辛酸佳境に入った、か2016年04月15日 07時01分18秒

★父、大腿骨骨折す。

 先に、共に入院中の老親共に容体は安定してきて、経過良好なのでおそらくこのまま近く退院できるのでは、と記した。
 が、ところがどっこい、そう簡単に、我をとりまくストーリーは簡単には終わらなかった。誤嚥性肺炎のほうは、ほぼ治って来て、おそらく今週末には退院もできるとかもと考えていた父が、昨日未明に、ベッドから落ちた?とのことで、右の足を折ってしまい今はまだ今後のことは何一つ見えない「ふりだし」に戻ってしまった。

 このところ、毎朝早暁の頃、二階の広間に上げて寝かせている老犬ブラ彦の散歩に一度起きる。小便がしたくて、犬が騒ぐので嫌でも起こされる。
 それを済ませて犬は外の小屋に繋いでから睡眠不足を補うためにももう一度短時間寝直すことが多い。眠れなくてもベッドの中に入る。

 昨日の朝は、8時に、まず宅電に電話がかかってきてそれで起こされた。が、受話器をとったら切れてしまい、少ししたら携帯に電話がかかってきた。朝からやや不安な気持ちでその番号を確認した。
 それは立川の親たちが入っている総合病院の看護師からで、息子さんですよね、こちらに入院しているお父様が本日未明に・・・と切り出され、まさかの突然、父の身に何か起こったことを知らされた。心臓が高鳴った。

 看護師曰く、父はベッドから落ちたらしく、当人は何が起きたか記憶にないとのことだが、痛い痛いと騒いでいると言う。意識はあるので頭を打ったのではないことだけ確認したのでほっとしたが、ともかくこれからそちらに行くことだけ伝えた。
 急な発送の用事だけ慌てて終えてから、10時前には立川へ着いた。

 父はレントゲン撮りに地下の階に行ってベッドごと空だった。母の病室に行き、状況を説明してしばらく父が戻るのを待っていた。
 30分ぐらいして戻った父はベッドに寝かされて意識はあったがやや朦朧として、痛い痛いと騒ぐが反応ももどかしく、話しかけても何とも心許ない。何か鎮痛剤でぼうっとしているなら仕方ないが、今はまだ痛みで体を起こすこともできなく、もしこのままならば数日で認知症は一気に進むかと案じられた。
 父が戻って来たので、母連れてもう一度父と対面させたが、母に、じっとして行きゃダメと厳しく戒められても、体はもぞもぞ動かしはするもが、目も薄目の状態で、頭は朦朧としているようであった。
 担当の女医と話した限りでは、このままだとヘンな形で足がくっついてしまうからできるだけ早く手術すると告げられた。階も整形のある4階に移されると言う。
 結局、今日15日の11時頃に、その整形の医師から詳しい説明を受けることになり、いったん家に戻った。

 父は意識も半ば朦朧のまま痛い痛いと言いながら、おしっこがしたいと勝手にオムツを自ら下げて尿瓶を探したりと何でも自分でやろうとしてしまう。帰り道運転しながら考えた。ああいう性格だから父はどうにも手がかかるし病院内とはいえ看護師任せにはできないと思った。
 朝方も何が起きたかわからないが、勝手にベッドから降りようとしてどしんと落ちたのではないのか。看護師たちの管理を責めても仕方あるまい。24時間モニターで監視するわけにもいかないのだから。
 そしてこのまま寝たきりとなって、認知症はさらに悪化することだけがともかく案じられた。そうならないためにも時間の許す限り、父の病室に出向き、話しかけて刺激を与えて、ボケの進行を食い止めないとならない。
 
 母のことも心配だが、まずは母を退院させることだ。父のことは気に病むなとは伝えた。父が骨折する日のまえの晩は、母も体調すぐれず父のところに伺えなかったと言う。それで父は勝手に母のところに行こうとして騒動を起こしたのかもしれないと母は悔いていた。同じ病院にいるからと言って、母に父のことは任せられない。

 「辛酸佳境に入る」とは、その母の母、旧谷中村出身の祖母が、幼少の頃に、田中のおじやんと慣れ親しんだ義人田中正造の残した言葉だ。彼とその谷中村の農民たち、――それは我の祖先なのである――の苦難を思えば、我家の状況はまたさらに悪化したわけだが、こんなの辛酸でも苦労でも何でも何でもない。誰にでも起こるありふれた話であろう。

 ただ、こうした私的な出来事をブログで逐一細かく書いていくことは何とも申し訳なく苦慮している。我は書くことで救われる、助けになることもあるが、読み手の皆さんには不要なご心配をおかけしてしまう。そのことが本当に申し訳ない。
 親たちのことももうこのまま無事退院ということで今回の顛末は終わりにしたかった。皆さんもそれを期待し望まれていたであろう。なのにまたこんな情けない事態を新たに記さねばならないことがともかく辛い。申し訳なく思う。
 どうか、ヒトゴトとして、他人の出来事として、お気軽に、とは言えないが、あくまでも無責任に真剣でなくお読みください。お付き合いください。ごくたまにお読み頂ければ幸いです。

ともかくまず今日を、「今」を生きる2016年04月16日 06時26分56秒

★過ぎたことや、これからのことは考えない

 九州熊本では大変なことになっている。また新たに今日未明にもさらに大きい地震が起きたらしい。14日夜のは前兆にすぎなかったというのには驚かされる。今テレビをつけて映し出された映像に息を呑んだ。
 地震列島日本。あらためていつどこでもこの規模の巨大地震が全国どこにでも起きるのだと痛感する。
 とにもかくにも一日も早い終息と、人命救助最優先と被害が少ないよう祈るだけだ。この事態を受けていったいこの国はどこに向かっていくのだろうか。不安な昂ぶる気持ちで迎えた週末の朝だ。

 そんな大変な時に、私ごとなど書いて申し訳なく思うが、毎回何人かの人たちは、我と我が家族の「その後」について関心持たれ、もしくはご心配されているかと思う。
 このまま何も更新ないまま空けてしまうと、またそれもご迷惑と心配おかけしてしまう。手短かに記したい。

 昨日午前に、整形の担当医師から説明受けた。母も同席した。
 やはり父のケガは、骨折で、来週の火曜19日に手術をすることになった。右足の付け根、大腿骨がすぱっと折れていくつか細かくも割れているとレントゲン見せられた。そして手術の説明と事前にいろいろ「今後」についてあれこれ詳しくお話しされた。
 手術が終わり、リハビリに移ったとしても高齢であり、まず元のようには戻らないこと。また、このまま認知症も進み、車イスの生活、もしくは寝たきりになる可能性も高いこと。
 回復したとしても現段階より一ランクは間違いなく全ての機能は落ちるであろうとのことであった。そしていくつも書類に同意のサインをいつものように書かされた。
 だが、そんな先のことよりも目下のことで我は頭がいっぱいだ。果たして手術までも無事に迎えられるのか、今の父の状態を見てともかく心痛めている。

 今回のような骨折という事態を迎える前は、誤嚥性肺炎もほぼ回復してきたとのことで、一昨日などは、ベッドで、こちらが心配するほど自ら精力的にパクパク食事をほとんど残さず食べていた。
 そしてあろうことか、看護師に断りもなく、一人で点滴を下げて下の階の母の病室までひょっこり顔出したりもしたという。
 だからこんな事態が起きなければ、おそらく今日、この土日には退院させられていたのではなかったかと思う。
 しかし、そうした徘徊系の認知症であったから、14日の明け方に、ベッドから落ちて腰を強く打つような事件を起こしたのだ。誰も見ていないし、看護師たちは父が落ちてから慌てて駆けつけたわけで状況は不明だ。おそらく、寝ぼけて、家と同じく尿瓶を探して身を起こしてバランスを崩して転落したのではないだろうか。
 ベッドに縛り付けておくわけにもいかず、一応、父のベッドの横には、勝手に降りて歩き出せば感知してブザーがナースセンターに繋がるマットも敷いてあったのだ。ただ転落は予想外で、もう起きてしまったことだから悔いても仕方ない。

 父は、5階から4階へと病室も整形の階に移された。
 そうした人が骨折後は、痛みだけは訴えるものの、ほとんどこちらの呼びかけにも答えず反応が鈍い、意識朦朧の状態となってしまった。目も細くしか開かないし、耳元で声かけてもロレツの回らない不明瞭な言葉しか返らない。
 一気に認知症が進んだかと案じたが、担当医の話だと、痛み止めの薬に、意識を鈍くさせ行動を抑制する成分が入っているので認知症が進んだこともあるが・・・と説明を受けて少し安堵した。
 しかし、問題は、そういう状態でも、食事を摂らせないとならないことで、彼自らだとスプーンも口にうまく運べないほどなのである。手もぶるぶる震えて、しかも吸い飲みで水を飲むとまた激しくむせてしまうので、誤嚥する可能性が高い。
 当人は食べたくない、とほとんど残してしまう。医師からはもう少し体力つけないと、輸血しないと危なくなると言われて、その同意も求められた。そのときはそのときだが、このまま食べないことと、食べてもまた誤嚥から肺炎になってしまうのでは、事態はさらに悪化していく。

 昨日は昼食時に立ち会い、父の食べるのを見ていたら、これではどうしようもないと思い、スプーンで口に運んで何とか半分程度、細かく刻んでとろみの付いたオカズだけは食べさせた。
 そして母と少し話して、午後家に戻り、犬たちに遅い食事を作って与えたり、洗濯物を干したりして夕方までベッドに短時間横になった。
 少しでも仮眠をと思ったが、あれこれ考えてしまい眠れず、本の発送もあったので、夕刻5時半頃、犬たちと郵便局まで行った。

 母からは、あんたも大変だから明日また来ればいいよと言われていたが、父の状態がずっと頭から離れなかった。で、家に戻ってから犬たちも車に乗せて、また立川の病院に、夕食の時間に間に合うよう車を走らせた。
 犬たちは車の中に待たせて、父の病室に行ったら、ちょうど食事は届いたところで、父は半身を電動ベッドで起こされていたが、相変わらず意識朦朧状態である。
 また来たよ、と声かけてもあまりはっきりした反応はなかっったが、食べたくないと言うのをなだめ励まして、スプーンで口へと運び、少しは食べさせた。

 看護師は食事の介助もしてくれるのであろうが、父一人だけにずっと付きっきりで立ち会ってくれるわけではない。いきおい、父一人に任してしまうのであろう。となると食べたとしても誤嚥する可能性が高いし、自らはそんなぼうっとした朦朧とした状態では食べる意欲もないであろう。
 母も同じ病院に入っていて、病室に来ることも可能だが、同時刻に彼女自身も食事を苦労して摂るのだから父の介助は任せられない。
 ならば大変でも朝はともかく、昼と夕食だけは我が来て、父に声かけて少しは意識を保たせながら食事介助せねばならないと決心した。

 ウチからは、その病院までは車で片道8キロ、時間にして30分はかからない。それでも母の病室にも顔出したりすると、向うに一時間いたとしても毎食ごとに、2時間は要する。となると午後はじっさいのところ3時間程度しか家にいられない。
 しかし、それでもまずは、父の手術の日までは、ともかく食事時には出向いて少しでもむせることのないよう、慎重に励ましながら食べさせていくつもりだ。

 正直大変である。しかし、まずは今日から三日間、火曜日までできる限りやってみる。もう今は家の方はしっちゃかめっちゃかで、洗いものも溜まり足の踏み場もない状態だし、病院通いの他は注文本の発送以外は何一つできないけれども、ともかくまずは親たちのことだと覚悟している。
 今やらないでいつやるの? 今でしょ!と某予備校の先生の掛け声を自らに問いかけている。

 過去を振り返れば、その父に対して我がしてきたことなど悔やむことばかり思い出す。そして先のことを考えれば不安が高まり、心臓もドキドキして夜も眠れなくなる。そしてつくづく思う。貧しいけれど、親子三人でこの歳までともかく無事で共に暮らせていたこと自体が奇跡のようなことだった、有難いことだったのだと。そのときは再び戻るのか・・・
 が、まだ、今なら彼らは健在で、まだ我にもできることはある。ならば、今日、今、そのできることを一つ一つやっていくだけだ。
 
 すべては神の計らい。神の愛の表れ。そして御心のなせる業ならば何を怖れる必要があろう?
 我のことよりもまず、熊本の被災された人々に神のご加護がありますように! 大地が早く鎮まるように。皆さんと共に祈るだけだ。

「ヒトゴト」と我が事と・前2016年04月17日 21時37分39秒

★まず現況から、少し

 いろいろご心配おかけして申し訳ない。我の体はまだ何とか大丈夫だと思える。ただ、夜になると疲れで頭がぼーとしてズキズキ痛くなり、起きていられない。今はともかく少しでも長く深く眠りたい。

 この数日来、立川の病院に昼に夜に出向いては、まず母を見舞い、次いで父に食事を摂らせる介助をしている。
 一日に二回、隣町まで近場とはいえ車を走らせ病院に通うのはさすがに疲れてきている。行くのはちっとも嫌ではないが、車を走らせるのに飽きてきて、できるだけ違うルートを、かつ早く着けるコースをあれこれ毎回考えながらハンドルを握っている。
 倦み疲れるという言葉はこんな気持ちかと思う。

 親たちのことだが、一喜一憂しないし逐一あったことを記してそうした思いを読み手にまでさせてしまうのは本意ではない。なので、詳しくは遂次書かないが、今日までのところ、父も母も現状には大きな変化はない。ならばまずは「経過良好」だとお考えください。

 母のほうは手術後、だいぶ回復もしてきたので、おそらく来週中には退院できるかとも思える。しかし、それ以降のこと、癌の治療もまったく未定なわけで、手放しで喜べないが、まずは家に戻れるのは我としても大いに助かる。本当に嬉しく有難い。
 しかし、となると父一人を病院に残してしまうわけで、今は母が共に同じ病院に入院しているから日々最低でも二回は母が父の病室に出向き、あれこれ話しかけることでかろうじて保っている「正気」が、どうなってしまうのかその不安も強い。
 母の今の体力を思うと、毎日は見舞いには来れないし、我としてはこれからも毎日通うつもりではいるが、日々二往復はそろそろ限界になってきている。
 
 その父だが、やはり病院にいると、変化がなく、しかも今はベッドに縛り付けられているような状態なので、認知症はかなり進んできている。だが、毎日食事ごとに行って、曜日を理解させてから何故今ここにいるのか、ここはどこか、これからどうなるのかを丁寧に繰り返し話して、だから食事を摂らないと大変なのだと「理解」させて、嚥下障害を起こさないよう少しづつスプーンで時間かけて口に運んでやっている。
 幸い、そのボケも一定以上は進まないようで、何とかむせることなくまあまあの量の食事は食べてくれているので行った甲斐もあるかと思うようにしている。
 明日は月曜、その骨折した大腿骨の付け根の手術は明後日火曜の朝から。このまま明日もこの調子で問題起こさず食べてくれるようならば、体力も戻り手術も問題なく行えるかと思う。
 
 そうして、ギブスつけたまま車椅子に座れるようになれば、我としては家での介護がどれほど大変でも父は家に連れ戻そうと考えている。父はマイワールドの人だから、我家にいれば自分の物に囲まれて好きなことが自らでき彼の「正気」は保たれる。が、それがない単調な病院内では、刺激もほとんどなく、一か月もいれば完全に脳は活動停止し、反応のない植物人間のような状態になることは間違いない。
 それが可能かどうかわからないし、先のことは考えてもまたどうなるか、何が起きるかわからないのだから意味がない。まずは手術の成功と、母の退院が先決だ。

 それにしても今回はいろいんなことを考えさせられた。こうした事態に至ってようやく知った、わかったことばかりだ。
 そして思うのは、我の周りには先に親たちを亡くされた方がたくさんいたのに、また、我同様、その死に臨んで「介護」に苦悶していた方がいらしたのに、我はまったくヒトゴトとして、無関心であったとは思わないまでも、実にその人に対して薄情であったと今にして痛感している。ちっともその人の苦労、苦しみ、苦悩に対して理解するどころか、無関心でいたと恥じ入る。
 自分がその人たちと同じ状況に陥って、今にして死に行く者の介護の大変さがやっと本当にわかってきた。まさに恥じ入るばかりである。

 このことについてもう一回書き足したいが、もう目も開けていられない。ご容赦ください。

「ヒトゴト」と我が事と・中2016年04月18日 21時30分18秒

★父の苦難を思うと

 今日も昼と夕方の二回、立川の病院に出向き、父の食事の介助をしてきた。
 さすがに、もう我も疲れで意識朦朧、頭蓋骨を締め付けるような頭痛は終日続いている。が、ともかくもいよいよ明日、父の骨折部位の手術である。
 父が誤嚥性肺炎で入院して、今日でまだちょうど一週間だが、実に長い中身の濃い一週間であった。特に、木曜日朝に、「骨折」の知らせが届いてから事態は急展開、新たな大変な状況に入ってしまった。それからの5日間、こんなに一日一日が重く(長くではなく)、感じたことは今までになかった気がしている。

 それにしてもつくづく思うのは、父も母もまさに晩年となって、何故にこんなに苦闘せねばならないのか、だ。今の彼らの状況を見るにつけ、死ぬためには癌であろうとなかろうと、何故にこれほどの痛みや苦しみを味わわねばならないのか。
 これまでもいろいろ書いてきたが、やはり一番理想的な死に方は、ポックリと逝く死に方、つまり風呂の中で死ぬとか、布団の中で眠る様に死ぬとか、できるだけ長く苦しまず穏やかな死に方もあるのではないか。
 むろんのこと、人は自らの最後を選ぶことも希むこともできやしない。ならばその人それぞれの死に方には、そこに何かしらの意味や、役割すらあるのかと思うし、今、我が、彼らの死に行く様を見つめ立ち会うこともきっと大きな学びや気づきのために示されたことなのかと思うしかない。
 しかし、周りの者として、何より子として老いた親が苦しんでいる姿を見るのはやはり辛い。

 今日行ったら、父は、夜中にまた自ら点滴の管を抜いてしまったらしく、両手をグローブのような厚いミトンのような指のない「手袋」をはめさせられていて、ベッドの上で暴れて「外してくれえー」と大声で叫んでいた。
 しかもそうされたのは、新たに輸血の点滴もされていたからで、確かにそのチューブを外したら、辺り一面また血だらけになるわけで、そうさせないよう仕方ないのもわかったが、嫌がって泣き叫ぶ父をなだめているうちに涙が少し出た。
 だが、そうしないことには手術もできないし、このまままさに寝たきり一直線なのである。ベッドから落ちたのも自業自得だと思えなくもないが、90歳を越えるまで長生きしたツケとはこうした形で、最後に出てくるものなのであろうか。それともこれも彼にとって、その息子にとっても乗り越えるべき、乗り越えられる試練なのであろうか。

 看護婦たちは、そうした事態に、冷やかではないが、ごく冷静に、職業柄として動じず日常的に対応していて、それは当然といえば当然だけれど、しょせん「ヒトゴト」なのだとつい憤るような気持ちに今日はなってしまった。まあ、そこにいちいち私的感情を持ち込んでしまえば、いくつもの死に日々立ち会う仕事はやってはいけなくなってしまうことも良く理解できる。

 他の人は知らないが、つくづく思うのは、何事もじっさいに体験、つまり「経験」してみないことには結局何一つ本当のことなどは理解もできないしわからないということだ。
 賢い、しかも想像力豊かな人ならば、読んだり聴いたり学んだりと、見聞きしたことを構成して、そのことを、体験しなくても理解できるのであろう。
 しかし、我は根本がバカで、理解力も構成力も想像力も貧困だからか、周囲に何かで悩み苦しみ、大変な状況にある人がいても、「大変だなあ」と思いはするもののちっともその痛みがわからなかった。いや、わかろうとする努力をしなかった。それはヒトゴトだったからだ。

 今、自分がこんな情けない状況に陥って、先人たちのことを思い心から申し訳ないと思う。老いて病む親を介護していたものの、家庭での介護は限界となってしまい、特養のような介護専門施設に親を預けてしまった人たちに対して、我は、大変でも自らの親なのだから何でもっと家で世話しないのかと批判的なことすらかつて口にしてしまった。
 そうした大変な事情は、つまるところ当事者でないとわからないということに尽きるわけだが、やはりそこにあのは「ヒトゴト」だったからと思うしかない。何もわからず本当に申し訳なく今頃悔いている。
 この世のすべては、そうしたヒトゴトが「ワガコト」となったとき、人は初めて実際のところが、本当のことがわかるのかもしれない。

 しかしそうだとすれば、語り継ぐ戦争体験のようなものすらも、残念なことに、親や祖父母の体験だとしてもやはり後の世代にとっては「ヒトゴト」でしかないわけで、ならば、戦後も70年も過ぎてしまえば、再び戦争へと時代が移り行くのもまた致し方ないということになる。
 では、人はじっさいに「体験」しないことには、何事も真に理解できないものなのであろうか。言葉や文字はそれほど無力なものなのか。

 我はバカだから、そうした「共感」能力は劣等なのであろうけれど、経験や体験しない者でもその思いの根源の部分は、地下を流れる水脈のように人と人の間に通じる、流れるはずだと信じたい。

 この稿もう一回書き足したい。

とりあえず報告のみ2016年04月19日 23時46分29秒

★父の右足大腿骨の骨折手術は終了す。

 老人には明日のことすらどうなるか定かではないが、今日予定されていた父の折れた右足大腿骨の手術はおかげさまで無事に終わりました。
 そして、母のほうも今回の一件では明日退院となる予定。

 母の癌のことも含めて先のことは正直なところ、まったくどうなるのか見えないし考えると不安で夜も眠れなくなりそうだから考えないことにしているが、とにもかくにも腸閉塞でバイパス手術した母は明日退院できそうだ。おかげさまで父も母も幸いにしてまだこの先へと事態は続いていくようだ。
 ただ、また何が起きるか気を緩めてはならないと自戒している。一喜一憂しその都度拙ブログでお騒がせしてはならない。が、今日のところはその良い知らせを「報告」だけいたします。

 今日も二回、立川の病院へと車で出向いて、体力気力共に限界となってきている。 明日、母が無事帰宅出来たらば、詳しいことも含めてあれこれまた書きたい。
 どうか何事もなく明日が迎えられますように。

また一つの願いがかなえられた。2016年04月20日 22時31分28秒

★母は本日退院となりました。安堵し湧き上がる深い喜びで記す。

 おかげさまで、母は、本日20日の午後に我が家に戻ることができた。今はただ深い喜びをかみしめている。

 いろいろ個々に励ましやご心配のメールなどを頂いた方々にはすぐお知らせすべきところだが、後ほど私的に御礼のメールなどは送ることとさせていただき、まずはこのブログで報告とさせてください。

 今月頭の2日の土曜日に、前回の体調不良と同様に、熱が続き胃や腹が痛くて吐いたり食べられなくなってきたこともあって立川のかかりつけの総合病院に急患扱いで行ったらば、検査の結果、腸閉塞を起こしているとして即入院となってしまった。
 そして、その原因として腸間膜という腹部のヘソ下あたりにある、癌部位が肥大してきて、腸を圧迫してきて一部の腸管が細くなったり癒着してしまっていて、その対策が検討された。
 で、癌や癒着した腸の部位はそのまま手つかずのままで、流れを良くするため細くなったり癒着してしまった腸を通らずとも大腸、直腸に至るよう外科的にバイパス手術が行われた。
 その手術すらも、開腹してみて、そうした箇所が他にもいくつもあれば、そうした腸の迂回路を作る案は中止するしかないと脅かされ、まず手術自体ができるのか、そしてそれが無事終えられるのか不安に頭悩まされた。

 幸いバイパス手術は無事成功し、口からの食事も粥状のものから再開され、ほぼ元通りに食べられるようになってきた。そして一昨日18日に抜糸が済み、父のほうの大腿骨の付け根の骨折、股関節部に金属のパイプを骨に入れる手術が19日に終えたこともあって、今日の退院となったのだ。途中手術の前に夕方から一晩だけ家に戻ったが、18日間の入院であった。
 まだ食べると胃や腸がチクチクして痛いとか、食後は便意をすぐにもよおすとかいろいろ不都合も多々あるけれど、手術を終えて母が退院でき今日家に戻れて本当にほっとしている。このところ日々ずっと祈っていたことはまずは母の我が家への帰還であった。

 昔の人は、家で生まれて死ぬ時も家で家人に看取られて死んだ。が、今の人、つまり我々現代人はほぼすべてが、病院で生まれて最後も病院で死んでいく。家というのはただ生活の場でしかなく、家で死ぬ人は、自宅の風呂場で入浴中不慮の死を遂げるとか、心臓マヒ、心筋梗塞、もしくは脳梗塞を起こして絶対安静の場合以外は病院や介護施設に運ばれて、結局家には戻れずそこで死ぬ。
 それは望むと望まぬも関係なく、今では一般的当たり前のことだ。

 しかし、思うが、たとえ家人に囲まれたとしても、騒がしく落ち着かない病院のベッドの上で死んでいくのはどんなに不本意な、不如意かつ不満足な死に方ではないのか。誰だって自宅に帰りたいはずだし、もし可能ならば我が家で、自宅の布団の上で、落ち着いて覚悟のうえで死にたいと願うはずだ。
 どうせ死ぬときは意識もなくなっているのだからそんなの関係ないとのたまう方もいよう。しかし、まずこの我自身、このところ連日病院に通いづめてつくづく思うのは、こんなところでは落ち着いて死ねやしないし、真っ平ごめんだということだ。

 実は、一昨日のこと、我家のごく近隣の家のご主人が約半年間の入院生活の末に亡くなられた。奥さんがウチにお知らせに来た。身内だけで式は簡素に行うとのことで、葬儀に来ないでかまわないとのことであったが、我家の惨状についても洗いざらい話した。
 その方は、昨年の秋口だったか、自宅で転んで腰だか背骨だかを折って以来、高齢と他にも病気を抱えていたこともあって、残念ながら一度も家に戻ることなく病院でついに息を引き取ったのだ。
 遺体は一泊だけご自宅に戻ったようであったが、その方は、認知症でもなかったはずだから、さぞや住み慣れた我が家に戻りたいと切望していたのではないか。結局、救急車で病院に運ばれてから一度も家に戻ることなく逝ってしまったのである。その無念を想うと胸が痛む。

 本日母が家に戻って来たから記すが、手術の前日の頃は、もしかしたらもうこのまま母は家に戻れないことも考えてしまった。そんな怖れに囚われそうになった。
 もしそうなっていたら、父のこともありさぞや無念であり不安であったであろう。だから、もう医療行為は何もできないとしても、死ぬ時こそは我が家に連れ帰って、我家で死なせたいと考えたし、今も最期はそうしたいと思っている。

 母は腸のバイパス手術を終えて我が家に戻って来た。が、癌は今も彼女の腹部に厳然としてしっかり存在して、日々これからも少しづつだが肥大していく。新たに転移していくこともあろう。
 おそらく、このままだと年単位ではなく、月単位で、また近いうち間違いなく今回と同様の事態がまた腸管に、腹部に起こるであろう。そのときはもう今回のような応急処置的対策はとれない。かといって癌ももはや摘出できやしない。
 当初、まずはこのバイパス手術を終えてから、早く放射線治療を、と言っていた立川の医師たちは、それをやることに難色を示し始めて来た。理由は、放射線を中てると、腸管がまた癒着する可能性が高いからと言う。
 となると、もはや癌に対しての治療法はない。あるとしても今はまだみつからない。あとはまた気休め的に、ラジウム温泉に湯治に通い、丸山ワクチンを地道に続けていくしかもうできることはないかもしれない。

 母の退院、帰宅はとても嬉しいが、今後のことを考えると、晴れた日に望む、西の空にかかる黒い雲が見える夕暮れ時のような気分である。

 しかし、それはそれ、これはこれ、今日の苦労は今日で足りる。明日のこと、これからのことはまた明日考えれば良かろう。汝、明日のことは明日思い煩うべしと聖書は説いている。
 心配や不安で今日の喜びを損なうのはバカバカしい。ともかく、まずは一つ、ずっと祈っていたこと、我が願いがかなえられた。ただただ有難いことである。
 そして次は父のことである。父も歩けないとしても一日でも早く家に帰らせたい。

 繰り返す。人はいずれいつか必ず死ぬ。しかし、その死に方は自らが選ぶ権利があるのだと思いたい。病院で、医者たちに任せて彼らの手の打ちようがなくなったからという死に方だけはしたくないし、親たちにさせたくはない。我自身においてもそう願いたい。
 今通っている病院は、医師たちも看護師たちも皆全員とても良い人たちで、彼らの対応にはほとんど何も不安も不満もない。が、死ぬときは病院のベッドでは死にたくない。死ぬのはやはり自宅がいい。それは贅沢な願いであろうか。

 今晩こそは本当に枕を高くして深く眠れそうだ。

現況とこれからのこと2016年04月22日 20時14分20秒

★今できることとすべきこと、そして子としてのつとめ。

 母が帰って来てようやく我が家はまた動き出した。
 誰もいない家に戻り、腹すかしたと鳴いたり吠えたりしている犬猫たちに餌作って、自分もスーパーの弁当やカップ麺を缶ビールで流し込むだけの味気ない生活からやっと抜け出せた。ともかくほっとしている。

 じっさいのところ、父が入院してから初めて久しぶりに飯を炊いた。10日ぶりだろうか。
 マス坊は、料理好きだから一人でもマメに飯炊いておかず作って食べていると思われるかもしれない。が、告白すると、料理を作るのは人が来たり親たち食べてくれる人がいてのことであって、自分一人だけなら我はまったく料理など作らないし作りたくもない。一回飯炊けば数日残ってしまうからたぶん一人暮らしとなればもう炊飯器は不要となる。第一汚れた皿を洗うのだって面倒くさい。

 昼も夕方も病院通いに時間とられたこともあるが、そうでないとしても他に誰かがいないならば基本的に料理などしない。ホカ弁を買って来るか、麺類茹でたりインスタントラーメン類だけで一人なら事足りる。自分だけのためなら全く料理などしないしそんなことに時間も手間もかけたくない。
 となると、親たちが他界すれば、もう一切家では調理はしないしまず一人では外食すらしないから、おそらく数年のうちに体壊して死ぬかと思う。それはそれで仕方ないし、今回の件で気が付いたのは、「食事」さえも我にとっては他者あってのものであったということだ。少なくても料理は個人的楽しみではないと知った。
 ただ、「今後」については今回の一件で全て再考を促された。いまさらだが、親たちが亡きあとの一人で生きていく人生についてきちんと基本計画を立てねばならないと気づかされた。そう、今はまだ一人では我は生きていけない。恥ずかしいが親たちあっての自分だったと嫌でも気づかされた。
 彼らがいなくなった後の我と我家のビジョンを、彼らが生きて、いる間に構築しないとならない。

 さて、現況報告から。母は入院生活が長かったこともあって、今はまだ歩くのもやっという感じで、軽く食べては横になるだけの半病人の生活だ。ただ、それでも家にいてくれて世間話でもあれこれ話すことができることは本当に嬉しい。犬猫たちとでは会話もないから家は静まりかえり森閑としていた。我は一人ではテレビも付けず音楽も流さないから聞こえるのは猫の鳴き声と外で吠える犬の声だけである。くだらないテレビでも母がつけて見ていると家には人の気、活気が戻ったことをひしひしと感じている。そうしたものが人の生活なのだ。

 さて、股関節部骨折でまだ入院中の父のほうである。父は、先にお知らせしたが、誤嚥からの肺炎で入院中に、深夜にベッドから落ちて、右の大腿骨の付け根、股関節部を粉砕骨折し、骨の中にチタンのボルトを通す手術を終えた。元通りに歩くことは年齢もあって難しいと言われているし、退院まで早くて二か月から三か月はかかると宣告されてしまった。
 そしてそこに要介護2レベルの認知症もあり、今はまだまた誤嚥するかもしれないので、自ら一人では食事もさせられない。一般食以前に、細かく刻んだりとろみのついた半ば流動食が出され、まだ点滴は入れられている。いわば、呆けと嚥下とそれに骨折という三重苦の状態なのである。が、鼻からの酸素はようやく外された。が、今も尿道には管を入れられている。

 このところ連日、昼に、夜にと立川の病院に通って食事の介助をしてきたが、今日は昼だけ行って夜は行かなかった。病院から戻っての昼食後、今日は本の発送もなかったので、午後6時頃まで泥のように深く眠ってしまった。
 というのは、父は手術後すぐにリハビリも始まり、一時期のようなベッドにひたすら縛り付けられた段階から脱して、同病院に入っていた妻や訪れる息子以外の刺激も受けるようになってきたせいか、多少は反応が戻り、最悪の「ここはどこ、ワシは何故ここにいるのか!?」状態は抜け出てきたからだ。
 食事も一人でも自ら食べることがリハビリにもなると看護師に言われてしまった。

 今の病院のすごいのは、ベッドに寝かせきりにしておくと、手術した足はともかく、エコノミークラス症候群のみならず全身が萎え衰えてしまうから、早速手術の翌日から車椅子に乗せて、もう1本の脚を動かしたりの機能訓練が始まったのだ。
 そうすれば嫌でも起こされて介護療養士に声かけられ刺激を受ける。だからだいぶ人間性も回復して反応も返りマシになってきたのでほっとした。それまでは薬のせいもあってひたすら眠り続けて、目覚めても呂律も回らずトンチンカンなわけのわからないことを繰り返したり、拘束されると嫌がって叫んだりと行くたびに胸痛めることばかりであった。
 このままボケがこれ以上進まなければ、嚥下障害からの誤嚥性肺炎さえ収まれば、存外早く一度は帰宅もできるかもしれないと希望が見えて来た。そう、リハビリだけならば、この病院でなくても近くに通いでリハビリを受けさせることもできる別医院がある。

 車椅子の状態で、ウチに連れてくるのはまた介助に一苦労するのは当然だが、幸い我は家にいる仕事だから、さすればまた親子三人での生活に戻れる。
 そのためにも電動式ベッドや車椅子が室内でも通れる、置けるように家を根本的に片づけたり、改造しないとならない。そしてそこに母の癌もある。今後の「治療」についても何がまだできるか再考しないとならない。

 しかし、まだ「できること」があって、そこから「すべきこと」が見えてくるのは良いことだし有難いことではないか。そしてそのことこそが家族として、つまり「子」としての努めであり、そこに我の役割があるのである。
 むろんこの病む老親の世話だけに、子=我が人生はすべて費やしてはならないとも思う。今はまだ仕方ないが、もう少し先が見えてきて、父のほうも回復の兆しがはっきりしてくれば、また少しづつ「我がこと」にもとりかかれよう。

 じっさい、父の手術が終わり、母も退院してきて、老親W入院という最悪の状態を抜け出し、ずいぶん気持ちも明るくなってきた。しかし、まだこの先はどうなるか予断も油断もできやしない。
 今日昼に行ったらば、父のベッドの上の棚に張り紙があり、父の手の届く範囲には、水や軟膏類、薬など一切置かないように、と注意するよう書いてあった。あろうことか、父は昨晩?喉が渇いたらしく、ベッド脇の机に置いてあった手洗いのポンプ式泡フォームを呑んだらしいのである。
 これから回復して元気になればまた勝手に深夜に目覚めて看護師たちの目の届かないときに動き回ってまたも転んだりと何するかまったくわかりはしない。当人も無意識的に寝ぼけて?またベッドから落ちることもあり得る。それは叱ったって、言い聞かせたってダメだ。それがボケ、認知症なのである。
 またいつ病院から緊急の電話がかかってくるかもしれない。それもあってもう家では音楽はかけられないし落ち着いてテレビも映画も見れやしない。

 しかし、一時期の悪い状況からは今は脱した気がしている。先のことは考えないし不安にあれこれ考えたって仕方ない。これからも最低一日に一回は父の様子を見に行く。

 母曰く、20日間入院している間に、季節は桜が咲いていた早春から一気に新緑が濃い初夏へと移ってしまったと。そして母が不在でも庭の花々は、主なくてもしっかり咲いていたと、感慨深げであった。
 ならばこれからも季節は進み、父もきっと再び家にも戻れることであろう。そう信じて日々祈って一日一日を生きていこう。

 我が望みは、まずこのブログに親たちのことを書かないで済むようになることだ。次のコンサートのこともある。その宣伝や準備にも取り掛からねばならない。

「ヒトゴト」と我が事と・後2016年04月24日 21時39分22秒

★世界は多様かつ普遍なものだと

 疲れが溜まって来たせいか、このところ寝るとともう短時間では起きられない。まさに泥のように深く前後不覚で爆睡してしまう。夕飯の支度済ませて少し横になってからブログを、と思うともう起きられずブログも更新せずにひたすら眠ってしまう。
 母は退院できたものの半病人状態、父は相変わらず誤嚥性肺炎と股関節骨折で入院中、状況はさほど変わらない。

 が、連日、昼と夕方の二回、病院に出向いて父に誤嚥しないよう食事を介助していたのは、このところ昼もしくは夕飯だけの一日一回になった。
 肺炎がだいぶよくなって鼻からの酸素吸入も終わったこと、栄養状態も改善されたのか、腕からの点滴もなくなったようなので、口からの食事を自ら摂るよう指導が入り、付きっ切りでスプーンで誤嚥しないよう口に入れてやらなくとも、付き添い「監視」程度で様子見ていくことになってきたからだ。
 今はまだミキサーにかけたようなトロトロの、細かく刻んだ状態の数種のおかず類と粥状に柔らかくしたご飯が出されてそれをほぼ「完食」させている。水もとろみをつけないとまだむせてしまうが、やがては、固形物でも自らよく噛んで誤嚥せずに食べられる様になれば、誤嚥性肺炎は治ったということになる。
 しかし、認知症の九十過ぎの父が、果たして意識して自分でそうできるかどうか、だ。今も食事時には、何度も良く噛むように、しっかり飲み込んでから次のおかずに移るよう、常に言い聞かせているが果たしてそれがどこまで彼が理解して徹底できるか、何とも定かでない。
 そして、そちらが完治して、さらに折れた足のほうが固まってきて、車いすに乗って一人でもトイレに行けるように、用をたせるようになって初めて退院の話も出て来よう。
 まだ先は長いと思うが、今以上に認知症が進むことがないよう、彼自身が入院生活に倦み疲れ失望し諦めて無気力にならないよう、これからも毎日一回は病室に顔出して励まして希望と刺激を与えないとならない。
 辛いとか大変だとは思わない。じっさいのところ、行けば父の病室で父と過ごすことが一番安心できる。病院に入れ看護師たちに任せたから絶対安心でないことは今回の骨折事件で痛感した。父のことだから良くなれば良くなった時こそ、また何か事件を起こしかねない。

 患者を預かり治療するのが病院だとしても、しょせんは単なる一患者でしかなく、医師や看護師にとっては我が父もまた多くの患者の中のワンオブゼム、ヒトゴトでしかない。そして何よりビジネス、「商売」なのである。それは仕方ない。ならば息子が行って、「我が事」として出来る限りのことをしないとならない。
 そしてそうすることが生きがいにもなるし、仲が悪かった父と息子にとってようやく訪れた、赦し赦される至福の時かもしれない。つまり、こんな事態が起きない限り我らにとって「和解」の場はなかった。

 むろん、もし父が無事に元通り家に戻れたりすれば、男同士我らのことだからまたきっと懲りずにつまらぬことで諍いは起きて、ひと悶着あるかもしれない。しかし、それはそれとして、今は懐かしく歓迎したい気持ちすらしている。

 さて、先のことはともかく、ひとまずこの辺で、今月頭からずっと書き続けて来た老親たちの病気やケガで入院騒動についてはペンを置きたいと思う。ヒトゴトの出来事にずいぶん長くお付き合い頂き申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
 読まれてどう思われたかはわからないが、これはごく個人的かつ珍しい特異な話では決してない。実は、その病院にはやはり夫婦で共に入院しているケースも他にもいたと母は言ってたし、高齢でも共に健在で生き永らえれば、ウチのように夫婦で体調崩しそれぞれ入院する事態も多々あることだろう。交互に入院もしていれば二人のそれが重なるときもきっとあろう。
 我も最初は暗澹として信じがたい気持ちになったが、それもこれも起こるべき当然のことだと今は得心している。また、高齢になれば股関節を骨折する事故も多発して、父に限らず入院患者の多くが、その足の付け根の部分を右も左も交互に折ったりしていることを知らされた。
 そして高齢ゆえに、リハビリしてもまた転んだり何度でも折ったりして結局歩けなくなったり、病院から生きて戻れなかった人も決して珍しい話でないことも知った。

 これは読み手の皆さんにとっては「ヒトゴト」である。しかし、ある意味、それは「我が事」にも常に成り得る話でもある。
 そして世界とは、そうした多様かつ普遍的な人生に満ちている。我がこうした私的なことをくだくだしくも書くのも、世界の多様さとそこに通底して流れる、多くの人にとっても同様に、誰にでも起こるかもしれない「普遍的なこと」を知らしめる意義があるかと今回考えもした。

 ついでに記すが、世の中に「障害者」という特別な人たちがいると考えている人たちがいる。自分とは別な人種、関係のない人たちだと。
 しかし、「障害者」、文字が良くないと言うのなら「障碍者」という人たちはヒトゴトではなく、実は我が事として誰にとってもそうなる者たちのことなのである。
 話題の乙武某氏のように先天的に、異なって生まれてくる者もいよう。が、人は健常者であろうと、事故や病気で後天的になる可能性は常にあるし、やがては老いて病み転んだり認知症になったりとまず誰でもほぼ程度の差はあっても様々な障碍を持つようになっていく。
 そして自らが、家族がそうなったとき初めてようやく「ヒトゴト」が「ワガコト」として認識されていく。しかし、だとすれば、それはカンケイナイ「特別」な人たちだなんて思わずに、予め我が事として、誰にとっても起こることだと考えていけば良いことではないのか。

 特殊なことだとか特別な人生なんて実はどこにもない。人は生まれて生きてただ死んでいく。そこに人の数だけ様々な程度の差や個性があるだけの話だ。ただ、だからこそ多様かつ普遍的なそれぞれの人生を人はとことん精いっぱい生きていかねばならないのである。
 今回の親たちの件で日々立川の病院まで車を走らせながらそんなことを考え気づかされた。

流れはそう簡単には変わらないが・・・2016年04月25日 06時20分04秒

★変わっていくなんてきっとないよ、ってことはない。

 北海道の補選の結果が出たらしい。詳しい票などまだ見ていないが、与党自公に対して野党が共闘し総がかりで挑んだ対立の構図は、結果として負けてしまった。そのことに失望し今深く絶望や諦めの気持ちになっている方も多々いるかと思う。我も当然ながら期待していた。
 が、やはり強大な自公の前には、個々の野党が共闘して臨んでも今回は勝てなかった。残念である。残念至極という気持ちしかない。しかし、一番肝心なことは、ここで失意に陥るのではなく、一喜一憂してはならない、闘いはまだ続くという誓いと戒めを心に改めて刻むべきだということだ。

 そもそも政党の数は上まっても彼ら自民たち与党には、今もまだ40%を越す支持率があるのである。微弱な野党が束になってもその数字には遠く及ばない。しかも彼らは権力と金を持っている。ガチンコ勝負では元より勝てる相手ではないのである。
 野党がようやくまとまって、今回は初めて総力を結集し選挙に臨んだとしても、そう簡単には一気に流れは変わることはないしそのはずもない。期待や希望は大事だし、それこそが人を生かし支えていくものだが、それと「楽観的」とはまた違う。現実は現実として見つめて行かねばならない。そう、何事もそう簡単には進んでいかない。
 そんな風に一気に流れが変わるのならもっととっくに早く政治は変わっている。

 しかし、ディランⅡがうたった超訳版「アイ・シャル・ビー・リリースト」=「男らしいってわかるかい」が謳っているいるように、「変わっていくなんてきっとないよ」という境地に陥ってはならない。おそらくフォーク好きの人たちの心には今、その歌声が地下水脈のように流れていることかと思う。
 我は今その聴こえてくるメロディを振り払い、あえて、「変わっていくことはきっとないことはないよ」、と唄い直している。

 今回の選挙には勝てなかった。それを「今回も勝てなかった」と考え思って、どんなに理を説き義があろうと彼ら権力の前には常に勝てない、我らは無力だとか非力だと思い込んではならない。
 どんな悪状況でも、時代が逆行しようとも正しいこと、当たり前のことはこの世に常に存在する。それは自己にとっての損得とは別に、人として、生き物として、地球環境のために「存在」している。自然環境を守り原発をなくしていくこと、戦争に反対すること、人は人をどんな理由であろうとも殺してはならないことがまずそうだ。人は人を蹴落として幸福になるのではなく、まず弱者からボートに乗せなくてはならない。

 ただそうした当たり前のことは、経済効率や利潤追求という「目先の経済」の前になかなか勝てやしない。理解されない。目の前に餌をぶら下げられれば、その餌の匂いで走る馬たちのように、人も甘い金の香りにつられて、原発で地域振興とか、オリンピックなどの公共工事で景気が浮揚するはずだと期待してしまうのも仕方ないことだ。その人たちを愚かだとか非難しては絶対にならない。

 資本主義とは人の欲望、金という人が一番望み欲する物をあたかも誰にでも行きわたるかのように思い込ませる幻想のシステムである。その欲望に常に火を付け、そこに金の匂いだけ庶民に嗅がせて、金そのものは金持ちたちが独占していくカラクリなのである。
 今の政治が続く限り、人は決して真に豊かにはならない。まして富はさらに偏り、国民の多くは結果奴隷として国家に管理され奉仕を余儀なくされていく。そしてその先に戦争という破滅が待っている。

 だからこそこれからもそのことを説いていく。地道に対話を重ねていく。光を灯し続ける人には我はなれないが、そうした人たちを支えていく。闘いは常にここから、これからだ。終わりはないし一喜一憂しては決してならない。

先の見えない辛さに思う2016年04月27日 21時52分15秒

★4月も終わりに近づいて

 熊本の被災地の方々の苦難を思う。大きな災害に遭い生き永らえたことは僥倖だとしても、これからのこと、「その先」のことを思うと思い悩み暗澹たる気持ちでおられる方も多いかと思う。
 その人たちと比べて我が抱える状況は極めて軽く比べものにもならない程度であるかと思うが、今思うこと、正直なところを書かせて頂きたい。

 人間にとって、生きている限り様々な困難や試練のような事態は必ず起こるはずだ。おそらく何の苦労も悩みもせずに一生を終える人は皆無だと思える。艱難辛苦というほどでなくとも人それぞれ様々な辛い目に遭うもののはずである。
 我もまた、のほほんと好き勝手にこの歳まで出来るだけ辛いことはしないよう逃げ回る様にして、楽な方へ楽な方へと緩く甘く生きてきたが、ようやく最近になって、人生とはやはりそんな甘いものではない、いつかそのツケを支払うときが誰にでも来るのだと思い知った。

 だから、今の状況も当然のこととして、受け入れるしかないとカンネンしたから、疲労感はもうマキシマムに達してきているが、精神的には何も思わないし誰も恨むような気持ちにはなっていない。
 が、正直なところを書けば、苦境にあるときに人が辛いのは、その現状、「今」が辛いのではなく、これから、つまり「その先」のことが見えないことこそが辛いのだとわかってきた。
 今、4月も終わりが近づき、さすがに今後のことについてどうしたものか焦ってきている。そう、先が見えない、予定が立たない、よって何も決まらずそのことがツライ。

 例えばの話、刑務所に服役している人にとっては、刑務所の中の暮らしは辛いことは辛いはずだが、規則正しく意外にも快適だと、体験者の多くは記している。何故なら、死刑囚はともかくも、あと何年先と出られる、決まっている「目標」があるからで、ある意味、日々時が過ぎていくのをただ待つだけだから存外気分的には楽なのだそうだ。
 つまり「先」のことがはっきりしていれば、かなり辛い現実でも人は我慢もできるし、その先に希望を見据えて何とかがんばれるものなのだ。

 逆に、その「先」のことが見えずに、何の展望も立てられず、見通しが立たないと人は精神的にまいってくる。今の被災地の仮設の避難所や車の中で寝泊まりしている方々は、いつまでもおさまらない余震も不安だろうが、いったいこの先どうしたら良いのか、どうなるのか予定も立たずまずそのことこそが辛く苦しく心痛心労の種であろう。
 まして家が倒壊してしまい生活再建のメドが立たない人たちは、いったいこれから、この先どこでどうやって生きて行けば良いのか、そのことを考えるとまさに辛くて精神的に参ってしまうであろう。

 先のことはできるだけ考えないようにしている我も、退院してきたものの未だ体の不調を訴え続けている母を見ていると、いったいこれからどうなるのか、癌はどうなるか、骨折して退院のメドもまったく立たない父のこともあり、精神的にやはり落ち込んでくる。

 このブログもどう書くべきか今迷っている。報告しようにも書くべきことはつい愚痴や不安に思い悩むようなことなら書くべきではないはずだ。「先のこと」、良くも悪くも今後の予定が出ていれば、それに合わせて生活計画も立てられる。辛いのはこれからこの先、どうなるのか全く見えないと、何の予定も計画も立たない。
 日々は過ぎていく。一日一日はまた来る。しかし、人を動かし、生きていく動機付け、つまりモチベーションと成りえるのは、「これから」のこと、「先のこと」が見えてこそなのである。
 被災地の方々を苦しめているのは避難所の生活もだが、いったいいつまでこれが続くのか、果たしてこれからどうなるのか、これからのこと、「その先」が見えないからだ。
 地震はやがて終まるであろう。しかし、果たして自宅にまた戻れるのか。家が倒壊してしまった人たちにとっては、今後の生活のことがいちばんの悩みの種だろう。大災害に遭い生き永らえて無事を喜び合ったのも束の間、次いで彼らを苦しませるのは「この先」のことである。
 行政、つまり政治は、そうした人たちに対して、とりあえずでも「その先」について、何らかの安心となるような「予定」と成りえる指針を示さねばならない。それこそが真の被災者支援であり、国民の命を守ることとなろう。

 刑務所の中の人たちも、出獄の日、つまり刑期を終えてそこから出られる日が近づいてくると、皆同様に不安に怯えて嬉しいよりも精神的に辛い日々を送ることもあるときく。何故なら、シャバに出ても犯罪者にはなかなか「その先」の予定は見えないし立っていないからだ。だから中にはまたすぐに事件を起こして刑務所に舞い戻る受刑者もいる。

 人はどれほど辛い現実でも先のことが見えていれば、そこを見据えて我慢もできるし希望も持てる。人を生かすも殺すも「その先」という希望が見えるかどうかなのだ。「先のこと」という、予定となる希望がなければ絶望という不治の病に身も心も苛まれていく。

 先のことは誰もわからない。だからこそ人は先の予定を立てて、そこに「希望」を託していく。政治とはそうした民に希望を持たせられるかなのだ。安倍晋三にはこの国の未来を託す希望が示せるか。