息子である我がどっと強い疲労感とめまいや吐き気に襲われてしまいその退院当日は非常に辛く苦しかった。ある意味、母の抗癌剤の副作用的症状を先取りしたというべきか代わって被ったような感じがしている。

 実は、これも体質なのだと思うが、我は親しい人や近しい肉親、あるいはすごく好きな、大事に思う人がいると、その人の体調をすぐに影響受けてしまう。特にその好きな人が不調になれば、そのことを知らされる前からテレパシー的に感じ取るのか、調子が悪くなり、後で向うの状況も同様だったとわかるときが多々あった。

 以前、同性の友人で親しくしていた人がいて、その人は長く精神を病んでいたので、彼が強制的に入れられていた病院に、請われて何度か見舞いに行った。すると彼と会っているときは何も問題ないが、戻るとどっと疲れが出て、ほぼ必ず一週間ほどこちらまで心身を病むというのか調子を崩して戻すのが大変であった。
 それを共感性というのかよくわからない。ただ、あたかも青森のイタコのように、おそらく他者の体調に、それも不調や不具合のときこそ敏感に反応してしまうことは間違いないと思える。

 では、他者の気持ちや思惑に敏感であるかと言えばまったくそんなことはないのだから、思いやりがあるとかの「共感力」「共感性」は決して高くない。また、元気はつらつとした人と会えば鼓舞されることなんて全くない。逆にこちらは憂鬱になることのほうが多い気がする。となると、ただ、他者の不調や不具合においてのみ過敏に反応するのだから何故なのか自ら訝しく首をひねるしかない。

 何でこんなことを書いたか。これは科学的にうまく説明できないことでたぶん誰も理解できないかと思うが、この二つの出来事、性質は、実は根が同じで、たぶん意識のまたうんと底のところから引き起こされるような気がしているからだ。
 C・ユングもこのことについては書いていたと思うが、今手元に調べるに値する本がすぐみつからない。私感だが、人と出来事は良いことや楽しいことでは偶然?結びつくことはあまりなく、事故や事件、病気、不調など、良くないことのほうがモノゴトは誘発され結びつくのではないか。

 ただ、共時性も我が共感性も個人的には決して悪いことだとは思えない。むろん病気の人と会いその体調や苦しさをそのまま感じ被るのは願い下げたい。が、母とのことで思ったが、もしかしたら痛みや苦しみ、そして悩み等の総量総体というものは、どこかにプールされているものであり、その全体量が決まっているぶん、分け合うことで個々の人の抱える分が少しでも減るのだとするならば、分け合うこと、つまり我もまた感じ負うことは良いことなのではないのか。
 そして多くの人がそうして痛みや悩みを分かち合えば、個々の抱える荷は軽くなるのかもしれない。そんなことはバカな愚かな夢想かとも自分でも思う。
 が、たぶんこの世にはこうした共時性や共感性にイタコ的に敏感体質の人は他にももっといると信ずるし、実はその能力は人は誰もが本来持っているはずのものだとも考える。
 ただ今の人は、科学と眼前の現実に目を奪われて、そうした原始的非科学的現象については鈍感になっているだけなのではないだろうか。

 この世には科学的に解明できないとか、目には見えないからそれが「ない」と断言できないものもまた確かに「ある」わけで、迷信とか非科学的だと一笑し即否定してはならないことだけはご理解頂けるかと信ずる。