このどうしようもない「素晴らしき世界」をとことん生きていこう2016年12月01日 22時30分18秒

★人生とはそもそも思い通りにならないものなのだ。

 今年も12月となった。我にとって特別の、死ぬまで忘れることはない2016年という年も間もなく終わる。
 母の死後、ずいぶん長い間、ショックで心身ともに打ちのめされ、このブログも悲嘆から失意、愚痴や昏迷まであれこれしょうもないことをグチグチ書き続けてきたが、ようやく立ち直ってきた。
 本当にご心配ご迷惑おかけして申し訳なく思う次第だ。
 正直なところを書けば、今もまだ最愛の母を死なせてしまったという悔恨と憤怒のような、悲憤の気持ちは強く残っている。しかし、ようやく気がついた。一つの真理に目覚めた。

 そもそも人生とは、思い通りにはならないもので大変かつ面倒なものだったのだ。誰だってそうであろう。願っても祈っても思いは届かないしかなわない。特に我の場合も、母のことだけ思い通りになるばずもなかったのだ。
 ならば、そうだったからといって失望のあまり、もう人生そのものに関心を失い、全ては無意味で虚しいものだと自暴自棄になったり、放擲してはならなかったのだ。
 そう、だからこそ、すべてを受け入れてその「現実」と向き合ってしっかり生きていかねばならなかったのだ。
 そう考えたのは山梨に行ってあるきっかけがあったからだ。

 実は先週末、一泊二日で、また山梨へ、倉庫と化した古民家の片付けに行ってきた。前回の時は、父も連れてったのだが、呆けてよたよたの父がいると、その世話に時間とられてはっきり言って仕事にならない。向うでも父はものすごい寝小便して、後始末に追われた。
 今回は、通い始めた民家型デイケアに一泊二日で通しで預かってもらったので、父無しで身軽に行けたのだ。
 行った日は午後から雨が降り出し、作業もそこそこに、一番近くの公営温泉にのんびり浸かってようやくこの数か月の疲れを癒すことができた。
 翌日は朝になって雨はやみ、早朝からラジカセで地元のコミュニティFM局を流しながら溜まりに溜まった本や雑誌の山を分別整理していた。※その古民家では、山里にあるために、ラジオは近くから送信されるFM八ヶ岳しか入らない。
 そしたらば突然ルイ・アームストロングが唄う、「WHAT A WONDERFUL WORLD」が流れて来た。作業の手を休めてサッチモがあのしわがれ声で唄い上げる名曲、邦題「この素晴らしき世界」を聴いていたら、涙が突然出てきた。我でもこのぐらいの英語は聞き取れる。

WHAT A WONDERFUL WORLD
この素晴らしき世界

(作詞・作曲: George David Weiss - G. Douglass)

木々は緑色に、赤いバラはまた、わたしやあなたのために花を咲かせ
そして、わたしの心に沁みてゆく。何と素晴らしい世界でしょう。
空は青く、雪は白く、輝かしい祝福の日には、神聖な夜と
そして、わたしの心に沁みてゆく。何と素晴らしい世界でしょう。
空にはとてもきれいな虹がかかり
また人々は通り過ぎながら、はじめましてと言ったり
友達が握手したりしているのを見かけます。
彼らは心から「愛している」と言い
わたしは赤ん坊が泣くのを聞いたり、成長してゆくのを見ています。
彼らはわたしよりも遥かに多くのことを学び、知ってゆくでしょう。
そして、わたしは心の中で思っています。何と素晴らしい世界
ええ、わたしは心の中で願っています。何と素晴らしい世界なんでしょう。

(訳: 古川卓也)

 この曲は、1968年のヒット曲で、この歌詞は実のところ、激化するベトナム戦争を揶揄したアイロニーなのだと解説されていることも多い。
 確かに時代背景を思うとき、そうでなければこの能天気な歌詞の歌がヒットするとはとても思えない。ある意味、これもまた反戦歌なのかとも思える。
 しかし、今の我には、皮肉でも何でもなく、人生とは、自然とは、この「世界」とはじっさいにこうした素晴らしいものなのだとはっきりわかる。
 が、現実に目を向けると、我々をとりまく世界=人間社会は、戦争はまだ起きてはいないものの、日を増すごとにより最悪へと、破滅へと向かっている。

 例えば、父たち老人たちを見ても、年金はカットされ、さらにそこに医療費も高負担とされて、介護保険もさらにシビアに、これでは老人は早く死ねと言わんばかりだ。
 そしてそうした悪政を邁進し続ける自公政権にこれからもまだ国民が政治を託すのならば、もはやそれは自殺行為であろう。アメリカの中西部中心にプアーホワイトたちが、トランプ氏を強く支持し彼のような人間に期待したように、切り捨てられた者たちが「反乱」を起こすのが人として本当の姿であるとすれば、もはや今の日本人はそうした本能すらも失い権力者の前にただ唯唯諾諾従う飼い犬のようなものか、本当の一億総白痴になってしまったのだろう。

 今この国では、弱い者、被害を受けている者こそを差別し切り捨てて、強者、権力者にへつらい、金のためには人の命すら売り渡すような輩が増えている。支援が切り捨てられていくフクシマの避難住民しかり、その子供たちを差別し苛める都会の子どもたち、沖縄で新たな基地建設阻止を求める無抵抗の人たちを公権力が次々逮捕する事態、さらには、障害者という社会的弱者を社会にとって不要なものとして排除し殺害してしまう事件・・・
 何度選挙しても経済の好景気という「幻想」を振りかざす安倍政権は選挙のたびに大勝し数を増やして、ますます驕り暴走は加速していく。
 
 世界のどこをとっても「この素晴らしき世界」とはとても思えない緊迫した状況が起きている。サッチモが朗々と歌うような、のんびりとした穏やかな平和な世界なんてありえない。すべては思い通りにならない。いくら祈ろうと願いはかなわないし思いは届かない。

 しかし、だからこそ思う。世界とは、人生とはそもそもそうしたものだと規定して、だからこそ、この歌のような世界へと、真にあるべき姿、本当の正しい世界の在り方に戻していく努力が何より必要なのではないか。
 むろんいくら願っても祈っても行動しても世界は何一つ変わりはしない。月日を追うごとにさらに世界は悪い方向に進んでいくように思える。しかし、そこで、今の多くの日本人のように、どれほど悪政が続こうが、所得がどんどん減らされても無自覚に、何も考えず怒ることもなく、選挙にも行かず、行っても自公や維新に投ずるのならそれは人として国家として緩慢な自殺であり、それを阻止する努力を我々は常に少しでもすべきではないだろうか。
 むろん彼らには言葉も届かない。衆参で圧倒的な議席を誇る現政権では、もはやどんな法案でさえ通るのだから国会でいちいち審議したって時間の無駄だと安倍晋三自らが言っている。人権を抑圧できる憲法を早いとこ作っちまおうと彼は夢想している。

 そういう「最悪の世界」を、人間が本来求める、あるべき姿である「素晴らしき世界」へと、変えていくのは容易なことではない。しかし、我々もまた同時代という同じ船に乗り合わせた、客ではない「乗組員」なのだから、船長が誤った方向に舵を切り、船が沈没していくのなら、我々も死なないためにはそれを止めねばならない。
 一船員が腕っぷしの強い船長に抗っても無駄かもしれない。しかし、大事なことはそうした行為であって、抗い続けて行けばいつかは仲間も増えて反乱も成功するかもしれない。

 人生はどうしようもないし先のことはわからない。だからこそ、愚か者や金の事しか頭にないバカに、国家の舵取りを任せて、我が人生を失いたくない。失望のあまり政治に、人生にネグレクトしてはならない。
 どうしようもないものだからこそ、人生は人任せにしてはならない。人々が皆、そう考えて、「この素晴らしき世界」を夢見て、真剣に自らの人生を生きて行けば、世界はきっと素晴らしいものへと、本来の姿のものへと変わっていく。誰もが愛しあう、差別も貧困も戦争もない世界がきっと生まれていく。

 たとえそれが何一つかなわなくとも、人は大事なものを自ら失ってはならない。それが人生。思い通りにはならないけれど、とことん思い通りに生きていこう。それが人が生きるということなのだ。ようやくわかった。

 もう迷わない。「この素晴らしき世界」=神の国はそこにある。

カジノの次はドラッグ、覚醒剤も解禁を!2016年12月03日 06時59分30秒

★金儲けのためならば人の命も厭やせぬ政権

 カジノ=合法賭博解禁に道を開く法案が間もなく成立しようとしている。審議時間はわずか6時間!
 今の自公政権はすべて数の力に驕り、いくら時間かけてしようが、そもそも与党が出す法案はすべて「成立ありき」前提なのだから、国会でじっくり審議しようとしまいと、野党がどれほど反対しようとも数の力=多数決で必ず強行採決、可決成立できる。議事録なんか必要ない。
 ならばもう審議するだけ時間の無駄であって、個々の法案ごとに議決だけ採れば良いだけと与党は考えているのだろう。元より野党の声に耳を傾ける気は毛頭ない。
 もうこれは議会制民主主義ではない。反対意見や少数意見はいっさい聞かず、度重なる選挙で大勝し「国民に信託された」政権は、成すことすべて全面委任されたと思い込んでいるのだ。
 数の多寡は関係なく個々の議案に反対する意見は常に必ず存在している。沖縄を見れば政府の方針に賛成同意している勢力の方が圧倒的に少ない。しかし、国会ではそれは一切反映されていかない。完全に無視されたままだ。そして内地では報道もほとんどされない。

 今の政治に危惧を抱く、違和感を強く持つ国民の真の声は国会に届かない。かつて公営ギャンブル廃止を公約に掲げた知事がいたことが懐かしい。今の政治は立憲主義が形骸化しただけでなく、人としての良識、従来の社会常識は完全に失われてしまったと痛感している。ああ金の世、金金金カネカネカネなのだ。

 では、いっそのこと、カジノの次は、大麻などのソフトドラッグも政府が管理したうえで、全面解禁したらどうだろうか。そして、さらにはヘロインなどの覚醒剤も自由に使用できる、昔どこそこの国にあったような「アヘン屈」をお台場とか大都市に作って誘致すれば、それ目当てにさらに観光客もジャンキーも増え観光立国として栄えるのではないか。むろん暴力団を排除して国家としてやるのである。

 覚醒剤なんてとんでもない。ダメ、絶対!と言うなかれ、金儲けのため、国家が潤うためならば、人の命なんてもはやどうでも良いのである。これは強制ではなく、個人の自由意志なのだから、タバコ同様、体には悪いことを承知で、「自己責任」で皆さんどしどしやってもらいたい。女房子供を見捨てて家を売って、会社の金を使い込み犯罪を犯してもお金をトコトン使い果たして下さいと。
 それで儲ける者が出て国家の財政が潤うならば、人命は知ったこっちゃない。すべては経済効果最優先なのだ。

 次の選挙では、「カジノの次は覚醒剤解禁!もっと金になる」 を公約に掲げて我も選挙に出ようかと考えている。今の世相なら当選できるかも。あっ、自民党公認でないとダメか。

自死者の家族の苦しみに思う。2016年12月04日 13時18分55秒

★宇多田ヒカルの新アルバムに寄せて

 (己が)生きている限り、他者の死に出会うのは避けては通れない。家族を喪い、友を、親しい関係にあった方々を亡くしていく。

 家族だけを見ても、まず祖父母を亡くし、やがては両親を亡くしていく。これは、彼らが年老いた先人だから当然のことで、本来自然の至りなのだから特別に哀しむべきことではない。
 が、物ごころついたときから常に傍らにいて、我を愛し育て、半世紀以上の長き間、長年共に暮らしていた人がいなくなると、それが必然であってもやはりショックだし今も哀しく辛い。

 そして結婚し家庭を築いた者は、親を送れば、次にやがては伴侶=パートナーを送る。大概は、夫のほうが年上であることと、平均年齢でも長く生きる女=妻が夫を亡くす。
 我が家の場合のように、5歳も年上の男のほうが妻に先立たれるということは珍しいとされている。
 しかしそれも運命であって、十分生きた結果がそうであったのだから、そう定められていたのだと今は思えてきた。それもこれも仕方ないことだったのだと。

 しかし、この世には自殺者、自ら命を絶つ「自死者」という死に方も多々ある。それは老いも若きも関係ない。特に若年層に多いとも聞く。
 そうした「死」と出会った者はどのような思いを抱くのであろうか。
 
 死とは、常に別れの哀しみと、もう会えない、喪ってしまったという喪失感に苦しむ。友人知人ならば、まずそういった、もはや二度と会えないことと大切に思う人の永遠の不在に哀しむことだろう。
 家族の場合は、そこに、もう一つ、「死なせてしまった」という悔やみ、無力感を味わい、悲哀とはまた別の悔恨の苦い思いも加わる。
 我の場合、それは怒りのような強い憤りの感情であり、特に我が家で、我が手のうちで母をみすみす死なせたという特別なケースであったから、哀しみに勝って悲憤と痛恨の思いがいつまでも続いていた。

 それが自死者の家族であったらどれほどかと想像する。共に暮らしていてもいなくとも、家族としてどうして自殺に至るまでの苦しみに気づき、くい止め助けることはできなかったのかと自らに問いて責め続けることであろうか。
 自殺とは、自らを殺すだけでなく、家族をはじめ残された周囲の人たちをも精神的に殺してしまう。しかし、その当事者を責めることはできない。
 検証すべきは、死に至った環境、その人を苦しめた状況であって、そのサインに気づくことのできなかった者自身、死んだ者と近しい関係にあればこそ絶対に責めてはならない。
 といっても人の死に自らを責め続けるのが人間なのだが。

 我は数年前、かなり親しかった友人を失った。彼は精神を長く病んでいて、精神科に通院していただけでなく、強制的に入院させられたことも何度もあった。
 同世代であったことで気があい、よくウチにも遊びに来たし、一緒に温泉に行ったこともあったし、我のイベントではいつも手伝ってもらっていた。
 よく彼は強い不安に襲われ、深夜であろうとも電話がかかってきて、彼の抱える心身の苦しみを訴えていた。我は何もできやしないが、話を訊いていれば、彼は心落ち着いてきたようで、多少の助けにはなっていたのかもしれない。
 その彼と秋に連絡がとれなくなり、何ヵ月もたった。以前も突然精神病院に入ってしまうことがあったから、当初はさほど心配はしていなかった。
 が、年明けて、出した年賀状が宛先名不在と返ってきて、さすがに心配になって共通の友人と相談してあちこち確認してもらった。
 彼の両親は早くに亡くなり、一人っ子の独身者だったから、ある意味まさに天涯孤独で身寄りがなかった。
 やがてわかったことは、彼は既に死んでいて、おそらく市役所の福祉課が全部手配し住まいも片づけて、世田谷の家族の眠る墓に遺骨は収められていた。
 今もその死因ははっきりわからない。遠くの叔父さんに当たる人に友人が問い合わせたところ、自死ではなく病死だったらしいが・・・

 それから何週間か我は自らを責め続けた。自らの薄情さを悔い憤った。自死であろうとなかろうと、どうして何かできなかったのだろうか、友人を助けるために何かすべきであったし、何かできたのではないかと今も思う。
 これがご家族の人たちであったらどれほど痛恨の念であろうか。考えただけで涙が出てくる。

 宇多田ヒカルはご存知のように、あの昭和の名歌手・藤圭子の娘である。その藤圭子は精神を病み、数年前に飛び降り自殺だかで自死してしまった。
 傍目にはあまり親しい親子には思えなかったが、やはり当然そのショックは大きかったのであろう。娘もまた母の不測の死に大きく傷つき苦しんでいた。
 告白すると、我は宇多田ヒカルをまったく評価していなかった。アチラ風のスタイル、変則リズムに無理やり日本語詞を乗せるスタイルに疑問を持っていたし、何であの藤圭子の娘がこんな音楽を・・・と過小評価していた。
 しかし、先のNHKの朝の連続ドラマの主題歌で、彼女のうたが流れて来て、おやっと思った。ほぼ毎日テレビから流れて来たこともあるが、耳につき、いつしか心に深く浸み入ってきた。なかなか良い曲で実にエモーショナルだと思った。こんな巧い歌手だったのかと感心した。

 このところマスメディアで、その曲も収めた宇多田ヒカルの久々の新アルバムが自死者家族たちの間で、話題になっていると報じていた。彼女はようやく母の自死という悲痛な事件を乗り越えて、その亡き母への思いを音楽に昇華させたのであろうか。
 自死者の家族の方々の苦しみに比べたら我の哀しみや悲憤などとるに足らないことだ。宇多田の音楽はそうしたことをも考えさせてくれた。音楽とはこうした素晴らしきものだ。宇多田ヒカルありがとう。お疲れさま。

 誰もが自らを赦し赦し合えるように。救い救われるように。音楽はそのためにこそある。

老いて死に行くまでの時間2016年12月05日 23時43分40秒

★父はあとどのくらい生きるのか

 このところの我の日課は、朝はまず、父が眠っている間に、犬たちを散歩させ、父を起こして着替えさせ、居間につかせて朝食を食べさせる。
 デイケアなどのある日は、それから着替えさせて持ち物まとめ、確認して施設からの迎えの車に引き渡してほっと一息つく。
 それからは、父が夕刻戻るまではいちおう自由に我が時間が持てる。しかし、デイサービスは夕方5時近くに戻ってくるが、デイケアは実質6時間も預かってもらえず、昼過ぎたと思うとすぐに父は帰ってきてしまう。しかも朝送るときも帰ってくるときも必ず電話がかかってきて、誰か家人が家にいないと父は帰宅させてもらえない。
 となると、我が一人で自由にいられるのは昼を挟んで数時間というわけで、割高の支払いのわりには、こちらがのんびりする時間はほとんどない。
 それでもそうして今は週に四日、手のかかる父を預かってくれる介護保険を利用したサービスが使えるので、そうした日の日中はずいぶん時間的ゆとりもできてきた。
 しかし、夕方に戻ってきた父の世話もあるわけで、父を送り出したからといって、都心に出かけてそのまま夜まで遊ぶことは不可能だ。夕飯を作ってともかく食べさせないとならない。
 父がそうした施設に出かけない日は、あれこれこウルサイ父を相手に、昼飯をつくって食べさせたり、一日三食食事を出し、紙パンツをチェックしたり、洗濯や掃除をしたり、また合間みて犬の散歩に行ったりと、大したことは何もしていないのに、コマネズミのように動き回っているうちに一日があっという間に終わる。
 このブログを書くのも、父がいない日は昼間も書けるが、たいてい、早朝か、父を寝かして犬の散歩を終えた深夜近くとなってしまう。

 母が死んで間もなく三か月、ようやくそうしたライフスタイル、サイクルに慣れてきた。そしてこのところよく考えるのは、この父と息子の二人だけの生活はいったいいつまで続くのだろうか、と。
 
 昨日の夜は、分倍河原の喫茶店で、中川五郎氏と会う約束があり、デイサービスから父が帰ってくるのを待ってから出た。
 夕食の時間にはまだ少し早く、本来は父に食べさせてから出るべきだったが、あまり遅くなるわけにもいかず、父用に簡単な食事を、居間のコタツの上に出して、7時のニュースが終わる頃、一人でもしっかり食べてとよく言い聞かせて出た。
 そして夜も、父が寝る頃には戻れないと思えたので、一人でも紙パンツを交換して、大人しく先に寝ていてくれと頼んでおいた。

 用事を済ませて家に戻ってみると、父は既に高いびきでベッドの中だったものの、出しておいた食事はほとんど減っていないしスープも気づかなかったからと全く手をつけていない。※これとこれを食べるようにきちんと伝え、当人もわかったと言ってたのだが・・・そして朝起きると、紙パンツは寝る前に新たに交換しなかったらしく、父が寝ていたベッドのシーツは世界地図であった。
 まあ、火事とか事故が起きたわけでないのだからそれも良しとすべきなのだが、やはり、一人にして、彼自らに任せてしまうとダメだなあと嘆息した。
 まあ、認知症で介護3の人を一人にして、自主性に委ねて彼自らに任せてしまったことがいけないのだから、怒りもしないが、やはり夜は、食事食べさせて、紙パンツを確認して早くてもベッドの中に押し込んでからでないと出かけられないなあと改めて思う次第だった。

 そして今日は、父は一日家にいる日だったが、施設に通って疲れているだろうと少し寝坊させていたら、自ら起きたのは良いものの、尿の失禁ではなく、紙パンツの中は、軟便でいっぱいであった。しかも昼過ぎて、そろそろ昼飯を、と思っていたら、またトイレに駆け込む途中でウンチを漏らしてひと騒動となった。
 昨日のデイサービスで帰り際、大量の排便があったと送って来た施設の人が帰り際連絡してくれたが、どうやら昨日からお腹を下してしまったらしい。
 幸い紙パンツの中だけで済んでいるが、その後始末、看護用語でいう「インセン」、つまり陰部洗浄で今日は大変であった。
 そして思ったのは、こうした出来事が辛いとかうんざりとか以前に、父はあとどのぐらい生きて、どういう死に方をするのだろうかという問いであった。
 もう、こうした日常はうんざりだから早く死んでほしいとかは思わない。ただ、父は今92歳だから、まさか百までは生きないであろう。ならば生きたとしてもあと数年、もしかしたら母の後を追うように一年もたたずに死ぬのかもしれない。
 その覚悟ができているか自問すると、そうは我は考えていない。まだそんなすぐには死なないはずだ、と。が、これもまた母の時と同じく希望的観測、願望ゆえに判断や予測を誤っているのかもしれない。
 考えても仕方ないことだが、もういつ死んでもおかしくない人だが、その死期と死に方がどうしても気になってしかたない。

老いて死に行くまでの時間・続き2016年12月06日 15時51分50秒

★迫りくる死の影の前で、人は何ができようか

 このところようやく時間が出来てきたので、父がデイケアなどで不在の時は、二階にこもって溜まりに溜まった書類の片付けに専念している。
 そして今さらながら、今年は年明けから母の体調が悪くなったので、その対応に追われるだけで、何一つきちんとできなかったのだと気づいた。

 父母の分も含めてウチに届いた様々な通知書類、ハガキ、手紙をはじめ、我が関わったイベントでのチラシ類、出先でもらってきたカタログ類、そして我が書き記した原稿、メモ類や覚書、コピーとった書類など、まったく整理分別することなく、溜まれば「とりあえず」二階の階段上へ運び上げて、母の具合が落ち着いたら「後で整理しよう」と思って、それを繰り返していたのだ。
 今、その山を崩して、一つ一つ今さらながら確認してみて、けっきょく迫り来る死の影に怯えながら、その時どきのただ「とりあえず」できることをやるだけで手いっぱいで他のことは何一つできなかったのだと気づかされた。すべてを後回しにしていたのだ。
 そしてなすすべもなく母は死んで、今三か月してようやく今年一年の溜まった書類を片付けながらこれまでを振り返っている。

 じっさい、その何かが起きた時、渦中にあるときは何もわからず何も見えなかったが、今落ち着いて振り返れば全てがはっきり見えてくる。 物語でいう「伏線」のように、ああ、このときのこのことは次に繋がる前触れ、予兆であったのかと今にしてわかる。だからこうなったのだと。
 いずれにせよ、今わかったってもう時間は戻せないのだからどうすることもできない。ただ、わからなかったことがはっきりしてきたことは良いことに違いなく、我にとって経験として大きなものを学び得た。
 人の死に行くまで、人が死ぬとは、実にこういうものなのかと母を看取って深く知り得た。

 事前の想定として、頭の中では、もう少し緩やかに人はゆっくりと死んでいくものだと考えていた。だから、介護する側も時間も余裕も或る程度はあるだろうし、死に行く者と共にその最後の時をゆっくり過ごせるだろうと。
 が、現実は、寝たきりなってわずか二か月足らずで、日毎に衰弱してあっという間に母は死んでしまったのだ。まさに想定外であった。
 ただ逆にこれが一年かけて、寝たきりの時間がもっと長かったらどうかとも考える。看護師やヘルパーは毎日短時間でも来てくれたとしても我一人で我家で、昼夜を問わず母の介護は無理だったとはっきり思える。ある意味、体力的精神的に二か月はほぼ限界であった。年明けから比ぶれば我の体重も10キロ近く減っていた。母が元気に病んでくれていたら、もっと長生きしてくれて有難かったと思うものの、逆に息子の方が過労で倒れていたかもしれない。それではまさに元も子もない。

 ともあれ、母を通して、人は老いて病み衰え、こうして死んでいくのかと常に傍らにいて逐一見届けられたことは我にとって大きな学びであり得難い経験は財産となった。また、人の死後、いかに煩雑な手続きが残されるかも知り得て大いに勉強となった。

 そして今、次に死に行く人を我は抱えて、さてまたどうしたものかと案じている。
 母のように進行性の病気、癌患者であれば、その癌の肥大・成長していく速度に肉体はついて行けなくなって、まさにあれよあれよと何の手も打てずに死んでしまった。
 思えば、今年の年明けから、癌がまた活動し始めた、さてどうしたものか、と対策を練り始めてわずか半年で衰弱がすすみほぼ寝たきりとなってそれから二か月で死んでしまったのだ。まったく何一つ母のためにと思っていたことはできなかった。何の余裕もなかった。肥大、進行していく癌の活動の前に、母も我もまったく無力であった。
 進行性の病気ではそうした死に方となるのだと知った。では、父の場合はどうなるのであろうか。

 父は今現在、足付け根の骨折以後、治癒はしても未だろくに歩けずよたよた、ふらふらで、しかも認知症は度を増し、さらに誤嚥気味ではあるが、今現在特に命を脅かす病は何も抱えていない。
 ただ父を見ていると、まさに老人、さすがに百歳近くまで生きた人だと痛感する。頭の呆けもだが、すべての機能が衰えて、まさに何をするのもやっとのことなのだ。そして次々と様々なことができなくなっていく。何もわからなくなっていく。

 死に至る病がなくても、父の場合は、こうして失禁から排便まで垂れ流しの状況となり、食事もやがて口から摂れなくなり、さらに認知症も進み、何もわからなくなって寝たきりから眠る様に死ぬのではないか。それこそ、老衰という言葉通りに。
 あるいは、ふとした事故で、転倒や喉にモチを詰まらせたりしてあっという間に死ぬ可能性も考えられる。
 考えられるのは、母のように病に倒れ、衰弱し死に至るというパターンではないのではないか。もう、92年も生きているのだ。体中すべての臓器、機関、機能が耐用年数を超えて不全となっていく。
 骨折での退院以後、頑健であった父もずいぶん痩せて小さくなってしまった。あの大男がこんなに脆弱な姿になるとは思ってもいなかった。
 しかし、そういう老いの姿、死に行く姿も長生きしたから故であり、もっと若くして普通の生活を送れていた人が、脳梗塞や心筋梗塞など体の一部だけがダメになり、突然死する場合を思えば、よくもここまで出しガラのようになるまで生きたものだと感心もする。
 いずれにせよ、父の老い先は間違いなく短い。また近くその報告もこのブログ上ですることになるかと思う。

 老いて死に行くまでの時間は人それぞれ違う。老いずに死ぬ者だってままいることを思えば、我も貴方もまた、そのときまでの時間をいかにどう使うか、そのときに至るまで何ができるか、何をすべきか、これからも考えて行かねばならぬ。
 そう、我もまた、そして貴方もまた。

亡き母の誕生日に思ったこと2016年12月09日 05時47分07秒

★夜明け前の闇の中で

 9日、金曜の早朝である。外はまだ真っ暗だ。今さっき、八高線の一番電車が走って行った。
 この数日、日中はケアマネや訪看さんや、出入りの人が来たり何かと慌ただしく、夜は疲れて早く寝てしまっていたのでブログ更新することもできなかった。
 昨晩も10時頃から倒れ込むように寝て、4時過ぎに目が覚めて、しばらくベッドの中で聖書とか読んでいた。で、起きだしてこれを記している。

 12月7日は母の誕生日であった。翌8日は、母が言うところの「大東亜戦争」が始まった日、つまり太平洋戦争開戦の日であり、ジョン・レノンの命日でもある。
 様々な思いがかけめぐる。
 戦後が70年過ぎて風化してしまえば、まして「開戦」の日のことなど誰も今の人は知らないしほとんどのメディアも取り上げない。
 日本は、大国アメリカへ、無謀にも軍事テロをこの日仕掛けて、結果として中国大陸で続けていた戦争以外にも新たにアメリカを敵国として迎えてしまい本土空襲、沖縄は地上戦の末占領、そして原爆投下へと破滅への道を突き進むのである。
 今の目でみれば、日本がアメリカに戦争を仕掛けることは、子供が大人に、しかも大男にケンカを売るようなものであって元より勝てるはずもなかった。時の指導者の愚かな選択と見識を嗤うのはたやすいが、その頃は軍部のみならず多くの人々の目と心が曇っていたのである。
 結果として日米の軍人のみならず多くの民間人、アジアの人々が戦禍に苦しみ傷つきその命も多数失われてしまった。
 どんなときでも常に変わらぬ「真理」は存在しているし、それに則して常に正しい判断をしないとならないわけだが、その実際のとき、「今」の時点では人はそれが見えずにたいがい判断を誤る。そして失敗を繰り返す。
 常にどんなときでも目先のことに囚われず予断を持たずに道を違えぬようにできたらと願うが、まずこの我が身こそそれは難しいことを痛感している。

 さておき・・・ 
 母が今も生きていればこの7日で87歳であった。9月8日に旅立ったのだから後三か月生きていてくれれば、とか、もう少し生かしておきたかったと考える。が、生かすも殺すもそれは神の意思、神の計らいだったのだと今は思える。我が、親を生かすというのは僭越であり驕りであった。
 もっとも若い歳で親を亡くされた方にすれば、86歳まで生きたのだから十分長生きだし、それ以上の長寿を望むのは傲慢、高望みだと批判されるだろう。
 しかし、母の父は88歳、母の母は百歳近くまで生きた長生きの血筋としては、本人も我も当然のこと、米寿、卒寿ぐらいまでは母は生きるものと思い込んでいた。さすれば年上である夫=我が父を先に送り、心残すことなく母も安心して旅立つことができたであろうに。
 今でも癌に侵されなければ、母はもっともっと長く、母の母の歳に近づくまで生きたと信ずる。まさに命を奪った憎きは癌である。
 こうした悔いはいつまでも残る。そしてもう取り返しがつかない、後戻りできないことであるならば、今さら思い悩むことは無駄であろう。
 大事なことはその「失敗」から何を学び、何を今後に生かしていくかだ。そしてその「失敗」の中にも少しでも「良いこと」を見出すことだ。

 思えば、それまで誰よりも元気であった母の身体に異変が起きたのは、ちょうど八十歳になった夏からだった。
 突然、原因不明の高熱が出て、それが収まったかと思うと、胃痛や腹痛が続き、しだいに食事が摂れなくなり痩せて来た。原因がわからずあちこちの病院にかかり精密検査も何度もやった。高名な漢方薬局にも通って薬も飲んだ。

 が、原因がわからぬまま食べられないため40キロ以上あった体重は30キロ近くまで落ち、手足には浮腫みも出て来て、顔には死相さえ現れて、ようやくかかりつけの立川の病院の内視鏡検査で、大腸に癌があることが発見され手術となった。癌によって腸が癒着してイレウス=腸閉塞のようになっていたのであった。
 しかし、その時点で衰弱がかなり激しく手術に耐える体力がないため、まず鼻から栄養を胃に流し込んで体力をつけてから開腹手術して、癌の部位と癒着した大腸をかなり長く切除した。
 それが2011年の春先のことで、母は、大震災を病室で迎えた。難手術であったが成功し、すぐに口から食事もとれるようになり、生死に関わる大手術だったはずなのに、母はあっという間に退院できた。

 それからも経過を見るために定期的に病院通いは続いたが、一度だけ抗癌剤はワンクールやったものの、以後、癌は沈静化しこの数年、まったく普通に、病気前の生活が送れていたのだ。
 今年は年明けから体調崩して、何度も入退院を繰り返したが、思えば、この手術後の5年間は、「おまけ」のようなもので、立川の病院で癌が発見された時点でかなり手遅れギリギリの状態であったことを思えば、80歳そこらで死ぬはずの人が、余分に86歳までは生きられたわけで、そう考えればもう十分に有難いことであったのだ。

 俗に癌は手術で一度は治ったとしてもまた3年後、もしくは数年すれば必ず再発されると言われている。清志郎もそうだったし、一度は「復活」できてもまた癌が再発しそれで助からないという事例はいくらでもある。
 その例に倣ってやはり母も再発した癌の前には無力で、闘い破れたわけだが、自宅での看護は大変であっても、この数か月の母との濃密な時間が与えられたことと、母の死を通して多くのことを学び得たことは我にとって財産と力になった。
 そのおまけの5年間をもっと有効に、迫り来る死を意識して大事にすごすべきであったと今にして気づくが、普段は癌のことは忘れてノンキに暮らせていたのだからそれはそれで良かったのであろう。元気で健康ならば、何も死に怯え日々の生活を彩られる必要はないのだから。

 我が親の死を通して学び得たことをいくつか記しておく。
 
 ⒈人は70代までは老いてもほぼ元気に普通の、それまで通りの日常生活は送れる。が、八十代に入ると確実に体調は衰えて来て異変も起こり得る。その覚悟を持つべし。

 ⒉癌は誰にでも起きるし、特に原因不明の高熱や体調異常はまず癌を疑うべき。すべての事には原因がある。異変が起きたら、収まってもそのままにしないで早めに必ず検査すること。

 ⒊そして、早期発見なら癌はほぼ治る。が、また数年後、必ず再発する。そしてそのときは、まず死ぬ。ならばこそ、復帰しても癌治癒後の人生こそ真に有意義に大切に生きなくてはならない。

 ⒋人の死は、残された生者を哀しまさせるだけでない。死後の「後かたづけ」に大いに煩わさせる。死者は生者を煩わすもの、と心得て、我自らも含めて、「死後」の後始末について、何がどこにあるか、亡きあとはそれをどうしてほしいか、日頃からきちんと書き記したり遺族にしかと伝えておくべきなのだ。死んだ後のことはカンケイない、知ったこっちゃないと考えてはならない。それも病んでからでは遅い。元気なうちに、だ。

 ⒌ゆえに、日々死を想って生きること。それは実際難しいが、人は自らも含め必ず死ぬという前提で、何事も捉えて生きて行かねばならない。

 もっともっといくらでも思い浮かぶが、大事なことは上記かと思える。ご参考になれば幸甚である。

 この我がいつまで生きられるのか、それは神のみぞ知る。たとえこの身が病に倒れなくても明日、不慮の事故で死ぬかもしれない。
 しかし、父母の事例に頼るならば、あと20年は、このまま変わらず、体調不良は常の事だとしても、普通の生活を何とか送れるはずだろう。
 ただし、八十代に入ったら何が起きてもおかしくない。死の覚悟をきちんと固めて、我の死後、我の負の財産で、親族を苦しめることのないように、その20年間のうちに、我が抱えているボーダイなガラクタ類をどうするのか手を打たねばならない。
 ある意味、我の残りの人生は、その「片付け」のためにある。

 ただ、無年金者としては、親たちの残してくれたささやかな財産を食いつぶしてしまえば、生きていく術はない。老いた独り者がどうやって日々何とかしのいで生きていくか、それこそが我の人生の最大のテーマとなろう。

 そのことも折々このブログが続く限り赤裸々に書き記していこう。我にできることはそのぐらいしかない。そう、赤裸々に。死の前には何も恥ずかしいことも隠すことも何もない。

誰もが皆愛しき誰かのために2016年12月12日 20時13分07秒

★我にもまだ見ぬ新たな「誰か」を。

 父を民家型デイケアに預けて、一泊二日でまた山梨へ一人で行ってきた。
 半端じゃなく寒い。戻って来た東京も今かなり冷え込んでいるから、このところのぽかぽか陽気も去って寒気が戻って来たのだと知るが、それにしても向うは寒かった。
 「一人」で過ごす冬がこんなに寒いのものかと真っ暗な山里を白い息を吐きながら犬たちと、眩いばかりに星がまたたく夜空見上げて思い知った。
 何しろ山梨県でも峡北と呼ばれる最も北に位置する長野県寄りの標高は700mはある山里なのだ。着いたのは昼過ぎで、晴れて陽射しもあったが、風は冷たく気温も低く、外での作業はとてもできるものではない。

 冬の京都に行ったり、京都で暮らした人ならご存知かと思うが、今の季節、京の街には「比叡おろし」が吹く。比叡山から吹き下ろして来る冷たい北風は、ときに小雪を伴いその冷え込みは半端じゃない。
 ここ、八ヶ岳山麓も、比叡ならぬ「八ヶ岳おろし」と呼ばれる、北からの寒風が、この季節吹き荒れる。雪はなくてもその北風が吹き荒れるだけで心底冷え込んでくる。
 山梨の北杜市須玉で冬を迎えるのは初めてではないし、雪の頃だって来たこともある。が、今年の寒さは、例年になく厳しく感じるのは、母を喪い、一人となって来たからか。

 思えば、この町には、街灯も商店も人もいない、つまり何もないのである。あるのは山の自然だけで、ゆえに夏は涼しく人気もないので静かでのんびりできる。が、この季節となると訪れる観光客も皆無となり、山の幸も出尽くし、直売所はやってたとしても漬物の類しかない。
 街頭すらない真っ暗な夜道を温泉に向かうため車で走りながら、ここに昔から住む人はともかく、新たにこの地に移住してくる人たちは、生半可な覚悟ではとても住めないなあと思った。
 別荘族のように、都会に本宅があっての夏だけならともかく、この地に住まいを移して冬も過ごすというのは、その覚悟が試されている。
 京都は寒いが、大都市であり、通年何かしらイベントがあり、店も夜遅くまでやって人の出入りも多い。だから寒くても店に入って暖をとり、人と会えば寒さはやり過ごせる。

 八ヶ岳山麓と呼ばれる山里は、夏はともかく、冬場となればもはや家にこもって、漬物食べてひたすら縄をなうぐらいしかやることはない。やってる店もないし町には人もいないのだ。今回も猿はいたが集落では人は一人も見かけなかった。
 これが雪が多い北海道とかなら寒くてもウインタースポーツが盛んで、冬には冬の楽しみが待っている。
 雪もなく、八ヶ岳から吹き下ろす北風だけの乾いて長い寒い冬を過ごすのは本当に辛いのではないか。今さらながらそう考えた。せいぜい楽しみは体が温まる温泉ぐらいしかない。

 というわけで、夜になってから、車で近くの温泉に行くことにした。古民家には使える風呂がないので、あちこちにある公営温泉の一つにでも入らない限りは、体が冷え切ったままではとても寝付かれない。
 でついでに、甲斐大泉方面にある、噂の「ひまわり市場」というスーパーに初めて足を伸ばして寄って来た。
http://himawari-netsuper.com/

誰もが皆愛しき誰かのために・続き2016年12月13日 18時04分29秒

★我にも新たな「誰か」との出会いを。

 【前回の続き】
 都会であろうと地方であろうと、街中の小売商店がなくなるのは昨今の風潮であろう。八百屋しかり、肉屋、本屋、酒屋しかり、昔から長く続いていた個人経営の商店が次々と消えていく。
 代わって、駅前や街道筋にはコンビニが新たにでき、そこで弁当や酒類、雑誌、文具、生活雑貨など「とりあえず」のものはほぼ買える。
 ゆえに都会では個人商店がなくなろうと大して困りはしない。が、地方、田舎では、シャッター商店街には開いている店はなく、コンビニに行くまでも車がないと行けやしない。

 今、山梨県の山間部に暮らしてみて、生活するのに近くに商店がないことが最大のネックだと常々思う。むろん、インターの出入り口辺りには、広大な駐車場を持つ巨大スーパーやショッピングモールは出来ている。そこに行けばほぼ何でも都会にいるのとまったく変わらない品ぞろえのものを買うことができる。ただ、そこに行くには車がないととてもじゃないが行けやしない。
 今、北杜市須玉の山里に仮住まいがあるわけだが、そこにたどり着くまで通り過ぎる、かつての須玉町の商店街は、さびれた酒屋や衣料品店、床屋は数件やってるのが見られるが、肉や魚を扱っている食料品店はただの一軒もない。かろうじて食堂も一件だけはある。
 しかしこの町にも人はまだ住んではいるので、いったい皆さんどこで買い物しているのかと訊くと、山のふもとに位置する、インター口近くの地域スーパー「やまと」を利用するのだと言う。
 じっさい須玉の町には、やまとしか生鮮食料品を扱う店はなく、そこは夜遅くまでやっているので、年寄りたちは誰か車の運転ができる人に頼んで乗り合わせて買い物に行き、まとめ買いしてくるらしい。

 この八ヶ岳山麓には、他にもいくつかJRの駅と駅前商店街を持つ町が点在しているが、我が須玉がいちばん何もなく、最寄りの駅辺りには商店街すらない。そもそも「駅前」がない。住民は仕方なく車でスーパーやまとに行くしかないのだ。
 ちなみに我が古民家からそのスーパーまでは約5キロ。麓まで山道を上り下りするからとても自転車では行けやしない。車でも15分はかかる。
 都会でも同様だが、まして地方、田舎では近くに食料品を扱う店がないことは死活問題であり、我も行くときは韮崎のスーパーや「やまと」で、しこたま食べ物を買い込み持ち込んで行く。
 ※今はネット通販で、どこにいようと本やCD、衣料品、雑貨をはじめ大概のものは宅急便で配送してくれる。しかし、問題は生もの、生鮮食料品であり、それは冷凍のはともかく、やはりどこかの店に出向かないと手に入らない。

 そんな八ヶ岳山麓で、肉や魚、パンなど、高級食材が何でも手に入るユニークなスーパーがあるときき、前から行きたいと思っていた。それが「ひまわり市場」であった。この辺りは個人商店はやってても夜は6時には閉めてしまうことが多いから夜8時までの営業は有難い。
 観光案内所などで無料で配布されているこの地区のタウン誌、情報誌の地図をたよりに今回初めて訪れた。ウチからはさらに八ヶ岳山麓を北上し車で30分ほどだった。都会の感覚ではかなり遠いがコチラではまあ、近所である。

 噂通り、そこは山中でも新鮮な魚や上質な肉類、その他手作り高級パンなど、意欲的な品ぞろえのわりと大きなスーパーで、やや全般的に値段も高いが、この地区にこうした専門的食料品店があって本当に有難いと思った。一言で言えば、多摩地区でいえば、三浦屋とか、紀伊国屋、成城石井を思い浮かべてもらえば想像つくかと思う。地元産の野菜や食材以外にも各地から良質なこだわりの食品を意欲的にそろえて並べている。
 聞くところによると、別荘族向けに始めたらしい。まあ、軽井沢ならこうした高級食料品店はいくらでもあるのだろうが、ここは八ヶ岳なのである。冬などなかなか来る客も少なく経営は難しいかとも思うが、何しろこうしたスーパーは他に一つもないのだから、何とか続いてもらいたい。
 そこで我は半額になっていた惣菜とパンなど数点買った。全国各地から取り寄せたお菓子類も充実していて、安全かつ手作りの自然食品も揃って心惹かれる食材も多々あった。誰か女の人を連れてきたらきっと喜ぶだろうと思った。
 帰り道、真っ暗な道を車で下りながら、この店の事を誰かに話したりここにまた誰か連れて来たいなあと思った。が、前ならば、まず第一に戻ったらすぐに「報告」していた母がいないことを思い、愛しき女友達も既にいないわけで、もう誰にも話すことも誘うこともできないのだと気がついた。

 人は、例えば旅先で、感動する様な風景を見たり、美味しいものを食べたり、特別な体験をすると、それを「誰かに」伝えたい、話したい、願わくば追体験させたいと思うものだ。
 それは観た映画だっていい。とても面白く、感動したならばそれを誰かにぜひまた観てほしいと思う。
 ただ、それは、どこの誰だってかまわないというのではなく、感動が大きいほど、ごく親しい、愛しく思う人に伝えたい、分け与えたいと願うはずだ。
 我にとってまずそれは、母であった。そして何人かの親しい女友達や友人たちが続く。その母を失い、また、恋しく思っていた人をも失くしてしまうと、たとえば、こんな「ひまわり市場」に行ったこと、見知らぬ土地に行き、体験したことや感動したことを、伝える相手がいないことに気づかされた。
 そして、人は誰もがそうしたこと、ごく親しい、とても大切に思う愛しい人、誰かのために、その感動を語り分け与えたいと思っていることにも気づく。

 とても美味しいものをまず一人で食べたら、これを、あの人にも食べさせたいと考える。素晴らしい風景を見たら、それもあの人を連れて来て、二人で見、その人にも感動を与えたいと思う。
 お歳暮やお中元ともなるとそれは儀礼でしかなく、単なる双方の思惑のやりとりでしかないが、本来、プレゼントとはそうしたものてばなかったのか。クリスマスのそれだって同様だ。
 自分が体験した感動を誰か大切に思う特別な人に伝えたい、追体験してもらいたいと誰もが願う。世界を動かしているのはそうした思いではないのか。
 人は愛しき誰かのために。

 今、我にはそうした人がいない。いや、友達なら何人かいる。誘ったり、何かを送ればそれなりに喜んでもらえると信ずる。それは嬉しい。しかし、本当に伝えたい、共に追体験して感動を分かち合える人はもういない。それが淋しい。そして少し哀しい。
 街灯など一つもない真っ暗な県道をハイビームで車を走らせながらその思いに心塞がれた。寒さが今年は特に辛く厳しいと思うのは我が心と深く関係しているのかもと。この淋しさはいったい何だろう。

 まだ見ぬ、我が思う愛しき誰かと、いつか会えると信じて、諦めずに生きて行こう。この思いをその人に伝えたい。

今年も野沢菜を漬けた話2016年12月14日 22時34分28秒

★母亡きあと、今年も一人で漬けてみた。

 毎日何だかんだ忙しい。
 父が、デイケアとか行ってる日は、父不在の間は、我は自分のことに使う時間が作れる。が、父が家にいると、食事の支度のみならず、目が離せないので気が休まらない。うっかりほったらかしにしておくと、勝手に電話かけたり、かかって来た電話に出て、トンチンカンな請け合いしたりと、またさらに事態は混乱してしまう。
 今日は、父は在宅の日で、昼過ぎに訪看さんが来たり、ごく近所まで父を歩かせて買い物させたりと、その世話に追われて洗濯までできなかった。
 そして、月曜に、山梨で買ってきた生の野沢菜を夕方までかかって樽二つに漬けこんだ。早くも一つは水が上がってきたので、今年は上手くできるかと期待している。

 我を知る人はご存知かと思うが、ウチでは以前から梅干しから味噌やキムチ、そして沢庵など漬物の類まで、基本、自給自足を目指して、手作りでいろんなものを作っていた。それがウチのならいであった。
 が、この数年、母も体調すぐれないことや、味噌造りなどは人を集めるのが面倒になって来て、やるとしてもキムチ程度、母と二人で細々と毎年この季節につくるだけだった。
 ただ、この数年、山梨に通うようになって、向うで生の野沢菜や高菜が農協や直売所で安く手に入るようになってからは、野沢菜だけはほぼ毎年漬け込んでいた。

 去年も、天候に恵まれて生育が良い野沢菜が安く出まわっていたこともあって、何束も、確か二回に分けてウチも大量に漬けたと記憶する。かけこみ亭の皆にも持って行ったかと記憶する。
 ただ、漬けたものの塩の量を間違えて、やたらしょっぱい野沢菜ができて、けっきょくほとんど食べずに、誰にも配らずにそのままほったらかしにしてしまい、春が来て、夏も来て外で樽のまま腐らせてしまい、ようやく今になって全部捨てた。ひと夏を越して全部とろけていた。

 母と二人で作っていたと書いたが、基本、生の菜を水で洗って、萎れたり枯れて色が変わった葉は取り除き、樽に縄を巻くように詰めて行くのは母の仕事で、我はその助手兼、味付け、塩加減など担当していた。
 今思えば、寒風吹く中、病んできた人に長時間の水作業などずいぶん無理させてしまったと振り返って胸が痛む。かわいそうなことをした。それで命を縮めたか。ただ、そうした作業はずっと母の仕事であって、老いても我と二人でせっせっと毎年様々な漬物を作ってきていたのだ。
 ただ、去年は、生の菜を山梨から買ってきたのは良いが、母の体調もあってなかなかすぐに漬ける段階に至らず、しだいに時間が経ち、結果、萎れてしまって水がなかなか上がらなくなってしまった。仕方なく余計に塩水を足したりしたこともあって、かなり塩辛い失敗作となってしまったのだ。
 むろん、塩辛い出来でも、またそれを一度塩出しして、炒めたりして新たに味付けして食べる方法もある。それはそれでなかなか美味しい。

 しかし、母が年明けから体調崩したこともあって、けっきょく母の看病が最優先とされて、しょっぱい野沢菜漬けどころではなく、気にはしていてもそれが入った樽ごと庭先に放擲されたまま、季節は変わり暖かくなって腐らせてしまったという次第であった。がんばって漬けたものの、去年はウチでほとんど食べた記憶がない。まったくモッタイナイことをしてしまった。

 そして母は旅立ち、もう今年はクリスマスも新年のお節料理も作る気がなく、当然のこと、野沢菜など漬ける気はなかった。
 が、先の日~月、一人で山梨に出向いた折、韮崎の農協直売所「よってけし」の店先で、今年も野沢菜の束が出ているのを見たら、突然、今年も母がいなくても漬けてみよう!と決意がわいた。
 去年失敗したことのリベンジという気持ちもある。が、毎年、母と二人でやってきたことだからこそ、母がいなくなったからもう終わりにするのではなく、我一人でも続けられたらと思ったのだ。
 で、一束5キロ、250円の束を5把買ってきた。その他、少しだが、一把だけあった高菜も買った。生の高菜はなかなか手に入らないし、何より野沢菜より旨いから、見つけたら買えである。

 一日おいたものの、今日は午後から晴れてきたので、外で樽を洗い、野沢温泉に倣って、家の風呂場で、お湯で洗って樽二つに分けて漬けこんだ。今回は塩加減だけはおおまかだが、計って失敗ないように注意した。
 買って日も浅いということもあり新鮮だったせいか、塩だけで漬けても早くも水が上がって来たようでほっとしている。後はこれに昆布とか鰹だし、唐辛子などを適宜足そうかと考えている。
 去年のように塩辛くはならないはずだし、母亡きあともこうして母がいた時と同じく作り続けることが母に対しての供養にも思える。
 ただ一人で、お湯を使っても中腰での水作業はかなりしんどかった。今も腰が痛い。このまま後を引かなければ良いが。

 うまくできたかどうかは一週間ほどしたらはっきりする。まあ、上手くできなくても全部で生で25キロも漬けたのだから、あちこちに配ってもたっぷり出来上がる予定だ。
 ご希望の方がいらしたら、お分けします。個人的には高菜をもっと沢山漬けたいと常々思っているが、ともかく出回る量が少ない。
 それを言うならば、生の野沢菜も手に入るタイミングが難しく、特に今年は天候不順だったこともあって、株も小さく生育が去年のと比べれば格段に良くない。しかし、それだけ柔らかいようで、味も良いかもと期待している。だいいち、その生の野沢菜が出回っているときに、山梨に行かないと手に入らない。今年は無理だと思っていた。元々は長野の野菜だと思うが、長野寄りの峡北地域では昔から栽培しているそうだ。
 ちなみに、皆さんご存知ないだろうが、野沢菜とは赤カブの一種で、畑のそれは根元に丸いカブが付いている。しかし、売っているときはそのカブは切り落として、伸びた葉と軸だけを売っているのである。

 そう、すべては手作り、Handmadeこそ、大事なことなのだったと気がつく。何でもコンビニエンスな、出来合いのものが簡単に手に入る時代だからこそ、自分で作れるもの、確かなものを、安全なものを自分たちで作っていきたい。

(事故を起こしたが)沖縄県民は感謝しろとは!2016年12月15日 19時39分05秒

★盗人猛々しいというよりも

 例えばの話。ある家に居候が押しかけてきて、それも力づくでとてもかなわないので居座るのも仕方ないとする。
 そいつは、勝手に冷蔵庫の中のものは食べるは、金はせびるは、好き勝手なことばかりをする。暴力はふるう、その家の娘にも手を出す。家の者は皆困るが、何しろ「本家」のほうから、そいつを受け入れてやってくれと言われているので、仕方なく嫌でも手の打ちようがない。
 その居候は、やりたい放題やった挙句に、とうとう火の不始末で、ボヤを起こした。危うく大火となるところであった。
 幸い人的被害はなく、ボヤ程度ですんだが、このままでは大変なことになると家人は思い、どうかお願いだから出て行ってくれと強く抗議した。
 そしたら、そいつは「ボヤですんだんだ、良かったじゃないか。大火事にならずにすんだのだから感謝すべきだ」とすごんできた。そう言われて、この家の人たちはどんな気持ちになるだろうか。そんな勝手な理屈が世の中に通用するだろうか。

 この話、人はどう思うだろう。普通の神経の持ち主なら、あきれ果てるだろう。しかし、これが沖縄の現実の話で、今、沖縄の駐留米軍は、オスプレイが海に不時着、大破しても普天間基地周辺の住宅地に墜落して大事故に至らなかったのだから、逆に「感謝しろ」とすごんでいる。
 この米軍トップの発言を聞いて、呆れ果て怒りがこみ上げたが、そんな憤り以上に、これこそが彼らの本音なのだと、その発言の「裏」を読まないとならないはずだ。

 この非常識極まりない「発想」というか、頭の中を覗いて見れば、つまるところ、そもそも米軍は、沖縄に駐留してやってあげているのだ、アメリカは日本を守ってやってるんだから、という驕り高ぶった「上から目線」がある。
 沖縄の住民の大部分が、米軍基地撤去と新たな基地建設を拒んでいるのに、そんなことは彼らの意識の中にない。そもそも沖縄県民のことはまったく眼中にない。ゆえに、こうして事故を起こしたのに関わらず、それが大事故にならなかったことを逆に「誇る」のである。

 挙句に、事故を起こした側が、大事故にならなかったのだからパイロットの腕に「感謝しろ」とまで暴言を吐けるのである。県民感情をまったく考慮していない。これこそいかにもアメリカの軍人の謂いであり、そもそも軍人とはこうしたものなのかと嘆息する。彼らは、民間人の気持ちは全く忖度しない。そういえば、飛行機事故は起こるものだ、と開き直った輩もいたと記憶する。
 これは、アメリカがいまだ日本を「占領」しているという意識以前に、トランプ氏的な、「何で、わざわざ日本の安全保障をみてやらねばならないのか」という驕り、傲慢がある故と我は考える。

 ならば、日米軍事同盟も破棄すべき方向が当然であろうし、そもそも何故に戦後70年過ぎても、この独立国に米軍基地が治外法権的に全国各地、今も駐屯しなければならないのか理解に苦しむ。そもそも国防とは、まず自国で成すべきことであるはずだ。日本の自衛隊は、軍隊としてまったく非力なのか。世界でもこんな国は他に類がない。対等の同盟関係どころか、思いやり予算をしこたま払って土下座してアメリカに居座ってもらっているのである。それが国策なのだから異常極まりない。明治初期の卑屈な鹿鳴館外交を思い出す。

 日本の安全と平和、独立は、アメリカ軍に常に守ってもらわないと即脅かされ立ち消えてしまうほど脆弱なものなのであろうか。小国であろうとも世界トップレベルの経済大国のこの日本がだ。
 誰が考えたって、日米軍事同盟は、もはや見直しの時期に来ていると思えるがどうであろうか。
 例えばの話、脅威とされる近隣大国「中国」や「ロシア」ともし戦争に及んだとして、日米、もしくは日米韓で、総力戦で臨んだとしても人口と国土、資源的底力においてとても勝てるとは思えない。さらにアメリカは、太平洋を挟んだ東アジアの安定平和にそれほど責任を負う義務は感じていない。
 ならば日米の「軍事力」で、状況を安定させられると考えるのはそもそも無意味なのではないか。成すべきことは外交と貿易で、仮想敵国ともそれぞれの国が互いに得する仕組み、互恵関係、つまり戦争が出来ないようなシステムをつくるしかない。

 いたずらに、墜落事故が後を絶たない危険な特殊戦闘機を日本各地の米軍基地、自衛隊基地に配備するよりも、軍事に頼らない世界の安定平和の道を国家は探るべきではないのか。
 むろん世界には北朝鮮のような「無法国家」やISのような組織はいくらでも存在する。そうした世界にとって「癌細胞」のようなものを、いかに軍事力に頼らずに、国としてその国民にとってあるべき姿に戻していくか、それこそ全人類が英知を絞る課題であろう。
 真に世界平和を願う人々が集まればその問題は必ず解決すると信ずる。