先の見えない辛さに思う2016年04月27日 21時52分15秒

★4月も終わりに近づいて

 熊本の被災地の方々の苦難を思う。大きな災害に遭い生き永らえたことは僥倖だとしても、これからのこと、「その先」のことを思うと思い悩み暗澹たる気持ちでおられる方も多いかと思う。
 その人たちと比べて我が抱える状況は極めて軽く比べものにもならない程度であるかと思うが、今思うこと、正直なところを書かせて頂きたい。

 人間にとって、生きている限り様々な困難や試練のような事態は必ず起こるはずだ。おそらく何の苦労も悩みもせずに一生を終える人は皆無だと思える。艱難辛苦というほどでなくとも人それぞれ様々な辛い目に遭うもののはずである。
 我もまた、のほほんと好き勝手にこの歳まで出来るだけ辛いことはしないよう逃げ回る様にして、楽な方へ楽な方へと緩く甘く生きてきたが、ようやく最近になって、人生とはやはりそんな甘いものではない、いつかそのツケを支払うときが誰にでも来るのだと思い知った。

 だから、今の状況も当然のこととして、受け入れるしかないとカンネンしたから、疲労感はもうマキシマムに達してきているが、精神的には何も思わないし誰も恨むような気持ちにはなっていない。
 が、正直なところを書けば、苦境にあるときに人が辛いのは、その現状、「今」が辛いのではなく、これから、つまり「その先」のことが見えないことこそが辛いのだとわかってきた。
 今、4月も終わりが近づき、さすがに今後のことについてどうしたものか焦ってきている。そう、先が見えない、予定が立たない、よって何も決まらずそのことがツライ。

 例えばの話、刑務所に服役している人にとっては、刑務所の中の暮らしは辛いことは辛いはずだが、規則正しく意外にも快適だと、体験者の多くは記している。何故なら、死刑囚はともかくも、あと何年先と出られる、決まっている「目標」があるからで、ある意味、日々時が過ぎていくのをただ待つだけだから存外気分的には楽なのだそうだ。
 つまり「先」のことがはっきりしていれば、かなり辛い現実でも人は我慢もできるし、その先に希望を見据えて何とかがんばれるものなのだ。

 逆に、その「先」のことが見えずに、何の展望も立てられず、見通しが立たないと人は精神的にまいってくる。今の被災地の仮設の避難所や車の中で寝泊まりしている方々は、いつまでもおさまらない余震も不安だろうが、いったいこの先どうしたら良いのか、どうなるのか予定も立たずまずそのことこそが辛く苦しく心痛心労の種であろう。
 まして家が倒壊してしまい生活再建のメドが立たない人たちは、いったいこれから、この先どこでどうやって生きて行けば良いのか、そのことを考えるとまさに辛くて精神的に参ってしまうであろう。

 先のことはできるだけ考えないようにしている我も、退院してきたものの未だ体の不調を訴え続けている母を見ていると、いったいこれからどうなるのか、癌はどうなるか、骨折して退院のメドもまったく立たない父のこともあり、精神的にやはり落ち込んでくる。

 このブログもどう書くべきか今迷っている。報告しようにも書くべきことはつい愚痴や不安に思い悩むようなことなら書くべきではないはずだ。「先のこと」、良くも悪くも今後の予定が出ていれば、それに合わせて生活計画も立てられる。辛いのはこれからこの先、どうなるのか全く見えないと、何の予定も計画も立たない。
 日々は過ぎていく。一日一日はまた来る。しかし、人を動かし、生きていく動機付け、つまりモチベーションと成りえるのは、「これから」のこと、「先のこと」が見えてこそなのである。
 被災地の方々を苦しめているのは避難所の生活もだが、いったいいつまでこれが続くのか、果たしてこれからどうなるのか、これからのこと、「その先」が見えないからだ。
 地震はやがて終まるであろう。しかし、果たして自宅にまた戻れるのか。家が倒壊してしまった人たちにとっては、今後の生活のことがいちばんの悩みの種だろう。大災害に遭い生き永らえて無事を喜び合ったのも束の間、次いで彼らを苦しませるのは「この先」のことである。
 行政、つまり政治は、そうした人たちに対して、とりあえずでも「その先」について、何らかの安心となるような「予定」と成りえる指針を示さねばならない。それこそが真の被災者支援であり、国民の命を守ることとなろう。

 刑務所の中の人たちも、出獄の日、つまり刑期を終えてそこから出られる日が近づいてくると、皆同様に不安に怯えて嬉しいよりも精神的に辛い日々を送ることもあるときく。何故なら、シャバに出ても犯罪者にはなかなか「その先」の予定は見えないし立っていないからだ。だから中にはまたすぐに事件を起こして刑務所に舞い戻る受刑者もいる。

 人はどれほど辛い現実でも先のことが見えていれば、そこを見据えて我慢もできるし希望も持てる。人を生かすも殺すも「その先」という希望が見えるかどうかなのだ。「先のこと」という、予定となる希望がなければ絶望という不治の病に身も心も苛まれていく。

 先のことは誰もわからない。だからこそ人は先の予定を立てて、そこに「希望」を託していく。政治とはそうした民に希望を持たせられるかなのだ。安倍晋三にはこの国の未来を託す希望が示せるか。