自由とは失ってからわかるもの・まとめ2016年05月08日 06時10分43秒

★「非国民」として生きたくないけれど。

 よく若い人たちが言う意見に、戦争はもちろん良くないが、周りに無法な国家がたくさんあるのに、戦争ができないような憲法は良くないという声がある。つまり軍事的挑発には「敵」に舐められないよう、軍事的に毅然と対処しないとならない。そのためには交戦権やらいくつか現行憲法では認められていない部分を改正して戦争ができるようにしておくべきだという論である。まあ、それを言えば「自衛隊」という軍隊を持つことだって本来違憲なのである。ゆえに自民党の憲法草案では、はっきりと「軍隊」だと記している。

 自民党の幹部たちも同様に言う。持っている軍事力を堂々と駆使できるようにするためにも集団的自衛権の行使のみならず、後方支援などでなく前線で同盟国と伍して本格的に戦えるように憲法を変えたいという思惑であろう。
 つまるところ、非戦とか不戦の誓いとかいうのは幻想、甘っちょろいユートピア論であり、テロリストたち敵、無法国家はいつ侵略や攻撃してくるかわからない。戦争という必要悪でもそれを了として、いつでも即戦争が出来るよう憲法も含めた環境を整えておかねばならないという論である。それが責任ある安全保障ということだと。

 先日北朝鮮労働党の党大会取材に関したニュースで、向うの大学生だという男が流暢な英語で、アメリカなど敵国は核兵器を持ち、いつこちらを攻撃してくるかわからない。だから我が国も自衛のためには当然の権利として核兵器を持つのだとまくし立てていた。
 まあ、一理ある。そう、核兵器廃絶を迫るならばまず核保有国自らが自国の核兵器を全て廃止してからであろう。それをせずに新たに核保有国に対して核を捨てろというのは道理に合わないし納得できない。

 とにもかくにも国という国がそれぞれ軍事力を増強し核兵器を保有して行けば、再びかつての冷戦時代のように一触即発の核戦争勃発の恐怖に誰もが怯え、力と力の対立の終わりは地球の破滅以外にはありえない。戦争抑止力としての核の保有、ひいては軍拡競争の末に軍事力増強で優位に立とうと願うは現実の話、きりがなく無意味なのである。

 さておき、では仮に憲法が自民党案のように改定されて、実際にどこかの国と戦争が始まったとする。今までは我が国は「専守防衛」しかできなかったから、戦争=戦闘行為とは、他国が我が国の領土に侵攻してくる以外起こるはずもなかった。つまり現実的にはまさに今の憲法のおかげで戦争は起こりようがなかったのである。だから70年間も長く日本は戦争で誰一人殺されず誰一人殺さないですんだのだ。そんなことは世界史の中でも奇跡のような事例なのだ。

 しかし、仮に同盟国アメリカが中近東のどこそかで戦争を起こせば集団的自衛権行使として日本も参戦しないとならない。それは国連の承認も関係ないし有志連合のようにいくつもの国が参加してなくても関係ない。大事なパートナーの有事に我が国も勇んで駆けつけていく。そうして日本の内地以外のどこかで戦争が起きて「戦時下」となったとたんに、緊急事態条項の適用、日本は国家の命令として「非常事態宣言」し戒厳令下に国民全ては置かれる。
 そうなれば、今ある数々の自由、言論や表現、執筆、報道、集会の自由も制限されるし、反戦集会のような催しですら国威発揚に影響するとして禁止もされよう。

 それ以前に、まず反戦を叫び、国家体制に反対し集う者たちは、常に監視されて敵国のスパイ、もしくはテロ容疑者としてやがて逮捕されるであろう。
 それは国家権力がすることだが、国民の多くも国防軍の人たちが命かけて戦っている非常時に不謹慎だと、戦争に協力しない者たちを批判し白眼視していくことだろう。あの9.11の直後、ブッシュが仕掛けた報復戦争の頃の米国を思い出してもらいたい。

 愛国心ある愛国者は賛美され、戦争に非協力的な者は迫害されていく。ひとたび戦争が起こればそれは当然のことだ。
 そもそも民主的で自由な戦争なんてこの世に存在しない。国家一丸となって国民総動員、一億総活躍ならぬ総火の玉になって戦わないと勝てやしないではないか。内地で足を引っ張る者こそまず「敵」なのである。
 そのときに個人の自由や人権は国家=公の前には下位とされる。改定される自民党の憲法にははっきりそう記してある。

 そんな時代になったら、我が今しているような気軽に仲間たちが集い人前で歌うことすら禁じられてしまうだろう。政府主催の戦意高揚のためのコンサートでは、君が代や新しく公募された兵士応援のためのキャンペーンソングは唄われるだろうが。
 ※このブログも我は書き続けて行きたくともプロバイダのほうで、当局の要請=圧力に沿ってもうアップできないようにされることは間違いない。つまりもう誰もその思いを自由に表現できなくなっていく。

 我はそのとき「非国民」と呼ばれるのは間違いない。その覚悟もなくはない。しかし、そんな時代が来るのはまっぴらごめんだし、そのためにもまず「戦争法」を廃止せねばならない。現行の平和憲法は絶対に変えてはならない。

 安倍晋三にすれば、違憲承知の法律も通したので戦争が出来る枠組はほぼできた、仕上げは悲願の「憲法改正」だが、それもゴールが見えて来たという達成感があろう。
 だが、それだけは絶対に許してはならない。自由とは失ってから気がつくものである。失ってからではもう手遅れなのだ。

 某隣国のような無法国家があったとしても戦争をすること、戦争に参加することが国際貢献ではない。真の国際貢献とは、戦争をしないということで、戦争をこの地球上から無くしていくというロジックを示していくことだと我は考える。先進テクノロジーと漫画と和食と観光しか資源のない小国日本が生きていくのは日本国憲法=「平和」を輸出していくしかないではないか。その全てが平和があってこそ世界に求められるものなのだから。