現況とこれからのこと2016年04月22日 20時14分20秒

★今できることとすべきこと、そして子としてのつとめ。

 母が帰って来てようやく我が家はまた動き出した。
 誰もいない家に戻り、腹すかしたと鳴いたり吠えたりしている犬猫たちに餌作って、自分もスーパーの弁当やカップ麺を缶ビールで流し込むだけの味気ない生活からやっと抜け出せた。ともかくほっとしている。

 じっさいのところ、父が入院してから初めて久しぶりに飯を炊いた。10日ぶりだろうか。
 マス坊は、料理好きだから一人でもマメに飯炊いておかず作って食べていると思われるかもしれない。が、告白すると、料理を作るのは人が来たり親たち食べてくれる人がいてのことであって、自分一人だけなら我はまったく料理など作らないし作りたくもない。一回飯炊けば数日残ってしまうからたぶん一人暮らしとなればもう炊飯器は不要となる。第一汚れた皿を洗うのだって面倒くさい。

 昼も夕方も病院通いに時間とられたこともあるが、そうでないとしても他に誰かがいないならば基本的に料理などしない。ホカ弁を買って来るか、麺類茹でたりインスタントラーメン類だけで一人なら事足りる。自分だけのためなら全く料理などしないしそんなことに時間も手間もかけたくない。
 となると、親たちが他界すれば、もう一切家では調理はしないしまず一人では外食すらしないから、おそらく数年のうちに体壊して死ぬかと思う。それはそれで仕方ないし、今回の件で気が付いたのは、「食事」さえも我にとっては他者あってのものであったということだ。少なくても料理は個人的楽しみではないと知った。
 ただ、「今後」については今回の一件で全て再考を促された。いまさらだが、親たちが亡きあとの一人で生きていく人生についてきちんと基本計画を立てねばならないと気づかされた。そう、今はまだ一人では我は生きていけない。恥ずかしいが親たちあっての自分だったと嫌でも気づかされた。
 彼らがいなくなった後の我と我家のビジョンを、彼らが生きて、いる間に構築しないとならない。

 さて、現況報告から。母は入院生活が長かったこともあって、今はまだ歩くのもやっという感じで、軽く食べては横になるだけの半病人の生活だ。ただ、それでも家にいてくれて世間話でもあれこれ話すことができることは本当に嬉しい。犬猫たちとでは会話もないから家は静まりかえり森閑としていた。我は一人ではテレビも付けず音楽も流さないから聞こえるのは猫の鳴き声と外で吠える犬の声だけである。くだらないテレビでも母がつけて見ていると家には人の気、活気が戻ったことをひしひしと感じている。そうしたものが人の生活なのだ。

 さて、股関節部骨折でまだ入院中の父のほうである。父は、先にお知らせしたが、誤嚥からの肺炎で入院中に、深夜にベッドから落ちて、右の大腿骨の付け根、股関節部を粉砕骨折し、骨の中にチタンのボルトを通す手術を終えた。元通りに歩くことは年齢もあって難しいと言われているし、退院まで早くて二か月から三か月はかかると宣告されてしまった。
 そしてそこに要介護2レベルの認知症もあり、今はまだまた誤嚥するかもしれないので、自ら一人では食事もさせられない。一般食以前に、細かく刻んだりとろみのついた半ば流動食が出され、まだ点滴は入れられている。いわば、呆けと嚥下とそれに骨折という三重苦の状態なのである。が、鼻からの酸素はようやく外された。が、今も尿道には管を入れられている。

 このところ連日、昼に、夜にと立川の病院に通って食事の介助をしてきたが、今日は昼だけ行って夜は行かなかった。病院から戻っての昼食後、今日は本の発送もなかったので、午後6時頃まで泥のように深く眠ってしまった。
 というのは、父は手術後すぐにリハビリも始まり、一時期のようなベッドにひたすら縛り付けられた段階から脱して、同病院に入っていた妻や訪れる息子以外の刺激も受けるようになってきたせいか、多少は反応が戻り、最悪の「ここはどこ、ワシは何故ここにいるのか!?」状態は抜け出てきたからだ。
 食事も一人でも自ら食べることがリハビリにもなると看護師に言われてしまった。

 今の病院のすごいのは、ベッドに寝かせきりにしておくと、手術した足はともかく、エコノミークラス症候群のみならず全身が萎え衰えてしまうから、早速手術の翌日から車椅子に乗せて、もう1本の脚を動かしたりの機能訓練が始まったのだ。
 そうすれば嫌でも起こされて介護療養士に声かけられ刺激を受ける。だからだいぶ人間性も回復して反応も返りマシになってきたのでほっとした。それまでは薬のせいもあってひたすら眠り続けて、目覚めても呂律も回らずトンチンカンなわけのわからないことを繰り返したり、拘束されると嫌がって叫んだりと行くたびに胸痛めることばかりであった。
 このままボケがこれ以上進まなければ、嚥下障害からの誤嚥性肺炎さえ収まれば、存外早く一度は帰宅もできるかもしれないと希望が見えて来た。そう、リハビリだけならば、この病院でなくても近くに通いでリハビリを受けさせることもできる別医院がある。

 車椅子の状態で、ウチに連れてくるのはまた介助に一苦労するのは当然だが、幸い我は家にいる仕事だから、さすればまた親子三人での生活に戻れる。
 そのためにも電動式ベッドや車椅子が室内でも通れる、置けるように家を根本的に片づけたり、改造しないとならない。そしてそこに母の癌もある。今後の「治療」についても何がまだできるか再考しないとならない。

 しかし、まだ「できること」があって、そこから「すべきこと」が見えてくるのは良いことだし有難いことではないか。そしてそのことこそが家族として、つまり「子」としての努めであり、そこに我の役割があるのである。
 むろんこの病む老親の世話だけに、子=我が人生はすべて費やしてはならないとも思う。今はまだ仕方ないが、もう少し先が見えてきて、父のほうも回復の兆しがはっきりしてくれば、また少しづつ「我がこと」にもとりかかれよう。

 じっさい、父の手術が終わり、母も退院してきて、老親W入院という最悪の状態を抜け出し、ずいぶん気持ちも明るくなってきた。しかし、まだこの先はどうなるか予断も油断もできやしない。
 今日昼に行ったらば、父のベッドの上の棚に張り紙があり、父の手の届く範囲には、水や軟膏類、薬など一切置かないように、と注意するよう書いてあった。あろうことか、父は昨晩?喉が渇いたらしく、ベッド脇の机に置いてあった手洗いのポンプ式泡フォームを呑んだらしいのである。
 これから回復して元気になればまた勝手に深夜に目覚めて看護師たちの目の届かないときに動き回ってまたも転んだりと何するかまったくわかりはしない。当人も無意識的に寝ぼけて?またベッドから落ちることもあり得る。それは叱ったって、言い聞かせたってダメだ。それがボケ、認知症なのである。
 またいつ病院から緊急の電話がかかってくるかもしれない。それもあってもう家では音楽はかけられないし落ち着いてテレビも映画も見れやしない。

 しかし、一時期の悪い状況からは今は脱した気がしている。先のことは考えないし不安にあれこれ考えたって仕方ない。これからも最低一日に一回は父の様子を見に行く。

 母曰く、20日間入院している間に、季節は桜が咲いていた早春から一気に新緑が濃い初夏へと移ってしまったと。そして母が不在でも庭の花々は、主なくてもしっかり咲いていたと、感慨深げであった。
 ならばこれからも季節は進み、父もきっと再び家にも戻れることであろう。そう信じて日々祈って一日一日を生きていこう。

 我が望みは、まずこのブログに親たちのことを書かないで済むようになることだ。次のコンサートのこともある。その宣伝や準備にも取り掛からねばならない。