第四回反戦歌コンサートへ、ご参加ください! ― 2016年05月01日 16時54分08秒
さあ、もういっぺん、がんばろう! ― 2016年05月02日 22時57分09秒
★人生を今さらながら1からやり直していく
風薫る五月となった。月が替わり季節は移っていく。
それにしても先月は慌ただしかった。今まで親たちが入院したことは何度もあったが、二人そろって共に入院治療となったことは初めてのことで、我が人生においてこんな慌ただしかったことは記憶にない。
誰もいない家に一人戻り、一人で過ごす日々は、これほど味気ないというか、心の置場のないものだと思い知った。が、そうした空疎な人生が親たち亡きあとは確実に待っているのである。
まだ父は退院のメドは全く立たないが、それでも戻った母と共に二人で暮らして始終何かしらの会話のある生活は有難いものだとつくづく思う。
他の一人暮らしされている方はどうなのか知らないが、我にとって日々生きていくこと、生活していくというのは、他者あってのことで、我一人だけならば生活は回転していくことはできやしないしそうした努力は放棄してしまう。今回そうしたことを初めて知った。
先月のことをざっと振り返れば、立川の総合病院に、体調崩した母が急患で診察を受けに行き、そのまま入院となったのが、4月2日の土曜日。
食事が摂れなくなったのは、肥大した癌により腸管が圧迫され腸閉塞だと診断されて腸のバイパス手術をしたのが7日木曜。
そしてその翌週の月曜11日に、今度は父が、微熱と咳が続き、大事をとって母の入院している病院へ風邪だろうと診察受けに行ったら、診察の間に、熱が上がってきて嘔吐と失禁などしでかし、意識朦朧となって、肺炎だとして即入院。検査の結果、誤嚥性肺炎だとわかり約二週間ほどで退院できるだろうと。
ところが、14日木曜の明け方に、あろうことかベッドから落ちたとのことで、右足の付け根、股関節部の大腿骨を粉砕骨折してしまう。そして19日の火曜に手術してチタンを骨に通して折れた部分を繋いだ。退院まで早くて二か月から三か月と言われ、高齢でもあり歩けるようになっても杖が必要だし、場合によっては車椅子か、このまま寝たきりになる可能性もあると宣告されてしまった。
そして母は、父の手術を見終えて20日の水曜に退院。以後、自宅に戻り食事は再び食べられるようにはなったものの、量も少なく体調も戻らず、未だ半病人というべきか、寝たきりではないがほとんど何もできない状態のままである。
父のほうは、足を骨折して手術の前後には、熱や投与された薬の影響もあったと思うが、一時期意識が混濁して、何故入院させられたのかもわからず、暴れたりわけのわからないことを叫んだりして、拘禁のようにされてしまい、このまま病院にいると認知症が一気に進むかと案じられた。
が、日々欠かさず我や同じ病院に入っていた母が出向いて声かけたりしたせいか、しだいに頭は「正気」に戻って来て、まあ、それも入院前の認知症の状態まで戻ったということなのだが、現時点では、予想したよりもボケは進まず安堵している。
今もまだ食事は、細かく刻んだりとろみの付いたものしか出されていないが、たぶん誤嚥性肺炎のほうは収まったと思えるし、リハビリも折ったほうでない足のほうから少しづつ始まって、順調に回復してきていると考えても良いかと思える。
当人は食事がまずい、うんだりだ、飽きたとか、早く帰りたいとこぼしているが、そうした当たり前のことが言い出しえることは良い状態なわけで、今さらだが、戦地に行ったこの男のタフネスさに感心させられている。
今だから告白すると、母が倒れ入院して、癌本体にではなく、まずは応急処置的に、開腹して詰まった腸の流れを作るため腸管のバイパス手術をやるしかない、場合によってはその手術すら癌の状態によっては不可能かもしれないと医師から告げられたとき、さらに、その直後に、今度は父が院内で骨折して数か月は入院だと知らされて、もう二人ともこのまま家に戻れないかもと考えざるをえなかった。
今まで親子三人で、ときに父か母のいずれかは入院することはあったとしても何とか三人で共に、いがみ合いながらもずっと暮らして来た当たり前の生活がついにあっけなく終わる日がきたと考えてしまった。
二人とも歳も歳だから、考えてみればいつそんなときが来たってまったくおかしくなかったのだ。が、人は昨日までがそうだったように、今日が同じならば明日もまた同じだと思い、そうした当たり前の「有難さ」に気がつかない。
だから、まずは母が何とか手術は成功し家に再び戻れるよう祈り続けたし、おそらく多くのこのブログを読まれて状況を知られた方も同様に祈ってくれたからだと信ずるが、幸いにしてまず母は退院でき家に帰ってこれた。
しかし今も実はまだ体調はすぐれず、少し食べては腹や胃が痛いとか騒いでは顔をしかめてうんうん唸って横になっていることが多い。半病人というよりも入院していないだけの病人なのである。
じっさいこんな調子では、とても癌部位に放射線治療だってできるかわからない。このまま後は、モルヒネなどで痛みを抑えて終末期ケアへと向かうしかないのかもしれない。それも選択肢に入ってきたようだ。
が、今はまだ母と共にこの家で暮らせていられるし、どのくらい先になるかはわからないが、父も必ず再びどんな状態であろうとも退院し戻ってくると思えてきた。それは希望や願望ではなく確信である。
再びまた老いた親子三人でこの家で暮らせる日がやってくる。そしてそれはそんな遠くはないはずだ。
嗤われるかもしれないが、今回の一件で、我は大きく変わった。父や母が入院する前と今の自分は全く違っている。
この一か月、ちょうどまるまる一か月、誰とも会わなかったし、どこにも行けなかった。ただ家と病院を往復し、ほそぼそと古本稼業は注文のあった本だけは発送していた。
犬の散歩での家の周りと郵便局、そして立川への行きかえりにあるスーパーにしか寄ることはなかった。
多くの友人知人に不義理しご心配をおかけして心から申し訳なく思う。しかし、大変どころか、今振り返れば大変でも我にとっては充実した至福の時であった。何故なら老親たちととことんじっくりと向き合えたからだ。
母の体調はあまり良くはないが、それでも家に誰か家人がいれば家も空けられる。今は立川へ父の介助に行くのは一日に一度になったし、母に負担はかけられないが、ならば我も少しは身動きがとれるかと思える。
何が本当に大事か、何をすべきか、本当に欲しいものと必要なものは何なのかもわかってきた。
今さらだが、我が人生を、1からきちんと、丁寧にやり直したいと願う。さあ、もういっぺん、という気持ちでいる。思いはすべてかなうと信じて。
風薫る五月となった。月が替わり季節は移っていく。
それにしても先月は慌ただしかった。今まで親たちが入院したことは何度もあったが、二人そろって共に入院治療となったことは初めてのことで、我が人生においてこんな慌ただしかったことは記憶にない。
誰もいない家に一人戻り、一人で過ごす日々は、これほど味気ないというか、心の置場のないものだと思い知った。が、そうした空疎な人生が親たち亡きあとは確実に待っているのである。
まだ父は退院のメドは全く立たないが、それでも戻った母と共に二人で暮らして始終何かしらの会話のある生活は有難いものだとつくづく思う。
他の一人暮らしされている方はどうなのか知らないが、我にとって日々生きていくこと、生活していくというのは、他者あってのことで、我一人だけならば生活は回転していくことはできやしないしそうした努力は放棄してしまう。今回そうしたことを初めて知った。
先月のことをざっと振り返れば、立川の総合病院に、体調崩した母が急患で診察を受けに行き、そのまま入院となったのが、4月2日の土曜日。
食事が摂れなくなったのは、肥大した癌により腸管が圧迫され腸閉塞だと診断されて腸のバイパス手術をしたのが7日木曜。
そしてその翌週の月曜11日に、今度は父が、微熱と咳が続き、大事をとって母の入院している病院へ風邪だろうと診察受けに行ったら、診察の間に、熱が上がってきて嘔吐と失禁などしでかし、意識朦朧となって、肺炎だとして即入院。検査の結果、誤嚥性肺炎だとわかり約二週間ほどで退院できるだろうと。
ところが、14日木曜の明け方に、あろうことかベッドから落ちたとのことで、右足の付け根、股関節部の大腿骨を粉砕骨折してしまう。そして19日の火曜に手術してチタンを骨に通して折れた部分を繋いだ。退院まで早くて二か月から三か月と言われ、高齢でもあり歩けるようになっても杖が必要だし、場合によっては車椅子か、このまま寝たきりになる可能性もあると宣告されてしまった。
そして母は、父の手術を見終えて20日の水曜に退院。以後、自宅に戻り食事は再び食べられるようにはなったものの、量も少なく体調も戻らず、未だ半病人というべきか、寝たきりではないがほとんど何もできない状態のままである。
父のほうは、足を骨折して手術の前後には、熱や投与された薬の影響もあったと思うが、一時期意識が混濁して、何故入院させられたのかもわからず、暴れたりわけのわからないことを叫んだりして、拘禁のようにされてしまい、このまま病院にいると認知症が一気に進むかと案じられた。
が、日々欠かさず我や同じ病院に入っていた母が出向いて声かけたりしたせいか、しだいに頭は「正気」に戻って来て、まあ、それも入院前の認知症の状態まで戻ったということなのだが、現時点では、予想したよりもボケは進まず安堵している。
今もまだ食事は、細かく刻んだりとろみの付いたものしか出されていないが、たぶん誤嚥性肺炎のほうは収まったと思えるし、リハビリも折ったほうでない足のほうから少しづつ始まって、順調に回復してきていると考えても良いかと思える。
当人は食事がまずい、うんだりだ、飽きたとか、早く帰りたいとこぼしているが、そうした当たり前のことが言い出しえることは良い状態なわけで、今さらだが、戦地に行ったこの男のタフネスさに感心させられている。
今だから告白すると、母が倒れ入院して、癌本体にではなく、まずは応急処置的に、開腹して詰まった腸の流れを作るため腸管のバイパス手術をやるしかない、場合によってはその手術すら癌の状態によっては不可能かもしれないと医師から告げられたとき、さらに、その直後に、今度は父が院内で骨折して数か月は入院だと知らされて、もう二人ともこのまま家に戻れないかもと考えざるをえなかった。
今まで親子三人で、ときに父か母のいずれかは入院することはあったとしても何とか三人で共に、いがみ合いながらもずっと暮らして来た当たり前の生活がついにあっけなく終わる日がきたと考えてしまった。
二人とも歳も歳だから、考えてみればいつそんなときが来たってまったくおかしくなかったのだ。が、人は昨日までがそうだったように、今日が同じならば明日もまた同じだと思い、そうした当たり前の「有難さ」に気がつかない。
だから、まずは母が何とか手術は成功し家に再び戻れるよう祈り続けたし、おそらく多くのこのブログを読まれて状況を知られた方も同様に祈ってくれたからだと信ずるが、幸いにしてまず母は退院でき家に帰ってこれた。
しかし今も実はまだ体調はすぐれず、少し食べては腹や胃が痛いとか騒いでは顔をしかめてうんうん唸って横になっていることが多い。半病人というよりも入院していないだけの病人なのである。
じっさいこんな調子では、とても癌部位に放射線治療だってできるかわからない。このまま後は、モルヒネなどで痛みを抑えて終末期ケアへと向かうしかないのかもしれない。それも選択肢に入ってきたようだ。
が、今はまだ母と共にこの家で暮らせていられるし、どのくらい先になるかはわからないが、父も必ず再びどんな状態であろうとも退院し戻ってくると思えてきた。それは希望や願望ではなく確信である。
再びまた老いた親子三人でこの家で暮らせる日がやってくる。そしてそれはそんな遠くはないはずだ。
嗤われるかもしれないが、今回の一件で、我は大きく変わった。父や母が入院する前と今の自分は全く違っている。
この一か月、ちょうどまるまる一か月、誰とも会わなかったし、どこにも行けなかった。ただ家と病院を往復し、ほそぼそと古本稼業は注文のあった本だけは発送していた。
犬の散歩での家の周りと郵便局、そして立川への行きかえりにあるスーパーにしか寄ることはなかった。
多くの友人知人に不義理しご心配をおかけして心から申し訳なく思う。しかし、大変どころか、今振り返れば大変でも我にとっては充実した至福の時であった。何故なら老親たちととことんじっくりと向き合えたからだ。
母の体調はあまり良くはないが、それでも家に誰か家人がいれば家も空けられる。今は立川へ父の介助に行くのは一日に一度になったし、母に負担はかけられないが、ならば我も少しは身動きがとれるかと思える。
何が本当に大事か、何をすべきか、本当に欲しいものと必要なものは何なのかもわかってきた。
今さらだが、我が人生を、1からきちんと、丁寧にやり直したいと願う。さあ、もういっぺん、という気持ちでいる。思いはすべてかなうと信じて。
今年も八王子浅川の河川敷でのユニークなイベントが ― 2016年05月03日 16時58分14秒
自由とは失ってからわかるもの ― 2016年05月04日 23時47分43秒
★だからこそ、憲法は拙速に変えてはならない。
おそらくこれは誰もが、何であろうとも同様だと思うが、モノゴトは失ってから、失ったときになって初めて、その有難さ、大切さに気がつく。それまでは、それがあるのが当たり前だと思っていた。だからその「価値」に気が付かなかった。そしてその「当たり前のこと」がずっと続くと漠然と思い込んでいた。
震災や不慮の事故などで家や大事な人を失った方々もおそらく同様にそう思われるだろう。そうした方々の苦難やご苦労とは比べものにはならないが、我もまた今このところそうした思いにずっととらわれている。
歳はとっても親たちとこれからもずっと共に暮らせるものだとただ何となく漠然と思い込んでいた。今日がそうであったから、また変わらぬ明日が来るものと信じていた。いや、正しくは先のことは何も深く考えもしなかった。ただ、のんべんだらりんと生きていただけだった。
今、親たちが二人とも期せずしてほぼ同時に病み倒れ入院したりして、ああ、もうかなり長生きしてずいぶん高齢だったのだからこの事態は起こるべくして起きたのだと痛感している。
そして今その介護に時間とられて身動きとれなくなって、我が音楽活動どころかお世話になった人たちのライブにも顔出せなくなって、心苦しく焦り苛立つものすらある。けんあんのこともまったく進められない。
親たちの世話や面倒を見るのはちっとも辛いとか大変だとは思わない。が、それだけで今はいっぱいいっぱいで、我が事に割く時間がなかなかとれないことが辛く苦しい。
今思うに、じっさいに何かできたか、何をしたかではなく、まず何かをするための時間の余裕が今まではかなり我にはあった。それがとりもなおさず「自由」ということであった。この事態に至って、つくづくそんな自由になる時間がつい前まではあったことが懐かしく思う。
そしてもっと、そんなときにじかんを大切にして成すべきこと、やりたいことを効率よくやっておけば良かったと悔やんでいる。
まだ認めたくはないが、これからは、我が人生、今後は新たなライフスタイルを構築しないとならないようだ。端的に言えば、死に行く者と(共に)生きていくための人生を考えねば ならない、ということだ。
もう今までのように、親たちに家のことを任せて、我の好き勝手なことはできないのである。親たちの介助介護を最優先にして、我は生きていく。もう今までの「自由」は我にはない。
今までは老いたとしても我も親たちも共にそれぞれで生きていた。が、もう親たちが自らでは生きていけなくなってしまえば、彼らが死んでしまわぬよう、我が事よりもまず彼らのことを優先せねばならない。
むろん行政や介護保険を利用するとかその「荷」を減らす手段はあるかとは思うし知ってはいる。そして今後は出来る限りそれを利用するのもやぶさかではない。
しかし、その以前に子としての努めがあり、ケアマネのような人たちには特養に申し込みを勧められたとしても現時点ではまったく考えてはいない。断った。それは「先のこと」であり、今は決められない。そして我が自由と親たちのことは両立ではないならば、二兎は追うべきでないし、ならばまず親たちのことが優先されよう。
振り返れば、我は今まで実に約40年~、高校生のころから好き勝手をし放題で親たちにはずっと心配ばかりかけてきた。結婚も就職もしないで好き勝手に、自由気ままに生きて来たのだ。そして親たちはそれを赦してくれたのだ。キビシイ親ならとっくに勘当ものである。
ならば、これまでの恩を返さねばならないし、ある意味「年貢」も収めないとならないはずだ。
命のバトンを手渡すのが生きること、生殖だとするならば、我は不孝にも親たちに背いて次世代にそれを渡せなかった。ならばこそ、今悔恨の思いで、親たちに詫びて報いねばなるまい。それこそが介護であろう。
語弊や異論あるかと思うがあえて記す。子や孫をつくった者は、その自らの親たちに不孝であっても赦されるのである。何故ならば親たちには孫たちというしっかりした係累、命の絆を示せたのだから。
つまり祖先から代々受け継いできた遺伝子のバトンを次へと手渡せたならもう生物学的には老いた者はそれを見届ければただ死に行くので良いのである。
話が長く脱線した。自由と憲法改定についてこそ書きたいことだった。明日もう一回書き足したい。
おそらくこれは誰もが、何であろうとも同様だと思うが、モノゴトは失ってから、失ったときになって初めて、その有難さ、大切さに気がつく。それまでは、それがあるのが当たり前だと思っていた。だからその「価値」に気が付かなかった。そしてその「当たり前のこと」がずっと続くと漠然と思い込んでいた。
震災や不慮の事故などで家や大事な人を失った方々もおそらく同様にそう思われるだろう。そうした方々の苦難やご苦労とは比べものにはならないが、我もまた今このところそうした思いにずっととらわれている。
歳はとっても親たちとこれからもずっと共に暮らせるものだとただ何となく漠然と思い込んでいた。今日がそうであったから、また変わらぬ明日が来るものと信じていた。いや、正しくは先のことは何も深く考えもしなかった。ただ、のんべんだらりんと生きていただけだった。
今、親たちが二人とも期せずしてほぼ同時に病み倒れ入院したりして、ああ、もうかなり長生きしてずいぶん高齢だったのだからこの事態は起こるべくして起きたのだと痛感している。
そして今その介護に時間とられて身動きとれなくなって、我が音楽活動どころかお世話になった人たちのライブにも顔出せなくなって、心苦しく焦り苛立つものすらある。けんあんのこともまったく進められない。
親たちの世話や面倒を見るのはちっとも辛いとか大変だとは思わない。が、それだけで今はいっぱいいっぱいで、我が事に割く時間がなかなかとれないことが辛く苦しい。
今思うに、じっさいに何かできたか、何をしたかではなく、まず何かをするための時間の余裕が今まではかなり我にはあった。それがとりもなおさず「自由」ということであった。この事態に至って、つくづくそんな自由になる時間がつい前まではあったことが懐かしく思う。
そしてもっと、そんなときにじかんを大切にして成すべきこと、やりたいことを効率よくやっておけば良かったと悔やんでいる。
まだ認めたくはないが、これからは、我が人生、今後は新たなライフスタイルを構築しないとならないようだ。端的に言えば、死に行く者と(共に)生きていくための人生を考えねば ならない、ということだ。
もう今までのように、親たちに家のことを任せて、我の好き勝手なことはできないのである。親たちの介助介護を最優先にして、我は生きていく。もう今までの「自由」は我にはない。
今までは老いたとしても我も親たちも共にそれぞれで生きていた。が、もう親たちが自らでは生きていけなくなってしまえば、彼らが死んでしまわぬよう、我が事よりもまず彼らのことを優先せねばならない。
むろん行政や介護保険を利用するとかその「荷」を減らす手段はあるかとは思うし知ってはいる。そして今後は出来る限りそれを利用するのもやぶさかではない。
しかし、その以前に子としての努めがあり、ケアマネのような人たちには特養に申し込みを勧められたとしても現時点ではまったく考えてはいない。断った。それは「先のこと」であり、今は決められない。そして我が自由と親たちのことは両立ではないならば、二兎は追うべきでないし、ならばまず親たちのことが優先されよう。
振り返れば、我は今まで実に約40年~、高校生のころから好き勝手をし放題で親たちにはずっと心配ばかりかけてきた。結婚も就職もしないで好き勝手に、自由気ままに生きて来たのだ。そして親たちはそれを赦してくれたのだ。キビシイ親ならとっくに勘当ものである。
ならば、これまでの恩を返さねばならないし、ある意味「年貢」も収めないとならないはずだ。
命のバトンを手渡すのが生きること、生殖だとするならば、我は不孝にも親たちに背いて次世代にそれを渡せなかった。ならばこそ、今悔恨の思いで、親たちに詫びて報いねばなるまい。それこそが介護であろう。
語弊や異論あるかと思うがあえて記す。子や孫をつくった者は、その自らの親たちに不孝であっても赦されるのである。何故ならば親たちには孫たちというしっかりした係累、命の絆を示せたのだから。
つまり祖先から代々受け継いできた遺伝子のバトンを次へと手渡せたならもう生物学的には老いた者はそれを見届ければただ死に行くので良いのである。
話が長く脱線した。自由と憲法改定についてこそ書きたいことだった。明日もう一回書き足したい。
努力の先にあるものを信じて ― 2016年05月05日 14時59分36秒
★空白の四月を乗り越えて
今年のゴールデンウィークも今日で実質終わる。よほど暇な会社や余裕ある人は明日も休みにして8日の日曜まで連休とするかもしれないが、現今の情勢ではそんな悠長な人はまずいないと思う。
皆さまどうお過ごしのことだろうか。熊本の被災地までボランティアに出向かれた方もいるかもしれない。
数年前までは、ご存知のように我は、大阪での春一番コンサートに毎年この季節は大型連休の間まるまる出かけていた。ついでに大阪のみならず堺や京都まで寄って、その地の友人知人たちとも久闊を叙していた。
だからときに、一週間以上も家を空けることになり、その頃もだいぶ親たちが衰えてきてもいたので、毎回出かけることに迷い、しかしどうしても行きたくて、けっきょく無理して決めて行き、果たして留守の間は家のほうは大丈夫であったかと不安な気持ちで戻って来ていた。コンサートの楽しみもだが、向うで年に一度会いたい人たちがたくさんいたのである。
幸い長い留守しても犬たちの世話も含めて、老いて来た親たちは何とか頑張って家のことは二人で無事にこなしてくれていた。
しかし、主宰者風太の相方、阿部ちゃんが亡くなってからの春一は、管理と規制がやたら厳しくなってしまい、すっかり雰囲気が一変してしまった。我は向うでも彼らとすったもんだあって、けっきょく無理して行くこともないと悟ってもう今は完全に関係を断った。今思えばちょうど頃合いであり、いずれにせよもう老親に託して一週間も家は空けられなくなって来ていたその時期であったのだ。
今こういう状況になって、かつては、ほんの数年前の話なのだけれど、そんな風に自由に、何日も家のことを親たちに任せて遊び歩けたのは夢のような気さえする。
そんな風にできたのは良いことだったし、そんなゴールデンウィークを何年も何回も過ごせたのだから懐かしい思い出だ。もし、また時間が許すようになればまたそんな風に、春一番が続いているならば訪れてみたいとも思うが、それはコンサートそのものではなく、あの場所、吹田の「緑地公園」という駅から会場までの新緑いっぱいの公園を抜けていく道筋であり、御堂筋線での天王寺からのじゃんじゃん横丁や西成のドヤを改装した格安バックパッカー向けホテルだったり、そうした東京にはないディープな思い出の場所の数々だ。
いつかまたこの爽やかな良い季節に、関西の地で、向うの友人たちとぼんやりのんびりと昼間から缶ビールなど片手に語らう日が来るだろうか。
さて、今月のその大型連休は、我はひたすら時間許す限り眠り続けた。
季節の変わり目ということもあるのだろうが、それだけ疲れが溜まって来たのであろう。今は立川の病院へ父を見舞いに行くのは一日に一回にしてもらったが、それと家にいる母や犬猫たちの世話、食事つくったりあれこれ何やら家事を終わらすだけでもうくたくたで、夜は遅くまで起きていられない。
朝も犬たちが騒ぐので前は午前5時乃至6時前には起きて散歩済ませてそれから母が起きて来るまでブログ書いたりパソコンに向かう自分の時間があった。
が、それだと夕方になると疲労で頭痛がひどくふらふらになって起きてられない。仕方なく朝は一度そんな時間に目が覚めたとしても、また寝直したり、このところは犬たちがどんなに吠えようともう体が動かず8時頃までも無理続けてしまう。
また、連休の間は本の発送も猶予されていたので、昼食後も夕方まで深く昼寝したり、ともかくひたすら眠ってばかりいた。
で、夜はそれで夜更かしできれば良いのだが、夕飯を食べ夜の犬の散歩を済ますともう倦怠感で目も開けていられず、いつも零時頃には寝てしまう。
そんなでブログすら書けずに、今頃になって、少し書きかけたものの寝てしまい中途のままで更新できなかった分のを書き足している。
けっきょく、先月四月は、親たちの騒動で全く何一つ自分のことはできなかった。家のことも我が事も含めてまるまる空白の一か月であった。
今月はそうであってはならないと今心しているし、最悪の時期はとりあえず乗り切ったとも思えるので、これから少しづつでも親たちのこと、介助しつつ我が事も進めていく。まずは今できるすべきことからだ。
じっさいのところ、今のこの状況、我当人としてはちっとも辛くも大変でもない。かなり疲労感は溜まってはいるが、無理せずじかんみつけては横になったり眠っては癒している。苦しいのは、自分が関係している音楽のことが進められずその関連の人たちとも会えないことで、親たちを思うと時間が過ぎていくのは良しとしえどもそれを理由に不誠実であるのはそろそろ限界の気持ちになってきている。
大型連休も終わる。そろそろ何とかこの態勢を整えて、この状況、このライフスタイルの中でも少しでもやるべきこと、今できることをやっていくことだろう。
今は苦難の時でも苦労でも艱難辛苦でも何でもない。大事なことはとにもかくにも精いっぱい「努力」していくだけだ。その努力の先に待っているものは勝利だとは限らない。が、努力の先にはきっとそれに報いる何かがあると信じて自らを鼓舞してやっていこうと思う。
今年のゴールデンウィークも今日で実質終わる。よほど暇な会社や余裕ある人は明日も休みにして8日の日曜まで連休とするかもしれないが、現今の情勢ではそんな悠長な人はまずいないと思う。
皆さまどうお過ごしのことだろうか。熊本の被災地までボランティアに出向かれた方もいるかもしれない。
数年前までは、ご存知のように我は、大阪での春一番コンサートに毎年この季節は大型連休の間まるまる出かけていた。ついでに大阪のみならず堺や京都まで寄って、その地の友人知人たちとも久闊を叙していた。
だからときに、一週間以上も家を空けることになり、その頃もだいぶ親たちが衰えてきてもいたので、毎回出かけることに迷い、しかしどうしても行きたくて、けっきょく無理して決めて行き、果たして留守の間は家のほうは大丈夫であったかと不安な気持ちで戻って来ていた。コンサートの楽しみもだが、向うで年に一度会いたい人たちがたくさんいたのである。
幸い長い留守しても犬たちの世話も含めて、老いて来た親たちは何とか頑張って家のことは二人で無事にこなしてくれていた。
しかし、主宰者風太の相方、阿部ちゃんが亡くなってからの春一は、管理と規制がやたら厳しくなってしまい、すっかり雰囲気が一変してしまった。我は向うでも彼らとすったもんだあって、けっきょく無理して行くこともないと悟ってもう今は完全に関係を断った。今思えばちょうど頃合いであり、いずれにせよもう老親に託して一週間も家は空けられなくなって来ていたその時期であったのだ。
今こういう状況になって、かつては、ほんの数年前の話なのだけれど、そんな風に自由に、何日も家のことを親たちに任せて遊び歩けたのは夢のような気さえする。
そんな風にできたのは良いことだったし、そんなゴールデンウィークを何年も何回も過ごせたのだから懐かしい思い出だ。もし、また時間が許すようになればまたそんな風に、春一番が続いているならば訪れてみたいとも思うが、それはコンサートそのものではなく、あの場所、吹田の「緑地公園」という駅から会場までの新緑いっぱいの公園を抜けていく道筋であり、御堂筋線での天王寺からのじゃんじゃん横丁や西成のドヤを改装した格安バックパッカー向けホテルだったり、そうした東京にはないディープな思い出の場所の数々だ。
いつかまたこの爽やかな良い季節に、関西の地で、向うの友人たちとぼんやりのんびりと昼間から缶ビールなど片手に語らう日が来るだろうか。
さて、今月のその大型連休は、我はひたすら時間許す限り眠り続けた。
季節の変わり目ということもあるのだろうが、それだけ疲れが溜まって来たのであろう。今は立川の病院へ父を見舞いに行くのは一日に一回にしてもらったが、それと家にいる母や犬猫たちの世話、食事つくったりあれこれ何やら家事を終わらすだけでもうくたくたで、夜は遅くまで起きていられない。
朝も犬たちが騒ぐので前は午前5時乃至6時前には起きて散歩済ませてそれから母が起きて来るまでブログ書いたりパソコンに向かう自分の時間があった。
が、それだと夕方になると疲労で頭痛がひどくふらふらになって起きてられない。仕方なく朝は一度そんな時間に目が覚めたとしても、また寝直したり、このところは犬たちがどんなに吠えようともう体が動かず8時頃までも無理続けてしまう。
また、連休の間は本の発送も猶予されていたので、昼食後も夕方まで深く昼寝したり、ともかくひたすら眠ってばかりいた。
で、夜はそれで夜更かしできれば良いのだが、夕飯を食べ夜の犬の散歩を済ますともう倦怠感で目も開けていられず、いつも零時頃には寝てしまう。
そんなでブログすら書けずに、今頃になって、少し書きかけたものの寝てしまい中途のままで更新できなかった分のを書き足している。
けっきょく、先月四月は、親たちの騒動で全く何一つ自分のことはできなかった。家のことも我が事も含めてまるまる空白の一か月であった。
今月はそうであってはならないと今心しているし、最悪の時期はとりあえず乗り切ったとも思えるので、これから少しづつでも親たちのこと、介助しつつ我が事も進めていく。まずは今できるすべきことからだ。
じっさいのところ、今のこの状況、我当人としてはちっとも辛くも大変でもない。かなり疲労感は溜まってはいるが、無理せずじかんみつけては横になったり眠っては癒している。苦しいのは、自分が関係している音楽のことが進められずその関連の人たちとも会えないことで、親たちを思うと時間が過ぎていくのは良しとしえどもそれを理由に不誠実であるのはそろそろ限界の気持ちになってきている。
大型連休も終わる。そろそろ何とかこの態勢を整えて、この状況、このライフスタイルの中でも少しでもやるべきこと、今できることをやっていくことだろう。
今は苦難の時でも苦労でも艱難辛苦でも何でもない。大事なことはとにもかくにも精いっぱい「努力」していくだけだ。その努力の先に待っているものは勝利だとは限らない。が、努力の先にはきっとそれに報いる何かがあると信じて自らを鼓舞してやっていこうと思う。
自由とは失ってからわかるもの・続き ― 2016年05月07日 15時19分11秒
★憲法を変えたら戦時において個人の人権はなくなってしまう
今骨折で入院中の九十歳を超えた我が父は、第二次世界大戦、太平洋戦争に参加した元日本軍兵士である。一兵卒として戦争末期に徴収され、中国大陸で終戦を迎えた。むろん戦闘行為にも参加している。
何とか戦死せずケガもせずに無事日本に戻れたから今の我、マス坊が存在しているわけで、そもそもそれが前提だから不思議でも何でもないと言われればその通りだが、父が無事で良かった有難いことだと思ってしまう。
その父であるが、大正末の生まれの人にしては大男で、昔でいう「六尺男」であった。一尺が約30㎝だとすれば180㎝の偉丈夫である。
さすがに今は老いすべてが萎え衰えて背も丸くなり体重も減ったが、今でも中肉中背の我、=息子よりも一回りデカい大男なのである。
だから当然足もバカでかく、27.5~28㎝の靴でないと彼の足に合う靴がない。今は日本人は男も女も大きい人が多いからいくらでもそのサイズの靴は街にあふれている。が、昔は、男でも160㎝ぐらいが標準だった時代、戦前ではそうした大男たちは合う靴を探すのは一苦労であったかと思える。
そしてそれは軍隊でも同じ話で、父から聞いた話だったと思うが、入隊に際して、兵士として支給された靴が小さくてきつい。サイズが合わないと、申し出ると、「バカ野郎! 靴を足に合わせるのではなく、足を靴に合わせろ!」と怒鳴られたそうだ。
どう思われるだろうか。非常識であろう。しかし軍隊とはそうしたもので、全てが画一的であり個人の事情や状況は忖度されない。抗えば殴られ抵抗すれば重営倉入りである。※「じゅうえいそう」とは、陸軍の下級兵士に対する監獄のような部屋のこと。
安倍首相が、今の平和憲法は、自衛隊などが存在している現状の「現実」と照らし合わせたとき、多くの憲法学者が違憲だと指摘しているから憲法を早く改正しないとならないと話していたが、それを聴いたときふっと頭に浮かんだのは、入隊に際してこの父の大足の話であった。
そもそもが違憲なのである。違憲だと思い認めるならば正しく合うように改めるべきであろう。それを逆に、違憲だから憲法そのものを変えて現実に合わせようというのは本末転倒としか言いようがないではないか。まさにきつい靴に足のほうを合わせろと強いるものに等しいではないか。
昨秋無理やり強行採決末成立させた戦争法だって、完全に違憲なのである。日本の大多数の憲法学者や法律家たちが違憲だと指摘している。それは安倍晋三も認識しているはずだ。が、彼は成立時には合憲の範囲内だと強弁し、今は、違憲だと言うのならば憲法の方を改正を!というスタンスなのであろう。
いずれにせよ、どのような屁理屈つけても悲願の憲法改定を成し遂げたいという強い執念は伝わってくる。
そして参院選も「憲法改正」を争点に堂々と訴えていくとしている。しかし、げんじつの話、国民の多くはそんなことは争点だとも今慌てて改正しないとならない喫緊の課題だと考えている人たちはどんな世論調査でも少数で、まして憲法九条を変えることについては否定的な考えを持つ人のほうが絶対的に多い。
しかし、争点にしようとしまいと仮にまた自公が大勝してしまえば信任を得たとして憲法改正は現実の話となっていく。そして憲法は変えられた結果どんな国に日本はなっていくのか、そして戦争及び有事の際はどんな状況が起こるのか考えてみたい。
※なお、「憲法改正」という言葉は、「改正」、つまり改めて正しくしていく、という意味だとすれば、今のそれが正しくないということにも繋がるしそうしたイメージを無意識的にも強く与える。サヨク的には、「改悪」という言葉を用いているが、我としては「改定」、つまり改めて定めるという程度にしておきたい。
もう一回だけ書き足したい。
今骨折で入院中の九十歳を超えた我が父は、第二次世界大戦、太平洋戦争に参加した元日本軍兵士である。一兵卒として戦争末期に徴収され、中国大陸で終戦を迎えた。むろん戦闘行為にも参加している。
何とか戦死せずケガもせずに無事日本に戻れたから今の我、マス坊が存在しているわけで、そもそもそれが前提だから不思議でも何でもないと言われればその通りだが、父が無事で良かった有難いことだと思ってしまう。
その父であるが、大正末の生まれの人にしては大男で、昔でいう「六尺男」であった。一尺が約30㎝だとすれば180㎝の偉丈夫である。
さすがに今は老いすべてが萎え衰えて背も丸くなり体重も減ったが、今でも中肉中背の我、=息子よりも一回りデカい大男なのである。
だから当然足もバカでかく、27.5~28㎝の靴でないと彼の足に合う靴がない。今は日本人は男も女も大きい人が多いからいくらでもそのサイズの靴は街にあふれている。が、昔は、男でも160㎝ぐらいが標準だった時代、戦前ではそうした大男たちは合う靴を探すのは一苦労であったかと思える。
そしてそれは軍隊でも同じ話で、父から聞いた話だったと思うが、入隊に際して、兵士として支給された靴が小さくてきつい。サイズが合わないと、申し出ると、「バカ野郎! 靴を足に合わせるのではなく、足を靴に合わせろ!」と怒鳴られたそうだ。
どう思われるだろうか。非常識であろう。しかし軍隊とはそうしたもので、全てが画一的であり個人の事情や状況は忖度されない。抗えば殴られ抵抗すれば重営倉入りである。※「じゅうえいそう」とは、陸軍の下級兵士に対する監獄のような部屋のこと。
安倍首相が、今の平和憲法は、自衛隊などが存在している現状の「現実」と照らし合わせたとき、多くの憲法学者が違憲だと指摘しているから憲法を早く改正しないとならないと話していたが、それを聴いたときふっと頭に浮かんだのは、入隊に際してこの父の大足の話であった。
そもそもが違憲なのである。違憲だと思い認めるならば正しく合うように改めるべきであろう。それを逆に、違憲だから憲法そのものを変えて現実に合わせようというのは本末転倒としか言いようがないではないか。まさにきつい靴に足のほうを合わせろと強いるものに等しいではないか。
昨秋無理やり強行採決末成立させた戦争法だって、完全に違憲なのである。日本の大多数の憲法学者や法律家たちが違憲だと指摘している。それは安倍晋三も認識しているはずだ。が、彼は成立時には合憲の範囲内だと強弁し、今は、違憲だと言うのならば憲法の方を改正を!というスタンスなのであろう。
いずれにせよ、どのような屁理屈つけても悲願の憲法改定を成し遂げたいという強い執念は伝わってくる。
そして参院選も「憲法改正」を争点に堂々と訴えていくとしている。しかし、げんじつの話、国民の多くはそんなことは争点だとも今慌てて改正しないとならない喫緊の課題だと考えている人たちはどんな世論調査でも少数で、まして憲法九条を変えることについては否定的な考えを持つ人のほうが絶対的に多い。
しかし、争点にしようとしまいと仮にまた自公が大勝してしまえば信任を得たとして憲法改正は現実の話となっていく。そして憲法は変えられた結果どんな国に日本はなっていくのか、そして戦争及び有事の際はどんな状況が起こるのか考えてみたい。
※なお、「憲法改正」という言葉は、「改正」、つまり改めて正しくしていく、という意味だとすれば、今のそれが正しくないということにも繋がるしそうしたイメージを無意識的にも強く与える。サヨク的には、「改悪」という言葉を用いているが、我としては「改定」、つまり改めて定めるという程度にしておきたい。
もう一回だけ書き足したい。
自由とは失ってからわかるもの・まとめ ― 2016年05月08日 06時10分43秒
★「非国民」として生きたくないけれど。
よく若い人たちが言う意見に、戦争はもちろん良くないが、周りに無法な国家がたくさんあるのに、戦争ができないような憲法は良くないという声がある。つまり軍事的挑発には「敵」に舐められないよう、軍事的に毅然と対処しないとならない。そのためには交戦権やらいくつか現行憲法では認められていない部分を改正して戦争ができるようにしておくべきだという論である。まあ、それを言えば「自衛隊」という軍隊を持つことだって本来違憲なのである。ゆえに自民党の憲法草案では、はっきりと「軍隊」だと記している。
自民党の幹部たちも同様に言う。持っている軍事力を堂々と駆使できるようにするためにも集団的自衛権の行使のみならず、後方支援などでなく前線で同盟国と伍して本格的に戦えるように憲法を変えたいという思惑であろう。
つまるところ、非戦とか不戦の誓いとかいうのは幻想、甘っちょろいユートピア論であり、テロリストたち敵、無法国家はいつ侵略や攻撃してくるかわからない。戦争という必要悪でもそれを了として、いつでも即戦争が出来るよう憲法も含めた環境を整えておかねばならないという論である。それが責任ある安全保障ということだと。
先日北朝鮮労働党の党大会取材に関したニュースで、向うの大学生だという男が流暢な英語で、アメリカなど敵国は核兵器を持ち、いつこちらを攻撃してくるかわからない。だから我が国も自衛のためには当然の権利として核兵器を持つのだとまくし立てていた。
まあ、一理ある。そう、核兵器廃絶を迫るならばまず核保有国自らが自国の核兵器を全て廃止してからであろう。それをせずに新たに核保有国に対して核を捨てろというのは道理に合わないし納得できない。
とにもかくにも国という国がそれぞれ軍事力を増強し核兵器を保有して行けば、再びかつての冷戦時代のように一触即発の核戦争勃発の恐怖に誰もが怯え、力と力の対立の終わりは地球の破滅以外にはありえない。戦争抑止力としての核の保有、ひいては軍拡競争の末に軍事力増強で優位に立とうと願うは現実の話、きりがなく無意味なのである。
さておき、では仮に憲法が自民党案のように改定されて、実際にどこかの国と戦争が始まったとする。今までは我が国は「専守防衛」しかできなかったから、戦争=戦闘行為とは、他国が我が国の領土に侵攻してくる以外起こるはずもなかった。つまり現実的にはまさに今の憲法のおかげで戦争は起こりようがなかったのである。だから70年間も長く日本は戦争で誰一人殺されず誰一人殺さないですんだのだ。そんなことは世界史の中でも奇跡のような事例なのだ。
しかし、仮に同盟国アメリカが中近東のどこそかで戦争を起こせば集団的自衛権行使として日本も参戦しないとならない。それは国連の承認も関係ないし有志連合のようにいくつもの国が参加してなくても関係ない。大事なパートナーの有事に我が国も勇んで駆けつけていく。そうして日本の内地以外のどこかで戦争が起きて「戦時下」となったとたんに、緊急事態条項の適用、日本は国家の命令として「非常事態宣言」し戒厳令下に国民全ては置かれる。
そうなれば、今ある数々の自由、言論や表現、執筆、報道、集会の自由も制限されるし、反戦集会のような催しですら国威発揚に影響するとして禁止もされよう。
それ以前に、まず反戦を叫び、国家体制に反対し集う者たちは、常に監視されて敵国のスパイ、もしくはテロ容疑者としてやがて逮捕されるであろう。
それは国家権力がすることだが、国民の多くも国防軍の人たちが命かけて戦っている非常時に不謹慎だと、戦争に協力しない者たちを批判し白眼視していくことだろう。あの9.11の直後、ブッシュが仕掛けた報復戦争の頃の米国を思い出してもらいたい。
愛国心ある愛国者は賛美され、戦争に非協力的な者は迫害されていく。ひとたび戦争が起こればそれは当然のことだ。
そもそも民主的で自由な戦争なんてこの世に存在しない。国家一丸となって国民総動員、一億総活躍ならぬ総火の玉になって戦わないと勝てやしないではないか。内地で足を引っ張る者こそまず「敵」なのである。
そのときに個人の自由や人権は国家=公の前には下位とされる。改定される自民党の憲法にははっきりそう記してある。
そんな時代になったら、我が今しているような気軽に仲間たちが集い人前で歌うことすら禁じられてしまうだろう。政府主催の戦意高揚のためのコンサートでは、君が代や新しく公募された兵士応援のためのキャンペーンソングは唄われるだろうが。
※このブログも我は書き続けて行きたくともプロバイダのほうで、当局の要請=圧力に沿ってもうアップできないようにされることは間違いない。つまりもう誰もその思いを自由に表現できなくなっていく。
我はそのとき「非国民」と呼ばれるのは間違いない。その覚悟もなくはない。しかし、そんな時代が来るのはまっぴらごめんだし、そのためにもまず「戦争法」を廃止せねばならない。現行の平和憲法は絶対に変えてはならない。
安倍晋三にすれば、違憲承知の法律も通したので戦争が出来る枠組はほぼできた、仕上げは悲願の「憲法改正」だが、それもゴールが見えて来たという達成感があろう。
だが、それだけは絶対に許してはならない。自由とは失ってから気がつくものである。失ってからではもう手遅れなのだ。
某隣国のような無法国家があったとしても戦争をすること、戦争に参加することが国際貢献ではない。真の国際貢献とは、戦争をしないということで、戦争をこの地球上から無くしていくというロジックを示していくことだと我は考える。先進テクノロジーと漫画と和食と観光しか資源のない小国日本が生きていくのは日本国憲法=「平和」を輸出していくしかないではないか。その全てが平和があってこそ世界に求められるものなのだから。
よく若い人たちが言う意見に、戦争はもちろん良くないが、周りに無法な国家がたくさんあるのに、戦争ができないような憲法は良くないという声がある。つまり軍事的挑発には「敵」に舐められないよう、軍事的に毅然と対処しないとならない。そのためには交戦権やらいくつか現行憲法では認められていない部分を改正して戦争ができるようにしておくべきだという論である。まあ、それを言えば「自衛隊」という軍隊を持つことだって本来違憲なのである。ゆえに自民党の憲法草案では、はっきりと「軍隊」だと記している。
自民党の幹部たちも同様に言う。持っている軍事力を堂々と駆使できるようにするためにも集団的自衛権の行使のみならず、後方支援などでなく前線で同盟国と伍して本格的に戦えるように憲法を変えたいという思惑であろう。
つまるところ、非戦とか不戦の誓いとかいうのは幻想、甘っちょろいユートピア論であり、テロリストたち敵、無法国家はいつ侵略や攻撃してくるかわからない。戦争という必要悪でもそれを了として、いつでも即戦争が出来るよう憲法も含めた環境を整えておかねばならないという論である。それが責任ある安全保障ということだと。
先日北朝鮮労働党の党大会取材に関したニュースで、向うの大学生だという男が流暢な英語で、アメリカなど敵国は核兵器を持ち、いつこちらを攻撃してくるかわからない。だから我が国も自衛のためには当然の権利として核兵器を持つのだとまくし立てていた。
まあ、一理ある。そう、核兵器廃絶を迫るならばまず核保有国自らが自国の核兵器を全て廃止してからであろう。それをせずに新たに核保有国に対して核を捨てろというのは道理に合わないし納得できない。
とにもかくにも国という国がそれぞれ軍事力を増強し核兵器を保有して行けば、再びかつての冷戦時代のように一触即発の核戦争勃発の恐怖に誰もが怯え、力と力の対立の終わりは地球の破滅以外にはありえない。戦争抑止力としての核の保有、ひいては軍拡競争の末に軍事力増強で優位に立とうと願うは現実の話、きりがなく無意味なのである。
さておき、では仮に憲法が自民党案のように改定されて、実際にどこかの国と戦争が始まったとする。今までは我が国は「専守防衛」しかできなかったから、戦争=戦闘行為とは、他国が我が国の領土に侵攻してくる以外起こるはずもなかった。つまり現実的にはまさに今の憲法のおかげで戦争は起こりようがなかったのである。だから70年間も長く日本は戦争で誰一人殺されず誰一人殺さないですんだのだ。そんなことは世界史の中でも奇跡のような事例なのだ。
しかし、仮に同盟国アメリカが中近東のどこそかで戦争を起こせば集団的自衛権行使として日本も参戦しないとならない。それは国連の承認も関係ないし有志連合のようにいくつもの国が参加してなくても関係ない。大事なパートナーの有事に我が国も勇んで駆けつけていく。そうして日本の内地以外のどこかで戦争が起きて「戦時下」となったとたんに、緊急事態条項の適用、日本は国家の命令として「非常事態宣言」し戒厳令下に国民全ては置かれる。
そうなれば、今ある数々の自由、言論や表現、執筆、報道、集会の自由も制限されるし、反戦集会のような催しですら国威発揚に影響するとして禁止もされよう。
それ以前に、まず反戦を叫び、国家体制に反対し集う者たちは、常に監視されて敵国のスパイ、もしくはテロ容疑者としてやがて逮捕されるであろう。
それは国家権力がすることだが、国民の多くも国防軍の人たちが命かけて戦っている非常時に不謹慎だと、戦争に協力しない者たちを批判し白眼視していくことだろう。あの9.11の直後、ブッシュが仕掛けた報復戦争の頃の米国を思い出してもらいたい。
愛国心ある愛国者は賛美され、戦争に非協力的な者は迫害されていく。ひとたび戦争が起こればそれは当然のことだ。
そもそも民主的で自由な戦争なんてこの世に存在しない。国家一丸となって国民総動員、一億総活躍ならぬ総火の玉になって戦わないと勝てやしないではないか。内地で足を引っ張る者こそまず「敵」なのである。
そのときに個人の自由や人権は国家=公の前には下位とされる。改定される自民党の憲法にははっきりそう記してある。
そんな時代になったら、我が今しているような気軽に仲間たちが集い人前で歌うことすら禁じられてしまうだろう。政府主催の戦意高揚のためのコンサートでは、君が代や新しく公募された兵士応援のためのキャンペーンソングは唄われるだろうが。
※このブログも我は書き続けて行きたくともプロバイダのほうで、当局の要請=圧力に沿ってもうアップできないようにされることは間違いない。つまりもう誰もその思いを自由に表現できなくなっていく。
我はそのとき「非国民」と呼ばれるのは間違いない。その覚悟もなくはない。しかし、そんな時代が来るのはまっぴらごめんだし、そのためにもまず「戦争法」を廃止せねばならない。現行の平和憲法は絶対に変えてはならない。
安倍晋三にすれば、違憲承知の法律も通したので戦争が出来る枠組はほぼできた、仕上げは悲願の「憲法改正」だが、それもゴールが見えて来たという達成感があろう。
だが、それだけは絶対に許してはならない。自由とは失ってから気がつくものである。失ってからではもう手遅れなのだ。
某隣国のような無法国家があったとしても戦争をすること、戦争に参加することが国際貢献ではない。真の国際貢献とは、戦争をしないということで、戦争をこの地球上から無くしていくというロジックを示していくことだと我は考える。先進テクノロジーと漫画と和食と観光しか資源のない小国日本が生きていくのは日本国憲法=「平和」を輸出していくしかないではないか。その全てが平和があってこそ世界に求められるものなのだから。
アメリカ型資本主義の終焉~トランプ氏とサンダース氏の台頭 ― 2016年05月10日 06時29分03秒
★こうして歴史は繰り返していくのか。
そこに時代背景もその国の事情も関係しているのだろうが、経済が停滞し既成政治が混迷し閉塞状況が生まれ、国民の間で不満が高まってくると台頭してくるものが二つある。
ファシズムと共産主義である。そんなこと、ちょっこと歴史を勉強した方なら今さら説明不要であろう。
その二つは大衆の不満や鬱屈した思いに訴えかけ支持を広げていく。その思想は両極端であるが、閉塞した現状を変えるにはそのどちらかしか無いと大衆は二分される。そして、残念なことに勝つのはたいていファシズムのほうで、ナチズムの台頭~ヒトラー独裁政権により大二次大戦となり世界は混乱と破滅の危機に陥ったのは歴史的事実である。
そして日本でも戦前の大不況下に社会主義、共産主義は支持を広げたが当局に弾圧され多くの主義者が転向したり投獄された。同様な事態は世界中で今も続いている。
問題の人というか、話題の共和党の大統領候補、ドナルド・トランプ氏が登場した今のアメリカ社会も似たような状況で、彼の言動を見ているとまさにヒトラーという稀代のファシストが登場してきたときを彷彿させられる。そしてそこに、民主党には、バーニー・サンダースという、民主社会主義者がクリントン女史を追っている。
サンダース氏が民主党の大統領候補に指名される可能性は低いとされているが、トランプとサンダースという、ファシストと社会主義者とが共に大きく支持を広げている現実にアメリカという超大国の抱えている問題の大きさが窺い知れよう。
アメリカは今も昔も世界で最も豊かな国であり、経済、軍事、資源共に誇って来た超大国である。しかし、今は貧富の差が拡大して、それまでいたミドルクラス、金持と貧困層の間にいた中間層の人たち、日本でいうところの「中流」層が貧困に陥り激減し、富める者と貧者のとの格差が近年とみに大きくなってしまっている。
かつては移民大国アメリカは、そこに行けば、機会が与えられ努力次第で誰でも金持ち、勝者になれるアメリカンドリームの国とされてきた。
が、度重なる戦争で国家自体が疲弊し経済も弱って来て貧しい者はホームレスに、犯罪や麻薬に手を染め、ごくごく一部の富裕層は、万全のセキュリティで守られ貧しい小国の国家予算にも匹敵する金を思うままに手に入れている。
カードやローンが支払えず貧困と失業に喘いでいる多くの国民の高まる不満に対して、トランプ氏は、既成の政治家たちの無能のせいだと非難し不法移民が後を絶たないメキシコとの間に彼らが入って来れないよう壁を拵えると訴えて喝采浴びていた。それが現実的に可能かはともかく、そこにナチスがとったユダヤ人政策と同様の発想を感じるのは我だけか。
政治には全くの素人で既成の政治家たちを攻撃する、「不動産王」という肩書きだけが売りの彼を支持する貧困層は、金儲けに長けている人ならば経済もうまくやってくれるはずだという期待があるに違いない。日本でも成功者人気は低所得層ほど高いとかで、一時のホリエモンのように成功した企業家を政治家に、というニーズはどこの国でもあるらしい。
一方、元は無所属で活動していたユダヤ人、サンダース氏は、米国初の社会主義者の上院議員であり、その思想や言動は明快だ。確か、彼の弟か兄は英国で緑の党の人だったと記憶する。
彼は、閉塞した米国社会をもたらしたのは富の偏りが原因だとして富の再配分を訴えている。我もまた「赤」だから彼の政策には大いに共感するしアメリカ人だったならば彼を支持していただろう。彼はごく当たり前の経済の常識を語っているに過ぎない。
じっさいのところ、巨大資本主義国家アメリカの社会で本来は水と油である社会主義者が、大統領候補に肉薄しているということ自体が異例かつ異常な事態なわけで、それだけ米国社会を覆っている貧困という闇が大きい証だとわかるものだ。
他国の大統領選挙の、しかもまだ本戦でもない。しかし、もっとも成功したはずの資本主義の本家本元の米国で、トランプ氏とサンダース氏という両極端が支持を広げていることはもはやこの主義のシステムが限界に達したと言えるかと思う。
拡大する貧困は、世界中に広がっている。それは日本でも韓国でも中国でも全く同じだ。地球上にある富は常に一定だという法則がある。それで貧困層が増えているということは、それだけごくごく一部の富裕層にさらに富が偏っているからである。
昔から、富=金の配分はパイの切り分けに例えられる。一部の人がたくさん切り取ってしまえば、後の人の分はごくごく薄く、小さくなってしまう。皆には行きわたらない。人が食べられる量は一定なのだからそれぞれ行きわたるよう正しく分配すれば良いのである。が、金持は強欲だから、金は腐らないからますます溜め込んでいくのである。
この日本でもまったく同じで、金持はますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏に、貧困は固定され一度貧困に陥ったら生涯抜け出せないだけでなく、代々貧困は世襲されていく。貧乏で学校にも行けない子が21世紀にいるのである。
アベノミクスが始まって4年になるかと思う。あなたはそれで収入が増えましたか。生活は楽になり貧困から抜け出せた人たちは、これからも自公政権を支持していく理由もあろう。
様々な調査でも、生活は変わらない、もしくは苦しくなったという人たちが増えている。確かに株価は少しは回復した。しかし、物価も上がり年金などは削られてちっとも生活は良くなってはいないではないか。株価の上昇は庶民とは一切関係ない。だって企業は儲かってもちっとも従業員には還元しない。いや、還元されるのは正社員だけで、相変わらず多くの派遣と下請けは使い捨てで金はそこにまで回らないからだ。
この国にはトランプ氏はいない。が、もっとやっかいなアベノミクスという経済の皮をかぶった詐欺師が、ファシズムの本質を隠して今もまだ支持を広げている。
参院選でも国民はまだ彼らに期待をかけ騙され続けるのであろうか。
そこに時代背景もその国の事情も関係しているのだろうが、経済が停滞し既成政治が混迷し閉塞状況が生まれ、国民の間で不満が高まってくると台頭してくるものが二つある。
ファシズムと共産主義である。そんなこと、ちょっこと歴史を勉強した方なら今さら説明不要であろう。
その二つは大衆の不満や鬱屈した思いに訴えかけ支持を広げていく。その思想は両極端であるが、閉塞した現状を変えるにはそのどちらかしか無いと大衆は二分される。そして、残念なことに勝つのはたいていファシズムのほうで、ナチズムの台頭~ヒトラー独裁政権により大二次大戦となり世界は混乱と破滅の危機に陥ったのは歴史的事実である。
そして日本でも戦前の大不況下に社会主義、共産主義は支持を広げたが当局に弾圧され多くの主義者が転向したり投獄された。同様な事態は世界中で今も続いている。
問題の人というか、話題の共和党の大統領候補、ドナルド・トランプ氏が登場した今のアメリカ社会も似たような状況で、彼の言動を見ているとまさにヒトラーという稀代のファシストが登場してきたときを彷彿させられる。そしてそこに、民主党には、バーニー・サンダースという、民主社会主義者がクリントン女史を追っている。
サンダース氏が民主党の大統領候補に指名される可能性は低いとされているが、トランプとサンダースという、ファシストと社会主義者とが共に大きく支持を広げている現実にアメリカという超大国の抱えている問題の大きさが窺い知れよう。
アメリカは今も昔も世界で最も豊かな国であり、経済、軍事、資源共に誇って来た超大国である。しかし、今は貧富の差が拡大して、それまでいたミドルクラス、金持と貧困層の間にいた中間層の人たち、日本でいうところの「中流」層が貧困に陥り激減し、富める者と貧者のとの格差が近年とみに大きくなってしまっている。
かつては移民大国アメリカは、そこに行けば、機会が与えられ努力次第で誰でも金持ち、勝者になれるアメリカンドリームの国とされてきた。
が、度重なる戦争で国家自体が疲弊し経済も弱って来て貧しい者はホームレスに、犯罪や麻薬に手を染め、ごくごく一部の富裕層は、万全のセキュリティで守られ貧しい小国の国家予算にも匹敵する金を思うままに手に入れている。
カードやローンが支払えず貧困と失業に喘いでいる多くの国民の高まる不満に対して、トランプ氏は、既成の政治家たちの無能のせいだと非難し不法移民が後を絶たないメキシコとの間に彼らが入って来れないよう壁を拵えると訴えて喝采浴びていた。それが現実的に可能かはともかく、そこにナチスがとったユダヤ人政策と同様の発想を感じるのは我だけか。
政治には全くの素人で既成の政治家たちを攻撃する、「不動産王」という肩書きだけが売りの彼を支持する貧困層は、金儲けに長けている人ならば経済もうまくやってくれるはずだという期待があるに違いない。日本でも成功者人気は低所得層ほど高いとかで、一時のホリエモンのように成功した企業家を政治家に、というニーズはどこの国でもあるらしい。
一方、元は無所属で活動していたユダヤ人、サンダース氏は、米国初の社会主義者の上院議員であり、その思想や言動は明快だ。確か、彼の弟か兄は英国で緑の党の人だったと記憶する。
彼は、閉塞した米国社会をもたらしたのは富の偏りが原因だとして富の再配分を訴えている。我もまた「赤」だから彼の政策には大いに共感するしアメリカ人だったならば彼を支持していただろう。彼はごく当たり前の経済の常識を語っているに過ぎない。
じっさいのところ、巨大資本主義国家アメリカの社会で本来は水と油である社会主義者が、大統領候補に肉薄しているということ自体が異例かつ異常な事態なわけで、それだけ米国社会を覆っている貧困という闇が大きい証だとわかるものだ。
他国の大統領選挙の、しかもまだ本戦でもない。しかし、もっとも成功したはずの資本主義の本家本元の米国で、トランプ氏とサンダース氏という両極端が支持を広げていることはもはやこの主義のシステムが限界に達したと言えるかと思う。
拡大する貧困は、世界中に広がっている。それは日本でも韓国でも中国でも全く同じだ。地球上にある富は常に一定だという法則がある。それで貧困層が増えているということは、それだけごくごく一部の富裕層にさらに富が偏っているからである。
昔から、富=金の配分はパイの切り分けに例えられる。一部の人がたくさん切り取ってしまえば、後の人の分はごくごく薄く、小さくなってしまう。皆には行きわたらない。人が食べられる量は一定なのだからそれぞれ行きわたるよう正しく分配すれば良いのである。が、金持は強欲だから、金は腐らないからますます溜め込んでいくのである。
この日本でもまったく同じで、金持はますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏に、貧困は固定され一度貧困に陥ったら生涯抜け出せないだけでなく、代々貧困は世襲されていく。貧乏で学校にも行けない子が21世紀にいるのである。
アベノミクスが始まって4年になるかと思う。あなたはそれで収入が増えましたか。生活は楽になり貧困から抜け出せた人たちは、これからも自公政権を支持していく理由もあろう。
様々な調査でも、生活は変わらない、もしくは苦しくなったという人たちが増えている。確かに株価は少しは回復した。しかし、物価も上がり年金などは削られてちっとも生活は良くなってはいないではないか。株価の上昇は庶民とは一切関係ない。だって企業は儲かってもちっとも従業員には還元しない。いや、還元されるのは正社員だけで、相変わらず多くの派遣と下請けは使い捨てで金はそこにまで回らないからだ。
この国にはトランプ氏はいない。が、もっとやっかいなアベノミクスという経済の皮をかぶった詐欺師が、ファシズムの本質を隠して今もまだ支持を広げている。
参院選でも国民はまだ彼らに期待をかけ騙され続けるのであろうか。
我が人生もリハビリ中 ― 2016年05月11日 21時58分24秒
★いちにち一日、少しづつ戻していく
実は、また母も入院していた。今日11日の水曜午後に退院となった。今回は一週間で退院できた。
先だって大型連休の最中、5日の子どもの日、夕時に昼に食べたものを全部戻して、便も出ないと苦しがったので、ちょうどその日は、父の夜の食事介助に行こうとしていたこともあり、そのまま母も乗せて立川の病院に行った。
休日の急患扱いだったので、脱水を抑えるため点滴入れてそのまままた入院となってしまった。退院してから二週間しか経っていない。
正直なところ、また腸閉塞か、ふり出しに戻ったかとさすがに気持ちは落ち込んだ。そうしたことを、またこの場で記せば、もう親たちが生きている間は、そうした病状と介護のことしか書かない闘病支援ブログとなってしまう。我としてもうんざりであった。
が、翌日行ったら、幸い今回は腸も動いていて、あれからまた良い便も自力で出せたとのことで、母は点滴は入れつつも翌日から食事に重湯も出された。ならばそんなに大事でないことがわかった。
そして食事もじょじょに普通食に戻されて、今週月曜に担当医と会い、退院予定日も相談の上出た。5日が木曜だったから今日でちょうど一週間である。
医師の話では、今回は腸閉塞ではなく、便秘からの体調不良だと言われ、食事に注意するよう、しかしあまり神経質にならないでと指導された。
これから母の食事はより注意が必要となるが、願わくば夫婦三度目のW入院だけは願い下げとしたい。病院内を行ったり来たり二人を交互に見舞うだけでもうへとへとになってしまう。
一方父のほうも、今日から病室がリハビリ専門の棟へと移った。前のような外科患者、それも高齢かつボケのある人を集められた四人部屋に比べると二人部屋でかなり広い。
基本そこでは、車椅子に日中は座らされ、病室とリハビリ専用ルームの往復が日課となる。食事もテレビのあるホールで車椅子に座って他の患者たちと共にとるようになった。もう我が食事に立ち会って介助しないでも良いようだ。
ただ、父がここに誤嚥性肺炎で入ったのが先月の11日だから、ちょうど一か月。途中で骨折さえなければとうに退院できたはずだが、まだまだ先は長い。
さすがに、人とあまり話さないから言葉は呂律が回らず不明瞭になってきたり、従来の認知症とは違う入院からのボケも出て来たようだ。リハビリの時間以外は、ひたすら眠ってしまったりと、ケガの回復と反比例して彼の気持ちも倦み疲れ萎えてきている。
このまま病院に預けっぱなしだと折った部分は治っても当人の意識が萎え朦朧としてしまいそもそも帰宅したいという強い意志すら覚束なくなりそうだ。
ならばやはり一日一回はともかく顔出してあれこれ話しかけたり犬猫の写真や映像を見せて気持ちを奮起させないとならない。
入院して一か月たったわけだが、訪れる側としてみると実にあっという間であった。あれこれ次々事態が新たにあったからだが、気がつけばひと月が過ぎていたのだ。
今の希望としては、今月末には同病院の系列の、青梅線東中神のほうの病院へと転院させたいと願っている。さすれば通う側からすれば少しは近くなるので楽になる。
今のところは、立川といっても矢川駅に近く、ほとんど国立市なのである。その希望がかなえば、通うに費やす時間も半分になるかと思う。それだけでもずいぶん違うはずだ。
そして・・・
四月頭の母の入院から我の人生も親たちの見舞いと介助だけでいっぱいになってしまい、まったく何もできないでいた。ライブどころか、誰にも会えなかった。※ウチにちょこっと来てくれた人はいたけれど。
我人生も萎えて、もう身動きできなくなってしまっていた。が、母も戻ってきたことだし、父のリハビリも本格化していくわけで、我もまたようやくだが、成すべきこと、今すべきできることを少しづつでも再開していかねばならない。いわば我もまたリハビリ開始である。
我が机周りも部屋も玄関すらめちゃくちゃだし、もうどこもかしこも足の踏み場のない状態になってしまった。今もまだ疲労が蓄積されてフラフラである。しかし、それでもこれから少しづつ、家も身も共に元に戻していきたいし、出来るはずだしそのつもりでいる。
焦り苛立つ気持ちは当然ある。しかし、少しは良い方向に風向きは変わって来たと思う。今までは本当にまったく時間がなく病院の往復だけで何もできなかった。これからは少しは時間もとれる。そしてできる時にその時間をうまく使っていくことだ。
むろんまた突発的問題事が起きるかもしれない。しかしそれもまたかまわない。それは起きた時に考える。今あれこれ思い煩わっても仕方ない。すべてその時はそのときだという気持ちでいる。それが今回学び得た教訓だ。
今までこのブログの読み手の方々にも大いにご心配おかけした。多くの励ましを頂いた。全てが本当に有難いことであった。これからはそれに報いていきたいと思う。ただ全てに感謝している。
皆様にも神の恵みとご加護がありますように祈ってます。
実は、また母も入院していた。今日11日の水曜午後に退院となった。今回は一週間で退院できた。
先だって大型連休の最中、5日の子どもの日、夕時に昼に食べたものを全部戻して、便も出ないと苦しがったので、ちょうどその日は、父の夜の食事介助に行こうとしていたこともあり、そのまま母も乗せて立川の病院に行った。
休日の急患扱いだったので、脱水を抑えるため点滴入れてそのまままた入院となってしまった。退院してから二週間しか経っていない。
正直なところ、また腸閉塞か、ふり出しに戻ったかとさすがに気持ちは落ち込んだ。そうしたことを、またこの場で記せば、もう親たちが生きている間は、そうした病状と介護のことしか書かない闘病支援ブログとなってしまう。我としてもうんざりであった。
が、翌日行ったら、幸い今回は腸も動いていて、あれからまた良い便も自力で出せたとのことで、母は点滴は入れつつも翌日から食事に重湯も出された。ならばそんなに大事でないことがわかった。
そして食事もじょじょに普通食に戻されて、今週月曜に担当医と会い、退院予定日も相談の上出た。5日が木曜だったから今日でちょうど一週間である。
医師の話では、今回は腸閉塞ではなく、便秘からの体調不良だと言われ、食事に注意するよう、しかしあまり神経質にならないでと指導された。
これから母の食事はより注意が必要となるが、願わくば夫婦三度目のW入院だけは願い下げとしたい。病院内を行ったり来たり二人を交互に見舞うだけでもうへとへとになってしまう。
一方父のほうも、今日から病室がリハビリ専門の棟へと移った。前のような外科患者、それも高齢かつボケのある人を集められた四人部屋に比べると二人部屋でかなり広い。
基本そこでは、車椅子に日中は座らされ、病室とリハビリ専用ルームの往復が日課となる。食事もテレビのあるホールで車椅子に座って他の患者たちと共にとるようになった。もう我が食事に立ち会って介助しないでも良いようだ。
ただ、父がここに誤嚥性肺炎で入ったのが先月の11日だから、ちょうど一か月。途中で骨折さえなければとうに退院できたはずだが、まだまだ先は長い。
さすがに、人とあまり話さないから言葉は呂律が回らず不明瞭になってきたり、従来の認知症とは違う入院からのボケも出て来たようだ。リハビリの時間以外は、ひたすら眠ってしまったりと、ケガの回復と反比例して彼の気持ちも倦み疲れ萎えてきている。
このまま病院に預けっぱなしだと折った部分は治っても当人の意識が萎え朦朧としてしまいそもそも帰宅したいという強い意志すら覚束なくなりそうだ。
ならばやはり一日一回はともかく顔出してあれこれ話しかけたり犬猫の写真や映像を見せて気持ちを奮起させないとならない。
入院して一か月たったわけだが、訪れる側としてみると実にあっという間であった。あれこれ次々事態が新たにあったからだが、気がつけばひと月が過ぎていたのだ。
今の希望としては、今月末には同病院の系列の、青梅線東中神のほうの病院へと転院させたいと願っている。さすれば通う側からすれば少しは近くなるので楽になる。
今のところは、立川といっても矢川駅に近く、ほとんど国立市なのである。その希望がかなえば、通うに費やす時間も半分になるかと思う。それだけでもずいぶん違うはずだ。
そして・・・
四月頭の母の入院から我の人生も親たちの見舞いと介助だけでいっぱいになってしまい、まったく何もできないでいた。ライブどころか、誰にも会えなかった。※ウチにちょこっと来てくれた人はいたけれど。
我人生も萎えて、もう身動きできなくなってしまっていた。が、母も戻ってきたことだし、父のリハビリも本格化していくわけで、我もまたようやくだが、成すべきこと、今すべきできることを少しづつでも再開していかねばならない。いわば我もまたリハビリ開始である。
我が机周りも部屋も玄関すらめちゃくちゃだし、もうどこもかしこも足の踏み場のない状態になってしまった。今もまだ疲労が蓄積されてフラフラである。しかし、それでもこれから少しづつ、家も身も共に元に戻していきたいし、出来るはずだしそのつもりでいる。
焦り苛立つ気持ちは当然ある。しかし、少しは良い方向に風向きは変わって来たと思う。今までは本当にまったく時間がなく病院の往復だけで何もできなかった。これからは少しは時間もとれる。そしてできる時にその時間をうまく使っていくことだ。
むろんまた突発的問題事が起きるかもしれない。しかしそれもまたかまわない。それは起きた時に考える。今あれこれ思い煩わっても仕方ない。すべてその時はそのときだという気持ちでいる。それが今回学び得た教訓だ。
今までこのブログの読み手の方々にも大いにご心配おかけした。多くの励ましを頂いた。全てが本当に有難いことであった。これからはそれに報いていきたいと思う。ただ全てに感謝している。
皆様にも神の恵みとご加護がありますように祈ってます。
祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・1 ― 2016年05月15日 22時05分18秒
★我のルーツを求めて
この土日、14日~15日は、栃木県栃木市藤岡町へ母連れて行っていた。ラムサール条約登録で知られる渡良瀬遊水地の中にある、谷中村である。そこは、母方の先祖代々の地である。
足尾銅山がもたらした鉱毒で、明治政府により村民全員が強制的に移転させられ「廃村」にさせられた。「谷中村」は義人田中正造の名と共に、日本の公害闘争の原点としても知られている。
2011年の3.11大震災による原発事故で、放射能という毒で、生活の場を奪われ故郷を追われた町民たちが今もたくさんいるという「現実」を思うとき、この地とそこに住んでいた者たちの無念の思いに今一度スポットをあてるべきではないかとも思う。
今日はその遊水地の近くの藤岡の公民館で、「谷中村の遺跡を守る会」の総会があり、谷中村の旧住民の子孫の一人として、母を講演会のパネラーとして出席させるべく連れて行ったのだ。
母は病み上がりとかいう以前に、退院してまだ2日しか経っていない。以前よりこのイベントに参加できるか何度も打診があった。が、癌を患い体調がはっきりしないこともあって、行くのはまず無理だろうと連絡してきた。
しかも、今月に入ってから一週間またしても入院していたばかりであり、体力も戻らず本来はまだ家で静養に努めなければならないはずである。しかし、母の強い希望で、生きているうちにもう一度親たちの生まれ育った地、母のルーツと言える谷中村の地に立ちたいという願いをかなえるため無理を承知で連れて行ったのだ。
先だって、圏央道も東北道に繋がり、行くのに所要時間も大幅に短縮されたことと、向うで親戚や多くの知人方に再会できたこともあり、母は幸いなことにすこぶる元気で体調も良く、皆に嬉しい驚きを与えることができた。
今回急に泊めて頂いた藤岡町の「遺跡を守る会」の前会長宅を夕方出て、約2時間で無事帰宅できたが、今もまだ母はコーフン冷めやらぬ上機嫌である。
正直なところ、果たして今の体調で行けるか、行けたとしても向うで容体悪くしてご迷惑かけるのでは、と金曜日の夜まであれこれ案じて、迷っていたが、結果として行って大正解、大成功であった。こんなに元気な母は久しぶりに見た。
今は、母より我の方が、疲労困憊と睡眠不足でもう限界なので、後ほど画像を交えて何回かに分けて、今回の母との我が一族を辿る度について記しておきたい。※ちなみに父は立川の病院に今も入院中で、この二日、見舞いに顔出せなかった。いちおう、出かけることは前日の金曜に伝えたが、明日行って理解しているだろうか。
この土日、14日~15日は、栃木県栃木市藤岡町へ母連れて行っていた。ラムサール条約登録で知られる渡良瀬遊水地の中にある、谷中村である。そこは、母方の先祖代々の地である。
足尾銅山がもたらした鉱毒で、明治政府により村民全員が強制的に移転させられ「廃村」にさせられた。「谷中村」は義人田中正造の名と共に、日本の公害闘争の原点としても知られている。
2011年の3.11大震災による原発事故で、放射能という毒で、生活の場を奪われ故郷を追われた町民たちが今もたくさんいるという「現実」を思うとき、この地とそこに住んでいた者たちの無念の思いに今一度スポットをあてるべきではないかとも思う。
今日はその遊水地の近くの藤岡の公民館で、「谷中村の遺跡を守る会」の総会があり、谷中村の旧住民の子孫の一人として、母を講演会のパネラーとして出席させるべく連れて行ったのだ。
母は病み上がりとかいう以前に、退院してまだ2日しか経っていない。以前よりこのイベントに参加できるか何度も打診があった。が、癌を患い体調がはっきりしないこともあって、行くのはまず無理だろうと連絡してきた。
しかも、今月に入ってから一週間またしても入院していたばかりであり、体力も戻らず本来はまだ家で静養に努めなければならないはずである。しかし、母の強い希望で、生きているうちにもう一度親たちの生まれ育った地、母のルーツと言える谷中村の地に立ちたいという願いをかなえるため無理を承知で連れて行ったのだ。
先だって、圏央道も東北道に繋がり、行くのに所要時間も大幅に短縮されたことと、向うで親戚や多くの知人方に再会できたこともあり、母は幸いなことにすこぶる元気で体調も良く、皆に嬉しい驚きを与えることができた。
今回急に泊めて頂いた藤岡町の「遺跡を守る会」の前会長宅を夕方出て、約2時間で無事帰宅できたが、今もまだ母はコーフン冷めやらぬ上機嫌である。
正直なところ、果たして今の体調で行けるか、行けたとしても向うで容体悪くしてご迷惑かけるのでは、と金曜日の夜まであれこれ案じて、迷っていたが、結果として行って大正解、大成功であった。こんなに元気な母は久しぶりに見た。
今は、母より我の方が、疲労困憊と睡眠不足でもう限界なので、後ほど画像を交えて何回かに分けて、今回の母との我が一族を辿る度について記しておきたい。※ちなみに父は立川の病院に今も入院中で、この二日、見舞いに顔出せなかった。いちおう、出かけることは前日の金曜に伝えたが、明日行って理解しているだろうか。
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