祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・前2016年05月16日 22時13分08秒

★今いる我はどこから来たのか

 ひと頃、そして今も?「自分探し」というのがあちこちメディアなどで取り上げられ流行ったことがある。
 いわく、「本当の自分」とは何なのか、知りたいと、いろんな自己啓発の本を読んだりセミナーに通ったり、カウンセラーを訪ねたりして真の「自分」を知ろうと考えたりした人が多いらしい。
 我に言わせれば、自分に本当も嘘もなく、今いる自分こそが良くも悪くもそのまんま自分でしかないわけで、探すも何もそんなのは青い鳥がどこかにいると信じるようなバカなことだと思わざる得ない。

 そんなことよりも、我=自分はどうしてこうなんだろう、どうしていつもバカなことばかりしでかすのか、こんな自分はいったいどこから来たのかということこそが関心ある。いったいこんな男はどうして生まれたのかだ。
 趣味嗜好、そして思考までも遺伝によってもたらされるとは思わないが、こんな人間がいるのにはそこに、何かしらの前提条件があったことは間違いない。
 つまり原因と結果の法則で言うところの、「今」こうしている「我」がいるのには、その「前」の人たちが大きく関係しているはずなのである。
 むろん、それは当然、生み育ててくれた両親たちによるところが一番大きいわけだが、そのまた前の祖父母たちの影響もかなりあるように思える。それは見えない地下水脈のように代々受け継がれてきた資質なのではないのか。

 じっさい、メンデルの法則によらずとも我に関しては、遺伝学的にも祖父の遺伝子を受け継いだ障害があるし、父方の祖父母はわりと早く死んだこともあり、共に過ごした時間は母方の方が長く、特に祖母は長命だったので、人間的にもずいぶん影響を受けた。
 今回のはなしは、その母の母である、我にとって母方の祖母が生まれ育った栃木県の谷中村という、歴史に翻弄され廃村となった村の跡と祖母の屋敷跡を訪れたことの報告である。

 その前に・・・
 人は男と女から生まれてくるから、それぞれ父方、母方の彼らのまた親たち、つまり祖父母を二組持っている。我の場合、父も母も東京都内で生まれた東京人であるが、その親たちは地方から出てきている。
 じっさいのところ、代々父も祖父母もずっと東京生まれだという「江戸っ子」はごく少ないはずで、おそらく数代さかのぼればたいてい皆それぞれ東京以外から東京に出てきたという地方出身者であるかと思う。今は皆東京生まれの顔してすましているが、実は東京は地方出身者たちの集う街なのである。

 父のほうは、九州佐賀の出で、その父の父、我の祖父は上京し苦学して早稲田を出て、最後は新聞記者のようなことをやっていた。その妻、祖母も同郷の人だったらしいから、我が父などは、東京生まれなのにアクセントはやや九州人的で昔からヘンだと思っていた。
 その家系についても「ファミリーストーリー」としてかなり多事多難で面白く記す価値はあるかと思うが、今回は関係ないのでふれない。

 母方のほうは、我の祖父母共に、今は渡良瀬遊水地、谷中湖に水没してしまった、足尾の古河銅山からの鉱毒によって強制的に廃村にさせられた谷中村の出身である。
 祖母は、幼児の頃に、一家でその村を離れたが、その家をよく訪れていた田中正造の思い出を晩年まで常々語っていた。明治33年の生まれで、百歳近くまで存命だったから、生前は、谷中村の生き証人として、新聞等に取り上げられたこともある。死ぬまで頭脳明晰、記憶力抜群でほぼ20世紀をまるまる生きた人だ。

 我は、その祖母から「田中のおじやん」の話は何度も聞かされて育った。祖母にとって、いや、渡良瀬河流域の農民たちにとって、田中正造るはまさに義人、ヒーローであり、誰もが死ぬまで慕い続けていた。
 その祖母からもっと谷中村でのことや田中正造の思い出などよく聞いて記録しておけば良かったと今にして思うが、日本の公害闘争の原点、鉱毒によって廃村にさせられて村を追われた祖父母たち農民の無念の思いは、今も我の中に流れていると今頃になって思うことがある。

 我が母は、若い時は生活に追われ忙しくて、彼女のルーツである谷中村や正造翁のことなど、祖母が話しても関心があまりなかったらしいが、我が成人した頃からは、祖母を連れてその一族出身の地である旧谷中村があったところの「遺跡」を訪れている。祖母の死後も遺言にあった散骨するために行っている。
 谷中村の大部分は水没して、今は渡良瀬遊水地として、首都圏最大の野鳥のサンクチュアリ、貴重な野生生物の宝庫として知られる渡良瀬遊水地の底に沈んでしまっている。
 が、幸いにして、旧出身者たちの強い要望がかない、今も、村の共同墓地や雷電神社があった辺りは水没から逃れて誰でも訪れ散策することができる。

 そして我が祖母の生家、その屋敷があったところも、むろん家らしきものは何一つないけれど、やや小高い地形が土台として確認でき、跡地には竹が生い茂りしっかり残っている。他にも数件そうした「屋敷跡」とされるかつて家があった場所はあるけれど、ウチがいちばんはっきりとわかる。村でも屈指の篤農家で土台をしっかり高く盛り上げたからだ。晩年の田中のおじやんは家まで上がってくるのに苦労したらしい。

 ちょうど西暦2000年、そこの場所に、祖母の兄弟たちの子、母も含めて、つまり母の甥っ子ら子孫たちで、御影石で祖母の父の名前、廃村時の当主の名を刻んで、『岩波正作屋敷跡顕彰碑』という記念の碑を建てた。正作は我にとって曾祖父になることになる。
 母はその石碑を建てたとき訪れているが、我は一緒に行った記憶がない。その屋敷跡には、四半世紀近く前に、まだ祖母が存命だったとき一緒に訪れたが、その頃は今ほど我も関心が薄くてあまり印象にも記憶にも残っていない。祖母はその地でどうであったか。何を語ったのか。

 今回、実に、その時以来かと思うが、再びその地に出向き、病み衰えた母の手をひいてその屋敷跡に立ち、石碑を前にしたときに、不思議な気分に襲われた。
 我はこの場所、ここ谷中村の、ここから出たのだと喜びとも恐怖ともつかない感動のような高まりに満たされた。我のうち流れる血の何パーセントはこの地のものなのだ。

 何十年か前、A・ヘイリーの小説『ルーツ』が米国のみならず日本でも大きな話題になった。そして山口瞳の『血族』や佐藤愛子の『血脈』など同様の、自ら一族のルーツを探す伝記小説がベストセラーになった。
 その頃は、我もそのようにもっと一族の歴史、我が出自に関心を持てば良かったのだが、まだ若すぎてとてもそんな大昔の、自分どころか親さえも生まれる前のことにちっとも興味がわかなかった。
 残念だが、そのときはまだ機が熟さなかったのだと思うしかない。

 今我も老いてきて、ちょうど母が晩年近い祖母を連れて今は葦が茂るだけのその谷中村の屋敷跡を訪れた年代になり、自分も母の手を引き我がルーツの地に再び立ち、まさに感無量、言葉もなかった。

祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・中2016年05月17日 10時51分45秒

★谷中村と田中正造、そして父祖たちのこと

 当ブログの読者の方に今さら説明不要かと思うし、ネットで調べればたちどころに出てくるので手短に書くが、今はその大部分が湖の底に沈んでしまった栃木県下都賀郡旧谷中村はかつてはとても豊かな村であった。

 大河渡良瀬川が度々氾濫はしたが、水はその地に肥沃な土壌をもたらしたのである。だから、世界三大文明が、大河流域のデルタ地帯から生まれたように、御神楽や農村歌舞伎も盛んで、祖父母のまた親たちの代には関西のほうまで学びに出向いた者もいたそうだ。
 が、明治の世になり、産業振興、富国強兵の国策ため足尾銅山の採掘、精錬が進められ、洪水の度に上流からの鉱毒によって川は汚染され作物は採れなくなり村は疲弊していく。祖母の話では子供も生まれても次々死んでいったという。

 その窮状を訴えるべく、流域の農民たちは田中正造をリーダーに、日本初の反公害闘争を始める。何千人も集まって集団で東京まで、請願に出向く「押出し」、つまり農民一揆のように、銅山の操業停止と補償を求めて政府に解決を迫るため何度も直接行動をとった。※その頃、二十代で血気盛んだった曾祖父正作も、押し出しに参加し阻止する警官隊を振り切って東京まで辿り着いたと聞く。
 だが、彼らは凶徒と扱われ官憲の阻止にあい、流血事件となり何十人も逮捕拘束の目に遭い(1900年川俣事件)、やがて国は、運動の弱体化と鉱毒沈殿のためにその地を遊水地として用いようともくろみ谷中村は強制廃村とされた。

 谷中の農民たちは非常に低い額の補償金で村を出て一部は那須、北海道にまで移住した。人々の関心も冷えてしまい田中正造も含め最後まで村に残って抵抗した農民もいたが、三里塚の成田闘争のように家屋は破壊され谷中村は消滅。運動は権力の前に終えるのである。
 が、この日本の公害闘争の原点である谷中村の存亡と田中正造の思想と行動は、戦後高く評価され出し、3.11の大震災による原発事故でフクシマを強制的に追われた住民が新たに生まれている今日、公と民の関係、国家(国策)と環境のあり方は今もまた問い糾されていると思う。

 今や広大な自然パークのようになっている渡良瀬遊水地の入り口正門近くに、旧谷中村住人合同慰霊碑の一角がある。中に入ると周囲の壁面はぐるっとかつて村にあった道祖神などの石碑で囲まれている。その一角はひんやりとして実に厳かで息を呑むものがある。
中央に四角い石碑があり、廃村時の谷中村の住人、四百余名の名前が石に刻まれている。そこに、我が母の父方、母方双方の祖父たちの氏名、母にとって大叔父たちの名前がいくつも刻まれていた。
 母は彼ら石碑に名を残す正作たち、彼女の祖父母であった人たちには幼児の頃に数度会ったもののほとんど記憶はない。が、その刻まれた名前を指でたどり、まさに感無量の面持ち、感慨深げであった。そう、その母に流れている谷中村の血は我にも流れているのだ。

 何とか母が生きているうちに再び父祖の地に連れてくることができた。田中正造と共に闘った我が祖先たち、谷中村からの命脈は今も、これからも我は受け継いでいかねばならない。そう誓い直した一泊二日の栃木市藤岡町の旅であった。

祖父母の地を訪ねて~渡良瀬遊水地と旧谷中村・後2016年05月18日 23時31分19秒

★人は求められてこそ生きながらえる。

 いろいろ書きたいことはあるけれど、今回の母と我がルーツの地を訪れた報告記はひとまず終わりにしたい。

 今回の旅は、母も会員となっている『谷中村の遺跡を守る会』の本年度の総会があり、その中での記念行事として、「岩波正作屋敷跡顕彰碑について」という題で、その子孫である母の従妹の講話が予定されていたからだ。
 実は、元々その従妹より年上の我が母にそうした依頼があったのだが、母は癌で体調が悪くて、とても栃木市藤岡まで行くことはできそうにない。それで、その従妹とあれこれ電話で一族の歴史を伝え話して、まず無理だけどもし元気になって行けたら行くからということで、お願いした。本人も従妹も主催側でも母の参加は無理だと思っていた。

 しかも今月に入ってもまた二回目の入院をしてしまい、退院できたのが直前の11日水曜で、その総会は15日の午後からだった。常識では二日前まで入院していた者がご近所ならともかくも栃木まで来るとは思ってもないしありえない。
 が、今回の入院は病状が軽かったことと逆に病院にいた方が一切の雑事から解放され休養もとれ栄養も満たされて体力があったことも幸いして、退院後は存外体調も良く、当人もならば何としても行きたいと強く希望したので、急遽、前日土曜日の午後から出発することにしたのだ。
 従妹のところに泊めてもらうことも考えたが、より会場に近い、「遺跡を守る会」の前会長宅に泊めてもらうことをお願いした。前会長は先年亡くなられてしまったが、その家とはかねてより親戚同様の付き合いさせて頂いて、我の祖母も四半世紀前に谷中村に「里帰り」した際に泊めて頂いたご縁がある。むろんのこと、そこの方たちも旧谷中村の出である。

 現地は、東北自動車道、佐野藤岡インターか、館林インターで降り、栃木市藤岡町、私鉄の藤岡という駅に近い。
 以前、今いるウチの犬、ベルコを佐野までもらいに行ったことがあるが、そのときは圏央道が東北道まで繋がってなくて、桶川北本までしか行けなかったのだ。高速道はともかく下の一般道でやたらに時間がかかってうんざりした記憶がある。
 が、先日、その部分も東北道まで通ったので、今回は実に早かった。行きは母の体調を見ながら二回休憩でSAに入ったものの、午後出て夕方早めに着いてしまった。
 帰りは、休憩なしで時速80キロでゆっくり走っても、向うのお宅を出て自宅まで戻るのにかかった時間はジャスト2時間に過ぎなかった。じっさいわかったのは、日の出インターから入って、館林インターまでの圏央道と東北道を合わせても片道90キロもない。

 山梨の古民家に行くために、八王子インターから須玉インターまで走るのに、片道約110キロだから、山梨へ行くより佐野藤岡に行く方がはるかに近かったのだ。何か拍子抜けしてしまった。これならもっとビュンビュン走れば、ウチから一時間半ほどで渡良瀬遊水地~谷中村跡まで行けるではないか。
 今までは、高速が繋がっていなかったこともあるが、何かもっと遠くて行くのが面倒だと何となく思い込んでいた。これならもっと気軽に行けるし、また母を故郷に連れて行けるとうれしくなった。※佐野は、戦時中、母が女学生の時に東京から疎開していた地で、母の最終学歴は、佐野高女卒である。

 向うに着いたら、その迎えてくれた前会長夫人も、向うの知人、親戚たちも皆全員が母が元気なのに驚いていた。すっかり痩せてはしまったけれど、向うに着いたら意外なほど母は元気で、旧知の人たちとの再会が嬉しかったこともあるが、興奮してひたすらしゃべりまくりである。
 翌日も、朝からその家の畑に出向いて手伝ったり、ひたすら精力的に動いている。自宅だと、たいてい午後は疲れが出てきて横になって仮眠とるのが日課なのだが、まったく疲れも見せず元気である。こちらのほうも驚かされたし、やはり無理してでもこっちに連れてきて良かったと思った。
 会場でも皆に歓迎され、マイクを握り予定されていた時間を超えて話すこともできた。見ていてどこにこんな体力が残ってたのかと不思議なくらいに元気である。
 終わって皆に無事と再会を誓い、また前会長宅に戻っても多くの知人、縁者たちと話はいつまでも尽きなかった。これ以上遅くなると母の体力も尽きてしまうと心配になり促して夕方皆と名残り惜しい中、何とか別れを告げ藤岡を後にした。

 それから帰って来ても数日母はずっとコーフン気味で元気であった。父祖の地に今生の別れかはともかく、久々に行けたことはそれほど嬉しかったのであろう。懐かしい人たちも再会できた。どちらももはや半ば諦めていたことであった。
 しかし、それよりも母を元気にさせたのは、皆から歓迎され求められたからだ。人からどんなことでもいい、求められ居場所と役割を与えられると、嬉しくて人は元気になれるのである。
 今回も、向うに行って親類縁者、旧知の人たちから大歓迎、歓待されて、谷中村のこと、母がその母たちから聞いたこと、覚えていることを話し、それに皆が耳を傾けてくれた。それこそが母の役割であり居場所であったのだ。
 これが逆に、誰からも相手にされず、話したくても話すことに誰も耳を貸さず、どこにも居場所がなければ人は生きていても生きている意味は無いに等しい。それでは絶望してしまいまさに厭世的になり生きていても仕方ないと死を待ち臨むようにさえなるかもしれない。

 今回の短い旅で、今さらながら人間とは何か、生きていくこと、生きているとはどういうことかいろいろ考え示唆と指針を得ることができた。
 求められ居場所と役割のあることの有難さ。人は人から求められるから生きていけるのである。そして、人はその思いを人に伝えて、託して、そして死んでいく。しかし、そうした確かな関係があれば死もまた無意味ではないのだと思い至った。
 生きていくとは、人とそうした関係を築くことに他ならない。

 我もまた四半世紀ぶりに訪れた先祖の地で、我の中に今も流れる彼らの思いをはっきりと自覚できた。昨日(過去)を今日に、そして明日(未来)へと繋げて、託して行かねばならないのである。それこそが人が生きること、人類の歴史なのだと、確信を得た。

 ★旧谷中村の史跡とその苦難の歴史については、折あらばまた書き記したいが、ご関心、興味持たれた方は、連絡ください。ご都合つくようならば、渡良瀬遊水地までご一緒して私が案内、説明いたします。

人生がようやく少しだが動き出した。2016年05月21日 22時12分00秒

★懸案のことをこの二日でいくつか一気に片付けた。

 5月も半ば過ぎ21日の土曜日だ。
 昨日の夕方から一泊で久々に山梨に行ってきた。二か月半ぶりである。最後に行ったのが、3月末のことで、増冨のラジウム温泉の旅館に父と二人で湯治に行っていた母が向うで体調悪くなり大慌てで迎えに行ったのだ。
 癌に効果があると聞きせっかく行ったのに、胃が痛くてほとんど食事もとれず、温泉にもろくに入れず帰り際フロントで会計の最中に我慢できずにトイレに駆け込んで吐いたと言う。
 今思えば、既にそのとき癌性イレウスが進み、腸閉塞で体調が悪かったのである。
 そのときは、我が古民家に寄るどころでなく、まさにとんぼ帰り、現地滞在時間はゼロで、旅館まで駆けつけ、親たちを乗せたらすぐまた大急ぎで高速に乗り戻ってきた。
 だから、古民家に行ったのは、約三か月ぶりと言ってもいい。その頃はまだ甲斐駒ケ岳だけでなく、山間部に行き車の窓から望む山の頂にはどこも白く雪が残っていた。いや、帰り道、一般道での笹子トンネルを抜けたら雪が舞っていて吹雪のようだった記憶も蘇る。

 そして今は季節は初夏。日中は山梨でも汗ばむ陽気だった。久々に行った古民家の庭や駐車スペースには、雑草が生い茂り、ものすごい状態となっていた。誰が見ても一目で誰も住んでいない空き家然として、これでは空き巣の格好の餌食である。
 この季節、植物は茂るのは早いが、三か月も無人のまま放置して行っていないのだから当然のことであった。

 その三か月の間のことはこれまでも書いてきたが、結局、それから母の容体は急激に悪化して、4月頭に、食事が摂れなくなって急患で受信したら腸閉塞だと診断され即入院。一切口から飲食は禁じられて点滴だけで栄養を摂り、食物の流れを良くするために腸管のバイパス手術、そして20日にいったんは退院できた。
 その間に、父が誤嚥性肺炎で同じ病院に入院、さらにベッドから落下して骨折、そして手術というアクシデントも重なった。
 父が入院中のところに、母も退院後二週間でまた体調崩して再入院。幸いそのときは、病状は軽くて一週間で退院となった。

 そんなこんなで、老親二人そろってW入院している頃は、昼と夕の一日二回立川のその病院まで通っていた。だからその見舞いと介護だけで一日がほぼ終わってしまう。
 認知症も患う父が骨折してからは、またいつ何か起こって病院から呼び出しがあるかと不安で、電話のベルを聞き逃すことのないよう音楽すら聴けなかった。だからまったくどこにも出かけられず、近場でのライブすら顔出せないから山梨どころでないわけで、ひたすら病院との往復に明け暮れていた。

 そして今、母も戻り、癌についての先行きには何も展望は見えなくとも病み上がりの母と息子二人での生活にリズムのようなもの、少しだが動きが見えて来た。
 母は今も食も細いし骨と皮で疲れやすく体力は戻っていないが、谷中村効果というべきか、先週末に父祖の地に行ってからは、気持ちには張りが出てきて前回の退院の後に比べればずいぶん元気が見えて気力も戻って来た。

 で、ブログは間が空いてしまったけれど、この数日家のことのいくつか懸案だったことが片づいた。昨日は父が退院してきたときに備えて電動の介護用ベッドも家に運び込むことができた。犬たちの予防接種とフェラリアの薬もやれた。この数年壊れて使えなかった風呂も直せた。そのついでに、ようやく山梨にも行けたのだ。むろん母一人で家に残す不安を抱えながらだが。そして今朝は短時間だが向うで草むしりに精出して来た。

 今ようやく、ほんの少しだが、我が人生も動き出したという気持ちになっている。といっても「本業」のほう、――古本稼業ではなく、本当に我の成すべき使命のようなもの――は、未だ手つかずのままであるが。
 しかし、まずはそのためにも「家のこと」という環境整備、下準備から片付けて、環境を整えて行かねばならない。
 今までは老親共に、入院、手術を繰り返していてはそうした「家事」すら滞るばかりで病院通いだけに追われて何一つできなかった。

 父は今もまだ立川でリハビリ中で不在だが、母も戻り、やや元気が戻ってきた。ずっとご心配おかけしたが、やっとこれから我が人生にも向きあえるかと思う。まずその報告だけいたしたい。

少しでも、少しづつでも2016年05月23日 21時26分57秒

★残された限りある時間の中でベストを尽くしていく

 今日も暑かった。玄関の庇下にある、外の寒暖計は、30度を軽く超していた。仕方なく犬たちも玄関の中に入れ、老犬ブラ彦は二階に上げてクーラーも入れた。この暑さで食欲も落ちてきている。
 全国あちこちで真夏日が報じられているがまだ5月なのだ。真夏が思いやられる。我は、家にいて、せいぜい午前中庭周りの仕事しかしていいからいいものの、外回りの仕事の人たちは大丈夫かと案じてしまう。

 さすがにこのところの疲れが出たのか、いや、疲労は慢性的だからなのか、いったん午睡すると、もう夕方すぐ起きられない。
 昼までは、掃除や洗濯やら溜まった家事を片付けて、母と昼食をとり、午後は少ししてイタリアや仏人のように昼寝している。そうしないと頭痛がしてきて、頭が重くフラフラしてとても起きていられなくなる。

 今日は、父の見舞いには夕方行く予定でいた。が、一度眠ってしまうと、犬がどんなに吠えようが、目覚ましが鳴ろうが、起きることができない。意識としては、起きて父の松病院に行く時間だとわかっている。起きなくてはと思っている。が、体はまさに鉛のように重く、起きることがどうしてもできやしない。
 普通なら、その時間になれば、ぱっと目が覚めて重たい体を引きずってもベッドから起き上がられる。が、もうこのところ、昼寝してしまうとまず簡単には起きられない。

 気がついたら、目覚まし時計は午後6時を過ぎていた。父の食事の時間は既に始まっている。昨日は昼前に行った。昼間なら行けるが、夕方はこのところどうにも起きられず行けなくなってしまっている。
 父が入院したのは、先月の11日だから、既に一か月をだいぶ過ぎた。病院の中で、対社会的なことは、看護師たちやリハビリの職員と話すぐらいしかないわけで、男は女に比べて極めて社会性が閉ざされている。
 見舞いも親戚は皆高齢だから、一人も来ないし、せいぜい我と母が顔出す以外に、誰とも話さない。その母も週に2回行けたら良いほどの体調だから、我がせっせっと行って、話しかけて父の嘆き、退屈した、飯がマズイ、いつ退院できるのか、に耳を傾けないとならない。
 そうしないと、リハビリの時間以外は、ひたすらベッドに横になりうつらうつらしてしまい、曜日や時間の感覚も失われていく。
 だから、ともかく父のところに行かなくてはならない。が、どうしたことか午前はともかくも夕方は疲れて一度昼寝してしまうともう起きられなくなって立川へ行けなくなってしまう。情けない。
 
 あと少しの辛抱だと行くたびに父に言い、励ましている。それはこの自分にも言い聞かせている。退院できなくても、ウチの近くの、系列の病院の方に転院できるとか、何かメドが立てばと思う。そうすれば、その日を指折り数えて、一日一日が動き出す。

 一方、我のこともなかなか進まない。内心忸怩たる、焦り苛立つ気持ちを抱えている。食の進まない母に、何とか食事を工夫して摂らせて、今風呂に先に入れて、出たの確認して寝かせて、ようやく我の時間が始まる。
 その前に、犬たちの夜の散歩がある。今は外の小屋にいるからまだマシだが、寝る前に散歩させないと早朝からまた吠え出して、こちらもおちおち寝ていられない。
 吠えるのは老犬のほうで、こちらも人と同じくボケも入ってきているのだろう。夜中吠えると隣近所まで起こしてしまう。
 
 歳をとること、歳とって面倒かつ大変になっていくのは人も犬も変わらない。
 ともかく、今は少しでも、少しづつでも今できること、今すべき出来ることをやっていこうと思う。
 限りある時間の中で、どれだけできるかだ。焦っても苛立っても仕方ない。少しでも少しづつでもだ。

男は黙って、女はおしゃべりして考2016年05月24日 22時07分27秒

★男らしいってわからない

 父と母が共に入院したので、それぞれの病室に見舞いに行って気づく。同じ病人、ケガして入院していても男と女はかくも違うものかと。

 その立川の病院は、各階ごとに内科、外科とか入院患者が別れてしかも男女は当然ながら男は男、女は女と分けられている。そしてボケの進んだ手のかかる患者もまた同室に集められている。
 母は今は退院したが、行くたびに母の姿がみつからないことがよくある。少し動けるようになると、同室の他の女性患者のベッドサイドでその人と話し込んでいたり、入院中に知りあい親しくなった患者の病室を訪れたりとともかく常に誰かしら話している。
 だから母は持ちこんだ戦争廃止の二千万人署名も病院内で、二十数名分の署名集めたと自慢していた。
 それは母の物おじしないおしゃべりな性格によるところ大きいが、他の女性患者を見ても、エレベータ前の長椅子や、テレビのある広間などで、患者同士、おしゃべりに花が咲いている光景を良く目にする。
 女とはそうしたもので、入院しなくても母のかかりつけの診療所の待合室では、常に誰かしら待ち時間に隣の人と世間話している姿は母だけのものではない。
 
 が、これが男となると、基本真逆で、まず誰とも話さないし話しかけることも話し相手も不要のようだ。それは高齢になるほど顕著のようで、父の病室の場合、他は父に輪をかけボケた患者がいることもあるが、父は一切他の同室の男と話はしないし、父に話しかける男もいない。
 もう一か月半も同じ病院に入っていて、ときおり病室は移動となったとしても、それだけ長ければ多少は顔見知りになったり挨拶交わす人もいて当然だと思える。
 が、父にはそうした同性の相手は皆無だし、同室の他の男も話しかけては来ない。今は四人部屋に移って、他の二人はかなり「恍惚の人」っぽいから仕方ないようだが、隣はまだ六十代ぐらいで、看護師との会話を聞く限り、まっとうなオツムと思える。
 行くたびに、こちらも気を使い挨拶してもじろっと横目でにらんで無視であり、これでは父が話しかけたとしても会話も成り立たないと思える。
 
 別に同室に入院した縁だからといって友達になる必要はないが、病院の中という閉ざされた世界で、食事やリハビリの時間以外はほとんど何もすることはないのだ。ならば、多少の会話を持ち、世間話で時間をつぶしてもかまわないと我は考える。せめてそうでもしないと時間が過ぎて行かないはずだ。
 母などじっさいそうして今回の入院で四、五人の女同士患者仲間の友人が出来て、住所も交わして、退院後も電話があったりもしている。むろんそんな縁はいつまで続くかはわからない。しかし、袖振り合うも多生の縁であるならば、同室の隣のベッドに隣り合った人とも口をきいてもバチは当たらないであろう。

 女はそうして気軽におしゃべりができすぐに知り合い、友達になっていく。それは病院という特殊な空間に限らない。ところが男は・・・
 酒場などで、同席になり、酒が入れば知らぬ同士が小皿叩いてちゃんちきオケサということもあろうが、アルコールなしだとまず隣の男に男は話しかけない。それが礼儀だとも常識だとも思っている。

 ずいぶん昔のテレビなどのCMで、あの世界の大スター三船敏郎を使った「男は黙って○○ビール」とかいう広告があったと記憶する。つまり、男らしい男とは、ぺちゃくちゃおしゃべりや愛想笑いなど一切せず、ひたすら寡黙に、苦虫を噛み潰したような顔で、どっしりと構えていれば良し、それこそが「男らしい」ということだったのであろう。
 同様に、鶴田浩二とか、高倉健とか同タイプの昔のスターたちが思い浮かぶ。皆、寡黙に、内なる思いは秘めてただじっと堪えて自らはまず話すことはない。問われればごく短く返事はする。しかし、彼らも絶対入院したとしても隣のベッドの男に自分からは話しかけはしないはずだ。
 何故ならそれこそが、男らしさであり、まして入院という辛い境遇だからこそ、じっと黙って堪えないとならないという心理が働くのかもしれない。

 しかし、我は思う。そうしたものが男らしさとか、男らしいってことなのだろうか。じっさい今は、テレビの中ではタレントや政治家は常に饒舌に、ペラペラと早口で、どうでもいい事をまくし立ててそれがフツーなのである。安倍晋三や舛添都知事など見る限り、彼らにはそうしたかつての男らしさは皆無のようだし、その人格として中身が空疎の分、余計にペラペラと早口でまくし立ててるとしか思えないがどうであろうか。

 だからそうしたかつての「男は黙って」という男らしさは消え失せたと思っていた。だが、病院の中では今もなお男同士の患者の間ではそうした「男らしさ」は依然残っている。
 でもそれは男らしさとかいう性差、ジェンダーでは無い気がする。単に、男のほうがシャイで、しかも同様に、互いに相手を気遣うからこそ会話をしないだけのようにも思える。

 昔から様々な研究で、男女の違いは脳にあり、女はおしゃべりで男は口が重いとされてきた。しかし、我は西欧など行って見聞した限り、向うでは男も女も見知らぬ人に対しても気さくに話しかけてくる。そしてそれは年齢も性別も相手が外国人とかも一切関係ない。それは文化の違いではないのか。
 おしゃべりということだけとれば、圧倒的に女の方が会話量は多いであろう。母など、疲れていても電話がかかってくれば、妹など同性の親しい相手だとときに一時間以上も話し込んでこちらが止めないとならないほどだ。

 男だって、決しておしゃべりではなくはないし、親しい友とは同様に長く話し込むことだって往々あり得る。おしゃべりな男だってけっこういる。が、何故かしらねど、病院などの中では、同室の男には話しかけない。それが男社会の暗黙のルールとなっているようだ。
 それは良いことかどうか。我はそんな男らしさは理解できないしよくわからない。

 孤独は男も女も同様にやってくる。ならば、その隣人に対しては常に互いに善きソマリア人であるべきではないのか。

兄妹がいるという有難さ2016年05月26日 21時56分40秒

★荷を分かち合えるのは血を分けた者だけ

 我にも兄妹、実の妹が一人だけいる。今日26日木曜、九州大分に嫁いでいる妹が親たちの見舞いに来た。土曜までのわずか二泊三日の慌ただしい行程だが、来てくれて本当に有難く嬉しい。

 一人っ子の方や兄弟を既に亡くされたり、不仲の方には申し訳ないが、今つくづく我にも妹という肉親、家族がいてくれて本当に救われた気がしている。

 妹とは学年でいえば二つ離れていて、思えば同じ学校に通ったのは中学までで、後は高校、大学と個別に離れてしまい、学生時代からそれぞれ下宿したり別々に暮らしたりしたから、実際親しい兄妹ではなかった。
 しかも大学を出てからは、彼女は家を出て働き、同じ職場の年下の男と出来婚で、今、東京でアニメの仕事をやっている長男を産み、そのまま子を連れて旦那の実家の九州へ行ってしまった。
 我はその義理の弟とほとんど口も利いたことないし、向うの実家にも行ったことはない。妹の家では、次々男の子が生まれて、その長男だけは東京に出て来て、我家に下宿していたから、そいつとは親しいが、基本、妹の家庭とは親たちはともかく没交渉なのである。
 男と女ということもあり、一緒に何かしたりどこかへ行った記憶は幼少の家族ぐるみでの旅行以外はともかく、成長してからは何一つない。趣味も嗜好もまったく異なるし、互いに別々のバカなことに熱中してたから存在を意識したことすらなかったと思う。

 ただ、このところうちの親たちが老いて病んできて、癌やら手術やらあれこれ重篤な事態を迎えるとやはり彼女にも子として兄として連絡しないわけにもいかず、最近では母も病み弱って来て、父も骨折で入院してしまうと、その動静などできるだけ頻繁に連絡とりあうようになってきていた。
 妹も嫁ぎ先の義理の老親を抱えていて、向うの義父もかなり面倒なタイプの認知症で、なかなか東京へ実の親たちの看病には出て来れないでいた。しかも向うも夫婦共働きの生活で、実家は小規模でも農家であったから、子育ては終えたとはいえ常に年中忙しいのであった。
 しかし、母の大きな手術の毎には、わざわざ九州から休暇取って数日でも出て来てくれたし、今年も正月明けに母が先に体調崩して入院した際、一度来てくれていた。

 実は、その直後、そうしてウチの親たちが体調崩すようになってから、妹のところの義父、つまり旦那の父親が、家の風呂で急逝した。なかなか出てこないからおかしいと思い、覗きに行ったら風呂の中で死んでいたという。
 そんなこんなで、田舎だから自宅で突然の葬式となり、本来は、ウチからも嫁の実家の者として出向かないわけには行かなかったのだが、母が入院、父も認知症ということで、東京にいる妹の長男=我の甥っ子に香典託して勘弁してもらうことにした。

 向うでは葬式も大変だったそうだが、四十九日やら死後もあれこれ人が集まる儀式が続いていて、しかもこれから田植えが迫っていて、時間はなかなか取れないと聞いていた。
 が、今回、父もまだ入院中であることと、母は退院して来ても体調すぐれず、その介護に兄である我は疲労困憊だということで、ともかく時間つくって来てくれたのだ。
 母の癌の進行と体調のことも考えると、彼女にとって実家で母と過ごすのはこれが最後になるかもしれない。今回は、父も不在なので、先日運び込んだ介護ベッドで、母と娘で同室で寝てもらうことにした。

 母はもう今は体力がなく、自分の衣類の整理、夏物すら出せていなかったから、父を立川手短かに見舞った後、さっそく衣類の分別処分を手伝わさせた。もうボロい、古くて着ないが、勿体なくて捨てられない衣類などは思い切って妹に捨ててもらうことにしたのだ。
 我は男だから母の衣類は何が要不要かは判断できない。今回は明日一日、天気も悪いようなので、母と娘で少しは積年の母たちのガラクタ類を整理してもらおうと思っている。

 それにしても・・・今の気分はどう表現したら良いのだろうか。もう今は他家に嫁ぎ、他人となってしまっているが、同じ親から生まれた血を分けた兄妹が今家にいるというだけで、何とも言えず安泰、安心の気持ちでいっぱいだ。ようやく地に足がついたような・・・ほっとした気分。
 幸福に近しいが、ちょっと違う。充足感というべきか、ともかく久々に満ち足りた落ち着いた気持ちである。
 その理由もわかっている。母のことも父のことも何一つこれからのことは見えてないし解決したわけではないけれど、今まで我一人で背負ってきた荷物を背負う者が今ここにいるという安心感、いや安堵である。
 むろん、九州にいるときだって、携帯に電話かければ話はできる。しかし、現実的には妹は何も力にはなれない。もちろん、我にはそうした親しく我のことを思い心配してくれる人たちは当ブログの読者方も含めて何人もいてくれる。そしてその存在に常に救われていて有難いことだとつくづく思う。
 しかし、じっさいのところ、その介護や介助、生活を共にし世話という重荷を負うのは我だけであって、それは当然として思うし受け入れてもいるけれど、正直なところを吐露すればもうかなり限界、疲労感は溜まってきている。
 今回、忙しい中、妹が来てくれて、子として背負うべき荷物を数日でも分け合ってくれたことは本当に有難い。兄弟、妹がいて本当に良かったと心から思う。
 長生きしてくれたゆえの老親という重荷は、我一人が背負うべきものだと覚悟はしている。妹もまた彼らの子なのだから、介護に加わるべきだとは考えない。そもそも向うに行ってしまったときから他人だと我の中では考え切り捨てていた。
 が、今来てくれて思う。この荷を分かち合えるのは、最終的にはやはり血を分け合った者だけなのだと。もし、我に妻がいてくれて彼女が介護を手伝ってくれたとしてもこんな慰安は得られないように思う。
 何故ならやはり他人だからで、家族というのは本来血を分け合った者たちだけのごくごく閉ざされた、他者が入り込めない濃密な空間だったのである。

 たった一人だが、こんな我にも兄妹がいて本当に良かった。そしてあまり親しくもなかったその妹と縁を繋いでくれたのも親たちがいてくれ、老いて病み衰えてくれたからだったのだ。
 さならば、これもまた神の計らいであったのだ。

29日の日曜、八王子浅川の河原で中川五郎と2016年05月27日 22時34分59秒

詳細はクリックしてください。
★「みんなちがってみんないい」へ行こうよ

 今年も八王子のユニークな野外フリーイベント、第9回目となる「みんなちがってみんないい」が今度の日曜にある。
 先に、チラシの表面をアップしたけれど、去年は地元のシバも出たこのライブイベントに、今年は中川五郎御大が登場する。
 我、マス坊は、今はとてつもなく面倒な事情を抱えているが、山一つ越えた隣町ということもあり、今年も行けて、ぼんやり河川敷の芝生で、様々な音楽を聴きながらのんびりできたらと願う。

 このイベント、コンサートだけでなく、そもそも「多文化・環境共生型野外フリーイベント」と銘打ってあるように、エスニック料理や雑貨の出店もあるし、ドラムサークルやミニ牧場などさまざまな体験もできる。
 が、我としてはもかく何も考えず缶ビールでも片手に川風に吹かれてしばし、いろんな音楽に耳を傾けていたいと思っている。

 じっさいのところ、家族に病人を抱えていると、果たしてその日も確実に行けるか今もまだ定かではないけれど、お知らせ頂いた方にはお世話になっているし、特に今年は五郎御大も出るとなればやはり応援に行かねばならないと。
 その他、ハングドラムというスチールパンのような楽器を駆使するヤマザキマコト、まるこたぬ他、旧知の異能音楽家が多数登場する。また、上々颱風の白崎映美も再来とのことで、御大との共演もあるかもしれない。

 関心持たれ、行ってみたいけど、八王子は詳しくないので、という方は連絡ください。もしかしたら車で行くかもしれないのでどこかでビックアップできると思います。

 まあ、何はともかく、まずは母の体調が良くて昼間だけでも安心して家を開けられたら良いのだけれど。

死に行く人と生きていくこと・12016年05月28日 23時22分52秒

★死ぬための新しい「生き方」を考えていく

 妹は慌ただしく本日午後3時に九州大分へと帰っていった。父の病室に顔出してから立川駅南口まで送ってそこで別れたが、リムジンバスで羽田へ向かうとのことだった。
 実家滞在わずか二泊三日であったが、ものすごい量の持ちきれないほどのおみやげを抱えての帰宅である。聞けば、職場用、ご近所用、親戚用と、数日不在にしただけなのに、おみやげは欠かせないのだとのこと。田舎だなあとつくづく思う。
 そんな田舎に東京から嫁いでの苦労は今さら語ることも聴くこともないが、先にその嫁ぎ先の義父が風呂場で急死し、その後葬式までその家でやり終えた騒動はとてつもない苦労だったと今回初めて詳しく聴いた。
 やはり認知症で、しかも心臓が悪かったその義理の父は、風呂に入ったものの出てこないからその妻、妹の姑が見に行ったら風呂桶の中でうつぶせになって意識がない状態だったという。
 それから妹と義母二人で、風呂から担ぎ出し、すぐに救急車を呼んだが、既に死んでいて警察まで来て検視までする騒動となったと。
 病院まで行き、死亡が確認され、事件性がないとわかったとたん、すぐにご近所親戚に連絡して翌日の通夜のため、徹夜して大慌てで家の中を片付ける羽目になった。
 それから葬式本番まで、その田舎の家にひっきりなしに来客があり、その数百人近く。妹曰く、その数日間は応対に明け暮れほとんど眠ることもできなかったという。
 その後も四十九日とかの法要やらもあり、葬儀後もひっきりなしに弔問客が続き、嫁である妹も含めて遺族は全員心底へたばったと言う。

 そう、うっかり風呂とかで死ぬと、不審死扱いにされて警察まで来てひと騒動となる。それは聞いていたが、まさか身近に親族でそうなるとは考えていなかった。しかも東京ならば近くの葬儀所を借りてそこに弔問客を招けば済む話なのだが、田舎だと常に必ず自宅でやるのだそうで、死んだのが夕方だったのにその翌日はもう通夜として家の中を多勢の人が集まれるよう片づけなくてはならない。
 まさに急なまったく予定外の出来事で、さぞや遺された家族たちは大変だったかと同情してしまった。葬式とは常に面倒かつ大変なものだが、田舎での葬儀は我々東京人の想像を超えたものがある。

 本来は、その家の息子の妻の兄である我もそちらの親族の代表としてその家に出向きと弔うべきはずである。が、ちょうど母が入院しているときであったか、父の世話もあり、行くことはかなわない。結局香典だけ東京で働いていた妹の長男、我の甥っ子に託して、今回は不義理させて頂くことにした。

 そして今、我もそうした事態、つまり我家の葬式についてそろそろ視野に、想定内にしないとならなくなってきた。正直考えたくないし、母も父も一日でも長生きしてほしいが、もうそろそろまさに限界であり、命のリミットが近づいているのだ。
 それが怖いから嫌だから考えないというのは、愚かな野生動物が敵に追われると自らの巣穴に飛び込んで頭だけ隠すようなもので、どうしたって死は後ろから噛みついてくるのだから逃れようはない。
 ならば嫌でもやはりその時に備えて、ある程度の準備と心構えは立てるのが賢明な生き方であろう。それは当人たちにとっても。

 考えれば、人は必ず誰もが死ぬのである。しかし、生きている限りは、ふつうは「死」ということは考えない。生=日常と死は完全にかけ離れている。
 人は死ぬものではあるが、死ぬことと生きることとはまったく別次元の話であった。しかし、もうこれからは、死に行く人とどう生きていくか、死に向かう者と共に「生きていく」生き方を考えなければならない。
 
 正直なところ怖いし嫌である。が、死という別れは、妹の家のように、ある日突然訪れるかもしれない。むろん妹の義父だって相当衰えていて老い先長くはないと妹からも前から聞いていた。
 しかしまさに突然風呂の中で、心臓発作でも起きたものか急死という最後を迎えたのだ。
 ならば、我が親たちのように、しだいしだいに緩慢とした死に向かう生き方、いや、死に方はそれはそれなりに想定も対処もできるのではないのか。

 恥ずかしい話、今まではそうしたことは全く我は考えてこなかった。そして親たち当人すら自らの死については今もなおじっくり深く考えて認識していない。まだまだあと10年も20年も生きるつもりでいるようだ。
 が、父が九十を過ぎて、母が八十代半ばを過ぎたとならば、たとえどこも悪くない健康体だとしても十分いつ死んでも当然の年齢なのである。今までは二人ともまあ元気だったから生きることと死ぬことは解離、いや分離していた。もうそんなことは言ってられない。

 さあこれからは、死に行く人とどう生きていくか、を真剣に我は考えなくてはならない。我の人生もまた新たな次元に立ったという気持ちでいる。

久しぶりにうたと音楽に満たされた日2016年05月29日 21時09分19秒

★うたよ、我が内に再び戻れ

 今日は、午後から犬連れて隣町八王子の浅川河原で例年この季節開催されている多彩なイベント「みんなちがってみんないい」に行ってきた。
 そして久々に生のライブを堪能した。行けて良かった。観れた限り全て満足できた良い人たちばかり登場した。
 天気は下り坂との報だったが、晴れて、かなり気温も上がったが、雲もあり暑いことは暑かったが、炎天下で熱射病になるほどではなく、素敵な音楽とノンアルコールビールを片手に川風に吹かれているのは至福の時であった。
 生の音楽にじっくり耳を傾けるのは、三月末のかけこみ亭での「高坂一潮追悼企画」以来だから我にとって実に、二か月ぶりのライブ観覧ということになる。本当に楽しく満足できた。

 もっとこの素晴らしいイベント企画、多くの友人知人に宣伝して同行参加を働きかけなくてはならなかったのだが、この自分自身そのものが、果たして今日そこに行けるものか何ともはっきりせず、誰も誘えないでいた。
 当ブログであれこれ記したのでご存知の方もいるだろうが、今、我が父は、大腿骨付け根の骨折で入院中。母も先日癌性腸閉塞から腸の手術は終えて退院したのだが、未だ体調不調というか、体力が落ちて衰弱激しく、容体が全然安定しない。食事も少量しか摂れないだけでなく、もたれたり消化不良で下手すると吐いたり下したり騒動を起こす。よっていつまた急患扱いで病院に連れて行くことになるか定かでない。
 そんなで母の体調をみつつ待って、今日の昼まで様子見て、昼食をとらせてから慌てて車で八王子に向かった次第だった。

 実は、先週の水曜日の夜、父の見舞いの後に、そのついで谷保まで車で足伸ばして久々にかけこみ亭に顔出した。
 その日は、誰でも参加の「ゆる~くライブ」の日だったので、我もつい二曲ほど開始早々唄わせてもらった。
 が、この二か月、ほとんどギターも手にとらず唄うこともないだけでなく、音楽は自らは全く聴いていなかったこともあって、トチるとか以前に、全く唄うことができなかった。恥かいたとか以前に愕然とした。
 自分の中に、まったく音楽がなくなっていること、うたが消滅してしまったことに気づかされた。

 うたに思いや願いを託すとか、音楽で自己表現するとか俗にいう。が、自分の場合は、そんな気持ちは全くなく、それが目的だとしたら音楽とは、全てを動かすための手段でしかない。
 手段というと語弊があるが、パソコンで言うところのOSのようなもので、まずそれが起動しないことには何も動かず始まらない。
 それは外部にあるものではなく、我が内に在るべきもので、それがいつの間にか枯渇してしまっていることにショックを受けた。
 枯れた井戸を復活させる方法として、これは大工から聞いたのだが、上から呼び水をひたすら流し込むのだという。さすれば、地下水が湿った地層に戻ってきて、枯れた井戸でも再生し水を汲むことができる場合もあるのだそうだ。

 街にはむろんのこといろんな音楽が溢れている。我が日常が介護などに追われて多忙であろうと日々あちこちで買い物の折など音楽は我が耳に飛び込んでくる。が、それは流行りのJ・ポップであり、AKBの唄うドラマの主題歌や西野カナのヒットチューンだったり、中にはときどき良い曲もなくはないけれど、残念ながら我が心の枯れた井戸の呼び水にはならないでいた。
 逆に入った店で、リズム重視の激しい日本語ラップの類や、けったくそわるい応援ソング、甘っちょろいラブソングが流れていると少しそこいただけで体は拒絶反応で頭痛がし堪え切れず買い物も落ち着いてできやしない。
 我が井戸が求める「呼び水」としての音楽はそんなものではなかったのである。

 が、今日久々に、かつての春一番のように、野外の芝生の上でのんびりとアコギを中心とした我の好きな音楽の数々、――つまるところそれは中川五郎的フォークソングということに尽きるのだが、――を堪能し、それが呼び水となって心の奥底の、乾ききっていた水脈に水が浸み透り流れ始めてきたと感じた。
 今日はほんとうに行って良かった。

 水はまだ井戸からは出て来はしていない。が、これでやがて再び我が井戸からも音楽という我にとって最も大切な水を汲み上げることが゛できるかと思える。
 もともと水量が豊富な井戸ではないのだ。敬愛する中川五郎やシバという方々からたっぷりと呼び水を受けた。そしてこれからポンプを押し漕いでたとえチョロチョロとでも我が井戸から「うた」という冷たい、鮮烈な水が新たに出れば幸いだ。
 その確信も得た。

 今回、お誘いとお知らせ頂いたスタッフとして関われているMM氏に心から感謝記したい。