人はこんなふうに死んでいくのか ― 2016年09月02日 04時42分42秒
★我の「限界」よりも、逝く者にとって最善の死に方は何なのか
9月になった。いろいろ本当にご心配おかけして申し訳ない。つい書くべきでないことまで吐露してしまったかと反省している。そしていろいろお気遣いご心配されている皆さんに心から感謝いたしたい。
母はまだ生きている、が、やはり確実に日々少しづつ弱ってきている。そしてそのことに我は動じ苦悶しどうして良いか苦しんでいる。
考えてみれば、仮に余命一か月だとしても、その日まで元気でしっかり意識もあって突然熟した柿の実が落ちるように死ぬのではないのだ。
つまり死ぬためにはじょじょに弱っていき、意識もなくなりすべての機能が低下して、熾火が立ち消えるように静かに、死ぬべきして死ぬのだと思える。
世の中には、元気な人が交通事故に遭うがごとく、突然何らかの身体の異常で急死することも多々ある。が、病み衰え、まして高齢ともなるとその死は緩く緩慢になって最後はまさに多機能不全状態で、意識もなくなって死ぬべくして死んでいくのであろう。まさに「老衰」、自然死という言葉もあてはまる。
母も今年の12月には、87歳となる。女性の平均寿命もその辺りか。ならば、もはや老衰的自然死だとも考えられる。癌という病気が原因で、それに罹らなければ、あるいは治癒出来たらもう少し生きたかと信ずるが、それもまた天命であり、もっと若くして亡くなる人たちが多々いることを思えば、まあ十分に、満足いかなくても生きたと思えなくもない。
が、家族としては、やはりこうした現実は受け入れがたく、何とかもう少し時間を戻せないものか、あるいはこちら側に引き留どめるように何かできないものかと頭を痛める。
我もまた、先にも書いたが、家に連れ戻したからには懸命の世話をして、癌は治らずとも何とか元気に、高熱で入院する前ぐらいの状態に、つまり掘りごたつのある居間で親子三人でテレビ見ながら食事して団らんができるような状況に戻せたらと戻せたらと願っていた。
そして、何くそっ、ここから巻き返してやる!と心に誓った。
しかし、それはどうやらかなわず、常に付き添っている者としてはさほど状態は悪化してきたとは思えないし認め難いが、やはり食事の量も確実に減ってきて、言葉も少なくなり、返す反応も鈍くなってきていることは間違いなく、もうそれが自然の流れなのかとようやく思えてきた。
我もかなり心身疲れて来てはいるが、問題はそれよりも母の介護の質であって、そうして弱って来た母をどう当人も満足できる十分な看護ができなくなってきている。
むろん今ベッドの枕元には母が押せば鳴るチャイムのリモコンは置いてあり鳴ればいつでも我はすぐに駆けつけてオムツ交換なり何でもしてやるつもりだが、もっと弱って来てしまえば母自らそうした異変なり要求を知らせることは不可能なるだろう。
また、近くへの買い物や犬の散歩でもこれからさらに弱ってくれば心配でおちおち行けなくなろう。父がデイケアへ行かない日は、父に言いつけてベッド脇で母の様子見を頼めなくはないが、もし何かあったとして、認知症の彼としてはオムツ交換どころか何一つてぎやしなく、我の携帯に連絡できるか119に電話できるかだって怪しい。
やはり病院など施設に入れて24時間看護体制が整っている状況の方が母も安心するのではないか。
家で死期を看取りたいという願いは今も強くある。また当人もそれを望んでいる。が、我一人で、たとい母の夫である父がいたとしても、我だけでその最後の日まで介護して看取るのはやはり無理なのではないか。病院などなら交代でプロの看護師たちが様子を見ていてくれている。そして些細な異変にもすぐに対処できる。
我はたった一人で、24時間対応していてもどこかで寝たり他のこと、家の生活の用事もしないとならない。母の介護だけに専念できやしない。
今我が家はまさにゴミ屋敷と化してしまい、台所も生ゴミや買ってきた食品トレイなどが散乱し、庭もものすごい状態となってしまった。理由は簡単で、もともと片付ける処理能力が劣っている我が、母の介護に追われて家事のために割く時間がなくなってしまったからだ。
毎食少しでも食べてもらえるよう、苦労して献立を考え品数をそろえる。そして、母のベッドのある部屋に父を連れて来て二人で食べさせる。しかし、少しは口付けても母はすぐにもうお腹いっぱい、ごちさうさん、、お腹が苦しいと言い出しベッド倒してとせがむ。ときに腹痛が激しければ、それから我は数十分母のお腹をさすってやる。
残ったものは後で我が食べて片づければ良いが、母だけでなく父も食事量は減っているので、ともかく大量に残ってしまう。
冷蔵庫に入れて、後でまた出して食べてもらえればと願うが、父はともかく母は目先の変わった、今買ってきたり作ったものなら箸つけるが、以前つくったものはまず食べてくれない。ぜいたく以前にもう食欲かなく、食べたい気力が衰えてしまっているのだろう。
しかも我も母がそんなだと落ち着いて食事する時間すらない。この数か月座って食べた記憶もなく、冷蔵庫も満杯で結果としてこの季節、あちこちにすえて腐ってハエがむらがる残り物が溢れることになる。野菜を買ってきてもほとんど常に腐らせてしまう。全てに時間がなく、かろうじて汚れ物は洗濯できてももう後片付けという家事すらできず、生活環境は劣悪になってしまった。
どうしたものかと思う。
家で死期を看取るということは、そうした体制が整っていてのことだと今にして気づく。つまり、ある程度の大家族で、死に臨む者の配偶者の有無はともかく、介護する側、つまりたいていは子供、つまり息子や娘だが、その夫婦にプラスしてその兄弟などもときに加わってチームで後退してやってどうにかなるかもしれない。あるいは介護専門のヘルパー、看護経験者、昔でいう家政婦のような人を雇い来てもらうかだ。戦前は少し裕福な家は、家事も含めてそうした家政婦さんを雇っていた。
しかしウチにはそんな余裕はまったくない。今、毎日看護師や介護ヘルパーは来てくれるが、そのどれも30分~1時間の枠の中だけなのである。しかも家事は一切してはならないのである。
さらに告白すれば、我一人でたとえ体力的、諸条件的に、母の最期をこの家で看取れたとしても我自身の精神がそれに耐えうるのだろうか。今何よりそのことが不安でたまらなくなっている。
誰か側にいてくれてその不安を分け合ってほしいと願う。が、そんな人はいたとしてもそのとき、その場にいてくれるとは限らないのである。妹は、もう九州から葬儀のときでもないと来てくれない。
ただこうしたすべてのことは、この事態が起きて自ら体験してみるまでまったく未知のことであり考えることすらなかった。母の介護を通しておおくのことを学び得た。そのことだけは本当に良かったと思う。有難いことだ。
我にもっと揺るがない怖れることのない強い信仰を、ただ願う。
9月になった。いろいろ本当にご心配おかけして申し訳ない。つい書くべきでないことまで吐露してしまったかと反省している。そしていろいろお気遣いご心配されている皆さんに心から感謝いたしたい。
母はまだ生きている、が、やはり確実に日々少しづつ弱ってきている。そしてそのことに我は動じ苦悶しどうして良いか苦しんでいる。
考えてみれば、仮に余命一か月だとしても、その日まで元気でしっかり意識もあって突然熟した柿の実が落ちるように死ぬのではないのだ。
つまり死ぬためにはじょじょに弱っていき、意識もなくなりすべての機能が低下して、熾火が立ち消えるように静かに、死ぬべきして死ぬのだと思える。
世の中には、元気な人が交通事故に遭うがごとく、突然何らかの身体の異常で急死することも多々ある。が、病み衰え、まして高齢ともなるとその死は緩く緩慢になって最後はまさに多機能不全状態で、意識もなくなって死ぬべくして死んでいくのであろう。まさに「老衰」、自然死という言葉もあてはまる。
母も今年の12月には、87歳となる。女性の平均寿命もその辺りか。ならば、もはや老衰的自然死だとも考えられる。癌という病気が原因で、それに罹らなければ、あるいは治癒出来たらもう少し生きたかと信ずるが、それもまた天命であり、もっと若くして亡くなる人たちが多々いることを思えば、まあ十分に、満足いかなくても生きたと思えなくもない。
が、家族としては、やはりこうした現実は受け入れがたく、何とかもう少し時間を戻せないものか、あるいはこちら側に引き留どめるように何かできないものかと頭を痛める。
我もまた、先にも書いたが、家に連れ戻したからには懸命の世話をして、癌は治らずとも何とか元気に、高熱で入院する前ぐらいの状態に、つまり掘りごたつのある居間で親子三人でテレビ見ながら食事して団らんができるような状況に戻せたらと戻せたらと願っていた。
そして、何くそっ、ここから巻き返してやる!と心に誓った。
しかし、それはどうやらかなわず、常に付き添っている者としてはさほど状態は悪化してきたとは思えないし認め難いが、やはり食事の量も確実に減ってきて、言葉も少なくなり、返す反応も鈍くなってきていることは間違いなく、もうそれが自然の流れなのかとようやく思えてきた。
我もかなり心身疲れて来てはいるが、問題はそれよりも母の介護の質であって、そうして弱って来た母をどう当人も満足できる十分な看護ができなくなってきている。
むろん今ベッドの枕元には母が押せば鳴るチャイムのリモコンは置いてあり鳴ればいつでも我はすぐに駆けつけてオムツ交換なり何でもしてやるつもりだが、もっと弱って来てしまえば母自らそうした異変なり要求を知らせることは不可能なるだろう。
また、近くへの買い物や犬の散歩でもこれからさらに弱ってくれば心配でおちおち行けなくなろう。父がデイケアへ行かない日は、父に言いつけてベッド脇で母の様子見を頼めなくはないが、もし何かあったとして、認知症の彼としてはオムツ交換どころか何一つてぎやしなく、我の携帯に連絡できるか119に電話できるかだって怪しい。
やはり病院など施設に入れて24時間看護体制が整っている状況の方が母も安心するのではないか。
家で死期を看取りたいという願いは今も強くある。また当人もそれを望んでいる。が、我一人で、たとい母の夫である父がいたとしても、我だけでその最後の日まで介護して看取るのはやはり無理なのではないか。病院などなら交代でプロの看護師たちが様子を見ていてくれている。そして些細な異変にもすぐに対処できる。
我はたった一人で、24時間対応していてもどこかで寝たり他のこと、家の生活の用事もしないとならない。母の介護だけに専念できやしない。
今我が家はまさにゴミ屋敷と化してしまい、台所も生ゴミや買ってきた食品トレイなどが散乱し、庭もものすごい状態となってしまった。理由は簡単で、もともと片付ける処理能力が劣っている我が、母の介護に追われて家事のために割く時間がなくなってしまったからだ。
毎食少しでも食べてもらえるよう、苦労して献立を考え品数をそろえる。そして、母のベッドのある部屋に父を連れて来て二人で食べさせる。しかし、少しは口付けても母はすぐにもうお腹いっぱい、ごちさうさん、、お腹が苦しいと言い出しベッド倒してとせがむ。ときに腹痛が激しければ、それから我は数十分母のお腹をさすってやる。
残ったものは後で我が食べて片づければ良いが、母だけでなく父も食事量は減っているので、ともかく大量に残ってしまう。
冷蔵庫に入れて、後でまた出して食べてもらえればと願うが、父はともかく母は目先の変わった、今買ってきたり作ったものなら箸つけるが、以前つくったものはまず食べてくれない。ぜいたく以前にもう食欲かなく、食べたい気力が衰えてしまっているのだろう。
しかも我も母がそんなだと落ち着いて食事する時間すらない。この数か月座って食べた記憶もなく、冷蔵庫も満杯で結果としてこの季節、あちこちにすえて腐ってハエがむらがる残り物が溢れることになる。野菜を買ってきてもほとんど常に腐らせてしまう。全てに時間がなく、かろうじて汚れ物は洗濯できてももう後片付けという家事すらできず、生活環境は劣悪になってしまった。
どうしたものかと思う。
家で死期を看取るということは、そうした体制が整っていてのことだと今にして気づく。つまり、ある程度の大家族で、死に臨む者の配偶者の有無はともかく、介護する側、つまりたいていは子供、つまり息子や娘だが、その夫婦にプラスしてその兄弟などもときに加わってチームで後退してやってどうにかなるかもしれない。あるいは介護専門のヘルパー、看護経験者、昔でいう家政婦のような人を雇い来てもらうかだ。戦前は少し裕福な家は、家事も含めてそうした家政婦さんを雇っていた。
しかしウチにはそんな余裕はまったくない。今、毎日看護師や介護ヘルパーは来てくれるが、そのどれも30分~1時間の枠の中だけなのである。しかも家事は一切してはならないのである。
さらに告白すれば、我一人でたとえ体力的、諸条件的に、母の最期をこの家で看取れたとしても我自身の精神がそれに耐えうるのだろうか。今何よりそのことが不安でたまらなくなっている。
誰か側にいてくれてその不安を分け合ってほしいと願う。が、そんな人はいたとしてもそのとき、その場にいてくれるとは限らないのである。妹は、もう九州から葬儀のときでもないと来てくれない。
ただこうしたすべてのことは、この事態が起きて自ら体験してみるまでまったく未知のことであり考えることすらなかった。母の介護を通しておおくのことを学び得た。そのことだけは本当に良かったと思う。有難いことだ。
我にもっと揺るがない怖れることのない強い信仰を、ただ願う。
続・人はこんなふうに死んでいくのか ― 2016年09月04日 22時55分47秒
★非日常を日常として生き抜いていく
寿命とか天命、老衰という言葉がある。今、末期癌で余命いくばくもないとされる母と暮らして日々いろんなことを考えさせられている。
我としては何とかもう一度、せめて起きて少しは歩けるような状態に、つまり敗血症での高熱出して一度目の入院する以前まで戻せたらと願うがどうやらそれは難しいようだ。
いや、毎日母と共に過ごしているとはっきりわからないが、確実にやはり体調は弱ってきて、まだ意識はあるものの言葉も少なくなりロレツも回らなくなってきているようで、寝たきりの度合いはさらに増してしまった。食事の量も日々減ってきてしまっている。
何とか少しはもう少し元気に戻したいと必死に願い、食事を工夫し手足や腹部をマッサージして昼夜つききりで励ましてはいるが、どこそこが痛いと言うよりも、ともかく辛いとかしんどいという言葉が出てきてこちらとしてもどうすることもできず途方にくれ嘆くしかない。
繰り返しになるが、今やっと初めて人はこんな風にして死んでいくのかとわかってきた。むろん不慮の事故死や脳、心筋梗塞など突発的病死ではない話だ。
母ももう86歳。間もなく87歳となる。女でもっと年上でピンピンして元気でやっている人も多々いるけれど、ほぼ平均年齢であり、まさに寿命が来たのかなあとも思う。
何より良かったと思うのは、80歳を過ぎるまで一切病気らしい病気はしたことがなく、入院したのは我らが兄妹を産むお産のときだけだったと言うのだから幸運な人生であっただろう。
また、癌が発見され、かなり進んでいたものの一度は手術で摘出後、癌は消えてこの約4年は元通りの日常生活が送れていたことだ。
去年の年明けから癌が再発して、温泉治療他いろいろ手を尽くしたものの結果として今に至っているわけだから、まあ「おまけ」の歳月がずいぶん付いたとも考えられなくもない。
順当な恵まれた人生だったと子としても思う。ただ、母の母は、百歳近くまで生きた人だったし、母の父も確か88までは健在だったはずだから当人も我もちょっと早すぎるぞと思うところもまだある。
しかし、母の母は、晩年は約20年間も寝たきりで、介護していた子どもたちの家々をたらい回しにさせられた挙句にあちこち病院を転々と移動させられて死んだのだから、それを思えば我が母ははるかに今幸福と言って良いかと思う。それは子の自己満足か。
何より今こうして母と向き合い看護していてわかったことは、母に限らず人とは、いや生き物はこうやって死んでいくのかとわかってきたことだ。
これは以前から拙ブログでも書き記したが、歳をとるということは、それまで当たり前にできていたことができなくなっていくことなのである。
つまり食べることも歩くことも眠ることすらなかなか難しくカンタンにはできなくなってくる。お若い人は信じられないだろうしわからないことだろう。
我もまたそうであった。若い頃は年寄りは何でこんなにモタモタして緩慢かつ反応が鈍いのか理解できなかった。が、今、還暦を目前にしてなるほどこれが老化、歳をとるということなのかとよくわかる。
眼だって老眼だけでなくかすんで見えなくピントが合わなくなるし、耳も遠く髪も薄く、歯もスカスカ、ボロボロになっていく。よって食べられなくなるし、量も減ってしまう。また無理して食べたり呑めば後が苦しい。
さらに夜だってなかなか眠れないだけでなく、睡眠が浅く、長くは眠れない。体力が低下するだけでなく全ての機能が衰えていく。
そして「死」とはそうしたことの一番先にあるものだと今ようやく母を診てよくわかる。つまりすべてが衰えて、ダメになり満身創痍ならぬ、心身衰弱し機能が低下してついに死に至るのである。
当人の意識としては、ともかくしんどい、辛いということに尽きるだろう。食べて栄養つけろと言われても食欲もないし噛むのも飲みこむのもしんどい。少し食べただけでもう体が受け付けない。そしてさらに衰弱し痩せていく。最後は水も喉を通らなくなっていく。
本来は当たり前にできていた生きていくための諸々のことができなくなって人は死んでいく。
しかし、母の母、我が祖母が生前良く言っていたが、歳をとるとはまた赤ん坊に戻ること、二度童(にどわらし)になることなのだから、仕方ないのである。
そう、赤ん坊は、自ら乳を欲して呑む以外のことは何一つできやしない。そしてその母は、その子に乳をふくませ、排便の世話をして、一人前の人間へと何年もかけて育て上げていく。
思うに、人間として機能が最高になるのは、十代後半から二十代初頭の頃ではないか。体力記憶力も最高だったという意識が我にもある。
が、それがまたじょじょに加齢と共にまた衰え低下していき、長生きすれば長生きするほど、老化衰弱は増していく。むろん個人差はかなりあるが。そして最後は、赤ん坊になるどころか、何一つ摂れなくなって、意識も失い元のゼロ、何もなかった状態に帰するのである。
そんなことは誰だって知っているのかもしれない。しかし、我は知らなかった。いや、頭では理解して知識として知ってはいたが、現実問題として今、母を介護していてそういうことか!とはっきりわかってきた。
ならばこれも人の生き方の行き着く先であり、誰もが経験していく当たり前のことなのである。しかし、子としての我としては、それを当然の、仕方ない当たり前の事だと、冷静に未だ受け入れられないでいる。何とか奇跡は起きないものかと今も願い祈るばかりだ。
聖書には、ナザレのイエスが伝道の際に起こした奇跡の数々が記されている。中でも彼は、何人もの死者を再び生き返らせては神の偉大さと信仰の重要を説いている。が、今は我もわかる。イエスが生き返られた少女や死後三日もたって墓から呼び戻した男もまたやがては老いてまた再び当たり前に死んだのだと。
イエスといえども死ぬべき歳の者を生き返らせはしていないのだ。ならば、災難にあうとき災難にあうのが良いように、人は死ぬべき時には死んでいくのを受け入れるしかないのである。
問題は死別という哀しみは哀しみとして、そのショックを我がきちんと冷静に受け入れられるかだけだ。
寿命とか天命、老衰という言葉がある。今、末期癌で余命いくばくもないとされる母と暮らして日々いろんなことを考えさせられている。
我としては何とかもう一度、せめて起きて少しは歩けるような状態に、つまり敗血症での高熱出して一度目の入院する以前まで戻せたらと願うがどうやらそれは難しいようだ。
いや、毎日母と共に過ごしているとはっきりわからないが、確実にやはり体調は弱ってきて、まだ意識はあるものの言葉も少なくなりロレツも回らなくなってきているようで、寝たきりの度合いはさらに増してしまった。食事の量も日々減ってきてしまっている。
何とか少しはもう少し元気に戻したいと必死に願い、食事を工夫し手足や腹部をマッサージして昼夜つききりで励ましてはいるが、どこそこが痛いと言うよりも、ともかく辛いとかしんどいという言葉が出てきてこちらとしてもどうすることもできず途方にくれ嘆くしかない。
繰り返しになるが、今やっと初めて人はこんな風にして死んでいくのかとわかってきた。むろん不慮の事故死や脳、心筋梗塞など突発的病死ではない話だ。
母ももう86歳。間もなく87歳となる。女でもっと年上でピンピンして元気でやっている人も多々いるけれど、ほぼ平均年齢であり、まさに寿命が来たのかなあとも思う。
何より良かったと思うのは、80歳を過ぎるまで一切病気らしい病気はしたことがなく、入院したのは我らが兄妹を産むお産のときだけだったと言うのだから幸運な人生であっただろう。
また、癌が発見され、かなり進んでいたものの一度は手術で摘出後、癌は消えてこの約4年は元通りの日常生活が送れていたことだ。
去年の年明けから癌が再発して、温泉治療他いろいろ手を尽くしたものの結果として今に至っているわけだから、まあ「おまけ」の歳月がずいぶん付いたとも考えられなくもない。
順当な恵まれた人生だったと子としても思う。ただ、母の母は、百歳近くまで生きた人だったし、母の父も確か88までは健在だったはずだから当人も我もちょっと早すぎるぞと思うところもまだある。
しかし、母の母は、晩年は約20年間も寝たきりで、介護していた子どもたちの家々をたらい回しにさせられた挙句にあちこち病院を転々と移動させられて死んだのだから、それを思えば我が母ははるかに今幸福と言って良いかと思う。それは子の自己満足か。
何より今こうして母と向き合い看護していてわかったことは、母に限らず人とは、いや生き物はこうやって死んでいくのかとわかってきたことだ。
これは以前から拙ブログでも書き記したが、歳をとるということは、それまで当たり前にできていたことができなくなっていくことなのである。
つまり食べることも歩くことも眠ることすらなかなか難しくカンタンにはできなくなってくる。お若い人は信じられないだろうしわからないことだろう。
我もまたそうであった。若い頃は年寄りは何でこんなにモタモタして緩慢かつ反応が鈍いのか理解できなかった。が、今、還暦を目前にしてなるほどこれが老化、歳をとるということなのかとよくわかる。
眼だって老眼だけでなくかすんで見えなくピントが合わなくなるし、耳も遠く髪も薄く、歯もスカスカ、ボロボロになっていく。よって食べられなくなるし、量も減ってしまう。また無理して食べたり呑めば後が苦しい。
さらに夜だってなかなか眠れないだけでなく、睡眠が浅く、長くは眠れない。体力が低下するだけでなく全ての機能が衰えていく。
そして「死」とはそうしたことの一番先にあるものだと今ようやく母を診てよくわかる。つまりすべてが衰えて、ダメになり満身創痍ならぬ、心身衰弱し機能が低下してついに死に至るのである。
当人の意識としては、ともかくしんどい、辛いということに尽きるだろう。食べて栄養つけろと言われても食欲もないし噛むのも飲みこむのもしんどい。少し食べただけでもう体が受け付けない。そしてさらに衰弱し痩せていく。最後は水も喉を通らなくなっていく。
本来は当たり前にできていた生きていくための諸々のことができなくなって人は死んでいく。
しかし、母の母、我が祖母が生前良く言っていたが、歳をとるとはまた赤ん坊に戻ること、二度童(にどわらし)になることなのだから、仕方ないのである。
そう、赤ん坊は、自ら乳を欲して呑む以外のことは何一つできやしない。そしてその母は、その子に乳をふくませ、排便の世話をして、一人前の人間へと何年もかけて育て上げていく。
思うに、人間として機能が最高になるのは、十代後半から二十代初頭の頃ではないか。体力記憶力も最高だったという意識が我にもある。
が、それがまたじょじょに加齢と共にまた衰え低下していき、長生きすれば長生きするほど、老化衰弱は増していく。むろん個人差はかなりあるが。そして最後は、赤ん坊になるどころか、何一つ摂れなくなって、意識も失い元のゼロ、何もなかった状態に帰するのである。
そんなことは誰だって知っているのかもしれない。しかし、我は知らなかった。いや、頭では理解して知識として知ってはいたが、現実問題として今、母を介護していてそういうことか!とはっきりわかってきた。
ならばこれも人の生き方の行き着く先であり、誰もが経験していく当たり前のことなのである。しかし、子としての我としては、それを当然の、仕方ない当たり前の事だと、冷静に未だ受け入れられないでいる。何とか奇跡は起きないものかと今も願い祈るばかりだ。
聖書には、ナザレのイエスが伝道の際に起こした奇跡の数々が記されている。中でも彼は、何人もの死者を再び生き返らせては神の偉大さと信仰の重要を説いている。が、今は我もわかる。イエスが生き返られた少女や死後三日もたって墓から呼び戻した男もまたやがては老いてまた再び当たり前に死んだのだと。
イエスといえども死ぬべき歳の者を生き返らせはしていないのだ。ならば、災難にあうとき災難にあうのが良いように、人は死ぬべき時には死んでいくのを受け入れるしかないのである。
問題は死別という哀しみは哀しみとして、そのショックを我がきちんと冷静に受け入れられるかだけだ。
落ち着いたら更新します。 ― 2016年09月07日 23時04分09秒
★母の体調があまり良くないので
この数日、いろいんなことがあって、パソコンにすら向き合えなかった。家で介護している母の具合があまり良くなく、といってもまた即入院するほどの事態ではないと思うのだけれど、傍らから常に離れられずいる。もうひっきりなしに、我を呼ぶ母のチャイムが鳴っている。
となれば、ほとんど睡眠時間もとれなく、さすがに一人で24時間看護体制の限界を痛感している。そう、確かにホスピスの段階にはいってきたのかもしれない。残念だが、それも考え始めたところだ。
我としては、何としても秋の彼岸の頃までは、何としても家で母の介護したいとまだ願ってはいるのだけれど。
おちついたら詳しいことは報告いたしたい。本当にいろいろ書きたいことは多々あれど、まずは母のことが最優先なので。どうかご容赦願います。
この数日、いろいんなことがあって、パソコンにすら向き合えなかった。家で介護している母の具合があまり良くなく、といってもまた即入院するほどの事態ではないと思うのだけれど、傍らから常に離れられずいる。もうひっきりなしに、我を呼ぶ母のチャイムが鳴っている。
となれば、ほとんど睡眠時間もとれなく、さすがに一人で24時間看護体制の限界を痛感している。そう、確かにホスピスの段階にはいってきたのかもしれない。残念だが、それも考え始めたところだ。
我としては、何としても秋の彼岸の頃までは、何としても家で母の介護したいとまだ願ってはいるのだけれど。
おちついたら詳しいことは報告いたしたい。本当にいろいろ書きたいことは多々あれど、まずは母のことが最優先なので。どうかご容赦願います。
別れは突然に ― 2016年09月08日 08時36分04秒
★母は、本日早暁なくなりました。励ましと応援、諸事有難うございました。
今もまだ実感ないし、この事実、現実をどう受け取って良いのかわからない。母は、今も下の介護ベッドで変わらぬ姿のまま静かに眠っている。その顔は穏やかで、熟睡しているとしか思えない。
が、もう息はなく、先ほど葬儀屋さんがドライアイスなどを用意して、簡単な焼香ができるように、ろうそくと鐘など全部整えてくれたのだ。
たぶんこれから葬儀に向けてものすごく慌ただしくなるので、ごく簡単にお知らせしておきます。午後、葬儀社の方と打ち合わせして葬儀日程などはっきりさせていくことになるとのことです。
昨日は、一日便が止まらない状態で、少しうとうとすると、また腹が痛み出し、オムツに便が出る。そうしたことの繰り返しで、その数は10数回にも及び、深夜からそれが続いたため我はその都度起こされては介助しておりました。
昼過ぎに訪問看護士が来て、状況を説明して200mlの点滴を腹から入れたのですが、要するに腸を休ませないとと言われて、朝は軽く無理して食べさせたものの午後も晩飯も食べずにひたすら寝てました。
しかし少し静かに眠っていたかと思うと、母は、お腹痛い、苦しいと騒ぎ出し、その都度腹部を軽く撫でたり、下痢止めの薬などを飲ませていたのですが、便の回数は止まらず、少量でもオムツを交換したとたんや、その途中でも出てしまい、当人もいったいどうしちゃったんだろう、助けて助けて、と我にすがっておりました。
我は、そんなで睡眠不足のまま、夕方から母の隣の床でマットにシュラフ敷いて寝てたのですが、日付が変わっても数十分おきに便はほんの少しでも出続け、その都度オムツの、パッドだけでも交換して他のですが、やはりその作業すら我の手際の悪さもあってかなりの疲労となっていたようです。
けっきょく、3時半頃、日付が変わってから四度目かのオムツ交換して、口だけでも潤そうと吸い飲みで水を口にふくませたところ、つい量が多かったのか母はむせて苦しがり、ヘンな咳が出始めました。
そのあと、口をうがいしたいと言うので水をまた飲ませたらそれは吐き出さず全部飲んだら呼吸がヘンな風になって、うまく息が出来ていない感じなので、呼吸が弱く少なくなりました。声かけても反応はありません。慌てて訪問看護センターに電話し相談したが、さらに苦しそうなので119番の救急車に手配、彼らはわりとすぐ来てくれたものの、その時点で心肺停止と診断され、心臓マッサージや酸素吸入など立川の病院に行くまでずっと車中も手を尽くしてくれたのですが、向うで死亡確認となりました。
私としては、何がなんでも今月の20日辺りまでは家で面倒見て、ともかくそこまで我も倒れず頑張ったら、ホスピスなど次の段階に移行を、と考えていたのです。そしてそれは可能だと信じてました。
が、まったく想定外というか、あまりに突然、そんなふうに誤嚥して息が出来なくなって死ぬとは思いもよらぬ出来事でした。
今はまだ実感は何もありません。父は戻って来た母の遺骸に縋り号泣しておりましたが、私としては、ただただこれから葬儀までの手順で頭がいっぱいです。
親戚やケアマネや、親しくしていた関係者にまずは早朝からでんわしまくって、母の急な死を伝えて、今これを記してます。
母は、その当日まで意識はあり、言葉を発するのはだいぶしんどくなっていましたが、まだまだこれなら大丈夫だと我は安心してました。ただ、急な多発する下痢に頭痛めて、いったいどうしたものか、入院させたほうが良いのか、と訪問看護ステーションとも明日医師とはかって指示を仰ぐ予定でした。
まさか、こんなふうに突然の別れが来るとは。まだまだできることはあったし、話したいこともたくさんありました。まだその時間はあると信じていました。
今はただ悔いだけです。最後は我も睡眠不足でぼうっとしてつい母に、小言まで言ってしまいました。一番苦しいのは母当人なのに、ついこんな状態がいつまで続くのかと溜息ついて母を責めるようなこともこぼしてしまいしました。
今は、母にただただ詫びています。最後の最後でつい弱音吐いて、愚痴こぼしてごめんねと。
私がもっとがんばれたら、愚痴などこぼさなかったら母はもう少し生きていたはずです。つい弱音を吐いて、このままだと息子も倒れてしまうと母を責めてしまいました。
もっともっとその日まで、できることもあったしすべきことも多々あったのに、けっきょくは日々の食事と洗濯、オムツ交換だけに追われて何一つできませんでした。
そして今これもまた母の愛なのかと思うしかありません。今は悲しみ以前に悔いだけが、私を責めてます。ただ、正直なところ、ほっとしたような気持ちも今あることも恥ずかしながら告白します。
でもでもでも、母にはもっと生きていてほしかった。我はがんばった。が、最後でつい弱音を吐いてしまった。
覚悟も想定もしていたのに、こんな風に突然最後の時が来るなんて。
まさかこんなに早く永遠の別れが来るとは。
拙ブログの読者のみなさん、本当に励ましと応援、ありがとうございました。ただただ感謝です。皆様にも神の恵みとご加護がありますように。
母はまだ眠っています。数時間前と変わらずそこにいます。たぶんこれからも母はわが心のうちでいつまでも生き続けることでしょう。
本当にこれまで多々ありがとうございました!
今もまだ実感ないし、この事実、現実をどう受け取って良いのかわからない。母は、今も下の介護ベッドで変わらぬ姿のまま静かに眠っている。その顔は穏やかで、熟睡しているとしか思えない。
が、もう息はなく、先ほど葬儀屋さんがドライアイスなどを用意して、簡単な焼香ができるように、ろうそくと鐘など全部整えてくれたのだ。
たぶんこれから葬儀に向けてものすごく慌ただしくなるので、ごく簡単にお知らせしておきます。午後、葬儀社の方と打ち合わせして葬儀日程などはっきりさせていくことになるとのことです。
昨日は、一日便が止まらない状態で、少しうとうとすると、また腹が痛み出し、オムツに便が出る。そうしたことの繰り返しで、その数は10数回にも及び、深夜からそれが続いたため我はその都度起こされては介助しておりました。
昼過ぎに訪問看護士が来て、状況を説明して200mlの点滴を腹から入れたのですが、要するに腸を休ませないとと言われて、朝は軽く無理して食べさせたものの午後も晩飯も食べずにひたすら寝てました。
しかし少し静かに眠っていたかと思うと、母は、お腹痛い、苦しいと騒ぎ出し、その都度腹部を軽く撫でたり、下痢止めの薬などを飲ませていたのですが、便の回数は止まらず、少量でもオムツを交換したとたんや、その途中でも出てしまい、当人もいったいどうしちゃったんだろう、助けて助けて、と我にすがっておりました。
我は、そんなで睡眠不足のまま、夕方から母の隣の床でマットにシュラフ敷いて寝てたのですが、日付が変わっても数十分おきに便はほんの少しでも出続け、その都度オムツの、パッドだけでも交換して他のですが、やはりその作業すら我の手際の悪さもあってかなりの疲労となっていたようです。
けっきょく、3時半頃、日付が変わってから四度目かのオムツ交換して、口だけでも潤そうと吸い飲みで水を口にふくませたところ、つい量が多かったのか母はむせて苦しがり、ヘンな咳が出始めました。
そのあと、口をうがいしたいと言うので水をまた飲ませたらそれは吐き出さず全部飲んだら呼吸がヘンな風になって、うまく息が出来ていない感じなので、呼吸が弱く少なくなりました。声かけても反応はありません。慌てて訪問看護センターに電話し相談したが、さらに苦しそうなので119番の救急車に手配、彼らはわりとすぐ来てくれたものの、その時点で心肺停止と診断され、心臓マッサージや酸素吸入など立川の病院に行くまでずっと車中も手を尽くしてくれたのですが、向うで死亡確認となりました。
私としては、何がなんでも今月の20日辺りまでは家で面倒見て、ともかくそこまで我も倒れず頑張ったら、ホスピスなど次の段階に移行を、と考えていたのです。そしてそれは可能だと信じてました。
が、まったく想定外というか、あまりに突然、そんなふうに誤嚥して息が出来なくなって死ぬとは思いもよらぬ出来事でした。
今はまだ実感は何もありません。父は戻って来た母の遺骸に縋り号泣しておりましたが、私としては、ただただこれから葬儀までの手順で頭がいっぱいです。
親戚やケアマネや、親しくしていた関係者にまずは早朝からでんわしまくって、母の急な死を伝えて、今これを記してます。
母は、その当日まで意識はあり、言葉を発するのはだいぶしんどくなっていましたが、まだまだこれなら大丈夫だと我は安心してました。ただ、急な多発する下痢に頭痛めて、いったいどうしたものか、入院させたほうが良いのか、と訪問看護ステーションとも明日医師とはかって指示を仰ぐ予定でした。
まさか、こんなふうに突然の別れが来るとは。まだまだできることはあったし、話したいこともたくさんありました。まだその時間はあると信じていました。
今はただ悔いだけです。最後は我も睡眠不足でぼうっとしてつい母に、小言まで言ってしまいました。一番苦しいのは母当人なのに、ついこんな状態がいつまで続くのかと溜息ついて母を責めるようなこともこぼしてしまいしました。
今は、母にただただ詫びています。最後の最後でつい弱音吐いて、愚痴こぼしてごめんねと。
私がもっとがんばれたら、愚痴などこぼさなかったら母はもう少し生きていたはずです。つい弱音を吐いて、このままだと息子も倒れてしまうと母を責めてしまいました。
もっともっとその日まで、できることもあったしすべきことも多々あったのに、けっきょくは日々の食事と洗濯、オムツ交換だけに追われて何一つできませんでした。
そして今これもまた母の愛なのかと思うしかありません。今は悲しみ以前に悔いだけが、私を責めてます。ただ、正直なところ、ほっとしたような気持ちも今あることも恥ずかしながら告白します。
でもでもでも、母にはもっと生きていてほしかった。我はがんばった。が、最後でつい弱音を吐いてしまった。
覚悟も想定もしていたのに、こんな風に突然最後の時が来るなんて。
まさかこんなに早く永遠の別れが来るとは。
拙ブログの読者のみなさん、本当に励ましと応援、ありがとうございました。ただただ感謝です。皆様にも神の恵みとご加護がありますように。
母はまだ眠っています。数時間前と変わらずそこにいます。たぶんこれからも母はわが心のうちでいつまでも生き続けることでしょう。
本当にこれまで多々ありがとうございました!
まさかこんなにあっけなく ― 2016年09月08日 12時54分40秒
★人はこんなに簡単に死んでしまうのか
あれからあちこちに電話してお知らせしたり、事前の今できるやるべきことをやって、ほんの少しベッドに横になった。缶ビール片手に。
いくらかは寝たと思うが、今もまだ頭がフラフラして体も心もここにあらずという感じでいる。
ずっと自問しているのは、もう少しうまいやり方、できることがあったのではないかということだ。みすみす我が手のうちで、母の命を旅立たせてしまった。
何がいけなかったのか。何が原因だったのか。この間の我らのことを知っている多くの方々は一様に、よく頑張った、と我を誉めてくれる。が、ずっと何が死因となったのか、そしてもっとうまい対処の仕方があったのではないかと考え続けている。
まあ、もう逝ってしまった者は戻らないし、後は、事後処理的面倒な雑事をいかにうまく終わらせるかしかないわけで、涙はいくらでも出てくるが、これからこそが大忙しになろう。
優しい母はこれからもあの世で、我を見守り赦してくれるとは思うけれど、もっともっとできることがあったしできたはずだという思いは一生付いてまわろう。
永さんは、奥さんを先に亡くされた後も、ずっと旅先から妻に宛ててハガキを送っていたときく。今その気持ちがすごくよくわかる。我は、母の遺骸にずっと謝り続けている。まさに遅きに失してだが。
それにしてもこんなにあっけなく母を失うとは。その全責任は我にある。
あれからあちこちに電話してお知らせしたり、事前の今できるやるべきことをやって、ほんの少しベッドに横になった。缶ビール片手に。
いくらかは寝たと思うが、今もまだ頭がフラフラして体も心もここにあらずという感じでいる。
ずっと自問しているのは、もう少しうまいやり方、できることがあったのではないかということだ。みすみす我が手のうちで、母の命を旅立たせてしまった。
何がいけなかったのか。何が原因だったのか。この間の我らのことを知っている多くの方々は一様に、よく頑張った、と我を誉めてくれる。が、ずっと何が死因となったのか、そしてもっとうまい対処の仕方があったのではないかと考え続けている。
まあ、もう逝ってしまった者は戻らないし、後は、事後処理的面倒な雑事をいかにうまく終わらせるかしかないわけで、涙はいくらでも出てくるが、これからこそが大忙しになろう。
優しい母はこれからもあの世で、我を見守り赦してくれるとは思うけれど、もっともっとできることがあったしできたはずだという思いは一生付いてまわろう。
永さんは、奥さんを先に亡くされた後も、ずっと旅先から妻に宛ててハガキを送っていたときく。今その気持ちがすごくよくわかる。我は、母の遺骸にずっと謝り続けている。まさに遅きに失してだが。
それにしてもこんなにあっけなく母を失うとは。その全責任は我にある。
今は、ただ哀しみの中で ― 2016年09月09日 13時07分19秒
★本当に有難うございました。
こうして我と母と、そして父との親子三人での、物ごころついてから半世紀以上、約60年にも及ぶ物語は、昨日明け方、母の死によって突然終わりを告げた。
改めて今、当ブログの読み手の方々、及び友人知人の皆さんに、まずこの場を借りて心から御礼申したい。今は、ただ哀しみの中で、明日の告別式を静かに待っている我が家である。
どんなことにも終わりは来るし、いつまでも続くものはないとわかってはいたが、あまりにも毎年同じように、正月が来て春が来て、夏が、そして秋が、そしてクリスマスを迎えて一年が過ぎるのが当たり前だと思っていた。
そしてそんなルーティンがいつまで続くのかと危ぶむ気持ちはあったが、これまではずっとそれを淡々と繰り返して来れた。そして今年も何とかそれは続くことを期待していた。
しかしモノゴトにはいつかは終わりが来る。母は癌を病み、それが進行し続けてついに余命いくばくもないと医師から宣告受けた。それでも我は、何とか我が手で母を生き永らえさせられると信じていた。
母もまた我が家で最後を送ることを望みつつ、毎日癌を克服することを願いけんめいに生きて来た。
が、そうした願いはかなわずついに昨日明け方に、我にとってはある意味突然、まったく想定していない形で終わりが来てしまった。
繰り返しになるけれど、どうしてもっと優しく丁寧に、慎重に瀕死の病人だったのだから手厚く看護しなかったのかと今その最後のときを思い返してはただ悔やんでいる。
むろんいつかは間違いなく死んでいく人であった。しかし、意識も最期の数分前まであったし、そんな頭がクリアーな人はまだまだ死なないものと信じ切っていた。だからけっこうぞんざいに、元気な頃と同じようにオムツ交換の時などは扱っていた。母もあんな体でしっかりと足を踏ん張り、腰を浮かせて我が作業しやすいよう協力してくれたのだった。
今そのことを思うと、本当に最後の最後まで有難いことであったと思う。どこにそんな気力があったのか。
結局、最後の日は、そうした一日で昼夜を問わず10数回にも及ぶ紙オムツの交換で疲弊して、体力気力共に尽きて飲んだ水にむせて呼吸困難となって死んでしまったのだ。
また我もほとんど眠っていなく、健康な者でも疲労困憊しふらふらでつい愚痴も出てしまった。母としても我の身体を思い旅立ちを決意したのかもしれない。
でもいくら悔やんでも嘆いても逝った人は帰らない。まだ母はいつもと変わらず玄関わきの部屋で、介護ベッドに眠っている。でももう明日朝には棺に移し替えられて告別式会場に運ばれて、式が終われば立川の火葬場で焼かれて骨となってしまう。
今でも母がもう生きていないこと、この世にいないことが信じられない。しかし、これからは母のいないまま父と二人だけの新しい人生を送らねばならない。果たしてそれは可能なのか。
どうか天国の母よ、我の行く末をいつものように微笑みをもって見守っていてください。そして、我もまた善行を積んで天国に行けたらばもう一度皆で旅行や温泉、山梨に行ったりクリスマスパーティをやろう。
どうか見守っていてください。この弱い息子を助けてください。母はいつでも我の中にいる。我と共にずっとこれからも生きている。だけどもう一度声を聞きたいし、好きな音楽を一緒に唄いたい。あれこれあっことを話したい。何度でもオムツ交換をやさしくやってあげる。入れ歯も洗うしあの痩せて手足だけむくんだ体をさすってもう一度抱きしめたい。
多くの方々から励ましのコメントやメール頂きました。ほんとうに有難うございました。天国の母と共に心から感謝いたします。
どうか明日の告別式が滞りなく終わりますように。我が冷静に持ちこたえられますように。
こうして我と母と、そして父との親子三人での、物ごころついてから半世紀以上、約60年にも及ぶ物語は、昨日明け方、母の死によって突然終わりを告げた。
改めて今、当ブログの読み手の方々、及び友人知人の皆さんに、まずこの場を借りて心から御礼申したい。今は、ただ哀しみの中で、明日の告別式を静かに待っている我が家である。
どんなことにも終わりは来るし、いつまでも続くものはないとわかってはいたが、あまりにも毎年同じように、正月が来て春が来て、夏が、そして秋が、そしてクリスマスを迎えて一年が過ぎるのが当たり前だと思っていた。
そしてそんなルーティンがいつまで続くのかと危ぶむ気持ちはあったが、これまではずっとそれを淡々と繰り返して来れた。そして今年も何とかそれは続くことを期待していた。
しかしモノゴトにはいつかは終わりが来る。母は癌を病み、それが進行し続けてついに余命いくばくもないと医師から宣告受けた。それでも我は、何とか我が手で母を生き永らえさせられると信じていた。
母もまた我が家で最後を送ることを望みつつ、毎日癌を克服することを願いけんめいに生きて来た。
が、そうした願いはかなわずついに昨日明け方に、我にとってはある意味突然、まったく想定していない形で終わりが来てしまった。
繰り返しになるけれど、どうしてもっと優しく丁寧に、慎重に瀕死の病人だったのだから手厚く看護しなかったのかと今その最後のときを思い返してはただ悔やんでいる。
むろんいつかは間違いなく死んでいく人であった。しかし、意識も最期の数分前まであったし、そんな頭がクリアーな人はまだまだ死なないものと信じ切っていた。だからけっこうぞんざいに、元気な頃と同じようにオムツ交換の時などは扱っていた。母もあんな体でしっかりと足を踏ん張り、腰を浮かせて我が作業しやすいよう協力してくれたのだった。
今そのことを思うと、本当に最後の最後まで有難いことであったと思う。どこにそんな気力があったのか。
結局、最後の日は、そうした一日で昼夜を問わず10数回にも及ぶ紙オムツの交換で疲弊して、体力気力共に尽きて飲んだ水にむせて呼吸困難となって死んでしまったのだ。
また我もほとんど眠っていなく、健康な者でも疲労困憊しふらふらでつい愚痴も出てしまった。母としても我の身体を思い旅立ちを決意したのかもしれない。
でもいくら悔やんでも嘆いても逝った人は帰らない。まだ母はいつもと変わらず玄関わきの部屋で、介護ベッドに眠っている。でももう明日朝には棺に移し替えられて告別式会場に運ばれて、式が終われば立川の火葬場で焼かれて骨となってしまう。
今でも母がもう生きていないこと、この世にいないことが信じられない。しかし、これからは母のいないまま父と二人だけの新しい人生を送らねばならない。果たしてそれは可能なのか。
どうか天国の母よ、我の行く末をいつものように微笑みをもって見守っていてください。そして、我もまた善行を積んで天国に行けたらばもう一度皆で旅行や温泉、山梨に行ったりクリスマスパーティをやろう。
どうか見守っていてください。この弱い息子を助けてください。母はいつでも我の中にいる。我と共にずっとこれからも生きている。だけどもう一度声を聞きたいし、好きな音楽を一緒に唄いたい。あれこれあっことを話したい。何度でもオムツ交換をやさしくやってあげる。入れ歯も洗うしあの痩せて手足だけむくんだ体をさすってもう一度抱きしめたい。
多くの方々から励ましのコメントやメール頂きました。ほんとうに有難うございました。天国の母と共に心から感謝いたします。
どうか明日の告別式が滞りなく終わりますように。我が冷静に持ちこたえられますように。
人が死んで、いなくなること・前 ― 2016年09月11日 02時32分28秒
★母の遺骨を抱いて家に帰る。
おかげさまで昨日の告別式は無事に終わった。某新聞の死亡欄に載せたので、予想をこえたはるかに多くの母の友人知人が次々と来られた。定員40名迄で貸し出す市の施設なのにその倍は来たか。職員などにご迷惑をおかけしたかもしれない。
多くの方々に見送られた。嬉しく有難いことであった。にぎやかなことが好きな母もきっと喜ばれたに違いない。見えないがそこに魂がいてくれたならば。
いったい何度泣いたことか。いくら泣いても涙が枯れ果てることはない。この間の経緯も含めて我が母への思い、母当人の思いも来られた方々にできるだけきちんと伝えたいと考えていたが、時間的制約もあってそれはうまくできなかったし思うようにしゃべれなかった。ともかくたくさんの方が次々と来られた。
本来、葬儀は葬儀として身内やごく親しい者たちだけで済ませてから、後に新たにはかって「お別れ会」、「偲ぶ会」のような集いをすべきであったかと今思うが、葬儀に来られた方はやはり故人に直接会い、その死を確認して個人的に別れを告げたいはずであり、やはり公に、誰でも来れる葬式にしたことは良かったかと思う。母もそれを望んでいた。
記憶の中の母は今も我が内に在る。遺骸は焼かれてカラカラの骨となり、箱に収められて家に還ってきたもののそれはもう母ではない。
魂が去り、焼かれて肉体は骨と化したわけだが、そのことは別に辛いとも悲しいとも思わなかった。もうそれは母の一部ではあったが、脱ぎ捨てた衣類のようなもので、母そのものではなかった。
8日の明け方、まだ暗いうちに我が家で死んで昨日の朝までずっと家に置いたわけだが、救急隊に立川の病院に運ばれたときはまだ温もりもあり、それは先ほどまで我に抱きかかえられていた母その人であった。
が、じょじょに時間とともにただの遺骸、魂の抜け殻に代わり、病院から再び戻り介護ベッドに寝かされてときは、まさにやすらかに深く、少し笑って楽しい夢見てまどろんでいるように見えたが、昨日の式場でのそれは、別人ではないが顔色も違って我が繰り返し抱きかかえ紙オムツを替えてあげた母ではなかった。蝉が羽化して脱ぎ捨てる殻のように思えた。だから焼かれて骨と化そうがちっとも辛くも悲しいとも思えなかった。
では、母はどこに行ったのか。すぐそこ、今もこの家にいると感じなくもないが、やはり天国かどこか違う場所に旅立ったように思える。ちょっと所用で出かけて今家にいない、不在の感じがしている。
辛いのはその不在からもう二度と帰らないことだ。骨となった肉体の一部は今この家には置いてある。しかし、それは母の使っていた眼鏡のようなものであり、我が愛し尽くした母ではない。その箱に母はいない。
あの母という人とはもう二度と話せないし、この世ではもう会うことはない。既に死んでしまった多くの人たち、友人知人や祖父母たちと同じく、我が記憶の中、思い出には在るけれど、もう二度と直接会えないし声も訊けない。そのことが辛い。哀しい。
じょじょに寝たきりになって、起きているのか眠っているのかわからない状態になってしまっていたけれど、声かければすぐに返事も反応も返って来た。何よりもそこ、玄関わきの部屋の介護ベッドに毛布にくるまって「存在」していた。
シーツも剥がされ、エアマットだけの空になった介護ベッドを見ると、このベッドを運び入れたとき、そして二度目の高熱が出て立川の病院に入院していたときのことを思い出す。そのときは10日間の不在でまた我が家のその場所に母は戻って来た。
しかしもう母は帰ってこない。死という世界に旅立ってしまった。いや、それは暗い黄泉の国ではなく、晴れた日の青い空の向う、見上げた先のもっと上にある天国、神の国だと思いたい。
そこで先に逝った人たち、母と親しかった仲間たちと今歓待され語らいわいわい楽しくパーティでもやっていると思いたい。そう考えれば少しは気持ちも落ち着く。
レンタルしていた介護ベッドは来週明けにすぐ返す。もう母の居場所はない。そしてまだ居残ってくれている我が妹も火曜日には九州に帰る。我が家は、我と父だけ二人になる。いくら待っていても母はもう帰ってこない。
そしてその父もそう遠くない先、近く旅立ち母の待つところに行ってしまう。我はたった一人で、この広い家に残される。外から帰って来ても誰もいないし呼びかけても返事もない。
そうした現実を我は受け入れられるのだろうか。まずは父と二人だけの母のいない生活に慣れねばならぬ。
もうこれからは、母の介護という「制約」はないのだから、父がデイケアに行っているとき、あるいはお泊りさせられるデイサービスに預けてしまえば、夜通しだって外で遊び歩くこともできる。
しかし、今はそんなことにちっとも魅力を感じない。人の集まる場には行きたいと思えない。今願うのは、ただ静かに母とのこと、これまでの経緯を振り返り、思い出をきちんと整理したい。
母と我とのこの数か月続いた濃密な楽しいときは9月8日の早朝、突然終わってしまった。もっともっと聞きたかったことも話したかったこともたくさんあった。そしてこれから徐々にそれをやっていこうと考えていた矢先であった。まずそのことが悔やまれる。あれこれ考えると涙が止まらない。
これが天命、神の意思だと思いたいが、今はまだこのこと、死という別れが「良かったこと」だとは絶対に思えない。しかし時間は戻せない。悔やんでも我を責めてもどうにもならない。
家族三人での常に大騒ぎしていた日々はついに終わった。これからは次に逝く父不在のときを想定して、今さらながら我が人生を再構築していかねばならない。これから何をどうやって生きていけば良いのだろう。我の旅立ちはまだ先だと思いたい。
とことん泣いて涙を絞り出してから、また新たな生活を始めていかねばならない。母を探しに後を追ってはならない。我が人生を続けて行かねばならない。
このブログという我の物語はまだ続く。新しい章が始まる。しかし、今はまだしばらく泣かせてください。我の中の母と向き合わせてください。
外は静かに雨が降っている。今午前四時過ぎ、夜明けまでは時間がある。ちょうど母が旅立った時刻かと思う。
母の魂よ、安かれ。ぞんざいに扱ってしまった我をゆるしたまえ。天の国にみ栄えあれ、地には平和を、そして人には愛を。
今も泣きながらこれを記している。
いろいろ激励のメールやコメント、有難うございました。今は、このブログという我が思いを記す場があること、誰かが読んでくれていると思えることだけが救いです。
おかげさまで昨日の告別式は無事に終わった。某新聞の死亡欄に載せたので、予想をこえたはるかに多くの母の友人知人が次々と来られた。定員40名迄で貸し出す市の施設なのにその倍は来たか。職員などにご迷惑をおかけしたかもしれない。
多くの方々に見送られた。嬉しく有難いことであった。にぎやかなことが好きな母もきっと喜ばれたに違いない。見えないがそこに魂がいてくれたならば。
いったい何度泣いたことか。いくら泣いても涙が枯れ果てることはない。この間の経緯も含めて我が母への思い、母当人の思いも来られた方々にできるだけきちんと伝えたいと考えていたが、時間的制約もあってそれはうまくできなかったし思うようにしゃべれなかった。ともかくたくさんの方が次々と来られた。
本来、葬儀は葬儀として身内やごく親しい者たちだけで済ませてから、後に新たにはかって「お別れ会」、「偲ぶ会」のような集いをすべきであったかと今思うが、葬儀に来られた方はやはり故人に直接会い、その死を確認して個人的に別れを告げたいはずであり、やはり公に、誰でも来れる葬式にしたことは良かったかと思う。母もそれを望んでいた。
記憶の中の母は今も我が内に在る。遺骸は焼かれてカラカラの骨となり、箱に収められて家に還ってきたもののそれはもう母ではない。
魂が去り、焼かれて肉体は骨と化したわけだが、そのことは別に辛いとも悲しいとも思わなかった。もうそれは母の一部ではあったが、脱ぎ捨てた衣類のようなもので、母そのものではなかった。
8日の明け方、まだ暗いうちに我が家で死んで昨日の朝までずっと家に置いたわけだが、救急隊に立川の病院に運ばれたときはまだ温もりもあり、それは先ほどまで我に抱きかかえられていた母その人であった。
が、じょじょに時間とともにただの遺骸、魂の抜け殻に代わり、病院から再び戻り介護ベッドに寝かされてときは、まさにやすらかに深く、少し笑って楽しい夢見てまどろんでいるように見えたが、昨日の式場でのそれは、別人ではないが顔色も違って我が繰り返し抱きかかえ紙オムツを替えてあげた母ではなかった。蝉が羽化して脱ぎ捨てる殻のように思えた。だから焼かれて骨と化そうがちっとも辛くも悲しいとも思えなかった。
では、母はどこに行ったのか。すぐそこ、今もこの家にいると感じなくもないが、やはり天国かどこか違う場所に旅立ったように思える。ちょっと所用で出かけて今家にいない、不在の感じがしている。
辛いのはその不在からもう二度と帰らないことだ。骨となった肉体の一部は今この家には置いてある。しかし、それは母の使っていた眼鏡のようなものであり、我が愛し尽くした母ではない。その箱に母はいない。
あの母という人とはもう二度と話せないし、この世ではもう会うことはない。既に死んでしまった多くの人たち、友人知人や祖父母たちと同じく、我が記憶の中、思い出には在るけれど、もう二度と直接会えないし声も訊けない。そのことが辛い。哀しい。
じょじょに寝たきりになって、起きているのか眠っているのかわからない状態になってしまっていたけれど、声かければすぐに返事も反応も返って来た。何よりもそこ、玄関わきの部屋の介護ベッドに毛布にくるまって「存在」していた。
シーツも剥がされ、エアマットだけの空になった介護ベッドを見ると、このベッドを運び入れたとき、そして二度目の高熱が出て立川の病院に入院していたときのことを思い出す。そのときは10日間の不在でまた我が家のその場所に母は戻って来た。
しかしもう母は帰ってこない。死という世界に旅立ってしまった。いや、それは暗い黄泉の国ではなく、晴れた日の青い空の向う、見上げた先のもっと上にある天国、神の国だと思いたい。
そこで先に逝った人たち、母と親しかった仲間たちと今歓待され語らいわいわい楽しくパーティでもやっていると思いたい。そう考えれば少しは気持ちも落ち着く。
レンタルしていた介護ベッドは来週明けにすぐ返す。もう母の居場所はない。そしてまだ居残ってくれている我が妹も火曜日には九州に帰る。我が家は、我と父だけ二人になる。いくら待っていても母はもう帰ってこない。
そしてその父もそう遠くない先、近く旅立ち母の待つところに行ってしまう。我はたった一人で、この広い家に残される。外から帰って来ても誰もいないし呼びかけても返事もない。
そうした現実を我は受け入れられるのだろうか。まずは父と二人だけの母のいない生活に慣れねばならぬ。
もうこれからは、母の介護という「制約」はないのだから、父がデイケアに行っているとき、あるいはお泊りさせられるデイサービスに預けてしまえば、夜通しだって外で遊び歩くこともできる。
しかし、今はそんなことにちっとも魅力を感じない。人の集まる場には行きたいと思えない。今願うのは、ただ静かに母とのこと、これまでの経緯を振り返り、思い出をきちんと整理したい。
母と我とのこの数か月続いた濃密な楽しいときは9月8日の早朝、突然終わってしまった。もっともっと聞きたかったことも話したかったこともたくさんあった。そしてこれから徐々にそれをやっていこうと考えていた矢先であった。まずそのことが悔やまれる。あれこれ考えると涙が止まらない。
これが天命、神の意思だと思いたいが、今はまだこのこと、死という別れが「良かったこと」だとは絶対に思えない。しかし時間は戻せない。悔やんでも我を責めてもどうにもならない。
家族三人での常に大騒ぎしていた日々はついに終わった。これからは次に逝く父不在のときを想定して、今さらながら我が人生を再構築していかねばならない。これから何をどうやって生きていけば良いのだろう。我の旅立ちはまだ先だと思いたい。
とことん泣いて涙を絞り出してから、また新たな生活を始めていかねばならない。母を探しに後を追ってはならない。我が人生を続けて行かねばならない。
このブログという我の物語はまだ続く。新しい章が始まる。しかし、今はまだしばらく泣かせてください。我の中の母と向き合わせてください。
外は静かに雨が降っている。今午前四時過ぎ、夜明けまでは時間がある。ちょうど母が旅立った時刻かと思う。
母の魂よ、安かれ。ぞんざいに扱ってしまった我をゆるしたまえ。天の国にみ栄えあれ、地には平和を、そして人には愛を。
今も泣きながらこれを記している。
いろいろ激励のメールやコメント、有難うございました。今は、このブログという我が思いを記す場があること、誰かが読んでくれていると思えることだけが救いです。
人が死んで、いなくなること・中 ― 2016年09月11日 17時21分04秒
★母は自らの死出という不在で、生きていることの価値、大切さと有難さを教えてくれたのだ。
情けなくみっともない話だが、今も涙がとまらない。母のことを思い出したふとした瞬間や、訊かれて話し出したとたん、涙があふれ出してしまう。今さらながら失ってしまったこと、母がこの世からいなくなってしまったことの重大さがどんどん大きくなってきている。つらくて発狂しそうだ。
どうしてもう少し生かしておけなかったのか。今さらかなうはずもないのに、我の不手際を今も責めてしまう自分がいる。いつもいつも最後のつめが甘いのだ。瀕死の余命いくばくもないと宣告された人だったのだから、もっともっと慎重に、脆いガラス細工のように優しく丁寧に扱わねばならなかったのだ。
そしてそうやってもっと大事にしていたらば、もう少しは長く生きていたことは間違いない。今さら時は戻せないのに、最後の時を思い出しては、我が失態を悔やみ続けている。こればかりは反省して次にいかすというわけにはいかない。心臓が締め付けられそうだ。夜も深く長く眠れない。
もし今晩も同様の状態ならば、明日は立川に行く用事もあるので、医者にかかって何か精神安定剤のようなものを出してもらおうと思う。このままだとアル中になるか、精神がおかしくなるだろう。
今日は、朝食にパンを軽く食べてから、父と妹と三人で、昨日の告別式に寄せられた香典の額を集計し葬儀会社からも総計が知らされてきたので、大まかだが、母の死にかかった費用、逆に入って来た額を集計してみた。
家族葬としながら、一般の友人知人がかなり来てくれたので、何とか葬儀費用分は、香典で間に合うことがわかってきた。真の家族葬として身内だけであったら40万近くの赤字であった。
また、その他にお坊さんのお布施や親族皆で火葬場へ移動した交通費などもかかったし、8日のとき、まだ支払っていない死亡診断書などの病院に払う額なども入れるとやはり数十万円は式関連とは別に出費となる。また、墓に納骨にもお寺にかなりの供養料を払わねばならない。
母の少ない年金はもう入ってこないのだから、人が死ぬということはまず経済的にも痛い重大事なのだと今にして痛感している。
葬儀など死出の儀式、死後のこと、まずお骨になるための手続きが大変なことは今回当事者となってみてその面倒さに驚きうんざりしたが、人の死が辛く大変な出来事であるのは、何より多くの人々にも哀しみを与えてしまうことだ。
母のように様々な社会活動をつうじて、ここ昭島市のみならずあちこちの多くの方々とふれあい親しい関係を築いていると、たとえ近年疎遠となっていた方であってもその死は大きなショックとして深い哀しみの種となってしまう。母の死をききつけ遠く都内から来られた方もいたと香典のご住所で知った。
今回、告別式をやって、実に多くのかつての母の仲間たちが来られた。そして皆さま一様に、納棺の際には花を投げ込みながら、母の死に悲嘆し号泣されていた。それを見ながら我は、母とは我一人の者ではなかったのだ。彼女の死は、多くの人々にも大きな驚きと深い哀しみを与えてしまったのだと心から申し訳なく思い知った。
母は特に誰に会いたい、話したいとか言ってなかったが、もう少し元気な時に、皆にそっと手を回してお見舞いとして来てもらえるように我ははかるであった。皆、生きている母に会えなかったこと、変わり果てた姿に驚き哀しみ悲嘆にくれていた。そうさせたのもまた我の責任である。
母の死は大きな損失であった。我はつい母は我のもの、我家、我が家庭のものだと思っていた。実は誰もがそうであるように、母もまた社会的存在であり、外の顔を広く持っていた。ならばその面も考慮して看護していくべきであったのだ。
人の死とは、多くの面と意味を持つ。たった一人で孤独に生きていた者が死んでも誰も来ないし哀しみもしない。しかし、人は程度の差はあれ社会的存在なのだから、その死もまた社会的意味を持つ。
母の死は我一人や父、妹のみならず彼女を知る多くの人々にとっても同様に大きな「死」であったのだ。死とはそれほど大きな社会的損失なのである。
そのことも母は我に教えてくれたのだ。有難う、と直接話しかけられないのが辛い。
情けなくみっともない話だが、今も涙がとまらない。母のことを思い出したふとした瞬間や、訊かれて話し出したとたん、涙があふれ出してしまう。今さらながら失ってしまったこと、母がこの世からいなくなってしまったことの重大さがどんどん大きくなってきている。つらくて発狂しそうだ。
どうしてもう少し生かしておけなかったのか。今さらかなうはずもないのに、我の不手際を今も責めてしまう自分がいる。いつもいつも最後のつめが甘いのだ。瀕死の余命いくばくもないと宣告された人だったのだから、もっともっと慎重に、脆いガラス細工のように優しく丁寧に扱わねばならなかったのだ。
そしてそうやってもっと大事にしていたらば、もう少しは長く生きていたことは間違いない。今さら時は戻せないのに、最後の時を思い出しては、我が失態を悔やみ続けている。こればかりは反省して次にいかすというわけにはいかない。心臓が締め付けられそうだ。夜も深く長く眠れない。
もし今晩も同様の状態ならば、明日は立川に行く用事もあるので、医者にかかって何か精神安定剤のようなものを出してもらおうと思う。このままだとアル中になるか、精神がおかしくなるだろう。
今日は、朝食にパンを軽く食べてから、父と妹と三人で、昨日の告別式に寄せられた香典の額を集計し葬儀会社からも総計が知らされてきたので、大まかだが、母の死にかかった費用、逆に入って来た額を集計してみた。
家族葬としながら、一般の友人知人がかなり来てくれたので、何とか葬儀費用分は、香典で間に合うことがわかってきた。真の家族葬として身内だけであったら40万近くの赤字であった。
また、その他にお坊さんのお布施や親族皆で火葬場へ移動した交通費などもかかったし、8日のとき、まだ支払っていない死亡診断書などの病院に払う額なども入れるとやはり数十万円は式関連とは別に出費となる。また、墓に納骨にもお寺にかなりの供養料を払わねばならない。
母の少ない年金はもう入ってこないのだから、人が死ぬということはまず経済的にも痛い重大事なのだと今にして痛感している。
葬儀など死出の儀式、死後のこと、まずお骨になるための手続きが大変なことは今回当事者となってみてその面倒さに驚きうんざりしたが、人の死が辛く大変な出来事であるのは、何より多くの人々にも哀しみを与えてしまうことだ。
母のように様々な社会活動をつうじて、ここ昭島市のみならずあちこちの多くの方々とふれあい親しい関係を築いていると、たとえ近年疎遠となっていた方であってもその死は大きなショックとして深い哀しみの種となってしまう。母の死をききつけ遠く都内から来られた方もいたと香典のご住所で知った。
今回、告別式をやって、実に多くのかつての母の仲間たちが来られた。そして皆さま一様に、納棺の際には花を投げ込みながら、母の死に悲嘆し号泣されていた。それを見ながら我は、母とは我一人の者ではなかったのだ。彼女の死は、多くの人々にも大きな驚きと深い哀しみを与えてしまったのだと心から申し訳なく思い知った。
母は特に誰に会いたい、話したいとか言ってなかったが、もう少し元気な時に、皆にそっと手を回してお見舞いとして来てもらえるように我ははかるであった。皆、生きている母に会えなかったこと、変わり果てた姿に驚き哀しみ悲嘆にくれていた。そうさせたのもまた我の責任である。
母の死は大きな損失であった。我はつい母は我のもの、我家、我が家庭のものだと思っていた。実は誰もがそうであるように、母もまた社会的存在であり、外の顔を広く持っていた。ならばその面も考慮して看護していくべきであったのだ。
人の死とは、多くの面と意味を持つ。たった一人で孤独に生きていた者が死んでも誰も来ないし哀しみもしない。しかし、人は程度の差はあれ社会的存在なのだから、その死もまた社会的意味を持つ。
母の死は我一人や父、妹のみならず彼女を知る多くの人々にとっても同様に大きな「死」であったのだ。死とはそれほど大きな社会的損失なのである。
そのことも母は我に教えてくれたのだ。有難う、と直接話しかけられないのが辛い。
人が死んで、いなくなること・後 ― 2016年09月13日 07時35分30秒
★泣いてばかりはいられない~人の死はこんなに大変かつ面倒だとは!
13日の朝だ。外は昨夜からの雨が降り続いている。窓開けると、入って来る風は冷たい。もう季節は秋へ変わったことを嫌でも感じる。
母が死んで、泣いてばかりいるが、正直なところ毎日ともかく慌ただしくやることに追われてゆっくり悲しみにひたれない。
告別式の翌日11日は、香典など収支の計算に追われたし、昨日は、親たちがそれぞれを受取人にかけていた生命保険書類の確認で半日が潰れた。古い証書なので、果たしてそれが有効なのかすらはっきりしない。あちこちに電話かけても確認中と称してたらい回しにされた上に待たされてイライラした。まあ、そうした作業は妹がやってくれたから楽できたが、我一人では何一つ進められなかった。
認知症の父にあれこれ尋ねてもこうした書類、証書については要領を得ない。母が生きていれば、どういうどこの保険に入っていたのか答えてくれたと思うが、もうそれはできやしない。
さらにお線香を上げに来てくれる方も何人かいて、とても有難いけれど我はその都度涙溢れて止まらない。その最中、レンタルしてもらっていた介護ベッドの撤収に、業者とケアマネも来られた。
しかも父も疲れが出たためか、微熱が出始め、どうしたものか訪看センターに電話で指示をあおいだ。昼頃は38度近くまであったが、幸い仮眠させて起きたら下がったようで、晩飯時には元気が戻ってほっとした。
父もバテ始めている。夜は眠れていると当人は言うけれど、我もだが、深夜に起きてしまうようでそれからが眠れず、母が死んでもういないこと、孤独にうちのめされているようだ。たとえ呆けても、そのことだけは嫌でも認識しているのである。
考えてみれば、母との付き合いは、我よりも当然何年も長いわけで、ほぼ60年~、毎日共に暮らしていた人と別れた哀しみ、もう会えない辛さは想像に余りある。
妹も今日の午後、新幹線で九州に戻る。聞けば、彼女も1985年に向うに嫁いで行ってから、もはや30年過ぎたという。東京で生まれ過ごした時間より、向うで生きた時間のほうが長いのだ。言葉もいつしか完全な向うの方言、なまりである。
妹もその旦那と、一年一日でも長く仲良く過ごしてほしいと兄としても願う。それは母の願いでもあった。
妹も吞めるので、このところ所用を済ませると、夜は二人で、父を寝かせた後は缶ビールなど半ダース以上空けては、母や父のことを話している。気がつけばいつも日付が変わる。それから妹は母の遺骨や遺影を安置した、介護ベッドがなくなって急に広くなった板の間でずっとシュラフにくるまって寝てくれていた。その空漠たる何もない部屋は、そのまま今の我らの心のようだ。母が消えていなくなったその空間を何で埋めていくべきか。
今日は葬儀屋が朝一で来る。葬儀にかかった費用を清算する。これで一応、葬式じたいは完全に終了したことになる。けっきょく、足りなくなって渡せなかった引き出物のぶんは、我がこれからまだ受け取ってない人たちに個別に配布していく。そうした作業が終わってやっと本当に葬儀は終了となるはずだが、たぶんすぐに四十九日も来る。まだまだやるべきことが山積である。果たして死亡保険金は支払われるのであろうか。
あれこれ頭を悩まし心にかかることは尽きやしない。今までは母に任せてきたし、病んでも母と相談して何事も進めてきた。その人が死んでしまってこんな事態になっているのである。本当に困る。そして情けない。すべてが辛い。
24時間不眠不休の母の介護も辛かったが、今の状況に比べれば屁でもなかった。少なくともそこには「生活」があった。生活が持続し維持されていた。それが今は崩壊し、新たなシステム、段階へと移行することすらできていない。死というオオゴトの後片付けだけに追われている。
もういい加減に拙ブログ、母の死について記すのは終わらすべきかと思うが、願わくばあと数回、数日は、今回の件で学び考えたことについて書かせてもらえたらと願う。
あまりに突然で心の準備もできていなかったため、一時期はPTSD的トラウマに陥るかと思ったが、おかげさまでいろんな方々から励まされ、あれこれ話しているうちに少しだが、心の傷も癒えてきた感じがしている。
最愛の母の不在、この世から消えてしまったという哀しみは変わらない。何故今なのか、もう少し生きていてほしかった。しかし、それもまたセットした目覚まし時計の時刻のように、予め神様が決めていたのだと思うようになった。
むろんその時が来て、鳴ってるベルを停めることは少しはできたかもしれない。しかし、目覚まし時計はすぐまた鳴り出すように、そのセットされた時間は変えられなかっただろう。
大分の特養施設で働いている妹と話すと、本人はとっくに意識もないのに、ただ心臓が動いているがゆえに、家族はどうすることもできなく、死を待ち疲れて疲弊するケースが多々あるのだという。
母は、じょじょに緩慢に、確実に衰弱し死に向かっていたが、元々は頑健な人だったから入院させれば、何も食べさせなくとも点滴だけでかなり生きたかもしれない。しかし、それは母の意思、希望ではなかった。
ならば、自宅で、夫と息子に囲まれて旅立ったことは、その刹那は苦しかったかと思うけれど、やはり良いことだったのではないのか。
我が手のうちで母を死なせてしまい当初は後悔の念しかなかった心は、しだいにそれも仕方なかった、結果として良かったのではと思うように変わってきている。
そうした心の変化をもう少し記していきたい。お付き合い願えれば幸甚だ。
それにしても思うのは、人が死ぬというのはこんなに面倒かつ大変なことか!という憤り的驚きである。ならばこそ、人はおいそれと、うっかり気軽に死んでは絶対にならないのである。人の死は、家族も含めて残された者に哀しみにプラスして多大な迷惑、損害をかけてしまう。
母の死でそのことを痛感した。我は絶対に死なない、何があってもとことん生きてやろうと決意した。が、我のリミットのときを決めるのは神のみなのだから、そのベルがいつ鳴るのかは、決めようも変えようもないのである。
そしてそのうえで人は死を抱え見据えて生きていくしかないのだった。
13日の朝だ。外は昨夜からの雨が降り続いている。窓開けると、入って来る風は冷たい。もう季節は秋へ変わったことを嫌でも感じる。
母が死んで、泣いてばかりいるが、正直なところ毎日ともかく慌ただしくやることに追われてゆっくり悲しみにひたれない。
告別式の翌日11日は、香典など収支の計算に追われたし、昨日は、親たちがそれぞれを受取人にかけていた生命保険書類の確認で半日が潰れた。古い証書なので、果たしてそれが有効なのかすらはっきりしない。あちこちに電話かけても確認中と称してたらい回しにされた上に待たされてイライラした。まあ、そうした作業は妹がやってくれたから楽できたが、我一人では何一つ進められなかった。
認知症の父にあれこれ尋ねてもこうした書類、証書については要領を得ない。母が生きていれば、どういうどこの保険に入っていたのか答えてくれたと思うが、もうそれはできやしない。
さらにお線香を上げに来てくれる方も何人かいて、とても有難いけれど我はその都度涙溢れて止まらない。その最中、レンタルしてもらっていた介護ベッドの撤収に、業者とケアマネも来られた。
しかも父も疲れが出たためか、微熱が出始め、どうしたものか訪看センターに電話で指示をあおいだ。昼頃は38度近くまであったが、幸い仮眠させて起きたら下がったようで、晩飯時には元気が戻ってほっとした。
父もバテ始めている。夜は眠れていると当人は言うけれど、我もだが、深夜に起きてしまうようでそれからが眠れず、母が死んでもういないこと、孤独にうちのめされているようだ。たとえ呆けても、そのことだけは嫌でも認識しているのである。
考えてみれば、母との付き合いは、我よりも当然何年も長いわけで、ほぼ60年~、毎日共に暮らしていた人と別れた哀しみ、もう会えない辛さは想像に余りある。
妹も今日の午後、新幹線で九州に戻る。聞けば、彼女も1985年に向うに嫁いで行ってから、もはや30年過ぎたという。東京で生まれ過ごした時間より、向うで生きた時間のほうが長いのだ。言葉もいつしか完全な向うの方言、なまりである。
妹もその旦那と、一年一日でも長く仲良く過ごしてほしいと兄としても願う。それは母の願いでもあった。
妹も吞めるので、このところ所用を済ませると、夜は二人で、父を寝かせた後は缶ビールなど半ダース以上空けては、母や父のことを話している。気がつけばいつも日付が変わる。それから妹は母の遺骨や遺影を安置した、介護ベッドがなくなって急に広くなった板の間でずっとシュラフにくるまって寝てくれていた。その空漠たる何もない部屋は、そのまま今の我らの心のようだ。母が消えていなくなったその空間を何で埋めていくべきか。
今日は葬儀屋が朝一で来る。葬儀にかかった費用を清算する。これで一応、葬式じたいは完全に終了したことになる。けっきょく、足りなくなって渡せなかった引き出物のぶんは、我がこれからまだ受け取ってない人たちに個別に配布していく。そうした作業が終わってやっと本当に葬儀は終了となるはずだが、たぶんすぐに四十九日も来る。まだまだやるべきことが山積である。果たして死亡保険金は支払われるのであろうか。
あれこれ頭を悩まし心にかかることは尽きやしない。今までは母に任せてきたし、病んでも母と相談して何事も進めてきた。その人が死んでしまってこんな事態になっているのである。本当に困る。そして情けない。すべてが辛い。
24時間不眠不休の母の介護も辛かったが、今の状況に比べれば屁でもなかった。少なくともそこには「生活」があった。生活が持続し維持されていた。それが今は崩壊し、新たなシステム、段階へと移行することすらできていない。死というオオゴトの後片付けだけに追われている。
もういい加減に拙ブログ、母の死について記すのは終わらすべきかと思うが、願わくばあと数回、数日は、今回の件で学び考えたことについて書かせてもらえたらと願う。
あまりに突然で心の準備もできていなかったため、一時期はPTSD的トラウマに陥るかと思ったが、おかげさまでいろんな方々から励まされ、あれこれ話しているうちに少しだが、心の傷も癒えてきた感じがしている。
最愛の母の不在、この世から消えてしまったという哀しみは変わらない。何故今なのか、もう少し生きていてほしかった。しかし、それもまたセットした目覚まし時計の時刻のように、予め神様が決めていたのだと思うようになった。
むろんその時が来て、鳴ってるベルを停めることは少しはできたかもしれない。しかし、目覚まし時計はすぐまた鳴り出すように、そのセットされた時間は変えられなかっただろう。
大分の特養施設で働いている妹と話すと、本人はとっくに意識もないのに、ただ心臓が動いているがゆえに、家族はどうすることもできなく、死を待ち疲れて疲弊するケースが多々あるのだという。
母は、じょじょに緩慢に、確実に衰弱し死に向かっていたが、元々は頑健な人だったから入院させれば、何も食べさせなくとも点滴だけでかなり生きたかもしれない。しかし、それは母の意思、希望ではなかった。
ならば、自宅で、夫と息子に囲まれて旅立ったことは、その刹那は苦しかったかと思うけれど、やはり良いことだったのではないのか。
我が手のうちで母を死なせてしまい当初は後悔の念しかなかった心は、しだいにそれも仕方なかった、結果として良かったのではと思うように変わってきている。
そうした心の変化をもう少し記していきたい。お付き合い願えれば幸甚だ。
それにしても思うのは、人が死ぬというのはこんなに面倒かつ大変なことか!という憤り的驚きである。ならばこそ、人はおいそれと、うっかり気軽に死んでは絶対にならないのである。人の死は、家族も含めて残された者に哀しみにプラスして多大な迷惑、損害をかけてしまう。
母の死でそのことを痛感した。我は絶対に死なない、何があってもとことん生きてやろうと決意した。が、我のリミットのときを決めるのは神のみなのだから、そのベルがいつ鳴るのかは、決めようも変えようもないのである。
そしてそのうえで人は死を抱え見据えて生きていくしかないのだった。
死者の国と生者の国 ― 2016年09月13日 17時38分35秒
★死者と我々を分かつもの
もう少しブログ書かせてください。
妹は今日の昼過ぎ、新幹線でまず小倉に向かって帰った。たぶんまだ車中であろうか。
その妹を乗せて立川まで送り、その後、母が生前ずっとかかりつけだった相互病院に、支払いに行った。
8日の早朝、もう心肺停止となった母を乗せて救急車で行き、当番の女医さんに診てもらい母の死亡診断書を書いてもらった。さらに死後の処理代、着替えさせられた浴衣代など、総計2万いくらかが未払いとなっていたのだ。
何しろ、救急隊が到着し大慌てで、いつも母が使っている、保険証などの入っている手提げ袋だけひっつかんで救急車に飛び乗ったから、お金は母の小銭入れしかなかった。
で、当然のこと万単位の金は持ち合わせがなく、後ほど清算ということで、手配した葬儀社の車で母の遺体と共に帰って来たのだ。
いつまでもその金を払わずにいられないし、ちょうど妹を送る用事もあったので、行って支払った次第。
それでも受付会計で、かなり待たされた。そしてその病院の入り口、出口を行きかう人々を見ながら、ああ彼らは皆、生者、生きている人なんだと不思議な気持ちになった。
そう、車椅子やどんな怪我しようと、入院のパジャマ姿であろうと彼らはまだ生きている。母もついこの前までは、ここに来て、待合のソファーに座り、自ら会計を済ませていた。ふと、その後ろ姿が思い出され、つい目で母の姿を追ったが、当然のこともうここにはいない。母は死んでしまった。今は骨だけが白く冷たく木箱に入って我が家に置かれている。
かつてこの病院に、我は何度も何度も通い、入院している父を母を見舞い、あるいは彼らの救急外来、入退院の度に窓口に通った。母もまたそこのソファーに腰かけ、清算のとき名前を呼ばれるまで何度も何度も待っていた。
そのときはまだ生きていた。そして我々の側、こちら側、生者の世界、生の国にいたのである。しかし、もう母はここにもこちら側のどこにもいない。
残念なことに、あちら側、死の国、死者の国に旅立ってしまった。そのときの手続きのための代金を今ここで、我は支払っている。すごく不思議な名状しがたい気分になった。
病院とは、ある意味、空港でいうところの搭乗手続きのロビーのような場所なのだ。ひとたび渡航審査を終えて、パスポートにスタンプを押されて出国ゲートを越えてしまえばもう戻ることはできない。
母は9月8日に、ここからその手続きを終えて、死者の国へと旅立ってしまった。空港ならば、また帰国することも可能だが、こればかりは一方通行的旅立ちで、二度と帰ってはこれない。
我々はまだこちら側にいる。死者の国と我々の国とは、水と油以上に隔絶している。水と油ならば、マヨネーズのように融合して一つにもなれる。その国は確かに存在していると思う。が、我々は行くことができない。
いや、いつかは皆が行くわけだが、行ったらもう二度と戻れない。だからその国のことは我々は誰もわからないしうかがい知れない。
母はその国へと旅立ってしまった。我はそのための費用を今日支払いに行った。病院の待合室に集う人たちを見ていて、我らはまだここにいる。どんなに病み衰えてもこちら側にいる。我らと母との彼岸を、その距離をいやでも考えさせられた。
我は母をその彼岸入りの頃までは生かして、こちら側に置いておくつもりだったがかなわなかった。
死者の国、その国へは誰もがわたる。しかし、一度行ってしまった人は二度と帰らない。そう、ここに、この病院に母はずっと通い続けた。何度も入院した。手術もした。が、もう二度と来ることはない。
支払いを済ませて車を出した。少しだけ泣きながら母の遺骨が待つ家路を急いだ。
もう少しブログ書かせてください。
妹は今日の昼過ぎ、新幹線でまず小倉に向かって帰った。たぶんまだ車中であろうか。
その妹を乗せて立川まで送り、その後、母が生前ずっとかかりつけだった相互病院に、支払いに行った。
8日の早朝、もう心肺停止となった母を乗せて救急車で行き、当番の女医さんに診てもらい母の死亡診断書を書いてもらった。さらに死後の処理代、着替えさせられた浴衣代など、総計2万いくらかが未払いとなっていたのだ。
何しろ、救急隊が到着し大慌てで、いつも母が使っている、保険証などの入っている手提げ袋だけひっつかんで救急車に飛び乗ったから、お金は母の小銭入れしかなかった。
で、当然のこと万単位の金は持ち合わせがなく、後ほど清算ということで、手配した葬儀社の車で母の遺体と共に帰って来たのだ。
いつまでもその金を払わずにいられないし、ちょうど妹を送る用事もあったので、行って支払った次第。
それでも受付会計で、かなり待たされた。そしてその病院の入り口、出口を行きかう人々を見ながら、ああ彼らは皆、生者、生きている人なんだと不思議な気持ちになった。
そう、車椅子やどんな怪我しようと、入院のパジャマ姿であろうと彼らはまだ生きている。母もついこの前までは、ここに来て、待合のソファーに座り、自ら会計を済ませていた。ふと、その後ろ姿が思い出され、つい目で母の姿を追ったが、当然のこともうここにはいない。母は死んでしまった。今は骨だけが白く冷たく木箱に入って我が家に置かれている。
かつてこの病院に、我は何度も何度も通い、入院している父を母を見舞い、あるいは彼らの救急外来、入退院の度に窓口に通った。母もまたそこのソファーに腰かけ、清算のとき名前を呼ばれるまで何度も何度も待っていた。
そのときはまだ生きていた。そして我々の側、こちら側、生者の世界、生の国にいたのである。しかし、もう母はここにもこちら側のどこにもいない。
残念なことに、あちら側、死の国、死者の国に旅立ってしまった。そのときの手続きのための代金を今ここで、我は支払っている。すごく不思議な名状しがたい気分になった。
病院とは、ある意味、空港でいうところの搭乗手続きのロビーのような場所なのだ。ひとたび渡航審査を終えて、パスポートにスタンプを押されて出国ゲートを越えてしまえばもう戻ることはできない。
母は9月8日に、ここからその手続きを終えて、死者の国へと旅立ってしまった。空港ならば、また帰国することも可能だが、こればかりは一方通行的旅立ちで、二度と帰ってはこれない。
我々はまだこちら側にいる。死者の国と我々の国とは、水と油以上に隔絶している。水と油ならば、マヨネーズのように融合して一つにもなれる。その国は確かに存在していると思う。が、我々は行くことができない。
いや、いつかは皆が行くわけだが、行ったらもう二度と戻れない。だからその国のことは我々は誰もわからないしうかがい知れない。
母はその国へと旅立ってしまった。我はそのための費用を今日支払いに行った。病院の待合室に集う人たちを見ていて、我らはまだここにいる。どんなに病み衰えてもこちら側にいる。我らと母との彼岸を、その距離をいやでも考えさせられた。
我は母をその彼岸入りの頃までは生かして、こちら側に置いておくつもりだったがかなわなかった。
死者の国、その国へは誰もがわたる。しかし、一度行ってしまった人は二度と帰らない。そう、ここに、この病院に母はずっと通い続けた。何度も入院した。手術もした。が、もう二度と来ることはない。
支払いを済ませて車を出した。少しだけ泣きながら母の遺骨が待つ家路を急いだ。
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