さあ、もういっぺん、がんばろう!2016年05月02日 22時57分09秒

★人生を今さらながら1からやり直していく

 風薫る五月となった。月が替わり季節は移っていく。
 それにしても先月は慌ただしかった。今まで親たちが入院したことは何度もあったが、二人そろって共に入院治療となったことは初めてのことで、我が人生においてこんな慌ただしかったことは記憶にない。
 誰もいない家に一人戻り、一人で過ごす日々は、これほど味気ないというか、心の置場のないものだと思い知った。が、そうした空疎な人生が親たち亡きあとは確実に待っているのである。

 まだ父は退院のメドは全く立たないが、それでも戻った母と共に二人で暮らして始終何かしらの会話のある生活は有難いものだとつくづく思う。
 他の一人暮らしされている方はどうなのか知らないが、我にとって日々生きていくこと、生活していくというのは、他者あってのことで、我一人だけならば生活は回転していくことはできやしないしそうした努力は放棄してしまう。今回そうしたことを初めて知った。

 先月のことをざっと振り返れば、立川の総合病院に、体調崩した母が急患で診察を受けに行き、そのまま入院となったのが、4月2日の土曜日。
 食事が摂れなくなったのは、肥大した癌により腸管が圧迫され腸閉塞だと診断されて腸のバイパス手術をしたのが7日木曜。
 そしてその翌週の月曜11日に、今度は父が、微熱と咳が続き、大事をとって母の入院している病院へ風邪だろうと診察受けに行ったら、診察の間に、熱が上がってきて嘔吐と失禁などしでかし、意識朦朧となって、肺炎だとして即入院。検査の結果、誤嚥性肺炎だとわかり約二週間ほどで退院できるだろうと。

 ところが、14日木曜の明け方に、あろうことかベッドから落ちたとのことで、右足の付け根、股関節部の大腿骨を粉砕骨折してしまう。そして19日の火曜に手術してチタンを骨に通して折れた部分を繋いだ。退院まで早くて二か月から三か月と言われ、高齢でもあり歩けるようになっても杖が必要だし、場合によっては車椅子か、このまま寝たきりになる可能性もあると宣告されてしまった。
 そして母は、父の手術を見終えて20日の水曜に退院。以後、自宅に戻り食事は再び食べられるようにはなったものの、量も少なく体調も戻らず、未だ半病人というべきか、寝たきりではないがほとんど何もできない状態のままである。

 父のほうは、足を骨折して手術の前後には、熱や投与された薬の影響もあったと思うが、一時期意識が混濁して、何故入院させられたのかもわからず、暴れたりわけのわからないことを叫んだりして、拘禁のようにされてしまい、このまま病院にいると認知症が一気に進むかと案じられた。
 が、日々欠かさず我や同じ病院に入っていた母が出向いて声かけたりしたせいか、しだいに頭は「正気」に戻って来て、まあ、それも入院前の認知症の状態まで戻ったということなのだが、現時点では、予想したよりもボケは進まず安堵している。
 今もまだ食事は、細かく刻んだりとろみの付いたものしか出されていないが、たぶん誤嚥性肺炎のほうは収まったと思えるし、リハビリも折ったほうでない足のほうから少しづつ始まって、順調に回復してきていると考えても良いかと思える。
 当人は食事がまずい、うんだりだ、飽きたとか、早く帰りたいとこぼしているが、そうした当たり前のことが言い出しえることは良い状態なわけで、今さらだが、戦地に行ったこの男のタフネスさに感心させられている。

 今だから告白すると、母が倒れ入院して、癌本体にではなく、まずは応急処置的に、開腹して詰まった腸の流れを作るため腸管のバイパス手術をやるしかない、場合によってはその手術すら癌の状態によっては不可能かもしれないと医師から告げられたとき、さらに、その直後に、今度は父が院内で骨折して数か月は入院だと知らされて、もう二人ともこのまま家に戻れないかもと考えざるをえなかった。
 今まで親子三人で、ときに父か母のいずれかは入院することはあったとしても何とか三人で共に、いがみ合いながらもずっと暮らして来た当たり前の生活がついにあっけなく終わる日がきたと考えてしまった。

 二人とも歳も歳だから、考えてみればいつそんなときが来たってまったくおかしくなかったのだ。が、人は昨日までがそうだったように、今日が同じならば明日もまた同じだと思い、そうした当たり前の「有難さ」に気がつかない。
 だから、まずは母が何とか手術は成功し家に再び戻れるよう祈り続けたし、おそらく多くのこのブログを読まれて状況を知られた方も同様に祈ってくれたからだと信ずるが、幸いにしてまず母は退院でき家に帰ってこれた。

 しかし今も実はまだ体調はすぐれず、少し食べては腹や胃が痛いとか騒いでは顔をしかめてうんうん唸って横になっていることが多い。半病人というよりも入院していないだけの病人なのである。
 じっさいこんな調子では、とても癌部位に放射線治療だってできるかわからない。このまま後は、モルヒネなどで痛みを抑えて終末期ケアへと向かうしかないのかもしれない。それも選択肢に入ってきたようだ。

 が、今はまだ母と共にこの家で暮らせていられるし、どのくらい先になるかはわからないが、父も必ず再びどんな状態であろうとも退院し戻ってくると思えてきた。それは希望や願望ではなく確信である。
 再びまた老いた親子三人でこの家で暮らせる日がやってくる。そしてそれはそんな遠くはないはずだ。

 嗤われるかもしれないが、今回の一件で、我は大きく変わった。父や母が入院する前と今の自分は全く違っている。
 この一か月、ちょうどまるまる一か月、誰とも会わなかったし、どこにも行けなかった。ただ家と病院を往復し、ほそぼそと古本稼業は注文のあった本だけは発送していた。
 犬の散歩での家の周りと郵便局、そして立川への行きかえりにあるスーパーにしか寄ることはなかった。
 多くの友人知人に不義理しご心配をおかけして心から申し訳なく思う。しかし、大変どころか、今振り返れば大変でも我にとっては充実した至福の時であった。何故なら老親たちととことんじっくりと向き合えたからだ。

 母の体調はあまり良くはないが、それでも家に誰か家人がいれば家も空けられる。今は立川へ父の介助に行くのは一日に一度になったし、母に負担はかけられないが、ならば我も少しは身動きがとれるかと思える。

 何が本当に大事か、何をすべきか、本当に欲しいものと必要なものは何なのかもわかってきた。
 
 今さらだが、我が人生を、1からきちんと、丁寧にやり直したいと願う。さあ、もういっぺん、という気持ちでいる。思いはすべてかなうと信じて。