当たり前のことが当たり前でなく、当たり前にできなくなったときに ― 2016年04月04日 11時34分11秒
★当たり前のことができなくなれば人も国家も死んでいく
我も含めて、いちおう健康な人は、口から物を食べて、それを便や尿として出している。それは意識せずとも普通は自然に誰でもができることだ。
しかし老いてくると、あるいは病む者は、そんな当たり前のことができなくなってくる。
まず歩くこと、近所に買い物や散歩に行くこと、夜は自然に眠くなって朝までぐっすり眠ること、暑い時に自然に汗をかき、寒い時は寒いと当たり前に感じることだって同じだ。それができなくなってきて、先ほどの食事で何を食べたかすら思い出せなくなったりと、誰もが苦もなくできている当たり前のことが、当たり前でなくなってきてしだいにできなくなってしまう。
そしてそれが極まると人は死ぬのである。死ぬということは、つまるところは息をすること、心臓は働き続けているという、当たり前のことができなくったとき結果として死ぬのだとわかる。
今、老いた者、そして老いて病む者と暮らしていてつくづくそのことを深く理解する。
食べること、そして食べさせることも含めて、そして次いでそれをうまく適切に出すことまでも実に大変なのである。むろん彼らは若い時はごく自然に、当たり前のこととしてできていた。
食事時には自然に腹が空いただろうし、便意も薬などに頼らずとも自然に起きてまず滞りなく排泄できていただろう。夜だって眠るのに苦労することなんかなかったはずだ。
が、老人はおそらく大部分が、そんな当たり前のことができなくなっていて、歩くのだって自力では難しい人もかなりいる。
そして「老人」という特殊な人種がいるのではなく、それは人として生きた「結果」、「末期」の状態なのだから、この我もまた同様な状態になることも間違いない。じっさい今は、恥ずかしい話、頻尿や不眠気味になり始めている。それは改善されることはないだろうから、やがては親たちと同じく、膨大な量の様々な薬に頼ることになるのであろう。
悲しくもないし絶望もしないが、憂鬱である。亡き友の口癖だった「暗澹たる気持ち」というのは、こんな感じかと思う。
だが、嘆き悲しんだり怒り苛立っていても仕方ない。肯定はできないが、人の死に行く道、いや、これからも死ぬまで生きていく道筋だと認識して、そうした「当たり前でないこと」をそれも老人にとっては「当たり前のこと」なんだと受け入れていくしかない。
病んだ老人にとっては、少しでも口から食べられるように、食べやすいよう料理を工夫しないとならないし、排泄に関しても当人任せにせず、介護側が常に細かく面倒見ないとならない。
また、眠れないと騒ぐからと迂闊に睡眠導入剤を呑ませてしまうと、結果として意識朦朧となって失禁など増えるからまた要注意である。
こうした先人たちの人生の末期に立ち会えることは、「我がこと」の行く末としても決して悪くはない。受験生の子を持てば嫌でも受験制度に詳しくなりあれこれ考えるようになるように、今後の我が人生の想定問題集なのでもある。
翻ってこう思う。人の場合は、当たり前のことが当たり前でなくなって、当たり前にできなくなって死んでいくのだとすれば、それは仕方ないと許容できる。肯定は出来なくとも。
が、国家はどうであろうか。議会制民主主義、憲法を守る立憲主義、そうした歴代の自民党政権ですら当たり前のこととして遵守し擁護してきた「当たり前のこと」を前面否定して、数の力に驕り、議会の中の少数意見には一切耳を貸さず、議会の外=国民の大多数が異論を唱えようとも無視し続ける傲慢さはもはや異常の極みだと言うしかない。
そしてそうした政治にとってこれまで当たり前のことが当たり前でなくなったときに、国家もまた死ぬのだと断ずる。
むろん、彼らの取り巻き、大富豪や大企業たちは我が世の春を謳歌しているのであろう。が、戦争法を強行し、世界のどこでも紛争には軍事力で臨む国策は、かつてのナチスドイツや大日本帝国と同じく国内には強権であろうとも国家としては破滅、滅亡へと向かっていく。それは過去の歴史がはっきり示している。
力と力のぶつかり合いの先には、死と破壊しかありえない。ならば「当たり前のこと」に戻り、「当たり前のこと」を取り戻していくしかない。
人は死ぬのは当たり前だが、国家は当たり前でないことを容認して行けば、国家もまた死ぬ、=破滅していくのだと断言する。
我も含めて、いちおう健康な人は、口から物を食べて、それを便や尿として出している。それは意識せずとも普通は自然に誰でもができることだ。
しかし老いてくると、あるいは病む者は、そんな当たり前のことができなくなってくる。
まず歩くこと、近所に買い物や散歩に行くこと、夜は自然に眠くなって朝までぐっすり眠ること、暑い時に自然に汗をかき、寒い時は寒いと当たり前に感じることだって同じだ。それができなくなってきて、先ほどの食事で何を食べたかすら思い出せなくなったりと、誰もが苦もなくできている当たり前のことが、当たり前でなくなってきてしだいにできなくなってしまう。
そしてそれが極まると人は死ぬのである。死ぬということは、つまるところは息をすること、心臓は働き続けているという、当たり前のことができなくったとき結果として死ぬのだとわかる。
今、老いた者、そして老いて病む者と暮らしていてつくづくそのことを深く理解する。
食べること、そして食べさせることも含めて、そして次いでそれをうまく適切に出すことまでも実に大変なのである。むろん彼らは若い時はごく自然に、当たり前のこととしてできていた。
食事時には自然に腹が空いただろうし、便意も薬などに頼らずとも自然に起きてまず滞りなく排泄できていただろう。夜だって眠るのに苦労することなんかなかったはずだ。
が、老人はおそらく大部分が、そんな当たり前のことができなくなっていて、歩くのだって自力では難しい人もかなりいる。
そして「老人」という特殊な人種がいるのではなく、それは人として生きた「結果」、「末期」の状態なのだから、この我もまた同様な状態になることも間違いない。じっさい今は、恥ずかしい話、頻尿や不眠気味になり始めている。それは改善されることはないだろうから、やがては親たちと同じく、膨大な量の様々な薬に頼ることになるのであろう。
悲しくもないし絶望もしないが、憂鬱である。亡き友の口癖だった「暗澹たる気持ち」というのは、こんな感じかと思う。
だが、嘆き悲しんだり怒り苛立っていても仕方ない。肯定はできないが、人の死に行く道、いや、これからも死ぬまで生きていく道筋だと認識して、そうした「当たり前でないこと」をそれも老人にとっては「当たり前のこと」なんだと受け入れていくしかない。
病んだ老人にとっては、少しでも口から食べられるように、食べやすいよう料理を工夫しないとならないし、排泄に関しても当人任せにせず、介護側が常に細かく面倒見ないとならない。
また、眠れないと騒ぐからと迂闊に睡眠導入剤を呑ませてしまうと、結果として意識朦朧となって失禁など増えるからまた要注意である。
こうした先人たちの人生の末期に立ち会えることは、「我がこと」の行く末としても決して悪くはない。受験生の子を持てば嫌でも受験制度に詳しくなりあれこれ考えるようになるように、今後の我が人生の想定問題集なのでもある。
翻ってこう思う。人の場合は、当たり前のことが当たり前でなくなって、当たり前にできなくなって死んでいくのだとすれば、それは仕方ないと許容できる。肯定は出来なくとも。
が、国家はどうであろうか。議会制民主主義、憲法を守る立憲主義、そうした歴代の自民党政権ですら当たり前のこととして遵守し擁護してきた「当たり前のこと」を前面否定して、数の力に驕り、議会の中の少数意見には一切耳を貸さず、議会の外=国民の大多数が異論を唱えようとも無視し続ける傲慢さはもはや異常の極みだと言うしかない。
そしてそうした政治にとってこれまで当たり前のことが当たり前でなくなったときに、国家もまた死ぬのだと断ずる。
むろん、彼らの取り巻き、大富豪や大企業たちは我が世の春を謳歌しているのであろう。が、戦争法を強行し、世界のどこでも紛争には軍事力で臨む国策は、かつてのナチスドイツや大日本帝国と同じく国内には強権であろうとも国家としては破滅、滅亡へと向かっていく。それは過去の歴史がはっきり示している。
力と力のぶつかり合いの先には、死と破壊しかありえない。ならば「当たり前のこと」に戻り、「当たり前のこと」を取り戻していくしかない。
人は死ぬのは当たり前だが、国家は当たり前でないことを容認して行けば、国家もまた死ぬ、=破滅していくのだと断言する。
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