追放の歌 は、今もずっと心に2016年02月14日 23時59分13秒

★休みの国 はどこにあるのか         アクセスランキング: 109位

 このところ、今月末開催の国立市谷保のかけこみ亭での中川五郎を迎えて「反戦歌コンサート」の準備で、久々にレコードに針を降し、それをCDに焼いたりしている。
 そのレコードは、URCが出した二枚組全三種『関西フォークの歴史』で、ある意味、この合計6枚のLPレコードによって、我は日本のフォークソングというものを体系的に知り、今に至ったとつくづく思う。

 この各二枚組、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲというシリーズのレコードに出会わなければ、たとえフォーク好きだとしても、たくろう、陽水、かぐや姫、泉谷程度のメジャーな人気者程度しか知らず、高石友也や岡林はともかくも、豊田勇造や古川豪、そして中川五郎の凄さ素晴らしさはきっと知らないままであっただろう。もちろん高田渡も。いや、シバや友部たちとは、吉祥寺のぐゎらん堂があったからそこで知ったかもしれないが。

 さておき、フォークソングも下火になった1970年代半ばに、最後の総決算としてよくぞ社長の秦さんはこんな企画ものを出したものだと感心する。そこには当然裏方として古川豪さんの尽力も大きかったと思うし、URCとして夢よもう一度という目論みもあったのかもしれない。が、このアンソロジーがあったからこそ、遅れて来た世代としては、初めて体系的に「関西フォークムーブメント」というものの総体と流れを知ることができた。本当に実に貴重な企画ものだとあらためて思う。
 
 そしてそこから若き日の中川五郎御大の録音を聴き、大阪寝屋川高校の同級生であった彼と西尾志真子さんがらみの音源をまとめてたのだが、音質や録音状態はともかくも実に素晴らしい。うたはまだ拙くともまさに彼は天才だし、その周囲には当初からこうした素晴らしい女性シンガーが常にいたのだから、彼は実に恵まれた幸運な人だと羨ましくも思う。
 いや、彼らだけではなく、まさにあの時代のURC、関西のフォークシーンはまさに今振り返れば夢のようで、よくぞURCと音楽舎、=高石事務所に、圧巻絢爛というしかない超豪華なシンガー、ミュージシャンが勢ぞろいしたものだと今さらながら感嘆してしまう。
 まあ、当時、大手レコード会社擁する歌謡曲というメジャーなシーンとは別に、今でいうインディーズは、まさにアングラ、URCしかなかったから、アマチュアがデビューするにはまずはURCからしかなかったのも理解できるが、それにしてもそうそうたる圧倒されるような人脈が一堂に揃っている。

 細野晴臣、大瀧詠一らのはっぴいえんどとジャックスの名は、おそらくフォークソングに疎い方でも音楽好きならご存知のはずだ。東京勢ながらも彼らもまたURCと深く結び付いて、数々の音源、ワークをそこに残している。特にジャックスの中心人物早川義夫は、中川五郎と共に、当時URC=アート音楽出版が出していた雑誌の編集までやっていた。
 さて、長々と書いてきたが、その早川義夫氏は、我が母校、出た大学の大先輩で、その同期に高橋照幸、カイゾクさんもいた。彼のバンド、いや、正しくは彼ひとりのユニットなのかとも思うが、休みの国といい、そのURCから出したアルバムこそ、名曲追放のうたを含む大傑作であった。
 自らの出身大学を自慢する気持ちも同窓会的繋がりも我は持たないが、やはり早川氏と高橋照幸=休みの国については、思えば内心誇りに、いや、そうした人を先輩に持つことで心の支えにしていたのだと今気づく。そもそも彼らは新設されたその大学の一期生であったから、その大学のユニークさは彼らが築いたのだと畏敬の念は後輩としてずっと持ち続けるのは当然のことであった。伝統も歴史もない新設三流大学では「先輩」しか誇れるものなどない。

 そのカイゾクが死んだとの報は、12日、大学時代の後輩からメールがあった。メジャーシーンで活躍したりヒット曲のある方ではないから詳しいことはよくわからない。調べてもネットではすぐ出てこない。ただ、大学関係ではすぐさまその訃報は駆け回ったようで、正直なところ人脈というものに驚かされた。
 直接の面識はないが、当時その大学では、自主制作で彼と同世代の先輩方が『特攻任侠自衛隊』とかおバカな映画をいくつも作っていて、その音楽担当の関係で休みの国は非常に耳に親しんできた。我も学生の頃、さんざん彼ら先輩たちの薫陶を受けた。よって、高橋氏のことは大学を通して身内だったのだと今つくづく思う。

 直の知人ではないから哀しみなどはわかない。が、中川五郎氏が高校時代からの音楽活動歴が今年で半世紀、50年となるのを思うとき、我もまた約40年も前のことを今思い出す。
 その頃、僕は当時好きだった後輩の女の子と二人で、毎晩夜遅くまで大学の芸術棟のアトリエで、石膏デッサンや油絵を描いていた。お腹がすくと二人で大学内の自動販売機で、いつもカップスターラーメンのカレーを食べたことを思い出す。それまでカレー味のカップ麺なんて食べたことがなかった。もしそれが青春だと呼べるのならきっとそれが我が青春だったんだと今思う。

 その女の子はもうこの世にいない。10年以上も前に癌であっけなく死んでしまった。今でもカレー味のカップ麺を食べるたび、その子のことを思い出す。そしてきっとその頃は休みの国の「追放のうた」がいつもずっと頭の中を流れていたような気がする。
 そう、もう大昔の話だ。人は必ず死ぬ。だが、うたは残る。では、俺は何で涙を流している? 清志郎が死に、カイゾクも死んだ。彼らをいち早く高く評価したTBSラジオ深夜放送の林美雄もとっくに先に。そう、だが、休みの国はまだ遠い。まだ来ない。