自由とは失ってからわかるもの・続き2016年05月07日 15時19分11秒

★憲法を変えたら戦時において個人の人権はなくなってしまう

 今骨折で入院中の九十歳を超えた我が父は、第二次世界大戦、太平洋戦争に参加した元日本軍兵士である。一兵卒として戦争末期に徴収され、中国大陸で終戦を迎えた。むろん戦闘行為にも参加している。
 何とか戦死せずケガもせずに無事日本に戻れたから今の我、マス坊が存在しているわけで、そもそもそれが前提だから不思議でも何でもないと言われればその通りだが、父が無事で良かった有難いことだと思ってしまう。

 その父であるが、大正末の生まれの人にしては大男で、昔でいう「六尺男」であった。一尺が約30㎝だとすれば180㎝の偉丈夫である。
 さすがに今は老いすべてが萎え衰えて背も丸くなり体重も減ったが、今でも中肉中背の我、=息子よりも一回りデカい大男なのである。
 だから当然足もバカでかく、27.5~28㎝の靴でないと彼の足に合う靴がない。今は日本人は男も女も大きい人が多いからいくらでもそのサイズの靴は街にあふれている。が、昔は、男でも160㎝ぐらいが標準だった時代、戦前ではそうした大男たちは合う靴を探すのは一苦労であったかと思える。
 そしてそれは軍隊でも同じ話で、父から聞いた話だったと思うが、入隊に際して、兵士として支給された靴が小さくてきつい。サイズが合わないと、申し出ると、「バカ野郎! 靴を足に合わせるのではなく、足を靴に合わせろ!」と怒鳴られたそうだ。
 どう思われるだろうか。非常識であろう。しかし軍隊とはそうしたもので、全てが画一的であり個人の事情や状況は忖度されない。抗えば殴られ抵抗すれば重営倉入りである。※「じゅうえいそう」とは、陸軍の下級兵士に対する監獄のような部屋のこと。

 安倍首相が、今の平和憲法は、自衛隊などが存在している現状の「現実」と照らし合わせたとき、多くの憲法学者が違憲だと指摘しているから憲法を早く改正しないとならないと話していたが、それを聴いたときふっと頭に浮かんだのは、入隊に際してこの父の大足の話であった。
 そもそもが違憲なのである。違憲だと思い認めるならば正しく合うように改めるべきであろう。それを逆に、違憲だから憲法そのものを変えて現実に合わせようというのは本末転倒としか言いようがないではないか。まさにきつい靴に足のほうを合わせろと強いるものに等しいではないか。

 昨秋無理やり強行採決末成立させた戦争法だって、完全に違憲なのである。日本の大多数の憲法学者や法律家たちが違憲だと指摘している。それは安倍晋三も認識しているはずだ。が、彼は成立時には合憲の範囲内だと強弁し、今は、違憲だと言うのならば憲法の方を改正を!というスタンスなのであろう。
 いずれにせよ、どのような屁理屈つけても悲願の憲法改定を成し遂げたいという強い執念は伝わってくる。

 そして参院選も「憲法改正」を争点に堂々と訴えていくとしている。しかし、げんじつの話、国民の多くはそんなことは争点だとも今慌てて改正しないとならない喫緊の課題だと考えている人たちはどんな世論調査でも少数で、まして憲法九条を変えることについては否定的な考えを持つ人のほうが絶対的に多い。
 しかし、争点にしようとしまいと仮にまた自公が大勝してしまえば信任を得たとして憲法改正は現実の話となっていく。そして憲法は変えられた結果どんな国に日本はなっていくのか、そして戦争及び有事の際はどんな状況が起こるのか考えてみたい。

 ※なお、「憲法改正」という言葉は、「改正」、つまり改めて正しくしていく、という意味だとすれば、今のそれが正しくないということにも繋がるしそうしたイメージを無意識的にも強く与える。サヨク的には、「改悪」という言葉を用いているが、我としては「改定」、つまり改めて定めるという程度にしておきたい。

もう一回だけ書き足したい。